shin-1さんの日記

○税の確定申告

 退職してから5年が経過しましたが、毎年2月の中旬になると頭を悩ませることがあります。それは税の確定申告です。勤めていた時は申請書を期限内に会計へ提出すれば、年末調整をしてくれていたため、何の苦労もなく終わっていたのですが、今は自分で申告をしなければならないのです。

 私の場合は自由業なので決まった給料はなく、大学などで講義をしたり講演などでいただいた講師謝金をまず一覧表にする作業を行います。講演に招かれる主催者は殆どが市町村や団体、それに会社などなので、そこから年末から年始にかけて、源泉徴収票が送られてきたものを大切に保管しておき、一覧表に書き込んでゆくのです。呼ばれないと仕事がない相手任せの自由業ながらこの一年、北は北海道から南は九州までほぼ満遍なく招かれ、驚くほど皆さんの前で話をしているのです。

 私の場合は講演先で講師料をいただく場合は、例外なく1割の源泉徴収が行われていてるため、既に税金を支払っているため、むしろ毎年申告すれば国税が還付される仕組みになっているので、そのことも楽しみの一つです。

 いつも気になっているのですが、講演料をいただく場合講師料に交通費を加えた額に税金がかかっています。例えば2万円の講師料+2千円の交通費=2万2千円ー2千2百円(所得税10%)=1万9千8百円が手取りとなるのです。講演料の所得税10%は当然でしょうが、実費2千円の交通費は当然いる必要経費なのに何故10%差し引かなければならないのか合点がいかないのです。


 そのため確定申告では交通費として支払った金額をインターネットなどで丹念に調べて必要経費として計上するのです。税のことはまったくの素人なので昔役場に勤めていた頃の友人の助言を借りて計算していますが、自分の心の中に「申告は難しい」とか、「申告は嫌だなあ」という後ろ向きな気持ちがあるため、2月の中旬を迎える度に何処か憂鬱になるのです。

 それでも昨日は一覧表を作成し終わり、証拠書類となる源泉徴収票を順番に並べてやっと基礎資料の作成を終えました。後は友人の助言を得て書き込み申告するだけなのです。

 10%の納税をしていますが、税金はこればかりではありません。所得に応じて市民税や国保税、介護保険税などなど、二重三重と重い税金がかけられます。「税金を払えることはそれだけ所得があった証拠だ」と半分開き直って諦めていますが、それにしても私たち庶民にとって税金はきついお仕置きのような気がしてなりません。

総理大臣は毎月1千5百万円ママからいただいていても、知らなかったで通るのに、私たち庶民は何故?と思う人も多いのではないでしょうか。


  「納税は 国民義務と 言いながら 何処か変だと 今年も思う」

  「ママ貰う 毎月小遣い 脱税し 庶民の私 何で税金?」

  「申告を しながら思う 楽しみは 還付幾らか 去年参考」

  「年金で 暮らす私と 妻二人 家計はやはり 気になるところ」

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shin-1さんの日記

○生きていたミツバチ

 寒い冬もそろそろ終わりに近づいてきました。雑草は偉いものでそのことを知ってか知らずでか、ぐんぐん地下茎と新芽を伸ばし始めていて、日当たりのよい場所ではもう足にまとわりつくように伸び始めているのです。冬の間すっかり音沙汰もなく、私のミツバチの師匠である西予市野村町山奥組の井上登さんに、先日佐賀県で開かれた全国大会同行の折、ミツバチの動向について相談しました。井上師匠は私の心配を他所にあっけらかんとして、「冬は休むものだから多分大丈夫」と太鼓判を押してくれました。

 それでも心配をしていましたが、昨日人間牧場へ出かけた折目を凝らして見てみると、どうもミツバチが出入りしているようなのです。嬉しくなってその様子をデジカメに収めてきました。この写真を見た方は「えっ?、何処にミツバチがいるの?」と不思議がるでしょうが、巣箱の左隅に出入りするミツバチが5~6匹見えるのです。察するにこのところの陽気に誘われて、人間牧場に咲いている梅林で蜜を集めているようなのです。

若松進一ブログ

 巣箱に入れられてはるばる遠いこの人間牧場へ、野村町からミツバチがやって来たのはちょうど一年前の2月11日でした。ど素人の私がミツバチを飼うという話をした時、快く相談に乗ってくれた井上さんは用意した2つの巣箱に蜜蝋を塗り、巣ミツバチの入った巣箱を置いて帰りました。その後別の箱に分封してその数を増したものの、スムシなどの被害で結局は巣箱2個だけの採密でしたが4升も蜂蜜が採れ、おもしろ教室の子どもたちも様々な経験を学んだのです。勿論初めての経験だった私もミツバチのことについて多くのことを学んだ一年でした。


 私が日本ミツバチを飼おうと思いついたのは、人間牧場にやって来る子どもたちとわが長男が、ミツバチを飼いたいという一言からでした。その言葉につられ木下さんの紹介で高知県馬路村の農家で巣箱を貰い、井上さんと出会って実現したのです。紆余曲折はありましたが、日本の各地からミツバチが消えつつあるという話にはショックを受けました。その原因は酸性雨、電磁波、異常気象、外敵、病気の蔓延などがあるようですが、いずれもまだ解明されていないようです。でも日本の山々が杉やヒノキなどの人工林に覆われて、日本ミツバチが山を下りなければならなくなった自然環境の変化は、サルや鹿や猪などが山里に出没するようになった原因と何処か共通しているようにも思われるのです。野生動物が住みづらくなったなった日本の自然環境を、これからもミツバチ飼育を通してもっと学んでゆきたいと思っています。


  「ミツバチが 巣箱出入り する姿 冬を越したか お前は偉い」

  「この箱の 中でミツバチ 何をして いるのだろうか 想像広がる」

  「ミツバチは 正直者だ 暖かく なれば戸外に 働き出かけ」

  「人間の エゴが作った ツケ多い 元に戻すは 容易じゃないな」

 

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shin-1さんの日記

○人間牧場は梅や椿が満開です

 友人清水和繁さんから旧正月の年賀状が届いて、何処か春めいたような錯覚を持ち始めました。そういえば寒さ一辺倒だった外気温も、さすがに朝夕は寒いものの昼間の日向は暖かく、田んぼのあちこちには黄色い野生の菜の花が咲いて春間近を思わせているのです。わが家の家庭菜園も豊作だったチンゲンサイやブロッコリーに花が咲き始め、いよいよ食べごろも終わりに近づいてきました。わが家では昨日の夕食にチンゲンサイを使った八宝菜が並び、妻は「来年もチンゲンサイを植えてね」とせがまれました。

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(見事に開花した人間牧場の梅林)

 昨日は人間牧場へ中学校の同級生たちが9人も訪れ、楽しいひと時を過ごしました。その後片付けをして梅林へ下りて行きましたが、日当たりのよい所は満開で春の穏やかな日差しを浴びて輝いたように見え、「綺麗だなあ」と思わず見とれてしまいました。多分この花を愛でるのは私と、遊びにやってくるメジロやウグイスだけでしょうが、それゆえに愛おしく、しばらく道淵に腰を下ろして見とれてしまいました。

 毎年のことながら花を見て春を思い、花を見て梅の実の熟す初夏のころを思い出すのです。「この分だと今年も梅の実は豊作だろうなあ」と、花より団子を考える打算的な考えはさておいて、今月いっぱいが見ごろの人間牧場の梅の花をしっかりとこの目に焼き付けたいと思いました。

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(真っ赤なやぶ椿の花も今が見ごろです)

 植えて3年目になるというのに中々太らないブルーベリーの畑の隅には椿の木が沢山あって、椿の花も梅の花と同じように見ごろを迎えているのです。椿は花びらを散らす山茶花と違い、花が首から落ちるので演技が悪いとよく言われますが、寒さの中で凛と咲く椿も捨てがたく私は大好きです。咲いてよし、また散って花を散らすように落ちている姿も風情があるのです。

 中々太らないと文句を言っているブルーベリーは他の樹種に比べ芽吹きが早く、木の芽はもう芽吹きの準備が整って、今にも開きそうな勢いです。昨秋ペレット肥料を思い切り施肥したので、今年は大きく成長してくれることでしょう。


  「梅椿 見る人もなく 春に咲く せめて私が 愛でてやらねば」

  「花よりも 団子気にする 私には 花を表現 するに値わず」

  「やぶ椿 一輪折りて 花器に挿す われの風流 褒める人なく」

  「田舎住み 田舎に暮らす 特権は 一人花見を 楽しむできる」

 

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○人間牧場へ同級生の女性がやって来て心ときめきました

 今日は朝から、いやひょっとしたら昨晩から、今日を楽しみにしていました。というのも中学校の同級生の女性たちが9人も、人間牧場へやって来るというのです。双海町やその周辺に嫁いだり住んでいる仲間が集まって、人間牧場を覗いて見ようという話がまとまったのです。

 妻に話すとその殆どの人は顔見知りなので、何かご馳走を作ろうか相談されましたが、余り気を使わない方がいいと軽くあしらっていました。ところが昨晩台所で何やら妻がごそごそやっていました。デザートに天草を炊いてゼリーを作るらしいのです。今朝起きてみると台所の台の上にゼリーは出来上がっていました。

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 私は気にも留めず朝早く危険物回収場所へ危険物を出しに行き、その足で人間牧場まで行って風呂を溜め、薪ストーブを焚き、そして囲炉裏の板を開けて五徳を並べ、ストーブの中で起った火を入れました。そして炭をつぎ足し火が起ったのを確認して家まで帰りました。

 妻は既に仕事に出かけた後でしたが、味噌汁やデザート、タコ刺しや南蛮漬けなどが既に出来上がっていて、それらを積んで待ち合わせ場所のシーサイド公園へ出かけました。何人かはもう既に到着していました。やがて後発隊も到着し適当なスピードで山道を登りました。

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 今日の震源牧場界隈は、今時珍しい北東の風が吹いて少し寒く感じられるもののまずまずの好天に恵まれ、ほっと胸をなでおろしました。皆さんとは60歳の還暦の時同級会をして以来の出会いなので、あれから早くも5年余りが過ぎているのです。この歳になると話の内容は家族のことや年金のこと、健康のこと、同級生の音信など、堰を切った滝のように楽しい話が沢山出てきました。幸せなことに今日は男が私一人なのでもてることもてること、こんな会だったら再々して欲しいと思いました。

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 この日は皆さんから落伍のリクエストがあって、ネタ本である「夕日徒然草」も飛ぶように売れて、たった9人なのに29冊も売れました。有難いことだと感謝しながら今日は大番頭も小番頭も塾頭もいないので、たった一人で捲りや拍子木叩きをしながら思いつくまま適当にお話しをさせてもらいました。落伍ライブも大受けで、大笑いをしてもらいました。

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 昼食はそれぞれが色々なもを持ち寄っていたため食べ切れないほど豪華で、私も勧められるままに色々な物を食べて時を過ごしました。幾つになっても同級生はいいものです。今のことは忘れる年代になりましたが、昔のことはそれぞれ懐かしく思い出話に花が咲きました。

 やがて3時前になったのでそこら辺を片付け、再会を約束して2台の車に分乗して人間牧場を去って行きました。私は火の始末や使った道具類を片付け、風呂のお湯を抜いてあらかた掃除をして皆さんの後を追うように下山しました。

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 中学校を卒業してから半世紀50年が過ぎました。私たちの母校であった下灘中学校も今年度限りで上灘中学校と統合し、長い歴史に幕を閉じて廃校になる予定です。寂しい気もしますがこれも時の流れだと諦めなければなりません。しかし学校がなくなっても下灘中学校の同級生であることは変わりないのですから、これからも折に触れ出会って旧交を温めたいと思いました。その場所として人間牧場を使っていただくことはこの上ない喜びです。お互い元気でこれから始まる人生を、元気でもっと楽しく生きて行きたいと思いました。

 あの頃可愛らしかった皆さんもそれなりのおばさんになっていました。勿論わたしもそれなりのおじさんになっているのですから五十歩百歩でしょうか。(大笑い)

  「あの頃は 可愛いかったが 久しぶり 会えばおばさん 俺もおじさん」

  「あの頃の 夢は何だと 尋ねれば 花嫁なりたい みんななってる」

  「いつまでも 話していたい 同級生 後姿に 手を振りながら」

  「あの頃に 帰りたいけど 帰れない 人は誰でも 老いて行くもの」

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shin-1さんの日記

○これはいかん。最近歩くことが少なくなりました

 毎日忙しく過し、その忙しさを出来るだけ時間的に縮めようと車に乗って要件を済ませてしまったり、椅子や畳に座ってテレビ、パソコンに向かって座って過し、私はいつの間にか歩く足を持っていながら、歩くことを忘れてしまっているのです。私たちの歩く目安は健康を維持するためを思えば一日一万歩だそうですが、一万歩などは余程努力しないと時には千歩や二千歩で終わる事だってしばしばあるのです。

 私の携帯電話は俗に言う高齢者向きの機能の少ないものですが、私にとってはこの少ない機能でも使いこなせず持て余し気味です。その機能の中に何故か万歩計機能があって、それが毎日記録されるようになっているのです。これも私の大まかな目安なのですが、その万歩計機能を一週間くらいにごとにチェックし、少ない週は少し暇があると歩いて歩数を補正するようにしているのです。


 昨日もそのことが気になって万歩計を確認すると、雨の日が続いたり原稿書きで部屋に閉じこもっていたりしたため、歩数不足が目立ちました。そこで夕食前に裏山の山道を歩くことにしました。昨日までの雨で山道はしっとりしていました。また昨日は強風波浪注意報が発令されて、この時期には珍しい北東の冷たい風が吹き、その風が顔や手足の温度を奪い、かなり冷たく感じました。それでも急峻な山道を少し急ぎ足で歩くと、体がポカポカして、10分も歩くと少し汗ばむほど温かくなってきました。それでも万歩計は伸びないので少し遠いと思うところまで足を伸ばしました。お陰さまで万歩計は1万3千歩を記録することが出来大満足でした。

 家に帰ると仕事から帰った妻が食事の用意を終えていました。昨晩は鳥取赤崎の友人である中井さんからいただいた手作りトマトケチャップを利用したスパゲッティや、北海道から送られてきたキタアカリという黄色いジャガイモの塩茹でなどに加え、焼き魚やブロッコリーなどが食卓に並び、さしたご馳走ではないものの私にとっては大いに満足の行く食事でした。

 散歩がてらのウォーキングで汗をかいた後の食事は空腹ゆえに美味しく感じました。最近は出来るだけ「間食はしない」「夕食門限は9時まで」を守っているため食欲も旺盛で、それでいて体重も維持しているのです。酒タバコもも飲まず、ましてや肉や甘いものも食べない私にとって感触と食事門限は、十分過ぎるほどの健康管理なのです。これにウォーキングが加われば鬼に金棒かも知れません。

 昨夕の少し多目のウォーキングが功を奏したのか、昨晩は熟睡することが出来ました。健康維持は入力と出力のバランスです。飲食を入力すればそれに見合った運動による出力をしなければ体に蓄積することは当然のことです。これからもそのバランスに気をつけて、あること言う人間の基本をもう一度かみ締めて暮らしたいと思っています。


  「携帯の 万歩計見る こりゃいかん 歩く歩数の 記録びっくり」

  「一歩前 一歩余分に もう一歩 万歩計見て さらに一歩と」

  「そういえば 椅子と車が 多過ぎる 基本は歩く 肝に銘じて」

  「歩いた日 腹空き食事 美味しくて 熟睡目覚め すっきり元気」  

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shin-1さんの日記

○座敷にかき餅を干しました

 昨年の秋、友人の西岡栄一さんから「もち米を作ったから食べて下さい」と、何と30キロ2袋、つまり一俵ものもち米をいただきました。そのもち米を2回に分けて精米し、正月と人間牧場にかまど小屋ができたことを記念して開いたかまど開きのイベントに使わせてもらいました。後の残りを正月餅の切れた頃に一回使って餅をつき、そして旧正月に昔懐かしいか気持ちを作りました。ついた、作ったといっても別に私たち夫婦が手を汚した訳ではなく、生活改善運動に取り組んでいる妻の友人が2回とも「ついで」といって加工してくれたのです。

 お陰様で正月からこれまで、朝食はパンを食べずお餅を2個ずつオーブンで焼いて食べているのです。餅は腹持ちがよいのか妻は少し餅太りのような気がしています。

 私たちが子どもの頃には旧正月ともなると、一族が本家であるわが家に集まり、朝から晩まで餅をついていました。旧正月頃の寒の水に餅をつけると長持ちするという言い伝えを守っての作業だったようですが、餅と一緒にかき餅も沢山作りました。おやつとて余りなかった時代ですからこのかき餅はとびっきり上等なおやつで、砂糖の入ったかき餅をばあちゃんがもったいぶって、火鉢の上で箸で引き伸ばすと倍くらいな大きさになり、何枚も焼いてもらって食べたことを覚えているのです。

 その後食油が普及してこのかき餅は油で揚げるとまた格別な味に変身しました。油で揚げるのは母の仕事で祖母は死ぬ間際まで練炭火鉢で焼いて姑と嫁の時代感覚の違いを見せ付けていました。


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(座敷に干したかき餅)
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 妻も私と同じように古い時代の人間ですから、「今年は西岡さんから貰ったもち米でかき餅を作ろう」と相談がまとまり、妻の友達がその夢を叶えてくれました。

 一昨日まるでトランプのように小切にしたかき餅がモロブタに入れられて帰ってきました。一日だけ蒸して落ち着かせ、粗風に当てると割れるので、座敷を掃除して新聞紙を敷き、工夫して一枚一愛丁寧に重ね並べました。予想以上に多いかき餅に一人で悪戦苦闘しましたが何とか干すことができました。

 子どもの頃は親の目を盗んで半乾きのかき餅を火鉢で焼いて食べたことを思い出しましたが、半乾きのかき餅は中に空気が入ってまるで枕のように膨れるのがこれまたたまらない至福でした。


  「かき餅を 座敷に並べ 干しながら 幼な思い出 頭に浮かぶ」

  「かき餅を 火鉢で焼いて くれた祖母 いつの間にやら その歳になる」

  「かき餅が 乾けば仏壇 供えよう 俺もこうして 元気でいると」

  「かき餅は 貧乏ゆえの 宝物 伝えたいけど 伝えられない」

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shin-1さんの日記

○旧正月に年賀状が届きました

 昨日と一昨日、相次いで2枚の年賀状が届きました。一枚は観光カリスマ百選の一人である、山梨県清里の船木上次さんから、もう一枚は年輪塾々頭の清水和繁さんからでした。日本全国が訳の分からぬバレンタインデーなどで馬鹿騒ぎしているこの時期に、季節はずれの年賀状を受け取れば、誰だって「あれっ、何で今頃?」と首をかしげるのでしょうが、古い時代の人間の私にとっては、また年輪塾ネットで清水塾頭のメールを読んでいる私としては、一休さんではありませんが頭に「ピーン」ときたのです。

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 清水さんの言うように新暦で暮らしている現代人にとっては、随分慣れたとは言うものの、冬が始まったばかりなのに新春という言葉が使われたりして、何処か違和感のようなものを感じていました。日本人は今流の言葉で言うとファジー(あいまいと訳すべきか)型人類で、キリスト教でもないのに教会で結婚式を挙げたりしても別に気にもならない人種なのです。

 テレビが普及して、立春だの秋分だの冬至だのと旧暦の24節気を行事を交えて紹介していますが、新暦で育った世代が主流を占めるようになった現代では、旧暦を語る人も少なくなって肩身の狭い思いをしています。


 私たちが子どものころは戦後間もないこともあって、何故か新正月と旧正月が2回あって、わが家が漁家だったため、正月が2回あることを不思議に思っていました。また前年にお葬式を出した家では新正月をせず旧正月をしていたような記憶もあるのです。

 潮の満ち引きが漁の良し悪しを決める漁家にとって旧暦は、今も暮らしにしっかりと息づいていて、親から子どもに遺し伝える言い伝えやことわざもまだまだ沢山残っています。概して島や半島それに漁家などがかなり遅くまで旧暦の正月を祝う風習が残っていたようです。今頃は新正月でさえ門松やしめ縄飾りをしなくなった日本人が主流を占めるようになったのですから、旧正月の思い出など昔話になっているようです。


 今年の旧正月元旦は2月14日でした。親父が家庭菜園の主導権を持つわが家では、この頃になると農作業の春の準備が始まります。ジャガイモの作付けはこのところの暖冬陽気に誘われて既に終わりましたが、伊予路に春を呼ぶ椿さんは今週末の20日から始まるようなので、いよいよ土起こしがスタートとするのです。

 「梅は咲いたか」、「はい咲きました」。「桜はまだかいな」「はい、桜の花はまだのようです」。季節とともに暮らし、季節を楽しむのであれば今一度旧暦を見直して見る価値はありそうです。清水和繁さんあんたは偉い。


  「時ならぬ バレンタインデーに 年賀状 届いてハッと われに返りぬ」

  「そういえば 日本の暮らし 狂ってる 旧暦見れば 一目瞭然」

  「暦など 何処吹く風の 日本人 暑さ寒さも 知らぬようでは」

  「季節愛で 季節おののき 生きたいと 旧暦学ぶ この歳なって」


 

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shin-1さんの日記

○専門学校山本学園の来年度入学学生への講演会に招かれて

 昨日は松山市にある山本学園という専門学校の入学説明会があって、その記念講演をして欲しいと頼まれ出かけて行きました。地元愛媛大学へ教えに行っているものの専門学校は門外なのでどんな学校なのか興味もあって、講演依頼に添付している学校のホームページにアクセスして一通り目を通させてもらいました。山本学園といえば私の町出身の村井先生がいらっしゃる所なのでよく知っていますが、63年の歴史を持つこの学校も少子化の洗礼を受けつつあるようす。いい学生を集めるためのさまざまな仕掛けをしているようで、「新しい」とか、「生まれ変わる」とかいう言葉が見え隠れして、学園内部の改革や変革を感じました。

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(午前中)

 学校は松山市のど真ん中にあってとても便利です。近くの駐車場に車を止め、同行した妻と別れて学校へは30分前に到着しました。受付入り口は学生たちで多少混雑していましたが、元県教育長の高橋先生が学園長を務めているらしく、受付で笑顔の握手をさせてもらいました。

 この日私の役目は開会行事が30分間あった後に、午前と午後それぞれ50分筒2回講演するのです。午前中は中予の学生、午後は東予・南予の来年度入学する予定の学生にお話をするのです。この日の私が決めた演題は「新しい発想で生きる」、~学生たちへのメッセージ~でした。

 講演時間としては少し短めなので何を話そうか迷いながら、終始つとめて楽しい話をしました。学生の後ろや横には保護者や先生たちも多数いましたが、あくまでも学生たちを基本に考えてたつもりですが、先生たちは午前と午後の二度も同じ話を聞かせてはならないと、多少変化をつけてお話しました。

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(午後の講演会)

 それにしても昼食をはさんで2時間余り置いた午前と午後の一日2回の講演は少々疲れました。そもそも私に講演の依頼をいただいたのは副校長の小池先生でした。先生は裁判所の調停委員もされていて、昨年12月に行われた調停協会での私の講演を聴かれてのご指名だったようです。

 小池先生とともにお世話いただいた進路指導室長さんとも親しくお話をさせてもらいましたが、2回目の講演が終わったとき学生の代表から花束までいただいて見送られました。汗顔のいたりでした。

 ところで午前中挨拶に立った高橋学園長さんが面白い話をされました。若と苦という漢字についてです。若は草冠に右と書きます。一方苦は草冠に古と書くのですが、高橋先生の言うように確かにこの二つの漢字は似ているのです。右が何故若いのかは右総代などと呼んで順番が一番前なので若いのかも知れません。また古は古いから若くなく、苦しいのかも知れないと勝手に解釈したりしましたが、いいお話を伺いました。


  「学生と 保護者に向かい 話しする みんな熱心 眠ることなく」

  「花束を 頂き会場 後にする 汗顔しきり 嬉し恥ずかし」

  「バレンタイン そうか今日は 義理チョコか 何個かもらい 悪い気もせず」

  「そういえば 何処か似ている 若と苦は 私若松 いい方解釈」 


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○楽しい表情の大栄集落の案山子たち

 伊予市双海町から隣の町へ抜けるのには、国道378号を大洲市長浜へ向かう方法と伊予市中心部ヘ向かう方法、それに下灘から内子と大洲市柳沢、上灘から中山へ抜ける方法があります。交通量が圧倒的に多いのはやはり国道378号で、佐田岬半島の付け根である八幡浜市保内のごぜ峠の長い長いトンネルが出来てからは一気に交通量が増して、車の途切れることがないほどです。

一昨日の夜私は、旧広田村へ行くため自宅から翠小学校の前を通って中山へ抜ける道を選んで走りました。夕暮れ間近な大栄集落を走っていると、道沿いに何やら怪しげな人影が沢山見えました。車のウインドウ越しなのでよく分かりませんでしたがさらに走って急カーブに差し掛かるとその数は数え切れないほどでした。

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 家を出るのが孫の守で遅くなり、先を急ぐため時間は取れないものの気になって、車を止めて見るとどうやら案山子のようでした。「ああこれが噂の大栄の案山子か」と思いながら、大きなカーブの路側帯に車を止め、デジカメを取り出して写真を撮ろうと思いました。丁度犬を連れ散歩している顔見知りのおじさんに出くわしました。「おや、誰かと思えば若松さんじゃあないですか。お珍しい」と立ち話が始まりました。田舎のおじさんやおばさんは話す速度もゆったりとしていて、このままだと時間に遅れそうなので、「すみません。先を急いでいるものですから写真だけ撮らせて下さい」と言葉をさえぎり、何枚か写真に収めました。

 案山子は大小さまざまですが殆どが等身大のためリアルな表現でした。案山子は結婚式の若いカップルもあったり、バイキンマンやアンパンマンなど子どもに人気のキャラクターなども勢ぞろいしていて見てるだけで思わず「フッ」と噴出したり、中には誰かに表情が似ているものもありました。

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 この大栄集落も何年か前の古い資料なのですが、確か人口が90人余り、個数は34戸で高齢化率は50パーセントに迫る準限界集落なのです。つまり10年後には確実に限界集落になる運命をたどっているのです。そかしそうした暗い社会を払拭するため、案山子で町おこしをしている地域を見学に行って、案山子で町おこしをしようと有志が思い立ったようです。

 もし私だったらこの案山子村をどう料理するか妙案を考えました。この案山子それぞれに俳句か川柳を募集して小さな看板を立ててはいかがでしょう。例えば結婚式を表現した案山子であれば、今の世の中を痛烈に風刺して未知行く人の目と足を奪うのです。私流の笑売啖呵ならさしずめ、「持参金 ならぬ持参田 如何です? 地味婚なれど 俺ら幸せ」と書けば足を止めて読んでくれ、「なるほどなあ」と思ってくれるのです。


 私は田舎に住んでいます。確かに人の数も少ない地域なのですが、それでも裏を返せば水は美味し、空気も美味い、ましてや海の幸山の幸にも恵まれ、また人情もこの上なく温かいのです。今は金額こそ少ないものの年金もそれなりにいただくし、そしてたまに松山や東京などの都会にだって行けるのですから、これ以上の幸せはないのです。殆どの人が田舎はつまらないと嘆いて暮らしていますが、いくら嘆いても人は誰も助けてくれないのですから、日々の暮らしをこのようにもっと楽しめばいいと思うのです。

 高杉晋作が「おもしろき こともなきよを おもしろく すみなすものは こころなりけり」という辞世の句を残しています。まさにこの句のとおりで心がけ次第で楽しく生きれるのです。願わくばこれからも健康でみんなと楽しく、そして地域社会になにがしかのお返しをしながら生きて行きたいと思っています。


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  「もし案山子 住民登録 したならば この地は一変 過疎は解消」

  「川柳か 笑売啖呵 募集して 看板立てば 話題沸騰」

  「面白き こともないけど やり方で 田舎暮らしは 一変します」

  「田舎住み 贅沢三昧 暮らしてる 欲や不満は 捨ててください」 

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○会費千円で呑みに来ませんか

 「会費千円で呑みに来ませんか」というお誘いが友人の玉井さんからありました。「私はこの週末孫尚樹のお守りを頼まれていて行けない」と断りましたが、飲み会の目的が広田村あかりの宿の運営を3年間請け負った赤松さんという女性を囲む会だというので、娘に少し早く来てもらって行くことにしました。赤松さんは数日前玉井さんが伴ってわが家の煙会所へ来て、「大人の学校を作りたい」という夢を聞いていたのでそのことが気になってもいたのです。まあ早い話が玉井さんの顔を立てなければならないだけの話なのですが、わが家から山道を通って約1時間ですからかなり遠い道のりなので、妻は危ないからよした方がいいと言いました。

 合併前は同じ伊予郡だったこともあり、また役所に勤めていたこともあって頻繁に出かけていた見慣れた山道もすっかりご無沙汰で、うっかり忘れるほどでした。

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 行きは中山~内子小田~広田も道を、帰りは少しだけ砥部寄りの広田~中山~双海の道を選んで往復しました。あかりの宿は広田の道の駅仙の里の直ぐ上にありました。一度行ったきりなので多少不安でしたが記憶をたどり少し遅れの6時20分ころに到着しました。既に宴たけなわで20ほどのにわかしつらえの椅子は満席でした。玉井さんが私の席を作ってくれ、短めの自己紹介をして宴会に加わりました。会費千円ですからそんなにご馳走はなく無造作に鍋に箸を入れひとまず腹ごしらえをしたところで、討論会のようなものが顔見知りの木村さんと赤松さんの対談のような形で始まりました。

 私はほんの少し顔を出したらあくる日が早いので引き上げようと思っていたものの、議論は熱を帯び結局延々3時間も、いつの間にかホワイトボードに記号のような汚い文字まで書いて討論の輪の中にいる自分を発見し、ハッとわれに返りりましたが後の祭りでした。

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 彼女はこのあかりの宿を砥部町から指定管理者制度に応募して受託して3年間経営したそうです。それほど知名度名ある施設でもないので運営は悪戦苦闘だったと推察しますが、委託期間が終わり再応募したものの選に漏れ去ることになったそうですが、彼女の頭には次の起業構想が芽生えていて、ある意もその説明会のような雰囲気でした。彼女とは玉井さんが事務局を勤める宇和島出身者で作るがいな会で初めて出会っただけですが、南予出身者らしく熱いものを持っていて、昨日の夜もその想いを沢山聞きました。

 しかし彼女の夢は参加した人たちが危惧するように、まだまだ起業するに値する構想には程遠く少し危ない面もあるようです。でもそれを押して一歩踏み出すのが若者の特権なのかも知れません。今後波風や山谷もあるでしょうが、何とか夢をかなえさせてあげたいような気持ちで夜道を帰ってきました。

 「会費千円で呑みに来ませんか」という甘い言葉の誘惑に負けたばっかりに・・・・・。


  「一時間 かけて山道 走り行く 呑み会じゃなく 千円議論」

  「夢語る 危ないけれど その夢に 乗りたい気分 いつの間にやら」

  「夜の道 右か左か 迷い道 カーナビさえも 行く手示さず」

  「えっ内子 えっ砥部ここは 何処だっけ 合併ゆえに 頭混乱」

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