○巨樹風雪と若人の火の移設
若い頃愛媛県青年団連合会の副会長や会長を歴任して、国立大洲青年の家の誘致運動に情熱を燃やした私にとって、青年の家の持続的な発展は大きな願いであり、国立大洲青少年交流の家と名称が変わった今もこれからも、その願いは変わることはないのです。ゆえに人間牧場主という寂れた肩書きしか持たない私ながら、国立大洲青少年の家の所長から請われるまま、今も運営委員会の末席を汚しているのです。
15年前青年の家でちょっとした騒動が持ち上がりました。玄関先に青年の家のシンボルとして設置していた樹齢330年の栂の木の大木と中に設置しているトーチを、玄関先が手狭になったことを理由に撤去するという話でした。昭和57年2月、四国の屋根小田深山から営林署等に頼んで払い下げてもらって設置して以来、多くの参加者を玄関先で迎えてくれていた思い出の切り株だけに、その話を聞いた時は耳を疑いましたが、処分するのであれば何とか別の場所へ移動してでも保存したいと願っていました。幸い当時の担当者も私と同じ気持ちだったため、とりあえず双海町へ持ち帰ることになりました。
当時の丸山町長さんにそのことを話し、わざわざ青年の家まで足を運んでもらって現物を見て、役場のロビーに置くことを決めたのです。予算がないので当時議員をしていた袋田さんに頼み込み、林業に使うクレーンのついたトラックに、共栄製材で借りた台車を積んで、たった二人で引き取りに向かいました、当時はまだその重量は2t近くあったように思いますが、苦労の末トラックに積み込んで持ち帰り、役場職員総出でロビーの中へ押し込み手押しだけで立てたのです。玄関先の自動ドアを痛めないよう注意を払い、突き出た枝をチェンソーで切り落とすハプニングもありましたが、ロビーの真ん中に威風堂々と座りその存在を15年間も誇示し続けてきました。
その後国立大洲青少年交流の家の職員が替わる度に巨樹風雪を、元の場所へ返して欲しいという話が持ち上がりましたが、いわく因縁を知っている私としては、「はいそうですか」と簡単に応じる訳にも行かず、悶々の日々でした。特に前所長さんと前課長さんは熱心に里帰りを懇願されましたが、市町村合併などのゴタゴタもあって、元町長さんに「お前に任せる」という一任を取り付けてはいたものの、元町長さんの事故による逝去や支所の手続きもあって、それなりの苦労を重ねました。
折りしも支所ロビーの改修工事という幸運や現支所長さんたちの配慮もあって、また新山所長さんの熱意が一番の実を結び、先日ロビーから運び出されることになりました。城戸運送の運送チームが特注した300kgの特注特製枠を持って支所を訪れ、朝早くから傷をつけたり樹皮を剥がすことのないよう細心の注意を払って、半日掛りでロービーから運び出し、国立大洲青少年交流の家まで里帰りして、展望棟まつぼっくり館に設置することができました。その模様は現地でその一部始終を見守った新山所長のブログ「にいどん」に詳しく記されているので割愛しますが、記録に残すため写真の一部を拝借することにしました。
木編に母と書いて「栂」(つが)と読みます。考えてみればこの巨樹は元々国立大洲青年の家のロビーにあったものですから、木の母なる場所へ帰るのが一番かも知れません。小田深山から大洲青年の家へ、大洲青年の家から双海町役場へ、伊予市双海支所から大洲青少年交流の家へ、巨樹が旅に出た僅か15年間の間に双海町も青年の家もいつの間にか名前が変わっていました。変わらないのはこの巨樹に寄せた私や所長さんたち関係者の想いだったことが、唯一の救いだったのかも知れません。
折りしも巨樹の移転に奔走した新山所長さんは4月1日付で、4年間住み慣れた大洲青少年交流の家を後にして、福島の青少年交流の家へ異動が決まりました。
「巨樹移動 終って所長 自らも 異動するとは 寂しくもあり」
「栂の木の 空洞燃える 火を見つめ どれほどの人 勇気づけたか」
「木遍母 これで栂とは 読んで妙 安住の地 やっと見つかる」
「今は亡き 元町長の 墓前にて 一部始終を 手合わせ述べる」