人間牧場

〇ジュニアリーダーの育成

 昨日は地域事務所内にある公民館の図書室で、子ども教室のジュニアリーダー5~6人で、小さな小さな集会をしました。中学生にとって土日は部活や塾通い、間近に迫った入試等何かと忙しいので、集まることすら難しいのですが、昨日は学校行事の関係で、たまたま振り替え休日だったため、呼びかけに応じ集まってくれたのです。
 協議内容は今後のジュニアリーダー会の予定や、年末に福島県から双海町へやって来る、絆プロジェクトの受け入れなどについてです。細々ながらこの2~3年ジュニアリーダーを育成する努力をしていますが、前述のように今の中学生たちには時間的余裕がないようです。
 それでもジュースを飲みながら、お茶を飲みながら話をすると、みんなワイワイガヤガヤ大いに話をして、こちらへ向いてくれました。

 何年か前、私が双海町最後の教育長をしていた折、「双海の子育て10の約束」というのを作りました。当時は斬新な取り組みが県内で大いに話題になりましたが、平成の合併のドサクサで、大きな効果を得るまでには至りませんでした。しかし心ある人たちはこれを覚えているし、由並小学校の校長室にはきちんと掲示がされているのです。
 これは大人の子育て規範モデルですが、願わくば双海の子ども規範モデルを作りたいと、常々思っているのです。そこでそのモデルのモデルにしたいと思っているのが、会津若松白虎隊の什の掟です。会津若松では藩士の子どもたち10人前後が集まって「什」という子ども会のような組織を作っていたのです。その原本を赤石公民館主事さんにお願いし、ネットで調べてもらっていました。

什の掟

 什の掟は十項目かと思いきや、数字の十ではなく漢字の什なのです。古い時代の教えゆえ、最後の「一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ」などは参考になりませんが、最後の締めの言葉「ならぬことはならぬものです」に強い意味が込められているようです。
 何年か前私は、地域づくり全国大会が佐賀県であった折、分科会で多久市へ行きました。多久市には孔子朝廟があって、子どもたちから大人までが、市を挙げて論語を勉強していました。「多久の雀は論語を語る」と言われるように、子どもの殆どが論語を暗記して、生活の中に役立てていて驚きました。
 会津や多久のような成果は得られなくても、双海町の子ども誰もが、決められたことを「ならぬことはならぬもの」と意識できたらいいと思いました。
 私はそんな思いはあっても、残念ながら今は無位無官なので、教育に挑戦するような大それたことはできませんが、せめて人間牧場で行っている子ども体験塾にやって来る子どもたちにだけでも、しっかりとした規範を教えてやりたいものだと思いました。

 昨日はジュニアリーダー会が終ってから、子どもたちを下灘まで送って行く車に同乗して下灘小学校へ行きました。前々日の「山の向うに何がある」という、子ども教室体験塾のウォーキングに、下灘小学校の教頭先生以下何人かの先生が参加していただいたので、そのお礼方々の訪問でした。職員室で皆さんを交えて楽しいお喋りをして帰りましたが、子育ては学校だけで出来るものではなく、家庭や社会、学校が相互補完してこそ成り立つものだと実感して帰りました。早速人間牧場での「什の掟」ならぬ「子どものまもり事」くらいを、来年春までに考えてみたいと思っています。

  「リーダーを 育てることは 大変と 思いながらも 手間暇かけて」

  「什掟 見本あれこれ 詮索す あれこれならぬ ことを考え」

  「とりあえず 人間牧場 集まりし 子どもに教え 広めて行こう」

  「子どもゆえ 言葉通じぬ もどかしさ ゆえにシンプル 思い巡らす」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇子ども教室体験塾(山の向うに何がある・その2)

 普通は峠を越えると隣町なのですが、峠を越えてしばらく歩いても双海町の領域は続きます。曲がりくねった山道をかなり長い距離下ると、法師という平家の落人が住み着いたという集落へ辿り着きました。集落といっても少し高い所にあるため、杉木立で見えないし今は住む人もなく、廃村となっているのです。川沿いに一軒セカンドハウスのような建物が建っていますが、誰が住んでいるのかも分からぬまま、矢落川にかかる橋の上で、私が少しだけ法師について故事来歴を立ち話でお話し、再び歩き始めました。

熊野神社に参拝

 

亀本さんと西田さんのお話を聞きました

そのうち伊予市双海町と大洲市田処の境界を越え、枝分かれの道にかかる橋を渡って川の右岸から左岸に位置を変え、水飲み場まで下りました。この水は天然水なの、で健康のために水を汲みに来る人が多いと聞きました。この日も何処かの見知らぬおじさんがペットボトルを何本も持参して、盛んに水を汲んでいました。私や数人も手で掬って水を飲ませていただきましたが、夏に飲んだときの冷たさはなく、外気温が冷たくなったこの頃は、少し温かく感じました。水を汲んでいた叔父さんの話によると、この水で炊いたご飯も、沸かしたお茶やコーヒーも、すこぶる美味しいと言っていました。

楽しかったレクリェーション

 手元の時計で所要時間を調べると、予想以上に早いペースで歩いたため、少し早く到着しそうなので、予定を変更し道沿い上にある、熊野神社に参拝することにしました。この神社ではほたる祭りの時、県指定の無形文化財である藤縄夜神楽が奉納される場所だし、大洲市指定天然記念物「かやの樹」の大木があるのです。参拝したりここで記念写真を撮ったりして時間調整し、田処集落にかかる二つの橋を相次いで渡り、目的地である田処小学校へ約2時間で到着しました。下り道が多いこともあって、私たちの歩いたスピードは時速4.2kmといったところで、多少足腰に張りを感じると訴えるものの、落伍者もなく全員元気で完歩したのです。

 活性化センターでは西田さんと亀本さんに出迎えて貰い中に入りましたが、打ち合わせどおり既に室内にはゴザと座布団が敷かれ、温かいストーブが5台入っていました。大杉年輪塾の徳田さんや堀内さんたちも応援に駆けつけ、私たちのために台所でドーナツ棒を揚げていました。トイレ休憩が終ると体育館内で、少しレクリェーションゲームをみんなでやりました。
 その後お願いしていた西田さんの話を聞きました。西田さんは元小学校の先生だけあって、田処の様子や遍歴を微細に分かりやすく話していただきましたが、私は前もって前日活性化センター前の駐車場まで持ってきておいた軽四トラックを運転して、足早に帰宅の途に着きました。一行はその後ストーブの周りで昼食弁当を食べ、迎えのバスで峠を越えてコミセンまで無事帰り散会したと、赤石公民館主事さんからお礼と報告の携帯電話が、私の講演先へ入りました。今回はいい企画でした。また天気もそれなりに持ち、スタッフも充実していて、思い出に残るプログラムとなりました。明くる日参加者の足腰は如何だったでしょうか?。

  「峠越え 山の向うに 何がある? ワイワイガヤガヤ お喋りしつつ」

  「歩く距離 8.4キロ 時速だと 4.1キロ 全員完歩」

  「有難や 友人たちが 集まって 一行歓待 涙出るほど」

  「お土産に 大きな柿を 二つずつ いただき帰る 見送り受けて」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇子ども教室体験塾「山の向うに何がある!」(その1)

 私が子どものころは、道路も未舗装の曲がりくねったでこぼこ道で、庶民の乗り物といえば、少し遠出は国鉄列車、近くは自転車程度でした。当然年に2回の遠足は近くと遠くを組み合わせ、歩いて行ける場所が選ばれていました。その一つが大きな山の峠をひとつ越した、柳沢村田処でした。当時は下灘小学校からほぼ直線的な往還道があって、みんなが一列になって峠まで汗をかきながら登り、峠からは少し早足になって歩いて山間の小さな田処小学校へ到着し、学校の廊下を借りて弁当を食べ、元来た道を少し足を引きずりながら再び歩いて帰った思い出は、この歳になった今でも鮮明に覚えているのです。

 あれから半世紀近くが経ちました。大人数だったわが母校下灘小学校校舎も耐震基準に合わず、二度目の新築工事始まりましたが、少子化の波が押し寄せて、人数は100人を大幅に超えて減り続け、子どものころ遠足で訪ねた田処小学校も、一昨年児童数の減少を理由に長い歴史にピリオドが打たれ閉校したのです。
 私は田処小学校の敷地内にある活性化センターと称する体育館へは講演等で度々招かれ、また年に一度は友人の西田和子さんや亀本幸三さんたちがやっているほたる祭りに、何人かの仲間を連れてほたるの見学に行っているため、知人や友人も多く、まるで親戚のような感じのする地域なのです。

 子ども教室のふるさと体験塾は、毎年ふるさとの山に登っています。昨年はわが町の明神山の高さがスカイツリーと同じ634mということもあって、明神山に登りましたが、今年は朝ヶ峠を越えて旧田処小学校まで歩く計画が持ち上がりました。2~3度準備のためキロ数を測りながら、車で下見をしましたが、既に往還道は草に埋もれて歩けないし、車道を歩くと子どもの体力ではきついと判断し、集合場所は下灘コミセンにしたものの、出発点は大洲と内子の枝分かれ付近にすることを決めました。
 昨日は北西の季節風が吹き荒れ、時折雨もぱらつくあいにくの天気でしたが、風邪や体調不良で休んだ子どもを除いた30人の子どもと、15人ほどのスタッフが元気にスタートしました。

 道案内人の私が先達を務め、一行は細長い一列になって歩きました。私は体力保持のために毎日裏山を1万歩歩いて健脚を保っているので、少しスピードを上げて歩きました。最後尾から少しスピードが速いと注文がつきましたが、構わずぐいぐい引っ張って歩きました。
 最初のチェックポイントの朝ヶ峠までは、眼下に荒れ狂ったような伊予灘の海が見え隠れし、名残の紅葉の下を、枯葉を踏みしめながら歩きました。山の中の道だし天気が悪かったため、通る車も殆どなく、距離を稼ぐため直線的に歩きました。参加者は朝の寒さに驚き、私を含めて誰もが厚着をしていましたが、朝ヶ峠前までの上り道で大汗をかいてしまいました。用意した飴玉を峠付近で配給し、そこからの下り坂は楽だけど、体温を奪われるので気をつけるように注意して、次のチェックポイント「法師」を目指しました。

  「遠い足 書いて遠足 近頃は そんな難儀を せずに近足」

  「タイトルは 山の向うに 何がある! キャッチフレーズ 久々ヒット」

  「着膨れて 山道歩く いい汗を かきつ峠で 海を振り向く」

  「風受けて 時雨れて行くか 峠道 幼な思い出 頭に浮かぶ」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇送られてきた詩集「雲のはなし」

 2~3日前友人の森原直子さんから一冊の詩集が送られてきました。森原さんとは私がえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしていた頃、2ヶ月に一度の運営委員会で出会う知的・美的に素敵な方でしたが、私がその職を辞してからは偶然の出会いと年賀状程度で音信が途絶えたかに見えました。ところが私のことをちゃんと覚えてくれていて自著本を贈呈してくれたのです。
 私は読書をする時巻末に書かれたあとがきから読む癖があって、今回も失礼ながら本を手にしてまずあとがきを読みました。

送られてきた森原直子さんの詩集「雲のはなし」

 「一歳半の孫娘は鏡に向かってはにかむように微笑む。写真の中の自分を指差して、満足げにうなずく。我が家の老犬は、飼い始めた頃、玄関の鏡の前でマーキングをして困った。私たちは、鏡の中の自分をいつ認識するのだろう。私が詩を書く行為は、それに似ている。自分を認識するために、書き続けて半世紀。歳月だけは降り積んでいる。
 今回の詩集は、なかなか形にならなかった。息子を亡くして十年、前に進めても進めても、必ず振り出しに戻ってしまう双六ゲームのように、あの日の悲しみに襲われる。自分を見失いそうになりながら、同人誌への寄稿は心のよりどころとしてあったように思う。今、この詩集は「雲のはなし」は、私の後半生のプロローグである、と感じている。
 時間をかけて、詩集の編集に関わってくださいました多くの方々に、感謝申し上げます。
                                      森原直子」

 直ぐに引き返すような気持ちで目次を拾い読みして、「遭遇」という84ページを開きました。

 

 

 「深夜 木枯らしが
  門扉の横にぶら下がった箒を
  揺らしていた
  塞ぐことのできない傷口を
  容赦なく打つように
  甲高い金属音が響いている
  小さな寝息をたてながら眠る
  赤ん坊だったきみに耳を近付け
  何度確かめただろう
  拳をかざし
  微風のような寝息を感じ
  何度 胸をなでおりしたことだろう
  今 音もなく眠る
  二十五歳になったきみの寝息は
  木枯らしにかき消され
  聞えてこない
  その寝息に
  触れることできない
     ※
  何をそんなに急いでいるのだろう
  十歳の夏
  私は忘れたリコーダーを取りに
  ぬかるんだあぜ道を
  家に帰る途中だった
  大きな楠の木の根方にある祠の前で
   見知らぬ少年に出会った
  楠の葉群が
  膨らんだガス気球のように揺れ
  弾むように駆け抜けていた足を止めた
  あれは 十歳のきみに違いなかった
  そして 未来の街角で
  あの子どもの日ように 忽然と
  わが子を抱き上げる未来のきみに
  出会いたい

 誌の前文に小さな文字で「推定 午前二時〇〇分 (急性心機能不全症) 息子の死亡診断書に書き込まれた監察医の文字 枕元に置かれた携帯電話には 十数件の着信履歴が記憶され 応答のない耳元に向かって くり返しメッセージが告げられていた」

 心の動きが見事に表現された「遭遇」という詩を読んで凡人の私でもただただ感傷し、言葉が見つかりませんでした。

  「先に逝く 息子を思う 胸の内 ただただ感傷 言葉もなくて」

  「短いが 故に余韻が 胸を打つ 久方ぶりに 詩人の詩を読む」

  「子を思う 母の思いは いかばかり われ父ゆえに 寂しくもあり」

  「逝ってから 十年過ぎても 生きている 母の思い出 思い出しつつ」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇双海史談会の忘年会

 双海町の歴史に興味がある人たちが集まって、双海史談会が生まれたのは7年前でした。伊予市・中山町・双海町の一市二町が合併して、新生伊予市が誕生することが決まった頃、双海町最後の教育長に就任した私は、当時の町長さんにお願いして、双海町誌改訂の予算をつけてもらいました。一千万円を超える資金調達もさることながら、合併までの時間的リミットが、二年足らずという余りにも短いために、当時の教育委員会は職員総動員で改訂作業に望まなければなりませんでした。幸い派遣社会教育主事の中尾さんが歴史に詳しかったり、米湊さんや松本さんという、今にして思えばビッグな気心の知れた職員がずらり揃っていて、また編纂委員には、これまた歴史に詳しい中嶋さん・戸田さん・東さん・磯田さんなど教育職員経験者がずらり顔を揃えていて、頼もしい存在として多いに執筆活動をしていただきました。

参加メンバーの集合写真
鍋を囲んだ楽しい語らい

編纂作業は毎週開かれるほど多忙を極めましたが、幸い編纂や印刷を請け負ったぎょうせいという出版会社に、藤山さんという双海町出身者が担当していたことも幸いし、皆さんの努力頑張りによって合併一ヶ月前に、念願の改訂版が出来上がったのでした。旧双海町誌をフェイスシートにすることができたこともあって、せかされてやった割にはそれなりのできばえだったと、時々調べ物をするためページをめくりながら、しみじみ懐かしい日々を思うのです。
 史談会のメンバーの殆どはその時関わった人たちですが、新たな会員も増えて20人を超えるメンバーが二ヶ月に一度の例会を繰り返していますが、昨日はその例会を始めて忘年会に切り替え、事務局長を務める中尾先生の叔母さんが経営している奥道後のそのまた奥の、草深い川の郷町にある竹山荘という温泉宿へ向かいました。

 竹山荘のご好意で片道1時間半もかけて送迎バスを手配してもらい、17人もの参加もあってちょっとした観光旅行のような雰囲気でした。夕暮れ時、双海地域事務所を午後5時15分に出発したため、松山市内で多少の交通渋滞に巻き込まれましたが、午後7時に予定通り到着し、猪鍋・キジ鍋・川魚料理に舌鼓を打ちながら約2時間久しぶりに楽しいひと時を過ごしました。
 他の人はカラオケも楽しんでいましたが、私を含めた何人かは温泉まで楽しみ、ホットな気分になりました。女将さんは高野川出身で、何十年ぶりかにお会いしましたが、私と同年代のため、私が双海町の青年団長をしていた頃の「若松の進ちゃん」をはっきり覚えていて、私も顔を思い出しながら懐かしい思い出に浸りました。
 私は今治へ行く折、奥道後・石手川ダムや日浦小学校を経て水ヶ峠を越えるこの道はよく利用するので、釣堀、川遊び、山菜なども楽しめる竹山荘へも再び立ち寄りたいと思い、パンフレットをいただいて帰りました。昨日は楽しい一夜、楽しい忘年会となりました。

  「二ヶ月に 一度開かる 史談会 忘年会を 竹山荘にて」

  「三十年 前の私を 進ちゃんと 名前覚えて 女将親しく」

  「山里の 温泉浸かり 瀬音聞く 時計止まった ような長閑さ」

  「この道は いつか来た道 思いつつ バスの窓外 なぞらえ走る」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇ソプラノ歌手二宮典子ディナーショー

 私にはこれまでの活動で知り合った、色々な知人や友人がいます。画家、建築家、作家、教授・教員、マスコミ記者、公務員、会社員、団体職員、農漁業者、ホテル業、運輸業、飲食業など、手と足の指を足しても数え切れないほどの業種と人数です。中にはいつもテレビに出てくる報道関係のアナウンサーや社長と呼ばれる実業家もいますが、概して私の置かれている立場や仕事の内容がそうするのか、活動的ながら地味な人が多いようです。そんな知人の中で最近頻繁に出会う一人に、ソプラノ歌手の二宮典子さんがいます。彼女に出会ったのはもう20年も前のことですが、お互い違う道を歩んでいたため、出会う機会は偶然的な立ち話程度でした。ところが2年前、私が30年を超えてやっている金融広報アドバイザーのメンバーに彼女が加わって、活動を共にするようになりました。私以外のメンバーも最初は、「えっ、ソプラノ歌手が何で金融広報アドバイザー?」と思ったそうです。

 でも彼女は就任以来、持ち前のパワーでパワフルな活動を展開し、今やアドバイザーの中でも一番活発な人になっているのです。彼女は私たちのような綺麗ごとの金融知識より、むしろ社会の裏側を体験した人にしか語ることができない、時にはハッと気付かされるような話をしてくれるのです。また歌を通して青少年にも近づいて、様々なことができる羨ましい人なのです。
 ある日彼女から、自分のディナーショーに招待するから来ないかと、お誘いがありましたが、あいにくスケジュールが塞がって時機を逸していましたが、その時若し宜しかったら12月5日にどうぞと、再びお誘いがあり、ディナーショーなど行ったことのない私は、興味もあって昨日の夕方、会場となっている全日空ホテルへノコノコ出かけたのです。

二宮典子ディナーショー

開演が午後6時30分からなので、30分前に到着してロビーの椅子に腰掛け待っていると、二百人を超える人が受付に集まり始め、私も招待券の1番と書かれたステージ前の席に案内されました。開演と共に馴れた人たちは円卓に出された食事を食べながら、好みのアルコールを飲みながら1時間近く談笑していました。やがて二宮典子さんのショーが始まりました。パンフレットに書かれた雪が降る、サントワマミー、酔いしれて、恋、五番街のマリーへ、喝采、百万本のバラ、恋心、ホワイトクリスマス、聖夜、夜明けの歌など10曲以上を情感込めて歌い上げました。カクテル光線に浮かび上がったドレス姿の二宮典子さんは、普通出会う時の姿とはまるで別人で、とても素敵でした。

 アンコールにも応えたディナーショーが終ったのは9時近くでした。出口で見送ってくれた二宮典子さんとお礼の言葉を交わし、顔見知りの方とごあいさつをして会場を後にしましたが、いやはや初めてのディナーショーだっただけに、いい体験をしてほのぼのとした気持ちで帰って来ました。
 妻が「ディナーショーはどうだった?」と聞くので、「とても良かった」と模様を話してやりました。招待券ながらチケットに書かれていた1万5千円という金額を逆算し、歌手や5人の生バンド、料理、会場費等を考えれば、決して高くないと思った次第です。今回も、「ああ私のような田舎者で庶民には、まだまだ知らない世界がある」と実感させられました。

  「ディナーショー 来てと誘われ ノコノコと 出かけてみたが 右往左往す」

  「普通とは まるで別人 目を見張る ドレス姿で ソプラノ歌う」

  「久方に 大勢パーティ 隣席 知らない人と 声を掛け合う」

  「歌を聴き 人生重ね しみじみと 思いに耽り ひと時過ごす」  

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇街中の人間牧場移動塾

 3ヶ月だと思って始めた愛媛新聞カルチャースクールも、3ヶ月、6ヶ月9ヶ月と続き、請われるままに来年3月まで一年間続けることが決まりました。昨日は9ヶ月目の、今年最後になる「街中の人間牧場移動塾」講義日なので出かけました。話したいことは山ほどあるし、教材としている「夕日徒然草」や「昇る夕日でまちづくり」「今やれる青春」などの自著本も、読み解きながら話さなければならないのですが、昨日はとりあえず急な思いつきで、私の書斎壁に吊り下げられている「日めくりカレンダー」に書かれている、歴史上名高い人の名言を、約1ヶ月間拾い読みしてパソコンで資料を作りました。

昨日の資料

 作った資料を人数分プリントアウトし、「日めくりカレンダー」と共に木になるカバンに入れ、友人から貰ったキウイを20個ばかりビニール袋に入れて、寒風の吹き始めた国道378号・国道56号を走りました。自宅から愛媛新聞社まではメーターだと24キロありましたが、昨日は朝のラッシュも終った時間なので、30分で到着しました。
 仕事の都合で参加できなかった3人を除いて、昨日の受講生は3人でしたが、はるばるこの寒空の中を宇和島市から駆けつけてくれた脇谷のことを思うと、例え少人数でも手を抜くことは出来ず、思いを込めて話させてもらいました。

 私は出張で家を空ける日以外殆ど毎日、書斎の壁に掛けている日めくりカレンダーを一枚破り取り、その日の日付けに書いている旧暦や今日の言葉を、読みながら考えるようにしていて、時にはその言葉をヒントに感じたことを、思いつくままブログに書いているのです。中には歴史上に生きた人の言葉ゆえ、難解なものも沢山ありますが、私なりに咀嚼して使っているのです。
 昨日の講話で少し長めの時間を割いたのは「21、厳しさを正しく課すのは自分自身から始まる」(スタール夫人)という言葉でした。
 何年か前、印刷会社の社員研修に招かれました。社長さんが「時間に遅れてくる社員がいる」、「社員が順番でやっているトイレの掃除が行き届かない」と自分の会社の現状を嘆いていました。

 私は早速社長さんに「、明日から社長といえども他の社員の誰よりも早く出社し、毎日トイレの掃除をしてはどうか」と提案しました。社長さんは多少いぶかりましたが、それから半年が瞬く間に過ぎました。所用でその会社を訪ねると、時間に遅れる人もなくなり、トイレはピカピカになっていました。そればかりか会社の成績もグングン伸びて、社長は大喜びでした。その発想の源となったのは、徳島県庁の招きで出かけた講演会で、二次会に連れて行ってもらった、呑み屋のママさんとの出会いでした。トイレが汚い、あいさつが出来ない、店の照明が暗い、花が殆ど造花であることを手直しすれば、お店はお客さんが集まると私が話した言葉を実践したところ、店が繁盛するようになった実話も紹介しながら、上に立つ人の心構えを話しましたが、昨日のテーマ「残された日めくりカレンダーからの学び」は、今年も残された日々が少ないこの時期だけに、タイムリーであったように思うのです。

  「残された 日めくりめくり 今日言葉 抜き書き資料 作りて望む」

  「九回も 話したけれど 話すこと まだまだありて 残り三回」

  「三人を 相手に話す 講座だが 手抜きをせずに 思いを込めて」

  「いただいた ゴールドキウイ お裾分け みんな喜び 分け持ち帰る」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇プラセボ効果

 今日は朝から北西の季節風が吹き、海沿いに面したわが町は、関門海峡を通って勢いを増した強い風で漁船も漁に出られず、漁船の舳先に止まったカモメと共にお休みのようです。寒いといってもまだ朝の最低気温が7度程度なのですが、風が強いためそれ以上に寒く感じながら、今朝も約40分ほどで約5千歩、健康維持のため早歩きをました。朝食を済ませ孫たちを保育園に送っていこうとしましたが、三歳の孫奏心が少し熱っぽいようで、病院へ連れて行くため早々と出かけ、出鼻をくじかれた感じがしました。

 孫たちはまるで雑菌の集まりのような保育園で、次々と色々な病気を貰ってきます。その最たるものは風邪で、上の希心が治ったと思ったら、今度は下の奏心が風邪を引き、その影響で両親が風邪を引くという悪循環が今も続いています。今は子どもは病院の治療代がタダなので大助かりですが、そのためでしょうか、何処が悪いここが悪いと言って、しょっちゅう病院へ行っているようです。近所に病院ができたのでそこへ行けばいいものを、やはりかかりつけの小児科が行きやすいのか、わざわざ遠くの病院へ行くのも親の気休めなのかも知れません。

 最近94歳の親父は比較的元気で、特に風邪を引かないので大助かりです。歳をとっての風邪は肺炎を引き起こしやすく、また骨を折れば寝たきりになるので、本人も私たち家族も注意をしています。今月から私の言うことを聞いて、自転車に乗ることを止めてくれました。何かあれば下灘診療所の先生が往診に来てくれるので大助かりですが、親父は近所へ買い物に行くのに、少し歩くのに足がおぼつかないので、祖母が使っていた手押し車を使っていますが、もどかしさもあったりして、少し重いお米やお酒は、昨日も私に買いに行って欲しいと、財布からお金を出して頼みました。

 親父は診療所で貰った幾つかの薬を、朝・昼・晩の食後に服用しているようですが、薬が切れるとどこか落ち着かない様子です。薬を飲むとプラセボ効果というのがあって、薬が効いたと思い安心するのです。刑務所の所長をした私の従兄弟の話によると、刑務所での暮らしは全て国費で賄われるため、病院代も薬代も馬鹿にならないそうです。そのためプラセボという偽薬を使うそうです。ところがそれが偽薬と知らずに飲んだ服役囚は、信じて飲むので本当に効いたと思うのだそうです。昔南方で戦争した日本軍の話ですが、現地人に小麦の粉を薬だと騙して飲ませたのに、薬が効いたと思い込んだ現地人が何人もいたそうです。
 親父もどうやら、いえいえ孫も私たちや私たちだって、薬だと思って飲んでいるから効くので、本当は偽薬かも知れないのです。サプリメントだって信じるから聞いたような気がするのでしょうが、これもプラセボ効果かも・・・。

  「大脳が 働き偽薬 本当に 効いたと思う プラセボ効果」

  「服役囚 薬と思い 飲んでいる そうでもせずば 財政もたぬ」

  「間違って 別の薬を 飲んだのに 薬効いたと 安眠の朝」

  「良くなりたい 思えば偽薬 効き方が どんどん増して 効果抜群」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇鳥取県日南町への旅(その2)

 「鳥取はもう冬だから暖かくして出かけて下さい」と、妻が用意してくれたダウンのコートと手袋を持って、師走に入って間もない12月2日、早立ちで鳥取県日南町へ向かいました。朝6時13分松山駅発の特急しおかぜに乗り込み、インターネットで調べた乗り継ぎ予定を指でなぞりながら、のんびりゆっくりの列車旅を久しぶりに一人楽しみました。公共交通機関を利用すると途中ウトウトしたり、読書を楽しむもう一つの楽しみがあるので、見慣れた車窓に広がる瀬戸内の光景を身ながら瀬戸大橋を渡り、岡山で特急やくもに乗り換えて生山駅を目指しました。

 特急しおかぜは殆ど満席でしたが、日曜日だというのに特急やくもは私の乗った自由席はガラガラで、これもまたよしと思いつつ、1時間半の殆どを読書に耽りました。今回の読書は木になるカバンに忍ばせている「夕日徒然草」の再読で、時折読んで記憶を蘇らせておかないと、落伍の高座が務まらないのです。
 倉敷から分かれた列車は高梁川と国道180号に沿うように備中高梁、新見と進みましたが、進むにつれて、木々の紅葉も葉っぱを落とし、新見あたりからはもう冬枯れの木立となっていました。川幅が段々狭くなり、幾つものトンネルを抜け鉄橋を渡りました。分水嶺あたりの長いトンネルを抜けると、川の流れが逆に流れているよな錯覚を覚え、列車のきしむ音が少し軽やかになったような気がして、いよいよ目的地に近づいたことを実感しました。

ひっそりとした生山駅

 車掌さんのアナウンスが流れ、10時38分に生山駅へ予定通り到着しました。昇降客は私一人で、改札口へ向かうプラットホームのから見える山々には昨夜降ったであろう雪が白く積って、冬の厳しさを感じさせてくれました。生山出身という県庁の課長補佐さんに出迎えてもらい、総合文化センターへ直行しました。この日会場では食のバザールが賑やかに開かれていましたが、控室へ荷物を置いてレストランで、少し早めの昼食をいただきました。ショウガ焼肉をメインにしたランチはボリュームがあって、大満足の手合いでした。私はコーヒーが飲めないので紅茶をいただきながら、スタッフの皆さんと和やかに懇談した後バザール会場を一巡し、顔見知りの方々にあいさつをしたり、販売している手作りの食べ物を見て回りましたが、品数も豊富で工夫の跡が伺えました。

木造の生山駅

 生山の駅前周辺や役場周辺を見渡すと、人口5千人足らずの町にしてはやたらと公共施設が目に付きます。文化センターも美術館もあって、岡山と米子の中間に位置するため特急まで止まるのですから、これはもう別格な町なのです。このまま人口減少が進めばこれらの公共施設の維持管理も大変だと、人ごとながらに思いました。この危機から脱皮するには、やはり交流人口を増やして行かなければなりません。さてそのためにはどうするか、ここが智恵の出しどころのような気がするのです。幸い有り余るほどの地域資源もあるようなので、目標を定めて頑張って欲しいと私の講演を締めくくりました。いつの世も人が輝けば町が輝くのです。

 

 

  「県境に 近い生山 駅に降り 雪化粧した 山々望む」

  「この町を 含め鳥取 幾度なく 訪ね歩いた 懐かしきかな」

  「日本の 田舎危ない 人が減り 少子高齢 波がまともに」

  「定住は 増えないけれど 交流は やればできると 思いも新た」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇今朝は早立ちで鳥取県日南町で向かいます。(その1)

 昨夜国立大洲青少年交流の家から高速道路を走り、公民館の赤石さんと二人で帰ったのは10時半過ぎでした。急いで風呂に入り、明くる日の身支度を用意して12時に床に入り熟睡しました。就寝は時間的には短いものの午前3時半に目を覚まし、再び身支度を整えて妻の用意してくれた軽めの朝食を取りながら、書斎で忙しげにブログを1本書き、さあこれから鳥取県日南町に向けて出発します。冬の中国地方の峠越えは行きの心配があることから、今回の旅は公共交通機関のJRを選び、特急しおかぜ、特急やくもを乗り継ぎ、松山~岡山~生山を往復して講演や討論をするので、帰りは多分深夜になりますが、この続きは帰ってから編集しますので、読者の皆さま悪しからず・・・。

 こんな記事を書いて出かけたものの、岡山での特急やくもと特急しおかぜの連絡接続が悪く、岡山駅での次の電車の待ち時間が1時間もあり、初冬の寒さに少し震えながら次の電車を待ったため、往路4時間が復路は5時間以上かかり、自宅へ帰ったのは11時ころとなってしまいました。前日も11時帰宅なので風呂に入って遅い夕食をとり、片づけをしていると昨日も寝るのが12時を過ぎたため、このブログの追加記事を書く気にもならず、そのままパソコンを開くこともなく眠ってしまいました。それでも往復に10時間以上をかけた鳥取県日南町への旅は心地よく、今朝も疲れも残らず爽やかな目覚めでホッとしているところです。

 私の記憶によると今年は地域づくりの全国大会が鳥取県であったため、全国大会で倉吉市や湯梨浜町、南部町を訪ねたり、湯梨浜町2回、岩美町、そして今回の日南町と鳥取県を訪れることの多かった一年でした。それもこれも地域づくりセンター所長で旧友の福田京子さんの仲介が殆どなので、福田さんには感謝の念でいっぱいなのです。
 昨日も福田さんは広島県神石高原町へ出張していたようですが、私と相前後して日南町へ駆けつけてもらいましたが、風の噂で漏れ聞こえるところによると、地域づくりセンターは今存亡の危機に貧しているようで、今年開いた全国大会の直前熊本大会が東日本大震災で中止になって、大会のバトンが途切れそうになったり、大きな不運やハプニングに見舞われた中で頑張っているだけに、同情より強い憤りすら感じずにはいられないのです。

地域づくりセミナーのチラシ

 それでも日南の地域づくりセミナーには地元の町長さんや、知人友人を含めた心ある人が沢山集まり、いい集会となりました。日南へは何度か講演に訪れていますが、中国山地の懐に抱かれた日野川源流域の長閑な山村です。ご多聞に漏れず過疎化と高齢化、少子化が同時進行していますが、人口が5千人を切っているものの合併もせず、特徴あるまちづくりが行なわれているようで、会場となった総合文化センター周辺ではかなり大掛かりな食のバザールと称したイベントが賑やかに行われていたようです。
 このイベントが終ると日南町にも冬が訪れ、来年の三月まで深い眠りにつくようです。

  「よく言うよ 私似顔絵 いい感じ 実物よりも 男前だと」

  「鳥取で 講演何度 したことか 昨日も多数 追っかけ来てた」

  「バザールや マルシェ横文字 何となく 格好いいと 思うのだろうか?」

  「昨日今日 二日続きの 午前様 それでも妻は

起きて待ってて」

  「ダンディな 町長出会い 俺なんぞ カントリーだと むしろ胸張る」  

[ この記事をシェアする ]