shin-1さんの日記

○私の経歴

 この歳になって履歴書を書くなんて思ってもみませんでした。昨晩大分県から帰って妻と二人で食事をとった後、パソコンに向かって所定の様式の空欄に自分の過ぎ越し半生を思い出しながら打ち込んで行くのですが、中々思い出せずに前に進むこともできず四苦八苦してしまいました。

 私の履歴書の職歴は、昭和38年家業である漁業に従事から始まります。当時私は宇和島水産高校の専攻科へ進む予定でした。ところが親父がガンに倒れやむなく帰郷し、親父に代わって若吉丸の船長になったのです。以来7年間も漁師をしました。しかし夜の遅い青年団と朝の早い海の仕事で疲労が蓄積したのかある日突然意識不明となり病魔に襲われて入院生活を余儀なくされました。この病気が元で公務員になったのですから世の中は分からないものです。いつだったか青年の主張の県代表になったとき朝日新聞が、「酒を飲み過ぎ夜更かしし過ぎて公務員になった男」と新聞で紹介したことを今も覚えています。

 その後役場に入り、教育委員会で社会教育、特に公民館活動をし始めてから、35年間の間に教育委員会13年、産業課4年、企画調整室10年、地域振興課10年、教育長2年しか異動していないのでそんなに書くことはないようですが、これ以外の副産物ともいえる役歴がたくさんあるのです。

 県社会教育委員、県青少年保護審議会委員、県青年団連合会会長、四国四県青年団連絡協議会長、県青少年団体連絡協議会会長、松山工業高校PTA会長、県高P連副会長、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ百選などなど書いてゆけば欄がなくなるほどの多さですが、人生の時々にこんな仕事をしたのかと改めて実感しました。


 さてその履歴書に添付する研究業績目録なるものも作らなければならず、適当に項目を書き抜いてみましたが、これもかなりの項目に上りました。その中でも夕日によるまちづくりはトップ項目で、かなりの故事来歴を書かなければなりませんが紙面の都合で3行にとどめました。ふたみシーサイド公園他2つの公園整備事業は75億年のビッグプロジェクトでした。花咲くまちづくり事業、人づくり20年計画の実施も忘れられない多くの成果を産みました。ホタル保護活動、県下最古の現役木造校舎保存運動、双海町誌編さん事業、予讃線海岸周り存続運動、無人島に挑む少年の集いも忘れられない思い出です。

 これが業績かどうかは他の人が決めることでしょうが、私も色々な仕事に携わってきたものだと改めて思いました。履歴者も職務業績ももう自分にとっては過去のことなので、大切なことはこれからどんな生き方をするのかが大事なような気もします。とりあえず私は人間牧場の活動に少し軸足を置いて活動してみたいと書きながら思いました。


  「この歳に なって履歴書 書くとはなあ 思い出しつつ 1行1行」

  「過去などは 何の意味など あるものか これから何が できるか勝負」

  「始まりは 漁師の二文字 活き活きと 生きた昔が 懐かしきかな」

  「夢持って 生きた昔が 懐かしい そんなお歳に なったのですね」

   


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○大分県日帰りの旅

 私が小学6年生の時の修学旅行は大分県別府でした。子どもの目線で見ていたからでしょうか、別府はとてつもなく遠い国のように思えたし、湯けむり立ち上る別府の町並みや楽天地、温泉地獄めぐり、高崎山の猿公園などはまさに夢の町での出来事でした。僅か2~300円の小遣い銭を握りしめて土産物屋の店先で買ったお土産も懐かしい思い出です。今も記憶の底に残って焼き付いているのですから、これほどインパクトの強い旅はなかったのでしょう。

 あれから半世紀50年余りの時が過ぎてしまいましたが、世の中は便利になったもので、昨日は大分県大分市に渡り講演の仕事をして夕方帰れるのですから驚きです。朝9時前に家を出て夕やけこやけライン(国道378号)、潮風メロディーラインを走りフェリー乗り場の三崎まで走りましたが、少し早目について着いて、予定していた11時30分より一便早い10時30分の船に乗ることにしました。運よくとでもいおうか佐賀関の渡辺又計さんから電話が入り、フェリー乗り場で待ち合わせる予定だった時間を早めてもらうことにしました。


 昨日は久しぶりの晴天に恵まれたものの海は秋徳友の北寄りの風が少し強く吹いて船は適当に揺れましたが、バスの団体が2団体も船室を陣取って賑やかな酒盛りが始まっていました。私は前日までの旅の疲れが残っているので横になりうつらうつらの居眠りでした。やがて70分で長くて高い佐賀関のシンボルともいえる煙突の見える港に接岸しました。車で乗船した人が殆どで、徒歩で乗った乗客は私一人でした。乗船は人間が先、下船は車が先のルールがあるらしく、船倉の中は排気ガスがもうもうと立ち込めて息苦しいほどでした。下船すると港には懐かしい渡辺さんの顔が見えました。夏に大洲市肱川の温泉宿で交流会をして以来の再開でした。


 渡辺さんの案内で関あじ関さば館を久しぶりに訪ねました。昼時だったので予約で殆どの席が埋まっていましたが、渡辺さんの顔で注文した関さば定食はすぐに用意され、顔なじみの店長さんも私の顔を覚えていてくれて少しの間店の状況について説明を受けました。まあ繁盛しているようで何よりでしたが、渡辺さんの指摘のようにこれからはインターネットを使った戦略も立てなければならないし、テラスを活用したレストランの拡張も急務だと思われました。渡辺さんにすっかり御馳走になってしまいましたが、やはり関さばの味は絶品で久しぶりに美味しいお刺身をいただきました。

 その後渡辺さんと別れ、迎えに来てくれたわさだ公民館の魚住さんの運転する公用車で約1時間走って、講演会の会場となる大分市わさだ公民館へ入りました。この日は市公連の研修会で約70人ばかりの人が集まっていました。「新しい発想で生きる」という演題で約90分ばかりお話をしました。公民館の発想を変えなければマンネリになること、そのためには職員や関係者が新しい発想をどう取り入れるかについてお話しさせてもらいましたが、あっという間の90分でした。でも午後の時間ながら誰一人として眠る人もなく熱心に聞いていただきました。木になるカバンについて女性から最後に質問があったのも記憶に残る場面でした。

 再び元来た道を魚住さんと談笑しながら引き返しましたが、私がフェリーの時間を間違えていて船は出た後でした。それでも30分遅れで次の便に乗ることができました。

 フェリー乗り場で知り合った宇和島から来たというライダーの若いお兄さんと知り合い、後になりつつ先になりつつ保内町の枝分かれまで夜道を走り、クラクションの合図で左折し妻の待つわが家へ9時に到着しました。


  「便利だね 大分日帰り できるとは 今日も充実 昨日と同じ」

  「関さばと いわれるだけの ことはある 昼から馳走 いただきました」

  「あちこちに 心許せる 仲間あり まるで兄弟 出会い嬉しく」

  「退職後 そこそこ生きる 友ありて 互いに安堵 再開誓う」 

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○人生の岐路

 このところ毎日忙しく全国を飛び回って講演活動などをしていると、自分自身を振り返ることができなくなっている自分にハッとしたりするのです。今後の自分はどう生きればいいのか、そろそろこうした忙しさの中だからこそ自分を見失うことなく、身の振り方も考えなければならない時期にきていると思うのです。

 先日旅先へ一本の電話がかかってきました。大学の学部長さんという偉い肩書の人からです。その方とはそんなに仕事を一緒にした記憶はないのに、もう長い付き合いなのです。記憶をたどってみると最初の出会いは、先生の息子さんを無人島キャンプに連れていった折、先生が開会式の会場まで息子さんを連れて来られていました。その方が大学の先生などとは努々思っていなかったものですから、私は例によって子どもにも親にもそれなりの話をしていたようです。その後何年かしてある会合で再開し、またフェリーの中で偶然にも再会しと繰り返していくうちに、先生のやっているお仕事のことを深く知るようになりました。

 

 その後先生は学部長という偉い肩書になり、私は役所を退職して一介の市民になったのです。その後別の学部で大学の非常勤講師をしている私に、先生から新しい構想を聞かされました。今の地方大学は人材育成とはいいながら都会予備軍を作って需要のある都会へ送り込むだけで、有能な人材が地方に残らない現状を何とかしたいと思っていたようです。私もその持論には大賛成で、手伝うことがあったらよろしくという程度で分かれていたのです。

 先生からの電話はそのことへの確認の電話でした。私は大学の仕組みのことが分からず時々迷ってしまいますが、先生の話に乗るには今の非常勤講師の仕事との関係が気になっていました。昨晩大学からメールが入り学部長さんからの電話連絡どおり客員教授への就任依頼でした。外出先から帰った頃を見計らって大学の事務局からメールの趣と必要書類の提出を要請されたのです。

 急いでメールを開くと添付書類は履歴書と研究業務等目録でした。履歴書には学歴欄が書かれていて、ここからつまずきが始まりました。日ごろ何処を出ているかより何をしてきたのかが問われると話している私ですから、高卒をいささかも卑下するつもりはありません。多分この履歴書を見て学内の審査委員会では必ずここが問題にされるに違いないと思うのです。妻も同感で学歴を書かなければならないのだったら最初から断った方がいいとも助言をしてくれました。まあそれは相手が考えることだからと割り切って、色々悩んだ挙句大学の言うがまま資料を出すことに決めました。

 しかしもうひとつ研究業績等目録でまたつまづきそうです。研究業績等そんなにないと思いましたが、これまでかかわったことであれば五万とあるのでそれを書いて欲しいと言われ少し安堵しているところです。

 まるであぶくのように降って湧いたこの話、さて私の人生の岐路になるかどうか、性根を据えて考えてみたいと思っています。


  「何とまあ 私にしては 重過ぎる 仕事舞い込み 戸惑うばかり」

  「学歴は? そこから先に 進めない 研究業績 そこから先も」

  「多分ダメ やめた方が いいのでは 妻の助言に 逆らいながら」

  「前向きに 考え行動 今までも これから先も 変わらず生きる」

  

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○不思議な形の壷

 先日骨董を営む友人の家を訪ねました。四国遍路88か所の一つに数えられるお寺の門前にあるその店は、おおよそ骨董屋と呼ばれるような店構えをしていなくて、まさに古道具置き場といったほうがぴったりなのです。店主夫婦と出会ったのはもう20数年も前で、その頃は木の木製おもちゃを作ってはどこかのイベントに出展していましたが、下灘のみなと祭りに参加させてほしいと要請があり、「夏祭りのことであり売れるかどうか分かりませんが」と断って参加してもらいました。結果的にはまあまあ売れて、まあまあの収益をあげていたようでしたが、その後お互いがすっかりご無沙汰となったのです。

 ところがある中学校のPTA講演会に招かれて行ったところ、参加者の中にその奥さんを発見しました。奥さんは私が来ることを知っていたらしく、何が何でもとさんかをしてくれたようで、講演の終了後校長室で懐かしい再会となったのです。奥さんの話に乗ってすぐ近くだから立ち寄って主人にも会って欲しいと懇願され、帰る途中にその店に立ち寄りました。家は学校のすぐ傍だし、札所の門前にあるためよく通る道筋なのですぐに分かりましたが、個性的な家を作られ、外も家の中も骨董コレクションがまあまあの数置かれていました。骨董には目のない私ですから、そこら辺の中から安そうなものをみつくろって2~3点あいさつ代わりに買い求めてその場を去りました。

 それ以来、近くの生涯学習センターや青年の家に講演に行く度に立ち寄るのですが、彼ら夫婦は出張販売が多いのか、3回に一度くらいしか在宅がなく立ち寄ることもできず帰ったのです。そんなことを繰り返しているうち、この骨董屋は古道具置き場のようになって、座ってゆっくり目利きするような雰囲気ではなくなってしまったのです。骨董屋には売れそうなものだけを整然と並べて商売する店もあれば、古道具屋のように雑然と埃をかぶっている店もあります。田舎の骨董屋は後者が多いのですが、私はどちらかというと校舎の店が好きなのです。好きというよりは掘り出し物が多いし、値段的に手入れをしていないので安く買えるのです。

 先日もその骨董屋を訪ねましたがあいにく留守でした。家の玄関に連絡先の携帯電話番号が書かれていたので電話をしてみると、外出先から帰る途中なので待っていて欲しいと言われ、私は20分間ほど近くの札所にお参りに行きました。やがて二人は帰っててきましたが、まあ家の中へ入ると凄い量の骨董で埋まっていました。夫婦がその商品を少しだけ片付け座布団に座って出されたお茶を飲みながら近況を話し合いました。聞けば京都や九州へも足を運んで骨董市に参加しているようで、その出展のための準備をしているとのことでした。私も来たついでにと珍しい欅造りの火鉢を買いました。

 帰り際店の入口に置いてある壷が目に入りました。大谷焼の大きな壷です。長年欲しいと思っていたものなので値段を聞くとまあまあの最低価格を提示されたので、車が乗用車のため即売約済みにして帰ったのです。気になっていて、青年の船の班長会に使ったフィルムをライブラリーに返すついでにトラックで行き、割れないよう荷台にくくりつけ持ち帰りました。置き場を考えずにトラックから降ろし玄関先に置いておきましたが、そのうち親父が置き場を確保してくれたので、昨日転がしたり歩かせたりしながらその場所へ運び何とか一件落着です。

気に入ったいい壷が手に入り嬉しさいっぱいです。さてこの壷はだれがどんな目的で造り何処で何に使ったのでしょう。考えただけでも道具考はミステリーじみています。楽しいものです。

  「気にいった 大谷焼の 壷購入 庭の隅っこ 置かれ存在」

  「お父さん わが家骨董 店のよう 妻の言葉が 当たっているよう」

  「また買った 言われる度に 嘘をつく 貰ったものと 弁解するも」

  「壷を拭き 化粧施し 眺めると 古き道具が 来歴語る」

 

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○息子との面会

 私には一女三男の子どもがいます。もうそれぞれ大人になってそれぞれの道を歩んでいますが、幸せなことに4人の子ども全員が県内の職場であるため県内に住んでいます。しかし子どもたちはそれぞれの仕事が忙しく、子育てで休職をしている娘を除けば三人の男の子は男というせいもあるのでしょうか、中々家には帰って来ないのです。それでも長男は一人の子どもができ、来年には第二子誕生予定ということもあって、一カ月に一度は家族で泊まりに来ます。しかし看護師をしている次男は仕事が三交代と不規則なため中々帰れず、末っ子に至っては警察官のためこれまた帰るることができず、みんなが出会うことは殆どないのです。

 昨日の夜その末っ子の三男から自宅に電話が入ったらしく、年末調整の申告に生命保険の払い込み証明書が必要なので送って欲しい旨の連絡があったそうなのです。たまたま私が西条市で開かれる厚生年金受給者の集いという研修会に講師として招かれているので、少し寄り道をして持って行くことにしました。

 本当は国道11号線を通るのですが、今日は旧北条を通る海周りの道を走りました。島影織りなす瀬戸の海は、このところの寒さで少し北寄りの風が吹いてどことなく秋の深まりを感じさせましたが、島影は少し浮島現象も見られました。

 時折入る携帯電話に対応して広場に車を止めて対応しながら今治まで行きました。息子の務めている警察は私も行ったことがないのでその所在を調べるためカーナビで入力しましたが、いつも利用している国際ホテルや旧地方局のすぐ近くだけに直ぐに分かりました。警察の駐車場に入って息子に電話すると12時を少し過ぎていたためあいにく外へ昼食に出ていました。食事を注文しているので15分くらい待つよう言われたので車の中で待っていると息子は帰ってきました。昨年までは交番や派出所勤務でした。今年の春から別の仕事をしていたようですが、先月警察学校で特別な訓練を受け刑事になったようで、私服の背広姿も凛々しく働いていました。

 々警察とは言いながら職種が変わったため、その後どうなのか尋ねてみると、好きでなった仕事だけに生きがいを持ってやっていると胸を張って答えてくれました。親としてとても頼もしくそれでいて嬉しい面会でした。妻から預かった書類を渡し、私も次の予定の時間が迫っていたので僅か5分くらいの立ち話で警察の駐車場を出て海岸沿いの道を西条に向かって走りました。

 三男は、大学を卒業して直ぐに民間の会社に就職しました。そこの会社は果樹の選果機製造メーカーでしたが、愛媛県下を揺るがす入札問題で経営者も変わり、技術者として働く意欲がなくなったようで、思い切って転職の道を選び、子どもころからの夢であった警察官になるために猛チャレンジし、幸いなことに社会人枠で憧れの警察官になったのです。妻は危険な仕事だからと大反対でしたが、「警察官が一番安全」という訳の分からない言葉の説得で夢をつかんだのです。


 子どもが4人も入りと子育ては上手くいって当たり前、下手をすると子どもと親の断絶があるものですが、幸せなことに優しい子どもたちに育って人様のお役にたっているのです。官舎に入っての一人暮らしは大変だろうと思いますが、当の本人はいたって気楽なようで極楽トンボを決め込んでいるようです。今年の正月は日勤になったので帰れるかも知れないと別れ際に話してくれました。


  「私服にて 働く姿 凛々しくて いつの間にやら 大きく成長」

  「別れ際 安全運転 気をつけて 親に諭しの 労い言葉」

  「歳をとる はずだと息子 見て思う 早く嫁でも 貰ってやらねば」

  「正月は 帰れるかもと 濁らせる これも仕事が 言わせる言葉」

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○日本列島は広いねえ

 4日前に四国愛媛県伊予市双海町を脱出し、名古屋経由で長野県へ行きました。出発した日は20度近くあった外気温度も東北上するにつれて下がり始め、長野県木曽福島に着いたころは10度を下回る寒さでした。旧開田村のある開田高原に行くと5度前後とさらに冷え込んで、御岳山や南アルプスの山々はには今年の秋始めて見た白くて雄大な冠雪です。さすがに南国とは言い難くも四国瀬戸内に暮らしている人間にとっては、15度も下回る急激な温度の変化は身に堪えました。下着は年中袖なしのランニング薄着で暮らす私ですから、そんな薄着のままで出かけコートを持って行かなかったため、寒くて寒くてぶるぶる震えました。長野の二日間は旧友大目富美雄さんがつきっきりで案内してくれましたが、大目さんはさすがにそんな寒さの中でも私のようにぶるぶる震えるでもなく、薄着でコートも着ていないのに平気で過ごしている姿を見て感心してしまいました。

 私の住む愛媛県伊予市辺りも秋が深まったとはいいながら、山の木々はまだ緑が多く、ウルシやハゼがどことなく色づきかけたかなあと思う程度で、クヌギなどはまだまだ11月下旬でないと紅葉はしませんし、その紅葉も紅葉する前に枯葉になってしまうのです。

 私は飛行機で松山~名古屋便に乗れば早いのですが、名古屋便がとれなくて往路をバスや列車を乗り継いで行ったものですから、近いと思う場所も中々目的地まで時間がかかりました。願わくば旅はのんびりゆっくりをモットーにしている私としては、結果的に自分の願い通りの旅になりましたが、それにしても狭い日本といいながら広いと思いました。

 日本が広いと感じるのはこうした気候と時間的距離だけではありません。日ごろ慣れ親しんでいる言葉も特に地方へ行けば方言がまだまだたくさん残っていて、「それは何?」と聞き返さなければ分からない言葉だっていっぱいあって、おかげ様で傍耳を立て興味を示せば長い列車の旅も結構楽しいものなのです。この4日間の珍しい言葉を名刺の裏の白い部分に書き込んでいましたが、最後に書いた名刺をワイシャツの胸ポケットにしまっていたため、妻が洗濯して溶けてしまいました。これも笑い話の一つです。


 そうそう、広いといえば食べものだって地方には美味いもの珍しいものがいっぱいあって、今回も大目さんの配慮で随分堪能しました。寒い地方には寒い地方なりの食べ物があります。信州はそばと漬物とおやき、それに五平もちが有名ですが、漬物は美味しいもの珍しいものを沢山食べました。今回は山深い古民家の民宿に泊めていただきましたが、夕食朝食に食べた野沢菜や大根の漬物はご飯や酒の肴によくあって、ご飯のお代りをしたいくらいでした。

 また泊めてもらった民宿では奇しくもおじいちゃんの49日の法要の日と重なったため、80歳がらみおばあちゃんが朝早く起きて仏壇に供えるぼた餅を作っていました。その姿に今は亡き母や祖母の背中姿を重ねながら色々なお話をさせてもらいました。お陰さまでそのぼた餅もご相伴にあずかりました。

 旅の目的は違うのですが、「旅を楽しむ」心を持てば目的以外のことが楽しめて、今回も楽しい旅となりました。

  「旅先で 食う寝る遊ぶ してるうち 異文化ギャップ 心洗われ」

  「ぼた餅を 作る民宿 ばあさんの 背中にダブる 今亡き母祖母」

  「昔言う 旅は道連れ 世は情け お一つどうぞ 隣席から」

  「のんびりと ゆっくり向かう 信州路 日本は広い 体感しつつ」

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○日本一の紅葉を今年も見てきました

 木曽川沿いを中央本線に沿って北上しました。恵那辺りから車窓に見える景色がだんだん変わり始め、やがて上松辺りを挟んだところまで来るともう眼に映る景色は紅葉一色でした。昨年の驚きに比べれば一応は予測をしていたものの、地元の人に言わせれば台風も上陸せず、機構や水分のも丁度良かったせいもあって、昨年よりもきれいだと自慢していました。でも私に言わせれば去年も今年もそんなに甲乙つけるほどの意味もなく、今年も「よっ、日本一」と言ってやりたいような気持で眠りもせず、目をたじろきもしないように車窓のもみじを追っていました。

 写真をパソコンに取り込んだらその言葉が本当と分かるでしょう。

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○再びの長野県木曽福島

 私の昨年の予定表によれば、長野県木曽福島へ行ったのは11月1日と2日の両日でした。昨年は相変わらず出かける時に深く考えもせず出かけたものですから、木曽福島が長野県なのか岐阜県なのかも分からず、直感的に東京羽田へ飛び新宿に出て、特急あずさに乗って塩尻経由で行ったところ、車内で見た地図だと名古屋がいことに気づき、帰りは名古屋経由で帰ったことを記憶しているのです。

 今回はその轍を踏まず名古屋経由で長野入りしました。ゆえに名古屋へは何度も出かけていながらソロを遠望したことはあっても中まではゆっくり権がっくしていなかったので、徳川御三家の一つである名古屋城もぜひ見ておきたいと少し早目の旅だととなりました。したがって今回の旅は名古屋一泊、長野一泊の長旅になってしまいました。今日帰ると妻が「お父さん久しぶりのような気がする」というほど私もどこか遠い所へ行ったような気分で今日帰ってきたのです。

 木曽の話はおいおいするとして、まず尾張名古屋界隈について少しだけ話しておきたいと思います。大阪もそうですが特に名古屋は私のような四国人には野球中日やきしめん、金の鯱鉾、味噌カツ蔵氏しか知識がないとてつもなく縁遠い街なのです。故に新鮮な街に見えるのかも知れませんが名古屋を中心とした中部地方は、このところの円高や株価などで色々いわれていても、やはり日本で一番活気のある地域であることは待合のない事実なです。

 写真を撮り込んだら見たまんまのその話をしましょう。

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○こうも社会が変わるとは

 私が町づくりに関わるようになって22年が過ぎました。その間の社会の流れは速く、また技術革新や情報化も進んで、あの頃流行ったものでもう殆ど用をなさなくなったものがいっぱいあるようです。そのひとつがポケベルとテレホンカードです。私はポケベル全盛時代、町の名前を変える町名変更を教育委員会社会教育課にいながら企画調整室係長、総務課係長という3つの職場兼務の辞令をいただき、それなりに忙しく働いていました。そんな私に町長は当時流行っていたポケベルを持つよう命じたのです。ポケベルはどちらかというと忙しい営業の人が呼び出されて電話をかけて連絡を取り合う道具でしたので、私のような行政マンが持つことは殆どなく、当時はポケベルを持つ男として注目されたりしましたが、そのポケベルももう知っている人が少ないような時代になりました。ポケベルと合わせて普及していたのがテレホンカードです。NTTはテレホンカード対応の電話ボックスも次々と設置して普及したのです。シーサイド公園を整備した折も公衆電話ボックスを駐車場の隅に設置しましたが、使用頻度激減でそのボックスもすでに取り壊されているのです。

 その当時はオリジナルなテレホンカード製作が隆盛を極め、私たちの町でもNTTと代理店契約をすれば安く作れるとあって、観光協会が主体となって夕日や夕焼けコンサートをあしらったテレホンカードを毎年作り、販売しそれなりの利益を得ていました。特にシーサイド公園のオープン時には6種類ものテレカをシリーズで製作販売し飛ぶように売れてかなりの収入を得ていたのです。

 ところが携帯電話が普及し始めるとテレホンカードの売れ行きは急激に下降線をたどり、7~8年後には在庫の処分を検討していました。私の手元にはその当時作って買ったテレホンカードが何枚か残っていて、名刺入れに入れて持ち歩いていますが、残念ながら今年はまだ一度もテレホンカードを使って通話していないのです。

 末っ子の息子も中学生のころテレカホルダーを買ってテレホンカードを集めていました。私が全国へ旅をすると必ず土産に各地の名所をあしらったテレホンカードをお土産に買い求めた関係で百枚を超えるくらい集めていたように思うのです。はてさて息子が収集したテレホンカードのホルダーは今どこに行ったのでしょう。妻にそのことを聞くと、大切に保管しているそうです。今にプレミアがついて高く売れるかも知れません。

 こうして社会は絶え間なく進歩し時代は流れて行くのです。む私などはひょっとしたら進歩より退化し、時代先取りより時代遅れな人間になっているのかと思うと、先の暗さを感じずにはいられないのです。だからといって自分を卑下して生きていくのは嫌だから、身の丈に合った生き方を、身の丈に合った仲間と生きて行こうと思ったりもするのです。

 いつの時代も不易な部分はあって、私たちはむしろその不易なものを追求しながら生きてゆくことに意味を見出せば案外これからも楽しい生き方ができるのかも知れません。よーし、頑張って生きてゆこう。

  「俺などは テレホンカードと 同じよう 時代遅れの 無用の長物」

  「ポケベルも テレホンカードも 思い出の 彼方に消えた 夢のまた夢」

  「遅れてる それでも俺は 生き方を 変える気もなし このまま生きる」

  「久し振り テレホンカード 使ったが 何処か懐かし 電話声まで」

 

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