人間牧場

○体健と車検

 昨日は私にとって大切な二つの検査に出かけました。一つは「体健」とでもいうべき2月に1回行なっている健康診断、もう一つは3年ぶり(次から2年毎)に行う自家用車の「車検」です。
 体健は前回の健康診断で予約日が決まっているので、健康診断の日が近づくと自分の体のことゆえ余り無理をしないようにしたり、体にいいものを食べようと心がけたりするものなのでしょうが、私の場合に限っては今回もそうであったように、前日高知県四万十市の招きで出かけた文化講演会や、それにまつわる仲間との居酒屋交流会があって、帰宅が午前0時を過ぎるような無茶をしたので多少寝不足気味でした。加えてこのところの暑さの中での草刈り作業も重労働で、さぞや診断項目の数値は高めだろうと思いきや、全ての数値が基準値内で内心ホッとしました。
 県立中央病院のロビーでは出会う顔見知りの人も沢山いて、出合う度にお互いが病気のことを話したり、近況を語り合いましたが、病院のロビーなので「元気ですか?」という言葉より、「何処か悪いの?」という言葉の方が似合っていて、「病院のロビーで元気ですかもないもんだ」と時々苦笑いすることだってあるのです。

 「体健」の結果が良かったことに気をよくして、次は「車検」に望みました。3年前に買った車の始めての車検なのです。私の乗っている車はトヨタカローラ・アクシオという大衆車で、今ではすっかり自分の手足として西に東に大活躍をしてくれています。昨年の12月、出張先の鳥取県伯耆大山町の高速道路で、時ならぬ大雪に見舞われスリップ事故を起こし、大修理を余儀なくされたものの、それ以外はこれといった故障もなく、この3年間快調に走ってくれていますが、新車を買ったディーラーから再三車検へのお誘いがあったため、車検はこの店で行なうべく8月10日13時からと予約していました。
 普通車検といえば2日くらい車を預けて代車を借りるものとばかり思っていましたが、3年目の車検なので僅か2時間の待ち時間で終ると聞いてビックリしました。車のメンテナンス等の見積もり提示を了承し、磨り減ったタイヤも交換する約束をして、2時間の待ち時間をディーラーの近くにある、息子嫁の実家が経営している珈人という喫茶店でカレーを食べたりお茶を飲みながら過ごしました。

 やがて午後3時過ぎ、ピカピカに磨かれた新車と見まがうほど美しくなった車と面会し、12万5千円の支払いを済ませ自宅へ帰りました。これまでの忙しかった日々を清算するような「体健」も「車検」も一応何事もなく終わり、これで一区切りがついたような安心感ができたようです。車検には多分20万円はいるだろうと出かける前に現金を用意してくれていた妻も、「体健」の結果と「車検」が安上がりだったことに大満足の手合いでした。
 車はさて置き、私の体調がいいことの裏には、私の健康維持を意識して、毎日料理を作って食べさせてくれる妻の、ひた向きな努力も見逃すことはできず、大いに感謝をしています。勿論「健康は自分が自分に贈る最高のプレゼント」ですから、自分自身が毎日行なう体調管理のための運動や規則正しい生活も見逃すことはできませんが、とりあえず予約を取った11月16日まで節制を続けたいと思っています。

  「体健と 車検を同じ 日に実施 どこかすっきり 一安心で」

  「四本の タイヤ交換 これでよし 近く遠くへ 旅は安心」

  「快食と 快眠ゲット この上は 運動欠かさず 体調管理」

  「健康が 何より優先 するテーマ 無理せず若さ 保つ努力を」

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人間牧場

○高知県四万十市文化講演会に招かれて

 昨日は高知県四万十市夏恒例の第31回市民文化講演会に招かれ、片道150キロの山間の道を自家用車で出かけました。自宅を暑い最中の午後2時頃に出て、長浜~大洲~城川~日吉~広見~松野と見慣れた長閑な農村を走りましたが、松野辺りでは早くも稲が黄金色に色づいて、暦の上での立秋を思わせました。この日のきっかけは、もう20年もの長きに渡って親友を続けている、旧西土佐村の職員で西土佐教育事務所の所長をしている和田さんからのの声掛りなのです。「夕食でも一緒に食べよう」と誘ってくれていたので、途中彩花という国道沿いのお店に立ち寄っ、て顔見知のママさんと世間話に花を咲かせ、少し早めの午後5時頃の到着となりました。会場となっている西土佐ふれあいホールは教育委員会の出先事務所があるので何度も訪ねていますが、ここのステージに立つのは初めてなのです。ふれあいホールは円形で、失礼ながらこんな田舎にこんな建物が?と思うほど立派で、バックの照明も夕日の町のイメージ宜しく、茜色にするなど配慮をしてくれていました。

静かに流れる四万十川
四万十川に架かる赤橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事前に自宅へ電話がかかって再会を約束していた、タウンポリス西土佐会長の篠田楠雄さんがお土産を持って来てくれていました。篠田さんと最初にどこで出会ったのかは残念ながら思い出せませんが、元気なご様子で和田さんに頼み二人で記念写真まで撮りました。篠田さんは宇和島への所用ができて、講演会には出れないと少し残念そうにいいながら、再会を約束して分かれました。会場準備の終った四万十市生涯学習課の名本課長や稲葉補佐、担当の高橋係長と名刺交換をして、立ち話の打ち合わせや事務手続きをしました。私が用意をして欲しいと頼んでいたDVD映写の準備も整っていましたが、僅か90分の講演時間なので急な思いつきで、失礼ながら取り止めることにしました。
 赤橋近くの食堂で軽い夕食を済ませふれあいホールへ帰ると、1時間も前だというのに早くも民宿舟母のおばちゃんたちが顔を見せ、懐かしく近況を報告し合いました。私は本職を退職した7年前、和田さんや中脇さんの頼みで、西土佐村内の20ヶ所の集落を回って講演をしたことがあります。そんなこんなで顔見知りも多く、この日も嬉しい出会いが何人もありました。

講演会場にて篠田楠雄さんと

 四万十市では文化講演会に私を含めて6人の講師を用意し、リレー講演会とするユニークな企画のようで、元プロ野球選手の山沖さん、京都市芸術文化協会理事長の村井さん、明星大学教授の関さん、総合ケアシーザル理事長の宮原さん、作曲家の森さんなど、ポスターを飾る人は第一線で活躍している理論家の方々ばかりで、論理家は田舎者の私一人のようでした。でも臆することもなく長年の実践から生まれた論理を、私の演題である「新しい発想で生きる」と題して楽しく話させてもらいましたが、90分間寝る人もなく爆笑しながら楽しく聞いていただきました。
 講演が終わると近くの小さな居酒屋で顔見知りの6~7人が集まり、小宴を開いてくれました。大宮産業の竹葉さんたちも顔を見せてくれ、22時30分まで大いに気を吐きながら交友を暖め、和田さんと篠田さんを帰り道で降ろし、三間インターから高速に乗って伊予インターまで走り、深夜12時過ぎに自宅へ到着しました。世の中便利になったもので、遠いと思われる高知県四万十市までの往復300キロを、泊まることもなく日帰りできるのです。今回も多くの方々と深いご縁をいただきました。

  「四万十市 文化講演 招かれて 知り人多い 前にて話す」

  「土産持ち 顔を見に来る 人もいて ただただ感謝 せずにいられず」

  「われ以外 全ての人は 有名人 それでも臆せず 熱弁ふるう」

  「居酒屋で 弾む話に 時忘れ 往時をしのび 明日を語る」

 

 

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人間牧場

○FAXで送られてきた新聞記事

 2~3日前、この夏の人事異動で県警本部長を辞して、東京へ帰った岸本吉生さんから一通のファックスが届きました。中小企業振興という新聞1077号(平成24年8月1日付け)に掲載された、新聞のコピーでした。2年前まるで落下傘に乗ったように愛媛県へ赴任して来た岸本さんとは、ふとしたことから知り合い、この2年間何かにつけて交友を深めていました。しかい県警本部長という機密な要職ゆえ私のブログにその名前を書くこともなく伏せていましたが、中小機構への転勤となりこれで大っぴらな交友ができるようになり、ホッとしているところです。
 はてさて岸本さんが理事として赴いた中小機構とは一体どんな仕事をしているのでしょう。まだその全容は知るよしもありませんが、わが町が昨年実施した四国サイコーダイガク伊予市・双海プロジェクトの担当だった、中小機構四国本部の総元締めといったところのようです。あまた数ある中でよりにもよって中小機構へ転出するとは、やはり岸本さんとは深いご縁があるものだと感心した次第です。
 昨日の夜開かれた「双海人」の中身について、岸本さんから送られてきたFAXの中に来歴が書かれているので紹介しておきます。

岸本さんから送れれて来た新聞スクラップ記事

 

   「東京に 帰った人から FAXが 届きびっくり 双海の記事が」

  「あれやこれ 思い出される 二年間 あの人今は 東京仕事」

  「少しだけ 東京近く なりにけり 遠く離れた 田舎に暮らす」

  「近いうち 何かのついで 東京に 行った折には 訪ねてみたい」

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人間牧場

○掲額届く

 双海町には上灘に5つ、下灘に5つのお寺があります。わが家の菩提寺は長楽寺という下灘のお寺です。このお寺は落慶してまだ間がないというのに住職さんが亡くなり、息子さんも病に臥せっていて、仏事をこなすことができず、同じ宗派のご縁もあって本村の慶徳寺の住職さんが、兼務で仏事をこなしているのです。慶徳寺の山口住職さんは私が講演などでよく訪ねた大分県旧本匠村の出身であることや、奥さんが更生保護女性会の会長をしていて、子ども体験塾のボランティア活動を私と一緒にやっていることもあって、檀家ではないものの親しくお付き合いをしているのです。

慶徳寺の山口住職さんに書いてもらった恩という字の掲額

 今年の春そんな住職さんに、奥さんを通じて書を書いて欲しいと頼みました。住職さんは書がとても上手な書家なのです。頼んでから間もなく快諾の連絡があり、どんな文字が所望か聞かれたので、一も二もなく「恩」という一文字を書いてもらうよう頼みました。そのうち書体の見本が3枚送られて来ましたが、わが息子の名前が「一心」なので、「心」という字をできるだけ強調して崩さないよう頼みました。
 やがて奥さんが大書した立派な紙を持って来てくれました。早速先月孫たちを連れささやかなお供えを持って慶徳寺へ出向き、この字を表装する業者さんにあつかましくも表装まで依頼してしまいました。

 昨日の夕方住職さんから表装ができたと連絡があり、昨晩は史談会の講演会があってご一緒する幸運に恵まれ、わざわざ会場まで運んでもらいました。車の中で中身を確かめ、自宅へ帰ってから妻と二人で書斎へ運んで見せてもらいましたが、立派な出来栄えに大満足でした。
 さてこの立派な掲額を何処に飾ろうか、思案していますが、本当は人間牧場へ飾りたいものの、勿体ないと妻は少々難色を示しているようです。まあそのうち落ち着く所に落ち着くのでしょうが、この掲額に書かれた「恩」という文字はこれからの私の人生の道しるべとして、かくあるよう生きたいと思っています。

 「恩を返す」という言葉がありますが、はてさて私が恩を返す相手は誰なのか、今朝はそのことを考えてみました。私を産み育ててくれた父母への恩、私を支え続けてくれている妻や家族の恩、私に仕事をやらせてくれた元職場の方々の恩、駆け出しの頃から今日まで多くのことを学ばせてもらった公民館の恩など、恩を返さねばならない人の数は余りにも多く、余命短い人生でそれら全てに恩を返すことは到底不可能なのでしょうが、それでも恩返しをする気持ちを忘れずに一生懸命生きて生きたいと思っています。とりあえず私を育んでくれた双海町という故郷への恩返しをしようと、殊勝にも思った朝でした。

  「大書した 恩という字が 届きたる まざまざ眺め 決意も新た」

  「恩返し これが私の これからの 生き方示す 道しるべなる」

  「さてこれを 何処に飾るか 思案中 妻と私の 意見違いて」

  「因と心 二つのみ字が 重なりて 恩はなるほど 納得しつつ」

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人間牧場

○三度四度、いやいや五度六度かも

 「今日も暑いなあ」と思いながら昨日の朝、残りの草を刈るため人間牧場へ向かいました。前々日は芋畑までを綺麗に刈っていましたが、昨日は芋畑から下がまだそっくり残っていて、馬力をかけなければ一日で終らない広さなのです。ガソリンを満タンにした草刈機を持って芋畑へ降りると、網で囲った芋畑の中が何やら可笑しいのです。本来ならこの時期は芋のつると草に覆われて見えるはずのない赤土地面があちらこちらに見え隠れしていました。「今年もやられた!」と一瞬思い、私の顔から血の気が引いていくのが感じられました。
 草刈りどころではないと思って網囲いの中へ入ってみると、イノシシが掘ったと思われる無残な痕跡が多数ありました。早速役場に電話して居合わせた宮栄公民館長にその旨を伝えました。担当の赤石主事さんは愛媛大学で始まっている社会教育主事講習に出かけて留守なので、宮栄館長さんが昼過ぎ応援に駆けつけ、残ったサツマイモを食われないようにガードしようという話になりました。

 

波型トタンで囲いをする宮栄課長さんと久保さん

 私は宮栄館長さんが来るまで傷心の面持ちで草を刈りました。気分の乗らない草刈りは中々前へ進まないものです。草刈機の刃が少し切れにくくなっていることもあって、またつる草が草刈り機の刃に絡まって、時々中断せざるを得なくなりました。それでも宮栄館長さんが来るまでに周辺を綺麗にしておこうと、汗だくで草を刈りました。
 午後の約束だった宮栄館長さんが久保さんと二人で、11時過ぎ波型トタンを積んでやって来ました。宮栄館長さんは日尾野というイノシシやハクビシンなど有害鳥獣被害激戦区の集落に住んでいて、度々被害にあってその対応は馴れたもので、被害の状況を見て、「これはイノシシではなくハクビシンだ」と診断しました。そしてハクビシンが入ったと思われる場所に波型トタンを立てたりしながら、応急対策を講じてくれました。その対応の早さに目を見張りました。この対応で残りのサツマイモが助かることを祈っています。

 サツマイモを食べられたのはこれまで二度や三度ではありません。指折り数えてみましたが、時には全滅する等よく分からない程やられているのです。その度に悔しい思いをし、リベンジを誓うのですが、目に見えない相手の奇襲攻撃や夜襲攻撃の前には人間の智恵等勝る訳がなく、ただただ諦めるしかないのです。
 宮栄館長さんたちが帰った後も、草刈り作業を昼食弁当を食べた後も午後4時頃まで続け、熱中症にならぬようにと、妻の入れてくれていた麦茶が底をつきかけたので、ひとまず二日間の草刈り作業を終えました。雨の降り具合にもよりますが、これでひとまず18日のよもよも研修と、26日の愛大学び直し授業にやって来る人たちに悪評を叩かれることもなくなりました。
 苗床のカブト虫捕獲防虫ネットを外して片付けたり、千本桜の森づくり事業で植え、3年目を迎えて順調に育っている枝垂桜の梢に、竹竿で誘引したりの細々な作業をして山を下りました。自宅へ帰り汗を流すため風呂場でシャワーを浴びました。鏡に映った自分の顔は、麦藁帽子を被って作業していますがすっかり日焼けし、このところの肉体労働で少し筋肉がついて逞しくなったような感じがしました。

  「芋畑 今年も鳥獣 荒されて 心痛んで 悔しさ増える」

  「イノシシか いやいやこれは ハクビシン 慣れた手つきで トタン張る人」

  「芋畑 周囲に案山子 立ってるが 役にも立たず ただ呆然と」

  「鳥獣は 夜襲と奇襲 得意にて 勝てるはずない 負けてばかりで」

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人間牧場

○新しいドラマは始まったが・・・

 

今朝の愛媛新聞朝刊

 夕日に惚れ込んでいた若い頃、夕日の情報発信基地を作りたくて、シーサイド公園を整備する時、町長にお願いしてその一角に、ほんの小さな夕日のミュージアムを造ることにしました。夕日という得体の知れない物体が果たして展示になりうるのか心配しながら、夕日に関する雑学を徹底的に勉強しました。そうしているうち夕日の科学や文化などがあれやこれや、これでもかと思うほど出てきたのです。それらを展示構成して世にも珍しい夕日のミュージアムが誕生しました。その時掲げたのが双海町の自然を丸ごとフィールドミュージアムにしようという構想で、その手始めに町のキャッチフレーズを公募して「しずむ夕日が立ち止まるまち」としたり、国道の名前を「夕やけこやけライン」としました。また国道や高速道路のランドマークにも夕日をあしらい、フィールドミュージアム構想は順調に滑り出しました。しかし予想もしなかった平成の大合併で私の掲げた構想は潰えてしまい、情報の発信拠点であるはずの夕日のミュージアムも、情報を追加するどころか一つ減り二つ減りして、今はお荷物的な存在になっているのです。双海町を曲がりなりにも世に送り出したのは紛れもなく夕日であり、人々の心に夕日は予想以上に染み付いているのですが、いかんせんそれをリードしなければならない人の存在が不毛で、このままでは夕日のミュージアムは消え行く運命にあるようです。役場を辞めた人間の口出すことではないと、かたくなに口を閉ざし、自分で出来ることをやろうと、それなりに情報発信を続けていますが、規模は小さくなっても夕日のメッカである下灘駅を、フィールドミュージアムにしようと頑張ってくれている人たちの存在は、私にある種の幸福感を与えてくれているのです。

 

亀の森から見たスイム会場

 昨日もう一つの夕日のメッカであるシーサイド公園で、第1回トライアスロン大会がありました。昨年下灘で開いたジュニアトライアスロンの発展プログラムで、200人を超える鉄人が参加し、500人を超えるスタッフが下支えし、寄付を含めると1千万円ほどの費用をかけた大会は、珍しさもあって沿道に内外から多くの応援者を得、私と家族全員も一市民として沿道で、自転車に乗った人たちに大きな声援を送りました。スポーツはアスリートの限界に挑戦する姿を見る人に、さわやかな感動を与えます。4人の孫たちは帰ると早速スイムとランとバイクをやりたいと息子親父に頼み込み、ヘルメットを被って自転車に乗ったり、海に連れて行って泳いだりと、その気になっていましたが、これもよき感化の表れだと苦笑いしました。夕日が音楽になったりスポーツになったりすることは、進化の意味からすると当然の変化です。ただ始めることも難しいのですが、続けることや高めることはもっと難しいことを実感しなければなりません。夕日がそうであったように、続けるためには「何のために」というしっかりとしたコンセプトを持ち、イベントを経済に結び付けてゆかねばなりません。その「何のために」を「誰が」やるのか、金がかかるイベントだけに荒波はきついようです。頑張って下さい。

わがやんお入口付近でバイクを応援する人々

  「動くから 風は起こると 信じ込む 道は開ける 次はどの道」

  「何のため これが一番 肝心で それがなければ ただのイベント」

  「お疲れさん これしか言えず 携帯で 労をねぎらう これしかできず」

  「孫たちも 沿道観戦 帰るなり 自転車取り出し バイク練習」

 

 

明くる日のテレビ放映の様子

 

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人間牧場

○真夏の草刈り

 「植物は人間がいなくても生きてゆけるが、人間は植物がなければ生きてゆけない」。これは高知県が生んだ植物学者牧野富太郎の言葉です。この言葉を実感するのは雑草です。梅雨の雨をいっぱい吸って育った雑草は、一ヶ月前に綺麗に刈ったはずなのに、いつの間にか足を踏み込むことも出来ないほど背丈を伸ばしているのです。種を蒔いた訳でも苗を植えた訳でも、また水や肥料をやった訳でもないのに、至る所に根を張って成長し続けています。
 人間牧場の近くには集落の人の墓地があって、お盆が近づくこの時期は、お墓掃除やお墓参りの人が頻繁に訪れるため、お墓に通じる牧場内の道沿いに夏草が茂っていてはみっともないと思い、昨日は草刈機を軽四トラックに積んで草刈り作業に出かけました。

 先日買ったばかりの新しい草刈機は、今使っている4サイクルのガソリンエンジンに比べ軽量で、使いたいと思いましたが、どこか惜しい気もするので、ついつい古いほうの草刈機を使いました。今月は人間牧場に相次いでお客さんをお迎えする予定なので、水平線の家の周辺と道沿いを周辺に草を刈りました。このところの猛暑で草も生長をストップしているような少し萎れた草でした。故に刃切れが悪く作業効率が余りはかどりませんでしたが、午前中3時間、午後3時間で何とか周辺が綺麗になりました。
 妻に作ってもらって持参した握り飯弁当をウッドデッキで食べ、冷蔵庫に冷やしていたお茶を飲み、昼休みは裸になって濡れタオルで汗を拭き、背もたれ椅子でウトウトと休養を取りました。

 お墓の掃除にやって来た近所の人と世間話をしたり、ブルーベリーを収穫したりして充実した時を過ごしました。それにしても草刈り作業はしんどいものです。特に夏の暑い日中の草刈りは、まるでサウナに入ったように大汗をかきました。最近は熱中症で死ぬ人もいるようなので、小まめに水分を取りました。
 この草刈り作業も今ではすっかり私の夏の仕事に定着していますが、気力と体力が後10年間持つかどうか心配です。そろそろ息子に受け継ぎたいのですが、息子は体力があっても草刈機など使ったことがないのです。妻は「10年後はシルバー人材センターへでも頼まなければ・・・」と言っていますが、車に乗れなくなったり、草刈機が使えなくなったりするのはもう目の前となりました。
 昨日私より一つ歳上の大内先生が亡くなったと新聞のお悔み欄に書かれていました。私もそろそろと思うのは当然だし、少し心が暗くなりました。もうそろそろと思うのか、まだまだこれからと思うのか、出来ることならポジティブに生きて行きたいものです。

  「牧場の 草刈り作業 大汗を かいて減量 夏の一日」

  「そろそろと 思うかまだまだ これからと 考え次第 ポジティブ生きよう」

  「新品の 草刈機温存 古きもの 使って牧場 草刈り作業」

  「人間は 植物なしで 生きれない 雑草さえも 恵みと思う」

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人間牧場

○八幡から小倉へ

八幡駅

 今から50年前の昭和38年2月10日に、門司・小倉・八幡・若松・戸畑の旧五市が対等合併して誕生したのが北九州市です。どちらかというと門司や小倉等馴染みの街の方が知名度が高いため、私は北九州市と聞いても余りピンとこないのです。本州の最西端下関の対岸にある門司や、新幹線の発着する小倉などはよく利用しますが、スペースワールドのある八幡や若戸大橋のある若松や戸畑に至っては工業地帯なので名前は知っていても駅にさえ降りたことがなく、一度は行ってみたいと思っていますが、その機会はいつ来るのやらって感じです。それでも今回のように縁遠いと思われた八幡に行くことができたのですから、こんなに嬉しいことはないのです。

これが北九州市自慢の皿倉山からの100億ドルの夜景だそうです

 

 今回は八幡の駅に降り立ち、八幡市民会館まで歩きました。駅前通はかなり広い道路沿いに国際通りなどという洒落た名前がついていました。公民館大会の表紙絵は北九州市内を一望できる皿倉山(622m)からの夜景でした。この夜景は新日本三大夜景のひとつとされ、100億ドルの夜景だそうで、いつかは訪ねて見たいと思っています。

 

 

 

小倉城
ビルの天井

猫の顔をメイクした子ども

 北九州市の小倉は駅周辺に見所がいっぱいあって、中でも小倉城とその周辺は新旧が見事にマッチした街です。新幹線の駅の直ぐ近くにこんな綺麗なお城があるなんてビックリです。また城や川の直ぐ横には若い人が憧れそうなお洒落で素敵なビルディング空間、リバーサイド空間があって、癒される感じがしました。

 

  「仕事にて 訪ねた街を 散策し 意外な素顔 あれやこれやと」

  「古きもの 新しきもの お互いが 認め合いつつ 心癒され」

  「動物を 真似してメイク 面白い この子は前世 猫だったかも」

  「百万ドル ならぬ一億 ドルショック 大きいことは いいことだけど」

 

 

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人間牧場

○喜ぶべきかシルバー扱い

 私の住んでいる四国にはしまなみ海道、瀬戸大橋、鳴門海峡大橋・明石海峡大橋と3本の橋ルートがあって、本州と陸続きになりました。便利この上ないのですが、この橋は大阪や東京へ行くのには便利なのなものの、西瀬戸沿岸には関門海峡大橋やトンネルがあるものの、隣の県でありながら広島や山口、福岡、大分宮崎へ行くのには、余り利用価値がないのです。故にそれらの県へ行くのにはどうしても船で海を渡らなければならないのです。佐田岬半島の突端から佐賀関へは僅か70分で行けるのですが、三崎町へ行くまで、佐賀関から向うへ行くのには交通アクセスが悪く、公共交通機関では利用できないのです。少し長旅の船に乗るには松山~小倉間や、八幡浜~大分・別府、臼杵では乗船名簿に、自分の住所や名前を書かなければ切符を売ってくれないのです。

 このところ福岡県や大分県、山口県へ仕事で行く機会が多く、その都度松山観光港~広島宇品、松山三津浜~柳井、三崎~佐賀関、八幡浜~臼杵を使い分けていますが、先日松山観光港~小倉航路を使うべく、乗船名簿に名前や住所を記入して、キップ売り場に行きました。キップの値段は5500円なので、財布から5500円を出すと、カウンターでキップを売っている男性が、私の書いた乗船名簿を見て、「67歳ですね。65歳以上の方は2割のシルバー割引があります。免許証か保険証はお持ちですか?」と言われました。
 往復11,000円が8,800円になるのですから、これはもう美味しい話で、早速カバンの中に入れている免許証を見せ、その恩恵に浴したのです。年寄りになると、いつまでも若くありたいという願望は誰しも持つものです。ましてや年寄り扱いされるといい気持ちにはなりませんが、それでも2割の割引とは歳をとるって素敵なことだと思いました。

 若い人も年寄りも船に乗ると何ら変わりなく寝床が与えられます。お金持ちの人や少し神経質の人は雑魚寝に馴れていないので、少し高いお金を払って個室を使いますが、私のような何処ででも寝れる無頓着な人間は、午後10時から午前5時までの短い船内就寝ですから、そんなにお金をかけることは無駄だと思うのです。まあ人それぞれです。雑魚寝だと隣に居合わせたまったく見ず知らずの人と話が弾み、お友達になる事だってあるし、私はそんな生き方をしているのです。
 シルバーという言葉の響は、ゴールドに比べ余りいいイメージではないことだけは確かです。でもこうした社会の恩恵を受ける以上、私たちシルバー族ももっともっと社会のために貢献しなければならないようです。シルバー(知る婆)ならぬシルジー(知る爺)として、社会に迷惑をかけないよう、これからもしっかりと生きて行きたいと思っています。

  「割引を するから免許 証見せて シルバー特典 大いに活用」

  「二割引 私もそんな 歳になる 胸はるべきか 張らざるべきか」

  「ふと見ると あの人二割り この人も これじゃフェリーは 赤字なるはず」

  「割引を された親父が 大いびき 人の迷惑 少しは止めて」 

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人間牧場

○チェンソーアートと竹細工

 最近は田舎暮らしがブームで、都会の暮らしに疲れた人たちが田舎のあちこちに住みつき、様々な活動をしています。「退職したら百姓でもして田舎でのんびり暮らしたい」と思っての人、「テレビや新聞で紹介されているような、自然を友とした楽しい田舎の暮らしがして見たい」と思っての人、はたまた「農業で生計を立てたい」と就農を決意した人などその考えや行動はまちまちですが、いずれの人も田舎に新しい風を吹かせてくれる意味では大歓迎なのです。
 しかし田舎をユートピアだと思ってやって来るものの、簡易水道や農道の維持管理、コミュニティ組織の役割や活動参加などなど封建的とも思われるしきたりに馴染めなかったり、農業の厳しい現実についてゆくことが出来ず挫折したりする人は、水面下には意外と多いようです。

 私のところへも、「海が見えて、夕日が見えて、家の横に農地があるような空き家を探して欲しい」と仲間を通じて相談が舞い込むのですが、そんな夢みたいな場所は草々あるものではなく、ましてや農業で飯が食える新規就農となるとそれ相当の覚悟がないと夢と現実の大きなギャップに足元をすくわれ、人生までも駄目にしてしまうことだってあるのです。
 私は常々「遊びの農業は楽しいが、飯を食わなければならない農業は厳しい」と言っています。定年で仕事を終え、相応の預貯金を持ち年金で暮らせる人が、田舎に入って遊びでやる農業は楽しいものです。週末には都会の仲間が遊びにやって来て、野外パーティをしたり時には小旅行に出かける姿も見かけるようになりました。これこそ西田敏行さんと菊池桃子さんがテレビでやっている「人生の楽園」なのです。カラスやイノシシ、ハクビシンに襲われても、仕方ないと諦めればそれで済むのですが、農業で生計を立てる人にはそれはもう死活問題なのです。農薬や化学肥料を使わない安心安全な農業をと意気込んでも、ホウレンソウや小松菜などの軟弱野菜等は虫が食ったら売り物にならないのです。

チェンソーアートのフクロウの置物

 先日親友である大洲市田処の亀本幸三さんから面白い形をしたフクロウの木彫り置物をいただきました。早速家の玄関の靴箱上に飾っていますが、妻が趣味で集めているフクロウの置物の中では多少大きいため目立ち過ぎるほど目立っています。聞けばこのフクロウの木彫りは何とチェンソーアートだというのです。テレビではその彫刻風景を見たことがありますが、手に取ったのは初めてで、こんなきめ細かい作業がチェンソーで出来るのだろうかと思うほど精巧な出来栄えなのです。
 都会から田舎にやって来る人の中には、一芸を持った人が何人もいて、絵や書を書いたり、草木染、アートフラワー、木彫、陶芸、ブロガー等時にはその質の高さに目を見張る事だってあるのです。そんな一芸に秀でた人が集落に入ってくると、異文化ギャップで新しい風が起こるのです。安心安全に胡坐を書いて急激な変化を望まない田舎人の心情を大いにくすぐるのですが、私は田舎人に「人生とは何か」とか、「人生は楽しむためにある」ことを知らせる意味では、こうした革命が必要だと思っているのです。

微妙な感覚で竿の先に止まる窪田先生が作った赤とんぼ

 ふと元校長先生だった窪田公博さんが竹細工で作った赤とんぼを思い出しました。当時百個もいただいたのに、手元にはもう1個しか残っていません。人間牧場へやって来た人たちが欲しがり半ば強引に持ち帰ってしまったのです。早速窪田先生に在庫はないかと相談し、近々持ってきてくれる相談がまとまりました。まるでやじろべえのような不思議な平衡感覚で竿の先に止まるとんぼの竹細工も、当時は異文化ギャップと感じていましたが、時とともに忘れ去られようとしています。
 もう一度窪田先生の竹とんぼや垂直に空高く上がる竹トンボの作り方教室を人間牧場で開いてみたいものだと思い始めました。

  「遊びなら 田舎暮らしは 楽しいが 飯喰う田舎 かなり厳しい」

  「チェンソー 間伐材で フクロウの 置物作る 凄いと感心」

  「何年か 前に校長 赤とんぼ 作った姿 思い出しつつ」

  「楽しさを 見せびらかせて 生きている 田舎者ゆえ 俺は楽しい」

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