shin-1さんの日記

○三日間の韓国旅行

 私が代表を務める「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の長年の懸案であった「韓国旅行」がやっと実現しました。本当のグループの研修目的地は、かつて若き頃丸木舟を製作した時の材料となったアラスカ産モミの木の切り株にアラスカの地まで会いに行こうと計画を立てていましたが、仲間も少しくたびれた年齢となり、アラスカは遠くて日程的にもかなり長期になり費用も高額になることから韓国で済ませようと思いついたのです。アラスカと韓国では月とスッポンほど比較にならないのですが、それでも会員やその家族が12人参加して打ち解けた研修旅行が出来るなんて2泊3日にせよ、無人島キャンプ以来とあって期待を膨らませて参加しました。今回の研修旅行は松山空港発着のアシアナ航空チケットが確保できなかたったこともあって、急遽広島空港発着に変更になったため、数人が仕事の都合が付かなくなり参加が出来なかったことが悔やまれてなりません。それでも今治組が半数近くいたためかえって便利がよく、韓国旅行に快適なしまなみ海道旅行がプラスされたような旅となりました。参加者の中には海外旅行が初めてという人もいて、少しばかり緊張間がありましたが、その分佐賀山さんが韓国語や韓国事情に詳しく、準備から出発まで何かとお世話してくれたお陰で、添乗員も付かない旅ながら心配や不安もなく随分助かりました。

 佐賀山さんからの事前直前情報だと、観光ソウルの天気予報は曇りや雨とかで雨具の用意をするよう指示されていましたが、韓国へ行くことで頭がいっぱいらしく殆どの人がパスポートや換金に気心を奪われ、雨具のことなどすっかり忘れて、後で思わぬ雨にたたられる結果となってしまいました。

 韓国は近くて遠い隣国です。歴史的に関係の深い国ながら小泉首相の靖国神社参拝による歴史認識や竹島問題などでギクシャクして、一部では半日感情の激しい側面を持っています。しかし一般国民の間では経済的にも文化的にも友好的な交流が行われており、特に観光面ではお互いの国の人が行ったり来たりいい関係を保っているようです。

 韓国は日本と時差はありません。したがって時差ぼけもなく広島からだと12時20分に飛び立った飛行機は13時30分にインチョン(仁川)空港に到着します。日本国内旅行でも北海道や鹿児島、沖縄の島嶼部へ行くよりはるかに近いのです。それでも国際線を意識させるのは機内で機内食が出ることです。空港はアジアの玄関を目指していることが一目で分るように大規模で日本の空港など足元にも及ばないような規模拡大が今も目の当たりにすることができます。

 飛行場へは通訳のパクさんが出迎えに来ていて、チャーターしたマイクロバスで宿舎のロイヤルホテルへひとまずテックインしました。私は昨年2月に公用で韓国へ出かけた折このホテルに泊まった経験があるだけに何となくふるさとへ帰ったような親近感を覚えました。その夜はお定まりの焼肉専門店へ出掛け、本場の焼肉を食べ放題食べて堪能しましたが、チシャ菜やエゴマの葉っぱにくるんで食べたり、唐辛子いっぱいのキムチを額に汗をかきながら食べたため、肉料理の好きでない私でも随分満腹感に浸りました。

 夜は山の上に立っているソウルタワーにロープウェーで登り百万ドルの夜景を楽しましたが、韓国故宮周辺の静寂や、南大門の喧騒、洗練された江南の町並みなど、エリアによってソウル市内は新旧の異なった顔があるようですが、夜の暗闇と光だけの世界は伝統も進化も一緒に包み込んでいるような温かい感じがしました。

 乗り合いバスで下山し、夜の清渓川公園を散策しました。この川は高速道路の付け替えで蓋されていた川の蓋が取り除かれ、その川を庶民の親水公園として整備したもので、両岸は衝立のようなコンクリート護岸で、川底に川が流れ両岸に散策道路があります。また川岸には柳や葦が植えられ、川の水を吸って生き生きとしていました。涼を求める若いカップルがひっきりなしに歩いて当てられっぱなしで、思わず目をそむけるような抱き合ってキスをする姿も見えました。羨ましいですね。韓国に出かける前、えひめ地域政策研究センターの兵頭さんからこの公園の情報を仕入れていたので興味深く見学しました。

 (先日佐賀山さんから2枚の清渓川公園の写真がメールで送られてきました。夜の景色はライトのみの寂しい写真でしたが、明くる日のオプショナルツアーでこの綺麗な河川公園を見学したそうです。送られてきた写真の処理が分らぬまま時を過ごしていましたが、ブログ用の写真に処理する圧縮を試みたところ、偶然にも取り込みに成功しました。韓国旅行から3週間も経った9月15日夜10時の出来事でした)

 南大門市場といわれる通りは眠らない街といってもいいほど夜遅くまで若者が賑やかに行き交っていましたが、特に若い女性の数は半端ではなく目を見張るものがありました。ショッピングや飲食を楽しむ姿からは、とても隣に北朝鮮というベールに包まれた国があることも、徴兵制度があることも感じさせない平和そのものの
韓国の夜の素顔でした。

  「飛行機で ひょいと一飛び 他所の国 言葉通じず やはり外国」

  「この人も 蒙古斑点 あるのかな 顔では見分け つかぬ人たち」

  「他所に来て あらため思う わが国の 人も自然も 風までいいな」

  「故宮門 入れば喧騒 打ち消され タイムスリップ チャングン世界」

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shin-1さんの日記

○田舎の盆踊り大会

 「果たして踊り子さんが集まるか?」というのが自治会長をしている私の最大の不安でしたがいらぬ心配でした。夕闇迫る7時過ぎになると何処からともなく踊り子さんが集まり、最大の多い時は会場のやぐらを囲むように3重の輪が出来たほどですから、まあ満足せねばと胸を撫で下ろしました。盆踊り大会を開く時の最大の課題は踊り子確保です。昨年までは地元郵便局や銀行さんにお願いに行って衣装等でメリハリの利いた人たちが大勢踊ってくれていましたが、今年は銀行の支店長も変わり、郵便局も民営化の激しい波に翻弄されそれどころではないといった様子だったので思い切って作戦を変え、今一番元気といわれる漁協女性部に直接私が出向きアタックしました。また妻の力を借りて伊予市の民生委員などにも働きかけ、ついでに都辺町の友人も誘いました。結果的には頼んだ仲間は全て義理を果たして予想以上の参加となったのです。しかも地元の人たち、特に年配の方たちがビールの勢いを借りて、また組長さんたち役員も一生懸命盛り上げようと努力してくれたお陰で昨年とは一味違った素晴らしい盆踊り大会となりました。

 盆踊りで欠かせないのが踊りの選曲です。毎年のことながら放送一式は中央公民館の米湊誠二さんに頼んで担当してもらいましたが、あいも変わらず任期があるのは炭坑節、神輿音頭、双海音頭、きよしのズンドコ節なのです。この曲以外の曲をかけると極端に踊る人が減るのですから長年の習慣は恐ろしいものです。炭坑節は亡くなった三橋美智也が歌っているのですから呆れてものが言えないって感じです。双海音頭はやはりご当地ソングで私がまちづくりを担当していた頃地元で歌詞を募集し、既に亡くなった商工会長吉岡政吉さんの歌詞に補作をし、キダタローさんが曲をつけ、民謡歌手小杉真紀子さんが歌っています。この曲はもう二十年以上も町民に愛され続けているのです。地元には器用な人がいて何の曲でも太鼓を叩ける人がいます。対馬さんもその一人で、病気で床に伏している叔父森脇正に代わって太鼓を叩いてくれました。

 双海町灘町地区には手踊りという古い時代から踊られている踊りがあります。その普及を文化協会が中心になって行いましたが、その成果があって太鼓も口説きも古老から伝承してもらった人が何人か育っているのです。この日もお願いして協力してもらいました。口説きは谷岡さん、太鼓は何と女性の吹原さんと大石さんです。三人の調子に合わせてお囃子は市会議員の山崎さんが努めてくれましたし、毎年のことながら上田教育長も踊りの輪に積極的に参加してくれました。

?子どもに一番人気があったのはこの仮装をした怪しげな踊り子さんです。子どもは怖いけど何故かこの踊り子さんの周りに集まって追いかけたり追いかけられたり、楽しい雰囲気を演出してくれました。前野さんありがとう。

 観客はかき氷を食べたりビールを飲みながら思い思いに涼を求め、行く夏を惜しんでいました。

 この日灘町では盆踊りに合わせて戦没者と新盆を迎えた人の写真を飾り、本覚寺の住職さんをお迎えして慰霊祭を催しました。戦没者の家族も高齢化が目立ちましたが、両遺族や組長さんをお迎えしてのいい慰霊祭となりました。

  「行く夏を 惜しむが如き 盆踊り 太鼓合わせて 踊るわ踊る」

  「応援に 駆けつけ踊る 妻の友 襟足すっきり 妻より美人」

  「今年また 六十一回 戦没の 写真に誓う 戦争ない国」

  「ああ俺の 六十一回 夏終わる まるで日捲り 残り少なく」 

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○盆踊り大会の準備

 「えっ、まだそんな古いイベントをやっているの」なんて言われそうなミニのイベントを、私が自治会長を務める灘町という300戸足らずの自治会では戦後延々と今日まで続けているのであります。私たちが青年団活動をしていた若い頃は町内のあちこちで盆踊りが行われていましたが、ひとつまた一つと次第に姿を消して、今では町内でも珍しい行事となってしまいました。昔は青年団が盆踊りを仕切っていましたが、今の青年にはその力も団結もなく、自治会が仕切るコミュニティ行事として細々とやっているのです。

 今朝は朝7時30分から集会所横の広場に役員さんや組長さん総勢30人余りが集まり、暑い中汗だくだくで午前中準備を行いました。草刈や清掃を行いながら広場の中央にやぐらを組み立てる人、山へ笹飾りのための笹を切りに行く人、ぼんぼり電球を張り巡らす人、放送施設を取り付ける人などなど、誰言うでもない役割を分担しながら順調に作業を進めました。公民館の室内では戦没者の追悼と新盆者の慰霊を行う祭壇が組まれ、女性軍は供えるための団子を作って蒸したりお供え物を買いに走ったりでこれまた大忙しです。夕方には本覚寺の住職さんを迎えて読経供養をしてもらうため、仏具をお寺まで取りにも走りました。紅白の幕や観客のための布椅子はトラックで役場へ取りに行きます。こうして午前11時には粗方の準備が終わり、缶ビールで喉を潤し打ち合わせをして準備を終えたのです。

 昨年は私も役員さんも就任して始めてのことで何をどのようにしてよいか分らず、特に私が自信がないものですから前区長さんの元へ度々聞きに行って事なきを得ました。今年は昨年の徹を踏まないためにやぐらの立て方、祭壇の組み方などはデジカメで撮っており、また準備物や連絡すべきことも忘れてはいけないと終了時にメモして残していました。お陰さまでその写真とメモが随分役に立ちました。私の任期は一応2年間なので来年の方には私のような苦労をさせたくないので、しっかりと写真とメモを残して引継ぎしたいと思っています。

 さて私の気がかりは準備よりも今晩7時から始まる本番の盆踊りの方が今から心配です。というのも最近の傾向として盆踊りを踊る踊り子さんが年々減少していることです。阿波踊りの文句「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」てな調子で踊ってくれると随分助かるのですが、やはり時代の流れでしょうか盆踊りを踊る踊り子さんは年々減少しているのが実情なのです。

昨年も今年も練習を計画しましたが結局は中止となってしまいました。

 でも嬉しいこともあります。炭坑節や双海音頭、キヨシのズンドコ節などのレコード音楽とは別に、地元に古くから伝わる手踊りが今年も出来そうなのです。お願いしていた口説き人や太鼓たたきの人も午前中にやって来てリハーサルを行いましたが、いい感じで望めそうなのです。今更ながら地域の伝統文化伝承の重要性を感じています。

 青年も子どもも、見学する老人も、全てにおいて地域が右肩下がりする地方において、こうした伝統の灯を絶やさないようにすることは容易なことではありません。幸いわが地区では役員と組長さんも全員参加で準備や運営に当たる伝統が息づいていますし、運営費も各戸千円ずつの寄付金が満遍なく集まります。もっと楽しくすることを考えてリニュアールしようと心がけていますが、さて今年の成果はあと5時間後に出ます。期待しましょう。

 荒れる大海原から突如巨大な海坊主が立ち上がり、船を襲ってくる危機的なことを「
イベント」というそうです。そうであれば現在のこのイベント的状況を逆に活かし灘町という地区の乗組員が一致結束し大海原を乗り切っていかなければならないと思うのです。

  「踊る人 果たしているか 盆踊り そんな心配 去年もしたな」

  「昨年の 不安を拭う メモ写真 一目瞭然 今年バッチリ」

  「あの人も この人昔 ご一緒に 再び一緒 時を越え来て」

  「上天気 今宵は太鼓と 口説き声 夜空響いて 盆の踊りが」   

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○息子の就職活動

 次男が「お父さん、僕もう一度学校へ行こうと思う」と言いだしたのは今から4年余り前でした。「えっ、これから5年間も学校へ行くの?」なんて思ったのは当然かもしれません。高校を卒業して直ぐに就職した息子は、自分が見つけた会社に入りそれなりに頑張り、8年間も真面目に務めたのでした。一度就職したらそれを天性の仕事にすることが一番と思っていた親にしてみれば青天の霹靂でした。それでも息子が勉強したいと言うのだからと渋々OKし、「勉強することはいいが、看護学校は難しいそうだ。8年間も勉強から遠ざかって入学試験に合格できるのか」と念を押したら、「とにかく挑戦してみる」と意欲満々でした。結果的には合格し彼の挑戦が始まったのです。勿論趣味で続けている演劇も両立させたいとのことでした。息子を信じてはやりたいが、はてさて続くかどうかと思ったものでした。蓋を開けてみると彼なりに努力した結果金の要らない特待生に選ばれ、2年生から専攻科の今日まで授業料免除の金運を射止め、親の眼から見ても頑張る姿はいじらしい程でした。看護士を目指すそもそものきっかけは長女、つまり次男にとっては助産婦をしている姉の存在が大きかったようで、陰に陽に姉のアドバイスを貰って、やっと来春は卒業見込みとなりました。

 今は来春の卒業に向けて就職活動の真っ最中で、自分の肌にあった病院の就職試験を受けています。先日は意中の病院の試験に臨み、今日は第二の希望先の受験に出掛けました。昨日のことです。病院実習を終えて帰ってきて、留守中親父が預かった自分宛の書留封書を受け取り開封するなり「お父さん○○病院から合格通知が届いている」と大声で叫ぶのです。この病院は受験生にとって人気も高く難関だと思っていただけに余程嬉しかったのでしょう。本命に合格すれば後の病院を受ける必要はないのですが、息子は今日も元気に就職試験に出掛けました。次男は30歳という人生にとっていわば遅い再出発の道を選んだ

のですが、さらに来春の看護士国家試験という高い高いハードルを越える試練が待ち構えています。でも頑張り屋の次男なら大丈夫だろうと親馬鹿になっています。

 娘を除けば3人の息子はみんな職場を変えました。長男は建築士として同じ仕事をしていますが、会社は今の社長さんの独立を機に変わりました。三男は4年間勤めた会社を辞めて警察官になりました。いずれも前の仕事先では一生懸命仕事をして惜しまれながらの退転職だったことはある意味で救いだったような気がします。

 仕事にもつかないニートや仕事につきたくても仕事がない社会の問題が大きくクロ-ズアップされていますが、勿論それは社会風潮だし社会の責任かも知れませんが、自分の肌に合わないと直ぐに働きを辞めてしまう若者も多くいます。全日本のサッカー監督にジーコに代わって就任したオシムさんが「あなたたちは息子さんを最後まであきらめずに走る子どもに育てましたか?」という言葉を選手の両親に問うたそうです。その両親は「それだけは自信があります」と答えたらオシムさんは「そうであれば私が自信を持って育てます」と言いました。オシムさんのサッカーの基本は「走って走って走ること」だそうですが、人が見ていたり格好よい所だけで走るこれまでのサッカーへの戒めとでもいえましょう。何かが欠けている今の教育へのメッセージとして大切にしたい言葉だと思いました。

 次男の長い人生の旅はまだまだこれからです。合格という一つの扉が開かれただけに過ぎないのです。走って走って最後まであきらめずに走り続けて欲しいものです。

  「合格の 通知喜ぶ わが息子 三十にして 惑うな小雀」

  「学びたい 時が適期の 五年間 少し出口が 見えてきたかも」

  「早速に 姉へ電話の ご報告 弾んだ声が 隣部屋まで」

  「あきらめず 最後の最後 まで走れ オシムの言葉 息子はなむけ」  

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shin-1さんの日記

○人間牧場の夏の風景

 今日は暦の上では24節季のひとつ処暑だそうです。暑さもそろそろ峠を越える意味なのですが、西日本に位置する双海町はまだまだ暑く、昼間の気温は有に30度を越えて暑さの収まる気配はまったくないのです。新聞やテレビは早くも秋の話題を先取りしようと懸命ですが、何もそんなに焦らなくてもむしろ行く夏を惜しむくらいのゆとりを持ちたいものです。

 今日は松山市ロープウェー街の桑島さんが友人を連れて取材にやって来ました。取材といってもロープウェー街に設置したハイビジョンテレビで人間牧場の話題を放映するらしく、あちらこちらを適当にカメラを回して撮影していました。案内しながらふとロケ風呂から豊田漁港の風景を見ました。遠望はもやがかかって見えませんでしたが近望はまるで外国の風景を見ているように素晴らしかったので思わずデジカメで一枚撮影しました。見慣れた光景でも改めて写真に撮ると見事です。

 私はこの風景を見せるためあえて両側の杉の木を切らずに残しています。そうすることによって周りの部分が隠れて強調されるのです。そのため何度となく木に登り要らない枝を切り落としました。そうすることによって直ぐ上にある水平線の家とそんなに標高差もなく同一敷地内なのに何故か風景が一変するのです。

 今日は水曜日地元の漁船は殆どが遠く佐田岬半島まで出漁をしているため漁港は散閑としていますが、火曜日と土曜日は漁が休みのため整然と並んだ漁船の姿もまた見応えがあります。先日あいテレビの村上さんの取材した「キャッチあい」というテレビ番組のアングルは、しもなだ運動公園付近から逆にズームインしていていましたが、これもまたいい視点でした。

 人間牧場一年目のの夏の風景を楽しむ余裕は残念ながら忙し過ぎてありませんでした。相次ぐ新聞や雑誌、テレビの取材や報道で見学や訪問者が相次ぎ、また予想以上に講演活動も依頼が多く、「本を読みながらゆっくり昼寝」という本来の願望はまだ達成されていません。「急がないと夏が終わってしまうかも」というのが正直な今の心境なのです。しかしそれにしてもリビングまつやまというタウン情報誌と南海放送、それにあいテレビの反響は凄いです。「読んだ」「見た」という人がかなり多くて、先日もある風呂に行きましたが、何人もの人に声をかけられてしまいました。おちおち風呂にも入られませんね。

 ロケ風呂から沖合いを見ると、共栄網の船引き網が3統ゆっくりと網を引いていました。シロコと呼ばれる初夏の漁が終わり、2~3日前からカタクチイワシを獲っているようです。本格的なイワシ漁は来月中旬からだそうですが、漁獲したカタクチイワシは釜茹でされて乾燥機にかけられ煮干しとなるのです。今は海水温度が高く油が乗り過ぎて品質的にはまだまだなのですが、イワシ漁は早くも秋の訪れを告げているようです。漁船の航跡が何処までも長く伸びた夏凪の海もやはり風情があります。この風情をせめて少しでも心の栄養にしたいと一人海を見つめながら思いました。

  「夏風情 楽しむ間もなく 過ぎようと ハッと驚き 写真をパチリ」

  「見てください 言わんばかりに 戸を上げて 自慢の風景 土産に目渡す」

  「夏凪の 海に真白き 船三つ 航跡長く 引きつつ進む」

  「狭い道 下りてくるから 牧場の 開けた眺望 余計綺麗に」

 

 

 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○忘れ去られたテレフォンカード

 世の中の流行り廃りを象徴するものにテレフォンカードがあります。あれ程流行った便利なカードでしたが残念ながら携帯電話の普及であっという間に利用価値がなくなり、今は殆ど使われることもなく財布の隅や引き出しに寂しく残っているのです。テレホンカードの専用会社まで作って普及を図ってきたNTTとしては、次世代電話として普及した携帯電話に取って代わられプラスマイナスでは事なきを得たようですが、カード時代にこんな逆転現象が起こるなんて誰が予測したでしょう。

 携帯電話を持った時、その電話料の高さに根を上げて携帯電話は受信専門で、発信は残ったテレフォンカードを使おうと心に決めていたのですが、日が経てば料金よりも便利さが優先し今ではこの一年間だけでも殆どテレフォンカードを使わなくなりました。そういえば身の回りにあれほどあったテレカ専門の公衆電話はいつの間にか姿を消しつつあるようです。シーサイド公園のオープンは平成7年でしたが、公園の入口にNTTにお願いして公衆電話を設置してもらいましたが、最近その公衆電話も取り外されて跡形もなく撤去されました。僅か10年余りの間にこれ程変化したことも珍しいのではないかと思うのです。

 私はこれまでシーサイド公園やイベントに絡んでテレホンカードを10枚程度製作してきました。代理店契約をすれば比較的安く手に入るとあってNTTから千枚単位で買い求めたホワイトカードを印刷屋へ持ち込んで印刷し、一枚五百円のテレかを八百円で販売するテレカ商売は結構売れ行き好調で、オープンした特産品センターでは結構大きな収入源となっていたのです。

 私が手掛けたテレカの殆どは夕日をあしらっていました。夕日夕焼けフォトコンテストの最優秀賞に輝いた作品の版権を、賞金と引き換えに取得し、テレカや名刺、それに絵葉書やポスターとしてやりたい放題夕日のPRに利用したのです。絵葉書やテレカは商品化しても新聞で紹介するものですからよく売れました。テレカ発行がニュースや記事になるなんて今では考えられない不思議な時代でした。

 このカードは最もよく売れた二枚セットのカードブックです。このカードブックに様々な夕日テレカをセットにして発売しましたが、こちらが驚くほどよく売れました。

 私の息子(三男)はテレカを集めるのが趣味で沢山のテレカを収集していました。ですから各地へ旅行した時はテレカを土産に買って帰ったものです。テレカの収集ブックには100枚を越す様々なテレカが残っていますが、処分する気にもならずそのまま箪笥にしまわれています。いずれ時を越えればお宝か歴史の生き証人として日の目を見るかも知れませんが、まあ青春の思い出として大切に保存しておきたいと思っています。 

 私の手元には使わなくなったテレフォンカードが10数枚残っていて使いたいと思うのですが、多分そんなに使うこともなくこのままで終わることでしょう。でも既にお金を払っているのですから勿体無い話ですね。

  「役目終え 机の隅に ひっそりと テレホンカード ただ懐かしく」

  「このテレカ 現金なれば 五百円 換金できず 今はただごみ」

  「穴開いて 通話記録の 傷の跡 誰にかけたか 思い出せもせず」

  「テレかさえ 夕日売り込む 武器にして したたか儲け 昔懐かし」  

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○池ができたよ

 この暑さの中でせっせと貰った鯉の稚魚のために掘っていた親父手づくりの小さな池が庭の隅に出来上がりました。畳半畳ほどの猫の額ほどしかない池ですが、さすが器用な親父だけあって見事なものです。池が漏るといけないので最後の仕上げはやはり親類の左官さんにお願いして上塗り仕上げをしましたし、水道工事も自分が排水工事はしたのですが給水工事は水道屋さんに傍の防火用水タンクに穴を開けてもらいカランをつけて、あっという間に全てが揃いました。あとは灰汁抜きをして水を溜めると早速鯉の稚魚のお引越しとなるのです。

 そもそもこの池を造る計画は鯉を飼育している馴染みの業者さんから稚魚を貰った一週間前から始まりました。鯉の稚魚を貰う。⇒鯉の稚魚を水槽で飼い始める。⇒餌と鯉の糞で水槽が汚れる。⇒鯉の稚魚を池に入れる。⇒池の鯉が稚魚の餌つつきで餌を食わなくなる。⇒稚魚を水槽に生簀を造って分離する。⇒その生簀の稚魚の行き先のため池を掘る。⇒土木作業をする。⇒仕上げは左官さんに依頼する。⇒給水は水道屋さんに依頼して防火水槽に穴を開ける。⇒完成。てな調子です。

 ご覧下さい。素人とは思えない出来栄えでしょう。もう昔池で使っていた浄化用ポンプまで用意する念の入れようです。多分2~3日後には灰汁も抜けて鯉の稚魚が涼しげに泳ぐことでしょう。

 親父には私にはない違ったおおよそ3つのネットワークがあって、その人たちが足繁くやって来ます。第一のネットワークは鯉仲間です。親父は自分の掘った池で8匹の自慢の鯉を飼っています。大きいのは10キロもあるような凄い鯉で、遠来のお客さんも「立派な鯉じゃねえ」と褒めてくれます。朝底水を抜いて餌をやるのが日課です。こんな小さな池なのに専門業者が持っているような浄化槽設備をつけて万全な飼い方をしているので鯉の見分け方、飼い方何でも一通りは薀蓄を語れるのです。

 第二のネットワークは骨董仲間です。家の横に海の資料館「海舟館」を設置している変わり者で、骨董品を収集したり磨いたりするのが得意で、余り値打ち物はありませんが値打ちがありそうに見せるところが親父の凄さでしょう。普通骨董品が好きなだけならばボロいものを所狭しと並べるのが普通ですが、親父は美的感覚があってそれなりに展示に耐えているのです。勿論自分の造った和船の模型などは玄人はだしで、30数隻の模型がこれまた美しく飾られています。

 第3のネットワークは野菜づくりでしょうか。近所のおばちゃんがやって来ては野菜づくりの話をお茶を飲みながら話しています。親父は若い頃ガンで顔の手術をしていますので人前に出ることは極力控えてきました。特に最近は手術の後遺症で多少よだれが出るため飲み食いの場所は、人に迷惑がかかるからと出ないのです。でもこれら3つのネットワークを持っているお陰で元気に過ごしています。

 親父が何かを始めると私たち家族はハラハラします。88歳になっのだからもう少し穏やかにと思うのですが、頑固でわがままな性格は死なないと直りそうにありません。私も妻も近頃は諦めて怪我をしないように見守るだけなのです。今回の池を掘る計画も孫がやって来て池にでも落ちたら大変と反対しましたが、一向に聞く耳を持ちません。まあいいかと私は思っているのですが妻は「あなたが強く言わないと」と圧力をかけてきます。でも長年一緒に暮らして知っている親父の性格ですから、私が妻と親父のクッションになっています。長男で61歳にもなった私が親父に一目置くこともまあ許せる範囲でしょう。

 私は常々メダカを飼いたいと思っています。親父が掘った池でやがてメダカを飼おうとトンビがアブラゲさらう計画です。「シー、これは内緒の話で言っては駄目ですよ」

  「池できた 灰汁が抜ければ お引越し 親父はまたまた やりたいことを」

  「真似できぬ 八十八歳 挑戦を いやあお見事 今度も一流」

  「親父さん 我流極めて 生きている 俺も見ておれ 今に一流」

  「妻曰く あんたも父も 同じよう だって親子だ 変わるはずなく」

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shin-1さんの日記

○縁日のお接待

 四国は遍路の国といわれるように四国八十八ヵ所があって、1500キロともいわれる遍路道をただひたすら歩く祈りや修行の場所でもあります。各地には遠出できない人々のためにお四国さんというミニの八十八ヶ所が今でも残っていて、地元の人が大切に守っていますが、その基本は「お接待」といわれるサービスです。富める人が貧しい人に与えるのではない、ささやかな心のサービスが祈りの旅にとってどれ程心温まるものかは、お接待を受けたものでないと分らない有難さなのです。

 私の家の入口にもお地蔵さんがあって、私の家では30数年にわたってこのお地蔵さんを大切に守ってきました。昔は道端にあったようですが、道路拡張工事の折道の上に祠を造り、そのお地蔵さんを祠の中に収めて毎月21日には手づくりの幟を立てて赤飯を炊き、パックに入れて10軒余りの親しい近所に配るのですが、最初は母がやっていましたが、母亡き後の今は妻がその役を引き継いでせっせと赤飯を炊いて配るのです。私はできた赤飯を配る程度しかできませんが、妻は民生委員をしているので自分手持ちの独居老人にも配ったところ、老人たちはたいそう喜んで、今に続いているのです。妻が忙しいときは独居老人への配達も私がやるのですが、そのことが独居老人への声かけともなって皆さんから感謝されているようです。

 お地蔵さんに通じる急な坂道は入口に大きな石が組まれその上を覆い隠すように枝垂れもみじが棚いっぱいに広がっていますし、手摺は親父が親類の鉄工所で加工してもらったステンレス製です。最近は姉や友人知人など近所の方のお参りも多く、線香やシキビの花も絶えたことがないほどの信心ぶりなのです。

 このお地蔵さんにハクビシンが住み着いたり、賽銭箱が盗まれたり、これまでにもお地蔵さんにまつわる様々話題がありましたが今はひっそりとして、毎月21日の縁日のみに幟が立つ程度になっています。

 最近の日本人は信心や宗教心が欠けているとよく言われます。オーム心理教などの新興宗教が世間を騒がすものですから、宗教に対する信頼が薄れそうなるのかも知れません。でも日本人の心の支えはやはり宗教心だと思うのです。先祖や人を敬う優しい心を持ったなら、親を殺したり兄弟や近隣が憎しみゆがみあうこともないのです。人は神仏に自分が幸せになるための願い事盛んにします。「どうか幸せになりますように、どうか受験に合格しますように、宝くじがあたりますように」と・・・・・。でも日々の暮しの中で今幸せに生きてることに感謝して神仏に祈るような人は中々少ないようです。幸せが日々の祈りや精進の積み重ねだと思うと、殆どの人の神仏への願いはまさに聞き届けられないことなのです。

 お接待はその代価を求めないところに大きな特徴や意味があります。お接待が何かの代価を求めたら台無しです。よく「私は毎日こんなことをしているのに神も仏もないものよ」という言葉を耳にします。そんな気持ちでボランティアをするのだったらしない方がましなのです。多分私の妻も親父もそんな代価を求めたり「これほど毎月しているのに」なんてことは思って尾接待はしていません。しかし結果的に幸せなのですからこれに越したことはないのです。

 「近頃は縁日の来るのが早くなった」と妻も親父も歳をとったからでしょうかよくいうようになりました。一年で21のつく日は僅か12回しかありません。今も昔もそのことは変わらず、一日24時間もまったく変わらないのです。でも短くも長くも感じるところに人間の喜びや悲しみが隠されているのです。来月の21日は早くも秋の入り口です。また心を込めてお接待したいものです。

  「入り口で じっと見守る お地蔵さん 今月縁日 知らせる幟」

  「接待に 炊いた赤飯 独居人 嬉と喜び 思わず手合わせ」

  「今月も 妻はせっせと お接待 額の汗を タオルでぬぐい」

  「願いなど せずとも地蔵 知っている 日々の精進 だから幸せ」




 

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○束の間の休日

 次男の演劇鑑賞のため八幡浜から訪れていた妻の友人魚本さんが一昨夜わが家に泊っていたため、魚本さんを八幡浜まで妻と二人で送ることになりました。噂に聞いた人間牧場を見たいという彼女の希望に沿ってまず山の上に上がりました。あいにく海はガスがかかっていて遠望はきかないものの夏の日差しがまぶしく照りつけても吹く風は涼しく、優雅にトンボが飛び交っていました。案内する施設に感動した様子で、長いお喋りとなりました。妻は私と年齢が一歳しか違わないので彼女も既に退職し悠々自適の生活を生まれ故郷の八幡浜で過ごしています。夫に死に別れ子どももいない彼女にとって、早くも始まった老いの暮らしは余りにも不安が多いと述懐していましたが、彼女の目に私たち夫婦の幸せな暮しは「羨ましい」の言葉に凝縮されているようでした。私は今の充実した人生を勝ち取るためにどのような努力をしてきたか、押し付けではない話をしました。彼女も納得した様子で聞き入り、これからも宜しくで山を下りました。

 山道を本村まで走り国道378号に出ると海沿いの道の右側には、盆が過ぎ夏もそろそろ終わりと思われる凪の海が沖合い遠く広がっていました。その国道378号でも一番長いごぜヶ峠のトンネルを越えると、左に4キロ「平家谷の流しそうめん」という看板が出ていましたので、昼時でもあり3人でそうめんでも食おうという話がまとまり、曲がりくねった道を登って道端に車を止めて川沿いを下りて行きました。地元の老人会が運営しているそうですが、夏休みの日曜日、しかも昼時とあって中々の人出で、食券を求めるのも食べるのも長蛇の列でした。幸い結構なお席が確保できて500円分の元は取れたかどうかは分りませんが満腹になりました。この季節そうめん流しも風流でいいものです。

 丁度魚本さんのご主人のお墓と妻の実家のお墓が隣近所ということもあって、人間牧場で確保したシキビと大宝寺で汲んだお水を持って、お寺の境内の裏手にある墓地へ墓参りをしました。暑さ真っ盛りの1時なので、汗が噴出し暑くてたまりませんがふと見下ろした八幡浜湾の遠望は遠くに九州の山並みが見え、これまた素晴らしいものでした。

 八幡浜は隣町の保内と一市一町の合併でかろうじて市としての人口規模を保っていますが、狭い土地柄が災いするのか、人口減少に歯止めが利かず、市でありながら過疎地域に指定されていましたが、今回の合併でどうなったのでしょう。でも港町らしい風情があって、私は妻の実家のあるまちのなので大好きなまちの一つです。

  「束の間の 休日楽しむ 身近旅 話して食って お墓参りも」

  「八幡浜 かつての賑わい 今何処に シャッター通り 秋風吹いて」

  「年代の 同じ人々 喋ること 年金話か 孫のことしか」

  「五百円 出してそうめん 食った後 元は取れぬと 風流語らず」 

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shin-1さんの日記

○私の帽子

 孫が買ってもらった麦藁帽子を嬉しそうに被っているのを見ると、ついつい私も孫に合わせて帽子を被って出かけたくなります。その場合やはり孫に合わせて麦藁帽子にしたいのですが、残念ながら私の麦藁帽子は畑の作業用で人間牧場の水平線の家に置いて帰っています。仕方なく野球帽を被ると孫は「おじいちゃんはどうしてそんな帽子を被るの」と、相変わらず「どうして」を枕詞に話しかけてくるのです。「どうして」と急に言われても返答に困ってしまうのですが、「おじいちゃんはこの帽子が好きだから」と答えにもならない答えをしてしまうのです。

 私は妻が「おとうさんは帽子が好きねえ」というほどに帽子が好きで、頭に帽子を被っていないと何か忘れ物をしたような錯覚をするくらい帽子を被ります。しかし好きな割には帽子をよく忘れて、いつも出かける前に「おい俺の帽子は」と妻に帽子の在り処を聞くのですが、妻もそんな長年の私の質問を心得たもので、「あそこの帽子掛けにあるでしょう」と素気ない返事が帰ってきます。仕方がないので帽子掛けのある廊下へ出てみると、ちゃんと妻が片付けて吊ってくれているのです。帽子吊りにはよく使う5つもの帽子が吊られていますが、その中からお気に入りの帽子を選んで外出するようにしています。私はこれまで色々な帽子を愛用してきましたが、残念ながらお酒が好きな頃は酒の席に置き忘れ、旅先では忘れとその殆どは忘れてその生涯を終えているのです。そんな私を見て妻は帽子に名前と住所まで書いてくれましたが、それでも帽子は帰って来ることもなく闇から闇へゴミとなって処分されたのです。

 そんな中でよれよれになりながらも相変わらず20年間以上も被っている帽子があります。それはシーサイド公園を清掃中に拾った帽子です。シーサイド公園には忘れ物が多く、ラジカセや携帯電話、免許証まで様々です。その都度持ち主を探したりするのですが、帽子やタオルなどはきりがないのでその都度処分するのですが、その中にたまたま帽子を忘れてしまって代用に被った帽子がこれなのです。別にメーカー品でもなく特長があるわけでもないのに洗濯して被り始めると愛着が出て今日までの長い間世話になったのです。残念ながらその写真は見せられませんが、妻はもうこのボロい帽子は捨てたらと言うのですが、私にとってはシーサイド公園の思い出がいっぱい詰まった帽子だけに捨てきれずもう少しご厄介になろうと思っています。

 昨年カナダへ行った折、妻が買ってくれた帽子、双海町時代に町のシンボルマークを募集し、そのデザインを使って青年団が製作したマーク入りの白い帽子、慶事のお返しにカタログで注文し届いたナイキのマーク入りの帽子など、よく使う帽子は先程の落し物拝借帽子に加えこの4つですが、この春結婚記念日の贈り物として息子嫁が可愛らしい山高帽子を贈ってくれました。少しお洒落なのと勿体無い気持ちでまだ贈られた箱に入って箪笥にしまってありますが、よそ行きに使いたいと思っています。

 只今の外出用はこの山高帽子です。昨日もこの帽子を被りましたし、結構重宝に使っています。帽子を被ると少し外出気分が味わえるし、少しお洒落な感じがして嬉しいものです。要はこれらのお気に入り帽子をどこかに置き忘れないことを肝に銘じなければなりません。私にとって帽子は今や時計、免許証、携帯電話、財布とともになくてはならない5つの外出携帯品なのです。

  「帽子何処 いつも妻聞く そこら辺 答える声の 向こうに吊り下げ」

  「孫が聞く どうして帽子 被るのと そんな理由 あるはずもなく」

  「忘れ物 拝借帽子 二十年 よくぞ被った もう時効かも」

  「日除け帽 お洒落帽子と 作業帽 俺の帽子 何と数ある」


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