人間牧場

〇小さな親切

 もうかれこれ25年前、私が双海町役場でまちづくりを担当していた頃、町の発展のため海を埋め立ててふたみシーサイド公園を造りました。「こんなもの造って赤字になったらどうするのか?」と議会である議員に質問され、町長に代わって答弁に立った課長以外課員のいない、たった一人だけの日本で一番小さな課の地域振興課長だった私は、「赤い字になったら黒いボールペンで書きます」と答え、議員の逆鱗に触れました。

汚れが目立つ灘町海岸

 そのことをきっかけに孤軍奮闘し、役場を退職するまでの12年間、県外に出張で出かけている日以外は一日も休むことなく早起きし、朝5時から役場に登庁する前の約3時間、毎朝海岸や公園内の掃除をしました。冬の海は荒れて海岸に漂着するモバやゴミは半端な量ではなく、雪のちらつく朝なお暗い砂浜での清掃でも大汗をかくほどでした。その疲労がたたって胆のうにポリープができ摘出手術で13キロも激やせしたりもしましたが、12年間は赤字になることもなく黒字5パーセントの配当を続け、ピーク時には55万人の集客を誇る県下屈指の観光スポットとなりました。

 25年間年を重ね塩害による老朽化した施設を再生しようと、現在リニュアール工事が行われていますが、砂浜の清掃回復は遅々として進まず、特に灘町海岸砂浜は管理の所在があいまいで、先日来の風波で漂着ゴミが散乱していて美観を損ねています。25年前のオープン時に創業した漁協女性部のじゃこ天のお店は、リニュアール工事を機に灘町集会所横に仮店舗を構えて営業を続けていますが、その前の広場に穴ポコガが出来ているのが訪れる度に気になっていて、先日軽四トラックに一輪車を積み込んで出かけ、海岸の砂を運んで穴ポコを埋めました。

 また進入路入り口付近の早曲がり解消のため、オイル缶に穴を開け砂を入れて置いてみましたが、結果はどうなることやら少し心配です。近々草刈り機を持ち込んで草刈りをしたり、掃除をしようと思っています。これも私にできるボランティアとしての小さな親切運動です。小さな親切大きなお世話でしょうが・・・。

「灘町の 海岸砂浜 先日の 風波がゴミや 流木持参」

「灘町の 広場穴ポコ 砂入れる 一輪車にて 少し汗かく」

「砂浜の 掃除は誰が するのだろう? 気がつく私 心が動く」

「砂浜は みんなの物だ 綺麗すりゃ 汚さなくなる 掃除の鉄則」

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人間牧場

〇えっ、これマンモスの象牙?

 先日元漁師をしていた93歳の叔父の家を訪ねた折、無造作に庭の隅に置いているガラクタの中に、何やら牡蠣殻のついた石のようなものを見つけました。聞けば操業中網にかかった物らしいのですが、本人は最近終活や断捨離に凝っていて、こんなガラクタは捨てるのだというのです。

マンモスの象牙と思われる貴重な拾得物

「捨てるのならください」と言うと、「こんなもの何にする?」と言われたので、「磨いて親父の造った海の資料館に展示する」と返すと、「どうぞどうぞ」と快くくれました。早速持ち帰り、丹念に水洗いして陰干ししました。素人である私の鑑定なので当てにはできませんが、この石にも似た黒い物体はどうやらマンモスの象牙?ではないかと思われるのです。

 わが家の海の資料館には既に親父が漁師をしていた頃、網にかかって引き揚げられたマンモスの象牙や足の骨、臼歯などが展示されていて、今回いただいた物体もどうやらその類のようなのです。マンモスの体の一部が何故瀬戸内海で見つかるのか、これも素人ながらかつて地殻変動が起きて瀬戸内海ができるまで四国は大陸と陸続きだっようで、その頃生息していたマンモスの骨が同じような場所から沢山網にかかって揚がってくるのです。

 考古学的にはとても貴重な千金に値すると思われる遺物ですが、知らない漁師さんにとってはまさに猫に小判と言ったところです。瀬戸内海はかつて交易船が行き交った塩の道でもあり、船が沈没したり、様々な戦の遺物も沈んでいて、一度瀬戸内海の海水を全て排水して調べると、とんでもないお宝があるのかも知れません。そんなことは考えても出来ないゆえに、またロマンを掻き立てるのです。今回は偶然にも貴重でラッキーな拾得物を手に入れることができました。

「元漁師 倉庫の前に 無造作に 捨てるつもりで 置いてた遺物」

「これおくれ 何にするのと 不思議がる 捨てるつもりと 言っていただく」

「この遺物 素人ながら 鑑定団 どうやらマンモス 象牙のようだ」

「小躍りし 丁寧洗い 磨きかけ 早速展示 やったやったぞ」

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人間牧場

〇双海は南予でしょうか?

 昨日何気なくfacebookを見ていると、すっかりお馴染みとなった下灘駅のプラットホーム写真が紹介されていました。愛媛県系の作成した観光パンフレットなのですが、そこには「南予」という文字がしっかりと書かれていました。一般の人が間違うことはよくあることだし、「中予」が「南予」に間違われたからと言って特別目くじらを立てることもありませんが、官公庁などが発行するものは広く拡散するので、市役所などを通じて連絡し手直しをした方がいいようにも思いました。

南予と書かれている下灘駅を紹介したパンフレット

 双海町は「中予」ながら、いつも「南予」に間違われます。選挙区もこれまで行政のご都合数合わせ主義で何度も「中予」や「南予」に、まるで猫の目のように変り、今は「南予」の選挙区となっています。けれど「南予博」などは「中予」とみなされ仲間に加われませんでした。元大洲藩という歴史が物語るのか、言葉も風習も「南予」的で、多くの人が「南予」からお嫁に来ていて、特に下灘地区の人は今でも大洲などの経済圏となって日々暮らしているようです。

 70市町村だった17年前まで伊予郡双海町は、喜多郡長浜町と隣接し、川の上に駅のあるJR喜多灘駅は、駅舎が長浜、プラットホームが双海という珍しい郡境の駅なのです。今は合併して伊予市と大洲市の境となりましたが、今でも変わることなく伊予市双海町は「中予」、大洲市長浜町は「南予」なのです。間もなく喜多灘駅のプラットホームに植えている桜が咲き始めます。「ここは中予でしょうか?南予でしょうか?」、そんなクイズめいた気持ちで、桜の花を愛でるのも一考です。

「お馴染みと なった下灘 駅風景 パンフレットに 南予と書かれ」

「下灘の 駅ははたして 南予なの? 間違い手直し 気づかないのか」

「これまでも 選挙の度に 中~南予 行ったり来たり 翻弄されて」

「目くじらを 立てることなど ないものと 首をかしげる 程度の反応」

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人間牧場

〇可哀そうな窓に激突したメジロ

 このところの陽気に誘われて、庭に咲いた梅や山茶花の花には蜜を吸うため、メジロやその他の野鳥がやって来て、忙しそうに木々の間をくぐりながら遊んでいます。私たちのダイニングからは裏庭のそんな様子が手に取るように見え、居ながらにして野鳥観察ができこの上ない幸せです。

透明の窓に激突したメジロ

 ところが3日前、その中の一匹のメジロが、隠居家の縁側の縁台に横になって虫の息ならぬ鳥の息で倒れているのを見つけました。これまでにも何度か目にしている光景なので、大方の予想では透明のガラス戸に映る景色を外と勘違いして激突したようでした。息子が見つけ孫たちも心配そうに見ていましたが、そっと見守り続けていたものの、死んでしまいました。

 メジロはその名の通り、目の周りが白いので、いつまでも目を回したようにみえましたが、こんな時はいつも土に埋めて葬るので、畑の隅に穴を掘って埋めてやりました。メジロのうぐいす色の羽根は何とも美しい姿でした。鳥の世界も人間と同じのようで、つがいと思われるもう一匹のメジロは死を悼むのか、その場を離れようとしませんでした。

 前の日私が、隠居の掃き出し窓を綺麗に拭き掃除し、中の障子戸を開けたままにしていたため、どうやらメジロは透明のガラス戸の向こうに自然の空間があるものと勘違いしたようなのです。仕方のないことでしょうが、多少心が痛みました。

「このところ 陽気誘われ 野鳥たち 梅や山茶花 蜜吸いに来る」

「ダイニング 窓越し見える 裏庭の 野鳥見ながら 食事贅沢」

「前の日に 隠居のガラス 窓拭いた 野鳥激突 死んでしまった」

「畑隅 穴掘りメジロ 埋めてやる つがい一匹 悲しそう鳴く」

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人間牧場

〇竹製吊り篭

 いつの頃からかは定かではありませんが、プラスチック製品が出回るようになり、私たちの身の回りの暮らしは随分便利になりました。傷んだり壊れたりすれば安価なため代替品を買うといった使い捨て時代を反映して、ゴミ収集場所には毎日のように沢山のプラスチック製品がゴミとして出されています。

懐かしい竹製の吊し籠

 私たちが子どもの頃は家庭用品として竹製藁製の籠がそこここにありました。今は見ようとしても見れないほど激減して、特に竹製の籠類は東南アジアの国々から輸入さてている物が多いようです。昨日親類の漁師をしていた叔父が、棄てる予定で外に出していた竹製の吊り篭を2つ貰い受けて持ち帰りました。

 私が子どもの頃、学校に行く通学路には下駄屋さんとか桶屋さんなどの店が並んでいて、店の中からご主人が器用に独特な道具を使って下駄や桶を作っていました。その見事な腕さばきに見とれたものでしたが、時折やって来るお客さんがお金を払うと、天井から吊り下げた竹製の吊り篭から釣銭を取り出して渡していました。このお店にはレジも金庫もなく、吊り篭が唯一の金庫替わりだったのです。

 また、夏になるとばあちゃんは吊り篭の中に布巾を敷いた上に炊いたご飯を盛り、その上に布巾をかけて天井から吊り下げていました。冷蔵庫や保温ジャーのなかった頃は、ご飯が高温で腐らないよう工夫をしていたのです。また夏になると冷蔵庫がなかったので、吊り篭に色々な物を入れ、涼しい井戸に宙吊りもしていました。

 貰い受けた吊り篭は、私たち現代人は真似ができないほど精巧に竹を編んで作っていて、昔の人の手仕事に感心しながらシュロ製のたわしで丁寧に水洗いし、天日に干して乾かしました。この竹製の吊り篭は海の資料館海舟館の展示品として大切に保存する予定です。

「何時ごろか 定かでないが 竹製の 籠に代わって プラスチックが」

「子ども頃 通学途中の あちこちに 桶屋や下駄屋 あった記憶が」

「下駄屋さん 天井吊るした 竹の籠 金庫替わりに 使っていたっけ」

「懐かしい ただそれだけで 消えて行く 便利だけれど 寂しい気持ち」

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人間牧場

〇人間牧場春の訪れ四題

①人間牧場に植えている河津桜がこのところの陽気で咲き始めました。今のところ7分咲きといったところです。

 ②人間牧場にはイノシシ、ハクビシン、カラスなどの有害鳥獣が出没し農作物に悪戯しますが、キツツキも出没し水平線の家やロケ風呂の外壁は突かれて穴だらけの被害に遭っています。

 ③人間牧場に、植えた記憶がないのに、甘夏柑の木が自然に生えて、毎年沢山の実をつけています。今年も沢山なっています。オーガニックなので、マーマレードに加工する予定です。

④人間牧場梅林の梅の花が満開です。眼下に広がる伊予灘の海、豊田漁港の遠望、どちらも綺麗です。

「牧場に 待ちに待ってた 春が来た 河津桜の 花はピンクに」

「キツツキの 被害に遭った 外壁は 穴がいっぱい どうしようもなく」

「甘夏柑 植えた記憶は ありません 今年も沢山 実をつけました」

「愛でる人 ないけど梅越し 伊予灘の 海や港の 遠望綺麗」 

 

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人間牧場

〇冬と春が同居する人間牧場界隈

 高松地方気象台は、例年より7日遅れながら四国地方に春一番が吹いたと昨日の新聞で発表がありました。いよいよ春本番と言いたいところですが、標高130mの瀬戸内海を見下ろす高台にある人間牧場はまだ余寒が残っていて、おもしろ大作戦でジャガイモ植えを行った一昨日は、水平線の家のウッドデッキには白い積雪が印象的に残っていました。

うっすらと雪化粧したウッドデッキ
室内から見えるウッドデッキの積雪も趣きがあります

 ジャガイモを植えるべく下の畑に降りようとすると、ロケーション風呂の屋根に這わした水道管から水が零れていました。どうやらここ2~3日の寒波で水道管の水が凍って破裂し漏水しているようでした。被覆した保温材を手鋸で破り様子を確認しましたが、接手が抜けていたので無理やり押し込み、ビニール紐でしっかりと固定しとりあえず応急手当をしたので、近日中に手直し修理をしたいと思っています。

間もなく満開を迎える河津桜
咲き始めた河津桜

 ピザ窯横には河津桜、倉庫横にと水平線の家横には枝垂桜を植えていますが、枝垂桜の蕾はまだ固いものの、河津桜は既に何輪か咲き始めていて木全体がピンクに染まり、このところの陽気で間もなく満開を迎えるものと思われます。これ等の桜は千本桜の森事業として私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが、県内10カ所に苗木を植えた千本の桜の標準木なので、間もなく県内のあちこちを彩るはずだと思いを馳せました。

 名残の冬と迎える春が同居する人間牧場界隈ですが、誰に愛でられたり誉められたりすることもなく、ひっそりと咲く梅林の梅も満開となり、いよいよ16年目の春本番を迎えようとしています。今年も忙しくなりそうです。

「よく見ると ウッドデッキに 積雪が 晩冬風景 これも趣き」

「よく見ると 水道破裂 漏水が 応急修理 いつものように」

「よく見ると 河津桜の 花が咲く 間もなく満開 今から楽しみ」

「よく見ると 牧場あちこち 既に春 ツワブキ新芽 顔を覗かせ」

 

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人間牧場

〇里山へのクヌギの苗植林

 4~5年前、小さいながら里山運動なる発想を思いつき、ドングリを拾いに行って持ち帰り、発泡スチロールのトロ箱で発芽させ、2年後に移植して畑で2年間苗に育てました。一方「港の見える丘」と名付けた荒れ放題だったわが家の放任園に分け入り、悪戦苦闘しながら伐開伐根開墾も同時進行していました。昨日は子ども教室の子どもたちや大人がじゃがいもを植えるプログラムに便乗して、協力参加してもらい、前日雪の中で掘り上げたクヌギの苗木を植えてもらいました。

港の見える丘の眺望
クヌギの苗を植える場所へ竹棒を立てて穴掘り
クヌギの苗木植え
クヌギの苗木植え
大人も斜面に挑みました
植え終わったクヌギの苗木

 みんながじゃがいも植えを終えている間に、息子と浜田さんと私の3人は、港の見える丘まで下りて植林予定の土地に棒縄を張って、ああでもないこうでもないと言いながら、約2m間隔で用意した竹棒を立てて行き、スコップや地堀鍬で穴を掘りました。やがてジャガイモ作業を終えた子どもたちが歩いて下山してきました。里山に何故落葉樹のクヌギの木の苗を植えるのか、理念を分かりやすく子どもたちに説明してやりました。

 早速植え方の説明をした後、約60本の苗をみんなが協力して植えました。既に昨年試験的に植えたクヌギの苗木5~6も順調に育っていて、成長が楽しみです。これからは年2回程度生えるであろう草の下刈りをしなければなりませんが、これも想定内の山仕事です。クヌギの木は成長が早く、順調に育てば10年後にはクヌギの木は⇨林となり⇨森となる予定です。植えた木が全て順調に育つとは思いませんが、しっかり世話をしたいと思っています。

 何年か前友人にこの話をしたところ、「あんた何年生きるつもり?。夢みたいなことを考えず、もっと別のことをしたらどう?」と大笑いをされました。確かに友人の言う通り私は現在76歳の後期高齢者ですから、生きていれば10年後には86歳になる予定です。でも私の持論である「播かない種は生えない、植えない木は育たない」のですから、SDGsの自分でできるささやかな実践として、挑戦しているのです。10年後、育ったクヌギの森に巣づくるであろうカブトムシやクワガタを採集したり、木を切ってシイタケの植菌をしたりして、みんなで大いに楽しみたいものです。二宮尊徳翁の言う「積小為大」を実践しようとしている今日この頃です。

「ドングリを 蒔いて苗木が やっとでき やっと植林 漕ぎつけました」

「なんぼまで? あんた生きるの 笑われた それでも里山 クヌギの植林」

「10年後 木は林となり やがて森 甘くはないが 夢を描いて」

「尊徳の 積小為大 実践す SDGs ささやか挑戦」  

 

 

 

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人間牧場

〇やる気を出させる魔法の言葉

 中学1年生になった内孫希心は昨日まで期末テストだったようで、日頃より少し早く学校から帰り、少し長めの試験勉強をしていたようです。希心も小学5年生の内孫奏心も他所の子どものような勉強部屋はなく、しかも勉強机は息子がどこかの学校で使っていて、要らなくなったスチール製の勉強机を貰って来てダイニングの窓辺に置いた、何とも粗末な勉強環境なのです。

 私が子どもの頃は、みかん箱を勉強机にしていたことを思うと、スチール机があるだけでも素晴らしいことだと思いますが、これも息子夫婦の子育て方針だと思い、口を出すこともなく現在に至っていまが、孫の机の上に「人生はかけ算だ、どんなにチャンスがあっても、君が『ゼロ」なら意味がない」と書かれたしわくちゃな一枚の紙きれを見つけました。多分先生が子どもたちへの啓発のために配ったものと思われます。

 算数的には1×0=0,100×0=0で、知識やチャンスがいくらあっても自分がゼロのままでは何も変わらないのです。この言葉を見て孫希心がどれほど触発されたかは疑問ですが、私はこれまで人生の折々において色々な言葉に出会い、言霊とも思える言葉に励まされて生きてきました。多分これからもそんな人生を歩むものと思われます。

 

 私が町を二分するような町名変更騒動の責任を取って他課へ異動させられた時、私の沈んだ心情を慮った恩人は、「ぼうふらも 人を刺すよな蚊になるまでは 泥水すすって浮き沈み」という言葉を贈ってくれました。挫折しそうな気持がこの言葉によって吹っ切れた私は見事に立ち直り、人から見ればそれなりですが自分の生き方を見つけ出し、今日までの人生をポジティブに生きてきました。昨日も「人生はかけ算」といういい言葉を孫の何気なく机の上に置かれていた紙切れから教えられました。

「内孫の 机の上に 置いていた 魔法の言葉 なるほど納得」

「人生は あれこれ悩み あるものだ ポジティブ生きる 切り替え大事」

「そう言えば 私も若い ころ聞いた 言葉きっかけ 強く生きれた」

「人生は かけ算ですと 説いている 自分ゼロだと 答えもゼロに」

 

 

 

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人間牧場

〇小さな読売新聞の記事

 私は長年地域づくりに関わっていることもあって、その時々に新聞や雑誌、テレビやラジオに、表現はよくありませんが嫌というほど登場しています。その度に色々な記者やディレクターが取材に訪れ、極めつけは「日本の課長」というタイトルの本に、日本一小さなたった一人だけの課の課長として、直木賞作家重松清さんまで取材にやって来ました。

梁でついたほどの見落としそうな新聞記事

 16年前現職を退職して第一線から退いてからも、あれこれとマスコミに取り上げられ、先日はラジオ向きの顔よろしく、NHKラジオにも出演しました。今年は愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、アメリカの原子力潜水艦と衝突した事故から20年ということもあって、読売新聞社の記者がわが家へ取材に見えられました。私が初代愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海に出かけたのはもうかれこれ60年も前のことですが、事故で沈没した船は4代目のえひめ丸で、現在は5代目の実習船です。

 取材目的は卒業生として事故のことをどう思うかという簡単な質問でした。普通取材をすれば載る載らないは別として、掲載した新聞くらいは送ってくれてもいいのにと思いながら、そのことすらすっかり忘れていた一昨日、若嫁が勤める実家の喫茶店に足繁く通てくれているお客さんが、「お父さんが新聞に載っていた」と、わざわざ新聞を届けてくれたと言って、持ち帰ってくれました。

 たった5~6行の見落としそうな記事には「初代えひめ丸(正式には初代の船は漢字で愛媛丸)に乗り組んだ若松進一さん(76歳)=写真=は「語り継ぐ難しさはあっても、歴史の一つとして、後輩に伝えていきたい」。~後略~と書かれていました。取るに足らない小さな記事ですが、私の人生にとっては特別意味のある出来事として、記憶と記録にとどめています。特に20年前の2月10日は250人が列席してくれて、私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティーの日だったので、忘れることはできません。

「新聞や 雑誌に時々 載るけれど 今回記事は えひめ丸関連」

「卒業生 故に心が 痛みます 毎年事故日 思い出される」

「20年 あっという間に 過ぎ去った 今さらながら 時の流れは」

「忘れない 出版記念 パーティー日 員が重なり 思い出多く」

 

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