shin-1さんの日記

○夕日を語る

 昨夕、「ふたみ合宿村」という地元小学生対象の事業に招かれ、夕日の話をしに潮風ふれあい公園へ出掛けました。日没が7時13分でしたので、子どもを思い切って外へ連れ出し野外講演会となりました。子どもたちはかつて私が電気工事会社から譲り受けて作った電柱ベンチに腰掛け、西瀬戸の海に向かって座り、私は時折移り変わり行く天体ショーを振り返りながら出来るだけ分り易い夕日の話をしましたが、子どもたちは私の話はさておいてふるさとの夕日をしっかりと目と心に焼きつけたことでしょう。

昨日は天気もよく折から出た薄い霧がまるで絹のベールのように水平線辺りに広がって幻想の世界を演出してくれました。

 「あの島の名前はね、周防大島といって山口県ですよ。6月22日に一番北側のコースを通って夕日はあの辺りに沈むんですよ」「12月になるとあの夕日はだんだん西側のコースを通って大分、うーん丁度このあたりかな」「シーサイド公園にモアイ像があるだろう。あの真ん中のモアイ像が見ているのが春分秋分の日にしずむのが大分県姫島です」「あの島の黒曜石で造った石器が双海町東峰遺跡から出てきたんだよね。3万年前の古代人が黒曜石をどのようにして運んだか知りたくて、大きな木をくり抜いて丸木舟を造り、この海を140キロも航海したんだよ。シーサイド公園に展示している丸木舟は私たちが造りました」なんて話をすると、子どもたちの目は夕日に映えてキラキラと輝いて見えました。

 やがて天体ショーは素敵なクライマックスを迎えました。どうですこの茜色の夕日や夕焼けは日本一と呼ぶに相応しいでしょう。実はこの写真は私の講演中旧友の中尾先生が私の持参したカメラで撮ってくれたのです。どおりで上手く撮れてると思ってください。「夕日は沈み始めてからしずみ終るまで2分1秒です。夕日が赤く見える訳は・・・・・・・」と夕日に関する博学ぶりを披露しましたが、双海町の子どもはこのくらいの知識は知っているけれど、あえて同じような話を大脳にインプットさせました。

 私は木になるカバンの中からハーモニカを取り出し、この日の情景に最もよく似合う「赤トンボ」と「夕焼け小焼け」の2曲を吹きました。ハーモニカの音色は実に夕日に調和するのです。ハーモニーでしょうか。

 ついでにもう一本の和音ハーモニカを取り出して沈んだ後の余韻を楽しむため、下弦の月が西空に見えたので「月の砂漠」を吹きました。今の子どもにこの曲は分るかどうか分りませんが、BCMとしての効果はあったように思いました。

 かつて私は、永六輔さんと「夕日を見ない子どもたちへのメッセージ」というBS番組に出て、「夕日を見ようよ」と話したことがあります。そのお礼にいただいた永六輔さんからのハガキには「夕日はどこかの朝日」と書かれていました。直感した私は国立科学博物館にお願いし、双海の夕日が何処の国の朝日か調べ、夕日のミュージアムにライブカメラを取り付けインターネットでアクセス出来るようにして夕日と朝日の2元中継を試みたのです。この話題は大きな反響を呼んだことを夕日を見ながら思い出しました。

 夕日に想いを寄せて20数年が経ちました。私は今も夕日の語り部として様々な場面と様々な人に夕日の魅力を伝えています。殺伐とした世の中になった現代ですが、夕日を親子で見るような穏やかで平和な世の中になって欲しいと願いつつ会場を後にしました。

  「夕焼けに 顔染め見入る 子どもたち どんな明日が 待っているのか」

  「夕空に 響け下手くそ ハーモニカ 少しは演出 足しになったか」

  「凄いねえ 海に黄金の 道できた いつか二人で あの道歩く」

  「詩に託す 顔に似合わず キザですね だからいいのだ 落差あるから」 


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shin-1さんの日記

○ゼロへの回帰

 有難い事に最近は人間牧場がすっかり話題になって、人間牧場を説明する機会が増えてきました。「人間牧場って何」から説明するとまるでオームのように同じ事を何回も説明しなければならないので、いっその事テープにでも吹き込んだらとも思うのですが、それも出来ず少し消化不良気味です。しかし、これは人間牧場にとって「何故」「どうして」という極めて大切なことだと思い色々考えてみました。

 私たちは平和な日々の暮しの中でややもすると「何が出来るか」「何をしたいのか」という人間の本来持たなければならない意思なるものを、案外忘れて暮らしているように思うのです。私が足しげく人間牧場という非日常な場所へ通うのはその二つを探したり確認したりするためではないかと思える節があります。そう思うと人間牧場は私の心をたえずゼロに戻してゆく人間性回復、いわばゼロへの回帰場なのです。

 ①何が出来るか

 私という人間の持っている能力や技術に人並み以上のものは殆どありません。いわば並みの人間です。でも並み以下でもなく普通なのです。この並みで普通な人間が「何をしたいか」という夢を描き、その夢の実現のために人並みな努力をしてきました。結果的には多くの人の協力や時代の流れという追い風を受けてそれなりの成果を収めてきたのです。しかしそれは「何をしてきたか」であって、今や近未来に「何が出来るか」とは少し意味合いが違うような気がするのです。殆どの人は過去を餌に生きています。過去の成功や成果は確かにその人の大きな評価であるのですが、過去を餌にした「何をしてきたか」だけに執着すると、「これから何が出来るか」が軽んじられる傾向になるのです。私たちは今何が出来るかや未来のために何が出来るか常に考え行動できることが大切なような気がします。そのような思考を巡らすとこんな凡人の私でも何か新しいパワーが甦って若々しくなるような気がします。

 ②何をしたいか

 人生80年といいながら還暦を向かえセミリタイヤした私と同じような人間には、夢など早々見つからないし、例え夢が見つかっても「私には出来ない」と諦めるのが落ちなのです。何をしたいかには人間の飽くなき欲望が必ず付きまといます。しかし欲望と夢は違うのです。人間牧場を例にすると、別荘的なセカンドハウスであれば、お金持ちであって金さえあれば金に飽かして誰でも手に入れることができます。しかし人間牧場のような施設は思っても中々手に入りません。それは人間牧場が別荘と違う何かを求めているからです。人間牧場の周りには沢山の人が協力し、沢山の人が運営や知恵を授けてくれます。つまり人間牧場はまちづくりなのです。

 私は人間牧場へ足繁く通うようになって何が出来るか、あるいは何をしたいか、今まで見えなかったものが随分見えてきました。それはゼロへの回帰と呼ぶに相応しい出来事なのです。これからもこのゼロ回帰の空間で様々な何が出来るかと何をしたいかを発見したいし、訪ねてくる人にゼロ回帰を学んで欲しいと願っています。

  「ゼロという スタートに立って 考える 今まで気付かぬ 何かに気付いて」

  「何が出来 何をしたいか 考える 簡単だけれど 中々難し」

  「凡人が 非凡になるは 我を捨てる 随分迷って まだまだ入り口」

  「結局は 60かかって 元戻り 回り道した 俺の人生」

  

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shin-1さんの日記

○愛媛大学フィールドワークで内子へ

 「ヤッホー、梅雨明けだ」と思わず叫びたくなるような待ちに待った梅雨明けです。ご覧下さいこの写真。旅先愛媛県内子駅のプラットホームから写したのですがいい夏の空景色でしょう。今年の梅雨は一週間で1200ミリという記録的な豪雨で鹿児島や長野に大きな爪痕を残しました。梅雨明けが1週間も伸びるというのは異例で、その影響が各方面で心配されているようです。

 昨日は愛媛大学の学生と一緒にフィールドワークで内子町へ出かけました。今回も今治・松前に続いて鈍行各駅停車の旅なのです。最近の列車は特急重視、つまり儲け重視で田舎の各駅停車などはあちらの駅で5分、こちらの駅で5分と行き違いのため停車して何とも長閑なもの、目と鼻の先の内子へ行くのに松山発8時39分の列車が内子に着いたのは10時に8分前でした。

 内子は山間盆地の町なので梅雨明けの気温はかなり上がっていましたが、歩いて10分で内子分庁舎へ到着です。内子の本庁舎は合併して五十崎に移転しており、かつての賑わいはありませんでした。安川さんは非常に物腰の柔らかい方で、私たちと一緒にえひめ地域づくり研究会議の運営委員もしていますが、その縁を頼りの今回の研修依頼となりました。一際高い内子座の屋根が分庁3階の窓越しに見える会議室で午前中たっぷり2時間安川さんの話を聞きました。普通町並みの話はパイオニアである岡田さんの話を聞くのですが、合併後の地域振興とまちづくりについては安川さんの話を学生たちにどうしても聞かせたかったのです。

 年間60万人の観光客がある内子町が町並みや村並み、そして山並みとエコr-ジータウンをキャッチフレーズにして発展してきた経緯や、今後のまちづくりへ想いには学生たちも感心して聞き入り、質問も活発に行われました。

 午後からは暑い日差しの中、安川さんの案内で街中見学です。安川さんの講義をひとつひとつ確かめるように八日市から護国へと続く町並みを歩いて散策しました。さすが暑さが最も厳しい午後だったので観光客の数は少なかったようですが、それでも外国人や少人数の観光客が街ぞろを楽しんでいました。

 最初に訪ねたのは内子座という芝居小屋でした。文化会館華やかなりし現代にあってこの芝居小屋はまるで江戸時代にタイムスリップしたような建築物で、この施設を民意に反して残した先見性は高く評価されるのです。

 上芳我邸や下芳我邸はこの3年間の修復工事がほぼ終わり、工事柵の隙間からは邸宅の中庭やなまこ壁が夏の日差しに映えて歴史の重みを感じさせてくれました。

 護国の町並みを抜けて最後の訪問地道の駅からりに到着して、30分の自由時間を取りました。学生たちは思い思いの自由な時間を過ごしましたが、裏庭にあるつり橋は数日前の雨で増水して涼風が吹いていました。

 事務所に沖野さんという顔見知りの女性を訪ね、冷たい麦茶をご馳走になりながら四方山話に耳を傾け談笑し、束の間の視察研修を終え、内子駅長の楠本さんに別れを告げ再び車中の人となりました。

 今日学生に伝えたかったことは、行政職員の質の問題です。行政職員が地域資源を発見しその地域資源に磨きをかけると地域は輝きを増してきます。品格という言葉がありますが、まちにも町格というのがあって町格を上げないと観光などは出来ないのです。職員が優秀だとその地域の住民は幸せや経済の恩恵を受けますが、逆だと惨憺たるものです。岡田さんや安川さんを見ていつもそのことが頭に浮かぶのです。学生にはそんな理解はまだ無理かも知れませんが、今日もいい勉強をさせてもらいました。

  「町格を 上げる努力の 裏側に 足を引っ張る 田舎根性」

  「梅雨明けて さあ夏思う すぐ後に 早くも秋か 店先梨が」

  「本当の 旅はのんびり ゆっくりと 鈍行列車で 街を訪ねる」

  「学生の パーワーに負けじと 早足で 己が体力 まだまだ強し」 


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○野塾で来たことのある思い出の地・橘地区(20-7)

 25日に長生地区へ行った時、開会時間までの余裕が少しあったので長生地区周辺を散策して回りました。中脇さんの運転で公用車に乗せてもらったのですが、沈下橋も私には同じような橋に見えて何処をどう通ったのかまるでチンプンカンプンなのです。これではいけないと思いつつ、橘地区へお邪魔する前にもう一度その道を自分が運転してなぞってみたのです。「人の運転で連れて行ってもらった道は覚えられにくい」ということが良く分りました。

 まず江川崎の中心部から国道を左に曲がって長生地区の見える所までやって来ました。「ああ、あそこに先日行った集会所が見える」と確認し、その下の沈下橋に目をやりました。あの日はあいにくの雨模様だっ

たため、「えっ、こんなに綺麗な原風景だったかな」と見間違うほど沈下橋の影が川面に映えてうっとりするような美しさでした。

 そこから四万十川沿いに行くと、綺麗な緑色の橋が見えてきました。JR予土線の鉄橋です。雨上がりの山並みに同化してそれは見応えのある橋です。多分何処かの駅でこの風景は写真ポスターとして見た記憶があるのですが残念ながら忘れてしまいました。

 上流へ進むと左手に「はげ」という駅の看板が目に付きました。西土佐へ最初に入った日、江川崎の駅で見た看板に次の駅名「はげ」と書いていたので一人笑ってしまったものでしたが、「はげ」は「半家」で、漢字で書くと別に可笑しくもなく「平家」がなまって「半家」となったという言い伝えもまんざら嘘ではないと思い、急で長い石段を駆け上がりました。高校生が一人列車を待っていましたが私の写真フラッシュに驚いた様子でした。どうです。長閑な駅の風景は各駅停車の列車の旅で思わず降りてしまいたくなるような衝動に駆られる駅なのです。

 「えっ、これは何」と思う真新しい巨大な橋がトンネルを抜けるとまたまた出現です。金がないと言いながら国も県もよくもまあこんなに金があるなあ」と思うほどの大きな橋なのです。見て下さいよこの橋、まるで東京の橋のようではありませんか。いくら知事さんの名前が「橋本」だからって、これは凄い投資だと思いました。この橋もまだ未完成で向こうからはトンネルの新しいのが既に完成して繋がれる日を待っているようでした。

 時間が迫ってきたので栴檀の木陰でUターンして戻って来た場所に、それは美しい川淵と中州を見つけました。愛媛県松野町から入った四万十の女性的な姿に比べこの川は男性的でいい姿をしていました。

 

 一人だけの散策で位置を確認した後中脇さんと藤倉さんと落ち合い、橘の川原に下りて四万十の川風にあたりながら四方山話や石投げ、それに珍しい形をした小石を集めてみました。山から流れて来たのでしょうがどの石も丸く、ストーンアートに適している石ばかりで、私だったらこの石で一儲けするのにと、冗談を言いつつ二人の写真を撮りました。この二人は「よっ、西土佐女」と思わず声を掛けたくなるような働き者で、それでいて謙虚姿勢にはただただ感心さされるばかりです。地域づくりは①地域を愛する、②地域のためにやる、③地域をより良い方向に導くという三つの基本が必要なのですが、この三つの想いを彼女たちは持っていると確信しました。

 私は橘集会所へは2度目です。旧西土佐村の若者がかつて野塾という塾を開いていたころ講師に招かれ橘集会所で熱心な討議を夜を徹して行ったことを覚えています。横山勝さんのその一人で、今は早期退職でどぶろく特区などの許可を受けてどぶろくを作っていると風の噂で聞いていましたので、会うのが楽しみでした。その横山さん、通称勝ちゃんは時間前に作無衣姿で格好いい姿で登場です。会場には幾人か知り人もいて笑顔の会釈で会が始まりました。「甦れ西土佐村」と題して、これまでの地域とは違った切り口で話をしました。○生活習慣から抜け出せない人々、○自分の事にならないと前へ進めない、○体も鍛えるが脳を鍛える訓練をする、○情報で気を育てる、○価値を売る、○何をしたらいいのか、○動機なしで人は動かない、自分のまちを自慢できるか、○何もしないと下りのエスカレーター、○情報の発信能力などについてお話をしました。

 帰り際途中参加の民宿経営の方に声を掛けられました。「私は民宿経営者で今日はお客が入って途中からの参加でしたが、とても面白く参考になりました。是非今度またお会いしましょう」と言って闇の中に消えて行きました。私も勝ちゃんから貰った何故かペットボトルに入れられて冷凍した川海老を積み込んで一路ふるさとへの道を、アクセルを踏み込みました。

  「旧友の 差し出す土産 いただいて ヘッドライトの 夜道急ぎぬ」

  「童心に 帰って小石 川面に投げる ひい・ふう・みい・と 数えつ自慢」

  「甦れ この村元気 人の手で 風を起さば 死ぬの待つのみ」

  「二ヶ月で 裕美ちゃん育ちゃん 愛称で 呼び合う程の 親しみ覚ゆ」   

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shin-1さんの日記

○橋のない川・橘地区(20-7)

 四万十市旧西土佐村へ入って今日で7回目になります。その間玖木の橋をめぐる会もそうでしたが、沢山の橋を見てきました。古くなった橋、現代的な橋、役目を終わった橋、これから架かろうとする橋など様々です。今晩は旧西土佐村の橘地区へ行く予定です。旅する巨人宮本常一はそのまちへ行くと決まったようにその地域の高台に登ってまち全体を見てから行動したのだそうです。最初から虫の目で調べるのではなく、鳥の目でまちを見てみることは大切だとふと思い出して、少しの時間橘の対岸から橘を見てみようと思い、村の中心部の大橋を渡ってカヌー館を越え走ってみました。突如として頭の上に未完成の大きな橋が霧の中から顔を出したのです。「えっ、これは何?」と思いました。

 聞くところによると合併して四万十市になった中村までは、四万十川に沿って国道とはいいながら離合も出来ない狭い道が走っていますが、最初の計画ではこの道に沿って改修する予定だったそうですが、それだと川までいらう結果となるので、トンネルと橋で別ルートを通るようになったのだそうです。勿論この工事は大手ゼネコンが手がけていることがわかるような看板が立っていました。

 ふと目をやると川の中には取り付け道路となるであろう対岸の方に向かってどでかい橋脚が既に何本も立っていて、この工事がいかに大きいか物語っていました。橋も道も村を発展するためにはとても重要な意味は誰しも分っていますが、橋のたもとで栄えていた食堂が立ち行かなくなったり、道が迂回したことで民宿が廃業に追い込まれた例は日本全国には枚挙に暇がないほど事例があるようです。

 昔作家住井すゑの「橋のない川」という人権問題を扱った小説があり、人権教育に携わる者の必読の書として読んだ記憶がありますが、ある意味からいえば橋はまさに富の象徴なのかも知れません。こんな立派な橋が出来るかと思えば、玖木の板橋のような古い橋も現在もなお残っているのです。

 西土佐には鶴が羽を広げたようなこんな素敵な橋もあります。廃校を利用した四万十学舎のすぐ近くに架かった斜張橋は素敵な現代橋で沈下橋とは趣きを異にしているようです。

?

 ご案内の中脇裕美さんと四万十学舎を訪ねてスタッフと束の間の談笑を楽しみました。四万十川の魅力は何といっても夏です。事務所の黒板にはびっしりと夏休み中の予定が入っていました。社団法人となっている学舎の運営も、市からの委託費減額で中々大変なようでスタッフの皆さんは大変なご苦労をされているようでした。廃校利用のモデルケースだけにみんなで守って行きたいものです。

  「あの橋は いつになったら 結ぶのか 橋のない川 頭で想像」

  「この橋も ゼネコンさんしか 仕事ない ランク分けなど 誰がしたのか」

  「橋出来りゃ 人・もの・車 情報も 流れが変わり 大が吸い取る」

  「便利とは 都会の都合に 合わすこと 手放し喜ぶ みんな阿呆だ」 



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shin-1さんの日記

○梅雨の晴れ間のお客さん

 九州地方ではこの5日間の降り始めからの雨量は1200ミリに達したと、新聞やテレビが盛んに報道しています。それらの地方では水害が多く発生し、痛ましい死者まで出ているようです。わが家の裏山も過去3回も崩れその度に被災の体験をしてるだけに他人事とは思えず心が痛むのです。ふとそれが原因でチェンソーで切った右足の古傷を触るとあの悪夢が甦ってきて恐ろしくなりました。今年の梅雨は学校が夏休みになったというのに一向に明ける気配がないのです。

 昨日も予報では停滞する梅雨前線の影響で雨という予報が出ていて、夕方3時半に待ち合わせて人間牧場まで案内する予定を思いながら、「運の悪い人たちだなあ」と思ったものです。処がどうでしょう。曇がちだった午後の天気も少し薄日が差して何とか夕方まで持ちそうな雲行きとなりました。大河内結子さんと政策研究センターの清水さん率いるJA大西女性果樹同志会の9名と清水さんのファミリーや友人などが人間牧場へやって来ました。大西も田舎ですが人間牧場に通じるど田舎の道にはさすがに驚いた様子でした。

 

 清水さんのリードで私は150年の年輪を重ねた魚梁瀬杉の高座に分厚い座布団を敷いて座り、落語ならぬ落伍を約1時間余り思いつくままに話しました。穏やかな瀬戸内海の海を見ながら落伍が出来るのですからこれほど楽しいことはありません。観客もウッドデッキにや部屋の中に思い思いで陣取り、肩の凝らない私の話に熱心に耳を傾けてくれました。この落伍高座も清水さんの肝入りでいよいよ本格的な真打ならぬ進打目指した特訓が始まるようです。

 昨日の人間牧場水平線の家は無風で、藪蚊が沢山出てきました。蚊取り線香をたいて燻したのですが、何人かは藪蚊の餌食になったようで手足をボリボリかいていました。

 4時半から始まった研修会はその後同志会の皆さんが手作りした稲荷寿司やいぎす豆腐、黒豆ゼリーなど体に良い珍しい食べ物が並んで、それはヘルシーな食談会となりました。珍しくアルコールが一切出ないものですから、最初から最後まで素面の楽しい話し合いが出来ました。

 オブザーバーで出席した鎌田秋吉さんは自分の菜園で獲れたトマトとスイートコーンを差し入れし、博学な知識の数々を参加者に伝授していただきました。昨日はスイートコーンを茹でもせず生で食べることを始めて知りました。私は稲荷寿司が美味いので2個も食べたためスイートコーンは生で食べませんでしたが、私の分け前を貰って家へとって帰り妻に勧めましたが、結局は今夕の食卓に茹でて食べるそうです。

 今日のメンバーは夕日も楽しみの一つにしていたのですが、残念ながら少し顔を覗かせ、少し赤く染まった程度でした。まあ夕日鑑賞は次の機会にしておきましょう。

 今朝新聞を取り込んで食卓で食事をしていると、愛媛新聞の付録でついてきたアクリート(共生)という雑誌に大河内さんたちのグループが黒大豆で作った農産物とともに紹介されていました。昨日の交流会でも豆腐やゼリーなど、食べたこともないような健康食品を食べさせてもらいましたが、中々の味でした。

 ちなみに鴨池海岸からみる美しい夕日も双海町に負けじと紹介されていました。いいことです。オンリーワンだと思えば夕日は何処でも日本一になれるのですから・・・。

 昨日はこの研修会に先立って愛媛こまち編集部の清水春菜さんが取材に見えられました。この方は何と私の似顔絵を2度にわたって書いてもらった似顔絵の達人、長浜豊茂の清水さんの娘さんだと知ってびっくりしました。世の中は狭いものですねえ。

 梅雨の晴れ間の束の間の交流は、超多忙だった7月のスケジュールで少々お疲れモードだった私の心に元気を回復させてくれました。さあ今日も午後から往復250キロの高知県四万十への旅が再び始まります。

  「えっ生で 食えるの本当 嘘でしょう とうもろこしを 一本食いつく」

  「ハーモニカ 吹くは私で 皆さんは トウモロコシを まるで楽器に」

  「雨予報 大幅はずれ 得をした これも人徳 日ごろ行い」

  「酒なくも 交流盛んに 盛り上がり 心温め 山道下る」

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shin-1さんの日記

○沈下橋の向こうに・長生地区(20-6)

 玖木の橋めぐりを終えて夕闇迫る船宿舟母の下に架かる沈下橋を渡ろうとした時、異様な光景を目の当たりにしました。

 対岸の橋が川面に発生した霧に包まれ、何とも幻想的なシルエットを醸しているのです。絵になる心に残る光景でした。写真には残念ながらその全てを表現できませんでしたが、この光景は四万十川のもう一つの美かもしれないと改めてその魅力を再発見しました。

 せっかく玖木の橋めぐりがあって早朝より西土佐へ入るのだからと中脇さんに無理をいって夜の集会をセットしてもらいました。その地区へ入る前、中脇三のご好意で四万十川の名物であるうなぎをご馳走になりました。そういえばこの日は土用丑の日で昨日から今日にかけて日本列島がうなぎの蒲焼の匂いで埋め尽くされる日だったのです。細やかな女性の気配りに感謝しながら天然うなぎの食感を味わうことが出来ましたし、肝吸いもついて何ともはや贅沢な夕食でした。食後は寸暇を惜しんで藤倉さんと3人で四万十川本流の沈下橋を三つも見せてもらいました。

 朝早くから堪能するほど橋を見てきたものですから、どの橋が何処に架かっていたのか写真をブログにダウンロードしながら迷ってしまいました。車の中でその橋の説明を中脇さんから受け、橋のたもとに着く度に下車してとりあえず写真に収めてみましたが、未だに橋の名前と写真が一致しないのです。

 沈下橋の向こうに20戸に満たないという中脇さんのふるさと長生地区はありました。沈下橋を渡ると青草の匂いがプーンとしてきました。何でも今日は道普請の日とかで、道端の草はきれいに刈られ、私の来るのを掃除をして待っていてくれたような温かさを覚えました。数日前公民館に間抜けな泥棒がガラスを割って入ったとかで、大した被害も無くその話題が開会までの楽しい会話になりました。小さな地区だけあって時間どおり、しかも沢山の人がやって来て会は始まりました。中には私の話を何年か前に和田課長さんと双海町を訪れて聞いたとう人や、中脇さんのご主人、宇和島水産高校出身の息子がいる人などなど、熱心に耳を傾けていただきました。

 私たちはそこに暮らしていると、いつの間にか固定概念が出来上がってものの見方がついつい単調になりがちです。変えなくていいことを変え、変えた方がいいことを変えないでいます。また自分では四万十川のことを一番知っていると想っていることもあるだろうと思います。しかし本当はそれが妄想であることに気がつかなければならないのです。私がアメリカで世界地図の真ん中に日本が無いことを発見したり、南北逆さまの世界地図を見て気がついたり、また他町村から来た人に夕日の美しさを指摘されるまで気がつかなかった事例を元にお話をしました。発想の転換を話したつもりですが果たして人の心の扉を開いたかどうか・・・・。早いもので明日で三分の一が終わります。微調整を繰り返しながら、できるだけ分り易くこれからもいい話をするよう心がけて行きたいものです。明日は橘地区、役場を辞めた旧友の横山さんは果して来るでしょうか。

  「現代の 泥棒さんも 焼き回り 入った所が 公民館とは」

  「入口の 草を綺麗に 刈り分けて 俺を迎える 思えば嬉し」

  「そういえば この人見覚え ある顔と ついぞ昔の 思い出めくる」

  「あっ危ない ハラハラドキドキ 沈下橋 中脇女史は 平気スピード」 



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○玖木の一日橋めぐり・玖木地区(20-6)

 四万十市西土佐玖木は戸数20戸ほどの小さな集落です。今回の旧西土佐村集落講演会のシリーズもいよいよ本格化し始めましたが、20-1回目が玖木地区でした。一回目の感想や様子はブログで紹介していますので省略しますが、その集落講演会が縁で「玖木の一日橋めぐり」という小さなイベントが誕生したのです。そのイベントを実施出来たのは区長さん始め多くの地域住民の「何とかしなければ何にも始まらない」という熱い想いでした。そしてその活動をサポートしたのは産業課の中脇さんと藤倉さんの二人の女性でした。イベントを開くための準備会を開き、案内パンフも、玖木までの道筋に看板をかけるのも二人がお手伝いをしました。勿論地域住民が主役で食材を持ち寄り、柴もち作りの技、藁細工の技を持ち寄り、雨の日メニューまで用意する周到さです。この日は期待した梅雨明けもなくあいにくの雨模様でしたので、参加キャンセルが相次いで人数的には少なかったようですが、その分地域の人や参加者が主役になって和気藹々の集会となりました。

 「えっ、橋なんてグリーンツーリズムの地域資源になるの?」って疑問が返ってきそうですが、足元を見れば玖木地区には何と大小取り混ぜて20もあるのですから驚きですし、その橋も四万十周辺にしか見られない珍しいものがいっぱいあるのです。傘を差しながらマイナスイオンの中を橋に向かって歩きました。私も20年来旧西土佐村へはやって来ていますが、こんな小さな集落へ足を踏み入れるのは初めてだし、橋の存在さえも知りませんでした。聞くところによると玖木地区には紹介されていない小さな沈下橋が三つもあるのです。

 四万十川の写真に必ず出でてくる沈下橋は、橋の欄干も無い簡易な橋です。大雨で川の水量が増えると濁流が平気で端を乗り越え沈下するから沈下橋と名前がつけられているのですが、最後の清流という代名詞を持つ四万十川にはどんな立派な橋よりも沈下橋がよく似合うのです。下の写真は最初に訪ねた沈下橋です。

 

 橋のたもとには橋の戸籍とでもいうべき判読が難しくなった古い木板が》立っていました。中村から参加したという女性にお願いして、遊び心で芸術的な写真を一枚撮りました。どうです。雨の中の沈下橋の上で赤いパラソルを差し一人たたずむ女性の姿は何とも旅情を掻き立てます。この日は折りからの雨で四万十の支流黒尊川の水量も多く、川面は絹のような薄い霧に煙っていました。

 少し上流まで歩いていくと紅葉の新緑が目に入ってきました。秋の紅葉の頃はここが一番のスポットになるそうですが、紅葉の新緑も絵になる光景で瀬音ゆかしい姿を見せてくれました。この橋を渡って林道を進むと2時間ほどで宿毛市へ行くのだそうですが、秋には是非錦織なす美しい意紅葉を見たいものです。

 公民館へ帰ってから午前中の最初のプログラムである藁草履作りに挑戦しました。用意してもらった藁を木槌でドンドン音を立ててほぐし、地元のおじさんやおばさんの指導で藁草履を作るのです。地元の人でも藁草履を履いた経験や親から作ってもらった思い出はあっても、自分で作るのは初めてという人もかなりいて、ワイワイガヤガヤとにかく蜂の巣を突付いたような賑やかさでした。地区外から小さな子どもも参加していて久しぶりの子どもの歓声に地区の人は目を細めていました。想像していたよりは難しい草履を幾つか完成した頃には村内に昼を告げるチャイムが鳴っていました。

 さあお楽しみの食事です。今日のメニューは山菜の天ぷら、きゅうりと芋茎の酢の物、豚汁、アメノウオの塩焼き、それに白いご飯となかなかのご馳走です。その全てをパチリ写真に収めました。

 この日のために作ったという竹の食器はまるで「おひつ」かと思わせるような孟宗竹の丼鉢で重くて腕がダルほどでした。天ぷらの衣に味付けをする独特の調理法で全て美味しく召し上がりました。特にご飯は美味しくみんなお代わりをしたり返りにはお結びを土産にとって帰るひともいるほどでした。この手のイベントには

つきもののアルコールが出ないことも私には満足でした。その代わりにお茶の葉っぱを火であぶって煮立てる即席茶は本当に美味しい山村の現場でしか味わえない味でした。

 おばあちゃんが、石臼を持参しました。トウモロコシの乾燥した種を粉にするのです。私たちの子どもの頃はばあちゃんに頼まれて石臼を挽いた経験があり懐かしく思いました。2回回して何粒ずつか穴に入れる作業は気の遠くなるような作業ですが、それでも臼ですり潰したキビの粉が臼の回りに出ると嬉しくなって回したものでした。このキビ粉は午後の柴餅の中に交ぜて使うのです。おばちゃんの粉を挽く姿に死んだ母や祖母の姿が重なり、懐かしい思い出いっぱいになりました。

 お昼の時間を利用して篠田幹彦さんに誘われ奥屋内の炭窯づくりを見学に行きました。8人ほどがショベルカーを使って炭窯周辺の整備を行っていました。懐かしい顔ぶれに出会いここにも田舎でどっしり生きてる人々の活動を見せてもらいました。わが人間牧場と同じく屋根は節を抜いた竹を交互に組んで屋根に葺いたりしていましたが、切り時の良い竹を葺いた炭窯も中々味のある出来栄えのようでした。

 公民館に戻り出来たての温かい柴餅をいただき、再び橋めぐりに出掛けました。沈下橋に出た所でカヌーで激流下りを楽しむ松山から来たという一団に出会いました。彼らは雨の中でアウトドアスポーツを楽しんでおりみんな感心して見とれていました。

 橋めぐりの最後は橋が流されている場面で終わりました。何でもこの橋は増水時に引き上げられるという何とも奇妙な板橋ですが、このところの増水で橋が流されワイヤーでくくって川岸にあるのを見ました。いやあ、実に橋めぐりは楽しいイベントでした。

  「それぞれの 橋に名前が あるのです 向こうとこっち 想い結んで」

  「あいにくの 雨で橋上 昼寝する 夢は叶わず 次の機会に」

  「これ程の 橋を活かせば 必ずや 人は見に来る みんな頑張ろ」

  「雨だから 出来る仕事を 黙々と 炭窯造る 姿に感動」

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shin-1さんの日記

○結婚しない人

 少子化が大きな社会問題となってきました。日本の人口状態は戦後ずっと人口ピラミッドといわれるように正三角形の形をしていました。しかしそれが釣鐘型となり、最近では逆三角形になろうとしているのです。私たちが若い頃、スウェーデンの社会福祉制度が進んでいることを学びましたが、北欧のそれとは比較にならない程のスピードで高齢化社会が到来し、今や日本は世界一の長寿国になったのです。長生きすることは医学の進歩もさることながら豊かさの証明ですから喜ぶべきでしょうが、働らいて社会を支える人が減り、福祉の恩恵を受ける人が増えるバランスの崩れは将来への大きな不安となっているのです。

 女性が子どもを生む出生率は1.3人を切ってしまう事が大きな要因に変わりは無いのですが、最近少子化の原因として結婚しない人が増えていることを指摘する人が増えつつあります。現代の結婚適齢期は男性が限りなく30歳に近い平均29歳、女性は平均27歳で10年前より1歳も晩婚化しているのです。更に結婚を恋愛か見合いか調べれば圧倒的に多かった昔に比べて見合いの比率が10パーセントで、恋愛が90パーセントとその比率は恋愛が殆どになりつつある勢いのようです。

 独身貴族は余程のことがない限り子どもを生みません。独身が増えるということはその分だけ子どもの出生率が減る計算になるのです。今若者の間では結婚したくない症候群なる病気が蔓延しているといわれています。テレビドラマに出てくる未婚の男性や女性はセレブと呼ぶに相応しいゴージャスな部屋に住んで暮らしています。全ての暮しが自由で、不自由な結婚生活をするよりははるかに煩わしさの無いものですから、誰もが憧れることは当然のことかも知れません。独身者は親元を離れ一人暮らしをするものですから、一人身に対する社会の目も届きにくく、その自由さがまた魅力なのでしょう。

 私たちの身の回りには昔に比べ未婚の女性や男性が沢山います。かつては地域に青年団のような若者の交流機会がたくさんあった時代に比べると、今はそんな男女出会いの場所も限られているのかも知れません。でも高学歴化社会になって長い学生時代が昔より増えたことを思えば、交流の機会は今も昔も変わらないはずなのです。

 離婚率が増えたことも気になります。結婚した人の40パーセントが離婚するという、信じ難い数字があるのです。そういえば理由はどうであれ私たちの身の回りには子どもさんを連れて親元へ帰って暮らしている親子を随分見かけるようになりました。私たちの町のように過疎化が進んでいる地域では、人口が増えることですからそれはそれとして喜ぶべきなのでしょうが、親の都合で離婚する、しかも離婚の原因が「性格の不一致」なんて訳の分らぬ出来事に子どもの一生を巻き込んで果たしていいものかと、深く考えてしまうのです。子どもにとって心の安定はやはり願わくば両親がいる方がいいことに変わりは無いのです。

 最近の青少年問題の深刻な原因も、案外そんな家庭の変化にあるのかも知れません。

 私は今まちづくりの仕事で日本全国の過疎地域を回っていますが、40歳を過ぎ若者とはいえない若者が親とひっそり暮らしている結婚しない人の多さに驚いています。ひと頃のように町や村が外国からでも嫁さんを探そうなんて積極的な嫁武装玖対策に乗り出すような所は皆無に等しくなりましたが、親の死んだ後の一人暮らしの息子の末路を考えると少し寂しい気がするのです。

 いずれにしても「結婚しない人」をなくすることが涵養です。「若者よ、結婚は素晴らしい」と私は胸を張って主張します。

  「結婚を しないで人生 終えるとは 勿体無いの 一言尽きる」

  「俺なんか 子ども四人も 産んでいる これが自然だ 社会に貢献」

  「性格が 合わぬと離婚 したがるが 他人同士だ 会わぬはずだよ」

  「気になるな 急速進む 少子化は 日本の未来 暗雲立ち込め」

 

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shin-1さんの日記

○寅さんの夢

 平成6年の夏にフーテンの寅さんが死んでから早くも12回目の夏を迎えました。国民的英雄になった寅さんに「やあー」と声を掛けてもらっただけの私ですが、私が撮った一枚の写真と第19作の映画ビデオは今も大切に手元にしまっています。寅さんの映画の楽しみは色々ありますが、欠かせないのは最初に見る「寅次郎の夢」でしょう。双海町下灘駅が舞台になったのはそんな夢から現実へ引き戻される場面だったのです。

 《勤皇の志士が相次いで集う京洛の地に忽然と現れた熱血の士鞍馬天狗。その天狗のもとに駆け寄る杉作。連れて来てくれた女性に礼を言って立ち去ろうとした時、「もしやあなたは江戸は葛飾柴又の生まれでは?」と尋ねられ、頭巾を脱いだ顔を見ると妹のさくらだった。しかしその時すでに敵の罠が迫っていた。》

 「お客さんのぼりの列車が来ますよ」とエキストラに扮した駅長がプラットホームのベンチで寝そべって夢を見ている寅さんを起こし、夢から覚めた寅さんは瀬戸内海に向かって大きなあくびをしてテーマ音楽が始まる筋書きは、ビデオを何回見ても思わず噴出してしまうシーンなのです。

 私は当時町の広報マンをしていました。寅さんのロケが下灘駅であることを知って現場に駆けつけると、山田洋次監督はカメラの後ろで細かい指示を出していました。私は山田監督に許しを得てその風景をカメラで連写しました。その一枚は様々な場面でよく使われました。特に下灘郵便局が夕焼けプラットホームコンサートの度に作ったたとうには何度も登場したのです。記憶ではその日は昭和52年8月1日の出来事でした。

 その後夕焼けプラットホームコンサートを始めて開催したのは昭和61年6月30日ですから10年後にこの駅に再び脚光を浴びさせたのです。あれから20年余りの歳月が流れました。寅さんの夢が私の夢になり、その夢が現実となって夕日を世に出したのです。日本一海に近い駅と言われた下灘駅もその後海側にバイパスが通って、今は日本一海に近い駅という名前を返上していますが、時の流れの早さに驚く今日この頃です。

 寅さんの寝像を造りたいという夢もそろそろ実現しなければならないと思いつつ、未だ一歩を踏み出せないもどかしさを感じつつ、今年もまた暑い夏がやって来ました。先日関西汽船の浜田さんがサライという雑誌を届けてくれました。「寅さんを旅する」という特集号なのですが、寅さんは何時になっても歳をとることもなく、カバンを提げて旅を続けているような錯覚を覚える今日この頃です。

  「田舎駅 ひょいと寅さん 降りそうな そんな気がする ホームに立ちて」

  「寅さんの 寝像造ると 意気込んで 松竹掛け合う 昔懐かし」

  「やあとだけ 言葉を交わした あの時の 寅さん今も 脳裏に焼きつき」

  「どの辺り 旅を続けて いるのやら 寅さん旅先 ひょいと会うかも」

  


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