人間牧場

○富田香代子さんからの手紙(第3弾)

 「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い 姓は車名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します」とは、ご存知「男はつらいよ」のシリーズ映画に出てくる、渥美清さん演じる寅さんが必ず使う名セリフの啖呵です。「大和の国が富士ならば、一富士二鷹三茄子・・・」などなど、大道商売をする人が客寄せのために語る啖呵は、「江戸っ子、神田の生まれ」と言わんばかりの気風のよさと、小気味よい流暢な節回しで、見る人を夢の世界へ誘い込むのです。
 そんな言葉と寅さんの似顔絵を染め抜いた日本手ぬぐいが、達筆な手紙とともに昨日私の手元に送られてきました。8月8日付け読売新聞「駅前模様・JR予讃線・下灘駅」の記事を読んで数日前、「下灘駅 元双海町役場職員 若松進一」という、いとも面白い私宛宛名で届いた手紙の主富田香代子さんからの手紙に入っていたものです。

富田香代子さんから送られてきた寅さんグッズの日本手ぬぐい

 下灘駅に寅さんがやって来たのは昭和52年(1977年)、当時私は双海町役場で広報を担当していました。寅さんがロケにやって来るという噂話を聞き、カメラを持ってロケ風景を撮りに行きました。ロケをしている山田洋次監督にお願いして寅さんの写真を撮らせてもらいましたが、その時寅さんから返ってきた言葉は、「やあ」が3回だけでした。その逸話は平成23年7月19日発行の、「寅さんDVDマガジン」V0l.14で詳しく紹介されていますが、今回富田香代子さんから送られてきた日本手ぬぐいは、お盆月ということもあって、あの世に逝った寅さんからの贈り物では?と思ったりしました。

私が広報マンの時撮影した下灘駅の寅さん映画の撮影風景

 しかし富田香代子さんの達筆にして筆まめさには驚かされています。しかも内容が濃くて、私が返信した便りに、私が毎日書いているブログのコピーを同封したところ、早速質問が何点か記されていました。
 私はつたないながら五行歌をやっていますが、「五行歌って決まりがあるの?」が第一の質問でした。私も始めてまだ間がないので、詳しいことは分かりませんが、俳句のような季語や季題もなく自由だそうです。五行の短文で表現する自由律詩のようなもので、種田山頭火を連想するといいのかも・・・。私は自分で勝手に「笑売啖呵」という短歌風(5・7・5・7・7)31文字にこだわって、毎日ブログ1本の巻末に4首の笑売短歌を作っていますが、これもある意味五行歌なのです。

 第二の質問は、予讃線沿線の景色と愛の関係についてです。下灘駅も夕日も花も全て「愛」と結びついています。私の持論は「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」です。ゆえにこれまでの30年に及ぶ私のまちづくりの物語は全て「愛」がキーワードのような気がするのです。故に青春18キップのキャンペーンポスターに3度も紹介されたり、下灘駅や夕日や花に人が集まって来るのです。第三は柴又帝釈天と寅さんです。第19作目のマドンナは未亡人を演じる真野響子さんでした。
 たった一つの読売新聞の記事が取り持つ縁とでもいうのでしょうか。富田香代子さんからの便りには、どこか懐かしい私の記憶を見事に蘇らせてくれました。このブログも今日あたりプリントアウトしてお頼りに添えたいと思っています。富田香代子さんは一体どんな素敵な女性なのでしょうか。

  「寅さんを 染めた手ぬぐい 便り添え 送られ嬉し 盆過ぎの夕」

  「手ぬぐいの 寅さん元気 久しぶり 死んでいるゆえ 歳もとらずに」

  「柴又へ 一度は行きたい 思いつつ 夢叶えずに 今の今まで」

  「新聞の 記事が取り持つ ご縁にて 素敵な女性 便り友なる」

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人間牧場

○劇団イリュージョン27周年公演2012観劇

 松山市を拠点に活動している、劇団イリュージョンの27周年公演が松山市民会館であり、昨日は午後13時30分から家族で観劇に出かけました。高校時代からもう20年にわたって劇団に所属し、活動している次男一生も「江口厚生」役で出演していて、また作・演出を手掛ける劇団代表井上佳子さんの指導の下、最近は忙しい仕事の合間を縫って息子は「振付け」もやっていて、あの華奢な体の何処にエネルギーがあるのかと思わせるような躍動感溢れる姿に、感動しながら2時間を過ごしました。

劇団イリュージョンの公演パンフレットの表紙

 受付で貰ったパンフレットに次のようなSTORYが載っていました。
 「街のはずれの川辺に、八月になると開く地獄屋という変わった店がある。その店は地獄アメや、地獄案内等、怪しげなものを売ったり案内したりする店で、脱衣婆さんという婆さんが店番をしている。今年の夏は、その店で17才のさほという少女が夏休みのアルバイトとして手伝っていた。少女は事故で家族を亡くし親類の家に身を寄せていた。夕方に開くその店には変わった客がやって来る。ある日一人の少年がばあさんの親類だと言って現れる。少年の名はモモタロウと言った。不審に思うさほに少年は津波で流され三途の川を漂っていたところを、三途の川の脱衣婆さんに拾われ、自分の両親も、自分の名前も未だ不明だと話す。そして日が落ちる頃、どこからともなく少年や少女たちが集まってくる。その少年や少女たちも戦争や震災で死んだ子どもたちだったのだ。さほは地獄屋の周辺には、夢食い金魚や市立探偵の江口、アザラシの小早川、蝶と化身した花むらさき各々の因縁の糸を巡って現れる。一度事故で生死の間をさまよったさほは、地獄屋があの世とこの世を結びつけている場所だと気付き、モモタオルの不幸な運命と死に深く心を寄せるようになる。そして各々の人物の運命と因縁がまわり始める・・・・・・」というSTORYなのです。

孫3人も神妙に観劇

 

演劇の一場面

 27年間も続いている劇団で、その20年も劇団員をやっている縁で私たち夫婦は、毎年この頃開かれる定期公演をずっと見続けているのですが、年々充実し続ける劇団と演劇、それに進化し続けようと頑張る次男の姿をダブらせながら、今年も楽しく観劇することができました。
 昨日は5歳の孫尚樹、4歳の孫希心、3歳の孫奏心も一丁前に、満席の座席のひとつを確保して見ました。イリュージョンという劇団の名前や、大人の私たちでもかなり難しい内容の演劇は、幼い孫たちにとってはさらに難しいため、途中でむずがるのではと心配しましたが、3歳の孫奏心が後半眠くなって母親の胸を枕に寝たものの、孫尚樹と希心は比較的おとなしく、最後のカーテンコールまで目を凝らして見ていてホッとしました。

 息子は日ごろ日赤松山病院の看護師としてオペ室で働いています。私たち親も息子がどんな仕事をしているのか知るよしもありませんが、失敗の許されない手術室での毎日の勤務は、かなりきつい仕事のようです。まだ独身ゆえ家庭を持たない気楽さもあるものの、仕事と劇団の両立は、公演が終われば体重が一気に5キロも減るような激しい練習や舞台なので、もうそろそろ止めたらと妻は常日頃から勧めていますが、一向にその言葉は聞き入れられないようです。年齢的に見ても結婚をと考える親心は当然だと思うのですが、結婚より演劇を選んで仕事と両立しているのですから、静観する以外はないのです。でも毎年公演を見ながら活き活きと舞台を務める息子を目を細めながら見る、親馬鹿な私たち夫婦は一応に納得もしているのです。それにして息子のダンスはまるで玄人はだしで、とてもわが息子だとは思えないほどなのです。

  「今年も 家族みんなで わが息子 出演演劇 感激しつつ」

  「いやあ凄い 感心しつつ わが息子 エネルギッシュな ダンス数々」

  「演劇と 仕事両立 する息子 妻はそろそろ 嫁さん欲しい」

  「誰の子か? 見まがうほどに 踊る子の 姿に拍手 あちらこちらで」 

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人間牧場

○人間牧場千客万来

 昨日は人間牧場へ社会教育実践交流集会実行委員会のメンバーがやって来るというので、朝から大忙しでした。普通の来訪であれば別にどういうことはないのですが、昼食をするとなるとたとえ少人数でも、それ相応の準備が必要なのです。前日の夜妻に頼んでいたお米を1升研いでもらったり、味噌汁の具となる鱧や豆腐、シイタケ、薬味のネギなどを刻んでタッパに入れ貰い、加えてギノー味噌さんからいただいていた味噌や、ポリタンク2つに飲料水を積み込み、午前8時に自宅を出発しました。
 この日はまちづくり双海人のメンバーもピザ釜を使って色々な商品の試作をするようで、移動式ピザ釜の実験も試みるとあって朝から大忙しで、ピザ釜を造る戸田さんは私より一足先に到着して、倉庫から新品の草刈機を取り出してせっせと草を刈っていました。

食後の私の話

 昨日は天気もよく、海の彼方には真っ白い入道雲が湧き立ち、夏真っ盛りの暑い一日でした。戸田さんは一人で重い耐火煉瓦を車から降ろしていたため、すっかり準備の整った私も手伝うことになりましたが、この作業はかなりの重労働で、フーフーいいながら朝から大汗をかいてしまいました。
 そのうち松本さんや富田さん家族、それに10時に下灘コミセン前で待ち合わせた人たちも集まって、総勢15人ほどの賑やかな声が行き交いましたが、県内から集まり人間牧場への来訪は初めていう方々は、その眺望の素晴らしさに一応に驚いた様子でした。
 昨日はのんびりゆっくりの交流会だったので、時間を気にすることもなくかまどに火を入れ、ご飯と味噌汁を作りました。家では魚の粗料理を除けばまったく料理をしたことがないのに、ここではご飯を炊いたり味噌汁を炊くのも、全て私がやらなければならないのです。現代人はいつの間にかガス釜や電機釜、電子レンジなどの調理器具に馴れて、焚き火をすること、日で調理することすら出来なくなっているからです。

新しくできた移動式ピザ釜と松本さん
作業小屋でピザ作りする双海人の面々

 11時半にはすっかり料理も出揃いました。私の妻と松本さんの奥さんが用意した漬物やサラダ、じゃこ天、ピザ釜で焼いたアジの開きなどに加え、ピザ釜2基で焼いたピザ等が次々持ち込まれ、まあ豪華な食事と相成りました。ご飯は一升一釜、味噌汁は一鍋炊きましたが、昨日はご飯も水加減やかまどの火加減も抜群でいい具合に炊けたし、味噌汁も完食でした。みんな破顔一笑ならぬ破顔一升といった感じで満足の手合いでした。
 戸田さんが持参したハウスみかんも好評だったし、人間牧場に植えているブルーベリーも収穫体験したり冷蔵庫で冷やして食べてもらいましたが、ボール一杯のブルーベリーを跡形もなく食べてしまいました。食後は少しの時間私の出版した夕日徒然草を基に、腹ごなし程度のお話を聞いて貰いました。残暑厳しいとはいいながら、人間牧場にも秋の気配が漂い始め、時折吹く心地よい風が頬を撫でました。

たわわに実ったブルーベリー

 

インフォメーションサービス

 社会教育実践交流集会実行委員さんとまちづくり双海人の交流会もでき、2時過ぎに全員が山を下り帰って行きました。私は片付けや火の始末の確認、戸締りをしたりした後、摘み残したブルーベリーを収穫しましたが、傍にミツバチの巣箱を置いていてブンブン音がしていたため、危ないと思って摘み取らなかった熟したブルーベリーの実を、ボールに二つも収穫することができました。お土産にいただいたピザとボール二つのブルーベリーに妻は驚いた様子でした。早速食べましたが大粒の完熟した実はとても美味しく、これからしばらくの間、冷やして食べるべく小分けをして保存していました。
 一週間後の来週はまちづくり双海人のツアーや、愛媛大学学び直しの学生たちの講義と、ここのところ人間牧場も千客万来といったところです。その都度私も昨日と同じように忙しい日々が待っているようです。

  「牧場に 千客万来 人が寄る その都度私 右往左往す」

  「自宅では 料理事など しないのに 牧場来ると 飯まで炊いて」

  「ミツバチと 同じく牧場 人が寄る 楽し新し 美しいから」

  「来週も 牧場大勢 人が来る 笑顔真心 これが第一」  

 

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人間牧場

○夕日が沈むころになると血が騒ぐ

 私が夕日夕焼けを意識し始めたのは30代の頃です。以来30年を超えて夕日夕焼けに思いを寄せてきたため、夕日が沈むころになると体がムズムズして、何か血が騒ぐような気がするのです。そんな私を見て仲間は「今世紀最大の詐欺師だ」とパロディ豊かに笑うのです。夕日は日本中、いや世界中何処にでも沈むのに、「双海町の夕日が日本一だ」と信じ込んでいるばかりか、色々な仕掛けを作って周りを信じ込ませようとしてきたのです。そんな奇妙な行動が納得できず、時には大きな反対にも会いましたが、それでも人の百倍も夕日を愛し、「夕日のことだったら若松に聞け」と言われるほどに自著本まで出して、夕日の神話を作り上げてきたのですから、「今世紀最大の詐欺師」と言われても快い響だと納得するのです。

逆立ちをして見た逆さ夕日

 政争の過程で袂を分けていたものの、最後は最も夕日について理解をしてくれた町長さんを事故で亡くし、合併で双海町という自治体は地図上から消えたりして、夕日は沈んだままになるのでは?と危惧していましたが、幸いなことに私の意思を継いだと思われる人たちが、夕日に思いを寄せてくれ始め、時には夕日を否定しながら今まで以上に、様々な仕掛けを作り楽しんでくれているのです。
 昨日もいつの間にかすっかり西寄りになった島影に、夏の夕日が綺麗に落ちました。町のシンボル本尊山をまるで赤富士のように真っ赤に染めながら沈む夕日を見ると、明日へのエネルギーが湧くような心境でした。実は昨日の夕方裏山で、一人だったことをいいことに、とんでもない姿で夕日を見ました。着ていたTシャツを脱ぎ裸で逆立ちをして夕日を見たのです。

 「えっ、裸で逆立ち?」と奇妙に思うでしょうが、私が一年に一度やる奇妙な行動なのです。今から12年前の55歳の時、つまり20世紀最後の夕日が沈んだ2000年12月31日を期して出版した、自著本「昇る夕日でまちづくり」の題名は、本をプロデュースしてくれた水産高校の先輩玉井さんがつけてくれましたが、夕日は逆立ちしてみれば昇るのです。
 歳をとったため自力で逆立ちをすることができないため、山の斜面に足をかけてほんの30秒程度見るだけですが、沈む夕日も昇る夕日に変わる一瞬の逆さま現象は、私に新たな発想を呼び覚ましてくれるのです。何年か前恋人岬のモニュメントに足を置いて逆立ちをして夕日を見ていて、気違い扱いされたことを思い出しました。

これが正しい昨日の夕日です

 人は左から見れば右に、右から見れば左に、逆立ちして見れば沈む夕日も昇るように見える、まさに逆転の発想です。虫の目の人間から鳥の目の人間になるため若い頃、仲間とともにセスナ機をチャーターして空からふるさとを見る運動を興しました。セスナ機の窓から小便をひった思い出は忘れることは出来ません。歳をとるとついつい新しいことへの挑戦を渋りがちですが、幾つになってもたとえ小さくても、挑戦者であり続けたいと思うのです。
 夕日を見るとワクワク・ドキドキ・ジーンとするのは、まだ私の心に挑戦者としての残り火があるからだと勝手に思い込み、昨日も逆立ちをして夕日を見ながら思いました。馬鹿げてると思いませんか?。

  「坂に足 乗せて逆立ち 夕日見る 気違いではと 首をかしげる」

  「沈むけど 逆立ち見れば 昇ってる ように見えると 逆転発想」

  「夕日見る 何故か体が ムズムズと 夕日気違い 変なおじさん」

  「夕日から 何度パワーを 貰ったか これから先も これまでどおり」

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人間牧場

○使えるようになった携帯電話

 妻が誤ってズボンのポケットに入れたまま、洗濯してしまった携帯電話は、息子に頼んで手続きを終え、電話の機種も電話番号も元のまま、新しくなってわが手元に帰って来ました。お盆を挟んだこの3日間は携帯電話に追いかけられることもなく、のんびり過ごしましたが、携帯電話がないと何かにつけて不便で、あらためて自分の日々の暮らしの中で、携帯電話がいかに役に立っているかということを、思い知らされました。携帯電話に記憶させていた電話帳も無事新しい携帯電話に移し替えてくれていて、ホッと胸を撫で下ろすのです。

 私が携帯電話を持つようになったのは、そんなに古い話しではありませんが、携帯電話にアンテナのような棒が内蔵されていて、それを引っ張り出して通話していたのですから、スマートフォンが主流となった携帯電話は偉い技術革新が進んだものです。三男がテレフォンカードを集めていた時代もそんなに古くはないのに、テレフォンカード等もう何年も使うこともなく、机の引き出しにしまったまま忘れ去られようとしています。やはりこれも時代の流れなのでしょうか。

 私はメールをパソコンでするため、携帯電話でのメールは余程のことがない限りしません。たまに旅先へ向かう途中手持ち無沙汰な時、車窓を眺めながら思いつくままにメールを入れ、知人に近況を報告したり、時には旅先の感想をショートなコメントにして送るのです。メールに馴れている相手からは、即座に返信が帰ってきますが、私はその返信に返信する余裕もなく読み過ごしてしまうのです。それにしても現代は携帯電話でメールする人が沢山見受けられます。電車の中は勿論のこと、時には自転車に乗って、あるいは歩きながらメールをしている人を見かけますが、危なかしいものです。

 先日大阪へ出張した帰り、瀬戸大橋の上で瀬戸内海に沈む綺麗な夕日を見ましたが、車内の人はその感動的な光景にも気づかず、ただ黙々と携帯電話でメールを打ち続けていました。日本の若者の全てが携帯電話に夢中になって、本など読まない時代がやって来ました。何とかしないと日本人は本を読まない軽薄な人間になってしまいはしないか心配です。「そんなことあんたが心配してもどうにもならない」と言われそうですが、便利は不便の始まりです。過ぎたるは及ばざるが如しの例えのとおりでしょうか。

  「同じ機種 同じ番号 携帯が 手元に戻り ホッと一息」

  「携帯の 機種を変えたら 如何かと 勧められたが 首立て降らず」

  「携帯と パソコンなくば 手も足も 出ない現代 そろり卒業」

  「携帯に 気を取られつつ 時過ごす なくすることも 多いと気づく」

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人間牧場

○孫の発熱

 お盆の帰省といえるかどうか分かりませんが14日の夜、松山に住んでいる孫たちがお盆休みにやって来ました。14日まで娘婿の実家のある大阪羽曳野へ出かけていて、その帰りに夕方遅く到着しましたが、自宅の内孫はその来訪がとても心待ちだったため、夜9時を過ぎても少し遅くまで賑やかに家の中を走り回っていました。それでも明くる日の15日は雨が降ったりやんだりなのに、海に泳ぎに行きたいと言うので、私が仕方なく軽四トラックに積んでシーサイド公園まで行きました。内孫二人は寝冷えをしていて鼻水が出たり数日前熱が出たりしていたので、家で留守番をさせようとしましたが、大泣きで一苦労して休みだった息子が何処かへ連れて行ったようです。

 シーサイド公園の隣の、灘町海岸の砂浜が空いていたのでそこで泳ぎ始めましたが、二人に誘われて私は海水パンツも履いていないのに、「おじいちゃんも泳ごう」と誘われるまま、半ズボンで泳ぎながら二人の孫の相手を約1時間ばかりしました。浮き輪の尚樹とシュノーケルの朋樹は元気に泳いでいましたが、朋樹が急に寒くなったので帰りたいといい始めました。急いで車に乗せて帰り、シャワーを浴びせ着替えさせたものの朋樹はその後少し熱が出始め、夕方には38度5分まで上がり心配しました。
 それでも朋樹はわが家に泊まりたいというし、妻も泊めたいと言い張りましたが、病気の孫を預かってもし何かあると大変なので、二人の不機嫌も顧みず帰らせました。

 今朝5時30分に娘の家へ症状を聞くため電話しましたが、朝になってもまだ熱が下がらないといい、今日は娘も仕事なので私が看病と留守番をかねて、午前7時までにマンションへ行くことになりました。朝ブログを一本書いて6時20分にわが家を出発しましたが、お盆の早朝は道も空いていて、時間通り午前7時に到着しました。
 病院の殆んどがお盆休みのようなので、直ぐに準備をして救急救命センターへ診察に出かけました。萱町のセンターへは一度孫を連れて行ったことがあるので、全てが分かっていて到着するなり問診表に記入して、直ぐにお医者さんに診てもらいましたが、単なる風邪のようで注射も打たず薬も貰わず、診察費1500円を支払ってマンションへ帰りました。

 弱めの冷房の効いた部屋で孫朋樹と二人、テレビを見ながら熱の下がるのを待ちましたが、30分毎に体温計で熱を測りましたが、次第に熱も下がり昼ころには36度台となりホッとしました。娘が出かける前に用意してくれていた昼食弁当を二人で食べ、冷蔵庫に冷やしていた桃を剥いて。デザートとして食べさせましたが食欲も戻り、午後2時30分に娘が帰ったころには、すっかり元気を取り戻したようでした。私は財布を娘の用意した保険証の入ったバッグに入れたまま、帰ってしまうハプニングもありましたが、お陰様で冷房の効いた部屋で、看病といいながら一日のんびりと過ごすことができました。娘のパソコンをいじって、ブログ一本を書いたりして、孫朋樹と久しぶりに色々なことを話しました。

  「暑い夏 孫と二人で 冷房の 効いた部屋にて 一日過ごす」

  「心配を したけど熱も 徐々下がり ホッと一息 マンション後に」

  「俺も歳 今度は財布 忘れたり いつものことと 妻に笑われ」

  「暑い夏 孫もストレス 溜め込んで 今度は俺の 番かも知れぬ」 

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人間牧場

○夏も終盤

 今年の夏はどちらかというとメリハリの効いた天気のようです。水不足を心配しいち早く渇水対策本部まで設置したところもありましたが、梅雨に入ると一転大雨で九州北部地方に甚大な被害をもたらし、僅か数日で水不足は解消しダムの放流が相次ぎました。例年並みの梅雨明け後は一転猛暑日が何日も続き、熱中症で病院へ運び込まれる人が相次ぎ、熱中症が原因で死者まで出たようです。
 お盆の声を聞くと今度は南から流れ込んだ温かい風が雨を誘い、連日全国各地で気象庁の解析によると、1時間に100ミリを越すような信じられない猛烈な雨が各地で降り、浸水被害も日本列島の各地で出ているようです。花鳥風月といわれる繊細にして穏やかな日本の四季は、一体何処へ行ったのかと疑いたくなるような日々なのです。

 昨日の朝はわが町でも午前2時ごろかなり激しい雨が降り、雨音で目が覚めてしまいました。猛暑でカラカラに乾いていた畑にとっては恵みの雨で、このところ夕方になると連日畑の水遣りをしていた親父も、多少疲れ気味でしたが、この4~5日は水遣りをしなくても済むと喜んでいるようです。
 ピーマンやナスなどの夏野菜は息を吹き返しましたが、トウモロコシやキューリにはアブラムシや芯食い虫が発生して、消毒をしないため収穫が期待できなくなりました。それでもハクビシンに食べられる前に少しでも収穫して食べようと、昨日はスイートコーンを10本ほど収穫しました。畑で皮を剥ぐとかなり実が入っていて、茹でて食卓に乗せましたが、みんな美味しいと言って食べてくれ好評でした。

収穫したボール一杯のブルーベリー

 今年はトマトとブルーベリーが豊作のようです。トマトは桃太郎とフルーツトマト、プチトマトの赤と黄色、それにロケットトマトを作っていますが、いずれも例年のような腐りも出ずに、連日ボール一杯収穫し、またブルーベリーも親友の西岡さんからかなりの量をいただいたうえ、ここにきてわが家のブルーベリーも熟し始め、毎日かなりの量を収穫し、妻はせっせとジャムに加工して冷凍保存したり、パンにつけて味わっているのです。ブルーベリーをジャムにすると紫色が一段と濃いさを増し、とても綺麗です。ブルーベリーに含まれるアントシアニンは目にいいといわれていますが、本当に目にいいのでしょうか?。
 わが家のブルーベリーは鉢植えのため、この時期は毎日水遣りが大変です。出張で2~3日家を空ける時は妻や親父に水遣りを頼んで出かけるのですが、忙しさで水遣りをすっかり忘れて2~3度、しおらせてしまいましたが、何とか持ち直したようです。人間牧場に植えている10本ばかりの路地植えブルーベリーが順調に育っているのを見ると、そろそろ路地植えにしないと、水遣りが大変だと心配の種が増えています。

 8月7日の立秋が過ぎ、届く便りや書く便りも、暑中見舞いから残暑見舞いへと変わりましたが、目にはさやかに見えねども、秋の気配を感じる今日この頃です。
 夏の暑さをネタに儲けを目論んでいる人々にとって、お盆の雨は何とも恨めしいものです。昨日はシーサイド公園の海水浴場も雨模様のため海水浴客は殆んどいなく、砂浜は散閑としていました。寝冷えなのか孫たちは夏風邪で鼻水を出し、昨日は少し熱が出たようです。少し鍛えなくっちゃあ。何はともあれ夏もそろそろ終盤です。

  「暑いねえ 思わず口に 出る言葉 歳のせいだか 今年は暑い」

  「夏野菜 雨の恵みで 生き返る 各地で豪雨 見舞われ被害」

  「紫の 色鮮やかな ジャム作る アントシアニン 目にいい食べる」

  「このところ 気象の異変 気になるが 俺の力じゃ どうすることも」

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○世にも珍しい宛名の手紙

 昨日24.8.10の消印で、「伊予市下灘駅、元双海町職員、若松進一様」という、世にも珍しい私宛の手紙が届きました。郵便番号799-3202が正しかったこと、配達する双海郵便局が田舎の郵便局で、私の名前を知っていたから、相手先へ「宛て先不明」で返されることもなく届いたものと思われますが、それにしても面白い手紙です。
 「私に手紙をいただいた相手は?」と裏書を見ると、郵便番号124-0011、葛飾区四つ木4-18-8、富田香代子さんで、早速ハサミで封を切って中から手紙を取り出しました。お洒落な便箋3枚にかなり達筆な文字が目を引きました。

富田香代子さんからの手紙

 「前略、八月八日、読売新聞”駅夏模様”JR予讃線下灘駅の記事を見てお便りいたしました」と書いてあり、「BS8で再放送した”東京ラブストーリー”海岸沿いを走る予讃線のホームでのシーンがとても印象的でした。どの返なのかと日本地図帳を買って来ました。(駅名をおぼえていないので、確か駅舎に伊予ー大洲の路線が写されたのを一生懸命見ていました)。その際放送終了後NHK夕どきで夕日のきれいな予讃線周辺の景色がうつりました。私の心に残ったドラマの駅に近い場所を一生懸命見ていました。そして、やはり心引かれる駅・場所であることをうれしく思います。ストーリーの駅は下灘駅でしょうか?、伊予上灘駅、ふたみシーサイド公園あたりをNHKで放送したのでしょうか。
 今年の私の嬉しいことは、私が心に残ったドラマのシーンの近辺をNHKや新聞で取り上げられていることです。必ず行って見たいと思っています。松山空港迄行けば遠い所ではないと是非行きたいです。息子達が学生の頃見ていたドラマだったのですが、二十数年たった今のほうがドラマシーンを違う角度で見られ、行ってみたいという気持ちになります。そして、その近辺が報じられること嬉しく、やはり全国から観光客が訪れるのは分かります。若松様の御努力が良い場所をさらに人々に喜ばれる様になったのだと思います。新聞記事を切り抜いて地図帳と一緒に保存します。では暑さが続きますので、お体を大切にしてくださいませ。平成二十四年八月十日 富田香代子」と結んでいました。

 

青春18キップキャンペーンポスター(1999)・駅に着いた列車から高校生の私が降りてきた
青春18キップキャンペーンポスター(2000)・思わず降りてしまうという経験をしたことがありますか

 

青春18キップキャンペーンポスター(2001)・前略、僕は日本のどこかにいます

 

青春18キップキャンペーンポスター(2005)・あの頃の春を探して

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いやあ実に嬉しい手紙です。読売新聞の記事も、NHK夕どきも私が登場しているので、今日は早速ハガキにてお便りを書こうと思っていますが、世の中には心温まる人もいるものです。東京ラブストーリーの場面設定は記憶の彼方に消えかけていましたが、あらためてもう一度ビデオでも借りてきて見たいものだと思いました。手紙が来る。便りを出す。顔は見えないけど頭の中で相手を想像しながら読んだり書いたりすることは、何と楽しいことでしょう。願わくば富田香代子さんに自慢の夕日や下灘駅を見せてあげたいと思いました。

  「駅名と 元職員の 宛名にて 東京葛飾 手紙が届く」

  「葛飾と いえば柴又 寅さんの 引き合わせかも どこかご縁が」

  「局員の 粋な計らい 届きたる 手紙文面 かなり達筆」

  「下灘の 駅からドラマ 始まった 私の人生 これがなければ」 

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人間牧場

○何をするでもない長閑な一日

 お盆の帰省ラッシュが早くも始まり、伊予インターと内子の間では午前10時頃に8キロの渋滞が発生したと新聞やテレビが報じていましたが、丁度その時間に私たち夫婦はお墓参りのため海岸国道を通って、八幡浜を目指していました。海岸国道は見晴らしもよく、人間牧場の畑でシキビを取るため軽四トラックで出かけましたが、信号も渋滞もなくスイスイと走りました。私の愛用軽四トラックは冷房がついていない、いわゆるエコカー?なので、両側の窓を一杯開け、自然の風を取り込みながら気持ちよく走りました。

 妻の実家のお墓は、八幡浜湾を一望できる高台にあります。大法寺の駐車場に車を止めてゆっくり石段を登りましたが、水桶とシキビを持っての坂登りで大汗をかいてしまいました。シキビを立てて水を入れ、先祖代々の墓の頭に水を掛け、線香を手向けてねんごろに祈りましたました。
 帰路お寺の境内で、古い友人井上さんに出会いました。聞けば私の入っている五行歌の会の会員でもあるそうで、不思議なご縁を感じました。その足で妻の実家に立ち寄りましたが、両隣に住んでいる妻の二人の兄たちも既にリタイアして、悠々自適の暮らしをしていて、在宅中だったので会話を交わし早々にお暇をしました。

真下で見る迫力ある風車
風車公園にて妻をモデルに

 涼しいうちにお墓参りしようと出かけたため、その足で久しぶりに温泉でも楽しもうという相談がまとまり、伊方の亀ヶ池温泉へ向かいました。途中道の駅や風車公園に立ち寄り、かすかな音を立てて回る風力発電の風車を真下から見上げ、その大きさに感心していると、一台の車が上がってきました。子ども連れのご家族のようでしたが、年配のお母さんは「双海町の若松さんじゃないですか」と尋ねられました。「はいそうですが」と返すと、どうやらこの方は西予市宇和町出身の方らしく、帰省している娘さん家族とドライブの途中のようでした。「あなたの話は2~3度聞いたことがあります」と立ち話の会話に花を咲かせました。

 温泉は午前中のため比較的空いていて、サウナや温泉でたっぷり気持ちよい汗を流しました。ここでも2~3人の知り人に声をかけられ、変なことはできないと自覚しました。レストランで昼食を取り、わが家へ2時過ぎに帰り、夫婦水入らずのドライブはあっという間に終りました。
 息子夫婦も孫たちを連れて実家へ行っていて留守をいいことに、久しぶりにのんびりごろ寝の午睡を楽しみました。夕方から畑に出て家庭菜園で少し作業をしたり、トマトやピーマンを収穫したり、何をするでもない長閑な一日を、仕事が休みの妻とのんびり過ごしました。

  「のんびりと 何をするでも ないままに 妻と二人で ゆっくり過ごす」

  「携帯を ズボンポケット 入れたまま 洗濯されて ×××・・・・」

  「久しぶり 妻と二人で ドライブを あちらこちらで 知り人会いて」

  「賑やかな 二人の孫も いないので セミの鳴き声 聞きつ昼寝を」

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人間牧場

○読売新聞「駅夏模様JR予讃線・下灘駅」

 読売新聞大阪本社編集局文化・生活部の記者をしている前田さんという方からお便りが届きました。ハサミで封を切って開けてみると、中からかなり分厚い8月8日付けの読売新聞朝刊が出てきました。一面にはロンドンオリンピックで銀メダルを取った卓球女子の話題や、その後採決された社会保障と税の一体改革に対する民主と自民の確執がリアルに書かれていました。新聞はこうして時代の流れを一瞬一瞬切り取って、私たちに知らせていることを改めて実感しました。
 わが家では地元紙愛媛新聞を取っているため、読売や朝日、産経、毎日といった中央紙を読むのは、旅に出た時駅の売店で買って読んだり、宿泊先のホテルロビーで備え付けのものを読む程度になってしまいました。かつて地元の役場に勤めていたころは、役場が取っていたそれらの新聞を読んで、同じテーマでも新聞によって随分見出しのつけ方や記事の書き方が違うものだと、いつも実感していましたが、今は地方紙しか読むすべがないのです。

読売新聞・平成24年8月8日付け朝刊

 読売新聞には編集手帳、朝日新聞には天声人語、愛媛新聞には地軸という一面コラムがあり、それを読むのも新聞の楽しみで、かつて天声人語や地軸に私のことが書かれたこともあって、特に天声人語という言葉の響がが好きで、よく読むのです。手前味噌ながら私も月に2回発行していた、町の広報「ふたみ」」を10年間担当し、タブロイド版巻末に「大根心」というペンネームで「こちら編集局」というコラムを240回も書き、担当を外れたその年にそれらを集めて、「町に吹く風」という一冊の本を自費出版しているのです。何はともあれまちづくりの世界に長くいた私にとって新聞は、なくてはならない武器だったのです。
 よきにつけ悪しきにつけ私や私の町はこれまで、よく新聞に取り上げられました。町を宣伝する手立てとして新聞は欠かせない存在だったのです。インターネットの普及していなかったあの頃は、新聞とテレビが大きな情報源で、夕日によるまちづくりは公共の媒体を巧みに使って、世に知られたのです。特に記録として残る新聞はスクラップして、整理こそ忙しくてやってはいないものの、今もしっかりと保存しているのです。

 「新聞記者は見てきたような事を書く」と言いますが、新聞記者には二つのタイプがあるようです。例えば双海町の夕日を捉える場合、アマゾンなどで私の書いた本を買い求め、それを元に補助取材を電話などで済ませて書く人と、直接やって来て面談や現地取材をする人の2種類があります。取材に金のかかる中央紙などは前者で、地元紙は後者の部類だと思うのです。
 さて今回の17面くらしにカラーで掲載された記事は直接やって来て、写真等を撮ったり関係者に話を聞いたようですが、私に関することに限っては長々の数回にわたる電話取材でした。今回の掲載記事を目にしたのは、旅先の高知県四万十市西土佐でした。市民大学の講師を頼まれて出かけた折、地域事務所の友人松本さんが、掲載記事をいち早くPDFファイルにに加工して、年輪塾ネットで流していたものを、教育委員会西土佐事務所の親友和田所長さんがコピーをして渡してくれたのです。

 第一線を退いた私が新聞に載るのは、夕日をテーマにまちづくりを始めたころの思い出を語ることしかできないため、記憶を頼りに月日や時間を遡るのですが、夕日夕焼け物語を語るには欠かせない存在なのか、相変わらずよく話を聞いてくるのです。人から見れば私たちがやった夕日によるまちづくりも、今となっては成功したように語られていますが、振り返れば失敗の連続で、思い出したくないようなこともいっぱいあります。ゆえに物語は面白いのでしょう。
 昨日、今度は朝日新聞の記者とカメラマンが、地域おこし協力隊の冨田さんに連れられて昼過ぎわが家へ取材にやって来ました。今回も駅がテーマのシリーズ物らしいのですが、どんな記事になるのでしょうか。

  「読売の 十七面に 書かれたる 記事を読みつつ あれこれ思う」

  「失敗や 反対多く あったけど 過ぎてしまえば それもまたよし」

  「新聞は 記録に残る 故を持ち 色々活用 PDF配信」

  「文明は 活かし使えば 文化なる 道具となりて 大い役立つ」

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