人間牧場

〇広島県福山市内海町からの視察研修(その2)

 視察日にこの日を選んだ相手が幸運な団体だったのか、その日を受け入れた私が幸運者だったのか、まあどっちでもいいことですが、前日も雨、今日も雨の目まぐるしく変わる昨今の天気のことを考えると、昨日はラッキーにも風もなく穏やかな好天の一日でした。
 研修に来た人たちを何処へ連れて行くかは、相手と時間、季節によって直感で決めますが、昨日の振り出しは翠小学校を選びました。学校は日曜日にも関わらず催しがあったのか、運動場は開いたままだったので、事後承諾の形で運動場から校舎を見学する程度の見学をさせてもらいました。12mの最も大型なバスだったため、運転手さんは苦労されていたようですが、車内からグリーンツーリズムやピザ釜についても説明をさせてもらいました。

菜の花畑にて
菜の花畑にて

 その後シーサイドを越えて、閏住の菜の花畑へ向かいました。この時期は菜の花が見ごろを迎えていますが、昨日は椿さんの影響なのか見学者が余りなくて、記念写真を撮影したりしながら、のんびりゆったり見学することができました。また時間がないので次の機会にしたしもなだ水仙畑はコミセン裏のバスの中からの見学となってしまいました。
 内海町も場所や方向こそ違え同じ瀬戸内海側に位置していますが、内海町が遠浅汽水域を利用した海苔の産地であるのに対し、わが双海町は小石の浜が広がる伊予灘に面した波の荒い漁船漁業が主体の町なので、風土も気質も根本的に違うのです。それでも菜の花や水仙が辺り一面咲き誇る綺麗な町を見て、皆さんは感心しきりでした。多分昔私が旅先で私の町の汚さを感じた、異文化ギャップのような感じ方を持たれたようでした。まさにこれぞ視察研修の最大の研修成果なのかも知れません。

恋人岬にて
恋人岬にて

 レストラン夕浜館で刺身、天ぷら、マナガツオの煮付け、シラスの釜揚げ、鯛めしなど豪華な昼食をいただきました。昼食後注文していたじゃこ天ができるまで、シーサイド公園を揃って散策し、多いに盛り上がった話をしました。
 午後一行は内子町へ向かいました。双海町に来たついでに内子町へ行くのか、内子町へ来たついでに双海町へ立ち寄ったのかは、聞いてないので不明です。でもどちらにせよ、わが町に来た人たちを心を込めてもてなせばいいのです。漁協女性部の松本洋子部長さんは、同じ海の名前のついた町からお客様である上、私の紹介ということもあって、ラブじゃこ天をサービスしてくれたり、バスの運転手さんにお土産を持たせたり、また丁寧な笑顔のお見送りをしてくれました。いやはやいい交流会でした。

  「隣来た ついでに来たか 分からぬが 真心込めて お世話しました」

  「花を見て 怒る人など いるものか 菜花・水仙 思わず笑顔」

  「ああ今日も 楽しかったと 喜んで 出会いし人の 顔を浮かべて」

  「二十年 近く商売 していると 漁協のおばちゃん しっかりコツを」

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人間牧場

〇郡中いっぷく亭の歌のCDをいただきました

 先日郡中いっぷく亭で、私の小噺講演会が催された折、お世話役の谷岡和美さんから「郡中いっぷく亭の歌」という、わりとしっかりした市販用ケースに入ったCDとDVDを、それぞれ一枚ずついたいて帰りました。私は根っからの自称アナログ人間なので、各方面からいただいたCDやDVDも、最低必要なものしか利用しないため、机の横の書棚と引き出しに入れたままのものが、まるで宝の持ち腐れのようにうず高く積まれていて、「いずれ暇でもできたら、整理をしたり見たり聞いたりして見たいと思うのですが、退職して自由人になって8年だというのに、その夢は実現の糸口さえつかめないでいるのです。ゆえにこの夢は見果てぬ夢として、いずれプラスチックごみという運命をたどるのかも知れないと思うと、少々憂鬱になったりするのです。

CD表紙
CD表紙

 谷岡さんからいただいて帰った2枚のCDとDVDも、本当に失礼ながらこの一週間机の隅に置きっぱなしだったのです。今朝嫁が「お父さん昨日の手紙類です」と書斎へ運んでくれた手紙類の中に、谷岡和美さんからの便りが入っていました。そういえば私へのメールに「あなたの映像がボケていたので、手直しして送ります」と、丁寧なメールが入っていたのを思い出しました。この一週間風邪で今一な体調だったため、全てが上の空で、いっぷく亭での小噺講演会もうっかり忘れるところをでした。そのことについては、ありのままの身上を吐露しお断りをしましたが、またまたうっかりしてお断りをしなければならなかったようでした。

CD歌詞カード
CD歌詞カード

 やばいと思い、以前に貰ったものも封を開け、「♭ちょっとおよりんか」と、「♭ありがとう」の歌詞カードや表紙をスキャナーで取り込みました。そして机の上のパソコンに今回送ってもらったDVDを挿入して見たり聞いたりしました。前回講演会場で粗方は見ていましたが、今晩は書斎で一人椅子に身を任せながらのんびりとした気持ちで聞かせてもらいました。
 私も「双海音頭」や「双海恋歌」、「双海町紹介ビデオ」など数多くの仕事を遊び半分で手掛けましたが、歌ができるまでの水面下の作業はかなりの労力がいるものなのです。谷岡さんはご主人が私と同年代ですが、音楽に詳しいしパソコンだって使いこなせるし、私の不得意なものを全てクリアーしている素晴らしいい人です。向学心は私と同じくらい(笑い)かも知れませんが、レベルもセンスも梯子段のの上と下ほど違うのです。伊予市と合併したお陰で、いい人たちと出会い、同じ市民となりました。

  「CDと DVDを いただいた 今夜しみじみ 一人聞き入る」

  「アナログな 人間自称 私には 進む文明 ついても行けず」

  「作詞まで できるあの人 何歳か? 詮索よそう 相手に失礼」

  「世の中にゃ 達人と呼ぶ 人あり手 一歩前行く 羨ましいな」

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人間牧場

〇同じ敷地内に住みながら

 わが家は親父・私たち夫婦・息子夫婦・孫二人と、今時珍しい大家族なのです。同じ敷地内にある別棟隠居に住む、94歳の親父を除けば、後の六人は同じ屋根の下に住んでいますが、息子家族とは食事も別だし、建築設計の仕事をしている息子等は、帰宅も深夜になることが殆どで、同じ屋根の下に住んでいるといいながら、顔をあわせるのは朝飯頃だけなのです。

 最近孫たちが、通う保育園から頻繁に風邪を貰って来るものですから、極力孫に近づかないよう注意をされていましたが、ついに私にうつってしまいました。この4~5日は逆に孫たちが私に接触することを極力避けているため、孫たちとの接触は朝のあいさつと風呂に入って二階に上がる時「お休みなさい」というあいさつ程度で、怪獣ごっこや雑談さえもできず、育爺の出番などどこにもないのです。ああ嘆かわしや大家族といったところです。

 そんなこともあって、親父にだけは命取りになりかねない風邪をうつしてはいけないと、家族全員が気を使っているため、親父と接触するのは唯一、夕食を作って運んでいる妻だけなのです。そのことが気になるのか親父は妻に、「進一はどうしているのか」とか一心は昨晩も帰りが遅かったようだが」とか盛んに消息を聞いているようですが、「「進一さんも風邪を引いているので、爺ちゃんにうつしたら大変と、隠居へ来るのを遠慮している」と、説明はしているものの、私の顔が見えないのはやはり寂しいようでした。

 家族とは、親子とは、夫婦とは、一家団欒とは、風邪を引いたこの4~5日養生しながら色々なことを考えさせられました。早く風邪を治して親父の隠居へ顔を出し、話し相手になってやらねばと思いを新たにしました。今日は少し気分が快方に向かい身体も軽くなったようなので、余り無理をしない程度のウォーキングをやってみました。今日から伊予路に春を呼ぶといわれる椿さんも始まったようで、道沿いの斜面にはユリ根の新芽が幾つも顔を覗かせていました。もうすぐ春ですね。

  「大家族 同じ敷地に 住みながら 暮らし別々 出会い少なく」

  「一週間 親父の顔を 見ないため 親父気がかり 私気がかり」

  「年寄りにゃ 風邪と骨折 命取り 本人わきまえ 近寄るべからず」

  「春を呼ぶ 椿祭りも 始まって 道沿い斜面 ユリ根新芽を」

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人間牧場

〇占いを信じましょうか!

 毎日1万歩を目指して歩いていた私の携帯電話内臓の万歩計が、13日から1万歩はおろか1千歩にも満たない数字になってしまいました。原因は簡単で風邪による、妻からのきつい外出禁止令によるものです。私のように毎日の暮らしをリズミカルに暮らしていると、1万歩歩くというリズムが狂っただけで、食べられないし元気が出ないのです。運動と食欲は相対的なもので、運動量が少なくなると食欲も出てこず、妻が病院食のようなお粥等を作って食べさせてくれますが、熱のせいでしょうか、食べるもの全てが味がないのです。

 たかが風邪くらいと鷹を食っていたしっぺ返しを受けたのでしょう。昔から「風邪は万病の元」と言われるように、最近は治りにくい風邪もあるものですから、病院が嫌い、注射が嫌いとまるで子どものようにぐずる私に、妻は置き薬や栄養剤を織り交ぜて看病をしてくれていて、気分的にはやっと峠を越したかなといった感じです。年末から年始にかけてスケジュールが込み合い、多少オーバーワークのような感じもしていましたが、旅先での気分転換や持ち前のファイトで乗り切ってきました。

 「あなたは若そうに見え、若そうに振舞っているけど、来年は古希なのよ」と、妻から皮肉めいた言葉を言われています。人生50年や60年の短命な時代の言葉だと思っていましたが、いざ自分がその歳に近づくと、「古来稀なり」という70歳という年齢の重さにただただ驚くのです。
 友人の谷岡さんからメールで、「あなたの運勢において今年は注意をした方がいい。来年はまた運が上昇する」という忠告を受けました。今年さえ注意して過ごせば来年は運が開けるという、何とも楽しい占いですが、妻に話すと「今回の風邪はその兆候かもしれない」と脅されました。

 私は余り占いを信じないたちですが、23歳の時松山の銀天街を歩いていると、一人の易者さんに呼び止られました。断わる私を無理やり座らせ、私の手相や顔相などを見ながら、「あなたは病気をするかも知れない。将来教育の仕事につくかも知れない。26歳から運勢が開けるかも知れない」と告げられました。当時私は漁師をしていたので、そんなことあるものかと、「いい加減なことを言うな」とばかりに、易代千円を払ってふてぶてしくその場を去りました。
 驚いたことに26歳で大病を患い、そのことが元で転職して公務員となり、13年間教育委員会に勤め、最後は教育長まで勤めたのです。残念ながら運勢が開けたかどうかは疑問ですが、自己満足の範疇ながら言い得て妙な易者の眼力にただただ驚いています。谷岡さんの言うとおり本当に来年は運気上昇であって欲しいと、年甲斐もなく思うのもまた、占いのいいところでしょうか。

  「占いに よると今年は 自重して 熱にうなされ 頭ぐるぐる」

  「若い頃 街角易者 見抜いてた 信じるものか 言いつつ信じ」

  「来年は 運気上昇 するという 年甲斐もなく 淡い期待を」

  「歯車が かみ合わない日 続いてる 悶々しつつ 明日に期待を」

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人間牧場

〇私にもチョコレートが届きました

 今日は聖バレンタインデーとか、女性が男性にチョコレートを贈るようですが、初老の私のような人間にチョコレート等贈る人はいないと思いきや、手渡し、手紙同封等の方法で沢山のチョコレートが届き少々驚いています。妻も昨日職場の人に贈るため、チョコレートを買いに出かけたようですが、いやはや面白い風習が流行るものです。チョコレートを贈ってくれた人には義理チョコにせよお返しをしなければなりませんが、私にはそのことすら余り知らないのです。

 一番最初にいただいたのは、いっぷく亭で小噺を頼まれた折、谷岡和美さんから手渡しで貰いました。自宅へ帰ってみると大洲市田処の西田和子さんや、沢山の人から手紙に添えてチョコレートが届いていました。チョコレートもさることながら、こうして私の存在を覚えていてくれる人がいることは多きな喜びなのですが、女性から贈り物をされて悪い気はせず、「お父さん嬉しそうじゃねえ」と妻に冷やかされてしまいました。多分このお返しは妻に頼んで買ってきてもらわなければ、私は何にもできないのです。

 私は13年前に体の都合で酒を止めました。酒を止めると甘いものを欲しがる人が多いようですが、私は甘い物をそれ程食べないのです。ゆえにいただいたチョコレートを狙うのは、同居をしている孫たちです。チョコレートを目敏く見つけた孫たちは私の書斎へ頻繁にやって来るのです。昔パチンコをしてその景品にいっぱいのチョコレートを持ち帰った経験がありますが、虫歯が気になる若嫁は、孫たちにチョコレートを渡さないように言われてしまいました。ここでも孫の教育方針で私と若嫁はぶつかってしまいました。

  「義理チョコを 貰い喜ぶ 歳でなし だけどルンルン この日ばかりは」

  「義理チョコを 目敏く見つけ 孫たちが 私の書斎 立ち寄り渡す」

  「お父さん 虫歯になったら どうするの 若嫁注意 一本取られ」

  「感謝チョコ 書いた手紙が ほほえまし 今年が最後 毎年思う」

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〇いっぷく亭での小噺

 伊予市の商店街の中ほどに空き店舗を利用したいっぷく亭という施設があります。商業協同組合の徳本さんたちの発案で、気軽に立ち寄れれてお喋りができるようにしようと始めたようですが、この二年私は春夏秋冬と一年に四回、小噺を頼まれて出かけているのです。毎回超満員ですっかり顔見知りになった人たちを前に、小噺をするのですが、相手が同じなので毎回テーマを決めて90分聞いてもらっているのです。
 実は昨日、私はいっぷく亭に行くことをすっかり忘れて、人間牧場で農作業をしていました。汗をかいて寒気をもよおしたため、少し早めに自宅へ帰りました。帰るなり愛大付属中学校の副校長先生から、「資料を届けたいので明日の予定は?」と電話が入りました。書斎に置いているスケジュール表を見て「明日の午後2時自宅で」と約束をして、いっぷく亭での講演予定が入っていることに気がつきました。

二年間続いたいっぷく亭での小噺が終わりました
二年間続いたいっぷく亭での小噺が終わりました

 取るものもとりあえず農作業服からスーツに着替え、昼食も取らず車を走らせました。普通は毎回30分前に到着するため、「今日は来るのが遅いねえ」とみんなが噂していた所へ、何とか滑り込みセーフです。午後1時30分からの予定でしたが、5分前には全員が揃ったようなので、小噺を始めました。何の用意もなくそれから90分、口から出任せで喋るのですから私もいい加減な人間です。
 いっぷく亭に来る常連さんに混じって、目の不自由な方がご主人の押す車椅子に乗って毎回やって来て、最前列で熱心に聴いてくれています。これはもう小噺冥利に尽きる喜びで、その人のためにもしっかり話そうと心がけてきましたが、2年間続いたお楽しみ講演会も昨日が最後です。そう思うと妙に後ろ髪を引かれるような気がするのです。

 昨日は世話役の谷岡さんから、「いっぷく亭の歌」というDVDを2枚いただきました。中には「ちょっとおよりんか」と、「ありがとう」という歌が納められていますが、歌:ユッキー、作詞:谷岡和美、補作詞/作曲:冨士井建樹さんが関わってできた労作のようで、講演が始まる前みんなに披露されましたが、中々いい歌です。谷岡さんの娘さんが書いたイラストや墨字も何処となくほのぼのとしていました。
 昨日は帰宅後咳と熱が出て、どうやら風邪を引いてしまったようです。妻は温かい食事や薬を用意してくれ、居間のコタツに潜り込んで少しだけ昼寝をしてしまいました。妻の気配りにはいつものことながら感謝をしています。夕方かかってきた高知県馬路村の木下彰二さんから、「余り無理をしないように」と注意をされ、また木下さんから聞いた電話番号で、高知県の松崎さんにも電話を入れ、電話による交遊を暖めましたが、松崎さんにも同じような注意をされてしまいました。

  「講演を すっかり忘れ 慌てたが 何とか間に合い 事なきを得る」

  「不自由な 体をおして 車椅子 私の小噺 聴きに来てくれ」

  「この二年 あれやこれやを 小噺に 客席埋まり 賑やか笑い」

  「世の中にゃ 堪能な人 いるもので 作詞作曲 軽やかメロディー」

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人間牧場

〇お手玉とまちづくり人武田信之さん

 新居浜に住む私の友人武田信之さんから、日本お手玉の会本部発行の「たまちゃん通信」31号を送ってもらいました。私は武田さんから頼まれてお手玉の会の顧問をしていますが、一度は行って見たいと思いつつ、毎年スケジュールが重なり、お手玉の会の大会にまだ一度も参加したことがなく、心苦しく思っているのです。31号の左隅に【教育新聞】「円卓」という興味あるコラム記事が載っていたので紹介します。

たまちゃん通信31号
たまちゃん通信31号

 お手玉遊びは、いま教育・介護・医療など広い分野で注目されているが、その歴史は古代エジプト文明の時代に遡る。ポンペイの遺跡の壁画、トルコのアナトリア文明博物館のネオヒッタイト時代の石のレリーフに、お手玉遊びがある。日本では聖徳太子が使ったとされる水晶のお手玉「石名取玉」が、国立法隆寺博物館にある。日本でお手玉といえば、小豆を布で包んだものが一般的。だが、これらの資料では羊の骨が多い。道具は羊の骨、石など様々だが遊び方は世界共通。
  中でも、日本のお手玉は大きな特徴がある。それは、道具のお手玉が手作りであること。おばあちゃんが日ごろから端切れを蓄えておき、孫のためにお手玉を縫って与えた。そのとき、おばあちゃんが孫に、裁縫の基本を教え、礼儀作法や公衆道徳、昔話などを話して聞かせた。そういう交流がいま見られない。お手玉が注目される理由のひとつに、この世代交流の復活があげられる。
 日本のお手玉には、作った人のぬくもりが込められている。お手玉に触れることで、ぬくもりが手から心に伝わる温かさがある。お手玉遊びは、心と体のバランスをとる運動であり、前頭前野が働き脳の活性化にもつながる。また、テレビゲーム漬けによる脳への弊害の改善につながるといわれる。それらの効果に注目して、介護の場面や高齢者の間で、お手玉が見直され、痴呆症の改善や回想法としても評価が高い。心療内科では、うつ病やパニック障害の治療にお手玉を採用する研究が進んでいる。
 学校教育では、グループでお手玉遊びを一緒に楽しむことで、思いやりの心を育てることに役立っている。また、お手玉遊びは笑顔を伴い、生き生きした表情が見られ、年齢、性別、国境を越えて楽しむことができる。三千年を越える歴史の伝承遊びであり、人類に必要な要素を含んでいるはず。お手玉遊びをいま一度見直していただきたい。

 この記事は、武田信之さんが教育新聞の依頼により書いたもののようです。武田さんは新居浜のお手玉を日本や世界に広く紹介した功労者ですが、おごることなく謙虚にして今もその発展に努力しています。尊敬するまちづくり人の一人として、これまでにも多くのことを学ばせていただきましたが、今年こそは新居浜のお手玉大会を是非この目で見たいと思っています。

  「お手玉に こんな歴史と 効果あり 妻に頼んで 縫ってもらおう」

  「奥深き 文章読んで 極め人 さすがさすがと 顔を浮かべて」

  「お手玉を しながら聞いた わらべ歌 ばあちゃんの顔 思い出される」

  「痴呆気味 俺のリハビリ お手玉を 使って速度 遅らすように」

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〇あれから12年が経ちました

 昨日は忘れられない2月10日でした。12年前の2001年2月10日は私が「昇る夕日でまちづくり」という自著本の、出版記念パーティを南海放送本町会館で開いた日でしたが、たまたまその日、私の母校である愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船えひめ丸が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と、ハワイ沖で衝突し、500メートルの海深く沈み、尊い9人の命が亡くなったのです。沈んだえひめ丸は4代目の船でしたが、私は初代の愛媛丸に乗って18歳の時、オーストラリア近くの珊瑚海までマグロを追って、遠洋航海に出かけているのです。私の人生には色々な出来事がありましたが、とりわけ実習船愛媛丸での航海や、第10回総理府派遣青年の船で、建国200年のアメリカまで太平洋を渡った航海は、異文化ギャップの中で私の価値観を変えた大きな出来事だっただけに、えひめ丸の沈没は私の心に大きな衝撃を与えた事件だったのです。

 歴史は時代とともに風化するものですが、人はどうであれ私にとって2月10日は忘れることができない特別な日なのです。遺族にとっては忘れようにも忘れることのできない悲しい日でしょうが、私の知る限り私と同じようにこの日を特別な日と思っている人がもう一人います。それは私と同じ初代の愛媛丸に乗って遠洋航海に出かけた経験を持つ、大先輩の玉井恭介さんです。玉井さんは私の自著本を編集してくれた人で、水産高校で唯一今も交流している尊敬する人物です。玉井さんは絵も書けるし文章も書ける、プロデュースもできる、私など足元にも及ばない多芸マルチ人間で、かつて遺族や学校、行政等の間の難しい調整に奔走し、ハワイと宇和島に記念碑を造ったり、その後の慰霊や交流に陰ながら大きな足跡を残しているのです。鎮魂歌「希望海」の作詞も玉井さんの手によるものですが、深みの人と浅みの人とでは思いがかみ合わず、12年経って風化を感じる玉井さんの想いとは裏腹に、この史実が人々の心の中から次第に消えようとしていることは、返す返すも残念なことで、玉井さんの心を思うといつも胸が熱くなるのです。

自著本「昇る夕日でまちづくり」の一節
自著本「昇る夕日でまちづくり」の一節

 2月10日の前日の2月9日、私は旅先の大阪にいましたが、講演が終わってJR三田駅から大阪に向かう列車の中で、いつも木のカバンに忍ばせている、玉井さんが編集してくれた「昇る夕日でまちづくり」という本を取り出して、感慨深く再読しました。私の自著本の冒頭には若かった水産高校時代の私の顔写真と、初代愛媛丸の写真が載っているのです。私と玉井さんが多分死ぬまで、いや死んだ後も忘れないのは自分たちの旅立ちとなった初代愛媛丸のことなのです。
 玉井さんは私のようなたまにしか学校に訪れない無信心な人間と違って、事ある毎に学校の鎮魂碑を訪れ、周辺の掃除や祈りを欠かさずやっています。また自分が所属するコーラスグループで、「希望海」という歌も歌っているようです。
 玉井さんも私も次第に老いの坂道を下りつつありますが、五代目えひめ丸に長い航跡を引き継いでいる実習船の安全航海と、活躍を心から祈る一日となりました。折りしも昨日はその思い出を忘れないように開いたのか、忘れてしまったのか、8千人の人が参加してえひめマラソンが賑やかに開かれていました。勿論誰の口からもそのことには触れられなかったようで、少し寂しく思いました。

  「一口で 十二年と 言うけれど あの日あの時 ありあり思う」

  「日本に あなたのことを 忘れない 人がいること 忘れないでね」

  「希望海 口ずさみつつ 涙ぐむ 歴史は非情 記憶消しつつ」

  「旅先の 列車の中で 自著本を 取り出し読みつ 大阪向かう」

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人間牧場

〇国際ロータリー第2680地区阪神第3グループの式典に招かれて

 私は色々なところから講演に招かれて出かけますが、ゴングを鳴らしたり歌を歌ったりする会議の進め方が、ロータリーやライオンズ、青年会議所、倫理法人会などは、見まがうほどよく似ていると思うのです。各地のそうした団体の例会に招かれると、普通は卓話と称して短いと30分、長くても50分程度の講話をしますが、普通90分の話をしている私としては、少し短か過ぎて話にくいというのが正直なところです。
 さて今回はロータリークラブながら県外の、しかも幾つかのグループが共同で行なう集会に招かれました。そもそもの発端は昨年の3月24日、香川県小豆島にある無人島の小島で青年を対象にしたライラセミナーという、研修会に招かれたことがきっかけです。無人島といってもロータリークラブが持っている立派な研修施設ですが、近畿・中国・四国地方から多くの青年たちが集まっていました。私はそこで講演を頼まれ、大学の先生たちと同宿して楽しい話をしたのです。その後参加した青年たちからメールや手紙が届いたり、煙会所や人間牧場へも彼らは訪ねて来ました。

 そんなご縁と、運営に携わったロータリーの役員さんが私の話を聞いていて、今回のお声掛けとなったのです。まさに口コミ効果で、今垣さんというお偉い方から打診があり、一も二もなくお引き受けしたのです。前述の通り私はこれまでにもロータリーの集会には何度か出席しているので、いつものように気軽な気持ちでした。
 ところがいざ近づいて、プログラム案などが送られてくるようになると、少しだけ不安になりました。まず会場が兵庫県福知山沿線の三田市と遠い場所にあること、今回は250人程度集まる式典での講演であること、故に何を話せばいいのか少々戸惑どったことなどでした。加えて今年は県外での講演がやたらと多く、前日は会議ながら山口県へ出かけていて準備どころではなかったのです。ネットで三田のことを調べたり、チケットの手配をしたりして何とか間に合うことができました。

 さて、ロータリークラブといえば奉仕団体とはいえ、自己研鑽を積んだ立派な経営者が多く、その人たちの前でお話をして、感動や共感を与えることは不可能に近く、容易なことではありません。そのことを一番分かっているのは自分のはずなのに、身の程知らず、分相応もわきまえず壇上に立つのですから、何という無神経な人間でしょう。
 今回私が選んだテーマは「新しい発想で生きる」というタイトルでしたが、私は伊丹空港からJR伊丹駅まで出て、JRで三田の駅に降り立ちました。この日はとても肌寒く無料の送迎バスを50分も駅前の駐車場で待つ気にもならず、タクシーで20分ばかりのフラワー・フルーツパークへ向かいました。講演は3時からなので、1時に到着してから何するでもなくゆっくりと、控室でテレビを見ながら休憩しました。そして話しの構想を少し練ってメモをし、たったそれだけで話すのですからいい加減なものです。

 ロータリーで頭に浮かんだのは、私が船乗りの頃、私の持ち船若吉丸には30馬力のヤンマーディーゼルエンジンが座っていました。エンジンの勉強をするため漁師仲間3人で、尼崎にあるヤンマーディーゼル本社に1週間勉強に行きました。その時習ったエンジンはピストンが上下運動しながら吸気・燃焼・排気をくり返し、シャフトを回転させる仕組みを学びました。その後ロータリーエンジンが開発され、今は主流となっていますが、故に吸気や排気の必要性を忘れているような気きがしてならないのです。人間が動くためには食物エネルギーを注入しなければなりませんが、吸気で新しい酸素を送り込み、血液をサラサラにして排気で使ったものを排泄しなければ、健康な活動はできないのです。このことを少しお話ししましたが、さてさて私の真意は伝わったのでしょうか。式典終了後の懇親会で多くの人が、名刺交換に私の席までやって来ました。どうやら私の話は好意的に受け入れられたようでした。私はそれを見届けるように、懇親会を30分で切り上げ、迎えのタクシーで三田駅まで出て大阪に向かいました。

  「講演に 誘われ浅学 省みず 兵庫くんだり ノコノコ出かけ」

  「ロータリー 思い出すのは エンジンで 吸気・燃焼 排気なくんば」

  「別室で 裏紙余白 あれこれと 思いつくまま これで講演」

  「お世辞でも 良かったですと 名刺持ち 多くの人が わが席訪ね」

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人間牧場

〇またしても妻の怪我

 一昨日の夕方、松前幼稚園での金銭教育協議会を終えての帰り、馴染みの散髪屋さんに立ち寄り散髪をし、男前を上げて夕方自宅に帰りました。自宅に通じる細い露地道を車で入ると仕事から帰る途中の妻とばったり出会いました。二人が何時何分に帰ろうなんて相談した訳でもないのに、同じ時間に帰ってきた夫婦ならではの偶然に、思わずお互いが苦笑いしました。
 ところが妻の歩く姿がどうもおかしいのです。聞くと職場で躓いて転んで、先月痛めていたスネを怪我したらしく、顔をゆがめて歩いて帰ったようでした。早速近所のお医者さんに電話して看て貰うように頼み、妻を乗り降りに楽な軽四トラックの助手席に座らせ、早速診察に出かけました。

 医院は目と鼻の先にあるため、受付を済ませて順番を待ちました。季節柄インフルエンザが流行っているようで、子どもや大人が順番を待っていました。また高齢化が進んで腰やスネに痛みがある顔見知りの人たちも何人かいて、軽く会話を交わしました。
 妻はそのうち呼ばれて診察室に入りましたが、レントゲンや内出血の血を抜きヒアルロンサンの注射をしたようで、少し時間ががかりました。それでも何とか自分の足で歩けるようでした。近所の薬局で薬を貰い自宅に帰りましたが、怪我をしても親父や私の食事を作らなければならず、ダイニングに立っていました。悪いと思いつつ、料理のできない私は居間でテレビを見るだけの能力しかないのです。

 (この続きは、これから兵庫県へ出張するため出かけねばならず、明日帰宅後に書きますので悪しからずご容赦下さい)

 わが家で一番の痛手は妻が病気になることです。妻がいないと私など殆ど生きて行けないのではないかと思うほどで、さ(裁縫)・し(仕事)す(炊事)・せ(洗濯)・そ(掃除)は言うに及ばず、毎日コマネズミのように働いてくれているのです。勿論わが家の会計も一手に引き受け、安月給で火の車のわが家を、倒産することもなくしっかりと経営しているのです。
 歳をとるとただでさえヒザや腰が悪くなるのですが、今度で2度目の怪我は大したことがないよう祈っています。それにしても人間はいつ何時どんなことがあるか分かりません。無意識の内に一瞬の出来事で不幸が起こるのです。私も怪我のないよう注意をして、幸せに生きたいと思います。

  「私より 妻の力が 必要と 家族誰もが 認識しつつ」

  「ちょっとした 時間のズレで 怪我をする スネ・ヒザ故障 これから大変」

  「ちょっとだけ ずれていたなら こんなこと 起こらないのに 不幸突然」

  「知っている 注意一秒 標語だが 怪我が一生 ならなきゃいいが」

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