shin-1さんの日記

○近いうちにいっぱい飲もうや

 私たちまちづくりや社会教育に携わる者は決まったように久しぶりに会うと別れ際「近いうちに出会っていっぱい飲もうや」とあいさつ代わりに言葉を交わして分かれるのが普通のやり方です。「何時」や「誰と」、「何処で」という細かい打ち合わせもないのですから口から出任せといった感じでしょう。例によって先日大洲青少年交流の家での研修が終った別れ際、その余韻を引きずったまま玄関に見送りにきてくれた担当職員と「近いうちにいっぱい飲もうや」と言ったのです。相手の先生も同調して「近いうちにいっぱい飲みましょう」で握手をして分かれました。何日かして私のメールにその先生から「先日お約束の飲み会の件なのですが、何時がよろしいでしょうかお返事を下さい」と入ったのです。慌てたのは私の方でそういえば別れ際「近いうちにいっぱい飲もう」といっことを思い出しました。メールが入って何日かして再び催促のメールが入りました。「やばい」と思って日時を設定しようとしたのですがあいにく日程が積んでいて中々取れなかったのですが、数日前に相手の都合で講演がキャンセルとなったので、相手にメールを送り、今日の夜の飲み会となったのです。その職員は東京から来ている人で気真面目な人なので真に受けたのでしょうが、お陰で所長以下8人もの職員と飲む機会を得ました。でもその職員がいなかったらこんな楽しい集会はなかっただろうと、ほのぼのとした気持ちで帰って来ました。

 今日の話は青少年の家の職員だけあってみんな真面目で、それなりの資質を持ち合わせているため随分盛り上がった酒盛りとなりました。私がつい最近青少年交流の家のお手伝いをする機会が多くなったこの2年間は職員との付き合いも自然と多くなり、気心は知れてると思っていましたが、飲み会と研修会は別の世界で日ごろ聞けない話をお互いが話し込み、時には自分の座る場所を変えて話し込んだのです。

 今日の飲み会で私は2つの約束をしました。相手はみんな酒を飲んでいて明日になると忘れるかもしれませんが私は3時間以上もウーロン茶で頑張る素面なので忘れませんからどうぞご安心ください。

 まずひとつは大洲青年の家時代(今は大洲青少年交流の家)、青年の家から双海町の役場へお嫁に来ている原木の置物を里帰りさせるプロジェクトです。この話は書くと当時の職員を傷つけることになるので書きませんが、とにかく双海町の役場、今の伊予市双海町支所のロビーに置いてる原木の置物を元の置き場に返すことなのです。このことを知っているのは私と元町長だけだし、役場も合併をしてその役割を終わっているので、私個人としては返そうかという気持ちになりつつあります。元町長との打ち合わせも残っているのですが、その説得は私がするので、まず事業課長さんに手紙を書くよう勧めました。今年度中に処理したい目標を立てているのでこのプロジェクト事業はまあ70パーセントまで可能だと所長さんに話しました。

 もう一つは4月中に人間牧場で今日の集会の第2ラウンドをやることを決めました。担当の窓口となる職員も決まり早速日程調整しなければなりません。私の人間牧場へ来たいという人は順番待ちの状態で青少年交流の家の職員の順番はまだまだ先のことでしたが、願望は順番を狂わせます。飲み会の盛り上がりで結局は承諾してしまいました。ただし私の人間牧場へ訪ねてくる限りは今よりグレードアップした進化の後が見えない人は来るなといっていますので、多分その気持ちでやって来ることでしょう。そのためには私個人も目標を持って進化しなければなりません。「人は人によりて人となる」という言葉のように、いい人に巡り会ってこれからの人生を豊かなものにしたいものです

  「夢語り 人生までも 語りかけ 飲むほど酔うほど 自分高まる」

  「ああ俺も あんな時代が あったっけ 若さはみ出し 議論吹っかけ」

  「約束を 二つも引き受け 素面にて 忘れたなどと 言い訳できぬわ」

  「好きになる 相手も私を 好きになる そこから始める 会話の一歩」 

 

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○高知県仁淀川町ルポ④ 学び

 最後の訪問地はやはり橋でした。仁淀川町には歴史的建造物、いわば近代化遺産といわれる橋が2つありました。一つは珍しいアーチ型の沈下橋です。私も四万十川周辺で幾つもの沈下橋を見てきましたが、規模は小さいものの珍しい形です。自然の石を橋脚に生かした橋はコンクリートながら幾度もの水害に沈みながらも丸みを帯びて自然に近い形に収まっているのです。

 

 そして下流に目をやると川の中には大きな石の塊がゴロゴロと無造作に並んでいました。

 一方少し下流に下るとレンガ造りの橋脚とその後補強した橋脚が並ぶ橋を見ました。ここが旧吾川村の中心で今も仁淀川町の中心と鳴っています。この橋は代替橋がその横にあって、この橋の上では日曜市のような場所として賑わいをなしていましたが、今はその面影程度のようでした。

 

 さていよいよ長かった町内視察も終りいよいよ本題の講演会です。昼間の集会にもかかわらず沢山の方々が中公民館3階ホールに集まっていました。話のテーマは地域資源を活かしたまちづくりですが、私の町と同じようにここも中山間地域の厳しい現実の中でのまちづくり、結局は知恵を出し行動を起していかない限り地域の発展は望めないということです。そのためには負け組みというあきらめ意識を捨て、町にも自分にも潜在能力があると信じることです。そしてまず学びから始めることです。田舎の悲劇は学ばないことです。学べば気付き、何が問題で何をすればいいかが分ってくるのです。合併によって生まれた仁淀川町を愛し、町をいい方向に導く努力なしにいい町はないのです。さあ今日から学びましょう。長者のイチョウの樹が教えてくれました。結局は行き着くところ人であることを・・・・・。

 追伸

 旧仁淀村の旅館で交流会をしました。今までの視察でも講演会でも話せなかったことをみんなで話しました。嬉しいことに若い人も集まりました。途中から高知大学の坂本先生も加わり、次の希望が見えてくるような話がどんどん出ました。また私がその日のうちに帰って書いた教育長さんを紹介したブログ記事に隣町久万高原町の渡辺さんからメッセージもいただきました。偶然でしょうが大分県の渡辺さんとも電話で仁淀川町のことを話しました。二人の渡辺さんを次は案内したいものです。

 高知県にはよく似た川に四万十川があります。残念ながら仁淀川沿線の人たちは、四万十川沿線の人より一歩も二歩も遅れています。十年後の仁淀川が四万十川にはもう既に取り組みとなって成果を出しています。遅れていることは目標があることですから何も心配することも卑下することもありません。気が付いたときに気が付いたことを、気が付いた人がやるのがまちづくりです。今回の学集会で一番にいい学びをしたのはひょっとして担当した西森さんではなかったのかなと内心思って、仁淀川町のルポの筆を置きます。

  「いい人に 会って色々 教えられ 俺も育った あなたも育つ」

  「偶然か 渡辺ふたり 海と山 音信通じ 仁淀川発」

  「若い子が 俺の撒き餌に 食いついた さてどうするか 町の外向き」

  「まちづくり ガラスコップの 共磨き 外を磨くは 外の日となり」

 

 

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○高知県仁淀川町ルポ③文化物語

 昼食をした場所は廃校になった学校でした。「何で廃校?」と思わせるほど立派な学校が、生徒数の激減でついには廃校になった現場をこの数年間嫌というほど見てきました。豊かさを追い求め続けてきた田舎の終着点がこの有様です。今開かれている国会では時あたかも格差国会などと言っていますが、議論の中にはこんな小さな田舎町の学校の苦悩など知らないのか誰も口にしません。でも学校が廃校になり地域のコミュニティが音を立てて消えているのです。先日の新聞だとこれから10年かで1800の集落が日本の各地で消えるそうです。信じ難い話ですが現にこの仁淀川町だって高齢化率は限りなく50パーセントに近づこうとしているのです。高齢化率50パーセント以上を限界集落というのですが、この町は限界町なのです。小学校が消え高校までもが消える運命にあるのです。

 でも嬉しいことにこの地域では地域を愛する人が立ち上がり屁のツッパリと言われながらも学校跡を整備してもらい、校区のみんなが集落合併をしてこの学校跡を生かして使っているのです。卒業生にとって学び舎がなくなるのは心の港を失ったような空しさです。また周辺に暮らしている人たちにだって学校は心のよりどころなのです。かつての校長室は食堂と村の飲み屋に生まれ変わり、教室は宿泊室になりました。開業以来2年弱で2千人足らずの宿泊客のようですが、赤字になることもなく細々ながら経営を続けている姿に大きな拍手を送りたいと思います。村の茶の間を充実するために囲炉裏部屋を作っていました。

 外には大きな水槽が二つ置いてありアメノウオが人間様に食べられる前の束の間を日向ぼっこしていました。

 それにしてもお昼に食べた芋の煮っ転がしや手打ちそばの美味かったこと、何よりのご馳走でした。

 校舎の一室にはこんな怪しげな看板があり、番外編で最初に書いたNASAも認める教育長さんの研究室がありました。壁には在りし日の学校を彷彿するような花いっぱいコンクールの表彰状や卒業写真が一杯飾られていました。特に花いっぱいの賞状は私の町も何枚かもらっているので特に興味を引きました。施設の片隅にはその名残の石碑まで建っていて、これこそ文化だと思ったのです。「文化って何?」と訪ねられたらあなたはどう答えるでしょう。文化会館や東京発の文化を連想する人が多いかも知れませんが、私流に言わせれば「文化とは人間がよりよく生きるために考えを形にする営み」だと思うのです。この施設にはそんな文化が一杯詰まっています。是非田舎流の素晴らしい文化を残して欲しいものです。

 私たちの一行は長者という集落へ行きました。長者のシンボルとでも言うべき樹齢千年といわれるイチョウの大木に出会いました。息を呑むような木霊宿る巨木でした。残念ながら風説の重みに耐えて少し傷んでいましたが、年月を超えていき続けているこの樹には自然治癒力があるから大丈夫なのです。それにしてもこの地にしっかりと根を下し村の生き様をじっと見続けてきたイチョウの寿命に比べると人間のたかだか100年の寿命なんて端数ほどなのですから大きな顔はできないのです。

 妙案その1  まず長者棚田の地図を3枚作ります。持ち主現状地図1枚、耕作現状地図1枚、夢地図1枚を用意します。勿論役場で造ってもらった素図を使ってその地図作りはみんなの手でやります。そうすれば現状と夢のハザマにある問題点が明らかになります。夢地図は区分けをして担当を決めます。夢の実現はみんなではなく俺の役割を明確にしなければ実現しません。

 妙案その2  金と人と物を試算します。この試算がないと絵に書いた餅になります。今はその気名なればこれだけ文化的価値の高いものですから、国や県のお金を投入することは可能なのです。人も長者だけでは高齢化しすぎて力もなく、諦め過ぎていて知恵もなく何の役にも立ちません。悪口や足を引っ張るだけの人はもういらないのです。高知大学にお願いして大学生を毎年草刈十字軍なんて組織するのも一考です。

 妙案その3 役場の力と外の知恵を借ります。役場にとってもこの文化遺産を守ることは大きな仕事のはずですから、町長さんや議員さんも口だけではなく汗もかいてもらわなければなりません。外なる知恵は情報発信で十分やれます。

 妙案その4 シナリオづくりと経済効果への誘導をすることです。どんな素材でどんな人にどれだけ来てもらいどんな経済効果が期待できるのか、農協も役場もみんなで考えれば出来ることです。長者の片隅に小さな良心市がありました。もう既に心ある人は経済をやっています。農協のいり口で鮮魚を売っていました。農協も経済をやっています。やらないのは役場だけです。

 まあ色々な手法がありますが、三人寄れば文殊の知恵です。

(山の上にある珍しい池、隕石が落ちたと伝えられている星が窪、昔は近郷から沢山の人を集めて競馬が行われていたようです)

(星が窪の池の近くで大きながま蛙を見つけました。折からの陽気に誘われて冬眠から覚めたのですが、寒波襲来で動くに動けずじっとしていました。)
(星が窪から見える向こうの山には他所の町の風車が沢山見えました)

(澄み切った冬空の向こうに石鎚山が見えました。また反対側の山の頂上には石灰岩を掘り出す日鉱の現場も見えました。須崎までベルトコンベアーで運ばれ船積みされるのだそうです。日鉱のお陰で長者にはアパートが建ち子どもも長者の学校に通っているようです。日鉱がなければどうなったか。印象的な言葉でした。)

  「石垣の一つ一つに 汗と知恵 先人生きた 苦悩の歴史」

  「文化って? 聞いてあなたは 何思う 思わず腕組み 言葉すら出ず」

  「このイチョウ 村の歴史の 生き証人 笑われてます 知恵がないわい」

  「地図上の 等高線を 見てるよう 起伏激しい 空まで上りぬ」



 長者の自慢は石垣積みの棚田です。昔は美田として脚光を浴びたこの棚田も耕作放棄地が毎年増えて、保存運動に取り組んでいる心ある人の心を痛めているようです。唐突に同行した地元出身の人に何か妙案はあるか」と尋ねられました。

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○高知県仁淀川町ルポ②・水物語

 かつて33号線を行き交う旅人は幾つもの峠を越えたものです。難所といわれる峠や辻々にはその痕跡のように旅の途中で行き倒れになったであろう人々の霊を慰めるお地蔵さんや、次の宿場を示す「○○まであと○○里」と書かれた道標が往時を偲ばせるようにひっそりとありました。高速道路が川之江ジャンクションを越えて南国方面へ開通してから33号線は国道改修が進まないことや風水害で通行止めになることから、スピード時代から見放され通行量は激減しました。当然旧吾川村の国道沿線にあったドライブインは軒並み潰れ、あっても開店休業状態のようです。橋が出来、ダムが出来てここならと思われる眺望のよいスポットにドライブインを構えれば観光客が立ち寄って儲かったのは過去の話で、今はそんなスローな旅をする人は殆どいなくなりました。「せまい日本そんなに急いで何処へ行く」と言ってやりたいような心境ですが、今度の仁淀川町への旅でしみじみそのことを思い知らされました。私が訪ねた早朝と帰宅した夜は車の数がここまで減少するのかと思うほど車に会わなかったのです。特に大型自動車は見る影も殆どなく、その結果私は仁淀川町から驚くなかれ僅か1時間半で帰宅してしまったのです。むしろ高速道路を走らない方が早くて安全で安いという珍現象なのです。世の中は高速道路や交通機関の普及によって近くて遠い、遠くて近いじだいになっているのです。

 かつては高知行き、松山行きの定期バスや観光客がトイレ休憩地として使っていた場所もかつての賑わいはありませんでした。その底流所の上に一際目に付くこぶしの樹を見つけて休憩しました。この花も前述の桜と同じように人知れずひっそりと咲いていたのが印象的でした。

 講演なのに出かけて時々ギョッとすることがあります。会場の入口に手づくりの看板が立っていました。先日関アジ関サバで有名な今は大分市と合併した旧佐賀関町へお邪魔しましたが、町のいた所に私の名前を書いた看板がやたらと置いてありました。聞くところによるとこれは私の知人で八幡浜出身の料理屋のご主人が書いたそうなのですが、その上手いこと惚れ惚れするような看板でした。その看板には「まちづくりの鉄人来る」なんてこれこそ看板倒れのような文字がズラリ並んでいました。訪れた鹿児島県宮之城町では町のいたる所に「ウォンテット」(指名手配)なるポスターが沢山貼ってあったこともありました。でもこうして人を一人でも多く集めようと頑張る主催者の心意気は見上げたもんだと思いました。看板を書かれたどなたかに敬意を表します。教育長さん、この方の給料を少しでいいから上げて下さい。それも駄目なら一杯ポケットマネーで飲ませてあげてください。

 この地でも、先日鳥取県大山町の町長さんとのお茶の話しをしました。お茶を出してもらった女性の気配りでその町の印象は決まるといっても決して過言ではありません。お茶の町を標榜するこの町も残念ながらいいお茶は出ませんでしたがお茶を出された女性は気配りの出来る人とお見受けしました。案の定私の直感は当たり私の元へ早速メールを送ってくれました。

 さあ、小型のマイクロバスに乗って町内見学です。地域の人とともに池川町の安居渓谷を目指しました。途中小説家宮尾登美子さんが若い頃赴任していたという小学校が川の向こうにありました。同行した地域の人から当時の様子を雑談的に聞きながら奥まった渓谷美を誇る公園に着きました。案内人の総合支所長さんとともに車を降りて川沿いに歩き飛龍の滝まで歩きました。川の水は何処までも清らかで岩肌を縫うように流れる清水はマイナスイオンの塊を全身に受けるような心地よさでした。冬の季節なので山は殺風景でしたが、その分山水画の世界は広がり、新緑と紅葉の季節を連想しながら進みました。山の吊橋、小さな小さな沈下橋、石の上を歩く感触は生きていることの確かさを伝えてくれました。



 

 突如として視界の中に彫刻が見えてきました。自然の反対を不自然と言うのでしょうが、私には文字通り不自然に見えました。



多分自然を求めてやって来る人にとってこの彫刻は私と同じく不自然に見えるのではないでしょうか。一瞬何処かの宗教団体を思い出しました。地元にとっては名のある彫刻家かもしれませんが、もっと別な場所に置くべきではないでしょうか。こんな立派な彫刻だから毎日見てもらえる役場周辺に置くことが望ましいと感じたものですから、失言承知で書きました。もしこの地に置くのなら、しっかりとした物語を作り、「乙女の像」に相応しい見方を考えなければなりません。十和田湖のほとりに高村光太郎の乙女の像があるのを思い出しました。見せ方を工夫しているので違和感なく自然に溶け込んでいました。要は見せ方なのです。世の中にはミスマッチが沢山あります。良かれと思って置いたゴミ箱も公園の風景を台無しにしたりすることだってあるのです。美的感覚のない景観はかえって自然破壊につながります。山の上から隣町の風車を遠望しました。風車はクリーンエネルギーですからこれからの時代には必要でしょうが、無秩序とも思える風車の乱立は、原風景を台無しにしてしまうのです。結局は「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」のですから、気が付いたら何とかすべきでしょう。プラスもまちづくりマイナスもまちづくりなのです。公園の一角に子どもの遊具を整備していました。これもミスマッチかも知れません。

 それにしても飛龍の滝は素晴らしいの一言です。滝の落差も滝口の大きさも、歩いて行くがゆえに感動物でした。探検家が滝を登ったそうですが、私もインストラクターの案内であの滝を登ってみたいと思いました。

 結局水は源流に行き着きます。水を考えるのは木の存在や四季の巡りを考えなければなりません。都会の人が憧れる水がこれほど自然にあることを田舎者は当然あるものと考えがちです。水を使えば面白い、そう直感しました。

  「この水が 海に流れる 不思議さよ 何処を巡って 俺が海まで」

  「看板の 一つに工夫 凝らしたる これぞ手づくり 今日はいい会」

  「こぶし咲く 山里長閑 峠道 地蔵腹巻 供えし団子」

  「いいことと 思ってやった ことなのに なるほどこれは ロダン彫刻」



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shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ①・橋物語

 高知県は太平洋に面して足摺岬と室戸岬がまるで両手を広げたように位置しているため海の県だと思われがちですが、愛媛県と徳島県に接する県境辺りでは山が深く、山また山、谷また谷の感じを強く持ちます。昨日仁淀川町の依頼で地域活性化講演会に出かけました。伊予市から砥部町を経由して国道33号を久万高原町から行く最短距離のルートを走りましたが、旧柳谷村を越えればもう仁淀川町なのです。旧吾川村に入ると山や谷を縫うように仁淀川に沿って走るのですが、川の途中にはダムや発電施設が幾つもあって、湖の側を通るような錯覚すら覚えるほど仁淀川町は山の町であると同時に湖の町でもあるのです。吾川に入るとまずカラフルないくつもの橋が目に飛び込んできます。「あの橋の向こうにはないがあるのだろう」と考えるだけでワクワクしますし、いつかはあの橋を渡って訪ねてみたい頭の中はもうメルヘンタッチです。私の今回の仁淀川町ルポの1ページはこの橋物語から始めることにします。

 

最初に目に飛び込んできたのは赤い橋でした。橋の種類は後ほど仁淀川町の担当者に聞くとして話をすす進めますが、さすが川の町だけあって橋があるわあるわで、橋を見るツアーでもしたら凄い観光になると直感しました。そのためには橋の由来と建造年月日、それにまつわる古い話や古い写真、それに一年中で一番美しいとされる季節や撮影スポットを調査研究して、「仁淀川町橋物語」という一冊の本を刊行すれば観光に役立ちます。私独特の駄洒落で「刊行・観光」です。さらにこの刊行本を利用して橋巡りをするといいのではないかと思いました。私は去年の6月から12月まで四万十市旧西土佐村の集落講演会に20回も日帰りで出かけました。往復250キロ、合計5000キロの旅をしたのですが、最初に訪れた玖木という地区でこの話をしたら、早速自分の集落を見て回ったそうです、。この集落には橋が20を超えてありました。勿論小さな沈下橋もありました。結局春と秋の2回小さなことから始めようと「玖木橋巡り」という小さなイベントをやりました。のうかのおじちゃんやおばちゃんが餅をついたり藁草履を作ったり、コンニャク作りにも挑戦してそれは面白いベントになりました。橋はあるだけなら橋でです。橋を使うのは一休さんの知恵でしょう。


(普通橋は水平にかかっていますが、この橋は愛媛県側から見ると坂道のように傾斜があり面白い話題のようです)

 そんな目で見ると仁淀川町の入口から出口まで立派な橋がやたらと目に付きますし、橋を取り込んだ周囲の景観はほらこ通り素晴らしい一枚の絵になる風景なのです。この日は戻り寒波の影響で風が強くて立っておれないほどの強風でしたが、そのことが一層湖を美しく見せて茶畑を近影にした景色はまるで去年訪れたカナダのロッキーのようでした。

(ダム湖では無表情なコンクリートの塊さえ長年の自然の営みによって見事な風景を作りあげているのです)
 この日は9時半に集合して午前と午後の5時間余り、合併した旧池川町、旧仁淀村、旧吾川村の観光スポットを見る予定だったのですが、私は少し速く家を出て、集合地の仁淀川中央公民館へ行く道すがら旧吾川村と旧仁淀村を自分だけで少し歩いてみました。まず目に付いたのは国道の下にある高校でした。多分少子化や過疎化の進むこの地での学校存続は難しいと思われるそのままの風情で、人影もなくひっそりと静まりかえっていました。聞くところによれば定員割れ、数年後廃校予定だそうですが、跡地利用も含めて遅過ぎる行政の対応が中山間地の苦悩を物語っているようでした。

 国道33号線の看板に旧仁淀村とあったので、懐かしさに誘われるまま右折しました。



しばらくすると一本の桜の木が目に留まりました。この山深い地には一足早く春がやって来ていて、大島桜のような淡い白色の桜が咲いていました。時折通る車は多分この地に住む人だと思うのですが、朝の通気時間帯ゆえか、それともそんな余裕がないのか桜を愛でるでもなくスピードを上げて通り過ぎてゆきました。猫に小判かもしれません。

 

 この村にはひょうたん桜という銘樹があります。できれば「桜物語」も考えられるストーリー、全山を埋め尽くす界隈の桜は是非散策したいものです。今回は残念ながらひょうたん桜に面会することはありませんでした。旧仁淀村には2~3度仕事で来ています。その時は村役場の案内で訪ねましたが、その時は気付かなかった二つの沈下橋を見つけました。高校のいり口辺りでしょうか、町営通学バスが高校生を降ろしていました。側には幾つもの橋が架かって沈下橋はまるで役目を終えたようにひっそりとした佇まいを見せていました。かつては村民の生活を支える大きな役割を担っていたであろうにと思うと、栄枯盛衰の時の流れを感じ悲しくなりました。

(この橋はどこか風情があります。残しておきたいスポットです)


  「この町に 幾つ橋ある 指を折り 数えてみたが 数え切れずに」

  「仁淀川 川は庭石 展示場 一つ欲しいが 持って帰れず」

  「四万十が 母なる川なら 仁淀川 父なる川と 呼びたいほどに」

  「四万十を 最後の清流 呼ぶのなら 仁淀最初の 清流呼びたい」

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shin-1さんの日記

○400年の進化論

 昨日は吾川村・池川町・仁淀村が合併して誕生した仁淀川町にお邪魔しました。町内視察を昼食を挟んで5時間ばかりやった後講演会を1時間半、30分移動して旧仁淀村の旅館で懇親会を持ちました。役場や教育委員会に勤める若い職員も飛び入り参加してそれは賑やかな交流会となりました。高知の人は「飲み倒れ」といわれるように、酒が入るとにかく夜が元気です。酒の飲めない私でさえウーロン茶でよったような錯覚になり、3時間近くも飲み会に付き合いました。その席上10人ほどの人それぞれに興味深い話を聞きましたが、教育長さんの話はとても興味のある内容で、仁淀川町のルポよりも先にその話を紹介したいと思います。この教育長はパソコンを学校で習っていない昭和29年生まれなのですが何故かデジタル通で、特に日本ではここだけしかない土星や太陽の観測所を廃校になった一室を使ってやっているのです。それはNASAが注目したりするほど専門的な分野で、町内視察の折にお邪魔しましたが、金をかけずにパソコンなどを使って観察を続けているのです。どうもこの学校のある位置が東西に方向にあることや、すり鉢の底のようで要らぬ電波が入らないことなどの条件を満たしているそうで、先日も太陽からなのデジタル波が異常な動きをしたのをキャッチして地元新聞で話題になったというのです。

 彼は俳優の安宅伸?を彷彿させる男前な風貌をしたダンディ男性なのですが、この教育長から「ヘーえ」というような驚くような話を聞きました。彼の家は高知の人がその地域を空と呼ぶような山のてっぺんにあるため、小学校3年生まで電気がなくランプ生活だったそうです。昭和19年生まれの私の家も今も変わらぬ貧乏さんでしたし、未だにクーラーもない(ちょっと自慢しますが一昨年一部屋だけつけていますが、クーラー嫌いな私は使ったことが殆どありません)生活をしていますが、生まれた時既に電気だけはついていたようです。

 彼は太陽が昇ると活動を開始し太陽が沈むと寝るといった自然の摂理に合った少年時代を過ごしたようですが、電気がないためお風呂の焚き口に座り燃える薪の火灯りで本を読んだそうで、二宮金次郎や蛍の光窓の雪の歌詞を思い出すような話でした。

小学校3年生の時電気がついたそうですが、電気の明るさやテレビの存在に目を見張った少年の驚いた姿を垣間見るようでした。以後都会に出ましたが家族の懇願にあって帰郷し遍歴を経て今の職にありますが、私の62年の生涯における進化と比較しても、いわば小学3年生をゼロにして始まり、土星や太陽のデジタル観測が出来る現在までのハイスピードな彼の進化は、江戸時代の人に例えると400年もの年代を一気に40年余りで駆け上がった計算になるのです。彼は自他共に認める町内きってのデジタル通で、進化しているはずの役場のどの職員よりも遥かに進んだデジタル技術を持っているのです。

 多分彼の進化曲線の伸びで推計すると私や役場の人の進化曲線の伸びで推計するどの人よりも進化のスピードが速いのですから、進化500年なんてことも夢ではないかもしれないと想像してしまいました。

 数年前まで田舎は都会に比べ時代遅れだと誰もが思っていました。東京で起こった出来事は電波や活字となって私たちの所へ届くのですが、時には長い時間をかけないと山里や山間僻地には届きませんでした。今の時代も景気回復などある面では都会との格差があって都会に比べ遅れた感じもいなめませんが、それでもデジタルの普及が情報格差をなくしてくれ、その気になれば彼のように田舎にありながら一歩進んだ生き方が出来る時代になったことは喜ばしい限りだし、その気になれば田舎にいても都会を相手に進んだ仕事が出来るのです。

 田舎は彼のような進んだ人もいれば、未だに車に乗れない戦後と少しも変わらない歩いたり自転車に乗ったりしかできないスピードや、パソコンさえも縁遠い社会に暮らしている人がいたりと、格差社会は益々広がるばかりです。多分10年後には少しはこの格差は解消しているのでしょうが、都会と田舎、田舎の中央と遠隔地の暮しが平均化された現代社会にあっても、自らの高い目標とそれを手に入れる努力をしない人の間には益々格差は広まってゆくものと思われます。

 或る講演先で「ブログ」のことを話したら、チンプンカンプンの人が殆どでした。2年前の自分を見ているようで、笑えない笑い話となりました。

  「ブログって 何と尋ねる ある人に 苦笑しながら かじり知識を」

  「へえー凄い こんな田舎に NASAがある 驚き見張る 宇宙の電波」

  「四百年 一気に進化 この男 只者でなし 学ぶことあり」

  「人は皆 得意個性が あるものだ 武器はあるのに 戦もせずに」

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shin-1さんの日記

○男の厄年

日本人の一生にどれ程の厄年があるのか分らぬまま過ごしている私にとって、これまでの人生の中で意識した男の厄年は42歳と60歳の2回でした。厄年には前厄・本厄・後厄というのがあるそうですから、二つの厄年だけでも都合6回も厄年を経験した計算になります。世の中にはこうした厄年を邪気として受け止め、神仏に救いを求めようとしている人が大勢いいて、とりわけ同級生や妻はその都度私の厄年を気にしてことを起してくれました。私には地元の小中学校を卒業した同級生が90人ほどいます。団塊の世代の少し前の昭和19年に生まれているため人数的には決して多い方ではない年代なのですが、それでもあんな小さな下灘村に生まれても2クラスあって、今の少子化が信じられないくらい近所には沢山の同級生がいました。厄年が近づくと必ず御幣担ぎの同級生がいて、厄年の同級会をしないかと誘ってくるのです。多分それは先輩たちがしてきたことを口伝えに聞いてきたから、自分たちのクラスも当然すべきだと思っているからではないかと思うのです。その言いだしっぺに限って同窓会の発起人会には名を連ねてはいるものの、決して自分から神輿を上げず、私のような役場に勤めている人間に白羽の矢を立てて、名簿の作成や案内状の作成、更には当日の準備や運営などを頼むのです。断る理由もない私はその都度忙しい仕事の合間を縫ってそれらをこなし、結局は会費以上の足が出ると自分で残金処理をしてまで同級会の面倒を見てきたのです。

 42歳はそんなこんなでもう随分昔のことになるので余り覚えていませんが、菊間のお寺さんに厄落としのお参りに出かけたことや、厄落としに「町に吹く風」という自著本を出版したことを覚えています。でもその時初めて自分が42歳になった自覚をしましたし、次なる60歳の還暦に向けてとにかく病気をせず頑張ろうと思ったものでした。

 あれから18年が過ぎ数え年ですから3年前、まあ何とか無事に還暦まで生きて来れたのです。そして3年前同級会を盛大にやって、自らの厄年を祝いました。同級生の中には既にこの世にはいないものまでいたり、自分の連れ添いを亡くしたり病気になって看病の日々を過ごしていたりと人生それぞれの近況を風の便りに聞いてきました。若いと思っていた私も今年の10月には63歳を迎える熟年期となって、健康への誓いを新たにしている所です。

 昨日は西予市皆田という地区で行われる厄年講演会に呼ばれました。この地区では人生のそれぞれの厄年を祝う風習があるようで、集会所の会場には紅白の幕が張られ、講演会終了後は手料理で懇親を深めるという手の込んだ催しでした。集会を主宰した市役所職員の松本作幸さんとは公民館職員時代の旧知の間柄であり、2ヶ月前に電話がかかり引き受けることにしたのです。この日は前日からの鳥取県大山町の生涯学習推進大会に招かれていて日程的に無理だったのですが、大山町の集会を日帰りでこなしたため実現しました。

 皆田地区は真面目な田舎なのでしょうか、会場は参加者でいっぱいでびっくりしました。昨日は春2番が予想されるような南の風が吹く早春とは思えぬポカポカ陽気で会場内は熱いくらいの熱気に包まれていました。厄年講演会なのに「地域の活性化」がテーマなのもまた田舎らしいと感心しました。

 昨日遅く帰った私を気遣って妻と孫が同伴してのちょっとした遠足気分の集会は、私自身の人生をちょっと立ち止まって考えるいい機会になったようです。

  「旧友に 頼まれ厄年 集会に 楽しい喋り 花を沿えつつ」

  「久しぶり 見覚えある顔 次々と 控えの部屋に 笑い声あり」

  「あの人の 近況卒中 倒れたと 聞いて悲しや 厄年集会」

  「ああ俺も そんな年齢 迎えたか 人の歳聞き 自分の歳知る」


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shin-1さんの日記

○鳥取を旅する(大山町)

 昨年の9月頃から鳥取県の市町村を軒並み訪ねる旅をしています。昨日は3町が合併して出来た新生大山町の生涯学習推進大会に招かれ、すっかり見慣れた鳥取への道をただひたすら自家用車で走り続け、5時間余りで会場となる旧中山町へ午前11時に到着しました。旧中山町へは今回が3度目だそうですが、大山の裾野に広がる肥沃な台地は梨やブロッコリーなど農産物が豊富だそうで、職員さんからいただいた名刺にはちゃんと観光地と特産品が細かい文字で紹介されていました。勿論町長さんの名刺も同じようなデザインで、控え室での話はもっぱらその話に花が咲きました。

 どの町へ行っても最近は日本茶かコーヒーが出ます。案の定大山町でも女性職員さんが美味しいお茶を入れてくれたのですが、名刺に刷り込んだ特産品の欄に紅茶と書いてあるのを目ざとく見つけました。緑茶と紅茶は減量が一緒なのですが製法が違っていて紅茶は発酵させて作るのですが、紅茶といえばリプトンのティーパックというイメージが強過ぎて、紅茶を日本茶のように入れるのは馴染みが薄いようです。談義の過程で町長さんが「大山町自慢の紅茶は置いてないか」確かめたところ買い置きがないとの返事でした。町長さんは開会のあいさつを終えたら直ぐに遠出の出張だそうで、係りの人にわざわざポケットマネーを渡し、紅茶を買ってくるよう指示しました。そして「私はあいさつが終われば失礼しますが大山町の紅茶をお土産に差し上げますので飲んでみてください」と言って出て行かれました。余りにも早い決断と行動にあっけにとられた私は結局その言葉に甘んじて紅茶を土産にいただいたのでした。

 ふと昔同じような出来事があったのを思い出しました。今は久万高原町に合併して自治体はなくなった美川村へ講演に行った時のことです。美川村の入り口には「スキーとお茶の町」という立派な看板が目につきました。役場に入って応接間に通されましたが、出されたお茶は残念ながらいいお茶ではありませんでした。対応に出た村長さんが「この村はお茶が自慢です」と言うのです。私は「村長さん、そんなに自慢のお茶は余程美味しいのでしょうね。これは提案なのですが、自慢のお茶だと言うのであれば村役場に来られた人に、少しお金が要るかも知れませんが美味しいお茶を出されて宣伝をしたらどうでしょう」と話しました。村長さんはいたく心を動かされてそれ以来お茶の入れ方を職員に勉強させ、お茶の薀蓄を語って販売量が随分増えたという話を後にお聞きしたのです。結果的には昨日の町長さんと同じように高級なお茶を手土産にいただき恐縮(妻は失礼なしたたかさだといいますが)してしまいました。

 日本全国にはお茶が名産の市町村は多いようですが、何故かそんな市町村へ行っても美味しいお茶は出てこないばかりか、何処の国のものか分らないコーヒーを出して平然としている役所の職員が多いようです。特に日本茶はその入れ方によって味がぜんぜん違うのです。お茶を出せばそれで接遇は終りという間違った考えを捨てて、お茶の町ならお茶のソムリエを養成するくらいの気概で望むと話題になります。できれば「大山町は来客にコーヒーを止めて、地元特産のいいお茶でもてなす工夫した」という話題をニュースで振りまけばあっという間に有名になるはずです。これは面白いアイディアだと思うのですが如何でしょう。

 合併して誕生した大山町はバランスのとれたいい町になりました。観光の旧大山町、水産の旧名和町、農業の旧中山町が合併したのですから、伯耆町のお株を奪う鬼に金棒かもしれません。大山の裾野に広がる新しい町の第二ラウンドのゴングが間もなく鳴りはじめます。

 そんな思いを講演では話し、雪を被った伯耆大山が見たくて農面道路を走りながら国道に出て、峠を越えた雪のないスキー場を横目に一路しまなみ海道を走り、無事四国へ帰ってきました。

  「コーヒーを 飲めない私 紅茶好き 茶の町名刺 話題にしつつ」 
  「どうだろう 役場くらいは コーヒー止め 農家支援の お茶を飲んだら」

  「お茶濁す つもりで言った 茶の話 滅茶苦茶受けて お茶を土産に」

  「町長さん さすが直ぐやる 職員も 脳内革命 起してください」


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shin-1さんの日記

○雨過天声雲破処

 五年前に出版した私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の前書きに、雨過天声雲破処」(うかてんせいくもやぶれるところと読みます)という言葉を書きました。雨上がりの西の空に何ともいえないような綺麗な光景を見ることがありますが、それが北宋時代の皇帝が好んだ焼き物の色だと教えていただいたのは恩師からの手紙でした。昨日の6時ごろ孫と一緒にシーサイド公園へ夕日を見に行きました。晴れたり曇ったり雨が降ったりとすっきりしない一日だったのですが、夕方晴れだしたので単車に孫を乗せてひとっ走りしました。空一面は黒い雲に覆われているのに西の空が空いてきて、夕日が双海町の海や山や町を真赤に染めて沈もうとしていました。孫は「おじいちゃんあそこで見よう」とさっさと恋人岬の石のベンチを陣取って夕日を眺めていました。私は持ち合わせたデジカメで忙しく400mの砂浜を走り回りながら盛んにシャッターを切るものですから、孫にとっては何とも不満顔で、大きな声で「おじいちゃーん。おじいちゃーん」と呼ぶのですが、私にとっては千載一遇のチャンスとばかりによいアングルを探し回りました。シーサイド公園の景色はもうすっかり春で、私が秘策中の秘策、アイディア中のアイディアを駆使して造った恋人岬のモニュメントに夕日が沈む光景がやった撮れるような季節になりました。最高のシャッターチャンス日は3月22日春分の日なのですが、少し方向を我慢すればどうにか天体ショーの一部始終が見えるのです。

(夕闇迫るシーサイド公園の砂浜や海や突堤)
(夕日の観覧席に座って夕日を眺める孫朋樹です。町中がセピア色に染まりました)

(恋人岬のモニュメント辺りに落ちる夕日)

(夕日がモニュメントの穴にスッポリ入った風景)

(少し位置を変えてモニュメントの右端に造ったくぼみに置いた夕日)

(孫をモデルに砂浜の撮影会です。ちょっと絵になる光景です)

 この撮影が終わって直ぐに200メートル下手の突堤へ行き、違ったアングルで海に沈む夕日を撮りました。この日は最後まで水平線に沈んで、ダルマの夕日になりましたが、残念かな孫が突堤で転んで泣き出してダルマの夕日は撮影が出来ませんでした。それでも美しい天体ショーで、泣きべその孫ですら泣くのを忘れて最後の一瞬まで見ることが出来ました。

(残念ながらアップにすると手ブレが出てこんな写真しか撮れませんでした)

(水平線にかかった夕日)

(ダルマになる前の夕日)

(半円形の夕日。空も海もすっかり茜色に変わっていました)

 思いがけない早春の夕日に心を洗われ孫と再び単車に乗って帰りました。孫にとっても忘れられないのか、家に帰ると「あのねおばあちゃん。今日おじいちゃんとこーんな大きな夕日が産みに沈んだんよ。綺麗かったよ」と誇らしげに話すのです。海の近くに住んでいながら意外と見る機会の少ない夕日を見た思い出は潜在意識として、孫の心の中に残像として残るのでしょうか。4歳の孫にそんな期待は野暮かもしれません。

  「鼻歌に 夕焼け小焼け 歌いつつ 家路を急ぐ 孫と二人で」

  「長閑なり 平和だなあと 思いつつ 夕日眺めて 心癒され」

  「海と空 町まで茜 色してる 自然の力 何とて及ばず」

  「今頃は 地球の裏で 朝迎え おはようさんと 日の出拝んで」

 

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shin-1さんの日記

○自分の名前の記憶

 自分の名前は私が生まれた時、私の知らぬまま両親が何らかの願いを込めて付けてくれたものです。物心ついてからこれまでどれ程の数の自分の名前を書いてきたことでしょう。答案用紙の名前、持ち物の名前、ネームプレートの名前など数え上げれば切りがありませんが、役所や友人から届く封書やハガキ、メールにも自分以外の人が沢山私の名前を書いてくれるのです。

 私は「若松」という苗字も、「進一」という名前も自分では当然のことながら気に入っています。両親に感謝しつつも自分の子どもの名前の一騒動を思い浮かべるのです。

 私の子どもは私の名前の一字を取って頭文字にして一子(長女)・一心(長男)・一生(次男)・一公(三男)とそれぞれ名前をつけているのですが、特に長女はこの古臭い名前に随分抵抗しました。今流行の愛や舞など、漫画に出てくる名前に憧れていた少女時代には当然のことかも知れません。結婚して子どもが出来て、その子どもに名前を付ける頃になるとさすがにあきらめたのか、この名前も結構味があるなんて話してくれるようになりました。

 自分の名前で一番目に付くのは玄関に掲げている表札です。この表札は30年前家を新築した時、木調の杉の木に書家に頼んで書いてもらったものですが、30年の風雪に耐えたことを物語るように今は判読さえ難しい程墨字が消えかかっています。自分の体力と比例するなと先日しみじみと見つめました。昨日は自治会へ月一回の広報配りがあるので27人の組長さん宅に伺いましたが、特に町営団地などは仮住まいのこともあるのか、はたまた迷惑な訪問防止なのか玄関に名前すら表示しない家が増えてきました。表札も個人情報といえばそれまでなのですが、迷惑な訪問者は表札がどうであれポストの中にどんどんダイレクトメールやチラシを投げ込んで去って行きますが、私のような幼児のある訪問者にとっては表札もなく、ましてやポストは一括して一階の階段付近に部屋番号だけなので中々訪ね難いものです。

 私の名前には自分では殿も様もつけませんが、人様は殿や様をつけて敬称で書いてくれます。私の名前を最後に書いてくれるのはやはり葬式の時でしょうか。母親が死んだ時疎素式を終え、葬祭場へ霊柩車で運びお別れの焼香をして焼却される焼却炉の入口に、母親の名札が空しくかかっている姿が印象的に私の心の中に焼きついて、今も忘れることはできないのです。「ああ、私も最後は葬祭場の人は私の名札を書いてあそこに吊り下げるのかと思うと、何だか悲しくなります。でもそれが人間の運命なのです。

 何気なく書いたり、何気なく使っている自分の名前も、こうして思い返してみると、様々な場面を思い起こします。自分の歴史のひとコマ、ひとコマが自分の名前で成り立っているのです。入学式の日に自分の名前を呼ばれた記憶、卒業証書に書かれた自分の名前の記憶、新築した家に誇らしげに妻と二人で表札を掲げた記憶、全てが自分の記憶として思い浮かびます。

 しかしこの表札を見て最近気がついたことがあります。この家では私が世帯主ですから当然私の表札でいいのですが、はて当然でしょうか。この家は私と妻の共同作業で造りました。だのに何故に私の名前だけなのでしょう。これまで何の疑いも持たなかったこの辺にも、日本の男尊女卑が垣間見えます。今度新しく表札を作るときには妻の名前も入れたいものです。

  「表札の 名前気になる 男尊の 長い歴史が 女卑たらしめて」

  「名前付け 役場に届けて 六十年 若松進一 使い古して」

  「何気なく 使う名前の 当たり前 最後は焼き場 表札掛りて」

  「篆刻で 彫し名前の 印を押す 印影見つつ よくぞここまで」


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