shin-1さんの日記

○今日は久しぶりに朝から雨

 水不足が心配されている愛媛県地方では、一昨日の雨と今日の雨は少しホッとした心境のようで、朝のあいさつも「ええおおるいで」(雨が降ること)と弾んだ言葉が交わされています。私たちの町は農山漁村地域なので、この「ええおおるい」という言葉には二つの意味が込められているようです。まず一つは飲料水や生活水としての水への感謝です。?上水道のないわが町では集落ごとに水を確保する簡易水道が普及しています。山あいや谷あいに水源を求め、それぞれが水道タンクを作って水を引いているのです。最近はその簡易水道施設もすっかり衛生的になりましたが、最近までは雨が降ると出る水も風呂の水も濁るような水でした。それぞれの地域では水道を守るために月当番などを決めて管理をしていたし、年に一度はタンクの清掃などを地区総出でやったものです。それでも祖母の時代には水道がなく水瓶に水場から汲んだ水で生活していたのですからえらい進歩だとなくなった祖母はいつも言っていました。こんな有り難い水に感謝するため家々では水神様と称する神様を祭っていました。子どもの頃祖母が水神様に何やら分らぬ呪文のような言葉をいいながら祈っていた姿が目に焼きついているのです。

 もう一つの意味は農業水としての水への感謝です。雨水は時々降って適当に田畑を潤し食物を育てるのですが、その降る量が多いと災害になり、少ないと干害になるのです。四国の中でも山を背にして瀬戸内海に面している私たちの地域は台風銀座といわれる九州や四国の太平洋に面している地域とは違って台風災害を免れてきましたが、逆に瀬戸内海気候という少雨地帯なのです。年間降雨量が1200ミリから1500ミリ程度なので、夏の渇水期は飲料水を最優先するため農業水にも事欠く有り様です。少雨の年は田んぼやみかんが干害で大きな被害を受けても仕方のない出来事として片付けられてきました。篤農家といわれる財力のある農家は自家用の貯水タンクや灌漑用池を持っていますが、零細農民はそれ程の余裕はなくいつもお天道様頼みで、雨乞い踊りや雨乞い念仏もその名残として残っているのです。「金が降る」なんて言葉を農家の古老から聞く度に、雨が降ることはお金が降ると同じだと思う農民の切ない思いが感じられ胸を打つのです。

 今日は久しぶりに朝から雨の一日となりました。書斎の窓越しに見える庭木や畑の作物も、雑草までもが雨を喜んでいるように生き生き青々としているように感じられのです。私は久しぶりの休日で夕方には遠出をするためのんびり過ごそうと決め込みブログを書いたり一か月分のプリントをして閉じこんだり、また読書をして過ごしましたが、親父からお墓のシキビが古くなったので畑から取ってくるよう頼まれたため、雨の中を人間牧場へ向かいました。普通農家や漁家はまるでハメハメ大王のの歌のように雨が降ったらお休みなのですが、最近は雨模様の日が続くので偉いものです。漁船は出漁し、農家の方は合羽を着て草刈り作業をしていました。ハメハメ大王のようなズボラな私は恥かしい感じがしましたが、親父の頼み事なので雨に濡れたシキビの枝を10本ばかり切り取り束ねて持ち帰りました。ついでに水平線の家の掃除をして早々に雨の人間牧場を退散しました。

 雨が少し大降りになってきました。足らずで恋しい雨、余りて憎い雨、いつの時代も人間は自分本位で雨のことなど余り考えませんが、雨の日などは雨に感謝の一日でありたいものです。

  「足らずんば 雨が恋しい 夏雨も 長く続くと 空が恨めし」

  「雨さえも 不足になると ニュースです 昨日今日など 雨でもちきり」

  「雑草が 親父の仕事 増やしてる ブツブツ言いつつ これも生きがい」

  「水不足 僅か二日で 解決す 自然はやはり 偉いものです」

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shin-1さんの日記

○夕日のメッカ嫁ヶ島辺り・そしてたたら

 前夜は島根の仲間と落ち合い旧交を温めましたが、朝早く起きて身支度を整え迎えに来てくれた松嶋さんの車で昨日は講演会場となる雲南市吉田町の生涯学習交流館へ向かいました。宿舎を出てから途中で宍道湖南東岸にある嫁ヶ島付近を通ってもらいました。というのも嫁ヶ島辺りは私の町と同じように全国に名だたる夕日の名所なのです。松江警察署の前辺りに位置する嫁ヶ島周辺は地下通路や夕日スポットが立派に整備されていていました。

(宍道湖夕日スポット「とるぱ」の存在を示す道路標識)

(道路も夕日カラーに舗装していました。向こうに見えるのが地下道の入口で、地下道を通ると宍道湖湖畔に出ます)

(地下道内の壁展示)

(小雨に煙る嫁ヶ島、小泉八雲もこの島あたりに沈む夕日を見たことでしょう)

(階段式護岸が整備されていました。若いカップルが身も心も夕日に染めて愛や恋を語ることでしょう)

(夕日スポットを示す看板表示、私の町は定点から夕日の沈む位置を書いていますが、こちらは夕日と嫁ヶ島を中心に定点を移動させています。つまり嫁ヶ島と夕日が主役なのです)

(春夏秋冬の夕日の写真が焼き付けてありました)

(国道9号線沿いは黒松の並木が見事でした)

 いつもの癖でしょうか、私の町の夕日スポットであるシーサイド公園と比較をしてみましたが、小さな町のことゆえ歴史と風光明媚に彩られた宍道湖湖畔とでは比較にはならないと思いますが、どうしてどうしてわが町の夕日スポットもオンリーワンが貫かれ負けず劣らずといったところのようでした。

 駐車スポットは10時からとかで開いていなかったので車を路側帯に止め松嶋さんに待機してもらっての急ぎ足だったため詳しく観察することが出来ませんでしたが、何時の日かまた嫁ヶ島に落ちる夕日を見たいものです。

 私たちの車は9時半到着の予定で一路吉田町を目指しました。旧吉田村は鉄の歴史村と言われるようにかつては日本独特のたたら製鉄で栄えた町だし、そのテーマで村づくりが行われてきました。合併して村という名前が消えて雲南市吉田町になりましたが、村を歩くとそこここに鉄の歴史が息づいています。途中山道を走り菅谷たたらの里を通りました。何度も吉田村には来ているのに何故か立ち寄っていないスポットなのです。この場所は宮崎駿監督の映画もののけ姫に出てくるたたら場のモデルになったことでも広く知られています。

(たたら場とは今でいう製鉄所です。歴史の重み感じさせてくれる重厚な作りで威風堂々と立っていました)

(象徴的に立つ神木桂の木です。人間が小さく見えるほどの巨木で、桜が咲く頃に3日間だけ真赤に芽吹き、夕日に映える姿は絵になる光景だと教えてくれました。私の心に残る忘れられない巨木の一本となりそうです)

(どこか懐かしい菅谷の家並み)

(まるで時代劇にでも出てきそうな風景です)

 私たちは時間通り10時の30分前に到着しました。控え室ではテーブル上に活けた野の花が美しく季節感を演出してくれていました。その花を愛でながら美味しい抹茶を2杯もいただき準備万全です。あいさつが長引き15分ほど押し気味の時間に私の講演はスタートしました。

(気配りの行き届いた野の花は美しいです)

 「女性が輝けばまちが輝く」というタイトルでしたが、参加者の反応は上々で15分延長してお約束の2時間たっぷり話させてもらいました。丸く囲んだテーブル形式の会場は雰囲気も申し分なく、私のいい加減な話にもかかわらず笑いの渦がいくつもできました。

  「魂を 揺さぶられつつ あれこれと 思うことあり 更に進化を」

  「野の花を 愛でつつ抹茶 いただきぬ 心ほのぼの 余韻残して」

  「山道を 越えていきなり 桂の木 木霊われに 何か問いかけ」

  「ああ今日も 生きているなと 実感す 山奥深い 里を訪ねし」



(講演が終わった瞬間の写真を壇上から撮影させてもらいました)
 一泊二日の長い旅でしたが、久しぶりに魂や感性を揺り動かされるようないい旅でした。私を呼んでいただいた商工会や私を紹介し案内してくれた旧友松嶋さんにお礼を言わなければなりません。有難うございました。

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shin-1さんの日記

○出雲路への遠い旅

昨日から2日間、島根県雲南市吉田町で開かれた商工会女性部のブロック研修会に招かれて出かけました。講演の時間が10時からなのでどんなルートを通っても日帰りは無理なので、思い切って前日から出かけることにしました。今回のルートは松山観光港から広島宇品港まで船で渡り、電車とバスを乗り継いで島根県入りするというルートです。講演が明くる日なので本を読みながらのゆったりとしたひとり旅でしたが、あいにく雨にたたられてしまいました。それでも旧吉田村の松嶋さんのご好意で出雲大社の近くにある島根県立古代出雲歴史博物館を見学することが出来ました。出雲は日本最古の歴史に彩られた地域です。中でも最近話題となった出雲大社境内遺跡から出土した宇豆柱(うずばしら)と加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸39個(重文)と荒神谷遺跡出土の銅剣358本(国宝)は見応えのある展示でした。一度はこのミュージアムを訪ねこれらの出土品を見てみたいと思っていただけに、夕闇迫る気忙しい時間でしたが時の経つのも忘れて見とれてしまうほど堪能させてもらいました。

(博物館へ通じる道の横は緑のじゅうたんのようで、梅雨の柔らかな雨が緑を余計引き立てていました)

(玄関ロビーで古代服に身をまとったスタッフが優しく迎えてくれました)
(ガラス窓が続く通路を行くと奥まった場所に受付がありました。松嶋さんは両足を手術して2本のステッキ風杖をついての歩行なのですが、それを見ていたスタッフから「身障者と介助者は無料だと告げられました。松嶋さんだけならいざ知らず私まで無料とは。ご辞退しましたが熱心に簾勧められて甘んじてご好意を受けました。スタッフの皆さん有難うございました。
(入場して最初に度肝を抜かれたのは3本の杉の大木です。ここだけ撮影が許されていたので写真を撮りました)

 平安時代の出雲大社本殿の姿は色々な学説があるそうですが、この出土した宇豆柱によってさらに確かか証明がされたようです。中に入ると巨大神殿出雲大社の姿が10分の1の模型で復元されていました。しかも学者それぞれの学説により何種類もの模型が並列的に展示され、その違いが興味深く見て取れました。残念ながらその全ては撮影禁止でご紹介できないのが残念です。銅鐸と銅剣の展示も見事で、これだけ多い数が一挙に出土した訳ですから、世紀の大発見と騒がれるのも無理からぬことです。この見学で銅鐸が何の目的で造られたか長年の疑問が解けました。普通の人は出雲大社にお参りに行って、歴史博物館は素通りするのですが、私は歴史博物館を見て出雲大社へはお参りをしませんでした。そのくらい大きな価値だったと思いました。

 出雲路は信仰文化・青銅文化・鉄文化など日本の歴史を解明する上で貴重な資料の残る地域です。この資料を見た後、それぞれの発掘現場へ足を伸ばすのもまたミステリアスで興味をそそられます。この日は雨の夕暮れだったこともあってその先へは進めませんでしたが、何時の日かそんなひとり旅もしてみたいものです。

 歴史博物館の見学を終えた私は松嶋さんの運転する車で国道9号を通らず宍道湖の北岸431号の旧道を通って松江入りしました。夕闇迫る雨の宍道湖もおつなもので、海の風景には慣れている私ですが、湖の穏やかさはまた格別な趣きがありました。

  「介助者と いう名で入場 無料とは 粋な計らい 島根は優し」

  「博物館 だけ見て大社 参らずに 帰る愚かさ 今に天罰」

  「銅鐸や 銅剣ずらり 特別展 はるか古代の 人に思馳せ」

  「喧騒の 社会がまるで 嘘のよう タイムスリップ 古代モードで」 


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shin-1さんの日記

○車じゃ近いが歩けば遠い

 私は現職の若い頃、よく酒を飲みました。多い時は仲間4人で飲み始め、家の横に造っている私設公民館煙会所という4畳半の部屋の周りに飲み干したビール瓶を並べて行き、最後はついにビール瓶に囲まれて終えたという武勇伝も残っているほど無茶飲みしたものです。そのつけか後遺症か分りませんが健康上の理由で酒を止めなければならない羽目になってしまいました。深く反省しつつも後悔先に立たずといった諺を思い出すこの頃なのです。

 酒をよく飲んでいた頃は松山からわが家のある双海町まで25キロもあるのに、年に4~5回呑んだ勢いで歩いて帰ったりしていました。背広に革靴、しかも寄った勢いの無茶は、歩くほどに酔いがさめ「何てバカの事をしたんだろう」と歩きながらよく反省をしたものです。特に伊予市と双海町の間には三秋峠という追いはぎも出そうな急峻な峠があって、勾配もきつくヘトヘトになりながら歩いて帰ったものでした。双海町の高野川という海沿いから伊予市の出会いの橋までは車で走れば5分そこそこなのですが、歩いてみると結構長くてきついのです。

 昨晩9時半ごろわが家に電話がかかってきました。私はパソコンに向かってブログを書いていましたが、電話に出ると家にいるはずの妻の声です。「お父さん向けに来て」と悲壮な声なのです。妻は夕方「今晩帰る」と電話で言ってきた三男のために急遽思いついて伊予市のスーパーへ「ちょっとそこまで」てな感じで、私にも告げず自分の車で買い物に出かけたようです。買い物を終えて帰る途中の三秋峠の頂上付近で車が突然エンストしてしまい、動くに動けぬ状態となりました。妻はあいにく携帯を持たず出かけたものですから結局暗い夜道を公衆電話のある伊予市向原まで引き返し、自宅への電話と相成ったのです。私は早速取るものもとりあえず車で「救出「に向かいました。三秋峠を少し下りた国道に妻の車は乗り捨てていました。その車をそのままにして妻の元へ走ったのです。不安な気持ちと疲労困憊で私を持っていた妻は助け舟に乗り込んで元の道を引き返し、エンストした車を手で押し邪魔にならないよう路側帯に止めてロックし放置しました。日曜日の夜のことゆえ加入のJAFに連絡することも出来ず、結局は今朝の処理となるようです。

 昇り始めた満月の月を見ながら歩いたと述懐する妻の言葉は「来るまで何気なく走る道も歩けば遠いのね」でした。「ごめんなさい」と謝る妻は「今度からは出かける時携帯を必ず忘れない」「サンダルで出かけたけど今度からは靴を履いて外出する」などと反省の弁しきりでした。

 10時過ぎ警察官の息子が帰ってきました。わざわざ買出しに出かけハプニングの中で買った食材で妻は久しぶりに帰ってきた息子に心からなる手料理を作り食べさせていました。駐在所勤務の息子は「やっぱりおふくろの味は美味しい」と盛んに持ち上げていましたが、独身自炊のためか少々痩せた感じのする息子も反面逞しくなったような気もしました。

 降って湧いた妻が起こしたちょっとした騒動に、「まあこれくらいの出来事でよかった」と胸を撫でながら、風呂に入り妻と同床の人となりました。さすがに余程疲れたのか妻は軽い寝息のようです。

  「車では たった五分の 短さも 歩く夜道は さすがに遠く」

  「月を愛で 夜の散歩と しゃれ込むが 公衆電話 行けど何処にも」

  「夜道にて 歩く人有り 徘徊と 間違われそう 初老妻見て」

  「置き去りに したあの車 今頃は 寂しく一人 一夜過ごしぬ」

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shin-1さんの日記

○ツーリズム

 何年か前私は下関市の合併記念イベントで、講演やシンポジストを頼まれて訪れたことがあります。下関といえば関門海峡に架かる大橋や関門トンネルをはじめ日本海と瀬戸内海の二つの海を有し、日本に完たる風光明媚な場所として知られています。しかし近年は後追いだった博多の繁栄に押され、加えて対岸の門司のレトロに押されて何となく影が薄くなっているような感じを持っていました。バナナの叩き売りの口上もふぐの取り扱い日本一を誇るグルメの町も、博多ラーメンの庶民性にお株を奪われたように思うほどです。

 しかし下関は私が海大好き人間だからかも知れませんが、歴史の中に生きてきたレトロな感じや海に向かって建つ佇まいは、どことなしか懐かしい香りがするのです。

 そんな下関のシンポジウム会場で大分県安心院の中山ミヤ子さんに会ったのも懐かしい思い出です。安心院はご存知のようにグリーンツーリズムの先鋒として急速に脚光を浴びている町ですが、中山さんの話はとても魅力あるものでしたし、その話を確認すべく仲間を集めて農家民宿を営む中山さんの家へわざわざ出かけたりもしました。

 中山さんの話はとても面白いものでした。大学の先生の話と違って理路整然とはしていないものの、朴訥と語る方言丸出しの話は時には可笑しく、時には悲しく、それでいて真髄を突くようなものだったと記憶しています。田舎の時代遅れの代名詞と言われた五右衛門風呂や溜め置きの便所さえ非日常ゆえに、都会の人には魅力として映るのだそうです。別に風光明媚な土地でなくても、別に美味しい牛肉や魚がなくても、自信を持った生き方さえすれば日々の暮しが観光資源になるということを話してくれました。

 今私たちの住んでいる田舎はどんどん人が減って過疎となり、子どもを生まなくなったことと医学が進んで長生きするようになる少子高齢化という社会現象の波が押し寄せ、限界集落といわれる集落を幾つも抱えているのです。多分そこに住む人たちの殆どは何をやっても上手くいかない負け組み意識に苛まれながら自然消滅の時をじっと待っているような感じさえするのですが、中山ミヤ子さんの話はその田舎への応援歌ともとらえられる頼もしいものでした。

 最近旅のかたちが少しずつ変りつつあることを感じるようになりました。先日学生を連れて訪ねた今治でもグリーンツーリズムが少しずつ芽を吹いていると報告されていましたし、昨年20回もお邪魔した高知県四万十市西土佐村でもツーリズムに目覚めつつある人たちを沢山見てきました。昔は「いい景色のところにみんなで行って、温泉に入って美味しいものを食べて」が旅の主流でした。勿論今でもそんな旅を好む人は多いけれど、ただ「見る」だけでなく「体験する」ひtが増えているところに現代の人のモヤモヤ感のようなストレスを感じるのです。

 グリーンツーリズムは農業体験、ブルーツーリズムは漁業体験ですが、「旅に行ってまで働くの?」と感じる人もいるようですが、ビルの中でデスクワークしている人たちにとっては自然の中で大地や海やそこに生きる人々と接しながら身体を動かすことは意味のあることのようで、手ごたえや体感を求める人が修学旅行までも変えようとしているのです。

 ある意味では田舎が都会を求める20世紀に比べ、都会が田舎を求めるいい時代になったし、知恵さえ出して行動すれば田舎という負の遺産も大きな商品価値になるかも知れない期待感を持つのです。既に密造酒の代名詞のように言われたドブロクだって「ドブロク特区」などという用語まで飛び出しているのですから面白いものです。

 諦めかけていた田舎の人に少し自信を持たせるツーリズムの動きも、儲け主義を追求し過ぎるとリピーターは増えず、折角資金をつぎ込んで整備した水周りへの投資も回収できずに廃業なんてことになるのかも知れません。ツーリズムの命はやはり心と心の温かいふれあいの上に存在する事を肝に銘ずるべきだと思うのです。

  「ツーリズム 俺もやろうと 皮算用 客足伸びず 元の木阿弥」

  「こんな場所 人がよく来る 不思議がる もてなし心 ネット情報」

  「火吹き竹 穴かな息を 吹き込んで 真赤な顔は まるで赤鬼」

  「五右衛門の 風呂に浮かんだ 下簾板を 取ってアイタタ 底抜け騒ぎ」

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shin-1さんの日記

○無人島探検記・ルポ④

 無人島には人間が住んで使ったであろう道具類がやたらと散乱しています。家が打ち果てて潰れたため五右衛門風呂の風呂釜や水瓶など押し潰された屋根の重みで殆どが粉々になっていました。多分何年が後にどこかの物好きな考古学者や郷土史家がこれら人間の生きた証を調査しまことしやかに語るのでしょうが、今を記録することも大切ではないかと思いました。

 雑多なごみの中で水瓶を見つけました。取り出してみると多少傷んではいましたがまあ使えないことはないと思い近くにあったボロ布で粗方の掃除をして蜘蛛の巣やゴミを取り除きました。そしてそこら辺に落ちていた紐で荷造りをして海岸まで運びました。多分このままだと朽ち果てて役には立つまいと思い、豊田さんと相談して取って帰る事にしました。由利島の見える人間牧場にでも置いてこの水瓶にメダカでも飼って由利島の話を長く語りついで行きたいと思っています。

(口が割れてかけているものの、何とか水が溜りそうなので、船に積んで取って帰る事にした小さな水瓶です。私が梱包し、埼玉の工藤さんに手伝ってもらいました。

 
(海岸で集めたニナをにわか釜戸で茹でました。柳町さんもボーイスカウトの出で立ちで加勢しました)
(タコも上手に茹で上がりました。早速タコのぶつ切りパーティです)
(タコもビールも会話も飛びきり美味いです)

探検が終わると私たちは海岸に出て石をはぐってニナを取りました。10人なのであっという間に手鍋にいっぱい取りました。潮池に戻って石でにわか釜戸を造り、手鍋で茹でました。中々の味です。ついで私たちを送迎してくれた船の船長さんがくれたタコを一匹ずつ茹で、豊田さんが包丁で調理して野趣豊かなタコのぶつ切りを賞味しました。埼玉の連中もこれには大喜びで、塩水で冷したビールを飲みながら楽しい昼食弁当を食べました。炎天下でしかも今年一番と思われる暑さの中でのパーティでしたが、大満足です。

(潮池の向こうには緑色片岩の大きな石山があり、そこからは四国のぢ方や、双海町がよく見えます。大野さんの案内で小林さんと二人が散策しました)
(ゴロ石の浜で全員が記念写真を撮りました)
(へっぴり腰の無人島常連峯尾さんと小林さん)

 やがて迎えの船が来る約束の13時30分になったので荷物をまとめ干潮時の乗り場となる砂浜へ移動し記念写真を撮りました。迎えの船は約束の時間きっかりに姿を見せ、慣れた手つきで錨を打って小船を下し、私たちは次々に乗船しましたが、船足の軽いプラスチックの小船ゆえ、柳町さんが思わず海面に尻餅をつくハプニングもあって思い出多い無人島に彩りを添えてくれました。やがて渡し舟は全員を乗せ思い出多いつかの間の無人島由利島を全速力で走り後にしました。

(さようなら雌由利の遠望)

(さようなら雄由利の麓に広がるゴロ石の浜の遠望)

 約1時間弱で三津浜に到着しましたが、岸壁には河野さんも出迎えに来てくれていました。河野さんはこの春リタイアし、桟橋の目と鼻の先の渡し船の船長として第二の人生を始めています。その後みんなで由緒ある道後温泉本館の湯船に浸かって疲れを癒しました。この温泉は私たち地元の人でも中々体験できない珍しいお風呂で、通された2階の風呂や休憩所はお茶やお菓子のサービスもあって中々のものでした。

(道後温泉本館風景、間もなく10年間の大改修が行われるため全てが工事用のベールに包まれるそうです。間に合ってよかったです)

(2階の休憩室でくつろぐメンバー)

(坊ちゃん列車に乗って町を散策しました。丁度土曜夜市の初日とあって沢山のお客が大街道通りに集まっていました)

 小料理屋千昌の2階で開かれた交流会には無人島キャンプで知り合ったフロンティアグループの仲間11人が加わり、賑やかな小宴が持たれました。哲ちゃんの頭が示すとおり、北本市と交流が始まった平成2年からだともう17年も経って、仲間の体調や職業にも大きな変化が見られています。次の出会いは確約できないものの、久しぶりに旧交を温めたことで、新たな活力が湧いてきたような感じがしました。

 同じ目標に向かって楽しくボランティア活動に熱中した時代が懐かしく感じられる分私たちも歳を取ったのでしょうが、やはりあの頃のパワーの源を考えれば、メンバー個々が新たな目標を持って進化しなければならないと、私はみんなに開会のあいさつで訴えました。

 私は仕事の都合で最終日は止む無くご一緒できませんでしたが、大野さんと藤本さんの案内で午前中松山市内を見学して帰郷、今日の午後8時過ぎ、松本さんから「北本へ無事着いた」旨の電話をいただきました。

 またお会いしましょう。「グッバイ、シーユーアゲイン」

  「若き頃 ふとした縁で 無人島 夏は毎年 子どもと一緒に」

  「おいお前 薄くなったな 笑う顔 お前の頭も 五十歩百歩」

  「無事着いた いまだに届く 締め電話 これでホッとの 仕事終りぬ」

  「また少し パワーを加え 元気だし 老いの坂道 ブレーキかけつつ」 

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shin-1さんの日記

○無人島探検記・ルポ③

 さあ久しぶりに無人島探検をして見ましょう。

 手に手に草刈り鎌を持ち豊田さんの案内で無人島キャンプ当時の足跡を追ってみました。まず潮池から北側の海へ出ました。この道は踏みつけ道があって子どもたちが自由に往来していましたが、既に野ばらが生い茂り少し窮屈な道になっていましたが、先陣を切った豊田さんが鎌と剪定ハサミで道を確保してくれお陰で大助かりです。その後雌由利と雄由利を結ぶ突堤に出てその上を歩きました。

 雄由利は以前より海岸線も美しくなったような雰囲気でゴロゴロ丸石の海岸が灯台岬の方まで綺麗に伸びていました。写真に撮ると美しいのですが砂浜にはゴミがかなり打ちあがり美観を損ねていました。

 子どもたちがドラム缶の風呂や炊事に使っていた場所には広葉サボテンが群生していて、黄色いサボテンの花が綺麗に咲いていました。訪れて見る人もないオニユリやサボテンの花ゆえにいとおしく感じ、みんな写真に収めていました。

(このサボテンには多くの刺があり、触ると目に見えないような刺が手袋を通して無数に突き刺さり、中々抜けない厄介者なのです。綺麗な花には刺があるのでしょうか。無人島キャンプではこのサボテンをステーキにして焼肉のタレで食べましたが中々美味でした)

 昔は無人島になんでこんな物があるの?と想ったものが二つありました。一つは由利神社です。かつて由利千軒といわれるほどにイワシ漁や潮待ち港として栄えた名残でしょうか、石垣で囲った立派な神社がありました。しかし長年の風浪に耐え切れず、傷みがひどく今度来るときには完全に潰れるのではないかと危惧するほどの傷みでした。豊田さんと私は雲の巣を払いながら奥へ進み、敬虔な祈りを捧げました。

(一番奥が本殿で、本殿は瓦葺の社殿でスッポリ覆われていました。鳥居や石碑もかなり痛んで今にも倒れそうな雰囲気でした。

 もう一つは公衆電話のボックスです。由利島は昭和40年代に無人島になりましたが、無人島になった跡も何故か公衆電話があったのです。携帯電話のなかった私たちが無人島キャンプを始めた頃は唯一暖簾連絡手段として大活躍でしたし、その頃は無人島に公衆電話が何故あるのかという疑問がクイズ番組などで度々紹介されていました。そんな話題性もあって無人となった民家に置いてあった公衆電話専用のモダンな電話ボックスが出来ましたが、それも今は傾きかけ、海底ケーブルの故障によって今は取り外されて久しいのです。

(かつての公衆電話ボックス)

 私たち一行は電話ボックスの前から壊れた民家の前の道を通って井戸まで進みました。この道では嫌な思い出があります。井戸からドラム缶の風呂までかなりの距離をポリタンクに水を入れて運ぶのですが、これがかなりしんどい仕事でした。子どもたちは蚊の大群に悩まされながら背負子を背負い何度も何度もこの道を歩いたものです。私はこの道を下見で訪れた時仲間たちと草刈機で道刈りをやりましたが、その時スズメバチの巣に知らずに草刈機を突っ込んでしまい、蜂の大群に追いかけられ頭と顔を数ヶ所刺され、顔が倍くらい腫れあがったことがありました。明くる日県民文化会館で環境のシンポジウムがありパネラーとして登壇しましたが、参加者の笑いのネタにされてしまいました。しかし私はひるむことなく「私の顔が今の地球の環境と同じです」と一蹴し大きなインパクトを与えた感心させたことを思い出しました。



(井戸に通じる道、この道を何度通ったことでしょう)

 思ったよりスムーズに井戸まで到着しました。井戸は今も底に水をためていましたが、井戸の中の石垣には草が茂って神秘的でした。ここでも無人島ゆえリーダーとして参加した女性陣がこっそり深夜に水浴するのですが、水汲みに来た折月明かりで彼女たちの全裸姿を見てドキドキしたのも昔の過ぎし思い出です。この井戸を何年か前エンジンとポンプを持ち込み井戸替えした子とがります。「井戸は井戸主というのがいるからバチが当って井戸が壊れて生き埋めになるかもしれない」というデマを真に受けて誰もい井戸底に入らず、結局は私が入りました。水をくみ上げた井戸底から覗く丸い夏の青い空の美しかった思い出は忘れることは出来ませ。

(井戸の様子を感慨深げに見る探検隊のメンバーたち)

(探検の目的地にて記念写真を撮りました)


 スカートをはいた女子先生のことも話題の一つに上りました。本人の名誉のため名前は伏せますが、私の忠告も聞かずスカートをはいてさっそうと無人島に乗り込んできた若い女子先生の股間に蚊の大群が押し寄せ、それはもう大変なことになりりました。結局大統領の私がスカートをまくりパンツを見ながらムヒを塗ってやりましたが、今は結婚して母親になっていると北本の仲間から近況を聞かされ、ほろ苦い思い出に思わず苦笑してしまいました。

  「梅雨晴れて 鎌を片手に 島探検 あれこれ話す 思い出話」

  「道渕に 潰れし小屋の 寂しさよ 住む人絶えて 久しからずや」 

  「俺たちの 命の水と なりし井戸 今は夏草 底さえ見えず」

  「俺だって 踏みつけ道の 一翼を 担いこの道 今にあるのだ」 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの無人島探検記・ルポ②

?過去20年間にわたって夢と感動を求め続けた無人島由利島を去って7年があっという間に過ぎ去りました。その間平成の合併によって由利島は温泉郡中島町由利島から松山市由利島と所領呼び名も変わりましたが、それでも私の心の中には無人島で過ごした数々の思い出が今も心の中に鮮やかに焼きついて忘れることは出来ないのです。その思いは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループや活動に深く関わった人たちにとってもやはり忘れられない思い出のようです。

 1ヶ月余り前に埼玉県北本市にに住む盟友の工藤日出夫さんから一本のメールが届きました。「もう一度仲間とともに無人島へ行ってみたい」というのです。無人島に渡るにはそれ相当の覚悟と準備が要るものですから、私は大野事務局長と旧中島町出身の豊田さんと相談して準備をしてくれないかと粗方の予定を連絡したところ、数日後企画者が届きました。その企画書を何度か練り直し双方の意見を集約しながら今回の無人島再訪事業は実現したのです。埼玉の同行者は当時無人島キャンプに深く関わった7人です。しかし時の流れとでもいうのでしょうか、工藤さんこそ北本市の市議会議員になっていますが、北本市役所の関係者の殆どは既に第一線から退いたリタイア組で、私も昨日同行してくれた北原君もリタイアしています。無人島に渡る船の都合でこちら愛媛側は大野事務局長と現地案内人の豊田さん、それに私の3人だけに絞りました。

 昨日愛媛入りし人間牧場で交流した北本組を朝8時、大野事務局長と私でホテルまで迎えに行き、三津浜支所に車を置かせてもらって三津浜桟橋9時の出発に備えました。心配された梅雨雨の心配もなく今日は絶好の日和に恵まれ、朝からカンカン照りです。

(大野事務局長の用意したライフジャケットを着用していよいよ無人島へ出発です)

(迎えの船は二神島の小さな船ですが、この船の船足は相当速く、柳井航路のフェリーより早いつわものなのです)

(さあ、船に乗って一路無人島を目指します。工藤さんと大野さん)

 やがて30分もすると船の波しぶきや朝もやの向こうに懐かしい姿の無人島由利島の白い灯台が見えてきました。仲間は総立ちで島を懐かしそうに眺めていました。

(無人島由利島のシンボル白い灯台が見えてきました)

(灯台の右側の島が雄由利です)

(左側が雌ゆりです)

(雄由利と雌由利は細い防波堤でつながれていて、人間牧場からの遠望では遠いためまるで二つの島のように見えます)

 漁船は雌由利の付け根にある天然の港へ到着しました。さあ接岸上陸です。久しぶりの無人島由利島は支持かな佇まいを見せて私たちを温かく迎えてくれました。潮池の直ぐ近くには夏の訪れを告げる島のシンボルオニユリの可憐な花が咲いていて、私たちを優しく迎えてくれました。

(島への上陸)

(由利島のシンボルともいえる野ばらの中に咲くオニユリの可憐な花)

 由利島はロマンの島です。この潮池の奥には縄文土器が出土する石ころの浜があって、私たちは直径10メートルの竪穴式住居を蚊帳1500束、孟宗竹150本を持ち込んで一泊二日の野宿を4回やって完成させ一週間この竪穴式住居で無人島シンポジウムをやりました。また長さ10メートル、直径1.6メートルのアラスカ産のモミの木を4ヶ月間かかってくり抜いて丸木舟を造り瀬戸内海航海もやりました。またメーンである無人島キャンプはサメ騒動で数年間無人島を離れましたが、その間大野ヶ原モゥーモゥー塾や佐田岬半島に挑む少年の集い、牛の峰に挑む少年の集い等をつないで再びこの島へ帰って活動した思い出の島なのです。その間多くの青少年やボランティア仲間とともに様々な感動を得ました。その模様は私が中心になって書き下ろしたフロンティアグループ出版の「今やれる青春」という本に詳しく記録されています。

 変りやすい梅雨明け間近な天気にも一喜一憂しながら随分翻弄されました。炎天下の活動ゆえかなり過酷なプログラムもありましたが、子どもたちは自然との葛藤や人間との葛藤、文明との葛藤などによく耐えてくれました。ドラム缶の風呂や手づくりの住まいは中々のものでした。タコや貝など自然からの贈り物にも舌鼓を打ちました。禁酒禁煙はリーダーにとってかなりきつかったようです。毎年マスコミが大々的に取り上げ、最初の年は愛媛新聞一面トップ記事になりました。また北本との交流は映画にもなりました。海に流したメッセージが遠く広島県三原市、福岡県行橋市の海岸まで流れ着き驚かされました。

 こうして振り返ると、手の指を余って数え切れないほどの思い出が蘇ってくるのです。無人島は私たちにとってはまさに「今やれる青春」そのものでした。

  「目指す島 心ときめき 近くなる みんな総立ち タイムスリップ」

  「今やれる 青春謳歌 過ぎし夏 無人の島に オニユリ咲いて」

  「目を瞑り 無人の島の 香り嗅ぐ 何処か懐かし 子どもの歓声」

  「あれも夢 これも夢だと 振り返る あっという間の 過ぎ去りし日々」

 

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shin-1さんの日記

○埼玉県北本市からのお客さん・ルポ①

 松山着13時35分の全日空機で松山空港に降り立ったのは埼玉県北本市の7人です。このご一行と私をつなぐキーワードは「無人島」という3文字なのです。

 私が代表を務める「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は20年間にわたって、無人島キャンプや大野ヶ原モゥーモゥー塾などの青少年キャンプを毎年実施してきました。中でも全国に先駆けて実践した無人島キャンプは参加した多くの青少年に夢と感動を与えてきたのです。平成2年からは埼玉県北本市青少年育成市民会議との共催事業として10年間、愛媛と埼玉の交流を無人島をフィールドに実施してきたのです。しかしメンバーの寄る年並みには勝てず目標通り20回を最後にその幕を閉じたのですが、今でもその成果を評価し終息を惜しむ声があるようです。

 そもそもこの交流のきっかけは私が北本に住む友人の工藤日出男さんの紹介で北本で講演したことから始まりました。私は既に始まっていた無人島キャンプを熱っぽく語りましたが、海のない街に住む人たちにとって無人島や瀬戸内海といった海への憧れもあって大きな反響を呼び、当時の市長さんをも動かし予算化され、市民会議主導による交流事業が誕生したのです。それからは市民会議とフロンティアグループの熱意ある行動によって新しい展開を見せ、多くの成果を上げてきたのです。

 今回の交流は旧交を温めることもさることながら、「夢よ再び」の心境で懐かしい無人島へ渡ることなのです。梅雨の真っ最中なので渡船で渡る今回のプログラムは多少の不安が残るものの、私たちフロンティアグループの仲間である中島町の豊田渉さんによって既に準備が進められており、明日が楽しみなのです。

(シーサイド公園にて記念撮影)

 今日は松山空港から伊予市双海町へ直行しました。私が深く関わった夕日へのこだわりと立派に整備されたシーサイド公園を

見学するためです。私の活動情報は工藤さんを通じて逐一埼玉には伝わっていますが、昔の双海町を知っている工藤さんにとっても埼玉のメンバーにとっても久しぶりに訪ねた双海町の変貌は大きな驚きだったようです。シーサイド公園の魅力ある物語を見学しながら話しました。またおばちゃんの作ったじゃこ天を食べたりしました。次にわが家へ立ち寄りました。妻も午後の休診時間だったので家にいて懐かしい顔々に出会い嬉しそうでした。北本のメンバーの中には私設公民館煙会所で酒を飲みわが家に逗留した人たちもいて、思い出をかみ締めていたようです。

 一行は私とこの春学校を退職した内海の北原さんの車に分乗して人間牧場へ向かいました。今日の交流会は人間牧場です。あいにくフロンティアグループのメンバーは仕事の都合で私と北原さんのみの参加となりましたが、運良く雨もあがって刻々と変わる人間牧場の眺望にすっかり魅了されていました。都会に住む人にとって人間牧場は大きな憧れのようです。ましてや青少年教育やアウトドア活動を経験している人たちにとってはよだれの出そうな施設なのです。

(ロケ風呂からの下灘豊田漁港風景)

(刻々と変化する海と空の間の水平線に浮かぶ由利島界隈)
 妻が用意してくれた心づくしの料理に舌鼓を打ちながら呑むほどに酔うほどに当時の思い出が蘇り熱のこもった3時間の交流会となりました。無人島を通じて知っている私の生き方に更にグレードアップして加わった人間牧場構想に感嘆しながら余韻を残して山を下り、松山のホテルへ送りました。その途中双海町の国道で幻想的な夕日を見ました。雨模様の空を押し上げて夕日が見えたのです。車の中から何気なく外を見ていた工藤さんの息子さんが「あっ夕日だ」と叫んで見た沖合い青島の辺りに夕日が見えました。あきらめていた夕日なので驚き一入といった所で、路側帯に車を止めしばしの間見学をしました。

(幻想的な暗闇の夕日)

 今宵の宿は明日のプログラムもあって松山での宿泊です。早朝に豊田さん~大野さん~私へと無人島への旅が可能かどうかの判断第一報が入る予定です。天気の回復を祈っています。

  「思い出の 顔々既に 年を経て それでも若い つもりで語る」

  「過ぎ去りし 日々の間に 人もまた あれやこれやの 消息変化」

  「普通だと 俺の生き方 思ったが 目を見張られて そうかうなずく」

  「過ぎ去れば 夢のようだが あの時は 燃えに燃えたな 若かりしころ」 

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shin-1さんの日記

○菜園は豊作です

 全国各地では大雨の心配がニュースで報じられているのに、四国地方は梅雨に入ってからもまとまった雨が降らず、夏の渇水が心配されています。最近まで親父は菜園に水をかける作業をしていましたが、水不足といってもそこは梅雨時、にわか雨のお陰でわが家の家庭菜園は急に賑やかになってきました。ナスに始まってピーマン、オクラ、トマト、カボチャ、サヤインゲンなど様々な野菜が採れて、家庭だけでは食べきれず近所や親戚におすそ分けをしているのです。

(カボチャ)

(ナス)
(トマト)
(ツルインゲン豆)

 朝起きるとまず菜園に行くのが日課となりました。さも自分が作ったような顔をしていますが、実はこの野菜が収穫できるまでの世話は90歳になる親父が殆ど面倒を見ているのです。今朝も親父の隠居に朝のあいさつに行くと、「野菜がたくさん出来たので食べきれないからあげる人がいたら持って行け」とナスやトマトを既に朝早く収穫していました。今年わが家では何故かキューリが不作です。5本も植えたのに2本までは枯れてしまいました。また親父と私が蒔いた枝豆も芽が出た頃に野バトが新芽を食べてしまい散々な有り様です。その度に親父は今度こそと知恵を働かせてリベンジを誓うのですが、90歳の親父をあざ笑うように野バトの被害に遭ったり、減農薬を心がけているため虫や病気の被害に遭うのです。それでも親父の几帳面な性格が功を奏して近所のおばさんが羨むほど野菜はすこぶる順調に育っています。

 昨日は出張のついでに娘の家に立ち寄りました。娘から頼まれていたジャガイモを届けるためです。産後間もないこともあって娘は買い物には出られません。結婚して直ぐに始めた生協の宅配を使って安心安全な物を食べるよう心がけているそうで、マンションの入口にはそれを物語るような生協の発泡スチロール容器が幾つも置いてありました。私が1時間ほど孫をあやしている間に私の持参したジャガイモを使って夕食の準備に余念がありませんでした。何でも金で買える時代ですがやはり妻の教育が良かったのか娘はせっせと持参したジャガイモを使って手づくりの料理を作り、主人と幼稚園から帰る息子を待っているようで、少しだけ娘が賢く見えました。帰り際、「お父さん、今度来る時はナスを4~5本持ってきてね」とちゃっかり言われました。「ああ」と軽くいなしましたがナスも買ったところで200円か300円でしょうが、金で買えない安心安全や絆を求めているのかも知れません。

 今朝は妻の求めに応じてトマトを収穫しました。というのも次男がわが家から通勤しているので4月から毎日弁当が必要になったのです。聞くところによると娘も産休に入っているので主人の弁当を作っているそうで感心です。弁当に添えとして入れるにはミニトマト必要なのです。わが家では今年普通のトマトとミニトマト、それに細長いミニトマトを植えていますが、2週間前ころからミニトマトが出来始めました。特に細長い品種が沢山実を付けています。弁当には丁度良いので樹上完熟したものを毎日収穫するようにしています。里芋も、青紫蘇も順調に育っていますし、カボチャも野良生えを含めると5株程あり、黄色い花を付けて沢山実を付けているようです。

  「豊作で あちらこちらへ おすそ分け 野菜嫁入り お返し届く」

  「何処となく 安心安全 わが菜園 思わずガブリ 洗いもしないで」

  「美味いはず 取れたて野菜 料理食う 腕より素材を 褒めて不機嫌」

  「都会では こんな贅沢 出来ぬはず 田舎暮らしを 見せびらかして」



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