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〇三枚の名刺をくれた人

 「フーテンの寅さんつながりの情報を探している人がいるので逢って欲しい」という連絡を松本小番頭からもらいました。運悪く講演に出かける途中の運転中だったので、「後から電話するから」と一旦電話を切りました。やがて講演が終わったので、手持ちのスケジュール表をにらみながら昨日の昼12時にOKのサインを出しました。

 昨日は午前中材木屋をやっている従兄弟が小さいながら社屋と倉庫を新築したので、親父の兄弟連中から新築祝いを集め持参する予定があったのでその仕事を早めに切り上げて、指示された下灘駅に5分前に到着しました。松本さんは既に到着していて、雑談を重ねていると大槻最上という少し顎や口にひげを蓄えた人がやって来ました。運よくそこへマッチ箱のような一両編成の列車が滑り込み、大槻さんはカメラ機能のついた携帯電話で何枚か写真を撮っていました。

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 私が似顔営利の名刺を差し出すと、大槻さんも次から次へ真っ赤な名刺2枚と濃紺の名刺1枚を差し出されました。肩書きは「柴又たまや」「道後たま屋」「有限会社キルシェ代表取締役」などと肩書きが書かれていました。この名刺をいただいただけでも大槻さんは得体の知れない人物のようです。

 たま屋の名刺の裏には「社訓 『ありがとう』の心と言葉」が書かれていて、名前が「最上」で「もがみ」と呼ぶという珍しさも手伝って、益々その人の人物像が分からなくなってしまいました。

 大槻さんはフーテンの寅さんが啖呵セリフで「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、性は車名は虎次郎と発します」と口上をを垂れる葛飾柴又にご縁の深い方のようでした。

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 ベンチに腰をかけ、聞かれるままに下灘駅で撮影されたフーテンの寅さんシリーズ第19作「殿様と虎次郎」の思い出話を話しました。わたしが双海町教育委員会で町の広報を担当していた頃寅さんは山田洋次監督と共にこの下灘駅へロケにやって来ました。海沿いに国道バイパスがついていない「日本で一番海に近い駅」という俗称がついていた当時のことですから、かなり古い話なのです。

 大槻さんは寅さんの話にやけに詳しく、柴又や長野県の寅さん記念館について私たちの知らない情報を沢山話してくれました。そして話のついでに話した人間牧場へ行きたいので案内して欲しいと言うのです。昨日は午後に広島・山口から来客を予定していて、加えて人間牧場の雑石積み工事のチョウハリをかけるため、立ち会うことにしていたので、請われるまま私の後に着いて来てもらいました。


 人間牧場がすっかり気に入ったのか、大槻さんは約一時間ばかり滞在して人間牧場を下って行きました。寅さんのエピソードを調べていることそのものが少し変わった感じもしましたが、私も大いに興味のある似たもの同士なので、今後も交流を深めたいと思っています。

 広島・山口のお客さんを送り、チョウハリ作業を終え、コンニャク畑の雑草を取っていると、時計は六時近くになっていました。昨日は子ども体験塾保護者説明会が午後7時からあるので、急いで山を下り自宅へ引き返しました。風呂を入り卑下を剃って夕食を済ませ、市役所支所へ出かけましたが、昨日も風邪で体調が優れぬ中、鼻をシュンシュンいわせながら長くも充実した一日を終えました。


  「三枚も 名刺をくれた この人は 一体何者? ヒゲを蓄え」

  「ありがとう これが社訓と 名刺裏 フーテン寅さん つながりだから」

  「世の中にゃ 風流生きて いる人が 沢山ありて 出会い楽しい」

  「この人を 見れば俺など まともだと 変な自慢が 頭もたげて」


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〇珍しいコンニャクの花

 「皆さんはコンニャクの花をを見たことがありますか?」と尋ねられたら、「エッコンニャクに花が咲くの?」とか、「コンニャクの花なんて見たことない」という人が殆んどなのです。ところが人間牧場のコンニャク畑には何と何とコンニャクの花が8本も咲いているのです。

 普通コンニャクは3年から4年周期で食用として収穫するため、6年目位に咲くというコンニャクの花は余り見ることがないのです。私も一昨年初めて人間牧場に咲いたコンニャクの花を見て、その南方系容姿の異様さに驚いてしまいました。

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 今はそんな疑問もインターネットで調べるといとも簡単に答が出るのですが、当時は近所の人に写真や実物を見せて聞いても、「知らない」とか、「気持ち悪い花じゃねえ」くらいで疑問の館のお蔵に入ったままでした。普通植物は種の保存のために花を咲かせて結実い種を残すのです。炊けなどは60年に一回花を咲かせるようだし、コンニャクも6年程度の周期で世代代わりをするのではないかと推測できるのです。

 インターネットによるとコンニャクの花は洋名でデビルスタン(悪魔の舌)というのだそうで、珍しいものの余り綺麗な花言葉ではないようです。

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 人間牧場には2ヶ所コンニャク畑がありますが、4年前に植えて掘る時期を逸しているコンニャク畑では花が8本も咲いたので、今年の秋には何としても芋を堀あげ、念願のコンニャク作りに挑戦したいと思っています。それにしても摩訶不思議な植物があるものです。キリンの足や首に似た茎や葉っぱもさることながら、この花からあの美味しいコンニャクを誰が想像するでしょう。このコンニャクの花はいっそのこと、芋を掘らずに花を楽しむ観賞用にしたいとも思っています。


  「吉凶の どちらを予言 するのかな コンニャクの花 今年も咲いて」

  「コンニャクの 美味しい姿 この花で 想像できぬ 似ても似つかぬ」

  「珍しい 誰もが言いて 眺めつつ 花談義する 初夏の一日」

  「今年こそ コンニャクづくり しょうかと 花より団子 心に決める」

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〇午前と午後の講演ダブルヘッター

 「若松さん、講演をお願いしたいのですが」と、一ヶ月ほど前に電話をかけてきたのは松前町の松上先生でした。元中学校長だった松上先生は既に第一線を退いていますが、今は請われて松前町青少年育成協議会の事務局長として働いているようです。私が双海町教育委員会で社会教育主事をしていた若い頃、派遣社会教育主事として双海町教育委員会に派遣され、3年間机を並べて社会教育に携わった親しい間柄でもあるので、午前中砥部町麻生地区老人クラブ総会と夕方コープえひめ人事委員会、それに夜フロンティアグループ打ち合わせ会と日程が詰まっていましたが、何とかなるだろうと鷹を食って引き受けてしまいました。

 ところが運の悪いことに4~5日前から同居人の孫たちに風邪をうつされ、鼻づまり、喉の痛み、微熱などなど

昨日は最悪のコンディションとなってしまったのです。日ごろ風邪も引かず腹も痛まないすこぶる健康な私なのですが、さすがに声が出にくい中での、しかも午前中に老人クラブで1時間あまり話した後での再講演は中々骨が折れました。

 松上先生から数日前電話や講師派遣申請書に加え、「再会を楽しみにしている」旨のメモが届き、私も再会を楽しみにしていました。メモにしたがって13時30分松前町役場4階の控え室に入りました。7階建ての立派な庁舎からは松前の街や遠望が開け、初夏の訪れを告げる麦畑が黄色く色づいていました。

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 青少年育成協議会総会後の講演は予定通り2時から庁舎3階の会議室で行われました。参加者の中には知人友人など顔見知りの人も多く、軽く会釈しながらフロアー演台に立ちましたが、来賓席には三男息子がこの春から異動してお世話になっている伊予署の所長さんや生活安全課長さんも同席し、一瞬やばいとも思いましたが、後戻りもできず思いつくまま1時間ほど、「新しい発想で生きる」という演題で一気に話してしまいました。

 風邪の影響で日ごろの美声はすっかり影を潜め、搾り出すようなハスキーな声の講演だったため、参加者には聞きづらかったことでしょうが、今となっては引き返すことも出来ず、ただただ不徳の致すところとお詫びするのみです。

 4月28日の広田地区を皮切りに5月10日西地区、5月12日東地区、5月17日宮内地区、5月18日麻生地区と砥部町町内5ヶ所全ての老人クラブの総会をまるでリレーのように巡った講演も、昨日で全てを終えました。この話が社会福祉協議会から持ち込まれた時はまだ寒い時期だったので、軽く引き受けてしまいましたが、来賓で5会場とも出席する町長さんをはじめ関係者もいて、毎回同じ話を聞かせることもできず、話題や組み立てをその場のインスピレーションで変えながらお話をさせてもらいました。かつて4~5年前に高知県四万十市西土佐村の20地区の集落を3ヶ月で巡りながら話したことを思えば、今回は5地区ですからまだ話題に事は欠きませんでしたが、今回も自分自身の能力を試される結果となりました。特に一昨日の宮内地区と昨日の麻生地区は体調が今一だっただけに、多少悔やんでいます。

 昨日で私の仕事面での今年の前半戦は一応一区切りついた感じです。明日は東広島へ行く予定ですが、明日からがいよいよ今年の中盤戦です。今日は午後3組の来客と夜は私が実行委員長を務める子ども体験塾の保護者説明会がありますが、今日一日は体調回復に努めたいと、妻の差し出す風邪薬や栄養剤を黙って服用しています。

  「風邪をひき 体調崩し 声も出ず 子規の心境 ほととぎす啼く」

  「朝昼と ダブルヘッター 講演会 夜の集会 ほとほと疲れ」

  「今年早 前半戦も 終りにて いよいよ中盤 心引き締め」

  「外は初夏 麦の穂熟れて 黄金色 長閑のんびり 季節楽しむ」

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〇キンケイソウの花咲く砂浜

 先日浜昼顔が咲いたことを私のブログで紹介した明くる日、新聞の一面に伊方町の海岸に咲く浜昼顔の写真が紹介されていました。あの時の写真や事実を新聞社に提供していたらと多少悔やみましたが、現役でもない私にはそんなことをする余裕もなく失念してしまいました。

 浜昼顔が咲いている海岸に今度はキンケイソウが色鮮やかに咲いているのです。桜やつつじが終わり、五月・アジサイ・芙蓉などが咲くまでは、花暦みも暫く休みなので、濃い黄色い花のキンケイソウは花の曰く因縁はどうであれ、嬉しい開花なのです。

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 元々キンケイソウは外国からやって来た帰化植物で原産地は北アメリカのようです。金鶏菊ともいわれていますが、この花の別名を「特攻花」だと知っている私は古い人間なのです。鹿児島県に知覧という特攻基地がありました。敗戦色濃い頃この場所に多くの戦闘機が集結し、片道の燃料を積んで多くの若者が敵艦敵機に体当たりするため飛び立ち、帰らぬ人となったのです。

 その飛行場の滑走路や空き地に何故か黄色いキンケイソウが咲き乱れ、兵隊さんたちはいつの間にか名前も分からぬこの花を「特攻花」と呼ぶようになったのです。この花を見ながらどれだけ多くの人が旅立ち帰らぬ人となったことでしょう。そのことを思うと心が痛むのです。

 まちづくり運動にいささかなりともかかわり、これまで花咲くまちづくりを推進してきましたが、植えたり種を蒔いたりして人為的に増やそうとした花は中々上手く咲かないのに、浜昼顔もキンケイソウも野生の花ゆえ綺麗に咲いて人々の目を楽しませてくれるのですから、花に感謝をしなければならないようです。

 私は色々な夢を持っています。現役の頃シーサイド公園の砂浜を毎日12年間掃除をしましたが、夏にスイカを食べた種が落ちて砂に埋まって越年し、夏に芽を出す姿を見て砂浜でスイカを作ろうと思いつきました。発泡スチロールのリンゴ箱に穴を開け、スイカの苗を試験的に10株ほど植えて砂浜に埋めました。ところがその頃はまだ人工砂浜の養浜工事の最中だったため、ブルドーザーで押しつぶされてこの実験事業はものの見事に水の泡と消えてしまったのです。今でもこの夢の賞味期限は消えておらず、近いうちに「夕焼けスイカ」作りに挑戦したいと思っています。南限を目指して大切に育ててきたハマナスも私がいなくなると生き絶え絶えのようです。


  「キンケイソウ 特攻花と いうことを 知ってる俺は 古い人間」

  「植えぬ花 何で綺麗に 咲くのかな 植えた花など 咲きにくいのに」

  「黄色花 砂浜彩り 立ち寄りて 花に心を 癒されホッと」

  「初夏の陽に 照らされ咲きし キンケイソウ 原産北米 どこをどうして」

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〇人間牧場の次の工事予定 

 私が地元の役場に勤めていたころは地元に大小合わせる16もの土木事業所がありました。建設課や産業課には土木の専門技術者が何人もいて、国や県の補助金を貰いながら主に災害復旧事業を組み立て、沢山の公共工事を入札で落札発注していました。その頃の土木業者は「大雨や台風が来たら儲かる」と、むしろ人の不幸が金になる皮肉な時代でした。

 私にはその当時のことは談合があったのかなかったのか未だに分かりませんが、16業者が自分の能力に合わせて満遍なく理路整然と受注して、時には工事連帯保証人になったり仕事を助け合ったりして生きてきました。

 しかし高度成長の波に乗って右肩上がりに成長を続けてきた公共工事も、平成という時代の到来と共に右肩下がりとなり、平成の大合併で地方公共団体の再編が行われる頃になると、談合が大きな社会問題となり、入札の仕方も電子入札やランク分け入札となって、対応できない小規模業者は廃業に追い込まれていったのです。中には社長が自殺したり、負債を抱えて会社が倒産し夜逃げをしたりして、田舎では大きな社会問題となりました。16の業者は自然淘汰されて今では町内の土木業者は6社にまで激減しているのです。

 華やかだったあの頃、社長は33ナンバーの車に乗り、週末にはゴルフや飲み屋に繰り出し、公共工事が一段落する5月には海外旅行にまで出かける羽振りの良さでした。

 昨日かろうじて生き延びている小さな土木会社の若社長からわが家へ電話が入りました。私はあいにく留守でしたので、帰宅後電話をかけると社長は、「仕事がなくて困っている。何かないか」と悲痛な面持ちでした。土木業者にとっては公共工事が一段落する5月は端境期で仕事は殆んどないのです。

 私は退職後人間牧場を造りましたが、水平線の家の土台もロケ風呂も、倉庫の基礎も、またかまど小屋の基礎も全て安くて丁寧な工事をしてくれることから個人的に仕事をしてもらいました。ゆえにその後ウッドデッキの下の雑石積みもしてもらっているので、そのとき私が話した構想をおおよそ覚えていて、私のやりたいことが分かるようなのです。私も少なからず情にもろところがあるので、値と相談ということで昨日飛べでの講演会から帰って来る時間を見計らって、現地で話し合うことにしました。

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(倉庫の右斜面を雑石積みする予定ヵ所)
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(回転場左斜面を雑石積みする予定ヵ所)

 昨日は予想より少し早く帰れたので人間牧場へ行き、予定の場所がよく見れるように草刈機で草を刈りました。一ヶ所は倉庫のドハ、もう一ヶ所は回転場近くのドハです。社長は草刈りが終った約束の3時半にやって来ました。メジャーで測りながら私の話を絵にしていました。現場での見積もりができないため持ち帰って見積もりをしてみるとのことでした。

 年金暮らしの私にそんなに財政的な余裕はありません。加えて家のリフォーム工事の真っ最中なので、妻に相談すると反対はしませんでしたが、返事が重たいようにも感じられました。仕事が途切れると嘆いていたので多分今日辺りに費用の積算見積もりができるものと思われますが、この際ピザ窯予定地も確保したいと持っています。さて度で程の見積もりになるのでしょうか。高いようだともう少しお金を貯めてから工事に取り掛かりたいと思っています。ドキドキです。


  「よくもまあ 次から次と やることを 考えるもの 妻は呆れて」

  「少しずつ 働き蜂を 見習って 牧場整備 したい思いつ」

  「公共の 工事激減 嘆いてる 社長の話 納得しつつ」

  「今俺は 年金暮らし なっている ゆえに大した こともできずに」

 

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〇朝から臭い話ですみません

 この一週間、家のリフォーム工事のため一階のトイレが使えず、不便(不便とはこういうことを言うのでしょうか)をきたしていましたが、やっと工事が終わり使えるようになりました。この一週間は先んじて工事が終わった二階のトイレを、妻は肩身の狭い思いをして使っていました。私は家の外にある来客用の煙会所のトイレを使っていましたが、不思議なものでトイレが使えないという意識が働くのか、寝る前にお茶を控えるなど様々な工夫を凝らしてきましたが、昨日からやっと何の不自由もなくトイレが使えるのです。

 同居することになった息子たち家族のために二階のトイレを洋式にすることは決めていましたが、私たちが使う一階のトイレは、長年馴れ親しんだ和式の方がいいと、妻は最初リフォームに気乗りがしなかったようです。それでも「トイレは文化だ」と言い張る息子の強弁に負けてリフォームを思い立ったのです。

 昨日一日使っただけで妻は納得して、あれほど反対していたのに、「トイレは文化」などというようになりました。

 今回リフォームしたトイレは、設計した息子が「家は自慢できないがトイレだけなら自慢できる」と自画自賛するだけあってかなり快適です。部屋は二方が素敵なタイル張り、二方と床はクロス張りです。

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 レール戸を開けるとセンサーが感知して便器の蓋が自動的に開きます。用を足し終わり立ち上がるとこれまた自動的に水洗をしてくれる優れものです。便器は少し小型のようですが省エネタイプで、少ない水の量で吸引排水できるようになっています。中には絵を飾るピクチャーレールまでついているので、この際トイレにいい絵を飾ろうと思っています。

 息子からトイレの使用注意がありました。「親父は小便を大便のように座ってすること」というのです。床を汚さない、便器を汚さないためには必ず励行するようきつくいわれました。ただ今のところそれを励行していますが、「急ぐ時には」と反論しましたが、「急ぐ時にも」というのです。

 「老いては子に従え」という言葉があります。確かに一利あることなのでこの際息子の助言に従って、快適なトイレの使い方をマスターしたいと思っています。昨日の夜お風呂から上がった孫が、「おばあちゃん、トイレを貸してください」といいました。一階のトイレ工事中、二階のトイレを使う度に妻が、「トイレを貸してください」と言っていたのを覚えていたようです。どうやら同居人であっても一階のトイレはおばあちゃんのトイレだと思っているようなのです。

 わが家へ来る人に告げます。自宅のトイレは夫婦専用につき、わが家へ来た人の来客用のトイレは今後煙会所のトイレをご使用ください。


  「あれほどに 難色示した 妻が言う トイレは文化 納得したか」

  「小便は 座ってせよと 息子言う 老いては子にと 従い励行」

  「摩訶不思議 トイレ入ると 便器蓋 チチンプイプイ 自動で開く」

  「わが家にも ルネッサンスの 風が吹く トイレ洗面 一気に進歩」 

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〇香りの風景「みかんの花咲く丘」

 喜久家プロジェクトの浅野さんがブログで、「香りの風景」について書いていました。私も常々「音の風景」や「香りの風景」があると思っているので、鼻を澄ませてみました。実はこのところ風邪なのか花粉症なのか分かりませんが、鼻が詰まっていて匂いを嗅ぎにくくなっているのです。

 外の家庭菜園の向こうにはたわわに稔った甘夏みかん畑がありますが、この時期には黄色い甘夏みかんの実と花が同時に楽しむことができるのです。これも温暖な瀬戸内海気候の恩恵なのでしょうか。今年は冬の寒さが厳しかったせいか、みかんの花の開花はいつもの年より少し遅いような気がするのです。

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 みかんの花は五弁で純白、雌しべは黄色でとても清楚です。詰まりかけた鼻でも花の近くに鼻をそっと近づけると、何ともいえない芳しい香りが漂ってくるのです。みかん畑に囲まれた人間牧場もそうですが、双海町はみかん所なので今の時期は町全体がみかんの香りに包まれて、まさに香りの風景を感じることができるのです。

 私たちが子どものころは花粉症などという病気は余り言いませんでしたが、現代人は敏感なのか自然に適応できにくくなったのか、春先には杉や桧の花粉症に悩まされています。敏感な花粉症の人は菜の花やミカンの花さえ調子が悪くなると、マスクを着用して防備に余念がないようです。

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 私は2年前からミツバチを飼育していて、今年3年目の春を迎えました。ミツバチ飼育に欠かせないのは蜜源たる花ですが、さすがにこの時期はミカンの花が何処にでも咲いているので、ミツバチたちは働き蜂となりせっせと忙しく飛び交って蜜を集めているようです。JR予讃線海岸周りの沿線には純白のニセアカシヤの花もいっぱい咲いて今が見ごろのようです。

 日常をあくせく暮らしていると、香りの風景などを感じる余裕はないのですが、リタイア後は音の風景や香りの風景に目と心と鼻が反応して、季節の移ろいを感じさせてくれるのです。

 昨日は書斎からハーモニカを持ち出して、みかん畑で「みかんの花咲く丘」という童謡を吹いてみました。いやあ実に気持ちがいいものです。ふと亡くなった母を思い出しました。

 「♭みかんの花が 咲いている 思い出の道丘の道 はるかに見える 青い海 お船が遠く かすんでる♯」

 思わず心の中で口ずさみました。


  「菜園に みかんの花が 咲いている 香り誘われ ハーモニカ吹く」

  「亡き母の 顔を浮かべて 香り嗅ぐ 甘い香りは 懐かしきかな」

  「わが町も その気になって 感ずれば 香り風景 音の風景」

  「鼻詰まり 風邪かそれとも 花粉症 香り楽しむ こともできずに」  

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〇心を磨く100の智恵・その9「私心にこだわらない」

 【心身が清廉であれば、暗い部屋にいても晴天のような晴れやかな気持ちで過ごすことができる。しかし、心が陰〇であれば、白日の下でも邪悪な鬼のように殺伐な気持ちとなる】


 私心のある人は「今」をテーマにするから、物事の判断を「好きか嫌いか」と「損か得か」で見てしまい、嫌いな人や損をする人から遠ざかるものです。「過去」や「今」はある程度目に見えますが、10年後、20年後、50年後の「未来」となると目に見えないため、余程人徳を積んでないと先は読めないのです。しかし未来のことを「善か悪か」で価値判断するとおおよそ間違いないといわれています。

 嫌いでも多少損をしても、世の中にはやらねばならないことが沢山あって、それが出来る人が私利私欲なき公心の人なのです。

 私心の多い人ほど用心深く、周りの様子を覗いながら隠れるように動き回り、常に策略をめぐらせた言葉を発します。人の言葉の上げ足をとったり、要らぬ噂を流したりして相手を落とし入れようとしますが、世の中はそんなに騙されやすい人ばかりではありません。

 夕日をテーマにまちづくりを始めた頃、その拠点施設としてシーサイド公園を整備することになりました。ある議員さんが大っぴらに反対をし始めました。その折議員さんは「シーサイド公園の整備はみんなが反対している」というのです。勿論町の命運をかけた町にとっては大規模な投資ですから、反対意見や危惧する意見があることは承知していました。しかしそれが「みんな」の意見となると話は別で、再検討をしなければなりません。私は大方の町民がシーサイド公園の整備を望んでいることを、小さな町ゆえ肌で感じていたので、議会で「みんなとは誰と誰か」と反論しました。議員さんが日常的に使う便利な言葉「みんな」とは一体誰なのか、その議員さんも最後は「みんなはみんなじゃあ」で反対の矛先を置いてしまったのでした。


 反対のための反対や、相手を陥れるための私心的言動はいつしか見破られ、信用を失墜するものです。公や他人を第一とし、自分を二の次にするような人間になりたいと常々思っています。私などはまだまだ修行の身ゆえ、一生かかってもそこまでは到達できないと思いますが、少し軸足を移すだけでもいい生き方ができ、人間関係がスムースになるようです。


  「私心捨て 公に生きねば ならぬ人 公務員とは そんな生き方」

  「私欲捨て 人に尽かさば いつの日か 信用されて 楽し生きれる」

  「嫌いでも 損をしてでも せにゃならぬ 未来のために 善悪判断」

  「暗闇で 星は見えるが 昼間だと 明るいゆえに 星は見えない」


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〇叔父の葬儀

 13日の金曜日とはよく言ったもので、私にとっても厄日となったようです。この日は午前中家の裏庭の草を刈っていました。エンジン音を響かせて草刈機の刃の部分に集中していると、周りの声など耳に入ってこないのですが、突然近くで大きな声がしました。エンジンを止めて道に下りると声の主は近くに住む叔母でした。伯母の話だとこの日の朝叔父が病院で亡くなったというのです。

 2年前のこの伯母は夫である叔父を亡くし、昨年は姉である伯母を亡くしました。そして今度は姉である伯母の夫である叔父の死でした。相次ぐ訃報に長兄の親父も少し落胆したようですが、これも世の定めなのでしょうか。


 土曜日は通夜、日曜日は葬儀と週末は慌しく過ごしました。幸いなことに妻も仕事を休まなくて済みましたが、葬儀事は心に重い空気が流れてテンションが下がり中々疲れるもので、昨日は初七日法要や精進落しなど全ての仏事が終って自宅へ帰ったのは午後8時過ぎで、直ぐに風呂に入り、直ぐに床について早めに休みました。私も妻も同居の孫から譲り受けた風邪が完治しておらず、葬儀会館の冷房に当たったせいか、風邪が再びぶり返し、熱はないながら鼻は詰まる、喉は痛いの症状が今朝になっても治る気配がないようです。冬の寒さには一度も風邪を引かなかったのに、この時期に風邪を引くなんて情けない限りです。

 叔父森脇松太郎は若い頃地元の郵便局に勤めていました。退職後は民生委員の総務などをやったり、趣味の書道を続け伯母と孫に囲まれゆっくりと老後の生活を楽しんでいました。息子夫婦や五人の孫の養育の関係で松前町神崎に家を建て移り住みましたが、双海町灘町の自宅も人手に渡すことなくそのままで残っています。

 週末の仏事には久しぶりに多くの親類が集まり、叔父の思い出話や親類の近況など、懐かしい話に花を咲かせましたが、親父の兄弟である叔父や叔母も高齢となって体の不調を訴える人たちが多くなったようです。「次はわしの番かも知れない」などと笑いながら話す姿に人生の侘しさも感じました。

 88歳で亡くなった叔父の戒名は大光院松寿徳道居士でした。法要読経の後住職さんが戒名やこれから始まる仏事にまつわる話を説教してくれました。初七日や四十九日、百日、一周忌、三年、七年、十七年と遠のくものの仏事は限りなく続くのです。お盆や春秋の彼岸などを含めると何と多いことでしょう。最近はこの仏事も随分簡素化されてはきましたが、それでも家を守る人にとってはこれから一苦労のようです。

 長男の嫁である妻も祖母や母を見送り、その都度仏事を取り仕切ってきましたが、何もしない私にできることは感謝の気持ちと、同居し始めた息子の嫁にしっかりと受け継いで欲しい願うことぐらいです。降って湧いた叔父の死は私たちに様々な教えを残してくれたようです。

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 追伸。

 私が最近出版した「夕日徒然草・地の書・水の書・火の書」の題名はこの叔父に書いてもらったものです。間もなく「夕日徒然草・風の書」を、来年には「夕日徒然草・空の書」を出版する予定ですが、叔父が゛書いてくれたものを今後も使う予定です。49日の法要に間に合うかどうか分かりませんが、出来上がれば懇ろに仏前に供えさせてもらいたいと思っています。

  「米寿まで 長生きできた 叔父が逝く 悲しいけれど 世の中定め」

  「頼み込み 本の題名 筆で書く 三冊の本 手元に残る」

  「久方に 親類一堂 集まりて 懐かしきこと 蘇らせる」

  「人の世は はかなきものと 思いつつ 涙流して 最後の別れ」

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〇心を磨く100の智恵・その8「決断は勢いで行わない」

 【高揚しているときほど、他人への約束を安易にしてはならない。酔っているときほど、腹を立ててはならない。有頂天でいるときほど、四方八方に手を出してはならない。厭きたからといって、終わりを疎かにしてはならない】

 人間には長い人生において幾つかの決断に迫られる時があります。若い頃なら決断の重みも案外軽く、たとえ決断して失敗してもやり直しができるのですが、決断には後に戻れない事だってあるのです。振り返ってみれば平凡な田舎に住む私の人生においても、転職の決断、退職の決断、方向転換の決断など幾つかの決断があったようです。決断とは二つの道の右か左か、また進むか引き返すかを決めることですから、判断を誤るととんでもない人生になっていたと思われますが、私の従兄弟で商工会長をした西下芳雄さんが「判断の基準は始める時は周りに相談、終る時は自分ひとりで決める」と教えられ、それを実行したお陰で判断ミスもなくここまで生きて繰られたのですから、この言葉は私にとって金言なのです。

 例えば顔見知りのある人から「保証人になってくれないか」と頼まれます。その人と心許した深い関係であればあるほど頼みは断わりにくいのですが、印鑑を押すということがどういう意味を持っているのか考えなければ、とんでもない印鑑被きで、自分の財産はおろか自分の人生まで棒に振ってしまうのです。金を貸したり印鑑を押す時は神様のようにいうのに、返す時になると悪魔のように言われ、人間関係を損ねてしまうのです。約束する時ちょっと立ち止まり、家族や誰かに相談し客観的に判断してもらうことはとても大事なことなのです。妻の実家は海産物屋を営んでいますが、印かずきにあって財産の殆んどを失った苦い経験があるようです。

 私は若い頃青年団活動をしました。ゆえに選挙がある度に町会議員や町長選挙に出ないかと誘いがありました。その時は酒の勢いもあり、俺もいよいよかと有頂天になっていました。妻にそのことを相談すると、「選挙に出る時は離婚してからにしてください」とばっさり切られ、説得する勇気もなく一度もその誘いに乗らなかったのです。お陰で地位や名誉を手にすることはできませんでした。私の友人たちは市町村長や議会議員に出馬し、地位と名声を持った人もいますが、中には落選して故郷を追われた人だって沢山いるのです。

 酒は酔うためにあるものですが、酒の勢いは自分の判断を誤らせることが多いようです。「酔う」という字の右に卆という字があります。酒の卒とは使い走りのことだそうで、「卆=卒」は終わりという意味もあります。酒は時に品格も道理も失わせ、腹を立てて喧嘩をしたり、人の悪口を言ったり、時には取り返しのつかない誤った決断をしてしまうのです。

 バブル全盛の頃、本業以外のことに四方八方手を出し、バブル崩壊で老舗といわれた屋台骨まで倒産に追い込まれた事例は枚挙に暇がありません。不易と流行という言葉がありますが、不易とは変わらないこと、変えてはならないこと、この本質が分からなければ本当の上司や経営者とは言えず、部下や社員を路頭に迷わせることになってしまうのです。

 私もさすがにこの時期になると、色々なことに多少厭きてきましたが、厭きたからといって終わりを疎かにはできないと、自戒の念を含めて「最後は自分で決める」ことを肝に銘じている今日この頃です。


  「決断を 勢い余って するなかれ 相談すれば 必ずいい智恵」

  「右左 前か後ろか それぞれに 道を選んで ここまでやっと」

  「酒に酔い 要らぬ失敗 したゆえに 酒をきっぱり 止めて元断つ」

  「流行に 乗っていいこと 悪いこと 不易原則 いとも簡単」

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