shin-1さんの日記

〇懐かしい新井のおばさんに出会う

 木造校舎で有名な翠小学校の改修が終わり、先日は発表会のご案内をいただきながら県外へ出張していたため、そのことが少し気になっていました。急な思いつきで学校を訪ね許しを得て写真に収めた帰り道、ひとりのおばさんに出会いました。剣道を走っていると何やら川の向うに顔見知りのおばさんが見えました。「あっ、新井のおばさんだ」と思って単車に乗ったまま手を振りました。気づいたのかおばさんも手を振ってくれました。そのまま帰るのも失礼と思い、橋を渡った直ぐ横の道を引き返し、おばさんの家の玄関まで行きました。

 聞けば私と認識もせず手を振ったらしく、私のいきなりの訪問にとても驚きとても喜んで、「まあお入りなさい「と家の居間に案内されました。一人住まいの独身女性の家へ入るのは気が引けましたが、まあ大正7年生まれの91歳のおばさんだからと割り切って、言うがままコタツに入り話を始めました。

 この方は新井淳江さんでかつて若い頃は農協婦人部の部長さんもされていました。税理士だったご主人が亡くなってからは一人暮らしをしているようですが、3年前娘さんとご一緒にシーサイド公園でお会いしたことを覚えておられて、「3年ぶりかな」と、聡明な記憶力に驚いてしまいました。

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 門構えの立派なお屋敷に一人暮らしているので、時々夕凪荘という特別養護老人ホームへディサービスで出かけるという話、車に乗れないため買い物が不便だという話、一人で暮らしていると気ままだが多少不安になるという話、そして私が立ち寄ってくれたことが対ソ嬉しいという話などなど、お茶を飲みながらつかの間の話に花を咲かせました。

 このおばさんは若い頃からきちんとした身なりをして、笑顔を絶やさない人でした。ゆえに歳をとったらあんな年寄りになりたいと思っていた一人なのです。「まあお茶でも」「まあバナナでも」と差し出され、嬉しさを隠せないようでした。「歳をとったら人に声をかけてもらい話すのが一番の幸せです」という言葉を聞きながら、後ろ髪を引かれる思いで別れを告げました。玄関先で見えなくなるまで手を振る姿を単車のバックミラーに目をやりながら、出会いや老いについて大いに考えさせられました。

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 この日私は持っていたデジカメで断りを入れて写真を撮ってあげました。はにかんだ様子がまたとても可愛らしく、デジカメに写った写真を見せると、デジカメの不思議に見とれながら、また二人で大笑いしました。

 今日は雨模様ながら、翠小学校に集まって、私が実行委員長をしている子ども教室のふるさと体験塾が行われるため、翠小学校へ行くので、早速写真をプリントしてプレゼントしてあげたいと思っています。


  「腰かがめ 見えぬなるまで 手を振って 送ってくれた 人ぞ愛おし」

  「一人住む 家に入りて 懐かしき 頃の話に 花を咲かせる」

  「ああ嬉し 手を取りながら 涙する 老婆の姿 母に重ねて」

  「写真撮り プリントアウト したものを 自宅に届け 再会約す」

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〇井伏鱒二とジョン万次郎漂流記

 福山市から「食のブランド化講演会」に招かれて出かけました。カーナビに電話番号で入力していた通り国道2号線から右折して間もなく、怪獣となっているまなびの館ローズコムという鉄筋4階建ての立派な建物に到着しました。講演会は午後7時からでしたが少し早めかなと思いつつ、指示されたとおり担当者に携帯電話で連絡し、駐車場へ車を入れ、待ち合わせ場所である1階の図書館ロビーでくつろぎました。

 図書館はとても立派で、特に外の公園と一体になるような、総ガラス張りの窓際には個人学習用の机がいくつも置いてあり、満席の状態で読書にふけっていました。

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(まなびの館ローズコムの前景)
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(図書館ロビー)
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(素敵な窓際の読書環境)

 長いロビーの椅子に持っていた木になるカバンを置き、図書室内を一巡しましたが、ロビー近くの書架に福山市ゆかりの人たちの本が置かれたコーナーがありました。その中に小説山椒魚で有名な井伏鱒二を見つけました。そしてその作品の中に「ジョン万次郎漂流記」があるのを見て驚いたのです。凡人の私には井伏鱒二が福山市出身であることすら知らなかったのは当然ながら、私の人生においてもっとも大きな影響を受けた本である「ジョン万次郎漂流記」で井伏鱒二が直木賞を取ったことさえ知らなかったのです。

 その本は1938年に出版されています。私の誕生年が1944年ですから生まれる6年も前に世に出ているのです。手にとって初版本を捲り読みしましたが、私が小学校5年生の時読んだ伝記集とは少し様子が違っていました。それでもこの本が縁で30歳になったらアメリカに行こうと決意し、青年の船に乗って建国200年のアメリカへ本当に行けたのですから、このコーナーで本を見つけた時の驚きは相当なものでした。

 多分私は旅先でのつかの間の出来事ながら、2010年3月3日17時のこのことは一生忘れないでしょう。

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(井伏鱒二コーナー)
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 「若松さんですか」という迎えに来た素敵な女性の言葉にふと我に返りましたが、旅先での意外な発見に私のボルテージは高まったままでした。そして市長さんや課長さんなど次々と控え室に見えられた市幹部との面談を終えてから以後の講演も、井伏鱒二効果なのでしょうか、まあ何とかその攻めを終えることが出来ました。

 私の手元に井伏鱒二作「ジョン万次郎漂流記」はないため、早速インターネットアマゾンでこの本を取り寄せ、出来るだけ早く読みたいと思っています。


  「旅先で 井伏鱒二の 本出会う 鳥肌たって 本を立ち読み」

  「余りにも 知らなさ過ぎる この人が 訪ねた街の 出身なんて」

  「ひょっとして この本なくば アメリカを 目指す夢など 見ず済んだかも」

  「ああ嬉し 謎が解けたと 安堵する 早速本を ネットで注文」

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〇福山食のブランド化講演会に招かれて

 海や山に囲まれ自然豊かで温暖な瀬戸内海気候の福山は食材も豊富です。送られてきたふくやまブランド農産物推進協議会発行の小冊子を開けると新鮮で品質のよい、しかも安全で美味しい地場産品が名前を連ねていました。青六きゅうり・アスパラガス・いちご・きゅうり・金時にんじん・くわい・こまつな・しゅんぎく・しょうが・たまねぎ・ほうれんそう・細ねぎ・みずなといった14品目の野菜に加え、あんず・いちじく・かき・キウイフルーツ・すもも・ぶどう・ももといった7品目の果物がブランド農産物に指定されているようです。

 これらに海の幸を加えれば福山の食はかなり豊富です。しかしこれらの産品を同ブランド化してゆくのか、どの街もしのぎを削っている昨今ですから容易なことではありません。「ふくやまSUN]という愛称で推進していますが、直ぐ隣の岡山は「晴れの国岡山」をキャッチフレーズに太陽の恵みを最大限生かしてブランド化を推進しているのです。

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 さて講演会で私は、何処にでもある夕日をテーマに食やイベントを手がけたまちづくりについて、いつもどおりお話をさせてもらいましたが、そのまとめとして次のことを強調しました。

  イメージ  ・福山というまちのイメージ

    +     ・安心安全のいうイメージ

          ・風評効果イメージ

          ・六感イメージ(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚・知覚)

          ・文化イメージ

          ・活力イメージ

  情報戦略  ・アナログ情報

    +    ・デジタル情報

         ・マスコミ情報

         ・口コミ情報

素   材  ・農産漁家直接

+ ・農協-市場-商店(マーケット)

          ・産直販所

          ・ネット通販

  加   工  ・特産品
           ・レストラン-料理

          ・ホテル民宿

  =

  経   済


 農漁家=素材=消費者


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 また消費者を①本物思考の消費者(5%は高くても買う)、②学習思考の消費者(15%は良ければ買う)、③安物思考消費者(55%は見た目8割、安ければ買う)、④無意識な消費者(25%意味もなく買うか買わない)4つのタイプに分け、これからは①と②に対する戦略と、風評被害を巻き起こす③を風評効果に変える戦術が必要ではないかと話しました。

 食は消費産業なので当たればとてつもなく儲かります。しかし当たらなければ風評被害の餌食になって闇へ葬り去られます。これからは例えば福山市のイメージとなっているバラの花でドレッシングを作り、それを小袋にして学校給食に毎月一回出せば、これが全国の話題となっていくに違いありません。この日私は「裏が味噌」という名刺を持って乗り込みました。この会社は既にバラドレッシングという商品を福山で開発しているのです。しかし之をブランド化しようという考えはまだのようです。要はバラを通じてふるさと意識を育てるのです。新しい発想で物事を考えないといけいけないということです。一石を投じに出かけましたが、さて私の投げた石は誰の心に当たったでしょうか。

 講演が終わって質疑の時、一番前に座った若い市役所職員が手を上げて質問してくれました。一番前に座る勇気、質問をした勇気に大きな拍手を送ります。


  「この街も 何でもあって あり過ぎて どれを目当てに すればいいのか」

  「前座る 若い職員 手を挙げる あっぱれですよ 久々嬉し」

  「講演は みんな聞くけど 一人だけ 心動けば しめたものです」

  「バラドレを 子どもみんなに 食べさせる 地産地消は 発想転換」

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〇つかの間に福山城を訪ねる②

 福山城で侍姿の銅像に出会いました。近づいて碑文を読むと福山藩7代目藩主阿部正弘でした。阿部正弘といえば僅か25歳で江戸幕府の老中となり、27歳で老中首座に就任、幕臣として幕末の安政の改革を断行した人です。人材育成のために藩校弘道館を誠之館に改めて身分によらない教育を行った人で、2008年の大河ドラマ「篤姫」では草刈正雄が好演して話題になった人です。

 安静の改革は安政の大獄といわれる生みの苦しみもあって、吉田松陰などが投獄処刑されたりもしましたが、まさか福山藩の藩主だとは知りませんでした。私の歴史の知識もこんな薄っぺらいものだと、自分自身の浅学を悔いました。

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 お城の直ぐ下には美術館や博物館などが立ち並び、その周囲の修景は景観賞にも選ばれるなどしていて見事でした。また美術館前の広場には立派な美術オブジェがあって、和洋新旧が見事にマッチしていました。夕闇迫る公園では市民が長閑に散歩を楽しみ、時折近くを通過する新幹線の白い物体が、一瞬だけ時の動きを感じさせてくれました。

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 福山城周辺の散策は1時間弱で終わりましたが、今度広島方面から新幹線に乗る時は是非東京に向かって左側の席をキープして福山城を列車の中から見て見たいと思いました。つかの間でしたが、思い切って福山城を訪ねてよかったとしみじみ思いました。


  「福山は 日本らしさの 残る街 友も知らない 穴場発見」

  「安政の 大獄吉田 松蔭と ここで繋がる 歴史赤糸」

  「新旧と 和洋が見事 マッチした 公園ひとり のんびり歩く」

  「桜咲く 季節楽しみ 再訪を したいと心 決めて去り行く」 

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〇つかの間に福山城を訪ねる①

 私のように四国に住むものが新幹線を利用する場合は殆どが岡山から乗車して大阪や東京を目指します。したがって余程のことがないと倉敷・・福山・尾道などは縁遠い駅なのです。広島は博多や九州各地への行き帰りに使うものの、岡山に比べたらその数は少ないのです。それでも新幹線の列車に乗って車窓を眺めるのが好きな私は、車窓に姫路城などを発見すると行って見たいような気分になり、何度か途中下車して訪ねたことがあるのです。そんな車窓の風景の記憶に、福山駅北口の直ぐ傍の福山城があって、一度は訪ねたいと思っていました。

 昨日出かけた福山は広島県第二の都市で、校区単位に設置された公民館などへは度々招かれて話に行っていますが、その殆どは今治から島伝いに架かったしまなみ海道を車で行くため、公共交通機関を利用しないのです。しかし私はどうしても新幹線の車窓から見える光景が忘れられず、昨日は少し早く福山入りできたので、急な思いつきでカーナビに歯向かって福山城を見学することにしました。お城近くの丸の内パーキングに車を止めて一人歩いて散策しました。

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 何処が入り口か分からぬまま、お城のことゆえ何処からでも上がれるだろうと鷹を食って登り始めました。城門がないので多分正門ではないと思いつつ登って行くと、直ぐに天守閣前の広場に出ました。いやあ実に立派な五層のお城にびっくりしました。このお城は松山城のような高い城山に聳えるお城ではないいわゆる平城なのですが、優雅さは天下一品でした。

 お城の入り口で中を見ようとポケットに手を入れると財布がないのです。車の中のバッグに入れたままだったので、残念ながら引き返すことも出来ず、今回は城周辺の散策でお茶を濁してしまいました。それにしても福山城はとても立派に復元と管理ができていて、こじんまりとした風情は必見の価値がありました。

カメラ散歩でその全容の一部をご覧ください。

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(五層の天守閣)
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(広場にある松の木は味のある幹筋をしていました)
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(月見櫓)
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(湯殿)
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(時を知らせる太鼓櫓)
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(荘厳な城門)
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 福山といえば鞆の浦といわれるような歴史的イメージや日本鋼管などの会社を思い浮かべます。最近は鞆の浦の開発か保存かが司法の場で争われて一躍話題になっていますが、どうしてどうして、この城山周辺だけでも周りの倉敷や尾道に負けない歴史的景観が残っているのです。軽薄かもしれませんが私は駆け足で散策した福山城周辺の景観で福山市への想いが少し変わったようなのです。勿論鞆の浦も大好きな景観だし、福山市と合併した沼隈や内海、神辺、新市なども加えると日本に誇れる街だと思いました。


  「カーナビに 逆らいハンドル 左切る 福山城の 辺り散策」

  「車窓から 見ていたお城 目の当たり いいもの見たと 感激しきり」

  「お城見て お目々白黒 あっちこち 短い時間 ゆえに充実」

  「ポケットに 財布入れずに 城入れず 残念無念 次の機会に」


 

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〇何気ない街中の風景と去る人来る人

 何気ない街の風景の中に、「オッ」と感じることが時々あります。昨日は金融広報委員会の会合が、日本銀行から農協会館リジェールに変更になったため、日本銀行に車を止めて歩いて会場まで行きました。季節はもうすっかり春の装いで、街中を歩く人の殆どはコートを脱ぎ、のんびり歩いているように見えました。

 伊予銀行本店、共済会館、県警本部の裏道を通って堀端通りに出ると、市駅方面から坊ちゃん電車がやって来ました。今はもうすっかり松山の街に溶け込んで、振り向いたり物珍しそうに見たりする人は殆どなくなりましたが、それでも可愛らしいその姿に、思わず持っていたカメラを取り出して一枚写してしまいました。こんな時はいつも、「よくぞカメラを持っていたなあ」と思うのです。

 私は松山にやって来た友人を案内するため、まだ一度しかこの坊ちゃん電車には乗っていませんが、できれば桜の花の咲く頃に孫でも誘って乗りたいと思いました。

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(松山の街中を走るマッチ箱のような可愛らしい坊ちゃん電車)

 「さあ会場へ入ろう」と目をやると、農協会館の玄関先に農協運動の象徴的な言葉を刻んだ石碑を見つけました。書かれている言葉は「一人は万人のため、万人は一人のため」と書かれ、その下には横文字で記されていました。横文字をメモしようと思っていたら、同じ会議に出席するメンバーから声を掛けられたため、やむなく諦め一緒に8階までエレベーターで上がりました。

 会議の最中もこの言葉が気になっていました。「誰の言葉だったのか?」「どんな意味だったのか」「誰に対するメッセージなのか」色々考えましたが、その真意はこの会館に勤めていた清水塾長に後日聞くことにしたいと思っていますが、いい言葉ながらこの様な精神が社会から消えている現状を寂しく思いました。



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(農協会館前の素敵な言葉の石碑)

 この日の研修会は、愛媛県金融広報委員会の会長を務める日銀松山支店長さんも見えられ挨拶をされました。私たちのような人間にとって日銀支店長さんにお目にかかる機会など滅多にないので、嬉しい限りです。

 この日はこの一年間の反省と来年度の計画や役割分担などについて話し合いましたが、今季限りで退任するアドバイザーに感謝状が贈られ、新しくメンバーに加わるアドバイザーに委嘱状が手渡されました。私より遅く委嘱された人が退任される度にいつも思うことですが、【私もそろそろ」という思いが頭をよぎりました。

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(会長さんから感謝状を贈られた今期で退任される田上アドバイザー)

 昼食は少し豪華な幕の内弁当が用意され、田上さんの送別会が持たれました。短い期間だったためそれほど親しいお付き合いはありませんでしたが、それでも会合の度にさわやかな笑顔で接してこられたまるで春風のような人だったと思いました。

 昼食を食べながらの雑談は久しぶりに楽しい笑い声に包まれました。この3月は間もなく終わる今年度の報告書を作ったり、来年度の予定も報告しなければならず何か慌しく感じますが、任期中はしっかりと役割を果たしたいと思っています。


  「何気なく 街中ウォッチ するだけで 何処か新し 発見ありて」

  「桜咲く 堀端辺り 電車乗り 孫と一緒に 散策したい」

  「春なると 行く人ありて 来る人も 我はそのまま どこかこそばい」

  「なるほどと 石碑刻んだ 言葉読む 声を掛けられ 我に返りて」 

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〇ちょっとした気配りの給油

 私はこの歳にしては車に乗って西に東に、北に南に、時には県外までも遠出する方です。ゆえに驚くほどガソリンを入れるのです。しまなみ海道や瀬戸大橋を渡ったりする時はそこここにガソリンスタンドがあるのでどうということはありませんが、時には徳島や高知、中国地方の草深い里に分け入るときは、余程気をつけて満タンにして行かないと、ガソリンスタンドが殆どなく、あっても土日や深夜は休みとあって、ガソリンの残量が不安になるのです。

 まちづくりや村おこしに関わっていると、講演などで招かれた地域を支援したいという気持ちから、できるだけ訪ねた町や村のガソリンスタンドで給油をするようにしていますが、前述の通りのガソリンスタンドの有様なので、ままならないのです。

 先日しまなみ海道を渡って岡山県の山奥へ講演に出かけました。前述の通り軽い気持ちでガソリンスタンドを探しながら走ったのですが、ついには見つからず、帰郷復路が夜だったためガソリンが底をつきかけ、やっとの思いで深夜営業のガソリンスタンドを見つけたときには冷や汗をかいていました。

 これと同じように県内や町内を走る時には、日ごろ疎遠にしている下り線のガソリンスタンドで給油するように心がけています。昨日も西予市へ行った帰りにそのガソリンスタンドへ立ち寄りました。田舎のガソリンスタンドは近所の人がたむろして中々賑やかです。昨日は偶然にもこのガソリンスタンドで滅多に会わない同級生に出会いました。彼は農業をしていますが、失礼な話ながら私より幾分老けて見えました。それは自分の思い違いで、多分傍目から他人が見れば私だって彼と同じように老けて見えるのでしょうが、まあどっちでもいい話なのです。

 田舎のガソリンスタンドは一日の給油量は少ないため、給油してくれるご主人も奥さんもたいそう喜んでくれます。その笑顔がとても嬉しくて、また立ち寄ろうと思っています。


 私の友人が伊予市でガソリンスタンドを経営しています。先日新聞やテレビで報道されましたが、阪神淡路大震災のような地震災害などが起るとガソリンスタンドは停電になって使えなくなるのです。このガソリンスタンドでは太陽光発電と自家発電を整備して災害時に対応できるガソリンスタンドを四国で始めて造り、市役所と協定を結んだようです。市民生活にとってこれほど心強い見方はありません。

 最近のガソリンスタンドは安売り競争や店員を減らしてコスト削減をしています。ガソリンの価格はその殆どがガソリン税で、設備投資や人件費が多い割には薄利なのです。そんな向けない業界で災害対策に目を向けるこのガソリンスタンドの勇気ある行動を称えるために、先日そのガソリンスタンドに立ち寄り30リッターの給油を行いました。私の給油など微々たるものですが、それでもこれもささやかな気遣いなのです。

 さあ今日も、車で往復300キロ以上の広島県福山市までも講演旅行が始まります。帰りは夜遅い日帰りなので、とりあえず昨日夕方満タンにしました。明日帰ったら自家発電を整備した友人のガソリンスタンドで満タン給油をしたいと思っています。

 1円とか2円のガソリンの値引き店よりも、店の笑顔と経営理念を選んで給油する私なのです。

  「ちょっとだけ 気配り給油 する私 安売りよりも 笑顔嬉しく」

  「セルフなど いまだに慣れぬ 私にて 同乗妻に 任せ居座る」

  「災害が 起れば給油 出来ないと チリの津波に 恐れおののく」

  「喉元を 過ぎれば忘る 悪い癖 南海地震 備えできたか」

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〇審査委員として審査会に参加しました

 昨日は西予市の依頼で審査会に審査委員として招かれました。最近は補助金・助成金を受ける場合もプレゼンテーションがあって、補助金・助成金を受けようとする人たちは、ペーパーやパワーポイントを使って審査委員の前で、セールスポイントを喋るのです。審査委員にはあらかじめ事前に審査資料が届けられ、知識を吸収して望むのですが、審査委員が3人とか5人とか複数の場合は、審査要領に基づいて審査しても、審査委員それぞれの主観が違うため、選んだ結果は微妙に違っているのです。採点・評点票を提出して事務局が集計、平均点をたたき出した結果を基に意見を出し合い微調整して決定するのです。

 昨日の審査はプレゼンテーションのない審査会だったため、事前審査の集計結果と資料を持ち寄っての3人の審査員で行われましたが、採点・評点は3人とも大した差異はなくすこぶる順調に結果に導くことができ、内心ホッとしました。

 審査委員に選ばれる度に一種の不安に駆られます。「果たして自分が審査委員として的確なジャッジができるに相応しいだろうか」、「私の審査と他の審査員の審査結果が大幅に違わないだろうか」などなどですが、それでも引き受けたからにはしっかりとしなければ、応募した人たちに申し訳ないと思いつつ、今回も熱を入れて審査をしました。

 審査といえば、夕焼け音楽祭のデモテープ審査、夕日夕焼けフォトコンテスト、キャッチフレーズコンテスト、シンボルマークコンテストを思い出します。いずれも自分が発案し、自分が募集要項を作って募集、審査委員お選任や依頼、審査結果を取りまとめなどを掌る事務局を担当したのです。

 結果的には満足のいく成果を挙げて、旧双美町という町のまちづくりや知名度アップに大きく貢献しましたが、グランプリや最優秀賞に賞金を出すという、当時の行政では余り例のないことをしただけに、かなり緊張したものです。

 事務局として裏方を経験したことは、その後自らが審査員として関わって審査するのに大いに役立っています。今は時々審査委員長という大役を仰せつかって、浅学菲才ながら審査講評の作成や審査発表などにも関わっていますが、いつも選ばれなかった方々のことを思うと、胃が痛くなるような気持ちになるのです。私も若い頃から論文募集や補助金・助成金、海外派遣歳暮集などに応募して、その都度審査された結果に一喜一憂してきました。偶然にもこれまでは限りなく100パーセントに近い好結果で選ばれた幸運者ゆえに、落成者の気持ちを考えなければならないのです。

 昨日の結果は市長さんに報告され、市長さんが判を押して決定し発表、表彰と順を追ってゆくものと思われます。何事もなく成果が現れるよう祈っています。

  「文書にて 予備の審査を 行なうが 三人三様 微妙に違う」

  「選ばれし 人や団体 嬉しいが 選漏れ人の 顔々浮かぶ」

  「俺などが おこがましくも 審査員 長年生きた 証だろうか」

  「若松さん 呼び止められて ハッとする 審査帰りの 道でばったり」

 

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〇どこかにいい職はないかな?

 私の知人友人たちは、私と同じような年齢のため、私と時を同じくしてリタイアしたりリタイアしようとしています。既にリタイアした人の中には、再雇用という美名のレッテルをいただいて、元の古巣もしくはその近くに職を得ている人も多いようですが、天下りと感違いをして役所が用意した職場に赴いたものの、これまでの地位や給料とは程遠い待遇に現実の厳しさを味わっているようです。

 先日、そのような友人に出会いました。役所勤めの最後を部長職級で終わったその人は、どちらかというと傍目から見れば多少偉そうぶるようなところがあって、部下も命令を聞いてくれたから自分では偉いと思っていたようなのです。しかし辞めるとその上下関係が一変し、これまで文句を言っても命令に従っていた部下は、むしろこの人を見下げたような言動になったようです。

 給料はこれまでの4分の1に落ち込み手取りは僅か、その上そんな仕打ちまでされては頭にくるらしく、黙って絶えれば3年は再雇用が延長されるのに、ついにこの春3月末日をもって退職するというのです。私に別の職を探して欲しいと依頼がありましたが、私はそんなに顔も利かないときっぱり断りました。そして社会の現実を知らなさ過ぎると友人に色々な話をしてやりました。

 まず自分の部下に対して自分は偉いと錯覚してこれまで取ってきた接遇が問題です。命令系統は上下関係ですから、命令さえすれば部下は動きます。でも本当に人が動くのは人を思いやるハートだということを忘れていたのです。役所の人間関係は意外とクールで、辞めた後まで尾を引くような濃密な人間関係を保てる人は本の数人です。でも部下を大切にしなかった上司はもっと悲惨で、声すら掛けてくれないのです。


 もう一つ肝心なことは、退職を間近に控えた人や辞めた人は、管理職という仕事以外何も出来ず、つぶしが利かないということです。多分この人も再就職をしようと探すのでしょうが、60歳そこそこの人を雇ってくれるような職場は殆どなくそんなに甘くはないのです。今の世の中は有史以来の不況風が吹いて、大学院卒という学歴を持っていても、「何が出来るか」という関門で門前払いされるような社会なのです。

 いつの間にか染み込んだ傲慢や甘え、それに口先だけで動く社会と勘違いしていた考えを改めないと、これから始まるであろう第二の人生も結果的には上手く行かないのです。私たちは高齢化社会の中で、退職後20年も30年も生きなければなりません。ましてやその社会で生きていることを実感するような暮らしをすることは容易なことではありません。

 「輝いて生きるあんたが羨ましい」とその友人は別れ際にポツリ言いました。私だって楽をしたいけれど、「輝いて生きるために一生懸命生きているのだ。あんたも頑張れ」と励まして別れました。さて友人はこれからどう生きるのでしょう。


  「ええ職は ないか相談 されました 甘くはないぞ 両目で見ろよ」

  「天下る 場所でやれない 人などは 誰も雇って くれたりしない」

  「輝いて 生きるあなたが 羨ましい 輝く努力 知らないくせに」

  「管理職 以外に出来ぬ その身にて 明日から無色 違った無職」

 

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〇自著本にサインを求められて

 このところ、友人や知人から私の自著本購入希望が相次いで、嬉しい悲鳴をあげています。私はこれまで以下のような本を出版しているのです。

 ・町に吹く風

 ・出会いとふれあい

 ・ミレニアム200年その日私は

 ・私のはがき言葉

 ・今やれる青春(1200円)

 ・昇る夕日でまちづくり(1500円)

 ・夕日徒然草地の書(500円)

 ・夕日徒然草水の書(500円)

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 既に絶版になっている「町に吹く風」を著したのは42歳の時でした。この本は毎月2回、10年間で240号、ふたみ広報を殆どたった一人で執筆したものに、あとがき「こちら編集局」へ「大根心」というペンネームで書いたコラム原稿のまとめでした。

 ちょうど42歳の厄年だったため、金もないのに妻に無心を言って80万円の資金を用意してもらい、厄除けとして出版し、お世話になった方々に無償配布しました。その時心ある方々から祝い金までいただいたこともありましたが、自分としてはこれで厄から逃れたような気持ちになりました。これ以外にも「出会いとふれあい」や「私のはがき言葉」も既に絶版し、手元にさえ残っていないのです。

 「ミレニアム200年その日私は」は、限定20冊の手作り本です。これは私が西暦200年という一年をどんなことを思いながら365日過ごしたかを著しました。毎日書いたA4一枚の原稿を一ヵ月分一冊に綴じ、まちづくりセンターに出向していた三瓶町職員の三好誠子さんに校正を依頼し、校正が終わると役場のコピー機を、用紙持込という了解を得て20部印刷し、12ヵ月分まとまったところで20部を自分で製本したのです。一部づつ三好誠子さん、町長さん、図書館、教育委員会などに配布し、手元に2冊残しましたが、その一冊は人間牧場の書棚に眠っているようです。

 残部が殆どなくなった「夕日徒然草地の書」以外の、「今やれる青春」「昇る夕日でまちづくり」「夕日徒然草水の書」で購入希望に応えているのですが、そろそろ次の出版を考えなければならなくなったようです。とりあえず5部作を予定している3部作目の「夕日徒然草火の書」は今年中には出版する予定ですが、さすがにこの歳になると執筆疲労が重なって思うに任せないようです。

 購入希望者の中には、私の署名サインを求める人が多く、求められる度に多少困惑するのです。というのも私は字が下手糞だからです。恥はかき捨てとばかりに書いていますが、時には人前で書けと言われたりすると困ってしまい赤面したりするのです。昨日も「夕日徒然草地の書」「夕日徒然草水の書」それぞれ10冊もサインして送りましたが、何ともお粗末な字にため息が漏れました。


  「自著本に サインをしろと せがまれる イボ字切れ字で ごまかし書いて」

  「貰う本 読まぬが買った 本は読む ゆえに有償 送り届ける」

  「凡人と 自認の私 本を書く ゆえに内容 つまらぬけれど」

  「記録する ゆえに記憶に 残ってる 平凡日々を 重ねて生きる」  

 

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