shin-1さんの日記

○テレビ中継

 今日はテレビの仕事が二つ入って、少しバタバタしました。一方は南海放送の「水辺」をテーマにしたテレビ中継、もう一つはあいテレビの「キャッチあい」という番組のビデオ撮りです。いずれも顔見知りのディレクターから「人間牧場」がらみで出演を依頼されましたが、「人間牧場」がテレビに登場するのはNHKのお昼前番組で人間牧場からの眺めの写真がカットで出たのを含めると都合3回という事になります。最もあいテレビの番組は今月16日の放送だと言っていましたのでまだ正式登場ではありません。

 今日の南海放送さんの「おかえりテレビ」はシーサイド公園に中継車を置き、ハイビジョンカメラの映像に人間牧場と翠小学校界隈グリーンツーリズムの話題を二本からませ、スタジオとつなぐものです。スタジオにいる江刺アナや永野アナは旧知なので面白いと思ったのですが、夏休みのことゆえ話題やニュースも多く、残念ながら短いやり取りで終わってしまいました。それでも人間牧場のVTRはいい雰囲気で撮影されており、シーサイドの砂浜での小原アナとのやりとりも「まああんなもの」なのでしょう。それにしても短い時間ながらハイビジョンカメラに映し出されたシーサイドの海辺は、シリーズ「水辺」のテーマに相応しく、とても美しく夕景をお茶の間に届けてくれました。

 どうです。この小原アナとのツーショット、中々様になっていると思いませんか。私はリハーサルが大の苦手だという事をディレクターの三瀬さんに伝えていました。だってアナウンサーのようにまるでVTRを見ているような同じ事を二度も言えるほど記憶力がよくないからです。三瀬さんもその事を承知で質問事項を引き出すようなVTRを用意してくれていました。テレビは即反響があります。友人知人からわが家へは「今テレビを見た」「退職後元気そうで何より」「人間牧場は凄いね」などなど、各方面から電話が沢山かかり、食事の準備をしていた妻は、右往左往したそうです。

 南海放送の中継が終わって直ぐに下灘の駅に車を走らせました。下灘駅に着いたのは6時40分、水平線辺りに雲の多い夕暮れで美しい夕日は諦めていたのですが、何と何と次第に尻上がりによくなって、こんな美しい夕日を見ることができました。

 この夕日を見てふと20数年前にこの場所で見た夕日を思い出しました。NHKの「明るい農村」というテレビ番組を撮りにきたカメラマンが上灘駅と下灘駅を間違って降り、この夕日よりももっと凄いそれは美しい夕日を見て「この夕日は綺麗」と感嘆の声を上げたことが、夕日によるまちづくりをはじめたきっかけだったし、この場所を使った夕焼けプラットホームコンサートが第一歩だったのです。「キャッチあい」の村上ディレクターは自分でカメラを回しながらその辺をしつこく、さりげなく夕景をバックにカメラに収めていたようです。どんな番組に仕上がるか全てVTRなので今から楽しみです。それにしてもテレビの撮影や何人かの観光客(名古屋から夕日を撮影に来た人、若いカップルでツーショットを撮りに来た人、自主映画の撮影に来た人)で、日ごろ散閑とした無人駅は結構な賑わいでした。近所に住む顔見知りの早苗さんも駅の草刈などを自主的にやっていて、「下灘駅も有名になったもんじゃねえ」と話しこみました。

 取材や話や「済みませんがシャッターを押してください」という求めに応じていたため、すっかり自分のカメラの存在に気付かず、気付いた時にはまさに夕日が沈まんとする時でした。慌てて2~3枚シャッターを押しましたが、時既に遅しといった感じです。でも下灘駅からの美しい夕景をこうしてブログで配信できてほっとしています。

 下灘駅界隈は相変わらずの寂しさです。駅前の福井商店は店じまいし、無人駅の構内を鈍い街路蛍光灯が照らして一層ローカルな駅の風情を醸していました。夕景に浮かぶプラットホームや「しもなだ」と書かれた駅の看板は、フーテンの寅さんの映画そのままに夢の世界のようでした。

  「ラジオ向き 顔をしてるに 何故テレビ 出るのと言われ 寅さん同じ」

  「下灘の 駅から見える 夕景が 全てドラマの きっかけとなる」

  「日々同じ 場所に沈みし 夕日だが 一ヵ月後は 相当西に」

  「ねえおじさん シャッター押してと せがまれて えっおじいさんと 耳を疑う

 追伸 

 南海放送の三瀬さんが扇子と日本タオルをプレゼントしてくれました。大学時代に落研に所属していたらしく、人間牧場の高座用にと持ってきてくれたのです。扇子も落語家が使う白扇、日本タオルも松葉をあしらった染め物で本格的です。まちづくり高座も清水さんの鳴り物テープが届くといよいよスタートです。

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shin-1さんの日記

○本を読む木の家

 山を接した隣の町はもう内子町です。その内子町大瀬出身のノーベル文学賞作家はご存知大江健三郎さんですが、大江さんの作品に「自分の木の下で」という一冊の本があります。本屋で見つけたこの本は奥さんの大江ゆかりさんが挿絵を書いていますが、これが中々美しい絵で、特にP135から始まる小見出し「本を読む木の家」という部分を興味深く何度となく読み返しました。

 -そこで工夫が必要になるのです。私はそういう特別な本を読むための場所をつくりました。-

 -それらの果樹からわずかに抜きん出ているカエデの木があって、私は幹が幾股にも分かれているところに板をしき、縄で固

   定して、その上で本を読むことのできる「家」を造ったのです。-

 -さて私は、その木の上の本を読む家で、例の、なかなか読み続けられない本を読むことにしたのです。そうでなくても、一日に

   一度は、木の上の家の具合を調べなければなりません。その際には、この本を持って木に登る。そこでは他の本は読まな

   い。そうすると、いつの間にか、次のやはり難しい本に移ることができている。というふうになったのです。今私にとって、本を 

   読む木の家の代わりをしているのは、電車です。大人になると、これは大切な本だということが、経験によって性格にわかる

   ようになります。-

 -カエデの木に造った小屋で本を読んでいる私に、母親は畑を耕したり、種を蒔いたり、野菜を獲り入れたりしていながら、なに

  もいいませんでした。お隣に下宿していた女の先生が、あの上で居眠りして落ちると危ないから、とあなたのお母さんにいった 

  ら、あの子は自分であのようにしているのですから、と相手にされなかった、と憤慨していたほどです。しかし、カエデの木の周

  りは小さな石も拾って、柔らかく土をならしてあったように思います。-

 -そこで私はきゅうくつな小屋の床で体を折り曲げながら本を読み、しかしどうしても難しい本なので、すぐに目をあげて、川の

  向こう岸の林を眺めることになったのです。そしてほかのことを考えたのですが、それまで本を読んでいた頭の働きの続きで

  -走っていると、すぐにとまれないようにー日ごろ、自分の考えているやり方より、もっとしっかりしたかたちで、考えることがで

  きると思ったりもした。考えるというのは、つまり言葉で考えることなんだ、ということに自分で気がついたのは、その木の上の、

  本を読む小屋でであったことを思い出します。枝の木々の一本、一本がまっすぐ立っているのを眺めるのが好きで、-それが

  あったから、どうして木はまっすぐ上に向かって伸びているのか?と父親に質問したのだったように思います。-人間も(自分

  も)ああいうふうであったらいい、と思いました。その人間の生き方への思いのなかには「しなやかさ」が、そして大学に入って 

  から知ることになるupstanding、まっすぐひとり立つ、という英語の感じが、ふくまれていたように感じます。-

 凡人の私には大江健三郎さんの奥深い意味の全てを理解することはできませんが、それでも木の上の家で過ごした大江さんの少年時代が、大江さんのその後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いありません。大江さんがそうであったように私も大江さんの「自分の木下で」という本に出会って、人間牧場にツリーハウスを造ることを思いつきました。かつて少年時代私も山の上の海の見える小高い場所に同じような木の上の家を造った経験があります。それは大江さんのような本を読んだり、空想の世界ではなく、むしろ幼稚な遊びの空間だったように思いますが、それでも遅ればせながら木の上の家ともいえるツリ-ハウスは、少なからず何かの思考をする場所になるかも知れないのです。

  「凡人の 私が真似て 何になる でも木の上は 思考働く」

  「読むほどに レベル高まる 馬鹿の知恵 遅まきながら 六十手習い」

  「木は何故に 上に向き立つ 質問を 親父の俺は 問われりゃうーん」

  「世の中は 偉い人たち いるものよ 頭は同じ 大きさなのに」


           

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shin-1さんの日記

○孫の寝姿

 「おじいちゃん、僕はお家に帰りたい」。ニコニコ顔で迎えに応じた孫の朋樹君が急に涙顔になりました。夕方5時の出来事です。昨日は娘の夜勤の都合で私が会合の後車を走らせて松山の幼稚園までお出迎えに行きました。幼稚園は夏休みに入っていますが、娘のように働くお母さんたちのために夏休み中でも一部屋開設してもらっているのですが、さすがに午後五時頃になるとお迎えのためひとり減り二人減りで、部屋の外から見ると人数的に寂しさが漂って、お迎えを待つ子どもたちは首を長くして来園で入り口のドアが開く度に自然と目が向くのです。昨日も私が入口に到着すると私を見つけ、孫はさも嬉しそうに私に大きく手を振るのです。荷物を持って出てきた孫を車に乗せてシートベルトを締め、「今日はおじいちゃんのお家へ行くよ」と言っても、「お家お家」と中々言うことを聞かないのです。

 孫は飛行場が大好きです。カーナビに飛行場を映し出すと少し機嫌が直ったのですが、今度は飛行場へ飛行機を見に行きたいと駄々をこねるのです。土曜日になると午前中父親が飛行場へ毎週連れて行く習慣を聞いていたので、仕方なく5時過ぎのラッシュの中を飛行場へ車を走らせました。

 飛行場の一望できる飛行場公園は滑走路のすぐ西横にあって、飛行機の離発着が目の当たりに見えることから、格好の子ども見学スポットとなっています。折りしも飛行機が離着陸する時間帯だったので離陸3機、着陸1機、合計4機もの航空ショーを見ることができました。孫は飛行機マニアで、沢山の飛行機のおもちゃを持っているため飛行機に詳しく、「あの飛行機は727だとか、アシアナ航空だ」とか、私に微に入り細に入り説明してくれるのです。それにしてもこの爆音は素晴らしく腹の底まで染み込むようなド迫力なのです。孫が興奮するのも無理はないと納得しました。

 日暮れの道を夕日に向かって一路双海を目指す頃には上機嫌になって双海の海が見える高野川付近に帰ると「海は広いな大きいな」なんて歌を歌ってくれました。家に帰った頃は丁度夕凪の頃で、今年一番の暑さを記録したことをテレビで報じていた通り少し蒸し暑さを感じましたが、孫は「おじいちゃん単車で散歩しよう」と言うので、単車の前に孫を乗せて潮風ふれあい公園とシーサイド公園辺りまでゆるり束の間のツーリングを二人で楽しみました。

 今晩は私たち夫婦が孫のにわか子育てです。食事を取らせ、風呂に入れ、本を読んで寝かせるのですが、少々こだわりの孫は布団の寝る位置も枕も、スヌーピーのタオルケットも全てオーダーメイドなのです。「ここはお母さんの寝る場所」と帰りもしない母親の寝場所を横に確保して、私が寝ようものなら「おじいちゃんはあっち」と突き放されるのです。子どもにとって母親の存在はこうも重要でこうも愛情を求めるものなのか改めて感じ入りました。子育ての重要な時期に今の母親は働くため子預けをしなければなりません。勢い余って「せめている時くらいは」と甘やかせたり溺愛する子育てパターンにならぬよう常々言ってはいるのですが、さてどのように育つのか心配です。

 孫の寝姿は可愛いので、爆睡した頃を見計らって横に行って一緒に寝ます。子ども特有のにおいを感じながら添い寝をすると孫は無意識なのに私の首に手を回し、足を乗せて安心を確保してきます。やがて私も妻も眠ってしまうのですが、孫は二つ敷いた布団の上を縦横無尽にまるで宇宙遊泳のように動き回り、妻はその都度タオルケットを着せながら長い夜を過ごすのです。それにしても孫の動く範囲は相当なものです。私たち大人は寝た場所で朝を迎えるのに何とも不思議な光景です。多分動く広さだけ成長するのでしょう。成長の止まった私と比較してうなずけるのです。今朝はまた孫を松山まで送り届けます。「朋樹君お早う」「おじいちゃんお早う」。赤ちゃんパンツも取れてオネショをすることもなく元気な目覚めです。今日も暑いぞー。

  「寝姿を 見つつ寝息の 孫に寄る 思わず手足 われをつかみぬ」

  「飛行機が 飯より好きな 孫誘う 空港近くの 公園急ぐ」

  「カラスさん 飛行機来るから 危ないよ 優しい声で あっちあっちと」

  「泣きべそも 飛行機見れば いっぺんに 直って元気 現金なもの」

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shin-1さんの日記

○遠来のお客様

 昨日の昼頃、ひょっこり外国人がわが家へやって来ました。外国人といっても日系2世の方なので外見は日本人と変わりはないのですが、たどたどしい日本語を聞くとやはり外国人だと思うのです。彼女は10年前に双海町へ英語の講師として赴任したキャロリン岡部さんなのです。しかし何という律儀な方でしょう。双海町での在職は一年延長して3年間でしたが彼女の日本文化に学ぼうとする感性にはただただ驚くばかりで、随分学ばせてもらいました。彼女はわが家の親父と懇意で度々親父の所へやって来ては食事を食べたものです。質素な親父の日本食を嫌がりませず食べ、時には親父と二人でビールを飲んで楽しんでいたようです。私も役場に勤めていたので、彼女と飲みに行ったりもしました。彼女はこの町を離れて今は外資系モルガン・スタンレー証券株式会社という、恵比寿ガーデンプレスタワーにある会社に勤務しているそうですが、間もなくアメリカの会社へ転勤するので夏休みを利用してやって来たのです。

 今でも覚えていますが、彼女が双海町へやって来たのは丁度この頃だったと思います。夏祭りの準備でみんなで福撒き用の餅つきをしていた場所で彼女と出会いました。それからの彼女の活躍は目覚しく、ETとして中学校の生徒からはキャロリン先生と慕われ、地域の人にも気楽に話す性格からおじいちゃんやおばあちゃんにも人気がありました。

 彼女が凄いと思ったのは、日本の祭りを見たいと、東北の3大祭りを全て見に行ったことです。また四国八十八ヵ所も自転車ですべてお参りしましたし、地元の方の結婚式には振袖姿で参列したことでした。私たち日本人は東北の祭りも見たいし、四国八十八ヵ所を自転車にしろ回ってみたいと思うひとは多いのですが、忙しさにかまけてそんな行動はとらないのです。私は彼女の勇気ある行動に感心しながら、日本人として日本文化の知的浅さに落胆し、その後彼女に触発されて色々な研鑽をまだまだ浅いものの積みつつあるのです。昨日の出来事もそうです。88歳の年老いた親父を忘れることなくわが家へ訪ねてくれました。

 親父の昨日の喜びようは相当なもので余程嬉しかったのでしょう、その事を今朝も私に話してくれました。「こんな年老いた老人の顔を見にやって来てくれた。誰が来てくれるか。感心なものよ」というのです。

 私は「体が不自由だし肌着なので」と渋る父親の意見も聞かず、記念にとツーショットで記念写真を撮ってやりました。歳をとり狭い社会にしか生きていない親父にとって、外国人の友だちはキャロリン・岡部さんただ一人ですからこれはよい記念になったことでしょう。

 夏が来れば思い出すキャロリン・岡部さんは元収入役のお家に逗留し、今日双海町を経つと聞きました。親父は「何かお土産を」と思ったそうですが、私も昨日は四万十市へ出かけねばならず間に合いませんでした。キャロリン・岡部さんから名刺をいただき、私も名刺を渡したのでインターネットでのやり取りも可能なので、これからもデジタル交流をしたいと思っています。

 何はともあれ、親父にとっては久々に嬉しいニュースでした。

  「律儀にも 昔忘れず 訪ね来し キャロリン先生 親父感激」

  「もう二度と 会えぬと思う 人に会う 悦び余り 思わず涙」

  「あどけない たどたどしかった 日本語も 今はベラベラ あんた外人?」

  「英語など 喋れぬ父は サンキューで 心通じて フレンドつくる」

  


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shin-1さんの日記

○西土佐に暑い夏がやって来ました・奈路地区(20-9)

 夏になっても一向に観光客の姿が見えないなあとつい最近の西土佐界隈を見て思っていたのですが、こにきてさすが最後の清流四万十川の魅力でしょうか、まちの中を闊歩している様々な日本民族に出会いました。家族で歩いてさて何処へ行こうか思案している人、福岡ナンバーのキャンピングカーを停めて今晩の寝ぐらを確保しようとしている人、既にキャンプ地にテントや日除けを張って川遊びに出かけている人などなど、長閑な夏休みの昼下がりは住民以外の人に出会うことが多いのです。「どちらから」「はい福岡からです」「何日くらい?」「もう一週間もいます。そろそろ帰らないと会社をクビになりそうです(笑)」「ここはいいとこでしょう」「もう最高です。これで仕事がなかったら・・・・(笑)」なんて会話が何処までも何処までも広がる青い空に響いていました。四万十の夏はお盆をピークにいよいよ本番なのです。

 横をカヌーを積んだ観光協会の車が忙しげにカヌー館目指して通り過ぎて行きました。心配された夏の台風も四国には影響がなさそうでホッと安心した人も多いのではないかと思われます。一年の稼ぎを夏の間にしなければならないアウトドア関係の仕事に携わる人にとって夏の台風、特に客の集中する週末などは客対応から考えるとキャンセルなど相当の痛手でしょうから、ホッとする気持ちはよく分るのです。

 しかしアウトドア派の人口が増えたからといって手放しで喜べない事情もあるようです。前述の県外の人のように安上がりの旅を目論む人はキャンピングカーに食料品全てを積み込み、水とトイレをタダで使い、糞・小便・ゴミ・騒音という田舎には要らない物ばかりを置いて平気で帰って行くのです。これら都会の人のある意味での忘れ物を自治体や観光協会、それに地元が最終処分しなければならないのですから、文句の一つも言ってやりたいのです。「人が沢山来た」と手放しで喜んだ時代は終わりました。外から来た人を対象にイベントをして予算をつぎ込む時代でもありません。要はこれら田舎に憧れる人たちの懐からお金を出させるしくみを作ることなのです。民宿もいいでしょうし、特産品を売る道の駅もいいでしょう。しかし問題は夏と冬の落差を考えて投資しないと思わぬしっぺ返しを食らうことになるのです。私の友人が道の駅の計画を担当していますが、将来の予測がつきにくい時代だけに、そこら辺を考えると知恵の出しどころでしょう。コンサルの話を真に受ける人がコン人がサルでコンサルってことにならないとも限らないのです。

 昨日は役場に隣接する奈路という地区へお邪魔しました。役場のある地区は私の所属する自治会もそうですが、日本全国何処へ行っても参加人数は今一というのが通り相場なので、余り期待をせずに出掛けました。失礼な言い方ながら案の定でした。でも参加した人の意識は商業地域だけにさすがに高く、質問まで出る熱心さでした。参加者の中にはかつて私の町へ視察研修に来られて私の話を聞いた人や婦人会の管内研修で知り合った顔見知りの人も何人かいてすっかり打ち解けた話となりました。

 奈路の集会所は元お寺さんだった場所に建築したらしく、集会所の正面には祭壇のようなものがあって、脇には盆月らしく新盆を迎える準備が出来ていて信仰の深さを垣間見ることが出来ました。

 高知県には橋本県知事の発案で市町村へ職員を広域的に派遣する地域づくり支援員制度があって、高知県を出歩くとそこここでそんな人によく出会います。今度落選した長野県の田中知事と同じく落下傘知事としてアイデアを出しているようですが、昨晩もその任に当る方と出会いました。末端市町村行政へ中二階県行政が加わることは批判もありますが、私は大きな拍手を送りたいと思います。成果を求める議会側と知事部局の確執はいつの時代にもあることですから、じっくりあせらずやることです。昨晩のような地べたを這うような夜の集会にも積極的に参加する彼らこそ、高知県をワンランクアップに導く戦士なのです。

  「夏盛り 早くも日陰 長くなり 秋の気配に 季節感じる」

  「糞とゴミ 落として帰る 不届きに 金を落とせと 言ってやりたい」

  「俺の顔 話も全て 覚えてる 田舎おばちゃん 聞きに来てくれ」

  「聞く人も ないのに喋る 有線が 終わってやっと 話し始める」



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shin-1さんの日記

○カボチャ提灯の思い出

 妻が何処かで植え余った苗を貰ってきたのでしょうが、わが家の菜園と人間牧場に4本のカボチャの苗が植えられています。今年は例年より遅い梅雨明けで長雨のため野菜が思うように育たず高値だと聞いていましたが、ご多分に漏れず肥料もやらず消毒をしない自然型農業のわが家ではカボチャの生育が悪く、葉っぱはうどん粉病にやられてカボチャが余り実らず、これまでに5個ほどの収穫に終わっています。それでもその後の天候回復で作柄も回復し、今頃になって黄色い花が次々と咲いて、花の付け根に小さなカボチャがたくさん実を付け始めました。今のカボチャは通称栗カボチャという美味しいカボチャですが、私たちが子どもの頃はひだの深い在来種日本カボチャが主流でした。栗カボチャほどは美味くありませんでしたが、それでも食糧難の時代だったから美味しいと感じてよく食べたものです。

 私たちは夏になるとこのカボチャを使って中をくり抜き目や鼻や口を包丁で作り、底から釘を打ちつけ中に御神灯の小さなローソクを立ててカボチャ提灯を作って遊んだものでした。カボチャに彫り込んだ三角や四角の目や口が何とも奇妙に暗闇の中で見えるのです。時にはそれを夜の肝試しに使って友達を驚かせては楽しんだことを思い出すのです。時にはスイカも使い同じようなことをしましたが、スイカは貴重だったので一番なりのどでかいスイカを使ってスイカ提灯を作ってお袋に大目玉をくらい、お仕置きにお尻に大きなお灸をすえられたことを覚えています。

 数年前私が道の駅の駅長をしていた頃、ジャンボカボチャが高齢者の間で流行ったことがありました。外国産の飼料用カボチャは桁外れの大きさに成長するため人間一人分の60キロをゆうに越え中には100キロを越えるものまで作られて、畑から車まで運ぶのにフォークリフトまで出動したハプニングもありました。旧重信町では農業後継者が「ドテカボチャカーニバル」なんてパロディ豊かなイベントを企画し話題をさらいました。旧重信町のランドマークは当分このドテカボチャをイラスト化して使っていましたから、相当のインパクトのあったイベントだったようです。

 わが町でも高齢者の皆さんが大きなカボチャを作りその大きさを競ったものですが、その活用はシーサイド公園に展示して見てもらうだけに終わったため、その後尻つぼみで腐ったカボチャの後始末に困りついには終わってしまいましたカボチャに彫刻をして夏の夜のカボチャ提灯を提案したのですが、受け入れてもらえず夢のイベントに終わったのは返す返すも残念でなりません。

 私たちはイベントをする場合、それがどれ程の経済効果を生むかという取らぬ狸の皮算用をしがちです。勿論それも大事ですがどんな楽しい遊び心があるかによって人へのインパクトは変わってきます。カボチャを展示するからカボチャを彫刻して提灯を夜の闇で楽しめば、カボチャは様々な反響を呼ぶことでしょう。ドテカモチャは牛の飼料にしかならず食えないカボチャですが、別のカボチャを使ってスープやお菓子を作ればこれまた名物が出来るのです。カボチャ⇒遊び心⇒カボチャの展示⇒カボチャの彫刻⇒カボチャの夜祭⇒カボチャの料理⇒かぼちゃのお菓子⇒地域が活性化するなんてシナリオは誰でも考えれる知識ですが、これを知恵に変えていく実践が地域づくりなのです。地域づくりは考えたり実践したりすると中々面白く、成果が出るとこれまた病みつきになるものなのです。

  「カボチャでも やりようやれば まちづくり たのしいことが いっぱいできる」

  「カボチャ食う その度思う 母の顔 提灯造って 叱られたっけ」

  「長雨に たたられカボチャ 不作なり しょうがないから 買って代用」

  「カボチャには 栄養沢山 あるという 半信半疑 今日もカロチン」 

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shin-1さんの日記

○定期演奏会に招かれて

 「えひめグリーンクラブ」という男声合唱団のメンバーの一人から先日2枚のチケットが送られてきました。「グリ-ンクラブ」と聞けば「グリーンピース」を思い出し何か環境団体のようにも感じましたが、そのチケットに添えているご案内の手紙が和紙奉書のような重みのあるものなので忙しい予定を割いて出掛けてみました。合唱も演奏というのかとの疑問も感じながら午後2時開演なので30分前に松山市民会館に行ってみると暑い昼下がりだというのにもう長蛇の列が出来ていて、既に入場が始まっていました。

顔見知りの人も何人かいて、案内状を送ってくれたメンバーの奥さんに声を掛け中ほどの席に陣取りました。この中ホールは次男が演劇の発表によく使う場所なのでお気に入りの場所が確保できた安心感とでもいうのでしょうか、見知らぬ隣の人と談笑しながら開演を待ちました。女性コーラスや児童生徒の合唱は聞いたことがありますが男性大人の合唱など聞いたこともないので興味津々です。

 やがて幕が開きそろいのスーツ姿のおじさんたちが指揮者に合わせて歌い始めました。えひめグリーンクラブ団歌のあと4部構成のプログラムに沿ってその都度進行係が解説して進んで行くのですが、一部の日本民謡はそうらん節、貝殻節、おてもやん、五木の子守唄、最上川舟歌の5曲で、知っていることもあって小さな声で口ずさみました。

 私のお目当ては二部のえひめグリsongbookで、「ハワイ沖えひめ丸海難事故鎮魂歌「希望海」と四部の男声合唱組曲「三崎のうた」でした。いずれもわが人生にダブらせた歌だけに興味がありましたが、残念ながら夏祭りのスケジュールに合わさなければならないので四部は聞かずに退席しなければなりません。二部だけは聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けました。

 「三崎のうた」は北原白秋の詩です。水産高校の実習船愛媛丸の基地があったのは神奈川県三浦三崎でした。その湾の入口に城ヶ島があって、「城ヶ島の雨」という白秋の歌の記念碑が建っていました。白秋は三浦三崎に住んだことがるそうですが、「雨はふる ふる雨の霞がくれに ひとすじの 煙立つ 誰か生活ぞ 銀鼠にからみゆく 古代紫 その空に 城ヶ島 近く横たふ」という詩は、「城ヶ島の雨」の姉妹作ではないかと思えるほどによく似たタッチで描かれているのです

 さて「希望海」は、私に手紙とチケットを送ってくれた水産高校の先輩玉井恭介さんの作詞詩です。鎮魂歌だけあって重厚で愛媛丸乗船経験者の私には涙の出るような響きが心にしみわたりました。

 「碧き千尋のハワイ沖 若き夢のせえひめ丸 大志途上に航跡消ゆる 学園の淵辺は涙色 帰れ母校へ九つの魂 目指せ希望の 七つの海を」・・・・・・・。愛媛丸に乗船した経験者でないと表現できない言葉の数々に40数年前の珊瑚海での実習の思い出をダブらせ聞き入りました。多分こうした事故への想いも戦争と同じように風化し消えて行くのでしょうが、戦争も事故も人間の願いとしてなくす努力をしなければならないと強く心に誓いました。

  「一通の 頼り心の 窓開け わが青春を しみじみ思う」

  「朗々と 歌う母校の 鎮魂歌 心に染みて 思わず涙」

  「男性の 合唱低い 声流れ 満員聴衆 やがて拍手に」

  「白秋が 詠いし歌で 思い出す 城ヶ島辺の あの光景を」 

  

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shin-1さんの日記

○今年も暑い夏がやって来た

 夏祭りのシーズンです。県内あちらこちらから賑やかな夏祭りの話題が届く度に「今年も暑い夏がやって来た」ことを実感するのです。役場生活35年の中で最後の20年余りは夏祭りの最前線で働き、今日の夏祭りの基礎を築いてきましたが、今は地元自治会長なので実行委員会の役員として下支えに関わる程度なので随分と楽が出来、冷静な目で夏祭りの実態を見ることが出来るようになりました。合併という歴史的な出来事があって夏祭りのあり方も随分変わってきました。役場職員総出で働いたのはもう昔のこと、予算も大幅に削られ追々細りの感は否めませんし関わる役員にも何か冷めた空気が漂っていることも事実です。でも何処かで立ち止まって「何のために」「何を」「どうすればよいのか」をもう一度考え直す必要があると思うのです。その結果夏祭りが役目を終えたと判断すれば止めればいいのです。活動には「始める活動」「続ける活動」「高める活動」「止める活動」ぼ4種類があるようですが、私たちがやった「始める活動」も「高める活動」として随分努力して来ました。しかし今は「続ける活動」というマンネリズムの暗いトンネルに入っており、ひょっとしたら「止める活動」という選択をしなければならないのかも知れません。

 それでも、わが自治会の街中には七夕飾りが飾られ、夜ともなると提灯に明かりがともり、海岸には無数のパラソルがまるで花が咲いたように開いています。「まあこれもよしか」と思ったりもするのですが、少なくとも夏祭りは地域の活性化を目指すのですから、更には何がしかの税金を使うのですからそれなりの効果を上げなければ意味がありません。

 朝早くから一生懸命鯛めし弁当を作る漁協女性部の皆さん、何日もかけて魚のつかみ取りの準備をする漁協の皆さん、花火の寄付に回る皆さん、ビーチバレーボールの運営に汗をかく皆さん、福まきのお餅をつく皆さん、踊りを踊るみなさんなどなど、長く続けることは様々な分野でそれぞれのシステムが出来上がっているのですから面白いものです。

 多分一年中で一番多くの人が今日の夏祭りと海水浴のためにシーサイド公園に集まってきます。町中が人と車でごった返しているのです。わが家も末っ子を除けば全ての人が来て、坊さんまでが朝早くから棚行にやって来ました。

 今日珍しい人に会いました。漁協の魚市場で大漁祈願祭があってその帰りに、かつてETとしてこのまちに赴任していたキャロリン岡部という日系2世の女性に会いました。久しぶりに遊びに来たそうですが一緒に仕事をしたり、わが家へも度々遊びに来た顔なじみなので懐かしさ一入でした。話を聞くと何でも今は証券会社に勤務しているそうです。それにしても外国の人はよく休暇をまとめて取りますね。彼女の話だと双海町で一週間過ごすというから驚きです。私なんぞは自由人なのに2日も続けて休むと「何か変だな」と思うのです。

 それにしてもいい夏祭りの一日でした。ご覧下さい。シーサイドの昼下がりの光景です。夕方になって孫にジンベエさんを着せ、

混雑するので単車に載せてシーサイドの餅撒きに参加しました。孫は餅拾いは初めてとあって要領が分らず自分の所に飛んできた餅は全て投げ返すという失態を演じました。でもかろうじて9個拾ったようでした。その後家族と合流し叔父から青レンジャーの面を買ってもらい得意になっていました。

 その後親類の子どもと合流し花火を楽しみ長い夏の一日がようやく終わりました。

 これは私が撮影した花火の失敗写真です。お粗末ながら・・・・。

  「夏の夜の 花火見上げて 口開けて 綺麗と拍手 つられて拍手」

  「田舎でも 花火見上げて さあどうだ そもわが上げた ように言いつつ」

  「花火寄付 集めた俺も 貢献度 自慢しつつも つい嬉しくて」



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shin-1さんの日記

○息子の職場の人々

 昨夕息子の職場の人々が人間牧場にやって来ました。社長さんを含め総勢8人の小さな団体です。2週間ほど前に予約が入っていたのですがあいにく梅雨の真っ最中で、雨は降らなかったものの雲行きが怪しくて中止をしていたのです。昨日は好天に恵まれ息子は朝早くやって来て人間牧場へ上り、掃除をしたり風呂を沸かしたりと親愛なる職場のお客さんを招く準備に余念がありませんでした。一方妻はわが息子の職場の人々が来るとあって昼から休みを取り、食事全般を引き受けて料理作りに励みました。私は生涯学習センターでの仕事が入っていたので息子と携帯で連絡を取りながら何もすることもなく夕方を迎えました。家に帰ってみると妻の料理も殆ど出来上がり、千客万来とのことで私と妻が軽四の後ろに料理を積んで上がって行きました。自慢の大蚊帳もちゃんとセットして、社長さんは既に息子の沸かしたロケ風呂を楽しんで湯上り気分のようでした。この社長さんは息子が始めて就職した会社の社長さんで、その会社を辞め今の会社を興しましたが、息子も一緒に異動して今日に至っています。息子の結婚式も媒酌人を快く引き受けてもらい、息子にとっては親以上の付き合いをさせてもらっているようです。昨日は一足早い社長さんの誕生日パーティが人間牧場で行われました。パーティといっても職場の人が社長さんの名前「かずおさんたんじょうびおめでとう」と書かれた小さなケーキを用意して、6本のローソクに点火するというシンプルなものです。こんな山の家での誕生パーティも多分始めての経験でしょうから、よき思い出になったことでしょう。

 昨日は夕日も綺麗に見えて、特性蚊帳の中から見る夕日もまた味のある夕日となりましたが、料理が並べられみんなが席に着いたのは7時頃ですからお腹も空いて夕日どころではなく、美味しいお酒と料理に舌鼓を打っていました。社長さんが言うようにこの会社は出来て間もない会社ですが社員の団結もよく、冷え切った建築業界の中で生き延びているのはやはりプロ集団としての価値なのでしょう。

 私は息子を通じてしか会社のことは分りませんが、社長のリーダーシップと社員の信頼関係に加え営業受注能力や成果の信頼度が仕事を作っているのだと思いました。親の目からは見えてこないベールに包まれた息子の生き方は多分社長の生き方を見習っての生き方なのでしょうが、仕事的にも人間的にも成長して欲しいと願っています。

 今日の朝早く息子嫁がわが家にやって来ました。昨日は仕事で手伝えなかったので朝飯を作るのだと材料を持って来たのです。すでに玉子焼きとメザシは焼いて持参していました。私が山の家まで送り届けましたが、夫のためにささやかな気配りをしている姿は何ともほほえましいものです。息子と結婚して既に10ヶ月が経ちました。まだ内孫の朗報は聞こえませんがこれからも仲のよい夫婦であって欲しいと願っています。

 今夕はまた新たな団体がわが家へやって来ます。次男の演劇仲間が10数人煙会所で焼肉パーティだそうです。昨日に引き続いて妻は手料理で迎えることでしょうが、昨年は20人を越えての団体で作った料理が足らないほどの盛況でした。早くも妻はおにぎりを作るためのお米をといでいます。私は夏祭り実行委員会の仕事と、グリ-ンクラブの定期演奏会の招待券が仲間から送られて来ているので、松山市民会館へ聞きに行きます。

  「わが息子 主催の職場 夏越会 急に社長の 誕生祝う」

  「手料理で もてなす妻の 気配りに 息子神妙 嬉しさ隠し」

  「牧場を おりる頃には 月が出て 妻と二人で 夜道帰りぬ」

  「早起きし 卵メザシと 忙しく 夫支える 新妻けなげ」


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shin-1さんの日記

○草は刈ったかい

 「お父さん、人間牧場の草は刈ったかい」、息子から昨日携帯電話がかかってきました。昨日は自治会長として竹切りを済ませて8時半にわが家を出発し、9時にはもう草刈機を始動させて草を刈っていましたから、午後3時までの6時間、炎天下で草を刈っていたのです。用意した水筒は午前中で空になり午後は水平線の家の冷蔵庫から取り出した500ミリリットルのお茶を飲むほど汗をたっぷりかきました。直射日光を避けるため長袖に麦藁帽子、手袋に地下足袋、首にはタオルといういでたちです。ですから暑いの何のって、それに藪蚊の襲来を避けて蚊取り線香を腰にぶら下げるものですから、一種独特のお百姓さんスタイルです。

 普通はお弁当を持って行くのですが、余り長時間畑仕事を続けると体に堪えるからという妻の配慮のため、畑仕事は午前中と決めているものですから、弁当も持たず食べずで頑張りました。4日前にも梅畑は草を刈っていたので、今日の作業で何とか一巡してやっと人間牧場の殆どの草を刈ったことになります。こうしてみると夏の草刈は大変で改めてお百姓さんの苦労がよく分ります。人間牧場の真ん中に入ったコンクリート舗装の道は、地元の人のお墓に通じる道なので、先日道の両側に草枯らし剤が散布されました。そうとは知らず草を刈ったりしたものですから地元の人に悪いことをしてしまいました。人間牧場へは力の続く限り草枯らし剤は撒かないで頑張ろうと思っていますので、少し心が痛みましたが地元との共存を考えるとこれもやむを得ない出来事と受け入れなければならず矛盾を感じています。

 草を刈っていると、隣の畑で仕事に励むおばちゃんが声を掛けてくれました。おばさん「勢がでますねえ、暑いから堪えないようにして下さい。草は七回刈るものと子どもの頃から教わりました。進ちゃんは何回刈ったの」、私「はい、今日で3回目です」、おばさん「私の畑は今日で2回目です。私は足が悪くてマイピアでここまで来ます。昨日息子が刈ってくれました」と言葉を交わしながら、「えっ、7回だとまだ4回も?」と思いましたが、それは牛を飼って昔のことで、朝な夕な牛の餌となる草を刈るのは子どもの仕事だったとも述懐された話を聞きました。

 人間牧場の草刈は息子にとって見れば「それはお父さんの仕事」と決めているようで、こと草刈に関しては割り切っているようです。勿論草刈機を使った経験のない息子に草刈機で草を刈る危険な仕事はさせられませんから、もっぱら私の仕事にしたいのですが、私の元気がどこまで続くか疑問なだけに、これからの人間牧場のあり方も考えておかなければなりません。しかし植えもしない草は本当によく伸びると感心します。ところが植えたはずの植物は中々育ってくれません。これも自然の摂理なのでしょう。

それでも子どもたちが植えたサツマイモや家菜類は少しずつ実って、収穫を待っているのです。

 今日は息子の職場の人たちが夕方集まって何やら集会をするらしく、休日の息子は朝からやって来てその準備に余念がありません。妻は今日は午後から休みを取って息子のために料理を作るのだそうです。明日は次男の友だちがわが家の私設公民館煙会所で集会を開くとか、せっかくの土曜と日曜日なのに妻は子どもたちのためにせっせと働いて接待、妻には暑い週末のようです。私は今日は生涯学習センターでの講座を頼まれており、これから出掛け、夕方息子と合流して息子の職場の人の接待のお手伝いをする予定です。加えて明日はふたみの夏祭りという大きな町のイベントが予定されており、副委員長をしている関係で手伝わなければなりません。私にとってもこの週末は忙しい二日間になりそうです。

  「草刈は 俺の仕事と 決めている 息子承知で 刈ったか電話」

  「夏草は 何故に伸びるか うらめしや 草と戦う 日本の農業」

  「七回も 刈れと先人 言いました 俺は三回 四回で済ます」

  「草枯れる お墓に続く 道辺り おばさんお参り 盆が近づく」

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