shin-1さんの日記

 ○それがどしたん

  まちセンでの立ち話の続きです。主任研究員の井石さんが「この職場へ出稼ぎに来て(行政からの派遣ですから出稼ぎといえるかどうか)いつも不思議に思うのは、まちづくりの議論は『なぜ』『それがどしたん』という基本的なことをいつも議論している事に不思議さを覚える」と言うのです。それまで気付かなかったのですが、そういえばまちづくりという業界(業界と言えるかどうか)では、コンセプトワークとでもいうのでしょうかこの議論が大半を占めているように思います。おっしゃるとおり普通行政のシナリオは出演者の看板は誰で、何人集める、何処にその人数を割り振る、人が何人集まったから成果があったなどなどに神経が注がれ、本来の目的である「何故この集会を開くのか」「そのために何をすべきか」「その目的は達成されたのか」なんてことは二の次のような気がします。

 双海町でほたる祭りをやろうと20数年前思いついたとき、隣の町がそうしているようにほたるを集めて会場に擬似自然をつくり蚊帳の中で飛ぶほたるを見学してもらおうという話になりました。その時ある人が「ほたるは二週間の短い命、何で人間のエゴでほたるを集めるのか、そんな自然やほたるを無視したイベントだったら止めちまえ。ほたるが見たかったらほたるの飛んでいる所へ行って見ればいい」と大見得を切ったのです。みんなびっくりしましたが、その発言がきっかけになって「ほたるを一匹も登場させない」というユニークなほたる祭りが誕生し、今もその精神を守り続けています。

 これも私の経験ですが、夕焼けコンサートが軌道に乗り青年たちの要望は「さだまさしや南こうせつを呼んで欲しい」でした。私は「確かにさだまさしや南こうせつを呼ぶと彼らの人気で人は来るかもしれないが、そんなコンサートなら大阪や東京や松山でやればいい。このコンサートは夕日が主役だから夕日に似合う、夕日を引き立たせてくれる人がいい。無名な人でもいいじゃあないか」と説明したら分ってくれ、それ以来金をかけないながらも20年間コンサートは続いているのです。

 井石さんがいうように、確かにまちづくりの社会ではいつも「何故」「どうして」という議論に大半の時間を費やします。無駄と思えるこの議論こそまちづくりなのです。そういう視点から考えると先日の「地域の自立を考える」シンポジウムは議論の絡みという点で多少の反省が浮かび上がります。でもあれ程の時間をかけて議論し、あれ程の準備をしてもなお悔いは残るものなのです。人間のすることですから・・・・・・。

 井石さんいい事に気がつかれ、私たちの立ち話に石を投げてくれました。さすが主任研究員、まるで井戸の中に石を投げた波紋のようです。姓が井石さんか、なるほどなるほど・・・・・・。

  「石を投げ石受け止めて議論する伸びるはずです私たちは」

  「何のため聞かれて言葉詰まるよねも一度聞くよ何のためにと」

  「二十年やっても未だ極めれぬ奥の深さに未熟を恥じる」

  「議論するとにかくやろうと一歩出す歩きながらのまたまた議論」

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shin-1さんの日記

 ○時計はアナログに限る 

 今日所用でえひめ地域政策研究センターへ立ち寄り、立ち話をしました。長ったらしい名前の準役所ですが私たちはこの場所をまちセンと呼んで、もう20年間もまるで寄生虫のようにええ餌にありついています。最近は「地域の自立」のシンポジウムがかなり高い評価と成果を得たものですから、活気がみなぎっているようで特に遠い市町村から出稼ぎに来ている研究員とは楽しく会話が弾みます。勿論他の研究員とて同じですが、政策部門は殆どパソコンがお客様で忙しいのか、私たちが行っても何処吹く風って感じです。

 私は何か調べものがあると決まってこのセンター研究員にお願いして資料を用意してもらうのですが、彼らはまるで私の秘書のようにこまめに気配りをしてくれます。ここに事務局があるえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしているため、嫌といえないようでいつもこんなに使って悪いと思っています。はい本心からです。

 さて今朝は隣の日銀松山支店で会議があるので何と顔の効く日銀に車を止めてセンターで立ち話と相成りました。今朝の話題はアナログとデジタルでした。私のように人の前で話す機会の多い人間はアナログの時計が最高です。時間を管理しなければならない人間にはやはりアナログの時計は必需品でしょう。最近はデジタルの時計が重宝がられていますが、時間は正確なのですが、「あと何分話せばいいのか」なんて考え時計を見ても、現在の正確な時刻だけで、時間(時の間)は中々分らないのです。

 今日の立ち話の話題提供者である清水さんはバリバリのデジタル人間で、いつも意見が食い違うのですが、こと時計に関しては同感でした。 私は腕時計を重宝するのに腕時計が手にはめられるのが苦手で、酒を飲んでいた頃はやたらと何処ででも外す癖があって何個時計を紛失し、妻に叱られたかません。今の腕時計はもう10年も長持ちしているので、あれは酒のせいだったと思うのです。

 時間は携帯電話の付属品としてついているので不便を感じることはありませんが、やはり時間の計算が出来るのはアナログでしょう。 昨日電車に乗ったら吊り下げ広告に「いよいよ10月1日からデジタル放送開始」の広告が張り出されていました。日本もいよいよデジタル放送の幕開けです。我が家のテレビもそれまで賞味期限が持つかどうか、いやもっと心配するのはアナログで育った私たちの賞味期限のほ方が心配なのです。それにしてもアナログ放送用のテレビを買い換えなければならないなんて、なんて不経済なんでしょう。儲けるのは電気屋さんなのですから。

  「講演は外して使う腕時計何度うさして妻に叱られ」

  「千円で立派な時計が手に入る防水自動に保障までついて」

  「立ち話会話弾んでいいもんだ人の悪口言わねば最高」

  「溜まり場は酒と会話と女ありおっとセクハラ冗談禁句」

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shin-1さんの日記

 ○今日も160キロ走りました

  車とは便利なもので、私の手足となって西や東、北から南へ自由に走ってくれます。奥の細道を歩いた松尾芭蕉や日本全国を測量して歩いた伊能忠敬は自分の足で歩いて目的を成就したのですから偉いという他はありませんが、私が公共交通機関や車を使って移動する距離は、松尾芭蕉や伊能忠敬なんて比べようもないほどの距離になるのです。そういう意味での優位性はあっても、さて松尾芭蕉や伊能忠敬のように後々の世の中が評価する仕事となると、私の存在などまるで天と地ほどの差なのです。でも諦めずコツコツと潜在能力を膨らませて行きたいものです。

 今日は貯蓄広報委員会の推進員研修会と社会保険事務所の研修会がダブってしまい、結果的には双海-松山-宇和島-双海と160キロの道程を走りました。中予から南予に至る国道沿線には菜の花や杏、梅などの花が咲き、街路樹のベニカナメモチは真赤な新芽を覗かせていました。しかし宇和盆地では小雪がちらついて、遠望の山々はうっすらと雪化粧するほどの戻り寒波に、道行く人は寒そうに足早に通り過ぎていました。それでも黒潮の恵みか、法華津峠を越えると春風のような爽やかな風が吹いて、ああ春が近いなあと感じました。

 今日の集会で懐かしい人に会いました。私は余り覚えていませんが、私の友人の友人で「若松さん、あなたの話は直接聞かなくても、友人がいつもあなたの話をしていますので、もうタコが出来るぐらい聞いています」と言うのです。私の仲間は私のことをこんなにも話してくれているのかと思うとついつい嬉しくなりました。その人の話によるとその仲間も今年の春、つまりあと一ヶ月で退職だと伺いました。彼も私と同じでご多分に漏れず大酒飲みの部類でしたが、数年前に体調を崩し酒が飲めない体になっているそうです。人それぞれの人生があるのでしょうが、あと一ヶ月を大過なく過ごされ円満な退職をと願っています。

 あと30キロの所で長浜町に出て海を見ました。落ち着くというのでしょうか、血が騒ぐというのでしょうか、私はやっぱり土の人ではなく、風の人のDNAが体内に埋め込まれているのではと思うほど、海を見ると心が安らぎます。特に子どもの頃から見慣れた瀬戸内の海はやはり私の母なる海なのでしょう。 かつて私がデザインして立てた「双海へようこそ」の看板も、長年の風雨や潮風に晒され随分くたびれているように見えました。多分こんな看板なんかに心を動かす市役所職員もいないだろうと思いながら時速60キロで菜の花畑あたりを通過しました。太陽は西に傾き、強まった北西の季節風の白波が容赦なく防波堤を越えていました。希望に燃えてまちづくりをしていた10年前とまったく変わらない風景であるはずなのに、何故か心がときめかないのは歳のせいか、それとも想いのせいか・・・・・。とにかく無事160キロを走行して妻の待つわが家へ帰って来ました。

  「宇和島も近くなったよ半日で往復仕事できるのですから」

  「われ語る友あり人の口伝えご無沙汰詫びて電話するなり」

  「町示す看板風雨に晒されて時の流れを知るは我のみ」

  「半日で百六十キロを走っても汗もかかずに文句も言わず」

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shin-1さんの日記

 ○130円の買い物

  私の町に数年前コンビニができました。私の発想で造ったシーサイド公園に人が来るようになり、表通りだった商店街が国道バイパスの完成とともに裏通りとなってしまったため、地元の酒屋さんがコンビを開店したのです。このコンビには深夜は閉まる青少年にとっては余り好ましくないコンビにですが、私たち大人からすれば健全なコンビニなのです。そのコンビニに行ってお目当てのものを探しましたが、店長さんは何も買わない私にまで丁重に「またお越し下さい」と声をかけ深々と頭を下げてくれました。コンビニができただけで何かこの街もすっかり都会化した雰囲気になるから不思議なものです。仕方がないので隣の伊予市までと思いきや、「あっ、そうだ。私の町も今は伊予市だったっけ」と思う有様です。

 昨日コンビニに行き130円の買い物をしたのは朝日新聞なのです。先日の「地域の自立を考える」シンポジウムの模様がシリーズも含め都合7回載りました。その都度朝日新聞さんへの儀礼も込めて7回もコンビニへ走りました。結局同じコンビニへ足を運び、「朝日新聞下さい」となりました。 私たち田舎に住むものは新聞を買うという習慣はなく、新聞は届くものと思っていました。ですから新聞が130円で買えるという実感も、新聞が130円の値打ちであるということも分らず読んでいるのです。私たちのように新聞記者と知り合い、この記事がどんな想いや取材を経て書かれたのか分る人間はそういう目で読めるのですが、何も知らない人はそのことすら分らず読んでいる、いわばチラシのようなものかも知れません。「何気なく過ごせる幸せ」は結局、「何気なく過ごす傍観的な人」を作っているのです。

 130円の買い物で買った朝日新聞はハサミで切り取り無造作にまtダンボールの中それにしても、あれだけの量と質を保ちながら毎日紙面を送り続ける新聞はあれでたった130円とは安いものだと思いました。隅から隅まで丹念に読めば私は凄い物知り博士になるものを、読んでも分らないと決め付けて政治や経済など斜め読み見出し読み、いや実際には読むこともなく目を通すだけで終わっているようです。 私の書斎にはこれまで新聞や雑誌に載ったり書いてもらったスクラップされた記事が山のように積まれています。いずれ暇が出来たら整理をと思いつつその整理も出来ぬまに納まりました。

  「新聞が百三十円とはこりゃ安いそんなにするのいつも分らず」

  「俺の顔まるで三面記事のよう手配写真で使われるかも」

  「新聞を読んだとメールで文届く愛媛の果てから瞬時感想」

  「九時間に及ぶ話を十行によくぞまとめる記者さん偉い」

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shin-1さんの日記

 ○ああA市の将来は

 世の中には色々な悩みがあるもので、一昨日訪ねたA市で異様な光景を見ました。私が講演なので訪ねる殆どのまちは田舎で、過疎だ高齢化だ、産業不振だと尻つぼみを嘆く場合が多いのですが、人口が過密な大都市大阪に直ぐ近い街で、しかも阪神電車の駅とリンクする好位置にありながら人の来ないシャッターの閉まった商業施設があるのです。この施設には昨年までご存知ダイエーが入っていました。再生機構による再建を目指すため効率の悪い店舗として閉店に追い込まれたのです。商業施設から大型店が撤退した後に残された地元のテナントさんは莫大な投資をして出展しているものですから去るに去られず、少なくなったお客を相手に細々と営業しているのですが、元気を出せといっても元気が出るわけがなく、このままでは時間の問題とお見受けしました。 この施設にもう一度元気を取り戻そうと心ある人たちが一生懸命取り組んでいるのですがこれも焼け石に水って所でした。

 私たちの町の成功例に学ぼうと今回の講演会が開かれましたが、私の町のような無から有を生み出した何もない町からの出発もそれなりの苦労がありましたが、立派な施設があって市民から見放された施設に人を呼び戻す手法はこれまた大変な苦労だとスタッフの方々に話し、私の話を聞きに来てくれた約100人の方々に全国の事例を示しながら熱っぽく語ったつもりですがこれも焼石に水って感じでした。 問題の裏には行政の認識の甘さがあるようです。丁度運良く若い市会議員さんが2名来られていましたが、このさんさんたる光景に行政はまったく無関心なように映りました。勿論それなりに知らない部分で頭を痛めているのでしょうが、ダイエー撤退という事実と残った店舗の生き残りは撤退決定の時点で分っているはずです。だのに未だにその方策すら見出せないのは、議会も行政も少し怠慢なような気がします。もっと大きい問題はこの施設の再生を夢見てわざわざ尼崎外からスタッフとしてイベントに参加している人もいるのに、市民は参画も協働もしないという無関心ぶりです。行政は二言目には金がない、暇がない、これは民間でといいますが、民間の力ではもう再生できないアリ地獄の入り口まできているという危機感を持たないと、A市の行政力や市民力を疑われても仕方がないと思うのです。女性やスタッフの元気が何よりも救いでした。

 二人の議員さんは新人らしく熱心に耳を傾けメモを取っていましたし、反省会の席でも盛んに若者たちの輪の中に入って模索を続けていました。多分年功と数の理論の中でこの若い議員さんの意見は通らないだろうと推察しながら、私は夜行バスに乗ってスタッフからいただいたほのぼの活気と暗い矛盾を併せ持ちながら帰って来ました。

 希望の持ちにくい人たちへのアドバイスは正直気が重く、心が晴れぬままの帰郷と相成りましたが、私の話をある会場で聞き、私の街にも来て下さいと呼んでくれた

  「行った街矛盾ばかりが目に付いて暗い夜道を電車に揺られて」

  「無を有に変える自信はあるけれど有を無にするこれも難し」

  「金がないこれさえ言えばいいのかと言ってやりたい行政さんよ」

  「中学生授業終わると来るというシャッター通りは子どもにゃ天国」

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shin-1さんの日記

  ○新しい話の聞かせ方の勧め

  昨晩私は面白い講演の形式を発見しました。発見といえば仰々しいのですが、聴衆を前に司会者が講演をする私にコメントを投げかけ私がショートな話を小刻みに答えて行くという方法です。話が多少途切れる恨みもありますが中々どうして、とてもいい雰囲気で、時間こそ1時間弱と短かったものの聞く側にとってはとても新鮮で、参加した人の反応は上々だったようです。

 私のように鈍感な人間でも長年人を集めたり集会に参加していると、会場の雰囲気で「ああ今日の会合は反応がよくよかったなあ」なんて感じたり、「きょうはちょっと」と反省したりできるようになっています。今日の質問形式講演会は大成功の部類でしょう。

 私は昔からレジメを用意することや、事前に打ち合わせすること、さらにはリハーサルすることが大の苦手です。ですからテレビ番組出演のように時間を決めて同じことを二度繰り返すようなものは苦手中の苦手なのです。昨日は安藤さんという素敵なプロデュースする人がいて、シナリオはしっかりしていました。しかし事前の打ち合わせも雑談的雰囲気で、これまた才覚のある亀岡さんというベテラン女性が進行役として私に質問してくるのですが、始めてのチームとは思えないような絶妙なコンビぶりで、参加者から賞賛の声が上がっていました。そして白方さんという男性が会場の雰囲気を側でじっと観察し、参加者にアンケートをとる念の入れようです。ここまで完璧なチームワークはやはりキャップという会社の洗練された社員教育の賜物ではないかと、兜を脱ぎました。

 ひょんなことからこの会社の宮内社長さんと知り合い、ひょんなことで今日のお座敷と相成りましたが、女性中心の会社の目配り気配りの細やかさを改めて感じたのです。その後の食談にも参加させてもらい「上客は来ず、中客は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」を実践するため、所用を理由にさっと引き上げてきました。 私は人が好きですから人に恵まれます。安藤さん、亀岡さん、白方さんというかけがえのない人に会ってまた新しくも深いご縁をいただきました。まさに「人は人によりて人となる」一日でした。

 でもこの手法は誰でも何処でもという風には行かないことを付け加えておきます。なぜなら演壇に立つ講演者が質問に的確に答えるだけの幾つもの引き出しを持ち、引き出しからいいネタを提供するだけの技量がなければなりません。私がその引き出しと技量があるとは思いませんが、たまたま安藤さんと亀岡さんがいい引き出しを気付かせてくれました。また誘導する亀岡さんの声のよさとマイクの使い方、そして何よりも的確な質問があったからこそのなせる技だったようです。

  「ディナーショーやっているよな講演で楽し語らいあっという間に」

  「女性しかできない仕事に感服し強くなったと靴下思う」

  「今がある前の努力が生きてますこれも格差というのでしょうか」

  「顔悪いせめて振る舞い格好よく生きてみたいと惜しまれるよに」 

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shin-1さんの日記

 ○原稿用紙は何故400字詰なのか

? 最近は私のも執筆依頼がたくさん来て、書くことが苦にならない私でも少しうんざり気味です。私は常々思っているのですが、文章が書けて、人の前で話ができて、実践できる人を尊敬していますし、そうなりたいと努力をしてきました。人から見れば随分成長したように見えるそうですが、自分としてはまだまだ文章の表現能力が備わっていないし、話芸だって発展途上の人間です。ましてや実践はこれからの努力次第だと思っています。

 ところで最近は原稿用紙20枚なんて原稿依頼も舞い込むようになって、中々執筆活動も大変です。中には50枚なんてものもあるほどです。今はパソコンで原稿を書くのでÅ4版だと1600字で原稿用紙4枚分くらいの容量にになるようです。 私たちが小さいごろから原稿用紙といえば400字のものを使っていますが、パソコンが出回っている現代でも400字詰にこだわるのは何故でしょうか。

 400字の原稿用紙が使われるようになったのは江戸時代に遡らなければなりません。京都の黄ばく宗万福寺の住職だった鉄眼禅師というお坊さんがお経の本を印刷して刊行するということを決意し、6万枚という大量の木版木を作りました。そのときの木版の字詰が20×20の400字詰だったそうで、これに習って原稿用紙の字詰が決められたといわれています。 私たちは嘘のようで本当の話にただただ驚き、そんなことも知らない凡人は、そのことにさえ何の疑問も持たずせっせと書いているのです。

 原稿書きの依頼には必ず締切日が指定されます。原稿依頼の文章を見て「まだ時間があるな」と思っていたら、案外忘れてしまっていて、催促があってから書き始めることも度々です。昔はファックスもメールもありませんでしたから、書いてもないのに「今半分くらい書いてます」と平気で嘘がつけました。ところが書いた分だけでも先に送ってくださいとか言われるので、今は嘘も滅多にはつけず困ってしまいます。

 それでもいい原稿が締め切りまでに書けて、メールで送るときの充実感はいいものです。

  「締め切りを忘れて原稿書き始め、枚数聞いて五十枚とは」

  「変換の文字校正をせぬままに送った後で気づく大馬鹿」

  「原稿の用紙何故に400字やっぱり坊さん偉い人です」

  「俺の書く文章素敵な本になり不味い内容見場よく感じる」

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shin-1さんの日記

 ○カメラに異変

  世の中の殆どが技術革新する中、カメラ業界もアナログからデジタルへ大きな変化を遂げています。フィルムを入れて写真を撮り、写真屋さんに現像に出して出来上がらないと写り具合が分らないというアナログの世界は次第に姿を消そうとしています。カメラ業界の大手は既にデジカメの競争で勝ち組、負け組みがカラー写真のように色分けされているのです。ある大手業者はフィルムやアナログカメラの生産を早々と止める宣言を発表している所もあるのです。 ところが世の中は不思議なもので、最近デジカメに押されて殆ど売れなかったアナログカメラがここに来て、製造中止になるんだったら今のうちに買っておこうと思う人たちが多数出て、ひどい機種は3倍の値段でも買えないという珍現象が生まれているのです。

 私たちの年代はカメラを写真機といっても通用する年代ですから、手元には使い古しのカメラが2~3台あるのですが、もう使わなくなって何年も経っていて、埃とカビにまみれているようですが、この際手入れをしてフィルムを入れて撮って見たいと思っています。

 カメラ大手にミノルタという会社がありますが、ミノルタという会社の社名は「稔る田」だということを知って驚きました。1985年にオートフォーカス一眼レフという、本格的カメラでありながら素人でも簡単に使えるカメラを開発販売して人気を呼んだのがミノルタでした。ドイツ製品が全盛時代にドイツ人技師二人と日本人が組んで会社は設立されましたが創業者の田嶋さんの母親が言った「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」の精神を忘れないようにとの思いもあったようです。

 ミノルタはアメリカの宇宙船にミノルタハイマチックが採用されて一躍有名になりましたが、カメラ業界も生き残りをかけて水面下では大変なようです。他人事ではないですね。

  「カメラ屋のウインド何度も通り過ぎ欲しいと思い懐まさぐる」 

  「写真機と言われて分る年代の私の時代セピア色あせ」

  「一眼と二眼の違い分らぬまま時代は過ぎて今はデジカメ」

  「アナログは目で撮りデジカメ心撮る不思議な光景でもはいポーズ」

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 ○私は現代人ではないのか  私は昭和19年生まれですからもう随分古い人間になりました。だって学校教育では高校受験が9科目の時代だし、学校のトイレも全て溜め置き式でお釣りのくるような暗いものでした。また今では当たり前となった蛍光灯やテレビも小学校では殆どありませんでしたし、カレーやハンバーグなど余り喰った記憶がありません。ましてやインスタントラーメンに初めてであったのは水産高校の練習船で遠洋航海に行った時でした。今では信じられないようで本当の話を子どもにすると「うそー」などと、子ども独特の返事が返ってくるのです。 勿論パソコンも携帯電話も電卓もなかった時代は、それはそれは長閑なものでした。それでも、いやその方がなんぼか幸せでしたし、人の絆も強かったように思えるのです。 「おいおい若松さん。そんな昔のことを思い出して、あんたも歳だねえ」なんて言われそうなのですが、それでも民俗学を志す私としてはどうしても少年の頃の暮らしを何かの形で残しておきたいといつも思っているのです。私は「現代に生きてる現代人ではない人間」というのが結論です。古代人なんてそんなに古い人間ではありませんが、よくよく考えてみると日本が急激な成長を遂げたのは昭和30年くらいからで、たかだか半世紀くらいしか経っていないのです。正直言って今のようなスピードの速い世の中に生きていくのは辛くて苦しい感じがします。私の友人や知人にストレスからくるうつ病が多いのもそのためではないかと考えています。 昔交通標語に「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という名文句がありましたが、まさに日本は急ぎ過ぎだし、もう少しスローな生き方はできないものでしょうか。本来日本人が日本固有の文化や文明として世界に誇ったものは、古いという一言でなくなろうとしています。自治会長ですので毎月不燃物回収の世話をしていますが、不燃物の中にはまだ十分使えるものが山のように出てきます。このままだと日本は駄目になるかもしれないと思うのは私だけではないと思うのです。 高校受験の季節がやってきました。私たちの時代のように9科目で勝負したらどんなにか助かる子どもがいるのになあとも考えます。人生にとって数学や算数は必要でしょうが、音楽や職業家庭などは生きる力とでも言う大切な同語だと思うのです。 「文部省と農林省の言うことの反対をすればいい世の中になる」とは名言かも知れませんね。  「俺たちは九つ科目で救われた今の子どもにゃ音楽なんぞ必要ないのか」  「あの音色無くして分るハーモニカ今は私の大切持ち物」  「髪の色わざわざ染めて栗色にここは日本だ黒髪素敵」  「早過ぎてとかくこの世は住みにくいストレス爆弾爆発寸前」

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 ○わが愛する美川町・その②

    私は今回の双海町の視察に当って美川町の人たちに、「合併後のまちづくり」というタイトルをつけてお話をしました。フェリーで三津浜に着くとバスに乗って双海町へやって来ました。その後役場の一室を借りて合併後の双海町の現状をつぶさに話しました。合併によって行政サービスはどうなったか、住民の負担はどう変化したか、旧双海町と市役所がどんな関係にあるのか、夕日によるまちづくりの継続はどうなっているか、役場周辺の変化はなどなど、新しい伊予市なった11ヶ月を微細に検証しました。みんな驚いていました。合併のすりあわせで聞いた夢のような話と双海町のの目の当たりにした現実の落差に驚き、まちづくり推進協議会の規約案や役員の人選案など、間近に迫った3月20日の合併前の本当に緊迫した中で、美川町の自立に向けたマンパワー体制が、何と海を隔てた双海町で目論まれたのです。それは明治維新前夜の寺田屋騒動にも似ていました。まさに双海屋騒動でしょうか。

 自治会やまちづくり推進協議会立ち上げに深く関わった総務課長さんと企画課長さん、それに若い担当者は松山の宿舎で夕食を取りながら安堵の胸をなでおろしながら夜遅くまで話し込みました。特に企画課長は今年度末を持って定年退職というこれまたドラマチックな幕引きが目の前の仕事とあって、感慨深げでした。 私は仕事柄、色々なまちののまちづくりについて相談を受けたりお手伝いや助言をしてきましたが、ここまで深く関わった町はそんなにありません。ですから岩国という新しい街に合併し自治体が消滅する美川町への想いは大袈裟な話ですが人一倍持っています。まさにタイトルの如く「わが愛する美川町」といった気持ちです。 国の財政破綻や地方分権から始まった合併のドラマはいよいよ第一幕が終わろうとしています。やがて開こうとする第二幕のストーリーはやシナリオは残念ながら配役さえ決まっていません。多分幾ら住民が頑張っても合併した大きな街に飲み込まれてしまい、双海町のような末路を辿るのかも知れません。でもこの3年間、自治会とまちづくり推進協議会の立ち上げのために努力した美川町は、努力しなかった他の町に比べてはるかに大きな果実をものにしました。

 地域審議会を立ち上げた地域では、年に2回程度の会議で団体長が物申し、行政側の「意見を聞いたがお金がない」という形式的に協働と参画の行政になっているの姿が多いと風の便りが聞こえてきます。

 私も及ばずながら新しいまちづくりに向かって動き出した美川町をこれからも愛してゆきたいと心に強く念じました。

  「自治会ができた直後に大洪水人命財産守れてほっと」

  「合併で役場の周りは灯が消えて人も通らぬ事故は減った」

  「見ると聞く大きな違い合併後こりゃ大変と頭抱える」

  「こんなこと他所の役場で目論んだ数年後には思い出話に」

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