shin-1さんの日記

○舞たうん

 「若松さん。いいのが出来ましたよ。まあ見て下さい」と、刷り上ったばかりのインクのにおいのする「舞たうん」という雑誌をえひめ地域政策研究センターの清水研究員から手渡されました。ゲラの段階で校正作業のため何度か部分的にパソコンで送られてきていたので目にはしていたのですが、全てを見るのは初めてなので手にとって開いた瞬間「凄い」と思いました。私が手にしたり読んだりした過去のものとはまるで違うし、ひょっとしたら私が登場している過去のものの中で一番美しいのではないかと思える程の美しさでした。

その場はアシスト事業の助言もあってパラパラと捲り読みしかできなかったのですが、夕方は愛媛大学の講義日だったし、グループワークの日だったので、約1時間大学の202号室の教壇に立って全てを立ち読みしました。

 清水研究員という男は農協マンで、センターに出向職員として来ています。研究員には市町村役場や県庁職員が多いのですが、彼は明らかに変わった思考の持ち主です。「変わっている」と他の人から言われる私が「変わっている」と思うのですから彼はやはり変わり者でしょう。彼との出会いは2年前に遡ります。教育長室に新任のあいさつに来た時から何かを感じました。多分「地域づくりと経済」という点で心の一致を見たのが第一印象だったように思います。それから折に触れいい関係といい響き合いで二年間一緒に仕事をしてきましたが、忘れられない仕事は昨年の「地域の自立とはなにか」というシンポジウムの仕掛けでした。

 今回の舞たうんはその総仕上げとでも言うべき成果物なのです。高知の東谷さん、徳島の横石さん、愛媛の森本さんなど多彩な「地域づくり経済人」にジャーナリストの朝日新聞記者砂場さんを組み合わせるという画期的な企画を流れる水の如く配置し、そして随所に清水研究員の私感を隠し味に使っているのです。多分多少のご批判もあるでしょうが、私が教育長室でインスピレーションとして感じた彼からの直感メッセージのような気がして彼との2年間を振り返りました。

 今地域は過疎化、高齢化、産業不振、少子化などという社会問題に幻惑されてなすすべもなく立ちすくんでいます。平成の大合併のあおりで行政も「金がない」「画一化・本庁集権」のオーム病にかかってなすことを躊躇しています。ひょっとしたらこの舞たうんはその道しるべかバイブルになるのではと思ったりしました。

 世はまさに情報化時代、舞たうんという雑誌は県下の市町村の関係する所に配られそれぞれの人がそれぞれの想いで手にし読むことでしょうが、心無い人は無造作に紙ごみとして片付けるかも知れません。でも心ある人は手元に保存して詳しく吟味し地域づくりのヒントにするかも知れません。情報には聞き流し情報、必要情報、重要情報と大別されますが、今や舞たうんは私にとって重要情報なのです。

  「舞たうん 想いが活字に 大変身 紙ごみせずに しっかり読んで」

  「舞たうん 腕が良いのか 印刷か まるで美術だ 俺もいい顔」

  「まず妻に 読んで聞かせて 見せてみる これが最後ね 妻の一言?」

  「大学の 教壇立って 立ち読みす 学生立ち寄り 格好いいじゃん」

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shin-1さんの日記

○横たわるのはトドかアマノジャクか人間か

 アマノジャクという見たこともない動物がいるそうです。私たちの地方では「あんたはアマノジャクじゃねね」というような使われ方をしますが、そのアマノジャクが島根県益田市に住んでいます。学校の先生でありながら派遣社会教育主事を経験し、今は地域コーディネーターとして益田市の教育委員会で生涯教育の仕事をしている大畑さんという友人です。彼が別に変わった人という訳ではありませんが、親しみを込めて私は彼のことをそう呼んでいるのです。彼は学社融合、つまり学校と地域が子どもたちのために連携することの必要性を説き、その実践を綺羅星セブンなどと変わった表現で広域的にやっているこの世界では草分け的な人間なのです。ややもすると理論先行で実践が伴わない教員の世界にあって彼は別格で、次々と実践して成果を挙げているのです。実践現場での彼の活躍は多くの支持を集めています。その意味からいうと彼は「アマノジャク」なのです。彼の主催するシンポジウムに招かれ彼と出会ってから交流が始まりましたが、いい意味での刺激をお互いがし合っているのです。

 数日前出張先の島根県隠岐の島へいきなり携帯電話がかかってきました。「6月28日に四国高松へ出張するので帰りに人間牧場へ立ち寄りたい」と言うのです。私は日程表に目を通し「この日は松山でアシスト事業の重言が予定されているのでアウトだ」と告げました。普通の男だとこれで諦めます。ここからがアマノジャクたる彼の真骨頂なのでしょうが、「少しの時間でもいいから」と食い下がってきました。出張先の高松からは当然無理だとは思いつつ、「朝9時からなら」と意地悪い返事をしました。「分りました必ず」とまあ一方的な約束です。半信半疑で私は昨日彼を待ちました。ところが9時きっかりにわが家へ彼は着いたのです。多分この時間に着くのには相当早く旅先を出たのでしょうが驚きました。まるで若い頃の私のようなエネルギッシュな立ち振る舞いです。同伴者は知人の寺戸さんで、彼のどでかい外国産ジープに乗ってやって来ました。

 私は二人を妻愛用の山登り専用車に乗せて人間牧場へ向かいました。写真の左が大畑さん、右が寺戸さんです。

 二人は島根県で公民館主事の寺戸さんの田んぼで合鴨農法を実践したり五右衛門風呂を作ったり、多彩な実践をしているのですが、わが人間牧場には驚いた様子でした。

 寺戸さんが思わずウッドデッキで自由なポーズを取り始めました。裸体の女性ならまだしも、中年太りのの寺戸さんはまるで横たわるトドのようだと思わず大笑いをしました。彼ら二人は束の間の短い時間でしたが人間牧場のコスモス空間に触れ、わが家の煙会所や海舟館を見学し、何事もなかったように去って行きました。

 私の所へは「会いたい」「人間牧場を見学したい」と毎日のように各方面から連絡が入ります。その都度丁寧に対応をしているつもりですが、いかんせん私も多忙な人間なので、断る場面もしばしばあります。大畑さんも尋常なら人間牧場へは来れなかったでしょう。アマノジャクだったから来れたのです。「来るな」といったら来るような積極的な人間が私は大好きです。大畑さんも寺戸さんもアマノジャク的な生き方をこれからもどんどん続けて大きく成長してください。

  「島根から 来るなと言うのに やって来た アマノジャクだな 俺とお前えら」

  「人に会い 人に教えを 請うてきた 巡りて俺に 教え請うとは」

  「寺戸さん まるで太った トドのよう でもいい感じ 写真は語る」

  「甘夏の 畑分け入り ハサミ摘む 酸っぱい果実 彼らとともに」

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shin-1さんの日記

○ハクビシンの奇妙な行動

 わが家は田舎だけあって周辺にはイノシシ、キジなどの野生動物が時々出没します。キジはいたずらししないのですがイノシシは私たち人間を笑うが如くサツマイモ畑を荒らすのです。そのために親父は漁師さんから貰った魚網を畑の周りに張り巡らせ、まるで人間が網に囲まれて暮らしているような錯覚さえ覚えるのです。先日訪ねた中国山地の波型トタンや電気柵程ではありませんがわが家もそれに近い万里の長城を築いているのです。

 わが家の庭に最近奇妙な動物がお目見えし始めました。多分ハクビシンだと思うのですが、私の書斎の掃きだし窓の透明ガラスの向こうに頻繁に現れて中の様子を何の警戒もせずにうかがうのです。最初は緊張のあまりに顔を見せ窓越しに目が合うとそそくさと逃げていましたが、驚かしもせず、ましてや危害を加えないことが分ってからは、朝な夕なやって来ては顔を見せるのです。先日は庭を我が物顔に歩くハクビシンを見て親父が餌を置いていたところ一晩のうちにきれいに平らげていたという話を親父から聞きました。

 ハクビシンは本来夜行性で昼間には殆ど顔を見せませんが、わが家に出没するハクビシンは何故か真昼堂々と姿を見せるのです。しかし残念な事にその姿を写真に撮ろうとすると中々シャッターチャンスには恵まれませんでした。

 今朝のことです。「ゴミ出しに行った妻が「お父さんハクビシンがほらそこにいる」というのでカメラを持って急いで外に出ました。確かにハクビシンだと思い逃げ足の速いハクビシンに振り向いてもらい写真撮影に成功したのです。

 このハクビシン少し弱っているのか逃げ足はそんなに速くなく、プランターの下に潜り込んで頭かくして尻隠さずといったところで私の被写体となってしまいました。

 私の記憶によると「ミレミアム2000年・その日私は」という自著本の中に、「ハクビシンとお地蔵さん」というタイトルでハクビシンの話を民話風に書いた記憶があります。その本を開けてみると2000・2・5の記事が載っていました。我が家の入り口に通じる坂道の上に小さな祠があって、お地蔵さんを祀っているのですが、その祠にハクビシンが住み着いた時期がありました。あの時のハクビシンではと一瞬思いましたが確たる証拠はないのです。でもこのハクビシン見るからに老域に達しているような弱々しさです。

 このハクビシンにちなんで続編のハクビシン民話を近々創作したいと思います。乞うご期待といったところです。最近はハクビシンの世界も動物が介在して起こる鳥インフルエンザや肝炎ウイルスなどの病気原因のひとつとして新聞のネタにされたり車で引かれて無残な死に方をするなど受難続きのようです。ハクビシンには何の罪もないと思うのですが、やはりこれも人間のエゴがもたらした悲しい出来事なのでしょう。私のハクビシンとの出会いが朝早かったため、思わず撮ったデジカメのフラッシュが自動的に光ってしまいました。ハクビシンは驚く様子もなくのっそりと裏山に消えてゆきました。

  「真昼間 堂々顔出す ハクビシン  自然界にも 何か異変が」

  「愛くるし 顔をしている ハクビシン ガラス戸向こう 私に興味が」

  「六年も 前に出てきた ハクビシン よくぞ今まで 何処でどうして」

  「お地蔵の 化身かも知れぬ ハクビシン 何を伝えに 来たのでしょうか」

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shin-1さんの日記

○「以外と意外」意外な指摘

 人間の思い込みは人から指摘されるまでまったく気付かぬままやり過ごしてしまうことが多いことに今朝のメールで気付きました。知人から「あなたのメールを読んでいると以意が以外になっている。以外は意外の間違いではありませんか」と指摘がありました。一瞬ハッとして体に小さな地震のようなものが走りました。自信がないので地震の震源を探して広辞苑を捲りました。

 「以外」はそれを除くほかのもの、そのほか。「意外」はおもいの外、案外。うーん参りました。手紙に手書きで書く時は多分使い分けてたと思うのですが、私のパソコンで最初に変換される文字が「以外」だったものですから何の疑いもなく「以外」も「意外」も全て「以外」と打っていたようであり、知恵の浅はかさをあらためて知らされました。

 パソコンを始めて気がついたのですが、パソコンは文字の変換ミスが多く早とちりの私などは毎日が冷や汗ものなのです。普通は「いやあパソコンの変換ミスで済みません」と返すのですが、「パソコンはその失敗をくり返す道具である」ことを肝に銘じ、失敗をパソコンのせいにしないようにしたいと改めて思った朝でした。

 昔ある先生から「無知によって生ずる不幸は知る事によって避けられる」という言葉を聞きました。「聞いていたら、知っていたらこんな過ちは起さなかったのに」と後で後悔するのは人間の常です。人間は悲しいかな明日のことを予測できても確実なことは何一つ見えないのです。失敗するよりは失敗しない方がいいことは分っていますが、失敗を悔い改める謙虚な気持ちを持てば、失敗経験が大きな人生の力になることもまちづくりの現場で何度も体験しました。

 私たちまちづくり人が日常よく出入りする場所に「えひめ地域政策研究センター」という所があります。そこから「舞たうん」という機関紙が年4回発行されていますが、機関紙の編集に携わる人たちは「うるさい」と思うほどに原稿の校正を行います。多分5校ぐらいやるのでしょうが、私などは送られた原稿ゲラをさっと目を通し、2校目は手直し部分のみの校正で終わってしまうのです。「文字は一度印刷されたら直らない」し、「印刷されたら発行者の責任」であるということも、長い広報づくり(町の広報を10年間、毎月二回、240号を出した)の経験で知っています。「知ることは知識にしか過ぎない」。「知識を知恵に変えねば役に立たない」と口にする私の意外な一面を見たいい朝でした。メールを届けていただいたあなたに感謝します。

  「それ違う 指摘あるまで 疑わず 赤恥かいて 心引き締め」

  「パソコンの せいにしたがる 変換ミス 責任逃れ しては駄目です」

  「意外にも 以外と間違い 以外書く 意外はこれから 以外と書かず」

  「念を押す 気持ち忘れず ブログ書く 筆が鈍って 今朝はゆっくり」


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shin-1さんの日記

○隠岐の島を散策しました

 往復600キロのマイカーの旅を充実したものにするためには人に会い人と話し、自分の足で歩く以外にないと、昨夜の交流会を早く切り上げたのでぐっする休み、早朝4時に早起きして島内をひとり散策しました。まず目に映ったのが島にかかった真赤な橋でした。橋の向こうに行ってみたい心境で橋を目標に歩き始めました。ホテルの前の岸壁には橋をバックに集魚灯を沢山つけたイカ釣り船が停泊していました。船の近くまで行って船内の様子をうかがいましたが船内には人影もなくひっそりとしていました。

 足元に面白い絵を見つけました。最初は何だろうか良くわかりませんでしたが、どうもイカをデザインしているように見えるのです。イカの町イカの特産品を強調したかったのでしょうが、面白い遊び心に思わずパチリです。

橋は段々近くなるにつれて水面に映えてその美しさに思わず見とれてしまいました。海はベタ凪なのでこのような光景が見えたのでしょう。早起きは三文の得と一人納得しました。

?

 やがて急な坂道に差し掛かり、一人の車椅子のおいちゃんに出会いました。「押しましょうか」と声を掛けると、「朝のトレーニングなので」と首を振り、少しの間お話をしました。25年前に脊髄を損傷して車椅子生活になったこと、この島はのんびりし過ぎて発展が期待できないことなどなど、四方山話に花を咲かせて橋を渡りました。西郷大橋、ローゼ橋、L=310mと書かれた看板を左に曲がり端の袂に出ました。先程の遠望ではまるで女性的な橋だったのに、渡ってみるとど迫力で、鉄の塊といった感じでした。

橋からの眺めは絶景で、下上がフェリー乗り場周辺の向こうに朝日が差し、下下は湾の奥の逆さ富士といった感じでしょうか。

 前回は斉藤課長さんに車に乗せてもらい橋を渡りましたが、自分の足で渡るのもまた格別な面持ちです。

橋からは隠岐の島町の中心部やフェリー乗り場が一望でき、ホテルから見る光景とはまったく違った美しさで、島の静かな佇まいが手に取るように見えました。旅はやはり自分の足で歩くに限ります。その後橋の向こうの山の周りを一回りして何と朝だけで1万歩も歩いたと携帯電話の万歩計が示しているのを見てびっくりしながら、ホテルで美味しい朝食を召し上がりました。

 やがて思い出集めと仕事も無事終わり憧れのレインボーという双胴高速船の人となって七類に到着、センターの方々と別れて、6時間後にふるさと双海へ帰って来ました。良い旅でした。

  「島魅力 歩かなければ 分らない 旅の思い出 少しブログに」

  「あの人は どうしているか 顔浮かべ メールにちょっと 洒落た文句を」

  「レインボー 誰がつけたか 知らないが 一度は乗って みたいと思いつ」

  「また来たい そんな夢ある 島でした 人情豊で 酒も肴も」

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shin-1さんの日記

○隠岐の島で話す

 隠岐の島町は島後といわれる一島に四つの町村がありましたが、平成の大合併で一つの町になりました。何処へ行っても漏れ聞く合併の弊害や不満は対等合併といいながら支所化されたこの町の小さな町村にも多く聞かれました。でももう元へは戻らないのですからしっかりと合併という事実に向き合って生きていかないといけません。

 研修会場となったのは隠岐島文化会館でした。周辺には移転した隠岐高校の体育館や図書館もあり、陶芸館もあるなど周辺は文教エリアを形成していました。ちょっと時間があったので陶芸館を覗いてみたら3人の女性が熱心に創作活動をしていました。中に入って話し込みお茶を入れてお菓子まで接待してもらったものですから、野イチゴ取りに行ってブトに食われて私は嫌と渋る女性を強引に立たせ写真を一枚記念に撮りました。

 さて本題です。

 学校と地域が一体となってこれからのふるさと教育を推進していくことの意義やその考え方を学ぶ今回の研修はそういう意味においてタイムリーな研修だと思いました。集まった人は半数が学校の先生だと聞いていましたので、私の講義はその先生たちへのメッセージを中心に話をさせてもらいました。学校の先生は役場の職員と同じように公務員であるがゆえなのか、以外と社会にうといように思います。先生たちが常識だと思っていることが以外と非常識なことが多いのです。昔は時代の流れが緩やかでそれでも教育は成り立っていました。しかし現代はテンポの速い、そして技術革新の早い時代です。それは10年前の社会と今の社会を比較すれば一目瞭然なのです。人に教える人は時代の流れを敏感に読み取らなければなりません。過去も大切ですが今の現状把握と未来予測は特に必要です。そのためには異文化と触れたり時には異文化ギャップの場所に身を投じなければそのことは分らないのです。まず「変えなければならない物差し」と「変えてはならない物差し」の「二つの物差し」を持つことを話しました。

 次に子どもたちの置かれている立場を理解しなけばなりません。創作の遊びを知らない子どもたち、本当の仲間がいない子どもたち、巣篭もり傾向の子どもたち、勉強優先で人間優先でない子どもたち、ふるさとを知らないし語れない子どもたち、社会に迷惑をかけても平気なこどもたち、親と教師に不信感を持つ子どもたち、夢や目標がない子どもたち、間道経験や失敗経験の少ない子どもたち、価値判断が好きか嫌いか損か得かで善悪でない子どもたちなどなど子どもは見ようによってはかなりいびつな育ち方をしているのです。でもその子どもを育てたのは親であり教師なのですから、地域の教育力を高めるための学社融合というネットワークとフットワークが必要であると結論付けました。

 じゃあどうするか、その話は21世紀えひめニューフロンティアグループがこれまで20年間に渡ってやってきた無人島キャンプや夕日によるまちづくり、そしてこれからやろうとしている人間牧場教育にヒントがあると話したのです。私の経験は浅いものです。でもその活動の中で自分の子どもも多くの子どもも普通の子でありながら逞しく育ちました。

 子どもというかけがえのない地域の宝が少子化で生まれなくなったし、生まれた子どもも最近の社会では目を覆うような事件に巻き込まれています。子どもを育てる運動はまちづくりの大きな仕事であることを今一度原点に帰って考えたいものです。

  「どうしてか 田舎に増えるの カラスだけ 子どもの顔が 段々少なく」

  「よく出来る 子などつくれば 将来は 私一人が 田舎のゴミに」

  「あれ程の いい子が何故に 悪くなる あんたのせいだ 夫婦はねかけ」

  「寝ていても 起き(隠岐)の島です 目を覚ませ 島は宝で 埋まっているよ」  


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shin-1さんの日記

○隠岐の島へ

 境港と松江市は運河というか港というか分らない入り江に架かった橋で結ばれ、「えっ?、境港は鳥取県?」と思わせる奇妙な県境なのです。最近まで橋を渡った向こうは島根県美保関町でしたが、合併で松江市と鳴ったようで、そこそこに美保関町の名残の看板が残っていました。橋を渡って山道のトンネルを抜けると七類港という
フェリー乗り場です。岸壁には島へ行くには大き過ぎるような「おき」と「くにが」というフェリーが接岸していました。日本海の海の尋常でない荒さは訪ねた人間でないと分らないのですが、一昨年11月は季節風が吹き荒れ同行した妻は船酔い気味でした。

 私の乗った船は「おき」でした。他の島や港に寄らない直行便なのですがそれでも9時にドラの音とともに出航しても2時間20分もかかるのです。船着場で偶然にも生涯学習センターの山本さんと待ち合わせたように出会いましたが、はや立ちの疲れか船内では1時間半もぐっすり寝込んでしまいました。

 船着場には教育委員会の吉田さんが出迎えに来ていてくれて、昼飯前の島内散歩を楽しみました。前回島を訪ねたときは斉藤課長さんのご案内であちらこちらを見せていただきましたが、妻と二人連れだったこと、斉藤さんが大の闘牛マニアなので、宇和島が闘牛の地であることもあって牛談義に花が咲き、肝心な八尾杉のことを詳しく覚えていないこともあって、まずそこへ案内してもらいました。

 どうですこの杉の木、樹齢2千年といわれている杉の大木がこうして人里近くの神社に凛として立っているのです。根周りは優に15メートルを越す杉の大木に思わず圧倒されました。屋久島の古代杉も凄いと思ったけれど、日々の暮らしの中でこうした大木と共存できることは島人の誇りでしょう。2千年を生きて、島の歴史や暮らしを2千の年輪に刻んできた杉は私に何をメッセージとして伝えたいのか、神木に失礼とは思いましたが手を伸ばし、そっと杉の木の肌に手を押し当てて見ました。2千年という途方もなく長い歴史の重みで体が震えるような感触でした。

 数年前に台風で枝が折れたり樹勢が衰えたりしたそうですが、樹木医の適切な処置もあって古い杉にしては何となく若々しく感じました。

 次に訪れたのは国分寺です。後醍醐天皇が隠岐に流された時、御在所となった跡地が国の指定を受けて大切に保存されていました。

 このように隠岐の島には至る所に史跡がゴロゴロしていて、朽ち果てることもなく物語が伝えられているのです。国分寺という格式の高いお寺さんだけあって受付をされていた住職さんも何となく気高く、養育委員会の吉田さんの顔パスで物語のマイク放送を聞きながら歴史に触れることが出来ました。

 「せっかく島に来るのだったら一便早く来て講演をお願いします」と、今は総務課長にご昇進された斉藤さんの口利きで、花の会の講演を午後2時からすることになって、会長さんはじめ3人の役員さんとお食事に参加させてもらいました。「昼からこんな豪華な食事を食べていいの」と言わんばかりの島ならではの海の幸に舌鼓を打ちました。貝汁にはフジツボやカメノテなどの珍味が入り、ウミウシという、私のように海に詳しい人間ならそのグロテスクな姿を知ってるので余り食べないこれぞ珍味というべき食材にもう満足でした。

 料理屋さんの入り口に紫のほたる袋の花がf斑入りのツワブキの葉っぱをバックに可憐に咲いていました。花の会の招きなのでデジカメを向けてパチリ撮ったら、店のおばちゃんが裏の花も見て欲しいと狭い畑に連れて行きました。まあ花好きのおばちゃんで所狭しとあれやこれやと植えていました。せがまれて一枚パチリです。

 花を作る人の心境はこんなもんで、人に褒めてもらうことが一番の妙薬なのです。おばちゃんは私の乗った車が見えなくなるまでずっと手を振る続けていました。ほっとする、それでいて温かい島のもてなしの心にあったような気持ちでした。

 講演会は参加者50人くらいと聞いていましたし、花の会の主催で女性の会だから「女性が輝くときまちが輝く」というタイトルにもかかわらず何人もの男性も顔を見せ、80人を越える勢いで嬉しい集会でした。わが町の花も花の会はじめ多くの人たちが参加して、毎年きれいな花を咲かせてくれていますし、先日も愛媛新聞の一面で潮風ふれあい公園のアジサイの花が季節の花として紹介されていました。花づくりは奥が深く息の長い運動です。でも花のある暮らしは歌のある暮らしと同じように彩を添えてくれるのです。

 フェリーおきの船内に花の会が作成した隠岐の島町の花暦が張られていました。花は咲かない時期に来たらそれこそ失望です。こうして花の見ごろの場所や季節が情報として流れることは、島のイメージアップに役立ちます。これまでの観光はどちらかというと自然や歴史のようなものが中心に紹介されていましたが、このパンフレットが隠岐の島の新しい観光資源になることは疑いのないことです。花の会の皆さんの活動に大きな拍手を送りたいものです。

  「隠岐シャクの 咲く島一度は 訪ねたい 新婚旅行で 買いし花なく」

  「見てください いきなりおばちゃん われ誘い 畑のアオイを 自慢したげに」

  「花便り 観光資源に 活かすべき 島の魅力が うんと増えます」

  「もの言わず 二千年もの 年輪の 衣まといて いまだ矍鑠」

 

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shin-1さんの日記

○島根県隠岐の島へ行くはずが・・・・

 一昨日25日の午前2時に早起きして出発し、早朝鳥取県境港へ着きました。心配された雨も中国山脈を越えると殆どなく、白々とした山間の夏の夜明けを楽しみながらひた走りに走ったのです。今回の旅は島根県立生涯学習センターが開く地域課題研修での講演のための隠岐の島行きで、境港はその中継港なのです。隠岐の島へは一昨年11月隠岐の島町、昨年3月西ノ島町へ相次いで訪問しているので随分手馴れた馴れた旅に感じられました。事前連絡では境港からレインボーという高速船に乗って島へ渡るようにしじがありましたが、境港駅に着くとまだ時間があるので島根県七類港出航のフェリーに乗る方が、明くる日の帰りの便の都合がいいので急ぎそちらに向かいました。

 何度も来ている境港ですが、写真に撮ることもなく素通りしていましたので、顔を洗って身支度を整える少しの時間、妖怪によるまちづくりの一端をカメラに収めました。

 境港といえば全国屈指の水揚げを誇る漁港で有名ですが、この街を有名にしたのは一人の市役所職員のアイディアでした。ご存知ゲゲゲの鬼太郎で有名な漫画家水木しげるの作品をモチーフにまちづくりを始めたのです。最初は何とも奇妙な妖怪でまちづくりなんてけしからんと、殆どの人が大反対したそうですがものの見事に成功し全国屈指の観光地にしてしまったのです。海沿いの街中にはこれでもかと言わんばかりに妖怪のブロンズ像が置かれ、特に若者の間に人気を博しています。勿論観光バスもやってきて、ちょっとした妖怪ブームなのです。

 この写真など、境港駅の前に設置している妖怪のブロンズ像ですが、完全にパロディの世界で、思わずプッと吹き出してしまいそうな、それでいて懐かしい漫画の世界に誘ってくれるのです。自分を基点にぐるっと見渡すと、10や15の作品はカメラにすぐに収まる程の量なので、観光客も早朝だと言うのに思い思いのポーズで盛んに妖怪と記念撮影をしていました。

 これは名前を忘れましたがご存知目玉男の妖怪です。

 これは郵便ポストの上に遊び心で設置された誰もが知っている主人公の「ゲゲゲの鬼太郎」です。「カラーンコローン、カランコロコロ」というテーマ音楽が聞こえてきそうです。私は急いで車に戻り、3枚のハガキを木になるカバンの上でしたため。、ゲゲゲの鬼太郎のポストから投函しましたと書いてポストに入れました。私が帰る頃には三人の方から思わぬ反応があるものと思われます。でもひょっとしたらこのハガキは妖怪の世界に届いて相手にはト届かないのでは?と思ったほどの不思議さです。

 まあ色々なまちおこしのネタはありますが、どこにでもある夕日を自分のものにして日本一の夕日だと情報発信した私などはまだまだ現実的で、まともな方だと自分で納得したりしました。境港は一度くらい訪れてもいいかもしれないですね。島根県隠岐の島へ行くはずがとんだ道草となりました。

  「妖怪で まちを起すか 面白い 遊び半分 だから成功」

  「書いた文 妖怪ポストに 入れました 果たして届くか 頼む鬼太郎」

  「考えた 市役所職員 出世して 今では議員 褒美のバッチ」

  「これを見て 日本も平和 長閑なり 境港は えっ?鳥取か」


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shin-1さんの日記

○田舎暮らし

 人間牧場に来た人が必ず言う言葉は「田舎は長閑でいい」です。都会の反対語が都会だとすると「都会の暮しはそんなに忙しくてつまらないのでしょうか」と言ってやりたいような気持ちです。私たちが生まれ育った20世紀は「田舎が都会に憧れる時代」だったように思います。テレビに映し出されるネオン輝く都会はまるで夢のような別世界でした。そしていつかは僕も私も都会で一旗揚げたいとみんな田舎から都会を目指したのです。あれほどいた同級生の殆どは集団就職列車に乗って都会の雑踏の中に消えてゆきました。あれから半世紀弱が過ぎ先日還暦の同級会が開かれ定年間もない仲間が沢山帰って来ました。そして私に「お前はいいなあ。自分の生まれ育ったところで暮らしてそこで死ねるのだから」と突然しみじみと言うのです。そういわれてみるとそうかも知れないと言葉を返しました。

 最近私の所へ都会の人から「田舎暮らしがしたいのだが空き家はないか、土地はないか」といってくる人が増えました。「田舎は先祖伝来の田畑は財産と思っているから売らないし水だって水利権があって中々」と諦めさせるのですが、それでも諦めきれず都会を脱出したい人はあの手この手ですり寄ってくるのです。

 数年前ある夫婦がわが町で空き家と農地を手に入れやって来ました。水周りだけは都会風にしたいという願いもあって馴染みの都会業者に依頼しリフォームに取り掛かりました。ところが完成間近になって排水が隣の水路に流れ込む事を隣がクレームをつけ、工事はストップしたのです。その場は区長さんが中に入り険悪なムードは雪解けに見えました。ところがその夫婦権利の主張はやれ法律ではと口が立つのですが、田舎では当然と思われている道普請や水道t当番」など何処吹く風でコミュニティ活動はまったくする気もなく、週末は図書館やプールへと忙しく人生を謳歌していました。そのうち車を運転できるご主人が亡くなり車を運転できない奥さんは途方にくれていました。田舎を目指したとき息子夫婦と喧嘩して決断しただけに家へも帰れず、最近は近所の特老で慎ましやかな生活をしていると聞きました。

 21世紀は20世紀の逆で「都会が田舎に憧れる時代」になってきました。よくよく考えないと権利の主張だけで田舎では住めないし、向こう三軒両隣のコミュニティや車がないと田舎では暮らしてゆけないのです。

 田舎も今までのように悪しき習慣や慣習を振りかざすことなく受け入れないと、せっかく定住人口が増えようとしているのにいじめやいびりで出て行ったのでは元の木阿弥です。最近は「人生の楽園」などというテレビ番組で田舎暮らしを始めた人を沢山紹介するものですから、否応なしに田舎の人気はうなぎ上りです。定年後の田舎暮らしは余程の決意が必要だし、それ以上に地域への溶け込み方を間違えると、夢どころではすまないことを肝に銘じておきましょう。

  「田舎はね だから困ると 言われても 都会の都合で 生きれるものか」

  「人生の楽園 テレビ 憧れて 空き家はないか 畑はないか」

  「いつまでも 夫婦生きれる 訳でなし どちらか先に あの世へ旅立つ」

  「人間は 必ず百パ 死亡率 田舎でのんびり それもまたよし」

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shin-1さんの日記

○耕運機届く

 今日はあいにくの梅雨空で天気予報でもはっきりしないと言っていましたが、長い間(といっても3~4日程度)人間牧場へ行っていなかったので、草刈も気になっていたので霧の深い中を登って行きました。五里霧中とはこのことかなと思いつつ下界を眺めましたが港さえも霧の中でした。時折ぱらつく程度の雨だったので思い切って草刈機を取り出して草を刈り始めました。雨の日の草は草が雨に濡れているので面白いようによく切れるのです。妻から「明日は遠出の出張なので疲れるといけないから弁当は持たず昼には帰るように」言われ、自分もその気で出かけました。3時間程度草を刈って、さあ帰ろうと思ったところへ息子から電話が入り、「今日は休みなので友達を連れて行くから」との事。結局はおやつ代わりの煎餅とバナナを食べて草刈を続行しました。

そのうち息子が友だちが都合で来れなくなったと一人でやって来ました。「お父さんお風呂を沸かすから入ろうや」と五右衛門風呂を沸かし始めました。五右衛門風呂にはまだ1回しか入ったことがないのでそれもいいだろうとまた草刈続行、そこへ大洲市田処の亀本耕三さんがひょっこりトラックに耕耘機を積んでやって来ました。「ひょっとするとメールで連絡のあった耕運機では」との直感が当ったのです。「メールで連絡していたこの耕運機を差し上げます」と言うのです。亀本さんはかつて柳沢公民館の主事をしていた頃に知り合い、その後酪農家になってからもフロンティア塾のメンバーとして私の元へ度々足を運んだ、私の最も親しい人の一人なのです。

 亀本さんはトラックにはしごをかけ手馴れた様子で耕耘機を下ろしエンジンを始動して見せました。型は少々古いが1発でかかる優れものです。さてこの耕運機をしまう場所がないことに気付いて、息子と相談し近々薪を入れる倉庫兼用を建てる算段をしました。妻に言うとまた反対されそうなので息子と二人だけの内緒話です。亀本さんとは7月1日に会う約束でした。今日は時間が取れたので耕運機だけ、今度来るときに牛糞を摘んでくるとの事でしたが、一応亀本さんを水平線の家や五右衛門風呂、それにツリーハウスへ案内し久しぶりに家族のことなど積もる話をしました。その頃には天候も回復し遠望の素晴らしさに目を見開き感動している様子でした。

 亀本さんが帰ってからしばらく草を刈りましたが、息子が風呂が沸いたと言うのでいざ五右衛門風呂へ、

高知県南国市の川村一成さんが感動して帰った五右衛門風呂はまさに「いい湯だな」の心境でした。海も空も中の晴れ間の穏やかさが見て取れました。

  「草刈の 疲れた体 湯に沈め 下界見下ろす 気分最高」

  「耕運機 車に乗って やって来た 俺にくれると 友はあっさり」

  「彼五人 俺は四人の 子持ちです 仕事もするが 子どもも作る」

  「いい人にゃ 天も味方し 晴れ渡る どうだ絶景 自慢したくて」


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