shin-1さんの日記

○男時と女時

 昨日は夏至でした。一年中で夜が一番短く昼の長ーい一日でした。このところ娘のお産後の実家での休暇による新生児の世話の疲労が蓄積している妻は、肩こりと睡眠不足の重なりで少々お疲れモードのようですが、特に夜の短い睡眠不足は私から見ると寝ている方なのに、なかなか解決はしないようです。冬至なら灯火親しむのでしょうが、夏至は朝が早く夜が何時までも明るいのでお天道様を親しみ、外明かりで本を思う存分読みたい心境です。

 昨日ある本を読んでいると「男時」という言葉を見つけました。はて「おじ」と読むのか何と読むのか分らず、ましてや意味さえも分らないので、広辞苑で調べてみました。残念ながら私の広辞苑には載っていません。しからばとヤフーの辞書で調べると「おじ」と読む、意味は「何でも上手くいく時」だそうです。ちなみに反対用語は「女時」で「めじ」と読みます。「上手くいかない時」です。

しかし驚きました。男が上手くいって女が何故上手くいかないのか、語源を辿るほどに男女の差別が見えてくるのです。日本はその歴史を見ても明らかなように、今でこそ男女同権の世の中に見かけはなっていますが、つい最近まで男尊女卑の国でした。「女性は子どもを産む機械」などと大臣が言って世間の批判集中砲火を浴びたことは記憶に新しいことですが、言葉の世界ではこうした差別が沢山現存しているのです。

 「男時」「女時」の語源は能の世阿弥であることに行き着きました。世阿弥といえば風流を楽しむ詫び寂びの世界で名を成した歴史上の人物ですが、もし世阿弥が今の時代に生きてこんな言葉を言ったなら、世の女性たちはどんな叱責を浴びせるのかと思うと、人の世の華やかさに比べ、裏側に陰湿めいた感じを覚え、少し世阿弥の評価を下げねばなるまいと思ったものです。

 昨日は一日中雨模様の天気でした。松山で開かれる金融広報員の研修会があったので車で出かけました。梅雨の季節、夏至の寝不足などが重なり気分を高めるような条件ではありませんでしたが、何故か信号が殆ど青で、出勤時だというのにスイスイと

僅か30分で松山へ到着してしまいました。このことを「男時」というのだろうと納得して、仲間に「今日は男時でしたと言ったら「剃れ何ですか?」と聞き返されきょとんとしていました。しかし私のようにラッキーだった人だけではなく、昨日は朝からアンラッキーな人が沢山いた事をテレビのニュースで知りました。東京や埼玉では電車の架線が切れて4時間以上にわたって列車が止ったそうです。線路を歩く長い列や、列車に閉じ込められ気分を悪くした人の怒号や体調を崩した人の姿を見ながら、女性には悪いのですがこれこそ「女時」だと思いました。

 上手くいく時を「男時」、上手く行かない時を「女時」という言葉に、62年間生きてて昨日始めて出会いました。「ああ私はまだまだ知らない言葉がたくさんある」とも感じました。人間は様々な時と場所と方法を得て言葉を覚えます。そして様々な時と場所と方法で相手にその言葉を伝えて暮らしているのです。言葉の豊かな人であっても、使う相手がその意味を知らないと「何ですかそれは?」なんて調子で相手に伝わらない言葉も沢山あるのです。別に難しい言葉を使わなくても日々の暮しは出来るのですが、せめて人間に生まれた以上豊かな言葉を持ち、豊かな言葉を持った相手と豊かな会話をしたいものです。

 昨日の研修会には東京から来た講師がお話しをされ、発表や発言、司会や好評など様々な役割を果たされました。「いい話だった」と思う人、少し的が外れた話だったと思う人もいましたが、それは自分という物差しでの話での尺度ですが、少しだけ満足度が足りないような感じで、一日の最初は「男時」、一日の最後は「女時」のようでした。

  「この言葉 何という意味 知らなんだ 六十二年も 生きてて未だ」

  「昔人は 男女の差別 知る由も ないよな言葉 残せど風流」

  「男時だと 知ってウキウキ 全て青 信号だって 青は男時」

  「わが妻に 女時話して 目くじらを 立てられしもた 話すじゃなかった」 

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shin-1さんの日記

○几帳面に記帳面する友人

 私「この杉板の切れ端はどうしているの?」。友人「多分何にも使わず焼却処分しているのじゃないですか」。私「うーん、勿体ないなあ、何かに使えるかも知れよ」。友人「何かって?、どんな使い道がありますかねえ」。私「例えばこの型抜きされた板を4枚使って和紙を貼り、電気を入れるとうちわの型が透けて面白いかもしれないなあ」。友人「面白いアイディアですね。メモしときましょう」。私「ひょっとしたらこれは灯篭流しの灯篭にでもしたら面白いかも知れない」。友人「うんそれも面白い」。てな調子で人の話を聞く度にひらめいたり人に聞いた事を熱心にメモする友人が高知にいます。彼との出会いは道後メルパルクで開かれた「地域の自立とは何か」というシンポジウムの打ち合わせを兼ねて一昨年の12月8日に馬路村へ行ってからですから、そんなに古い付き合いではありませんが、この2年間で最も急接近した人の一人であることは間違いありませんし、こうした向学心がそうするのか最も成長著しい人間だと思うのです。仕事にせよまちづくりにせよ、人間の持っている才能なんてたがが知れています。問題はやる気があるかどうか、そして思い立ったら失敗を恐れず実践できるかどうかが問題なのです。

 始めに書いた私と友人の会話は6月8日に高知県馬路村で開かれた全国まちづくり交流会での出来事でしたから、あれからまだ2週間しか経っていないのですが、今日外出先から帰って郵便受けを見ると何やら見覚えのある板切れが入っていました。下の写真の左側が端材を使って友人の製作した特大のハガキなのです。いやあ驚きです。

 少し説明すると高知県馬路村は魚梁瀬杉の産地です。今でこそゆずで有名な村ですが、高知県の県木にもなっている魚梁瀬杉は古い歴史を持った木材なのです。しかし最近の国産材は低迷しており、また魚梁瀬杉は高価なことから中々普及しにくい難点があるのです。そのような木材を何とか世に出したいと第三セクターエコアスという会社を作り木のうちわ、木の名刺、木のカバンなど次々にヒット商品を開発して世に送り出しているのです。しかしその道は前途多難なようです。

 さて、この写真に写っている右側が木製うちわです。このうちわを作るには左のような薄くスライスした杉板を型でプレスして打ち抜くのですが、右が使える部分、左が商品にならず捨てる部分です。いくら過ぎの名産地で杉が沢山あるといっても、製品率の悪さは目を覆うばかりです。この端材はその点だけでも素材が高くつき過ぎる原因ですから商品としては失格なのですが、端材が生かされるなら、面白いかも知れませんね。

 結局は私の提案を試作して和紙を裏面全体に貼りまずは特大ハガキが誕生しました。このハガキが4枚そろうと電気の和風笠か行燈、若しくは灯篭流しようの灯篭が出来るという算段です。多分友人は近々に2枚目。3枚目・4枚目と送ってくれるに違いありません。彼は下手糞ながら墨字が得意です。今回も墨でハガキを書いてくれました。和紙に墨字は何とも風流でよく似合います。今日は仕事から帰った妻とことの仔細を話し傾向との近くに特大ハガキを置いてすかしてみましたが、中々いいものです。特にうちわのくり抜きが醸すシルエットはやはり夏を感じさせてくれるのです。

 世の中はこうして新しいものが生まれては消えて行きます。友人のこんな試作品も多分何度も何度も失敗を繰り返すことでしょうが、やってみなければ分からないところがまた面白いと思いました。

 友人の別名は山猿、私へのメールにはいつも海猿様と書かれて届きます。山猿の勇気ある行動に大きな拍手を送ります。

  「この端材 何かに使え そうすれば もっと儲かる 早速試作」

  「木と和紙と 墨が織りなす ハーモニー 美し日本 何か演出」

  「儲からぬ うちわ作って 内輪もめ それもそのはず 半分捨ててる」

  「気を使い 工場見学 するうちに ひらめきましたよ 俺のアイディア」

 

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shin-1さんの日記

○PTAの同窓会

 PTAとはペアレンツ・ティーチャー・アソシエーション、つまり子どもを持つ親と教師の会の略称なのですが、日本全国の殆どの学校にはPTAという団体が組織されていて、それぞれ会費を徴収しながら活動をしています。アメリカから戦後渡ったこの社会教育関係団体は崇高な理念とは裏腹に意外とその実態は形骸化しているようです。会員となるべきはずの親は会則にしたがって会費を徴収されますが、殆どの人はお金を出すだけで活動には参加しない幽霊会員なのです。しかも本来会員になるべきはずの教師は参加せず、「親の会」的存在だし、もっとも危惧するのは親は両親のはずなのにいつの間にか親は殆どが母親だけなのです。私がはからずもPTAの会長になった時、就任あいさつで「PTAとかけて何と解く。破れたブラジャーと解く。その心は父(乳)が時々顔を出す」と発言して爆笑されたそのままに、母親以外の父親は会長や副会長といった役員がいい訳程度に顔を見せているのです。子どもの教育にとって母親の包容力も大切ですが、父親の理性も欠かせない大事な役割だと思うのですが残念ながらその実態は今も解消されないでいるようです。最近は「おやじの会」などがことさらに強調されて組織されていますが、これはPTAの親団体を母親に乗っ取られている紛れもない事実で、「お父さんもっとしっかり」とそのふがいなさや、何故親父の会をまことしやかに作って活動をしなければならないのか、指導者の指導の在り方に疑問を持っています。

 昨晩、高校PTAの同窓会とでもいうべき「まさご会」の役員会に出かけました。はからずも私がその会の会長をしていますが、役員会には校長・教頭・事務長の学校関係者と、会長・副会長・幹事・監事が10人余り集まりました。大人の会なので場所も市駅前のこじんまりした小料理屋です。会費制で飲み会がセットされていました。会議は学校長が学務を報告したり収支決算や役員改選を主な議題として話し合われました。肝心の役員改選は昨年の役員会で私を含めた役員全員の再任が決まった時、来年度の会長を決めていたので、私の退任がすんなり決まりました。老兵は去るのみです。

 私にとってPTAは実に楽しいものでした。PTA活動によって学校や子どもの実態が見えてきたし、PTAで学んだことや知り合った人は数えることが出来ないくらいです。PTAは常任理事1年、副会長1年、会長6年と3人の子どもが相次いで同じ学校に在籍したことでついつい長くなり、県Pの副会長や中予の会長を兼務して様々な活動に参加したものです。やっと長い長いPTA活動が終わりそうでホッとしています。後は7月に開かれる総会で承認されれば全て終りです。

 それにしてもPTAに同窓会があるなんて他の学校では余り聞いたことがありません。旧交を温めるには最高ですが私はこの会を学校支援団体と思ってきました。毎年の総会では酒に酔ったことを利用して懐から何がしかのお金を出させ、学校支援に役立たせてきました。また全国大会への大会出場の度に寄付金を集める団体にもなりました。学校に物申す団体はPTAで沢山です。同窓会はかくあって欲しいと退任のあいさつをするつもりで、楽しい語らいを終えました。

  「PTA 今じゃ随分 様変わり 母しか参加 しないおかしい」

  「また一つ 俺の重荷が 取れてゆく 少し身軽な ウキウキ気分」

  「親・教師  参加してこそ PTA だのに親父も 教師までもが」

  「PTA 私にとっては 大恩人 学ぶことあり 人にも随分」 

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shin-1さんの日記

○時刻表の文字が読み辛くなった

 出張で県外へ行く場合、最近までは大判の時刻表を繰って目的地までの予定を書き込んでいましたが、インタネットの使い方が分ってからは、出発日の出発地と出発時間時間か目的地と到着時間を入力さえすれば簡単に検索が出来るようになって、とても便利になりました。先日博多と人吉経由であさぎり町へ行く場合も、あらかじめデータを集めて、到着時間を相手に知らせておきました。ところが間に合わないと思っていた博多発の列車より一本早い列車が到着したので思い切って飛び乗りました。早朝だったので列車は空いた席も目だっていましたが、さすが日曜日、しかも父の日とあって特急の止る駅に着く度に乗客の数が増え、特急といっても僅か2両の自由席には立っている人もいるほど込み合って、球磨川沿いを走る頃には鮨詰め状態となりました。熊本駅の売店で買い求めたワンコイン500円の小版の時刻表を見ながら、旅の夢を追おうとしましたが、外は曇り空、しかも車内は室内灯の光も弱く、時刻表の数字がなかなか読み取れないのです。この歳になってもメガネの要らない私ですが、さすがに時刻表の文字は小さく、3と8、9や6と0などが判別がつきにくいのです。それでも目を細めながら最初のページの絵地図の中のページ番号を頼りにメー時をめくり、到着と発車の時刻を結んで行くのですが、これが意外と楽しいものなのです。

 「時刻表は空想の本」だとしみじみ思います。例えばわが町を基点に考えると予讃線海岸周りの載ったページを索引し、「いよかみなだ」の出発時刻を見ます。この時刻表ではまだ海岸周りが予讃線の本線で、内子線は支線として掲載されてます。宇和島発から高松着の上り列車の時刻がお行儀よく並び、伊予か松山からは特急に乗り換えるため「特急しおかぜ」の欄にリンクして時刻を追って行きます。何度も乗車経験のある私としては頭の中に駅舎や車窓の広がる風景を連想しながら、旅程を組み立てて行くのです。先日行った秋田などは松山空港まで車で行き、そこから羽田を経由して秋田空港に降り立つ巻末近くの航空ダイヤを索引しますが、航空ダイヤは季節によって発着時刻が変るので注意しなければなりません。また空港へ迎えに来てもらえる地方は心配ないのですが、羽田だと東京モノレールを乗り継いで再び列車の時刻表に戻らなければなりません。こうして次から次へとページを捲りながら夢を紡いでゆくのです。この作業をインターネットは条件入力さえすれば瞬時に作業をしてくれ、出発時刻の早い順に3案を提示し、しかも金額や乗り換え待ち時間まで出るのですから大したものです。旅の不安は時間と金額ですから、その二つの大まかな予定が立つと案外安心できるのです。

 役所に勤めていた最近までは、JRの駅にに電話をしたり前回の出張で計算した旅費明細を捲りながら旅費計算をしたものですが、今ではその必要もなく正確な普通料金と特急料金が出ます。今年の春先税金の確定申告の時、始めてこの便利なシステムのお世話になって重宝しました。例えば普通私が講演に行く場合、何がしかの講演料を貰います。その講演料と旅費を合算した金額から10パーセントの税金が差し引かれて手渡し若しくは振込みとなるのですが、私はこの方法は間違っていると主張しました。だって講演料の税金は理解できますが、旅費は税金を引かれるとその分だけ赤字になるのです。旅費は必要経費だからとお話したら、要った旅費を一覧表で提出するよう求められました。旅は終わっておりそんな難しいことを言われても出来ないと思っていたのですが、何とこの作業が瞬時に出来てしまい、一覧表を提出して税務署への申告を終わりましたが、何と何とこの作業によって凄い金額が還付されたのです。還付の通知ハガキを貰った妻は大喜び、小躍りしていました。

 私の旅はまだまだ続きそうです。折角手に入れた小版の時刻表は6月号です。そんなに長い間は使えないと思いますが、駅に備え付けの大版時刻表と共にせいぜい利用して旅の夢を膨らませたいと思っています。

  「これだけの 厚みと文字で 五百円 安いものだが 間もなく古く」

  「空想を 巡らせ捲る 時刻表 駅弁・風景 人の姿が」

  「特急の 名前全てに 物語 路線を走る 夢乗せ走る」

  「カバン提げ まるでフーテン 寅のよう 今日もどこかの 駅に降り立つ」


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shin-1さんの日記

○タマネギのインテリア

 昔の田舎家は薪の風呂が多く、冬の間に薪を割りその薪を風呂場の近くにうず高く積んだ姿はどこか田舎を演出する光景でした。また夏から秋にかけて収穫したトウモロコシの皮をむいで束ね、軒先に吊るす姿は干し柿とともにどこか懐かしい子どもの頃の光景として私の目と心の残像として残っています。トウモロコシの種を買うような余裕はなかっので、春が来るとそのトウモロコシの実を丁寧に取って種として蒔いた記憶がありますし、そのトウモロコシを炒って粉に挽いてはったい粉にしたり、時にはドン豆にしたり、時にはとうきび飯にして食べたりもしました。今でこそ雑穀はヘルシー食品として見直されていますが、お米のご飯が食べたい私たちが子どもの頃はトウモロコシは憎い食べ物として「またトウモロコシか」と敬遠をしたものでした。

 先日梅雨の前に収穫したタマネギの乾燥が終わって、そのタマネギがわが家の離れにある私設公民館「煙会所」の軒先に吊るされました。例年だとこの作業は年老いた親父と私の共同作業なのですが、このところ私が忙しく家を空けるときが多かったので、親父はそのタマネギを魚網を使って自分で作った袋に入れて軒先に吊るしていました。脚立にも上がれない親父がどのようにして吊ったのかは不明ですが、今朝起きて家の周りを散歩すると綺麗に吊り下げている姿に嬉しくなってカメラを持ち出し一枚パチリと撮りました。いやあいい風景です。絵になる田舎の風景だと思いました。

(軒先のタマネギのインテリアアート)

 私設公民館「煙会所」の窓は今でも和風な障子でできています。雨風が吹き付けないように北側の障子の外にはサッシ窓をはめ込んでいますが、サッシ窓を開ければ障子の風景が出てきます。白い障子と黒い焼き杉の板塀、むき出しの軒先にタマネギの吊るした袋が加われば、これは立派なインテリアだと思うのです。

 最近はどの町へ行ってもその町やその街に個性がなくなったと感じています。勿論最近は建築的には洋風の個性的な家がどんどん増えて見る目には楽しいのですが、家は群れを成してこそ町や街なので、どこかまるで住宅展示場のような違和感を覚えたり、個性ある地域の顔がないような気がするのです。

 先日熊本県のあさぎり町への道すがら人吉駅で降りました。時間があったのでそこら辺を散策しましたが、駅の近くに阿蘇神社というそれは立派な神社の森がありました。大きな楠木群や社群はそれは見事で思わず見とれてしまいましたが、その周辺の風景はこれまた遠い少年の頃にタイムスリップしたような懐かしさを覚えました。旅先で見つけたこんな日本の原風景に突然出会うとついつい嬉しくなるのは、私の心の中に日本文化のDNAが存在するのではないかと思ったりするのです。

(残念ながら満開を見落とした盛りを過ぎたくちなしの花)

(朝日がまばゆい初夏の庭)

 毎日見ている何気ない風景のわが家の庭ですが、梅雨の晴れ間の今朝の庭にはまばゆいばかりの朝日が差し込んで何ともいえない季節感を漂わせています。この季節の移ろいを私は忙しさにかまけて毎日見忘れているのです。窓を一杯開け深呼吸をしましたが、「ああ俺は生きている」って感じのすがすがしさです。深呼吸をすると何やら芳しい匂いが漂ってきました。見ると盛りを過ぎたくちなしの花が沢山咲いていました。多分くちなしの花は冬の寒さを越えて一生懸命咲いたのでしょうが、見られることもなく、香りを感じてもらうこともなく秋の赤い実となって食用に摘み取られる運命にあるのでしょうが、この花も一枚撮りました。

 何気ない風景や何気ない季節の移ろいをもっと肌で感じ、もっと生きている実感を味わって生きて行きたいものです。

  「タマネギが 我家軒先 吊るされて ああ梅雨だなと 空を見上げる」

  「窓開け 匂いの向こうを 眺めれば 白きくちなし 既に遅しと」

  「梅雨晴れて 朝日緑を ことさらに 引き立てるよう 今朝のわが庭」

  「ああ俺は 生きてるんだと 思う朝 自分が自分に 気付く愚かさ」

 

 

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shin-1さんの日記

○同類なのか

 人間牧場を始めてから、アウトドアー志向の人の生き方や考え方が妙に気になり始めました。世の中に面白いもので、その目で見ると楽しい生き方をしている人が沢山います。そんな中に小野田自然塾理事長の小野田寛郎さんがいます。先日テレビの番組に出演されている姿を見ました。小野田さんといえば30年間もルバング島のジャングルで生活し昭和49年帰還された最後の日本兵として余りにも有名な方です。当時は「恥ずかしながら」で始まる第一声でグアム島から帰還した横井庄一さんとよく比較されたものですが、横井さんが普通の兵隊さんだったのに対し小野田さんは陸軍中野学校で教育を受けた小野田少尉として帰還の雄姿は今も私たちの目に焼きついているのです。帰国の翌年ブラジルに渡り牧場を経営、昭和59年から福島県で財団法人小野田自然塾を開いています。毎年春から秋にかけて帰国し日本に滞在、全国で講演活動を続けておられます。

 小野田さんの生き方については文章なども出ているようですが、私が共鳴するするのは生きること老いることへの考え方です。

小野田さんは現在84歳なのですが年齢のことは余り考えないようにしているのだそうです。「今何歳かは問題ではなく、また今までどれだけの事をやって来たかではなく今から死ぬまでに何が出来るかが問題だといいます。そういう目的がないと人間は怠慢な動物だから寝転んだしまって努力をしないものです。老いたら子どもに見てもらうという考えが日本人にはありますが、動物の世界では一匹一匹が餌を取って死ぬまで生きなければならないのです。人間は助け合って生きる動物ですから人のためにないができるかという生き方をするのが理想的ですね」と話されていました。同感です。

 健康についての質問には「命は天にあり、身は我にあり」と即答していました。「生命というのは自分ではどうにもならないもの、何時死ぬかを分っている人はいないのです。でも自分の健康を守るのは自分なのです。ルバング島では無意識のうちに満腹は避けていました。敵と遭遇したとき満腹だと走れないんです。自分が食べて一番美味しいと思ったものが一番自分の身体に良いのじゃないでしょうか」とも話されていました。

 小野田さんの生き方にはルバング島で常に死と向かい合って生きていたと思われるのですが市の恐怖について、「毎日毎日力いっぱい考えて実行して、それで死ぬなら仕方がないと思っていました。人事を尽くして天命を待つという一種の開き直りでした」と話されました。

 最後にアナウンサーが「団塊の世代の方がリタイアしますが何かメッセージは」の質問に、「もう一度生まれ変わったつもりで」と言われました。過去を引きずることなく不撓不屈の精神で挑戦すると、何をすればいいのか自ずと見えてくるものです」とくくられました。私は小野田さんの話を聞きながら「生まれ変わったつもり」という言葉に日本人に対する強いメッセージを感じたのです。

これからでも遅くはないし、社会への貢献も出来るのです。私も生まれ変わったつもりで生きていこうと思いました。

  「ジャングルで 生きた少尉の 言葉ゆえ 重みひしひし わが身に染みる」

  「あと少し 一花ふた花 咲かせたい 小さな花で いいのですから」

  「人間は 誰も必ず 老いてゆく そんな幻影 怖るに足らず」

  「生き方は 百人百様 違うもの 己が行く道 自分で探せ」


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shin-1さんの日記

○shin-1さんの日記全部プリントアウト完了

 私のような学校でパソコンを習っていない年齢の人間にとって電子文字の文章は、「ひょっとしたら何かの拍子で文字が消えるかもしれない」という不安がいつも頭をよぎっています。多分それは基本も何も分らぬままうろ覚えでパソコンをどうにか使えるようになり、その途中で苦労して書いたはずの文章が登録もせず消えたり、バックアップも出来ない苦い経験をしているからだと思うのです。電子文字はパソコンやディスクにコンパクトに収まるから意味があるのであり、それをプリントアウトすると膨大な資料となって置き場所に困るのは当たり前なのですが、それでもペーパー化しないと気がすまないのがアナログ人間のやることだとしみじみ情けなくなることがあるのです。先日上京した折プリンターのインクを高いなあと思いつつ大量に購入してきたため、父の日の子どもからの贈り物である最新のプリンターに変える前にこのインクを無駄には出来ないと、急遽ペーパーにプリントする事を思いつきました。

 2005年9月8日から書き始めたブログの記録によるとその年の9月は29本の記事でしたが、10月51本、11月58本、12月83本、2006年1月64本、2月54本、3月91本、4月81本、5月64本、6月56本、7月50本、8月54本、9月52本、10月32本、11月34本、12月49本、2007年1月31本、2月35本、3月38本、4月45本、5月43本、6月28本と、驚くなかれ昨日まででその合計1122本という驚異的な数字が出てきました。一番多い月は昨年の3月に91本、12月に83本、4月に81本と書いて書いて書きまくっているのです。

 最初は気楽に考えてプリントを始めたものの途中で嫌になり止めたいような心境にもなりましたし、インクやペーパー切れの度に挫折しそうにもなりましたが、今朝方まで頑張って何とかプリントアウトを完了しました。百円ショップのダイソーで安物のバインダーを購入していましたので、パンチで穴を開け1ヵ月ごとに閉じこむ作業を行った結果、今月はまだ途中なのでプリントしていないものの21冊の読み物が完成したのです。少し苦労はしましたが今は「やったー」という心境です。

 さてこの本の活用ですが、もう少し時間が取れたら一冊ごとに目次を起こし人間牧場の備品にして、このエッセーを素材にして「若松進一ブログ夜話」というお話会でもしようかと考え始めています。拙文や誤字脱字はまだ校正していないので人間牧場からは門外不出にしなければなりませんし、知人友人の名前もかなり実名で出ているのでそのような取り扱いをしたいと思っています。それにしても塵も積もれば山となるもので毎日の積み重ねは平凡ながら続けると非凡になることもよく分りました。多分これからも続く限り頭の鍛錬のつもりで書こうと思っていますが、とりあえず目標にしていた2年間が9月の8日に満了となるので、グレードアップの方法をこれから3ヶ月足らずで考えてみようと思っています。

 ブログを始めて幾つかの事に気がつきました。私は拙文ながら文章を書くことは苦にならないのですが、ブログのように毎日書いていると、案外書くスピードが上がるのです。私の一日の日課は朝1本、寝る前一本てな調子で書いていますが、残念ながら長期で旅に出るとその日は否応なしに休止に追い込まれます。携帯用のパソコンを買い求めて旅先でブログを書くことも考えましたが、セミリタイアした私がまるで会社の営業マンのようにそこまでパソコンに身体を沈めてしまう必要はなく、まあ出張中はお休みくらいでいいのではないかと割り切っています。

 「書くの裏側に読むがある」、これもブログを書き始めて感じたことです。話題は身近なものほど面白いのですが、そうそうブログに書くような話題も落ちているものではありません。でも飛行機や列車の中で読んだ面白い本や新聞は格好の素材となるようです。これからもどんどん進化していいブログを書き続け、せめて10年くらいは書いてみたいなあと手の届きうるささやかな淡い夢を見ているのです。

  「これでよし 落雷なんか 怖くない プリントペーパー 高く積まれて」

  「使わずば 積読悪評 叩かれる 生かすも殺すも 知恵次第です」

  「読み返し あの日あの時 あんなこと こんなに書いて ウンウンウンと」

  「ブログ書き 少しは進化 したようだ 自分に納得 人はどうだか」

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shin-1さんの日記

○父の日の贈り物

 「お父さん、父の日の贈り物は何がいい」と、数日前産後の休養で帰っている娘と娘婿が唐突に聞くのです。この歳になると「欲しいものなどないので「何もないから心配せんでもいい」と返しました。すると娘婿が「お父さんのパソコン用のプリンターはスキャナーがついていないといっていたので、プリンターはどうですか」というのです。でも私のプリンターはまだ使えるし、「勿体ないからまだ使う」と答えましたが、娘婿は早速手持ちのパソコンでプリンターのカタログを画面に写し、「キャノンかエプソンか」などと盛んに話しかけ、結局は「任せる」で一件落着しました。私は誕生日や結婚記念日や父の日などに決まって贈り物をくれる子どもたちに恐縮しています。長女にはその事をいつも言うのですが長女は「子どもを産んで育てたのだからそれくらいのことは甘えなさい」と殊勝なことをいってくれますが、自分のお産で孫の世話をしてやった恩義を感じての話と受け止め今年も父の日のプレゼントを甘んじて受けました。子どもたちはその金額を4等分して長女の威厳を少し上乗せして今年も父の日前の金曜日に大きな箱に入ったインターネットで注文のプリンターが届きました。先日上京した折現在のプリンターのインクカートリッジを大量に購入していて無駄になるといけないので、急な思いつきで全てのブログをプリントアウトすることを決意し、朝な夕なその作業に追われているのです。昨日は九州熊本県あさぎり町からの帰りで、午前中の会議も全てこなせたため午後からは約4カ月分のプリントを終え、後4ヶ月を残すのみとなりました。

 父の日はアメリカが発祥の地と言われていますが、父の日が近づくと新聞広告もデパートの売り場も父の日目当ての商品が数多く売り出されます。人間には必ず両親がいるのですから、プレゼントにこだわるだけでなく死んでなくなったりしていてもお墓参りなどをすればその恩に報いることは出来るのですから、その意味をかみ締めることが大事だと思うのです。日ごろは口うるさく言う父親の存在はこの歳になってもついつい煙たいものです。若い頃はそのうるささが頭に来て口喧嘩もやりましたし、反感反目の抵抗もしました。しかし自分がその歳になって逆の立場に立たされている今思うと、親の言った言葉が一つ一つ胸に迫ってくるのです。幸い4人の子どもは大きな反感反目もせず、反社会的な人間になることもなくここまで成長し、父の日のプレゼントを贈ってくれるような優しい心根の人間に育ちました。世の親がしたような親らしいことは何一つしてやっていないのにです。

 私は子どもの名前全てに私の一字「一」を頭につけています。したがってわが子は全て英語のイニシャルがⅠWなのです。親の思いつきと何気なくつけた名前ですが、先日友人に指摘されて意外な事に気が付きました。長女は一子で子どもの子がついています。故なのか助産師をしています。長男は一心で心がついています。故なのか設計の仕事をして人間の心を追求しています。次男は一生で生がついています。故なのか看護師として人の命に関わる仕事をしています。三男は一公で公が着いています。故なのか警察官として公を守っています。こうして子・心・生・公毎に名前の一字らしい仕事を天職として選んでいるのですから、私の眼力も相当なものです?。

 プレゼントを貰ったから子どもを産んでよかったと思う軽薄な考えは毛頭ありませんが、それでも子どもからの贈り物に感謝したい心境に変りはないのです。

  「自分さえ 忘れていたな 父の日に 大きな箱が ドンとわが家に」

  「一年に 一度の記念日 忘れずに ちゃんと感謝の 子どもに感謝」

  「九十の 父に感謝の サロンパス 今朝も腰貼り 今日も元気で」

  「親父とは 子どもに反感 反抗され 育つもんだと しみじみ思う」 

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shin-1さんの日記

○シルバー割引となった2等の切符

 一昨日は旅の日程の都合で小倉から旅客船に乗って松山観光港へ着きました。普通だと博多から新幹線で広島まで出て宇品経由で松山観光港へ向かうのですが、夜遅くの広島からの船便がなく、広島に一泊して早朝の船便で帰っても朝からの会議に間に合わないため、仕方なくノロノロ旅となりました。しかしスピードな旅に慣れている現代社会にあって、超スローな船旅は何とも超安価で贅沢な旅だと実感しました。

 JR小倉駅から船着場までは時間もあるので人影もまばらな動く歩道を歌を歌いながら歩き、港までの一直線の道を迷うことなく到着です。早速切符購入に必要な旅客名簿に備え付けの鉛筆で所定の欄に記入し「若松進一・62歳」と書き込み、カウンター嬢に見せると、「免許証をお持ちならお見せください」というのです。「私は嘘をついてない」と不信に思いながら背広の内ポケットに手を突っ込み、免許証を差し出したのです。「はい結構です」といっていわれた3520円の金額を差し出しました。受け取った切符には「シルバー割引20%」と記されているではありませんか。生まれて初めて受ける「シルバー割引」に私の心は妙に複雑な心境でした。「ああ、私もシルバーと言われる年齢になった」と思う諦めと、「20%得した」という優越感が交錯したのです。そのうち「20%の得」を忘れて、「そもそもシルバーとは何歳からなのか」という疑問が生じ始めたのです。普通世間の常識だと高齢者などの基準は65歳だと思うし、老人クラブの入会もその年齢だと聞いていました。この日は皮肉にも近づきつつある自分の老いを切符の「シルバー20%割引」という文字で初めて確認した記念すべき日となりました。

 それにしても「2等」という言葉がまだ乗り物の世界では平気で使われていることも驚きの一つです。特等、特1、1等、2等とランクが分かれていて、ランクが高い船室は上の方にありますが、フェリーで船底に車を積載するため船底の船室はありませんが2等はとにかく一番下なのです。他の上位ランクが個室風なのに比べ2等船室は大広間風で、昔のように何処に寝てもよい早い者勝ちの場所取りはさすがになくなりましたが、人間の寝れる範囲に通し番号が打ってあって、指定された自分の場所を確かめながら下毛布と上毛布を広げ、枕に上カバーを掛けて居場所を確保するのです。

 この航路は旅行会社の募集した四国遍路の旅に参加する九州地方の人々が、団体で乗り込んで中々賑やかでした。殆どに人は私と同じ60歳がらみの定年退職もしくは初老といった風格の人ばかりで、見ず知らずの人ながら気軽に話しかけてくるのです。「どちらまで」から始まる会話は身の上話や八十八ヵ所の話まで巾が広く、結構飽きずに話が延々と続くのです。

 私はこの航路に乗ると浴室に一番乗りで出かけます。小さい風呂ながら動く船の風呂に入れるとはまるで世界一周のクルージングを楽しむような贅沢なものです。シャンプーもボディソープも用意されて中々のものです。酒を辞めたため風呂上りに一杯はさすがになくなりましたが、約1時間前の乗船ですから午後9時55分発までには十分風呂を上がることが出来るのです。11時になると消灯し、朝4時には点灯されるその間の5時間が就寝なのですが、私のように旅なれていると10時には床に就き4時半まで眠るので7時間弱は睡眠時間を確保できるのです。

 でもいつも思うのですが、年金暮らしになると見栄や無駄のない暮しに徹底した方がはるかに気楽で得策なのです。格好をつけて特等室を取ったところで高い金を払って船室という檻の中に入るだけなのです。2等だと隣のおじさんやおばさんのいびきや会話が多少気になりますが、それでも人々の暮しの息遣いが見えてくるのです。今日もこうして新幹線や高速船のスピード旅では味わえない、スローゆえのゆったりした雰囲気が味わえるのですから嬉しいことです。

 朝5時、四国・愛媛・松山の港桟橋に降り立った時初めて、昨夜海の上にいた事を実感しました。

  「シルバーの 二割割引 烙印を 押された切符 記念に持って」

  「船中で 動くお風呂は いい湯だな のんびりスロー 気分最高」

  「一万で 二日間も 乗り放題 そんな旅する 老人横に」

  「どちらまで 会話始まる 船の中 思わぬ出会い ハガキひょっこり」

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shin-1さんの日記

○熊本県あさぎり町へ行きました

 「弁当を忘れても傘を忘れるな」とは、島根県や鳥取県へ行った時よく言われた言葉です。山陰ほどではないにしても九州地方は入梅しているので、傘を忘れたら偉いことになるとそればかりが頭にあって、駐車場に止めた車から降りて九州への旅に出る時傘は忘れず持ちましたが、何と商売道具のデジカメを車の中に置いたまま出かけ、九州に着いた汽車の中で「しまった」と思い出しましたが後の祭りだったのです。ましてや普通持っても行かぬ資料用のDVDをカバンに入れたものの、現地では動かすことが出来ず、今回の九州の旅は私の思考回路が最初から狂いっぱなしでした。ましてや思ったより2時間も早く待ち合わせの場所に到着したものの、担当者の携帯をメモしていたのを家の机に置き忘れて、結局は時間通りの待ち合わせ送迎となりました。それでも遅れた訳ではないので、近くを流れる球磨川を見に行ったり、駅の近くの阿蘇神社を散策したりと成果は多かったようです。

 何はともあれ博多・熊本・八代経由で人吉まで行き、車窓に見える球磨川沿いの風景を堪能しながら人吉駅であさぎり町教育委員会の森さんと落ち合い車上の人となりました。「合併してひらがなのあさぎり町となったこと、町長さんが民間人でまだ選ばれて間がないがまちづくりに対する意欲が高いこと、今日はそこそこ集まる」などと、アップダウの激しい農面道路を進みながら森さんと雑談し約30分で須恵文化ホールに到着しました。500人収容の文化ホールは多分、合併前のどこかの町の施設を引き継いだであろうことが、私設名から容易に感じ取ることができました。

 面識はないのですが、昨年10月27日、熊本県城南町で開かれた熊本県社会教育研究大会が縁での今回の講演会招致だと思われるので、その際出席していた那須社会教育委員長さんや婦人会長さんとも控え室で楽しく面談しました。

(500人収容の立派な文化会館の緞帳も見事でした)

 緞帳が上がり町長さんのあいさつで講演会は始まりました。考えていた出だしのパソコンが使えないため急遽話の組み立てを変えて約1時間半の予定でお話しましたが、会場のマイクの通りもよく参加者の反応がよかったため約10分も延長してしまいました。多分それは控え室で町長さんと話をしたからこちらもその気になったような気がするのです。

 町長さんは就任後まだ2ヶ月ほどしか経っていないそうですが、松下系の会社に勤めていたそうで、「パソコンを持ち歩いています」といわれるだけあって、今流デジタル人間のようです。町長さんのパソコンには毎日のように町民からメールが入るそうで、その対応を動きながらやっているとのことでした。このやる気こそが町を変えてゆくのだとも感じ心の底で感心したのです。

 私はふと自分の知ってる何人かの首長さんの顔を思い浮かべました。その中に昨年関東のある市で青年会議所主催のまちづくりシンポが行われました。パネラーで招かれたよそ者の私と市長さんと会議所理事長、それにコーディネーターが議論を戦わせました。その時市長さんは「私は毎日パソコンに届く市民の意見に耳を傾け、開かれた行政をやっています」と話されました。私は議論を吹っかけ「私は古い人間でパソコンを学校で習っていません。多分市民有権者の年齢の高い人は殆どの人がパソコンを使えないものと思われます。私はブログを書き、メールをやっていますが、幾ら私が立派な事をブログに書いてもパソコンを操作できない人にとってはタダの電子ゴミなのです。確かにデジタルの効果は認めますがそれがあたかも全ての意見であるかのような錯覚は止めた方がいい。4年間意見を聞き続けるのも大事だが、自分が首長になるとき自分と有権者に約束した公約をマニフェストとしてやるべきである。声は庭先や職場で直接聞けばいい。」といい、会場からやんやの喝采を受けました。市長はむっとして「何をたわけたことを、お前のようなよそ者に何が分る」と声を荒げましたが、後日お便りが届き私の話を分ってくれたようで、先日東京でお会いをして握手をして雪解けとなりました。
 私は町長さんのようなデジタル人間ではなくアナログ人間なので、毎日3通のハガキを20年も書いております。あえて今日町長さんに下手糞なハガキを出しました。同じ松下系の松下幸之助さんから「掃除も出来ないような人間はまちづくりを語る資格がない」といわれ、12年間朝5時から朝8時まで役場に出勤するまでの3時間の掃除をやってみました。言われるとおりまちづくりの何であるかがやっと分りました。今私の所へ松下系の松下政経塾から兼頭さんという若い青年が人間牧場に足繁く通っています。東大
経済学部を出たような彼が、高校しか出てない私の元へ何故来るのかは定かではありません。でも二宮尊徳の「遠くをはかるものは富み、近くをはかるものは貧す」のことわざそのままに、年輪の哲学をお互いが語り合っています。

 私の今回の旅は私の話よりも、町長さんとの出会いの方がはるかに沢山の学びをさせてもらったような旅でした。残念ながら私は町長になるような器でもなく、町長に立候補して選挙を戦った苦労経験などもないのです。合併したとはいえ1万8千人の小さな町をどう変えるのか、町長さんには多くの試練が待ち受けていることでしょう。ご活躍ください。陰ながら祈ります。

 私は双海町の町長さんと同じ3つの気持ちでまちづくりをやりました。「町を愛する」「町のためにやる」「町をよりよい方向に導く」でした。私が職員としてやった3つのこと。「知恵を出す」「汗を出す」「責任逃れをしない」でした。

 結局町長さんは「金を出す」「口を出さない」「責任を取る」の気概で私たちに仕事を任せたから、5期20年を「責任を取る」こともなく職務を全うしました。


(この結び目を作るのが町長さんの仕事かな)
  「傘持って カメラ忘れた 慌て者 それでも何とか 様なる話」

  「よくもまあ あんな激務の 首長に 好んでなるとは 俺は嫌だな」

  「デジタルな 世の中ですね カバンには パソコン入り お金じゃないよ」

  「俺にゃない 地盤看板 カバンさえ だからなれぬと 妻の一言」 

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