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○松野町を訪ねる

 松野町の中心施設はおさかな館のある道の駅です。道の駅では様々な特産品が販売されていますが、青空市に出品している人たちの総会の記念講演に招かれ出かけました。松野町は愛媛県内で松前町とともに合併しなかった町です。人口は5千人弱ながら町を二分する合併議論に翻弄され、紆余曲折を経て今日に至っています。鬼北からと宇和島から行くことができますが、四万十市西土佐に通じる国道はどちらかというと交通量はそんなに多くありません。それでも土佐街道や滑床渓谷などの観光地もあるためそれなりの交流人口はあり、特産の桃も季節になると沢山出回っているようです。


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 元教育長をしていた旧友芝さんの口利きでこの日の講演をお引き受けしましたが、総会は2時30分に終わる予定が議論百出したようで、私の話は少し遅れて3時過ぎから始まりました。町長さんも参加者に混じって席に着き、また顔馴染みの八十島さんや普及センターの片岡さんの顔々など少々やりにくいめんもありましたが、まあ何とか1時間お茶を濁しました。

 ご多聞に漏れず少子高齢化、過疎化の進む山村なので、これといった手立てはありませんが、昨日は少し地域づくり失敗の10ヶ条を話させてもらいました。

   地域づくり失敗の10ヶ条

 第一条  どんな地域にしたいか夢がない

 第二条  はずみ車でなく振り子時計の議論に終始している

 第三条  やらにことをやれないと言い訳ばかりしている

 第四条  補助金や人の懐を当てにして身銭を切らない

 第五条  失敗や反対にあったら直ぐに止めてしまう

 第六条  成功した事例を物真似したがる

 第七条  社会の流れや時代の流れを読めない

 第八条  経済を無視いている(入力と出力のバランス)

 第九条  地域と人を巻き込んでいない

 第十条  人も地域も自立できていない

 少々きつい勘に障るような言い方をしましたが、失敗の10ヶ条は裏を返せば成功の10ヶ条になるのですから、頑張って欲しいものです。昨日は嬉しいことに行政職員も何人か参加者に混じって私の話を聞いていただきました。合併をせずに生き残りかけた町のやるべきことは無駄を省くこと、あるものを生かすこと、死に物狂いでやること以外ありません。何よりも嬉しかったのは町長さんが最後までお話を聞いていただいたこと、そして私のアポを取ってくれた担当者の毛利さんが自分の生き方と私の考えをダブらせて聞いてくれたことでした。

 たかが職員されど職員です。人口5千人程度の町ならやる気の職員の3人もいれば町は生まれ変われるのです。①町を愛する、②町のためにやる、③町を正しい方向に導くことを基本理念に頑張って欲しいと祈っています。

 追伸 友人鎌田秋吉さんが苦心して指導した南高梅の9パーセント梅干は久々の健康食品ヒット商品です。土産にいただき早速昨晩食べましたがこれは逸品です。是非お買い求めの上ご支援下さい。


  「久方に 訪ねし町で 熱弁を 一人の男 やる気起こさす」

  「梅干も 人の腕技 知恵により 健康食品 生まれ変わりて」

  「どうすれば 成功するか 考えた 逆も真なり 失敗学ぶ」

  「何処となく 昔のわが町 見てるよう 嵐の後の 静か気になる」

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○元気そうでホッとしました

 昨日は講演を頼まれて北宇和郡松野町まで出かけました。約2時間かかる高知県境と接する松野町へ行くには宇和島ルート、西予市ルート、肱川ルートがありますが、昨日は肱川ルートを走りました。大洲で所用があったため肱川左岸でなく右岸沿いの菅田道を初めて走りましたが、そこここに藤やつつじの花が咲き、周囲の山々の芽吹きとともに、目を奪われそうな雰囲気の中をのんびり走りました。

 肱川ルートを走る時の中継休憩所はやはり道の駅夢産地です。道の駅ふたみの駅長をしていた頃道の駅連絡会の役員をしていたこともあって、恩地さんなどの顔が懐かしく思い出されましたが、その後彼らは果たして何処でどのような仕事をしているのだろうと思いつつ、トイレ休憩をしました。


 カーナビで残りの距離数を調べるためいじっていると、カーナビの画面に「泉小学校」という文字が出てきました。とっさに今年の異動で上灘中学校から泉小学校の校長先生として異動された浅野祥代先生のことを思い出しました。道の駅も随分様変わりして、地元に詳しい人が殆どいないのか、「泉小学校の場所を教えて下さい」と店員に聞いても知らない様子で、結局奥にいる人に聞いてもらい「トンネルの近く」という話を聞き出しました。

 「同じ鬼北町内なのに店員が知らないとは」と思いました。道の駅の使命は物を売ることも食べさせることも、トイレを提供させることもさることながら、道行く人や尋ね人に「情報提供することも大切な仕事だぞ」と、心の中でつぶやきながら店を出ました。カーナビの画面を注意深く横目で見ながら、トンネル付近に近づくと「泉小学校」の文字が出てきました。言われたとおり進むと広見川に架かる細い橋があり、橋の向うに学校の体育館の屋根が見えてきました。

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(泉小学校の校門)

 玄関先に車を止めて校庭に入りました。校庭では子どもたちや先生が中腰で運動場の草引きの真っ最中でした。不審者と見間違われないように、大きな声で自分の名前を継げ校長先生に会いたいと告げました。「どうぞどうぞ」と作業の手を休めて案内してもらいました。

 聞けば校長先生は室内にいたようなので、玄関先で大きな声で「浅野校長先生、双海町の若松です。お顔を見に立ち寄りました」と叫ぶと、浅野校長先生は驚いた様子で玄関先まで出て来られ、満面の笑みで迎えていただきました。

 異動してから僅か20日ほどしか経っていないのに、長い間あっていないような懐かしさに思わずウルウルしました。菅外異動で上灘中学校へ昇任校長として来られ、統合中学校となりため上灘中学校最後の校長を勤めた浅野校長先生とは、学校評議員をしていたこともあって、様々な場面で様々なお話をし、時には腹を割った教育論を語り、色々と教わることが多かったのです。

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(泉小学校の全景)
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(懐かしい浅野祥代校長先生)

 お願いして記念に写真を一枚撮らせていただきました。校長室の窓を開けて周囲の山々の景色や川の瀬音を自慢げに見せてもらいました。小学校勤務は初めてだそうですが、穏やかな顔をしていて安心をしました。

 先を急いでいたので玄関先の鬼北文楽のでこ人形や、教頭先生と立ち話をして学校を後にしました。上灘中学校時代から変わらぬ丁寧な玄関先見送りの姿勢は今も変わることなく、車のバックミラーに手を振って送ってくれた先生の姿を残像として残しながら後ろ髪引かれる思いで泉小学校を後にしました。

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(玄関先に飾られていた鬼北文楽のでこ人形)

  「カーナビで 泉の文字を 見つけたり 少し道草 懐かし人に」

  「二十日前 異動で去りし 人訪ね 再開嬉し 元気な姿」

  「いつかまた 鬼北文楽 見たいもの 玄関先の でこに会いたい」

  「迎えより 送りが大事 教わった 今も変わらず 実践姿」 

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○お地蔵さんの縁日

 わが家の入り口付近の坂の上にお地蔵さんが祀っています。昔は入り口付近にあったものを、農道がつくというので和尚さんを向かえ念ごろに拝んでもらって現在のところに移しました。地元の古老の話では首から上の病気に霊験があると言われていて、時々地元の古老がお参りにやって来るのです。そんなこともあって粗末にはできないと、さも自分の家の持ち物のようにこれまで掃除をしたりシキビの花を手向けたりして崇拝しているのですが、親父が漁師を辞めて陸へ上がってからは毎月21日を縁日と定めて幟を立て、嫁である妻はこの日に朝早くから起きて赤飯を炊いて接待を続けているのです。月に一回といいながら毎月のことゆえ勤めている妻にとって赤飯を炊くことは容易なことではないはずですが、愚痴もこぼさず毎月忘れることなく接待行事を繰り返しているのです。

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(家の入り口の上にあるのがお地蔵さんです)

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(坂の上には大きな枝垂れもみじが新芽を広げています)

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(上から見ると枝垂れもみじは畳四重半くらいある立派なものです)

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(親父は縁日になると手作りの幟を立ててくれます)

 妻は15年間地元の民生委員をやりました。妻の担当していた地域には7~8人の独居老人がいましたが、15年間毎月欠かさず21日には赤飯弁当を独居老人に配り続けたのです。何年か前民生委員を辞めたのを機に、後任の人に迷惑が掛ってはいけないと赤飯弁当配りを辞めました。

 赤飯ができるとそれを配るのは私の役目で、独居老人に配った15年間は赤飯弁当を配りながら独居老人に一声二声かけて安否確認をしていましたが、時の流れでしょうか赤飯弁当を配った殆どの人があの世へ旅立っているのです。今はその分を近所や親類に回して配り続けています。

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(妻が手作りのお赤飯)

 今日はその縁日です。妻は昨日仕事から帰ると直ぐに小豆を炊き、米をといで準備をしていました。今朝は6時に起きるなり赤飯を炊いていました。炊き上がった赤飯を手際よく20パック作り、冷めるとゴムバンドで止めて出来上がり、それを私が歩いたりトラックに乗ったりして配りました。今朝は月に一度の不燃物の回収日だったためそれもしなければならず、朝からバタバタしましたが、何とか近くは配り終え、後は松野町へ出張するついでに下灘の人たちへ配る予定です。

 不信心を自認する私ですが、このお地蔵さんのことは別格で、毎日手を合わせてお参りをしたり、毎月一回の縁日お接待手助けしているのです。お陰さまですこぶる元気で、これもご利益とばかりに今日もお世話させていただきました。


  「いつの間に 芽吹いた枝垂れ もみじ映え 縁日幟 春風揺れる」

  「赤飯を 近所に配り ありがとう 背中に聞こえし 御礼の言葉」

  「妻・親父 毎縁日に 気を配り 心をこめて 接待続け」

  「信心は 不信心なる 私ゆえ こんなことしか できぬ諦め」 

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○送られてきた「地方に生きる心意気」という一冊の本

 私が青年団活動をしたのは18歳から26歳までの8年間でした。果敢な青春時代にやった活動で得た①仲間、②主張、③ふるさと、④感動は私の心の基底に残り、その後の私の人生を今も大きく支え続けてくれているのです。その頃の仲間は沢山いますが、中でも40年を越えて今も深い深い親交をし続けている人は三崎の塩崎満雄さんと長浜の菊地邦求さんがいます。三崎の塩崎さんは西宇和郡連合青年団長、菊地さんは喜多郡連合青年団長、私は伊予郡連合青年団長を経験していますが、それぞれが奇遇にも田舎の役場に勤め、社会教育や企画、広報などなど同じような職歴を辿ったため、ある時期最接近し、ある時期離れ、付かず離れずの射程距離内にいて、お互いがいい意味での刺激を受けながらこれまでの半生を過ごしてきたのです。

 その一人菊地さんから昨日、一冊の本が届きました。「愛媛新聞門欄に投稿した記事が溜まったので本にしたいのだが相談に乗ってください」と電話で相談があったのは今年に入ってからでした。交友のある創風社の大早さんを紹介し、これまで何冊か自著本を出版した経験をお話しました。その折「発刊に寄せて」という寄稿を頼まれたので、善は急げとばかりにその日のうちに半頁ほどの文章を送りました。私の経験ですが、本を出す時は出費を伴うため妻の理解や自分の能力・体力・気力などで随分悩むものなのです。私も「昇る夕日でまちづくり」を出版した折などは、子どもの教育真っ盛りだったこともあって250万円の資金繰りなど、悩みに悩みました。幸い妻の後押しもあって、「金がない」「暇がない」「知恵がない」と断り続けていたものの、先輩玉井恭介さんから直前送られてきた一片の言葉が、後に引けぬ決意を生み出してくれたのです。

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 ご存知司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節、「・・・・のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすればそれのみを身つめて坂を上っていくであろう。」を墨字で書いた色紙を手渡された時、不思議なパワーを感じ、僅か半月で一冊の本を書き上げ出版に漕ぎ着けたのですから驚きです。

 私の一片の文章と手紙が彼を後押しするなどとは努々思いませんが、それでも早書きを自認する私の文章が彼の元へ届いたことは事実なのです。美しい長浜の赤橋と肱川嵐をあしらったその本を手にとって捲ると、新しいインクの匂いがプーンと匂い、菊地さんのことを思い出しました。目次の前に本人のはじめにと公友会の会長である佐伯真登さんの寄稿、そして私の寄稿が恥ずかしくも載っていました。彼を表現するにはこの文章が一番と思い、紹介しておきます。


発刊に寄せて

 「お父さん、長浜の菊地さんがまた新聞に投稿しているよ」と、朝刊投稿欄の記事の中から、いつもあなたの記事を目敏く見つけてくれるのは、もう40年も連れ添った妻でした。その記事の夜会をえぐる鋭いタッチや批評・論評・論壇などの博学にいつも感心させられながら、私と妻はもう何回あなたのことを話したことでしょう。

 私とあなたとの出会いは青年団に遡ります。そんなに差はないものの年齢が一歩前を行くこともあって、あなたはこれまでずっと私の後追いのような似通った人生を歩んできました。団長になった青年団も、役場に入って社会教育に手を染めたのも、また最近になって定年退職したのも全て私が一歩先でしたが、まるで瓜二つのような人生です。

 特に印象に残っているのは私が第14回、あなたが第15回青年の主張の県代表になったこと、私が県公連の主事部会長、あなたが副部会長としてお互い公民館に命を燃やしたことなどが挙げられますが、青年時代から情熱あるあなたの生き様は終始一貫、今も変わっていないことに敬意を表します。

 お互い大いに酒を飲み大いに夢を語りましたが、残念ながらその付けが回り、二人とも酒が呑めなくなったことは悔やまれます。生まれ育った自分の足場となるふるさとへの恩返しは、今もこれからもひょっとしたらあの世までも一緒にやり続けることでしょう。積年の集大成を一冊にまとめると聞き、節分ながら一筆したためました。祝発刊。


  「地方から 東京見える この本は 田舎に生きる 心意気かも」

  「つぶやきも ぶつぶつだけで 終わらない 活字にすると ほらこの通り」

  「発刊に 寄せて寄稿の 文を書く はなむけなれど 拙文そしり」

  「本を出す 力試しと いうけれど 力量なくば やれぬものなり」


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○雨の中コンニャクイモを植え付けました

 オープン以来5年目を迎えた人間牧場には様々な植物が今年も元気に育っています。オープンより前に植わっていた梅の木は毎年沢山の梅の実を収穫し、梅干や梅ジュースにして来訪者に振る舞い喜んでもらっていますし、自生のツワブキやフキも季節の香りとしてわが家の食卓をにぎわせてくれているのです。また子どもたちと一緒になって育てているサツマイモも、ブルーベリーも、蜂蜜も今年はもっともっと収穫できるように心を新たにしているところです。人間牧場では子の外牧場内に自生している野草を天ぷらにして食べる試みも昨年やりましたが、好評のようなので今年も是非やりたいと思っています。

 さて人間牧場でまだ日の目を見ていないものにコンニャクがあります。3年前に2年物の種芋をサツマイモ苗床の脇に植えました。一個はいのししの被害に遭ったのか掘り出されて枯れましたが、10個植えた残りの9個は今年も元気で大きな芽を出していて、足し算すると今年が5年目なのでそろそろ掘り出してコンニャク作りに挑戦しようと思っています。昨年の芽吹きを見るとコンニャクイモの直ぐ横から小さな茎が出ていたので、小芋も期待できるかも知れません。

 今年親芋を収穫してコンニャクを作ると、次の親芋が必要となるため、今年はサツマイモ畑の下の小さな畑を冬の間に開墾して準備をしていたので、種物屋で先日30個も小さな2年物の種芋を買いました。一つ100円程度だったので3000円の投資ですが、3年後には大きな芋に成長するだろうと期待をしているのです。

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(小さなコンニャクの種芋)

 昨日は午後から雨が降り出しましたが、たいした雨でもないので、人間牧場へ行き、開墾した畑にコンニャクイモを植え付けました。小ぶりといっても雨は雨、多少濡れましたが春雨ゆえに何とか植え付けを終えました。持って行った竹の支柱を30本打ち込み、種芋の在り処の目印にしたのです。雑草の生長が旺盛なためコンニャクイモが何処にあるのか分からないと除草ができないからです。

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(植え付けを終え種芋の場所が分かるように嶽の支柱を立てました)

 植えつけ終えたものの畑にはまだ余裕があるので、後20個くらい種芋を追加したいと思っています。はてさて、種芋は元気に育ってくれるでしょうか。獲らぬ狸ならぬ食べぬこんにゃくの味算用を今からしていますが、実は私コンニャクは子どもの頃から余り好きな食べ物ではないのです。でも人間牧場のメニューとしては今後欠かせない存在なので、人間牧場へ来る人のためにせっせとコンニャクイモを育ててゆきたいと思っている今日この頃なのです。

  「親芋を 作る手立ての 子芋植え コンニャク畑 雨に打たれて」

  「本当は コンニャク苦手 だのに何故 みんな喜ぶ それでいいのだ」

  「種芋を 買ったお金が あるのなら コンニャク何丁 買えるのかしら」

  「親芋に 子芋付きたる 土の中 親の恵みで 子芋大きく」  

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○夏野菜の植え付け

 「春に三日の日和なし」といわれていますが、今年の春は寒さを伴った雨の日が多く、昨日も午後から雨が降りました。最近は天気予報もよく当たるので、前日妻が大量に買ってきた夏野菜の苗物を、親父と二人で植える作業をしました。まず納屋から耕運機を取り出し、植え付ける場所を丹念に深耕するのです。こうすることで幾分か雑草が生えるのを押さえ、植えつけた野菜が元気よく育つのです。

 親父は今年92歳になりますが、足腰や耳目は衰えたもののまだまだ元気で、毎日畑の世話をしているだけあって暖炉理が極めてよいのです。植え付けに必要な道具類は記憶が悪くなったといいながらしっかりと覚えていて、直ぐに取り出してくるのです。几帳面な性格は歳をとればいい加減にしてしまうものなのですが、親父の場合はますます頑固になって、畝立ても目印用の綱を張り、私より綺麗に畝を立てるのです。

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(農作業をする親父はまだまだ元気です)

 苗はナス10本、ピーマン・パプリカ・シシトウ類12本、キューリ5本、トマト4本、カボチャ2本、マクワウリ2本、赤目さといも20個、パセリ2本、セロリー2本などでしたが、菜園の主導権を握っている親父と相談しながらあちらこちらへ植えつけて行きました。

 地を這うカボチャやマクワウリなどは別として、ナスやピーマンは支柱が必要だし、キューリは垣が必要です。家の裏山から20本ほどニガタケを切ってきて支柱にし、ビニールの紐で軽く結んで風に倒されないようにしました。植えた苗の根元には牛糞堆肥と籾殻を丹念に撒いて、丈夫に育つよう祈りました。

 今年は外気温が低く風も強いので、根付くまでのしばらくの間、特に弱いナスには、肥料袋を半分に切ったビニールで風囲いをしました。親父は毎年する農作業なおで、ビニール袋も風囲い用の竹も大事にしまっていて、直ぐに間に合いました。

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(風囲いしたナスの苗、ピーマン類も嶽の支柱を立てました)

 里芋はジャガイモと同じように、少し低めの畝を立てました。太るごとに土を根寄せして子芋の成長を促すからです。先日植えたツルインゲンの芽が出始めました。この時期野鳥が新芽をついばむので、親父は魚網を納屋から出してきて、その上にすっぽり被せました。こうすることで野鳥の被害に遭わなくてすむのです。

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(赤目里芋の植え付け)

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(親父苦心の野鳥除け魚網ネット)

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(2月に植えたジャガイモも全て芽を出し順調に育っています)
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(咲き始めた畦に植えたつつじ)

 季節が巡って菜園の畦に植えているつつじの花が随分開花してきました。この分だとあと一週間もすれば満開を迎えそうで、わが家は一年中で一番花の多い嬉しい季節を迎えるのです。今年も近所の人が石垣の下の道を見上げながら、また家へ立ち寄りながら花見をしてくれることでしょう。


  「夏野菜 今年も親子 ともどもに 腰をかがめて 菜園植える」

  「老いてなお 我が家重宝 する親父 言うがままする なすがままする」

  「体力も 気力も勝てぬ 老い親父 俺が勝てるは 食うと口だけ」

  「作物は 被害に遭って 泣くよりも 知恵だし勝てる 方法実践」

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○サンデー毎日も相変わらず忙しい

 親父の直ぐ下の叔父が亡くなって2年が経ちました。昨日はその三回忌の法事あって、松前町の叔母の家に行きました。2週間前に直ぐ下の叔母が急逝して葬儀を行ったばかりなので、親族一同と顔はすっかり馴染みとなり、また来月15日には叔母の49日の法要のために集まる予定なのです。お目出度ではなくお悔やみや法事での集まりは何処となく心が沈んで元気が出にくいもので、体の不調や将来のこと、家族の消息などがヒソヒソと話し合われました。

 和尚さんの説教はためになることが多く、私にとっては法事の楽しみの一つです。この日の説教は49日、一周忌、三回忌、七回忌と続く亡くなった人の法要は何故するのかというお話でした。年を重ねる法要ごとに本尊さんが変わられるそうで、三回忌は阿弥陀如来が本尊だそうです。なるほどなるほどと頷きながら説教を聞かせてもらいました。自宅に設えた祭壇の前で読経と焼香を済ませ、近くの墓地へ行って読経と焼香を済ませました。自宅に戻って精進料理を囲んで食事をするのですが、私は午後から今治市日吉地区の自治会総会で公園が予定されていたため、妻を残して早々にお暇して家を出ました。

 この春今治から伯方に転勤した警察官の息子に昨晩電話をかけて日吉自治センターの場所を聞こうとしましたが、あいにく仕事中だったので聞けずにいました。松前の家を出ようとする時息子から電話が入り、事細かく説明してくれましたが、多少不安な面もあってカーナビに電話番号入力し、カーナビが選んだ直近の奥道後~水ヶ峠経由で今治に入りました。新年度が始まりその喧騒も、また花見の時期も終わって世間は幾分落ち着きを取り戻したのか、車の量も思ったほどではなく、沿線の山の日増しに彩を増す前回とは違った風景を楽しみながら山道を楽しみました。

 国道から蒼社川沿いの道に入りましたが、沿線にはまだ十分楽しめる名残の桜が沢山咲いていました。かつて旧友重見さんのお世話で講演に来たことのある美寿賀病院の近くにカーナビの指示通り日吉自治センターはありました。会場では既に総会が始まっていて、午後2時30分まで事務室で若い事務員女性と雑談しながらお茶をいただきました。

 総会はこじんまりとしていましたが、各地域の代表が集まっていて、「自治会とまちづくり」という演題で1時間ばかりお話をさせてもらいました。多少笑い声には欠けましたが皆さん熱心で午後の会なのに眠る人もなく私の役目を終えました。

 帰りに懇親会用のお弁当までいただきましたが、そういえば昼ご飯を食べ忘れたと空腹を感じましたが、少し我慢して自宅まで5時過ぎに帰り、妻の手料理で昼食と夕食を兼ねた食事となりました。

 旧関前村の島崎さんのお声掛りで立花、清水、日吉とこのところ三回も講演の機会をいただきました。講演を終わったそれぞれの地区からお礼のお便りやメールが届き、近々人間牧場へも足を運びたいという連絡があって、新たな交流に発展しようとしています。嬉しい出会いに感謝する今日この頃です。

  「サンデーに なればなったで 忙しい 今日も一日 あれやこれやと」

  「カーナビは 偉いもんだと 感心す 息子説明 よりも確実」

  「そういえば 腹がグーグー 昼飯を 食べるの忘れ 一日過ぎた」

  「山の色 日増し鮮やか なりにけり 季節動きて 吾も動きぬ」

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○あらしやま山荘を訪ねる②

 年輪塾塾頭清水さんは生家をあらしやま山荘と名付けています。京都の嵐山を思い出すあらしやまという名前は、どうやら荒れる=荒らす=あらしやまの方が近いのかも知れませんが、標高200メートルの標高と石垣を築いた立地は、垂直思考の沸く場所であり、この場所で育ったことが清水さんのものの考え方の基底だと納得したのです。

 年輪塾の塾頭を勤め、年輪塾ネットの管理運営を一手に引き受けている清水さんとの出会いは7年前に遡ります。JAから出向してえひめ地域政策研究センターへやって来ましたが、今までのどの研究員とも毛並みの違う閑挙げにすっかり意気投合し、以来何かにつけて相談したり、特に人間牧場で立ち上げた年輪塾のブレーンとして今日まで袂を分かち合っているのです。

 清水さんが担当した舞たうんの表紙絵に柳原あやこさんの書いたあらしやま山荘の絵が使われていたことを思い出しました。桜の咲いた頃の絵だったので、「あの桜はいつ咲くのか」「桜が咲いたら花見でもしよう」などと相談を持ちかけていましたが、これまで忙しくて一度も実現していませんでした。一週間後に迫った年輪塾の打ち合わせを兼ねて花見をしようということになり、米湊大番頭、松本小番頭、地元の菊池さんを誘い、私を含めて5人だけの小さな花見となりました。

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(雑誌舞たうんの表紙絵はこんなアングルだったと記憶しています)

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(資料の中から出てきた舞たうん89号の表紙絵、上の写真と比較して見て下さい)

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(今が盛りと見事に咲いていた八重桜)

 漆塗りの座敷に陣取り、座卓を囲んで早速清水さんが友人に特注して作ってもらったという幕の内弁当を広げました。地産で旬にこだわった会費千円の弁当は、私にとっては採光の贅沢のような花見弁当で、美味しい弁当に舌鼓を打ちながら端楽しい話に花を咲かせて、最後は清水さん自らが焼いた美味しいケーキをいただきながらお茶を飲み、3時間もゆったりとした時を過ごしました。お暇する前庭に出て奥さんを交えて鼻をバックに記念写真を撮りました。

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(朱塗りの弁当箱に入った旬の花見弁当は美味かったです)

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(座敷での楽しい語らい)

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(季節の彩りをバックにあらしやま山荘にて)

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(諏訪崎など八幡浜湾の絶景)

 帰りは私のわがままを聞いてもらい、金山出石寺経由の道を走り、見返り坂から春霞に煙る八幡浜湾の素晴らしい眺望を堪能し、途中で出石寺のお参りをしました。松本さんと麓の長浜町豊茂を訪ねた時雪の中を出石寺に参拝したことが思い出されましたが、この日の出石寺は、地元に人が沿道に植えたアジサイの新芽が顔を出し、八重桜も満開の少し肌寒い天気での参拝となりました。

 お参りの途中に宇和島の小林さんから電話が入ったり、岡山へ結婚式に出席している高知県馬路村の木下さんと電話で交信したり、三人寄れば何とやら、酒の勢いもあって車内は相変わらず賑やかでした。

 不注意にも給油を忘れ給油警告ランプが点灯する中、どうにか下灘の綿井給油所までたどり着き、松本さん、米湊さんをそれぞれ降ろして楽しい一日を終えました。


  「気心の 知れた仲間と 呑む酒は 心浮き浮き 話も弾む」

  「雪の中 かつて訪ねた 山寺は 今を盛りと 桜花咲く」

  「塾仲間 誘って今夏 この地にて 塾を開こう 話まとまる」

  「大変だ 給油警告 ランプ点く ガス欠不安 山道下る」


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○あらしやま山荘を訪ねる①

 昨日は来週開催予定の年輪塾の打ち合わせを兼ねて、大番頭米湊さんと小番頭松本さんの三人で、八幡浜日土にある清水塾頭の家を訪ねました。寒気の影響で少し肌寒いものの空は青く晴れ渡り、国道378号線の横に広がる伊予灘の海も穏やかでした。三崎半島を貫通するような長い長い鼛女トンネルを抜けて保内の町外れまで国道197号線を走ると、「金山出石寺左」の矢印が見えてきました。そこからは谷沿いに細いみちをキロ近く進みました。松本さんは一週間前にも清水さん宅を訪問しているので、彼の道案内で進みましたが、人間牧場への急で狭い道を笑っている清水さんに笑い返してやろうと思うほどの狭さでした。

 米湊さんと松本さんが同行する時、特にお酒が入る時は決まって酒を飲まない私がアッシー君なので、この日も私の愛車に乗ってのお出かけでした。

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(勝手に庭の雑草を草削りする私)

 12時30分という約束の時間でしたが、せっかちな性分の私のことゆえ、少々早く清水さん宅に到着しました。清水さんはこの日の弁当を仕入れにいてあいにく留守でしたが、松本さんが携帯で電話をかけてくれ、少しそこら辺を散策するよう言われました。お目当てだった庭の八重桜は今が満開でかぐわしい匂いを漂わせて私たちを迎えてくれました。

 二地域空間を行き来し暮らしを楽しんでいる清水さんは、手が行き届かないのか、庭には少し雑草が伸びていました。咲き始めた霧島つつじの見事さもあって、私は勝手に倉庫から鍬を探し、雑草の草削りを始めました。雑草も野趣のうちと怒られそうでしたが、少しの時間勤労奉仕をさせてもらいました。手前味噌ながら庭に一筋の道ができ、赤い霧島つつじの花が一際美しくなったような気がしました。

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(農家の上がりかまち。大黒柱の太さと、石臼を利用した活花で住人のセンスのよさが伺い知れました)
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(座敷の障子窓から入る採光は優しさに包まれていました。
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(床の間の違い棚下に座布団を敷いて鎮座する福助さんの像はどこか二宮尊徳さんに見えてきました)

 間もなく友人の菊池さんと奥さんを伴って帰って来た清水さんの案内で自称「あらしやま山荘」と名付けた自宅内へ入りました。清水さんの家は昭和初期の古民家の風情を色濃く残していて、玄関や障子窓、格子窓などの窓越しに見えるやわらかい春の日差しが何ともいえない味を醸していました。さすが清水さんが自慢せず自慢するだけあって、感心しながら座敷に座りました。清水さん宅は標高200メートルだそうですが急峻な地形ゆえ殊更に座敷から見える山々や団端に点在する農家農村の遠望は素晴らしく、これだけでも必見の価値があると思いました。耳を澄ませばウグイスが、目を凝らせば山桜が、鼻を嗅がせば草の香りが、まさに山里ならではの春の香りでした。

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(窓からの遠謀も絶景でした)

  「人の家 留守に訪ねて 草取りす 住人戻りて 思わず驚く」

  「この里も 不便がゆえに 人過疎に 子どもの声も 少し遠のき」

  「この部屋で 大の字なりて 昼寝する こんな贅沢 住人だけしか」

  「入るなり 大黒柱の 大きさや 黒光する かまちに感心」

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shin-1さんの日記

○今年最後のワカメ干し

 野菜や魚に旬があるように、海で採れるヒジキやワカメなどの海藻類にも旬があります。旬というよりは適期といった方がいいのかも知れません。海水温度は暖めやすくて冷めにくいため外気温より20日間くらい遅れて進行します。冬の寒さが和らいで春がやって来ても、水はまだ冷めたままで「水がぬるむには少し時間がかかるのです。したがって海草の春の芽吹きは陸上より少し遅れますが、海草が芽吹く前に採取しないと、その海草に別の海草やプランクトンが付着したりしてみばを悪くするのです。寒いと海に入るのは冷たいしそうかといって水がぬるみ過ぎると海草の品質が落ちるのです。

 ヒジキやワカメなどの海草は干潮面辺りに生えます。月に1回大潮の時期になるとそれらが干潮で顔を出すのです。特に3月から4月の大潮は一年中で一番よく潮が引くのでみんなこぞって海岸に出てワカメやヒジキを採りあさるのです。

 私たちのように暇が合ったらなんて悠長な人間は、人の採った後追いになって中々採ることができないのですが、長年の感が働く私には、人が見向きもしないとっておきの場所を知っていて、今年も既にヒジキは一年分をゲットしましたし、ワカメも幾分保存しました。

 先日春の嵐が吹き海が時化ました。こんな日は改定のワカメが波に揺さぶられて根こそぎ海岸に漂着するのです。それをいち早く採るのもある意味私だけの秘密なのです。

若松進一ブログ

(特設のかまどと大釜)
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(湯通ししたワカメ)

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(ワカメの根株を片付ける親父)

 一昨日トロ箱に1ぱいのワカメを収穫して持ち帰りました。例の如くドラム缶かまどを取り出し、大きな釜にお湯を沸かして綺麗に水荒らしたワカメをお湯にくぐらせ、冷水でしめて張った縄に芯を取り除いて干して行くのです。細かい作業なので目の薄くなった親父はもっぱら干し場を作ってくれたり、使い終わった道具類の後片付けをしてくれ大助かりでした。

 昨日は雲のない絶好の好天に恵まれ、外出する10時間出に全て干し終えて出かけましたが、夕方帰宅すると親父はもう干し場を片付けワカメを薄いキャリーに取り込んで、仕上げの乾燥をしていました。今日一日乾燥すると、これで一年分のワカメを確保できるのです。

 ヒジキもワカメもこのように手間がかかるし中々手に入らないため、おすそ分けすると皆さんに喜んでいただけるので、来年もまたこの時期に同じようにワカメやヒジキを手に入れ、海草三昧の食生活を送りたいと思っています。昨晩の食卓にはワカメの茎の佃煮が食卓を飾りました。ごま油とワカメの絶妙な旬のハーモニーでした。

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(すだれ状に干したワカメ)

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(取り入れ仕上げ乾燥しているワカメ)

  「田舎ゆえ 田舎楽しむ 術を持つ 田舎暮らしは 楽しきものよ」

  「手間隙を かければ自然 幾らでも 暮らしに活かせ 健康さえも」

  「手間かけた 質素なもので 外交す 金はかけずも みんな喜ぶ」

  「いつもなら 捨てる部分の ワカメ茎 妻は佃煮 作りて食べる」

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