shin-1さんの日記

○人が集まることの意味

 強風波浪注意報が出て、昨晩から吹き始めた北西の季節風が今日は一段と冷たく吹きつけ、海沿いに面したわが町もいよいよ冬の深い眠りにつくように、港には出漁できない漁船が固く舫い綱で繋がれているようです。こんな日は道行く人の姿もまばらで、たまに出会う人も首をすぼめて歩いていて、その姿を見るとどこか侘しい田舎の風情を感じるのです。

 こんな寒い日に集会をすると、主催者が口火を切る開会の挨拶は「今日は寒いので人の集まりが少ないようです」と、まず集まらない理由を天気のせいにしてしまうのはよくある話です。そんな所に限って晴れた穏やかな日に行って挨拶を聞いても多分「今日は天気が良過ぎて人が集まりません」と、これまた天気のせいにしてしまうのです。集まらない利用うを天気のせいにしている話を聞く度に「おいおい、じゃあいつ集まるのか」と言ってやりたい気持ちになるのです。

 今日は伊予市商店街にある「いっぷく亭」という空き店舗を利用した立ち寄り所に招かれて行きました。前回のお話し会が10月24日でしたから、27日ぶりの同じ顔ぶれに対するお話です。普通であれば前述のようにこんな寒い日は人が集まらないのが普通ですが、何と何と蓋を開けてみると前回の倍程度の人が集まって、外の寒さをよそに熱気が感じられました。それは多分前の私の話が良かったのか、それとも主催者が努力して動員をかけたのか、参加した人が約束通り一人が一人連れてきたのか、はたまた今日はたまたま暇だったのか分かりませんが、まあ全てが上手くいって人が集まったと理解しつつワクワクするような気持で四方山話をさせてもらいました。私の場合はインスピレーション、つまりその場で感じたことを話すので、前回とダブっていることを話したかも知れませんが、まあ人間は忘れることが上手いので、前回のことなど覚えている人も少ないので、一気に感じるまま話をさせてもらいました。

 人が集まるのには①楽しみづくり、②しくみづくり、③値打ちづくりが必要です。この日は寒いので「いっぷく亭」の名前にふさわしく、温かい抹茶がふるまわれました。私の話にうなずいたりメモをとったりしながら返ってくるみなさんの笑顔も素敵でした。



 さて3回目の次回は12月9日に集まることが決定しました。鬼の顔も二度三度といわれるように、私の話ももう秋ならぬ冬が来るかも知れませんが、それでも次回は最終回なのでひとつ心に残る面白い話をしたいものだと考えていますが、そんな話が果たしてできるでしょうか。帰り際、あなたのブログにリンクさせて欲しいという参加者もいて、嬉しい人間のネットワークができつつあるようです。

 先日第一回目の集会が終わって、私は参加者に名刺を配りました。すると3通もお便りが届いたのです。忙しくて少し返事が遅れましたが、それでも私はお礼のハガキを出しました。はてさて今回は来るか来ないか分かりませんが、同じ市民として同じ市内に住んでいる人たちとこうして交流できることは、合併の大きなメリットなのです。「合併はつまらなかった」という声をよく聞き、役所などを批判しますが、それは何もせず、してもらうことだけを待っている人の話かも知れないと思いました。

 市民どうしが交流してこの町をどうすればよくして行けるか、知恵を出し合ってこそこの町の未来はあるのです。これからもいい町を作って行きましょう。お寒い中今日集まった皆さんに感謝します。またお会いしましょう。


  「寒くても いっぷく亭に 集まれば 心ほのぼの 笑顔あふれる」

  「化粧品 つけても綺麗 なるものか 笑うとタダで お顔ピチピチ」

  「お菓子食べ 抹茶いただき 一服す 心落ち着き 幸せ感じ」

  「倍の人 集い嬉しや 俺のため 思えば馬力 以前に増して」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○リズムが合わない妻と私

 長年夫婦をやっていると、どちらかの色に染まるものだといわれていますが、どういう訳か私と妻の暮らしのリズムはまるで合わないようで、そのことに最近気がつきました。特に私は早起きタイプなのに妻はいつまででも布団を温めるタイプなのです。今朝も私はいつものように午前四時に起床して、妻と同じ布団に寝ている布団をそっと抜け出して起床しました。強風注意報が出て今年一番の冷え込みになったものの、着替えをして書斎に入りましたが、ストーブを付けるほどの寒さではないようでした。パソコンに向かってブログを書いていたら、早朝散歩から帰った親父が窓の外から、「今日は不燃物回収の日なので」と窓の外から伝えに来てくれました。急いで外に出て親父と一緒に不燃物の整理をしてトラックに積み込み、役場裏まで持って行きました。不燃物置き場には区長さんと副区長さん3人が寒そうにしながら、次々運び込まれる不燃物に監視の目を光らせていました。このところ不燃物の搬出マナーの悪い人がいて困っているとのことでした。私が区長をしていた頃もまったく同じで、町内有線放送で周知しても中々守れなかったし、月に一度の回収日には監視と搬出後の清掃をに汗を流したものでした。誰が区長や役員になってもゴミの問題は厄介なものだとしみじみ思いました。

 家に帰り手を洗っていると、6時半になるのに妻はまだ布団の中です。先ほど声がしていたのにまだ布団を温めているのです。私の呼びかけでやわら起き上がりましたが、妻も仕事や家事で疲れているのでしょうが、既に私とは朝だけで2時間半もの差ができている計算になるのです。つまり私が毎日書いている2本のブログのうち朝のうちに書く1本は全て妻の寝ている時間に書いた計算になるのです。私は朝のブログ1本に約1時間をかけますが年間早朝365時間もの時間的成果は妻の夢の中なのです。

 私は外出先から帰るが遅く、時には11時近くになります。基本的に外食が嫌いなタイプなので食事は家に帰ってするようにしていますが、今でこそ4人の子どもも家を出て独立しているため、妻の苦労はそれほどでもなくなりましたが、それでも親父の夕食を隠居へ午後6時までに運び、それから一人で食事をし、私が帰ると私の食事の準備や後片付けが待っているのです。

 私は食事が終われば書斎に入って仕事を片付け、一緒に風呂に入った後、11時ころから1本のブログを約1時間かけて書きあげます。その間妻はテレビを見て床に就くのですが、ここでも妻は心地よい布団の中なのです。

 妻の血液型はO型、私はB型、子供4人は全員B型です。OとBとでは性格も違うのでしょうが、それでも性格やリズムの違いを克服して40年近くも一緒に暮らしていると、違いを認め合って生きていることに気づくのです。多分後20数年間生きる予定の私たち夫婦は、こうしてお互いそれぞれの生き方で生きて行くのでしょうが、この年齢になるとむしろその方がいいと思うようになりました。

 夫婦はもともと他人です。しかし何かの縁でひとつ屋根の下で暮らすようになると、それぞれの違いに気づき、その違いを同化することが夫婦だと思うようになって色々努力してみましたが、結果的には上手くゆきませんでした。最近性格の不一致という理由で離婚する人たちが沢山いるようですが、もし性格の不一致を原因にするなら私たちはとっくに離婚しているはずなのです。でも賢明な私たち夫婦は性格の不一致をむしろ当たり前のことと気づいて認めいあいながら生きた結果、人もうらやむほどではないにしてもそれなりに幸せに生きているのです。私たちは見合い結婚で二人とも持ち点ゼロから出発し、持ち点100を目指して加点しながら生きています。恋愛だったら持ち点100から減点しながら生きていたかも知れないと思うと、見合い結婚もまんざらではないようです。残り少ない人生を未だにリズムの合わない妻と仲良く生きてゆきたいと思っています。

  

  「早起きる? 言う妻布団に まだ寝てる リズム違うが 別れもせずに」

  「夫婦とは 互いに加点 するものぞ 減点すれば 届捺印」

  「お父さん 足腰揉んで すり寄るが 興奮もせず やはり歳だな」

  「寒くなり 互い体温 湯たんぽに 安眠楽し 今宵幸せ」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○喪中のハガキが舞い込んで

 数日前からわが家へも「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という喪中のハガキが届きはじめました。そのハガキを手にする度に心が痛みます。多分そのハガキを書いた人はこの一年間、自分につながる人の仏事に心を痛めたことでしょう。

 わが家でも今年は叔父が急逝し悲しい出来事がありましたがこの叔父が存命中、「わしが死んでも喪中などといわず、祭りも年賀状もOKだ」と言っていたので、私もその遺志を継いで喪中のハガキなど出さないつもりで早々と年賀状を購入しているのです。

 このところの忙しさで郵便物の整理が全くできず、山のようにたまっていましたが、今日は久しぶりに机に座ってそこら辺の郵便物を片付けました。すると中から友人からの喪中のハガキを見つけました。「6月に長男が永眠いたしました」と書いているのです。私の場合友人や知人の訃報は人んどは知人が知らせてくれるのですが、今回は友人も知らなくて、半年も私の耳に入っていなかったのです。アメリカの大統領がオバマさんになったという海の向こうの話は逐一自分の耳に入るのに、僅か25キロ離れた松山に住んでいる友人の家族のことはまるで入らないのですから、情報化時代もいい加減なものだと思いました。

 早速友人たちにそのことを連絡しましたが、友人たちも一応に知らなかったようで驚いていました。友人たちと相談し半年遅れたとはいえ不義理を詫びねばと思い、喪中ハガキをくれた友人に電話をかけ、仏壇へ線香を上げさせて欲しいと頼みこみ、早速出かけて行きました。友人の家には一度きりしか行ったことがないので、カーナビに相手の電話番号で入力して出かけましたが、この電話番号が指し示す場所はとんでもない所が出て、結局は記憶を頼りに出かけて行きました。

 私の記憶も相当なもので一発で松山の住宅地で友人の家を探し当てました。家の中に入ると奥さんも居合わせていましたが、話す度に半年も経っているのに夫婦とも涙がこみ上げるようで、こちらも思わず貰い泣きをしてしまいました。聞けば息子さんは学校の先生をしていたようですが長の患いでもなく、気がついた時は既に遅しで、一日の患いくらいで急逝したそうです。悲しみの中なので詳しいことも聞けなかったのですが、自慢の子どもだったので余計悲しさが募るようでした。今は毎日奥さんが息子の嫁さんと孫2人のために夜は泊まりに行っているそうで、友人も家の中に閉じこもっているような状態でした。

 幸い友人宅にはまだ子どもが2人いて気はまぎらうようですが、親がしっかりしないといけないと精をつけ、お暇しました。


 友人は私の退職と相前後して務めていた電力会社を少し早く退職し、第二の人生を再就職して頑張っていましたが、その仕事も辞めて悠々自適の穏やかな暮らしを楽しんでいました。しかし降って湧いた今回の長男の急死という悲しみで友人の人生は狼狽し一変しているようでした。多分私でも同じ境遇に会うと同じような気持ちになるだろうと同情しながら、彼の元気回復に私も手助けできないものかと考えました。

 まだ60歳そこそこですから再就職をするよう勧めました。多分この年齢になるといい仕事は見つかりにくいかも知れませんが、働いているうちは気分もまぎらうかも知れないのです。また私のようにボランティア活動に参加することも一考です。とにかく家の中に閉じこもってあれやこれやと考えていると、うつ病になりそうだという友人の気持ちを考え、何とかしたいと思いました。

 人は一寸先のことは分かりません。今幸せでも先は全くよめないのです。はてさてわが身にもそんな悲しみが来ないことを願っています。


  「一枚の 喪中ハガキに 込められた 悲しき日々を 乗り越え歩む」

  「残された 幼子親の 死も知らず にこやか笑顔 余計不憫で」

  「アメリカの ニュースその日に 聞こえるが 近き訃報は 何故か届かず」

  「半年も 遅れて香典 持って行く 何ともバツの 悪い役柄」


  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○やっと肩の荷が降りました

 あれほどみんなが熱中して、あれほどみんなが心血を注いだ全国大会が全て終わり、どこか心にぽっかり穴がいたような一両日でした。私にとっては10月18日と19日、松山市で開いた青年の船の班長会も、11月13日と14日、15日、宇和島を主会場に開かれた地域づくり団体交流研修大会も、これまでにない全国の人を相手の大会で、しかも多くの人を全国から迎え入れたものですから想像以上心配して、想像以上に力を注ぎました。多分そのためでしょうが、想像以上に大きな感動を得たようです。

 私はこれまで役所に35年間勤めていたこともあって、全国大会と名のつく集会や会議には数えきれないほど参加してきました。しかしその殆どは司会や助言、基調講演、パネラーなどの出番はあっても、自らが主催するような大事業はありませんでした。勿論今回の青年の船班長会や地域づくり団体研修大会もそれなりの団体や事務局があってしっかりと下支えをしてくれたので、私は飾りのようなものでしたが、それでも責任の重さはあるのですから、周りはどう思っているか分かりませんが自分なりに一生懸命やったつもりでいるのです。多分自分の置かれている立場を考えるとこれから先に、このような責任ある仕事はもうないだろうと思うのです。

 昨日旧友から相次いでメールが入りました。青年の船の班長会で31年ぶりに再会した仲間と、地域づくり団体交流研修大会で25年ぶりに出会った仲間からです。31年ぶりに出会った仲間からは、人生の岐路とでも言うべき60歳の坂を越えた今、31年前に青年の船に乗って太平洋を渡りアメリカやメキシコを旅したことの意味が連綿と綴られていました。彼がそうであるように私にとっても青年の船で建国200年のアメリカへ行ったことは、自分のそれまでの価値観を根本から変えるような大きな旅でした。自分のこれまでの人生を振り返っても、もしあの経験がなかったらこうまでも楽しく生きれなかっただろうと思うのです。人間はそれぞれの人生に見合った大きさの世界に生きています。杯ほどの小さな世界もあれば丼鉢のような世界もあるでしょう。また風呂桶や琵琶湖のような大きな世界があるかも知れません。私の場合はそれほど大きくはないものの、それまで杯だった世界がいきなり風呂桶のような世界になったのですから大変な変わりようでした。お陰で自分の世界が今でも風呂桶のような大きさになっているのですから有難いことなのです。


 地域づくり団体交流研修で25年ぶりに出会った人は、まだ私がまちづくりという世界に入門した頃でした。その人はすでに私とそんなに年齢は違わないのに、まちづくりの世界では有名になっていて、何かと目をかけご指導をいただきました。まちづくりに対する彼の姿勢への憧れもあって、何度となく出会いましたが、その後音信も途切れがちとなり、お互いの記憶の中でのみの知り合いが長く続いていました。

 「全国大会にいくから」といきなり1ヶ月前にメールが入り私をあわてさせましたが、彼は元気な姿で愛媛入りし再会を喜びました。「上は来ず、中は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」といわれるとおり、再三の誘いにも応じず去って行きましたが、別れ際に引き時の話をしました。そろそろ引き時かなとも思いつつ、彼の顔を思い出しているところです。

 相次いで入ったメールに近況をしたため返信しました。この二人には遠方ゆえもう会えないかも知れません。でも今年一番のビッグな出会いが降って湧いたように31年目、25年目に実現したのですから、密かに再会を楽しみにして生きてゆきたいと思っています。


  「この二人 俺の人生 語る時 なくてはならぬ 思い出の人」

  「忘れてた 記憶の彼方 呼び戻す 二人相次ぎ 便り届きぬ」

  「忙しく 過ごしただけに どことなく ぽっかり穴が 空いたようです」

  「盃の ように小さな 俺だった 今は風呂桶 なったようだが」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○前夜祭と全体会を振り返る

 この4日ほど朝早くから夜遅くまで家を留守にしていたものですから、新聞を見る間もありませんでした。昨日行きずりのような形で従兄に会ったら、「全国大会で大変だったようだな。新聞に載っていた」というのです。私が家を留守にしている間妻は新聞をちゃんとまとめて取っておいてくれるのです。今朝土曜日の新聞を見たら、愛媛新聞の三面に「地域力向上へ議論」「全国自治体・団体関係者」「南予軸に13市町で研修会」という見出しの記事が載っていました。その中で-前略-「14日は宇和島市中央2丁目の南予文化会館で全体会が開かれ、青森から沖縄まで37都道府県の約190の自治体や団体関係者ら320人が参加、元双海町教育長の若松進一さん、今治市在住のフリーライター土井中照さんらがコメンターを務めるトークセッションがあり、会場とやり取りしながら課題や地域づくりの在り方を考えた。若松さんは「これからの地域づくりは人やモノなどを含めた『地域力』を高めることが必要と訴えた」-後略-と書いてありました。

 今回の全国大会は愛媛県の南予振興策の一つとして取り上げられたため、加戸愛媛県知事さんも出席していただくなど、物心両面のご支援をいただきました。知事さんはあいさつの中で私のことにも触れられ、「私は若松さんのお誘いでたった5分の挨拶のために2時間かけてやって来ました。若松さんは何もない双海町でどこにでもある夕日を地域資源にして地域づくりを行った」と持ち上げていただき、穴があった入りたいような心境でした。挨拶の中で自分の立っている場所の足元を掘れば泉は必ず出る」ともいわれ、地域づくりの必要性を話されました。第一線から退いた私のような一介の老兵を持ち上げていただく知事さんのセンスにただただ脱帽するばかりです。これらの話は行く先々の分科会や遠くからやって来た参加者の間でもかなり話題になったようです。


 開会式の後は、大洲市長浜町豊茂の郷土芸能である豊年踊りがユーモラスに披露され、会場の雰囲気がとても和みましたました。フリーアナウンサーの宇都宮民さんと土井中照さんを相手に私が進行役を務めてトークセッションを行いましたが、台本や筋書きのないアドリブな話で心配していましたが、心配をよそにいい雰囲気の、それでいて予想以上の盛り上がりが壇上まで伝わってきました。

 開会式に先立って前日の夜リジェール宇和島で前夜祭が行われました。

 開会式に先立ってリジェール宇和島で行われた前夜祭は200人ほどの参加で大いに盛り上がりました。最初にわつぃが実行委員長の私があいさつし、石橋宇和島市長さんが乾杯の音頭をとってスタート、郷土料理も、鬼城太鼓、愛治ちんどんなどの催しも、お酒の量も、そして交流会も満足のいく成果を収めました。

(豪快な舟盛り活け造り)
(ド迫力の太鼓集団鬼城太鼓の演奏9
(ユーモラスな愛治ちんどん)
(次回開催県佐賀のPR風景)

 一年かけて準備をしてきた全国大会も終わりました。いい研修会だったと自画自賛し、自己満足しながら写真やメールやブログで振り返っていますが、これから報告書の作成や実行委員会の解散まで残務処理をこなして行きたいものです。


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○メールやブログが続々

 全国大会が終わりホッと一息ついたところですが、昨日夜遅く外出先の島根県益田市道川から帰ってパソコンを開けると、凄い数のメールが届いていて、ブログを書くどころではなく返信するのに四苦八苦しました。一つ一つのメールに返信をするのですが、残念ながら全ての人の顔を思い出すことができず、この3日間で300枚近くの名刺を配った人から貰った名刺を繰りながら、思い出そうと努力しているところです。

 今回の大会事務局から「若松さんは全国行脚するのだから名刺の裏に全国大会のPRを刷り込むので使って欲しい」と依頼があり、作ってもらいましたが、私の行動範囲は全国に及び作ってもらった1000枚の名刺はあっという間になくなりそうになりました。これはやばいと思って最後の300枚を大会当日用に残して置いたのですが、おかげ様で1000枚全て完売となりました。

 私の名刺がいかほどの効果を上げたかは定かではありませんが、「若松さんに会いたいのでやって来ました」と、涙の出るような言葉を言ってくれた人も沢山いて、それなりの効果があったものと自画自賛しているのですが、その方々からのメールを見るたびに人のつながりのありがたさを思うのです。

 そんな中に宮崎県南郷町の野川喜美子さんがいました。野川さんは福祉作業所ひなたぼっこの代表を務めていますが、もう昔のことなのではっきりと記憶していないものの南郷町に講演で招かれた折に出会い、南郷町の人たちが双海町へ視察に来た折出会ったような気がするのです。ですから彼女の顔は今回で都合3回目ということなのですが、私が不特定多数の人と会うために深く話し込んだことなど一度もないのです。でも今回の大勢の参加者の中で顔だけはお互いしっかりと覚えていたのですからまちづくりは大したものです。

 野川さんは自分の持つ「ひなたぼっこのブログ」(http://ameblo.jp/15yaotuki3/)に、今回の様子を写真を交えてかなり詳細に報告してくれています。私は今回の大会の実行委員長をしていて県内各地を飛び回り残念ながら自分の町の分科会は恋人岬での落伍ライブと研修会、それに夜なべ談義の途中までしかいませんでしたが、彼女が参加してくれたわが町の分科会の様子も手に取るようにまとめてくれているのです。

 彼女の顔を思い出しながら、人間は100回会っても覚えていないような人もいますが、たった3回の出会いながら覚えている人もいるのですから不思議な話です。

 野川さん以外にも講演先で出会った私との細い糸を頼りに愛媛までやって来てくれた人は沢山いました。全ての人を紹介することはできませんが、私にとってはこれまでの20年間の地域づくり活動で培った人脈とでも言うべき人たちこそ大切な財産だと思うのです。

 これから自分の行動の範囲も加齢とともに狭くなり、出会う人も少なくなって行くものと思われますが、人を大切にする地域づくりの理念だけは忘れないようにしたいものだと思いました。大会が終わったのが週末だったため、また大会後の週末を移動日にしていたため、行政がらみの人とは週の明けた今日頃からメールのやり取りが動くものと思われますが、それぞれの地域に帰られた皆さんのご活躍を祈りながら、ブログ画面をお借りしてお礼のご挨拶にさせていただきます。お世話になりました。また会いましょう。シーユーアゲイン。


  「世の中は 便利になった ものですね 居ながら見える 自分の写真」

  「汗だくの ようですメール 返信も 反響大きく 嬉し恥ずかし」

  「忘れ得ぬ 思い出持って 全国へ 散らばり帰る どうかご無事で」

  「もう二度と 逢えない人も いるのだと 思えば出会い どこかしんみり」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○島根県益田を訪ねる

 地域づくり全国大会の快い余韻と少しの疲れが残っているものの、そんな余韻にひたり疲れを癒す暇もなく、今朝は早起きし島根県益田市を目指して旅に出ました。早朝5時に起き、身支度を整えて小雨そぼ降る暗い道を松山観光港目指して走りましたが、今朝は日曜日とあって交通量も少なく1時間ほどで港に到着しました。

 始発の高速船は7時発とパソコンで調べていたので、少し余裕をもった到着に安堵しながら大画面のニュースをテレビで見ながらひと時を過ごしました。このところのテレビの話題は、何といっても2兆円の景気対策と称するお金の分配方法です。子どもと65歳以上の人には一律2万円、それ以外は1万2千円が支給されるそうですが、早くもそれが多いとか少ないとか、お金を個人に払うことがおかしいとか、外野では面白おかしく話されているようで、早くも選挙の道具に使われそうな雲行きです。


 観光港で面白い展示物を発見しました。まるでキノコのような貝殻でできたスタンドがイルミネーションの代役を務めているのです。この貝殻は緋扇貝という貝殻を○でステンドグラスのように何枚も組み合わせて作った新しいタイプのオブジェなのです。このような作品を旧内海村で作っていることは知っていましたが、これほど綺麗な作品だとは知らなかったものですから驚きました。近くで見ていた子どもに「綺麗でしょう」と話しかけると、「綺麗」という返事が返ってきました。緋扇貝の貝柱を食べるのはもちろん美味しいのですが、その貝殻を生かすとは面白い発想で、この技法で教会やホテルのガラスを飾ればオンリーワンだとしみじみ思いました。

 高速船もこのところの原油高で船賃が高く、広島~松山を往復すると1万5千円弱となり、まるで飛行機代並みの高さに驚いてしまいます。

 

 船は1時間8分で宇品の港に到着しました。港には益田市道川公民館の三好館長さんから前もって連絡があったとおり、高田さんご夫妻が優しく迎えてくれました。高田さん夫婦は脱サラして道川に移り住み花づくりを中心とした農業をやっているそうですが、道川までの道中は眠る暇もないほどお互い心打ち解けて話し合いました。

 峠を越え匹見峡谷の見事な紅葉を眺めながら少し早く着いたので、旧割元庄屋美濃地屋敷を見学させてもらいました。国道191号線は益田へ行く時何度も通っているのですが、その都度この大きなお屋敷を横目で見ながらのバスの旅が多いため、これまで見る機会に恵まれていませんでした。「いやあ立派」の一言に尽きるほど凄い庄屋屋敷が綺麗に保存され、そして活用されている姿に、他事ながら嬉しくなりました。

(庄屋屋敷)
(庄屋屋敷の門)
(庭の見事な紅葉)
(庭に散り初めし紅葉の落ち葉)

 道川公民館で開かれた住民交流大会の講演会には人口18人というのに120人もの参加があり、会場は沢山の人の熱気に包まれ、改めて道川の凄さを思い知らされました。豚汁や弁当など手作りの昼食をいただき、大満足の1日でした。地元での夜の集会への出席が予定されているため、先を急いで再び高田さんご夫妻に宇品の港まで送ってもらいました。間一髪出港し始めていた高速船に取るものもとりあえず乗り込み、予定どおり夕方わが家についてホットしています。今日もいいご縁をいただきました。真砂地区の一郎君も来てくれ、月末には人間牧場へ40人もの人が来る打ち合わせをさせてもらいました。

(私の講演会)
(昼食交流会)


  「色々な 余韻に浸る 暇もなく 次の旅立ち 朝も早くに」

  「中国の 山地分け入り 集会に 足腰立つ人 全て集まる」

  「わが話 耳を傾け 寝もせずに メモを取りつつ 相槌打ちて」

  「凄いなあ 昔庄屋の 夢の跡 煙でいぶし 次の世代へ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○玉ねぎの植え付け

昨日の夕方、地域づくり団体交流全国大会に参加して外出先から帰ってみると、菜園畑で親父が何やら作業をしていました。みるともうかなり陽も暮れかけた5時前でしたが、耕運機をかけて綺麗に整地した畑に畝を作って玉ねぎを植えていました。親父の弱音は腰なので、腰を伸ばし伸ばしやっている姿を見て直ぐに手伝うことにしました。早速長靴に履き変えて親父の切った畝に玉ねぎの苗を一本一本等間隔で置いて行くのです。私も腰が丈夫ではないので、この作業は相当腰に来るようでした。途中近所のおばあさんも手伝いに加わって秋の釣瓶落としといわれる暮れなずむ作業を終えました。鍬を片づけそこら辺に置いた道具をしまったころに雨がぽつぽつと降りだし間一髪で雨に当たることもなく、加えて植え付けた玉ねぎに水をやることもないラッキーさでした。今年は一畝を3列から4列に変えたため、植える畑に余分が出たようなので、近所の苗屋を覗いてもう一束増やそうと思っています。

 わが家では毎年100で一束となっている玉ねぎ苗を5束買い求めます。友人に言わせれば玉ねぎは自分で種をまいて育てれば安くて済むそうですが、私にはそんな時間的余裕もないので、毎年自動車で売りに来る苗屋さんのしっかりと育った苗を買うのです。苗屋さんも自家用で5束も買ってくれるお客さんはそんなに多くないため、上客と思うのか玄関先まで売りに来るのです。

 玉ねぎには早生系と晩生系、普通の品種と紫系があり、これまでにも試しに植えてみましたが、早生系は確かに早く収穫できるのですが、その時期は購入して食べてもそんなにお金もかからないので晩生だけにしました。また紫系はサラダ等に使えば彩りもいいのですが、そんなに日常食べないためこれも止めてしまい、今は晩成一種にこだわって作っているのです。昨日植えた玉ねぎはこれから来年の5月まで、何と半年間も寒い畑の中で長い間、じっと耐え忍んで大きくなるのですからこれほど世話のやける作物は他にないのです。


 今年の春収穫した玉ねぎは親類や子どもたちが来るたびに取って帰るので、もう随分すくなくなっているようです。昨年から網の袋に入れて軒先に吊り下げる方法を止めたお陰でこれまで一個も腐ることもなく冬を迎えそうです。察するに網袋に入れる従来の方法は、網袋に付着した腐敗する雑菌が付着するから腐るのではないかと思うのです。今年のように5から8個ぐらいを縛って吊り下げる方法だとその心配もないようです。親父の縛り方が上手なため茎が痩せて落下する心配も殆どクリアーすることができました。

 わが家では家庭料理に年間相当の玉ねぎを消化します。特にオニオンというスライスした玉ねぎは青魚の刺身のつまに最適で、臭みがあって相手に不快感を与えない外出しない日は思いきり食べるのです。今年も玉ねぎを植える季節がやって来たと感じながら植えました。多分毎年玉ねぎを植える時期は大相撲九州場所がある頃です。今年は暖かくてカメムシも死なないと農家の人は嘆いているようでした。


  「冬立ちぬ 玉ねぎの苗 菜園に 親父腰曲げ 私腰曲げ」

  「この冬の 眠りにつくか 玉ねぎの 苗に被せる 土の布団を」

  「今宵雨 降るかも知れぬ 思いつつ 暮れ行く畑 せわしく動く」

  「あれ穂に あった玉ねぎ いつの間に 残り少なく 寂しく軒に」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○留守の人間牧場

 「若松さん、今回の全国大会のついでに人間牧場へ行きたいのですが」という電話やメール連絡をいくつもいただきました。その都度「研修会が終わる3日目は残念ながら塩崎さんの招きで第6分科会のある伊方町へ行っていますので」と断り続けていました。しかし双海町を文化会場に選んだ方々にそんな理由で不義理をすることもできず悩みましたが、妙案としてえひめ地域政策研究センターの松本さんに鍵を渡して私の代役を務めてもらうよう頼んだところ潔く引き受けてくれたためホッとしました。

 昨晩分科会夜なべ談義の最中に家へ鍵を取りに帰ろうとしました。ところがこの一週間車で遠出をしたものですから、明くる日の朝伊方町へ行くガソリンが心配になって、伊予市まで走り夜遅い時間ながら給油を終えホッとしました。家に帰って人間牧場の鍵を持ち出し、松本さんの宿泊しているふれあいの館まで持参し手渡しました。

 

 松本さんは年輪塾の塾生であり、落伍の小番頭でもあるので安心して任せました。私が第6分科会の仕事を終えて帰ろうとする頃松本さんから携帯電話が入りました。マナーモードにしていたため何度も呼び出したようでしたが、財団法人地域活性化センターの石田理事長さんや山梨県立大学の市原先生、三重の杉谷さんや杉本さん、それに西条の井上さんが初めてというので、案内したようです。携帯電話の電波の状態が悪く聞き取れなかったのですが、皆さん感激されて帰ったようで嬉しい限りです。

 松本さんには石田理事長さんを飛行場まで、また市原先生を上島町の兼頭さん宅まで送り届けて交流する任務までしてもらったようで、彼はもう4日間も家に帰っていないようなので疲れがピークかも知れないと電話をかけましたが、以外と元気で交流しているようで安心しました。


 このところの忙しさは尋常ではなく、人間牧場へは今回恋人岬で夕日落伍寄席をやるために、人型パネルやめくり、拍子木、裂き織ちゃんちゃんこなどの7つ道具を取りに出かけて以来一度も覗いていないのです。掃除も行き届いていないので、多分皆さんは不快に思ったのではないかと心配しているのです。

 幸い皆さんが人間牧場を見学している頃はまだ雨も降っていなかったし温かかったようでしたが、松本さんと連絡がついた頃にポツポツ雨が落ちてきて間一髪でした。全国大会のため先送りしていた仕事が随分溜まり、この忙しさはまだ当分続くようで、人間牧場へはまだ当分先のようですが、少しのんびりと本でも読みながら昼寝を楽しみに行きたいと思っています。


   「主人留守 小番頭なる 友人に 鍵を預けて 案内頼む」

   「小雨ポロ 間一髪の すれ違い さすが人間 牧場嬉し」

   「喜んで 帰ったですと 電話入る 主人いなくも ちゃんと感じて」

   「そのうちに 牧場昼寝 楽しみに いつのことやら 当分忙し」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○佐田岬半島での第6分科会に参加して

 今日は朝早く午前6時に双海町を出発し、第6分科会が行われる伊方町を目指しました。このところの穏やかな天気を象徴するように空はどこまでも晴れ渡り、宇和海側の伊方町を走るころ綺麗な朝日が、日本一細長い佐多岬全体を優しく包み込むように昇ってきました。昨日見た双海町の夕日といい、今朝の朝日といい、今回の全国大会は天気に恵まれたことが何よりも嬉しいことなのです。多分今日は全県下15会場で開かれている分科会は、二日目の今日はミカン狩りや街歩きなど野外活動が多く組まれているので主催する方々はホッとしたことでしょう。

 会場となる瀬戸アグリトピアに着くと責任者の塩崎さんがおばちゃんたちと朝食の準備をしていました。私はしばらくの間早起きしてきた人たちと談笑しながら過ごしましたが、そのうち全員が揃っての朝食に参加しました。イセエビの味噌汁とは何とも贅沢な一品でした。お陰で朝から食が進み満腹でした。

 

 私の出番は午前9時からでした。この日のために大分県豊後・大山ひびきの郷総支配人の緒方さんが招かれ,

最初は私と二人で対談の予定でしたが、その後高知県馬路村の産業建設課長木下さんも加わり鼎談の形をとりました。緒方さんとはもう30年来の付き合いですが、最近体調が思わしくないようで、この日も松葉づえで会場入りしていました。今日のトークバトルは塩崎さんから私の方で進めてほしいと頼まれていたので、2時間をかけて地域資源を生かしたまちづくりや合六(こうろく)のまちづくりについて話し合いました。全国から集まった参加者は必ずしも地域の特産品開発などに関わっている人ばかりではありませんでしたが、フロアーからは仲間を増やしたりやろうとすることを理解させるにはどうすればよいかアドバイスを求めたりされましたが、コーディネーターの役割も一緒に務めた私のインタービューには嬉しい反応が沢山ありました。



 昼食は地元の海鮮鍋でしたがこれも手づくりの味が最高でした。正午には荷物をまとめ風車が背景に写る屋外に出て集合写真を撮り別れを惜しみつつ送迎バスを見送りました。緒方さんたちは一便早く船着場へ送られ、つい3日前に出会った佐賀関の渡辺さん、旧明浜町の原田さん、旧西土佐村の和田さんや中平さんなど、塩崎軍団の旗の下に集まった面々に別れを告げ、会場を後にしました。こくどう197号線沿いにはのじ菊が今を盛りとほのかな香りを漂わせて咲いていました。

 かくして一年かけて準備をしてきた短くも長い3日間の全国大会は終わりました。この一年様々な出来事がありましたが、有能な事務局に助けられてそれなりの成果を収めることができました。私も飾りのような実行委員長でしたが、この3日間に関してはそれなりによく働いたと自分でも納得しています。どんな成果があったのかは分科会の報告を聞かないとまだ判断はできませんが、肩の荷が下りたようなさわやかさであることは事実です。

 今後報告書作成、1月の総会フォーラムでの発表会と、3月の実行委員会解散までは残務整理が残っているので、気を引き締めて最後の始末をしたいと思っています。関係者の努力と全国から集まった皆さんに感謝いたします。

  「三日間 西や東や 南北 車乗り継ぎ 役目を終える」

  「今回も いい人たちに 囲まれて 楽し思い出 幾つもできて」

  「はるばると あなたに会いたい 一心で 嬉しい言葉 くれるじゃないか」

  「終わったな 何はともあれ 終わったな 終わった終わり 肩のに降りて」 

 

[ この記事をシェアする ]