shin-1さんの日記

○税務調査

 「若松さんですか。市役所の税務課です。山の上に建てられた家の件で、○月○日税務調査に伺いたいのですが、よろしいでしょうか」と、調査の依頼文が届いたのを見計らって電話がかかってきたのは昨年でした。「さすが税務課、課税対象物の情報をいち早くキャッチしている」と褒めてあげたいのですが、税金など少しでも少ない方がいいに越したことはない市民にしてみれば迷惑な話です。でも仮にも役所に勤めていた経験のある私としては市民として甘んじて受けない訳にはいかないのです。

 約束の時間前に人間牧場へ上がり鍵を開けて待っていると顔見知りの職員が2名やって来ました。私の説明などは余り聞かず事務的にメジャーで測りながら図面を書きまるであらを探すように色々と書き込んで帰って行きました。何日かして愛媛県から新築税という納税通知書が届き、文句のつけようもなく否応なしに振り込みました。これで晴れて納税者だと思いきや、今度はロケーション風呂とツリーハウスも納税対象だといいたげに通知が来て同じ職員が調査にやって来ました。「えっ、これも測るのですか」と怪訝そうに言うと「建物は全てです」と冷たい答えでした。その調査も一昨日終えて間もなく来るであろう納税通知をびくびくしながら待たなければならないのです。だって年金暮らしの私には何とも気の重い出来事なのですから。「年金暮らしで新築税や固定資産税が嫌ならそんな贅沢なことをするな」と言われそうなので止めますが、税金を取る市役所にはかなりの不満があるのです。

 というのも合併して間もない一昨年、市役所の課税調査間違いが発覚し世間をアッといわせました。新聞がスクープして市民は初めて知ったのですが、なんのともお粗末なこの失態に市民のブーイングは強く、今でも市役所への不満はくすぶり続けているのです。重く掛け過ぎていたわが家のような人には何がしかの還付がありましたが、軽く掛け過ぎていた人は5年に遡って税金が掛けられたのです。正しい方に合わせたといえば聞こえはいいのですが、取られる人は溜ったものではありません。税金は否応なしです。でも反対だと強制執行されるのに市役所だと笑って済ませるのですから、甘いといわれても仕方がないのです。何の関係もない市役所職員が借り出され各戸を訪問して理解を得たようですが、かつて役所の職員だった私にまで文句を言われたまったものではありません。まあ新聞やテレビで役所が絡んだ不祥事や夕張市の財政破綻などが頻繁に報道される度に、目をつけられるのですから役所の人もたまったものではありますまい。でも役所は市民に雇われていることをしっかりと自覚して謙虚に、それでいて間違いのないようにお願いしたいものです。

 税金はそれぞれの財産や所得に応じて課税されますが、さらに重くなりつつあるわが家の税金分のお金をどのように家計の中でやりくりするか、妻と私の暮らし方の大きなテーマになるようです。入るお金は分っているのですからその尺度に合わせて節約する以外はありません。そんな矢先の昨晩、仕事で遅くなる妻の手助けにと、日ごろはすることも殆どない風呂を沸かしました。私も昨晩は地区内の忘年会に出席のため夕方風呂の湯を止めて出かけました。9時過ぎに帰ると妻が「お父さん風呂が溢れている」というのです。私は記憶を辿りながら「確かに元栓は締めた」と言い張りましたが、結局は私の締め方がゆるかったのでしょうチョロチョロ水で風呂は溢れていました。「ああ、勿体ない」でした。一事が万事と文句を言われ、私の善意は妻には届かなかったようで、少しイライラの就寝でした。まあこんなことにめげず節約、節約です。

  「納税の 義務があるとは 知りつつも 税務調査は 嫌なもんだな」

  「こんな家 税金掛けるの? 嘘だろう 風呂に税金 木の上税金」

  「俺の芋 食うたイノシシ 税金を 逃れて暮らす 知恵があるのか」

  「そんな目で 見られていたのか 何年も 役所を辞めて 初めて気付く」


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○教育論議

 ひと頃頻繁に多発した子どもの誘拐などが地域見守り隊などの成果か影を潜めたと思ったら、今度は親がわが子を殺したり、子どもが自ら命を断つという痛ましい事件が相次ぎ、連鎖反応社会の凄まじさをまざまざと見せ付けられるこの頃です。多分どの事件や事故もその場つくろいの責任逃れとも思える対処しかしていないから、再び起こるのではないかと危惧されているようです。今は教育基本法の改正に関する議論の高まりもあって、全国各地でこの問題が関心高く話されています。

 今日もあるお店に立ち寄ったところ80歳がらみの老人に呼び止められました。「あなたはつい最近まで教育長をしていたようなのでお聞きするのですが、今の教育をどう思いますか」と言うのです。「私は今、教育長を辞めておりますので」と前置きし、折角のご指名なので持論を分り易く話させてもらいました。多分この方は私の教育に対する技量を調べたかったのでしょうが、もう一つは自分の考えを聞いてもらいたいのです。やんわり「あなたはこの問題をどう思いますか」と逆にふりました。

 88歳のおじいさんが言う論点は学校、家庭、社会という3つそれぞれへの意見であり理路整然としていました。しかし「昔はよかった」という話が余りにも長過ぎて少し焦点がぼやけた感じもしましたが、まあこれだけ日本の現状と将来を思ってくれることはあり難いことなので、いっそやらせが問題になっている文部科学省のタウンミーティングにこんなおじいさんを参加させてあげたらと思いました。そうすればミーティングにかかる費用もあんな滅茶苦茶なお金がかかることもないのです。

 「人間は豊になると人を頼らなくても生きて行けるような錯覚に陥る」「学校の先生は優秀で失敗や回り道経験もなく子どもの頃から褒められて育った人が多過ぎる」「親が親として親らしいことを出来ない親がいる」「世の中は便利・早い・金儲け・都会が一番とされ、不便・貧乏・田舎は遅れているような錯覚にさせている」「マスコミは自分のしていることを棚に上げて人を追及し過ぎる」などなど、いちいちごもっともなご高説伺いました。

 最後の締めは「いもごり」の話でした。私たちの家庭ではこの頃になるとサトイモを畑から掘り出し、木桶に入れて水を張り十字に組んだ棒でかき混ぜるのです。棒でかき混ぜることと芋同士がこすり合わさって芋の表面の黒い皮が次第に削り取られて綺麗に洗われたサトイモが出来るのです。このおじいさんの議論はここからでした。「昔の学校はサトイモのような子どもが沢山いたから互いにこすりあって知らず知らずの間に磨かれたものです。今の学校はサトイモたる子どもが少子化の影響でしょうかちらほらで、磨き会うことが出来ないのです。ましてや十字に組んだ棒たる教師と両親がバラバラで、お互いがお互いのつまらない荒を探してののしりり合っています。大きな桶にサトイモを10個ぐらい入れても決して芋は綺麗にならないばかりか、棒も空回りですね」と締めくくられました。

 いい例えです。「何かが狂っている」そう思わずにはいられない教育の現場。「あの町、あの学校で起こっている事件や事故が身近な場所で起こらない保障はどこにもない」と思いながら、「じゃあどうする」というステップアップの議論と行動が今求められているようです。

  「どう思う 教育議論を 吹っかける 八十じいさん 止むに止まれず」

  「俺はもう 教育長を 辞めている 辞めたからとて 蚊帳の外では」

  「イモ洗い そのことさえも 死語世界 どういう例え 言えば分るか」

  「その昔 こんな混乱 あったげな 明治維新や 戦後の混乱」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○新しい2007年のWritingCalendar

?私はこの30年余り、愛媛県金融広報委員会からいただいた卓上カレンダーを愛用していましたが、同委員会が経費削減という名目で印刷を止めてから3年間は同じような規格の愛媛県商工会が作成した卓上カレンダーを愛用しています。師走になって暮も押し迫り、新しい2007年の予定が入り始めたのでもうそろそろと、昨日商工会へいただきに出かけました。商工会には今届いたばかりという梱包を開け印刷インクのにおいのする一冊を手渡されました。昨年の表紙はバイオレットとでも表現するような鮮やかな色でしたが、今年は深いグリーンで観光に優しい色だと直感しました。表紙を捲ると2007年一年間のカレンダーが月ごとに出ていました。誰がどう並べるのか分りませんが、2月と3月と11月、1月と10月、4月と7月は同じ日が土日など新しい発見がありました。土日など関係のない自由人にとってはそんなデーターは必要ないと思うのですが、それでも土日に全国の各種イベントが集中するため、最低限のデーターは頭に入れておいた方が得策かも知れないとまじまじと見てしまいました。

 早速ページを捲り予約の入っている項目を書き込み始めたのですが、何と来年は年明け早々の1月3日には今治市玉川町の成人式が入っていたり結構忙しい日々が続くようです。でもこうしてカレンダーに書き込む項目が多いのも楽しいことだとしみじみ思いました。

 定年を迎えたのは昨年なのですが、60歳と6ヶ月で定年なのでもう年が明けると私は数え年で63歳になるのです。カレンダーに家族の誕生日や自分だけが考えて作った記念日を入れると相当な筆数になります。5月5日の結婚記念日や6月23日の旅立ちの記念日(第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイへの派遣が決まった日)など様々ですが、来年も家族が元気で言い一年であるよう、正月でもないのにやたら神妙になって書き込んだのです。

 書棚の引き出しには過去30年の卓上カレンダーがしまい込んでいます。懐かしくなってその幾つかを捲ると、これまた過ぎ越し懐かしい日々が甦ってきます。過去を余り振り返らず未来を見つめて生きようと努力してきた私にとって、これら数十冊のカレンダーはこれまではどちらかというと無意味だったのですが、少し過去を振り返りながらのんびり過ごすのも悪いことではないと思ったりしましたが、やはりそんな心の変化は歳がそうするのでしょうか。

 私の卓上カレンダーの中に3冊ばかり、警察に証拠書類として提出したことのあるものがあります。一連の舟券売り場事件で役場に警察の家宅捜査が入った時のものです。立件に向けて5日間も供述人として県警本部知能捜査班に呼び出され取調べを受けたのです。私たちの立件ではなく、和歌山や宮崎で問題になっているような贈収賄事件に議員さんがどのように関わっていたかを調べるためでした。結局議員や企業から逮捕者が出て大きな混乱を招きました。その証拠書類を示す張り紙がカレンダーの表紙に生々しく貼り付けられているのです。1年後様々な捜査が終了して証拠書類と共に帰ってきましたが、今も懐かしい騒動でした。

 多分私たちのあの頃と同じように、和歌山や宮崎では一喜一憂の日々が続いているのでしょうが、捜査令状を読み上げられ、家宅捜査に立ち会った経験は、もう二度と味わえないでしょう。

  「来年の 卓上カレンダー 捲りつつ 心新たに 文字を書き込む」

  「あと少し 残りし日々を 思いつつ 来年こそはと 年寄り冷や水」

  「ああ俺も 六十三とは 子ども目に じじいと見える 歳になったか」

  「一冊が 俺を支配の カレンダー 一年間は あなた言うまま」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○リビングホームって何?

 高齢化社会を反映してか、日本全国各地には高齢者を対象としたいろいろな施設が出来ています。10年前、高齢者の福祉施設は郡市というエリアに1つ程度でしたが、今ではシルバー産業とでも呼ぶべき様々な施設が市町村の隅々まで乱立し、お互いが水面下で高齢者たるお客を奪いあう目に見えない厳しい下等競争が繰り広げられているようです。これほど高齢者福祉施設が普及したのは、高齢者の年金と介護保険を当てにしてシルバー産業を起す人たちが増えたからだと見る向きもあるようです。いずれにしても世界一の長寿国になった日本の最も関心の高い問題は、少子化と子育て、高齢化対策と年金という人生をキセルに例えるなら、入口と出口ともいえる子どもと高齢者など、社会弱者を大きくクローズアップしなければならない、人口構造的変化が社会背景にあるようです。

 確かに私たちが小さい頃、日本全体の人口構造も私たちの住んでいる田舎の人口構造も三角形のピラミッド型をしていました。当時は高齢者が少なく子どもが多かったのです。ところが最近は高齢者が長生きするようになり、子どもは一人か二人しか産まないという極めて深刻な少子化で、全人口に占める65歳以上の人口の割合で示す高齢化率は年々ウナギ上りなのです。3人に1人が高齢者なんて聞いても別に驚かないような社会がやって来たのです。

 昔は役場・農協・郵便局が過疎の町の一大産業でしたが、今では毎朝出会うのは高齢者福祉施設の車と関係者だけといわれるくらいで、いつの間にか役場も農協も郵便局もしのぐスターダムに上り詰めているようです。

 数日前、友人の玉井さんから「松山のリビングホームでボランティアとしてお話をしてくれないか」と頼まれていたので、朝から冬の冷たい雨が降る今日、道後祝谷まで出かけて行きました。講演料など出ない小さな催しなのでと念を押され、こんなこともあるだろうと引き受けました。行く道すがら「グループホームなら聞いたことはあるけど、リビングホームって一体どんな所なnだろう」と考えながら会場へ着きました。グループホームのように認知症の高齢者を相手とする施設ではなく、自立したした方々が個を尊重しながら夕食など許せる範囲で共同する、今までにない珍しいスタイルでした。昼食やリビングホームに入居している方々の話を聞くにつけ、日本という国の高齢化社会における「エデンの園」のような理想がリビングホームにはあると思いました。施設を提供しているみのりホームの社長さんも、リビングホームの代表を務める女性も口々にその素晴らしさを口にしているようでした。

 かつて私が10数年前ニュージーランドを旅した時、外国の老人ホームを見て驚いたようなカルチャーショックがリビングホームにはありました。老いを迎えて自分としっかり向き合い生活設計に沿って生きている姿には感動する覚えました。戦争の悲劇や家族の人間関係、貧乏暮らし経験、家財道具など過去のしがらみを捨て切れず重い荷物をしょって生きてる高齢者が、過去の重みに耐え切れず死んで行く姿を考えながら皆さんの話を興味深く聞かせてもらいました。

 最後の締めに私の一時間足らずの話が組まれておりました。世の中は広いようで狭く、顔見知りや知人も多くて昔の出会いを懐かしんでくれた人もいましたし、わざわざ「今日の講師の話を楽しみに来ました」という物好きな人もかなりいて、大爆笑の中で私の役目を終えました。終りは私の下手糞なハーモニカを伴奏にみんなで「夕焼け小焼け」「みかんの花咲く頃」「ふるさと」を大合唱し、総勢70人ほどの小さな会場の小さな集会を終えました。

?(今日、孫を眼科病院と幼稚園に連れて行き、お昼に帰ってメールを開けたら、宇和島で知り合った「あさぎまだら」さんからメールが届いていました。彼女は私のメール一本で昨日の会に参加していました。カメラを忘れた私に代わって、私の写真を撮影してメールで送ってくれました。ハーモニカを吹く若松進一というおっちゃんの姿です。結構格好よく撮れています。腕がよいのでしょう。その写真をブログに再掲しました)


  「老い先を 自分で考え 生きている リビングホームの 新た生き方」

  「ボランティア 私を道具に 使う人 それでもみんな 喜び聞いて」

  「ああ俺も 歳をとるのか 将来は いやいや既に お年寄りです」

  「笑わせる 意図もないのに 笑われる 笑い広がり 入れ歯ガクガク」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○男前のあがった進一さん

 私の髪型はもう40年近く変わらないヘアースタイルです。水産高校という海の男を育てる高校で学んだため、髪を伸ばすことは禁止されていましたし、私自身の性格も髪の長いのは好きでないので、これまでは角刈り若しくは丸刈りといった具合です。下灘から上灘へ居を移して散髪屋さんは変わりましたが、変わらないのは月1回のペースで散髪をすることです。長い髪の人は3ヶ月間くらい伸ばすそうですが、短い髪型だと1ヶ月に一度はしないと、こちらの方言でいう「おおがっそ」(髪が伸び過ぎた状態)といって無精者に見られるため、伸び具合を見計らって散髪屋へ出かけるのです。

 昨日は娘の夜勤の都合で孫を松山の幼稚園へ向かえに行った帰りに立ち寄りました。例によってお疲れモードの孫を助手席に乗せて40分の道程を帰るのですが、家の近くまで帰るとスースー寝てしまいました。いつものことなので散髪屋さんの駐車場に停めて孫の上にコートを掛けてロックし散髪をし始めました。散髪屋のご主人と奥さんが心配して10分おきに様子を見に行ってくれるのですが、孫は寝入りばなでびくともせず気持ちよさそうに寝ていました。

 散髪は気持ちがいいもので、私はいつも1時間弱の間ご主人と世間話に花を咲かせながらついウトウトしてしまいます。バリカン仕上げで首筋から裾を刈り上げ、あとはハサミで仕上げてゆくのですが、僅か数センチの髪の毛が減っただけなのに何故か頭が軽くなったような気持ちになるのです。

 刈上げが終われば髭剃り、洗髪、仕上げとなるのですが、まあ自分で言うのも何なんでしょうか、すっかり男前になってしまいました。人間は不思議なもので髪の手入れをすると何故かしゃんとしたような気分になるのです。

 車に戻って中を見ると孫は相変わらずスースー気持ちよさそうに眠っていました。うつろな目を起して家の中に入りましたが、少しの間はぐずっていましたが、おもちゃやおやつでなだめ何とか気分を直しました。先日4歳の誕生日を迎えたし、娘に赤ちゃんが誕生するということを知っているので「お兄ちゃんになったのだから」くらいの殺し文句で十分立ち直ってくれるのです。最近は聞き分けも随分良くなって、母親が夜勤のことも納得し妻の作った大好物のハンバーグを2個も平らげました。

 男前の上がった私を見て妻はいつも二つの言葉を言います。「まあ見違えるような男前になって」の次に、「その頭だったら3400円は勿体ない」というのです。前言葉はいいとしても、後言葉は金が惜しくていっているのか代価をいっているのかわかりません。「その髪型だったら私が息子用に買ったバリカンで十分」と追い討ちをかけます。そうかも知れませんがまだセミリタイアの身で、人前に出ることも多いので年金暮らしで贅沢はいえませんが当分はお許しいただいたいと思っています。

 先日古い写真を整理をしていて妻がいうのです。「お父さんは昔は相当ふけてたのね」と・・・・・・。「昔ふけてたのなら今が若返ったということか」と返しましたが、確かに昔の写真は穏やかな時代を反映してか「質素」という感じがして、確かに若さのようなものが感じられないのも事実です。でも若かったあの頃と髪型も殆ど変わらず、禿もせず白髪も目立たず、「若松さん髪を染めているの?」と言われるくらいです。髪の悩みは年齢を重ねると誰もが何らかの形で経験します。それを年齢のせいだと割り切れればいいのですが、なかなかそうは思わないもので、白髪を染めたり禿にはアデランスを着けたりと工夫を凝らしているようです。幸い私は髪に油をつけるわけでもなく、手入れをするわけでもなく、ドライヤーで髪を乾かすでもありません。唯一の手入れは毎日髪をシャンプーすることだけなのです。メガネをかけなくても新聞が読める目のよさと、いい髪に産んでくれた母親に感謝します。

「男前があがった」といってもこの程度、まあ諦めるより仕方がないか。

  「孫寝かせ 気にしながらも 散髪す 午後のひと時 何事もなく」

  「妻にしか 価値がないのか 男前 それでも俺は 散髪投資」

  「床を見て これだけの髪 だけなのに 軽くなったよな 気分になって」

  「禿もせず 白髪ちらほら この歳で 母に感謝の 鏡の自分」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ひらめき

 私はひらめきで生きているといってもいいくらい、ひらめきを主体に意の向くまま暮らしている人間だと時々思います。私のような人間を泥縄というのでしょうか、泥棒を捕まえて泥棒を縛る縄のないことに気付きその場で縄をなって使うことをいうのでしょうが、昨日も共栄網という双海町の漁業の元祖ともいえる漁業団体の会合の一人の委員として招かれ、突然座長を言い渡されました。三回予定されている会議ですから初回の前回に座長は前町長で現教育長に決まっていました。ところが前回は行政から一人も出席しないトラブルがあってのことだったので、今回行政がいきなり参加者のブーイングに応えて大挙して出席するようになり、組織体系からいうと座長が変わった方がいいとの申し出で、急遽自由人たる私に白羽の矢が当たったのです。会場で会議が始まる数分前に言われれば、普通の人は誰でも断るし、仮に受けても当日の会議の進行などできぬと突っぱねるだろうと思うのです。断る理由もやれない理由もないので、軽率ながらあっさり引き受けてしまいました。

 私は会議の進行を時間によって組み立てます。1時半から3時までという目安を事務局からみんなの前で聞き出し時間の共通理解を得ました。そして話す内容がおおまか三つだったので30分ずつ三つに分けました。事務局の説明と協議、それに項目ごとに座長のショートコメントでまとめ、結果的には3分間時間を延長してしまいましたが、まずはその場のひらめきで物事を進める日ごろの訓練のお陰で見事大役を果たしたのです。

 多分難しい出口の見えにくいテーマだったので時間がかかると予想していた参加者からは大好評で、随分感謝されました。主催した共栄網では共栄網の再生をかけた一大プロジェクト事業だけに、熱い思い入れもあって次回2月に開かれる予定の3回目で結論を出し、スピードアップしながら事業化されることでしょう。

 ひらめきは、ひらめいたからってそれ自体はなんの意味もありません。そのひらめきが自分というファインダーを通してどう人様のお役に立つたかという事実なのです。夕日でまちおこしをしようと二十年も前に私の頭がひらめきました。多分「何て馬鹿なことを」と誰もが思ったことでしょう。その証拠に多くの方々の反対に会い夕日は潰される運命にありました。しかし若かったのでしょうか全てのエネルギーをつぎ込んでひらめいた夕日という自然現象を地域資源にしました。そしてコンサートなどのソフトとシーサイド公園などのハード事業をミックスしながら双海を代表するレッテルにして、じゃこ天や夕焼けソフトなど売れ筋商品を作りました。それらはまだ発展途上ですが、シーサイド公園を中心に人々の暮しに役立っているのです。

 私の夕日へのひらめきは、隣の町の人もひらめいていたはずです。現に海岸周りと山周りを一周するコスモス鉄道2001年の旅

をやった時は「わしらもしようと思っていた」と長浜町で、夕日の名刺を見た時「俺とこにも夕日は沈む」と伊予市でそれぞれ聞いた話がそれを物語っているのです。ひらめきを行動に起す、そしてその起したことが人々の役に立つ、そこまで行かなければひらめきとは言えないのではないかと思うのです。

 ひらめきは時として実現不可能なこともあります。夕日も当時は実現不可能なひらめきでした。不可能を可能にするのもひらめきです。「人生は爆発だ」は有名な岡本太郎の言葉です。若松進一流にいうと「人生はひらめきだ」のようです。小さなひらめき、中ぐらいなひらめき、大きなひらめき、ひらめきは人それぞれ様々です。いいひらめきが出来るように日頃から訓練しないといいひらめきは生まれません。私と同じようなことを作詞家の「なかにし礼」さんもいっていました。

  「禿頭 でもない私 ひらめいて おもろいことを どんどんやって」

  「どこにでも あるのに夕日 俺のもの 今では本当に 双海のものに」

  「止めとけと いつも言われる その中に 成功の種 隠れています」

  「失敗を 何度したか 分らない それが土壌で 種は芽吹いた」

  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○アントレプレナー

 つい最近は横文字がやたらと多く、意味不明で分らぬまま分ったようなふりをして聞いている人や分らぬままに使っている人がいるようです。私たちまちづくりの現場は学者の先生やジャーナリスト、建築家などの知識人も出入りするものですからその傾向が強く、横文字を使うと格好よさそうに見えたり博学と思われたい部分があるようです。しかしかつての町議会である議員がシンポジウムのことをインポジウムと間違って使い大爆笑されたように、せめて使う場合は意味を調べ確かめて使うくらいの学習的余裕は必要だと思うのです。

 今春道後で開かれた「地域の自立とは何か」というシンポジウムで、進行役の清水さんが「アントレプレナー」という言葉を使いました。恥ずかしながらその時初めて聞く言葉だったものですから、私はその夜の交流会で清水さんにその意味を確かめましたが、「起業家」だと教えられました。その後その特集が舞たうんで組まれ、朝日新聞の砂場さんが「アントレプレナー」という言葉を、さすがジャーナリストらしく「アントレプレナー」(起業家)とわざわざ括弧書きで説明してくれて、しっかりと自分のものになりました。浅学な私はこんなことでしか横文字を覚えれないのですからそれこそ浅はかです。でも横文字を使わなくても「企業家でない業を起す起業家」なんて日本語で説明をしないと分らない集会だってあるのですから、場所をわきまえずどこでも「アントレプレナー」という言葉を使っていいものではないと思います。

 最近は「アントレプレナー」流行で、大学生時代に会社を興したりNPO法人の代表になったり、女性がお店を持ったりする機会が増えてきました。中学校の総合学習でも株式を学習するため会社を興す学習をするほどですから、会社の社長になることを夢見る若者は増えつつあるようです。その結果でしょうがホリエモンというような社会現象が生まれ、誇張されて社会に一石を投じています。

私の友人に横山史さんという女性がいます。会社に勤めながらまちづくりやニートの勉強をしながら様々な研修を重ね、自らが発起してNPO法人を立ち上げ代表となりました。「若者と人づくり」が専門テーマだそうですが、私たちの世界で考えるとかなり難しい

テーマのようにもことにあえてチャレンジする彼女の生き方に強い関心を持っています。彼女こそ「アントレプレナー」と呼ぶに相応しい女性だと思いました。

 先日NHKのふれあいミーティングで、偶然にも私と同じ6人のパネラーに選ばれ出演していて再会しましたが、若いからと年齢を理由に徳田アナウンサーから最初にふられた彼女の意見を聞いて、初めて私の家へ学生たちとやって来たあの頃を思い出しました。随分成長して堂々としている姿に驚きました。多分これから社会の荒波の中で挫折と成功を味わいながら更に成長して行くのでしょう。経済的に安定したOLという職業を捨て、あえて挑戦する横山史さんに大きな拍手を送ります

 一度しかない人生を悔いなく過ごすことは大事です。日々の暮しに満足もせずただ社会が悪い、組織が悪い、上司が悪いと不平や不満を言いながら給料分の働きもせず時代の波に呑み込まれて暮らしている多くの人々を見る度に、悩みながらもイキイキと輝く姿は神々しく見えてくるのです。

 先日「大人を考えるシンポジウム」の打ち合わせで立ち寄り先の「国立大洲青少年交流の家」で高知県梼原町の役場に勤めながら青年団の事務局をやっている若者に会いました。「えっ、今でも青年団があるの」といわれそうな死語に近い世界で活動する彼の瞳も輝いていました。「ああ俺にもこんな時代があったなあ」と思うのは、私がそれ相応の歳になったからでしょうが、若さと価値は若い間は気付かないものです。でも若い間に思い切り「アントレプレナー」的な気概を持って生きて欲しいと思います

  「知らぬまま 使う横文字 多くなり 日本語乱れて あなた何人(じん)?」

  「横文字の アントレプレナー 企業家と 教えてもらって 意味知り使う」

  「OLと いう名の仕事 投げ打って 違う世界に 理想求めつ」

  「何欲しい 若さ下さい 言いたいね 金で買えれば 幾ら積んでも」

  「 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○岩手県一ノ関の風邪

 この30年余り風邪など引いたことがなかったのに、先日岩手県一ノ関に行った折、一日中冷たい雨だったせいもあって、少し寒気がしたようなきがしたのですが、そのことが尾を引いて風邪気味です。岩手県一関の人にこのブログを読まれれば、「それは一ノ関への言いがかりだ」と咎められそうですが、少し反省しながら書いています。一ノ関への旅は東北ゆえ寒かろうとズボンの下にはこのところはいたこともないパッチをはき、「一枚余分にはおって来るように」とメールが入っていたのでこれもこのところ着たこともない半コートを着て万全を期して行ったのですが、それが裏目に出たとしか言いようがないのです。

 寒い厳寒の時期にもシーサイド公園の早朝掃除には半袖まがいの薄着で臨んだことを思えば、まるで北極へでも行くような出で立ちでしたが、過保護はかえって体調を崩すのだということを身をもって体験した次第です。

 妻は「10月、11月の目まぐるしい忙しさでお疲れモードになってるのだ」といたわってくれるのですが、そうかもしれないと納得しつつ日々を暮らしています。でも風邪といっても別に熱が出て寝込むわけではなく鼻がシュンシュンし咳が少しだけなのです。最悪は先日NHKテレビに出演した時で、カメラに隠れてティッシュを離せませんでした。

 何とかこの風邪を治したいと、病院や注射の嫌いな性格から妻の薬を飲んだり薬用風呂に入ったりしてみるのですが一向に効き目がありません。少し荒治療かと思われるサウナにも入ったのですが一進一退です。ところが最近四国・愛媛県・伊予市・双海町にも寒波がやって来て私の風邪に追い討ちをかけました。「あー嘆かわしや」と思っていましたが、少しずつ快方に向かっています。

 一年中病気らしい病気もせず元気印で働いてきた退職後1年8ヶ月も、今後のことを考えれば少し健康に注意して運動や睡眠に気をつけたいと思うこのごろですが、こうした私の体を気遣って、最近サプリメントなる新しい健康補助食品が私の元に届けられるようになりました。食事も妻が私の健康を気遣って作ってくれているのでサプリメントなんてと思っていますが、これも私の思い込みかもしれません。サプリメントは何か薬を飲むような気がして仕方がないのです。薬嫌いな私としては当然でしょうが、サプリメント=薬との思い込みを直さなければなりません。

 テレビを見ていると有名人が次々と出てきて「○○に出会って私は人生観が変わりました」などというものですから益々信じられなくなっています。

 風邪をひいたこんな時、死んだ母はよく玉子酒を作ってくれました。熱くて甘い玉子酒をフーフーいいながら飲んで布団をかぶって寝ると体中から汗が吹き出して、汗で濡れた寝巻きや下着を変えて一眠りして随分良くなった思いでも遠い昔の思い出となりました。風邪をひいた妻の横に寝ていても前々風邪を引かず、「あなた少し鈍感なのでは」と妻に言われていましたが、これで「馬鹿は風邪をひかない」諺からすると、私は利口者ということになるのです。

  「風邪引かず 腹もうずかず 三十年 馬鹿な男が 風邪ひきました」

  「お土産に 貰った風邪で 難儀する 一ノ関だが 関は咳でも」

  「風邪予防 鵜飼とうがい 同じ文字 鵜飼の鵜たち うがいするのか」

  「北西の 風が運んだ 風邪の風 わが家流行 みんな病に」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ハーモニカが大好評

 「大好評」だなんていわれるとその気になって山椒の木にまで登ってしまいそうなのですが、先日とある会場で吹いた私のハーモニカが「大好評」だったというのです。多分参加した人の何人かが「良かった」といえば、感動の法則で1人が7人に、7人が5人、5人が2人がいって終息するのです。つまり1×7×5×2=70人という計算になるのです。結局は150人も集まった集会でしたが、職場へ帰ってのその人の会話が増幅させたのではないかと思われます。「大好評」の決め手はハガキと電話とメールで届きます。主催者は電話で一報を入れた後ハガキや文章でお礼をしたため、参加者はハガキとメールで感想を表現するのです。

 嬉しいメールが沢山届きました。これもやはり時代の流れでしょうか。しかしそのことを書いたブログに感想が寄せられるのですが、末尾にサイトから「このメールは自動的に送信していますので、返信をご遠慮ください」と書かれているため、殆どの返信にはあて先もなく、返信のしようがなく、私のパソコン能力ではそこを越えることが出来ないのです。でも知恵ある人は私のホームページを探しホームページからメールアドレスへと入ってくれるのです。

 小学校時代の私は通知表が殆ど「音楽2」でした。ところがどういう訳か中学校になったら通知表が「音楽4」若しくは「音楽5」なのです。多分中学校一年生の時の担任が西岡圭造という音楽の先生で、その若い先生に憧れたのか大事にしてもらったのか分りませんが、2階級も3階級も特進を続け、高校受験の時は音楽は満点だったのですから人の能力は分らないものです。当時の高校受験は今のような英・数・国・理・社の5科目受験ではなく音楽や職業家庭、保健体育、図画工作といった様々な9科目があったのです。私たちのような田舎者は5科目が出来なくても後の4科目で点数を稼ぐことができたのです。ひょっとしたら私たち田舎者がバランスの良い人間に成長する素地を身に付けていたのかも知れないと思うのです。

 中学校になって音楽が何故よくなったのかは今でも分りませんが、小学校の頃苦手だったハーモニカは今でも苦手な楽器です。でも苦手だからと遠ざかっていただけなのかも知れないと思い、吹き始めてみると意外や意外、下手糞ながら譜面も読めないのに適当に吹けるのです。嬉しくなって吹くと少しずつ上達する「豚も褒めれば木に登る」が如く、次第に吹けるようになりました。通信販売で妻が買ってくれた2本のハーモニカを愛用して、人に聞かれると恥かしい者だから主には車の中で練習というよりは楽しむ形で吹いてきました。人間は人目に晒され失敗しないと上達しないと思うようになって、こともあろうか講演の一部に夕日とハーモニカのコラボレーションを大胆にも取り入れました。これが案外好評でその褒め言葉に乗っかって・・・・という具合です。

 体感音楽という言葉を聞いたのは、私がNHKラジオ深夜便「心の時代」という番組に出演した時でした。東京のある目の不自由な方から番組を聴いたと電話がかかってきました。「私は夕日が綺麗といわれても生まれた時から目が見えないので分りません。でもあなたのハーモニカを聞いて涙が出て止まりませんでした。死んだ母を思い出したのです。母の背中で赤トンボや夕焼け小焼けの歌を子守唄代わりに歌ってくれた歌を聞いていたのでしょうね。これは私の体感音楽だと思うのです」と。そういえば私たちは子どもの頃から今日まで多くの歌をテレビやラジオから聞きながら育ってきました。

 先日中島の金本房夫先生から「心が押し出す涙」という先生の講演録をいただきましたが、その中にも「向都離村の教育」の中で、「早く帰ってこ」「りんご村から」「別れの一本杉」「お月さん今晩は」「ああ上野駅」「僕はないちっち」「ふるさと」などの今は懐かしい望郷歌が紹介されています。確かに私たちの体には童謡や演歌といった様々な歌がまるでDNAのように組み込まれているのです。ハーモニカはそんな体にしみこんだ歌を思い出させ、その歌につながるふるさとや人々を甦らせてくれるのです。私のはーミニかが上手いのではなく、ハーモニカは記憶再生の道具なのだと思うと納得するのです。小学校からハーモニカが消えて久しいけれど、私が話す対象者の殆どはハーモニカを吹いた経験者なのです。

 これからも、磨きはかからないものの少し練習をして、人々の古きよき日本的記憶を甦らせる道具として使いたいものです。

  「ハーモニカ 聴いて思わず 泣けました メール届いて 反響びっくり」

  「下手糞な ホラより吹きたい ハーモニカ 人の記憶は 何かの道具で」

  「夕日など 目が見えないから 分らない 体感音楽 教えたあの人」

  「ハーモニカ 車の中で 吹いてたら 窓が開いてて 不思議顔され」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○私のパソコンのメンテナンス

 私のパソコンにはつい最近、訳の分らぬメールが沢山入り内心困っていました。その迷惑メールは大きく分けて二つです。その一つは女性との交際をしないかというお誘いのメールです。最初は自分の名前を書いて送ってくるものですから、何事かと一瞬自分の顔も忘れて持て心をくすぐるような文章にドキッともしましたが、仕事柄メール友だちというものかと思って、無視していましたが、毎日のように波状攻撃でやられるともううんざりで、娘婿が見つけ次第消していたようですがそれもままならず、結局は長い間×印で消す作業を最近まで続けていました。もう一つは英語の文章が次から次へ送られてくるのです。英語の読解力の無い私はこれも変な対応をしたらお金が発生すると思い、一度も開封することもなく×印の対象として処理をしていました。しかし先日のように3日間も家とパソコンを空けるともうパソコンの画面は英語一色になって、100を越す件数を消す時間は相当な無駄時間に思えてきました。

 一度パソコンに詳しい娘婿に相談しようと、大学の授業日に彼の研究室を訪ねたのですがあいにく留守で、実家に帰っていた娘にそのことを話しておきました。すると先日娘婿が夕食を食べにわが家へ立ち寄ったので、メンテナンスを依頼しました。私にはまったくチンプンカンプンの操作ですが、1時間半もの長時間で迷惑メールと、ウイルス対策を完了してくれました。

 迷惑メールにはなお沢山のエッチなメールや英語のメールが後を絶ちませんが、それでも必要情報の受信メールだけが整然と並んですっきりしてきました。私はまさにこのことは「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」ものだとしみじみ思い、娘婿の能力と技術の高さに感謝してしまいした。

 パソコンでブログをやり始めて困るのは、書いた文章がいきなり消えたり登録できなかったりすることです。折角書いた文章があっという間に消えてしまった時の悔しさやむなしさは何と言えばいいのか分りません。ワープロで原稿を書いていた幼稚な時代から比べると私のパソコン能力は格段に進歩しています。ワープロの電源を妻に抜かれて大喧嘩したあの頃のような騒動はないのですが、それでも書いた文章がなくなるのはショックです。私の書斎は電話の本体から一番遠い場所にあるため電波反応にしているのですが電波が届きにくいため天井近くにコードを這わして書斎まで引っ張ってきているため、大事な通信をしているとき電話でも架かればもうお手上げです。一度その辺のことも考えて電話回線をいらってもらうことを考えなければならないかも知れません。

 打った文章が消えて、同じような文章を書こうとするのですが、絶対という言葉で表現したいくらい二度と同じ文章をかけないのですから、余程慎重に扱わなければなりません。小まめに登録を心がけているのですが、夢中になるとどうも上手くいきません。

 今年の正月休みはこれまで書きためたブログの文章を暇を見つけてプリントアウトしたいと思っています。それというのも日本中には3人も私のブログをせっせとプリントアウトして一冊に綴っている人がいるのです。ご本家の私がしていないことをされている私としてはぜひそのことをと願っています。私のような古い人間は電子文字のように何時消えるか分らない不安がいつもよぎっています。その点プリント文字だと火で焼けない限りは大丈夫だと思うので、早く実現したいと思っています。

  「文章が 消えて悲しや 八つ当たり 名文迷文 どこへ行ったか」

  「デジタルの 時代に何故か プリントを 信じる私 やはり古いね」

  「名刺売る 書いた途端に メール着て そんなにお困り 買ってあげると」

  「もう二度と 同じ文章 書けません 岩手で書いた 原稿失い」

[ この記事をシェアする ]