shin-1さんの日記

○第50回青少年赤十字研究会に参加しました

 今日は朝から忙しい一日となりました。旧友で先輩の大森安幸さんが亡くなり、伊予市のルミエールという葬祭会館で11時から葬儀が行われました。本来なら何はさておいても葬儀に参列しなければならないのでしょうが、青少年赤十字研究会の講演を頼まれていて、やむなく少し早目に葬祭会館に到着して、柩に入った葬儀前の先輩の顔を見せてもらい最後のお別れをいいました。

 午前中はそんなこんなで何かと忙しく取って返し、少し重たい気持ちを抱えながら約束の12時に間に合うよう下灘小学校に向かいました。結果的には少し遅れるかも知れないと電話で予告していたものの遅れず懐柔に到着しました。来賓控室である校長室には日本赤十字愛媛県支部の皆さんや伊予市の教育長さんたちが午前中の分科会や公開授業を終え、既に昼食の真っ最中で、失礼ながら私もその末席を汚して昼食をいただきました。

 今日の集会には130人ほどが出席していて、いつになく盛会でした。この集会は1年前から計画されていて、私は異動して今は松山市内の小学校に勤務する池田前校長先生から講演のご依頼があった時は、こんな大きな集会とは知らなかったものですから、安請け合いに引き受けてしまい、今更ながらその軽率さを恥じましたが、これも後の祭りなので、腹をくくって望みました。

 勇壮な下灘太鼓の演奏が終わるといよいよ午後の研修会の始まりです。最初に開会式が行われたあと下灘小学校の西尾先生がこの2年間の研究成果を発表されました。スライドを使ってするプレゼンテーションは中々のもので、存分に実力を発揮して、発表に対する質問も途切れることなく、いい研究討議でした。

 続いて壇上に立った県教委義務教育課の田坂先生の指導助言も中々味のある話で、私の出番の前にそつのない二人の話が続いて少しだけプレッシャーを感じました。

 青少年赤十字指導者協議会副会長鈴木先生の身に余る講師紹介をいただいた後壇上に立った私は80分間しゃべり続けたのです。

 私の話は最初6歳から11歳まで果敢な少年時代に下灘小学校で3つの大きな影響を受けた話から入りました。

下灘小学校の北側眼下に広がる瀬戸内海に沈む夕日を見続けていた原風景の影響、校庭にあった二宮金次郎の銅像が読んでいた大学の一節の教え、さらには学校図書室で読み、誕生日に一人の先生からプレゼントされたジョン万次郎の生涯という本の影響など、私の原点となった話をしました。

 参加者に手を挙げてもらったところ、私の話を聞いた、若しくは私の名前や顔を知っているという人が殆どで、私は少し話の内容を変えなけらばならないと直感し急遽話を差し替え社会の変化をしゃべりました。

 青少年を取り巻く社会の変化

 ①子どもの数が減った

 ②子どもの家庭的・社会的役割が減った

 ③子どもの遊びが変わった

 ④子どもの毎日が忙しくなった

 ⑤子どもの周りが危なくなった

 ⑥子どもの親の生き方が変わった

 ⑦子どもが物質的に豊かになった

 ⑧子どもに仏壇教育ができなくなった

 ⑨子どもにふるさと感が少なくなった

 ⑩子どもに夢や仲間が少なくなった

 その上で、これからの青少年教育への提案を行う予定でしたが、時間切れとなり項目羅列で終わってしまいました。

 ①新しい自分を発見させる。②自分の生き方を設計させる。③広い世界を体験させる。④失敗経験をさせる。⑤感動する心を育てる。⑥ふるさと教育を行う。⑦目に見えない偉大な力の存在を知らせる。⑧役立ち感を養う。⑨命の大切さを育てる。⑩人間力を育てる。と結びましたが、残念ながら普通より10分間短い講演時間でタイムスケジュールの歯車が狂ったようです。でも壇上からの感触は受け入れられたような感じでした。

  「知り人が 殆ど顔を 揃えたる 研修会で 大いに喋る」

  「赤恥を かいたであろう 研修会 やっと終わりて ホッと一息」

  「このところ 少しハードが 続き過ぎ 充実するも オーバーワーク」

  「進ちゃんと 呼ばれ思わず 振り返る 馴染みの子ども 声をかけくれ」

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shin-1さんの日記

○SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の時代がやってきた

 私は35年間にわたって田舎の役場に勤めていたお陰で、それなりの情報を手に入れることができました。その殆どは時代を反映したアナログな情報でした。新聞や雑誌や本などから得る情報は、今から考えると乏しい情報でしたが、それでもかなりの量の情報を入手でき、それなりに広い視野を得て仕事や活動に役立たせてきました。しかし役場を退職して自由人になってからはその道も半ば閉ざされ、町内情報さえ「そんなことも知らなかったのか」と落胆するほど情報音痴になっているのです。多分そのまま放っておいたら他の同僚だった人たちと同じように情報を得ることもなく自分の人生を終える運命にあったと思うのです。

 しかし幸いなことに遅ればせながら、また力不足ながらパソコンとインターネットという武器を手に入れることができて、芥川龍之介のクモの糸ではありませんが、かろうじて情報が入るようになっていることは重ね重ね嬉しいことなのです。先日出会った役場の同僚だった人が、「役場を辞めてから煩わしさはなくなったが、情報が入らなくなってしまった」とこぼしていました。またある友人に私のブログの話をすると「ブログって何?」と頓珍漢なはなしをしていて、私のブログの秀作も知らない人には分からないものだとしみじみ思ったものです。

 私は何人かのグループ作っている情報ネットワークを幾つか持っています。そのネットには近況から仕事、プライベートな話題、まちづくりの情報などが毎日のように書き込まれ、身近な情報を入手できるようになってます。お陰さまで情報音痴になることもなく最低限の情報は入ってくるのです。

 しかしこの情報ネットワークもただ入ってくる誰かの情報をただ読んだり目にしたりするだけではいけないと思うのです。情報は受信も大切だが発信こそがいい情報に巡る会う手段だと思っているのです。私の「shin-1さんの日記」というブログもその一つで、飽きもせずもう3年間も毎日2本のブログ記事を書き綴っているのです。多い日には1500人もの人が読んでくれるのですからこの上ない情報発信手段です。ペーパーしか伝達手段のなかった昔は考えられないような時代になっているのです。

 パソコンの不具合で何日か書き込みができない日々がありましたが、毎日読んでいる相手は正直で途端に読んでくれる人のカウントが下がるのですから、止める訳にもいかないし、ここが踏ん張りどころと3年間こつこつ書いているのです。

 近頃メーリングリストに名を連ねながら、殆ど書き込みをしない人も何人かいて、逆に「はてあの人は最近音信不通だが元気でいるのやら」と心配する人も何人かいます。逆に書き込みを使って遊び半分でつまらない十方を流す人もいます。使わない人よりはましですが、何か勘違いしているような人もいるのです。

 まあどこかでそんなネットを整理して自分の役に立つ、また人の役に立つSNSがこれからは求められているのかも知れません。

 これまでの地域づくりでは考えられなかったような情報過多の時代がやってきました。重要情報・必要情報・聞き流し情報・廃棄情報の見極めも必要でしょうが、ネットワークシステムを武器として使う時代がやってきたようです。

  「情報が ないので寂しい 言う人が 何人もいる だが何もせず」

  「情報は 発信する人 のみぞ受く 受信だけでは 廃棄情報」

  「ブログ何 そんな仲間も いるんです それでも生きて それでも仕事」

  「もし俺に パソコンなくば どうだろう 今日からお手上げ グリコの看板」

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shin-1さんの日記

○友の死

 今年67歳になる先輩であり友人でもある大森安幸さんが亡くなりました。大森さんは双海町役場の建設課長などを歴任した技術職の人でした。

 私がはじめて大森さんを意識したのは私より2年前に青年団長になった頃でした。彼は双海町の成人式に来賓として出席した折、振り袖で着飾った女性を前に、「もっと質素に」と祝辞の中でいらぬ説教を成人に向かってしたのです。そのことがきっかけとなって町では生活改善運動の一環として、長い間洋服での成人式が続き、県下でも有名になっていたのです。

 彼は小柄ながら若いころから白髪が目立ち、シルクハットと自慢するほどの総白髪でしたが、染めることもなくその髪をトレードマークにしていました。

 酒はそれほど強くはありませんでしたが酒の席は好きでよく一緒に飲んだものです。部類の愛煙家で「たばこを止めるくらいなら死んだ方がましだ」と、私や周りの人の忠告も聞かず、「たばこを止めれない人は可笑しい。私はもう8回も止めた」とまるで漫才のネタになるようなジョークを飛ばして豪語していましたが、皮肉にも愛煙家の最も良くかかる肺の病気で死んだそうなので、これも定めと思うのです。何せ多い時には一日に2箱も吸っていて、私は彼のことを「陸蒸気」とあだ名をつけていました。

 役場で四人が夜明けの会などという訳も分からぬ会をつくり、酒を飲んだりお祭りにはお互いが出かけたりの交流をしたし、家の新築にも招かれたり招いたりしましたがその交流ももうできなくなりました。

 彼とは役場を辞めてから同じ自治会長として仕事をしました。彼が自治会長会の会長で私が副会長でしたから、色々な会合でもご一緒しましたし、忘れられないのは旧双海町役場の改築提案書を依頼され作ったことですが、残念ながらその提案は日の目を見ることなく闇に消えたようです。

 彼が病気だと知ったのは2か月前でした。それまで役場などでたまに出会うと顔が随分ふっくらしていましたが、私たちにリウマチ治療の薬の副作用と説明していました。何度か通院するうちに肺に異常が見つかり市民病院に入院していました。1か月前に見舞いに行った時は抗がん剤の副作用で髪の毛が薄くなって、呼吸しずらいと訴えていましたがまだ元気で病室の入り口まで歩いて私を見送ってくれました。

 その後3度、松山へ行ったついでに病室を訪れ話し相手になりましたが、一週間前には個室に移って併発した肺炎の治療に専念して、基の病気の治療はひとまず止めていると説明してくれました。都合4回病院で生前に出会い、色々なおみで話をしたので私にとっては思い残すことはありませんが、それにしても今どきの67歳の死は若い旅立ちです。

 昨日の夜自宅で通夜があり友人2人とそろって出かけましたが、奥さんの嘆きはいかばかりかと声をかけてお暇しました。

 今日は11時30分から伊予市で葬儀が行われますが、私は今日下灘小学校で午後講演が予定されているので、少し早目のこれから式場に行き最後のお別れをするつもりです。

 21年後あの世で会うことを楽しみんしています。大森安幸さんのご冥福を心からお祈りします。合掌。

  「友逝きし 寂しき秋の 友まぐれ 坂を登りて 通夜人となる」

  「奥さんの 涙に新 涙出る 和尚枕辺 読経節々」

  「陸蒸気 そんなあだ名で 呼んでいた 友はあの世へ 帰らぬ旅に」

  「ああついに 俺の番かと 順番を 指折り数え 少し寂しく」  

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shin-1さんの日記

○生まれて初めて飲酒運転検知の風船を膨らませました

 「あら嫌だ。あると思っていた小豆が切れちゃっている。お父さん買ってきてくれない」と、今夜8時に妻が仕事から帰っての弁です。「なんだ、こんなに夜遅くになって」といいながら、夕食の準備のある妻を見かねてしぶしぶ買いに行くことにしました。田舎ゆえの不便さか、小豆を買いにわざわざ伊予市まで行かなければならないのです。車の免許証を持ち、行儀が悪いと思いつつもアンパンを食べながら重要さに乗り込みシートベルトをして出かけました。

 ものの500メートルも走ったでしょうか、信号の手前の伊予銀行上灘支店辺りで何やら車が止まっていました。見ると警察官が一台一台車を止めて検問しているのです。そのうち私の車の近くへやってきて、「すみません。飲酒運転の検問中ですがご協力ください。はい大きく息をしてみてください」でした。私はまだ口の中にあるアンパンを飲みこみ息を吹きかけたのです。「ご主人さん、ちょっと降りてください」とパトカーまで連れて行かれました。そして「お酒は飲んでいませんか?」と再び聞かれました。「私は酒を止めてもう10年近くになります。今日ももちろん飲んでいません」というと、「すみませんが風船を膨らませてみてください」としつこく言われました。私の言うことがそんなに信用できないのですか」と言おうとしましたが、この顔ですから嘘をついていると思われたくないので、「いいですよ」と素直に応じ、生まれて初めて飲酒運転検知用風船を膨らませました。その警官は「お酒を飲んでいない方は00が出ますから少々待って下さい」と検査を始めました。そのうち検査の結果が表示され私の数字的結果は00でした」相手の警察官はこれで成績を上げようと思ったのでしょうが、残念ながら私の疑いは機械によって晴れたのです。「お手間を撮らせて済みませんでした。これも仕事なのでご理解ください」と丁重なお詫びの言葉をいただきました。

 その間何台かの町内の車が止められては通り過ぎて行きましたが、その都度私が飲酒運転で捕まったと思ったのでしょうか、かわいそうにという目で見られてしまいました。中には顔見知りもいて「進ちゃん捕まったのか」と声をかけて通り過ぎる人もいました。多分今頃はどこかで、「伊予銀行の前で検問をしている」「若松の進ちゃんが捕まっていた」などと悪い噂が立ち、明日の朝には電話がかかるに違いないのです。田舎は良いにつけ悪しきにつけこのように噂が広まって行くのです。

 私はまだ夕食も食べていないのに、えらい手間取ってバリューで妻の注文の小豆を二袋買って帰りました。家に帰るなり「お父さん遅かったね」と少し不機嫌な会話です。私は飲酒運転の検問で長引いたことを話すと納得の手合いでしたが、お酒をやめていて良かったと今日はしみじみ思いました。

 元はといえば小豆のせいで風船を膨らませる貴重な体験をしました。それもこれもお大師様のおかげなのです。わが家の入口にはお大師様が祀られています。明日は21日、そのお大師様の縁日なのです。わが家ではもう30年以上にわたってお大師様の縁日にお赤飯を炊き近所にお接待をしているのです。最初は母がしていましたが、今はそれを妻が受け継ぎ一カ月に一度やっているのです。

 明日の朝は仕事に行く前に少し早く起きてお赤飯を炊くことでしょうが、ご利益十分ですっかり親父の役目となった幟立ても明日の朝はおこなわれるようです。

 お大師様のおかげでこうして健康でいられると妻も私も親父も少しだけ信心深いお接待をしているのです。

  「飲んでません それなら風船 膨らませ 警官俺を 疑り検査」

  「ゼロゼロと 数字並んだ 検査機を 警官覗き 詫びのひとこと」

  「縁日に 赤飯炊いて お接待 妻の手助け 小豆を買いに」

  「あら嫌だ 小豆がなくて 飯炊けぬ 夜に気づいて 俺の出番が」 

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shin-1さんの日記

○オプショナルツアー

 昨夜は顔見知りであるにぎたつ会館の鈴木さんのご配慮で二次会の会場を確保していただき、みんなでワイワイ11時過ぎまで話し込みました。「朝まで語ろう」なんて豪語していた仲間も、長旅の疲れと友人に会ったことの安堵、それに酒が回り、加えて体力的な限界で早々の引き上げとなりました。でも浴衣掛けの気安さで、一次会では見せなかったもう一つの顔を見せながら賑やかに話をして旧交を温めました。谷川班長と小川さんからの酒の贈り物や松永さんのリンゴ、中井班長の鳥取梨などに舌づつみを打ちながら、お目当ての人の隣に居場所を移動したりしながら、まるで青年の船の狭いキャビンの中での語らいを思い出すような雰囲気でした。

(2次会の楽しい語らいのひと時)

 「朝6時に起きて道後温泉本館の外湯を楽しみましょう」と案内をしていたため、二次会で酒を飲み過ぎて起きれなかった2~3人を除いて殆どの人が浴衣掛けで早朝散歩を楽しみながら道後温泉本館まで10分ほど、さわやかな秋の風を受けながら歩きました。道後温泉本館は国の重要文化財であり、いわば国宝のお風呂を楽しめるのです。私が皆さんにご案内した案内状のハガキもこのアングルから私が撮影したものでした。

(宮崎駿の千と千尋のモデルとなった道後温泉本館、夏目漱石の坊ちゃん他多くの文人が訪れています)

 バイキングの朝食を済ませてロビーに勢ぞろいした皆さんで松下副団長を見送りました。松下副団長はこの日国立大洲青少年交流の家に向かわれるようで、早朝にもかかわらず所長さんと次長さんがにぎたつ会館まで出迎えに来ていました。副団長は交流機構の理事長をされていましたが、今度は大学の学園長になられたとのこと、お元気で嬉しい限りです。

(松下副団長との談笑)
(交流の家の主張さんと次長さんのおで迎えの車で大洲へ向かわれました)

 この日私たちは4台の車に分乗して子規記念博物館~松山城と予定していたオプショナルツアーに出かけました。内子や砥部、双海なども考えましたが、余りにも皆さんの動向が未定だったため、とりあえず午前中のは2か所にしました。正岡子規に触れていただくのも、松山のシンボル松山城や道後温泉もいいと思ったのです。

 松山城はロープウェーで登りました。少しカメラ散歩をしてみましょう。

(上り下りは全員でリフトに乗りました。私も久しぶりに乗りましたが快適でした)
(松山城は100メートルを越す城山の頂上にあって、文字通り松山の中心に位置しシンボルとなっています。市内には坊っちゃん列車や市内電車が走り、文学といで湯の町です)
(正岡子規が「松山や秋より高き天守閣」と詠んだ15万石の城下町です。気候温暖でミカンや魚も美味しく、文学にも度々登場し、いつも住みたい町のベストテン入りしている穏やかな町です)
(天守閣をバックに記念写真を撮りました。文学に登場する坊ちゃんやマドンナもボランティアガイドしてくれました)
(天守閣の内部は広く、全国でも木造建築のお城としては名城に一つに数えられています)
(この日は天気もよく、少々霞がかかって遠望はできませんでしたが、遠く石鎚の山々や瀬戸内海が一望できました)

 穏やかな秋の一日を城山を中心に散策し、北斗というレストランで昼食を済ませ、現地解散となりました。ある人は次の目的地を目指し、ある人は早々家路を急ぎました。またある人は再びリターンして坂の上の雲ミュージアムへ向かいました。私は井出さんと児玉さんと再びにぎたつ会館へ引き返して二人を送り、後片付けをしたり鈴木課長さんにお礼を言ったりしてみんなと合流し、空港へ残りの人を送りました。

(帰り人間牧場に立ち寄った林班長)

 その後実家に帰る林班長を乗せてわが家と人間牧場へ立ち寄り、わが家から1時間以上かかる八幡浜の実家へ林班長を送り届け午後7時過ぎにわが家へ無事帰りました。

 この日の準備を始めてから約半年、そんなにきついお世話でもないものの、林班長の援助を受けながらも一人で準備を進めなければならず、正直なところ気分的に少しだけ快よく疲れました。でも参加した皆さんとの30年ぶりの再開はそんな疲れを吹っ飛ばしてくれました。ブログにこの二日間の出来事を忘れないうちにメモし今晩は少し早めに床に就こうと思っています。

  「少しだけ 疲れた気分 察してか 妻は早めの 床の準備を」

  「温泉も 料理もないが ほっとする やはりわが家が 一番いいと」

  「思い出の アルバム増えて 今日もまた ブログに書きつ 記憶を辿る」

  「潮引きぬ つわものどもが 夢の跡 一人片付け 一人慰む」


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shin-1さんの日記

○第10回総理府派遣青年の船班長会の皆さんが愛媛県に集う

 もう32年も前の出来事です。昭和51年6月は私にとっても、今回愛媛県に来られた21人の皆さんにとっても忘れられない記念すべき年なのです。それは全国から選ばれた多くの日本青年、それにアメリカ・メキシコの青年を乗せたにっぽん丸が、建国200年のアメリカへ向けて旅立った思い出の日々なのです。

 「太平洋新時代に架ける橋」「青年の復元力を」をテーマのこの旅は、当時30歳だった私の心に大きな恩恵をもたらしたことはいうまでもありません。「もし私がこの青年の船に乗らなかったらどうなっただろう」と思うと、余りにも大きかった影響にただただ驚くばかりです。あれから30年間、当時の船の運営に深く関わった班長30名が組織した班長会は、多くの人の熱意によって団員を巻き込みながら今日まで延々と開催し続けてきたのです。残念ながら私はその30年間に僅か1回しか参加せず、仕事が忙しかったなどと言い訳しているものの、除名されても仕方がないような不義理をしてきたのです。

 ところが前年の集会で、「来ないのなら出かけてやろう」と、欠席裁判ともとれる痛いお仕置きをいただき、有無を言わせず愛媛県での開催が全会一致で決まったのです。据え膳食わぬ訳にもいかず、はてさて困ったものだと思いしぶしぶ本田班長からの電話で、受諾してしまったのです。

 昔の若いころならいざ知らず、通知を出したりホテルを予約したりする作業は、さすがにこの年齢になると煩わしく、悶々の日々となりました。6月には丸印の付いた方々に第一便の通知を出し、8月には第二便で申し込み依頼書を送りました。私のこれまでの行いにそっぽを向いたのか、来るハガキ来るハガキには欠席の所に○のついたハガキが帰るばかりで、音信さえ届かない人も沢山いました。それでも心ある人が遠くは岩手県花巻市の平藤さんはじめ21人も参加してくれることになりました。

 もともとこの集会は開催場所の班長が実行委員長としてすべてを仕切るのですが、愛媛には林富佐子班長さんもいるのです。しかし残念ながら彼女は現在横浜に住んでいるのです。それでも林さんは帰省を口実にして度々帰省し私の良き相談相手になってくれました。また今回の集会を手伝おうと前日から同じ班の滝田容子さんを伴って帰ってくれました。さらに愛南町内海柏に住む北原さんも駆けつけてくれてくれました。

 昨日の昼にはその準備をでき、皆さんが来る16時までは少し時間がるので、早く来た広島庄原市の松永さんを伴って歩いて10分ほどの四国88か所の名刹石手寺にお参りに行きました。こんなに近くに住みながら石手寺にお参りするのも久々とあって、境内にあるほの暗い洞窟まで見学させてもらいました。

 やがて三々五々一人また一人会場となったにぎたつ会館に参加者が集まってきました。なにせ私にとっては30年ぶりの再開ですから、自分の歳も顧みず寄る年波をまざまざと観察させてもらいました。確かに還暦を過ぎた人たちは見まがうほどになっていましたが、それでも昔の面影は懐かしく、握手の手のヌクモリガ0年の時の流れを埋め尽くしてくれたようです。

 16時から酒井班長さんの進行で会議が行われ、次年度の会議を守山市の住谷班長さんが担当することで決定しました。また3年後の2011年には兵庫で35周年の集いを、有村ご夫妻が中心になって神戸でやることも決定したのです。私も何とか出席したいと思っています。会議の後私が借りた青年の船の映画を上映しました。いきなり私や林班長、中井班長の感涙にむせぶ姿が大写しに映し出され恐縮してしまいました。また宴会の前に記念写真を撮影しましたが、その写真は夕方出来上がり皆さんにお配りさせてもらいました。


 松下副団長も相変わらず知的な笑みを浮かべて遠路出席していただき、参加者一同心からなる感謝をいたしました。皆さんの近況報告を聞いていると、現職の人、すでにリタイアしている人、再就職をした人、自由人となって悠々自適の人など様々ですが、皆さん幸せそうな人生を歩んでいられるようでした。

  「三十年 時の流れは 早いもの 人それぞれに 道は違えど」

  「久し振り 差し出す手と手 温もりが 伝わりジーンと 思わず涙」

  「少し老け 少しゆっくり 老いの道 所作や言葉に 気品漂う」

  「年とれど 変わらないのは 温かさ あいて気遣う 優し心根」  

 


 

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shin-1さんの日記

○友遠方より来るあり

 松山空港の近くにある垣生中学校での講演が終わって校長室で談笑していると、携帯に電話がかかってきました。友人の林富佐子さんからです。「東京から松山空港に着いたので迎えに来て下さい」というのです。予め昨日のスケジュールに入っていたことなので学校を早々にお暇して空港へ向かいました。それにしても昨日前半は「男時」でした。家を出てから信号はすべて青、途中自著本を頼まれていたのでえひめ地域政策センターに立ち寄りましたが、軒下の駐車スペースも、私が到着するとスーと一台の車が出て私の車に駐車場を譲ってくれたようでした。「うん今日は男時だ」と思って2階へ駆け上がりましたが、残念ながら清水研究員は外出中でしたが、小方主任と谷本研究員がいて、全国大会の話をすることができました。研究センターの隣には日本銀行松山支店があります。昨日の垣生中学校での講演依頼は日本銀行松山支店内にある金融広報委員会からですし、垣生中学校は私が友人を迎えに行く松山空港の本のすぐ近くにあるのですから、これ以上の「男時」はないなあと、幸運な一日を喜びました。

 空港に着くなり携帯電話で林さんに連絡すると正面玄関へ出てきました。横浜に住む林さんとは何度も出会っていますが、連れの女性は30数年ぶりの再会なのです。彼女たちは今日松山市で開かれる第10回総理府派遣青年の船の班長会に出席するため来県したのです。班長会は毎年一回班長だった人が持ち回りで全国各地で開催しているのです。私は回を重ねることもう30数回にもなるというのに東京で開かれたときたった一度しか出席していない不義理男なのです。別に敷居が高いわけではなくたまたま議会があったり、イベントがあったりと条件が整わなかっただけのことなのです。

 ところが意地悪い人がいて、出席しない若松班長の所でやったらどうかと欠席裁判にかけられ、有無を言わさず愛媛県での開催となったのです。今年は様々な全国大会が愛媛県で開催され、特に地域づくり団体交流研修大会が愛媛県で開催されその実行委員長をしていることもあって、少し慌てました。というのも今回の研修会は実行委員長兼事務局で準備万端、ホテルの予約、案内文発送、収受連絡、名簿作成と全て一人でやらなければならないのです。小さな集会と言いながらお金の伴うことでもあり慎重にやらなければと色々な策を巡らせ今日に至ったのです。

 林さんは現在横浜に住んでいますが、実家は八幡浜なので気心は知れていて、心配なのか度々電話をかけてくれました。70人にハガキを出しましたが、直前になってキャンセルなども数人あり、結果的には22人が出席することになりました。さて今日は30数年ぶりに出会う仲間が一体どんな顔をしているか、それはそれは楽しみです。返信はがきに書いたメッセージを読みながら指折り数えてこの日を待っていたのですから、思いきり楽しみたいと思っています。

 今日は私も久しぶりに道後のにぎたつ会館に泊まります。そのため朝から準備をして出かけますが、今日のノルマである2本のブログ記事も4時から起きて書き終わり、準備万端整いました。これから髭を剃って準備をします。

  「信号も 出会いの場所も 男時なり 全て順調 このままゴールを」

  「三十年 時の流れは 早いもの 俺は一体 どんなに変わり」

  「面影を 記憶の彼方 探しつつ 話をするも 思い出せずに」

  「さあ今日は 三十年ぶり 友人と 再開するぞ 嬉し恥ずかし」

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shin-1さんの日記

○物やお金の大切さを学ぶ

 昨日は愛媛県金融広報委員会の仕事で松山市の垣生中学校へ出かけました。松山空港への行き帰りによく通る道を通る度、点滅信号の所に「垣生中学校前」と表示をしているし、付近で登下校中の生徒さんを見かけることがあるので、「この辺りかな?」と思っていたため、一発で学校に到着しました。しかし正門が何処かも分からず門の前に着くと、門は門扉で固く閉ざされていました。降りて確認しましたが、不審者に間違えられても困るので、携帯電話で委員会から送られて持参した講師派遣依頼書で目の前の学校に電話をかけました。運よく松本京都先生が出て「直ぐに開けます」と出てこられました。松本教頭先生には何度かお会いしているようで、直ぐに打ち解け校長室へ案内されました。途中数人の中学生に会いましたが、度の生徒さんからも「今日は」と元気のいい挨拶がはね返り、まるで顔見知りのような対応についつい嬉しくなりました。特にカメラを忘れて車に取りに帰る途中で出会った生徒さんは、挨拶をしない下級生に「今日はと挨拶くらいしなさい」と注意してくれ、驚いてしまいました。

 中学校は普通50分授業なので講演依頼書にも13時45分~14時35分と書いていましたが、45分まで1時間構わないという事前のお話でしたのでそのつもりで話しました。

(講演が終わって壇上から340人の生徒を一枚撮りました)

 私のこの日の話の要点は、まず今日の新聞を読んで気がかりなことを5つぐらい話しました。

 ①世界同時株安・円高ドル安(自分に関係ないと思っているかも知れないが・・・・・)

 ②振り込め詐欺(あれは騙される方が悪いと思っているかも知れないが・・・・・・・・・)

 ③食品の安全性(給食でさっき食べた物が何処で、誰が、どんな思いで作っているか考えたことがあるか・・)

 ④衆議院解散総選挙(政治は大人の問題だと思っているようだが・・・・・・・)

 ⑤年間自殺者が3万人(自殺する人は弱い人間だと思っているかも知れないが・・・・・)

 新聞やテレビはむしろ自分の好きなものを見たり聞いたりするが、もっと政治や経済や社会の動きに目を見開くことを勧めました。「物やお金の大切さ」は、そこから見えてくるものが多いと話しました。

 次に人間4つの願望についてです。

 ①幸せになりたい。

 ②お金持ちになりたい。

 ③健康で長生きがしたい。

 ④成功したい。

 この4つの願望を持った人間が社会の中に生きていて、お金持ちになりたい以外は心に強く念じれば願望は叶うものだと、私の経験を話しました。人間は目に見える事象だけにとらわれがちですが、サムシング・グレート(目に見えない偉大な力)があるので、想いを強くするとその方向に導かれるという理論を話しました。

 自分の一生に必要な①人間関係の貯蓄、②健康の貯蓄、③金銭の貯蓄、④知識の貯蓄、⑤感動の貯蓄という5つの貯蓄をしながら生きて欲しいとも話しました。

 最後は氷山の一角の図解しながら潜在能力を大きくする3つの方法と、潜在能力を顕在能力に変える3つの方法について話し締めくくりましたが、生徒の皆さんは驚くほど真剣に聞いてくれました。また質問コーナーも2人の生徒さんが手を挙げてくれ、最後の生徒会役員のお礼の挨拶も堂々として中身の濃いい研修会となりました。できるだけ具体的に話したつもりでも、私の話の全てが受け入れられるとは思っていませんが、何かのお役にたてれば幸せです。

  「物・お金 大切するよう 話したが はてさて子ども どんなに聞こえ」

  「今どきの 生徒しっかり しているね お礼挨拶 凄い迫力」

  「学校の 門が閉まって どうしよう 右往左往し 携帯電話」

  「不審者に よく似た私 門前で バツが悪そに 右往左往す」 

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shin-1さんの日記

○これが本当のエコバッグ

 最近は環境問題が大きなテーマになっていて、様々な取り組みがされています。しかし一方では使い捨ての空気も強く、それぞれの集会で出されるペットボトル入りのお茶も、お茶を沸かす手間やガスの出すCO2が問題なのか、今では一般常識化してきました。私などはあまりお茶を飲まないタイプなので、キャップを開けても余ったお茶の処分に困ってしまうのです。ペットボトルを配るとまたその空いたペットボトルの処分に困るのです。

 最近はどの職場も顔写真入りのネームを首から吊り下げられた人をよく見かけますが、殆どの人が無造作にぶら下げているため何を書いているのか全く分からず、時には裏返しで全く用をなさないものまで見受けられます。あれだったら昔のように胸のポケットに名札を書いた方がまだましなような気もするのですがいかがでしょうか。ペットボトルも名札も全て横並び現象の現れで、人がするからするといった感じが否めません。お金がないと二口目に言うのですから、マイお茶運動でも始めて欲しいと思うのです。

 先週10月11日から13日まで、西予市を主会場に第31回全国町並みゼミ卯之町大会が開かれました。私は仕事の都合で11日だけの参加となりましたが、その会場受付で思わぬ紙袋を手渡されました。何とそのバッグは新聞紙でできているのです。その存在は新聞で紹介されていて情報としては知っていましたが、手にとって見るのは初めてで、その出来栄えに驚きました。

 私たちはいつの間にか紙のバックは全て既製品だとばかり思って気にも留めず使っていたのです。お菓子を買っても、お店でちょっとした物を買っても紙バッグに入れてもらうため、わが家でさえ処分に困るほど紙のバッグは沢山あるのです。

 全国大会となると来訪者に少しでも格好良く見せたい、勢いきばって紙バックや封筒を印刷して作るものです。ところが今回の大会は地元の人たちを巻き込み、地元の熱意で大会を成功させようと頑張ったのです。でも紙バッグは全部どれ一つ同じ柄がないのですから、私にいただいたバッグは私だけのオリジナルなバッグなのです。こんなバッグを貰うと嬉しくなるもので、雨に濡らさなければ結構長持ちして、私は今、金融広報委員会の金融広報アドバイザーをしている関係もあって、このバッグを金銭教育に役立てようと、あちこちでこのバッグを持参しエコについて話をしているのです。この紙バッグ製作の裏にはいっぱい裏話があるのでしょうが、それも聞いてみたいものです。

 昨日この大会を誘致した友人の岡崎さんから電話がかかってきました。大会は最初様々な軋轢に悩まされ、大会を開くことすら危ぶまれていました。また関係の団体や機関の支援も受けられず文字通り前途多難な船出でした。でもそのことがかえって質素倹約や知恵を出す団結が生まれ、予想をはるかに超える大成功を導きました。これまでの行政支援に頼った時代は終焉を迎えたと実感しました。

 私などはこの大会の何のお役にも立てずむしろ傍観者の一人でしたが、彼らの勇気ある行動が町並みゼミという歴史ある大会に一石を投じたことは言うまでもありません。

 革新とは今を否定して生きることだとしみじみ思います。長い年月同じようなことを繰り返しているとそれが当たり前になります。それをマンネリというのでしょうが、私たちはもう一度その原点に立ち返り、何故、どうしてと自問しつつ革新を起こして行かなければなりません。本物と真心は必ず残るのです。手作りしたエコバッグを手に取りながら、「これぞ本物、これぞ真心」と思いました。

  「エコバッグ 新聞紙を 再利用 いやはや驚き 丈夫なものです」

  「何故ですか どうしてですか 自問する そこにアイディア いっぱいあって」

  「成功は 次なる力 蓄える 歩みを止めず ワンランクアップ」

  「マイお茶を 始めてみては 如何かと 思いめぐらし 俺が始める」

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shin-1さんの日記

○秋の夜長を楽しく

 このところ天気がよく、日中の気温は20度近くまで上がり汗ばむほどです。しかし季節はよくしたもので秋祭の話題があちこちで出始めると、さすがに朝晩は冷え込んで少し寒いくらいになりました。妻の配慮で寝間着も夏の薄手から冬の厚手に変わりましたが、起きて直ぐに書斎に入る時は寝間着の上に薄手のジャケットを一枚羽織るようにしています。

 今頃は日の出が6時半くらい、日の入りが5時半くらいになっていよいよ秋の夜長を感じさせる頃になりました。栗名月といわれる13夜の月を今年はまざまざと見て堪能しましたが、それ以来ずっと夕日も月も綺麗に見えて秋の深まりを感じさせてくれるのです。昨晩はその月を鑑賞しようと夜9時ころに散歩に出かけました。妻はテレビを見ながら友人から貰った手作りのゲームソテリアに夢中になっていて、私は一人で往復2キロの道のりを歩きました。15夜を過ぎたといいながら月の明かりは相当明るく、月がこんなに明るいとは久々の発見でした。私は忙しさにかまけて、こんな月明かりを楽しむ余裕さえなく暮らしていることに少し後悔しました。虫の音も、拭き渡る風も、時々通り過ぎる車のヘッドライトやテールランプも全てが月明かりの中で幻想的に感じました。

 月明かりを楽しんで帰ってから家庭サウナの電源を入れました。ここのところ温泉やサウナに行く暇もなく、草刈り以外は汗をかくことも少ないのでサウナで汗を流そうと思ったのです。このサウナは建築設計の仕事をしている息子がお客様から家を壊す際に貰ってきたもので、脱衣場の入口にデンと据えられています。時々夫婦や帰省した子どもたちが使うのですが、夏は無用の長物なのです。しかしこれから寒くなると電気代を気にしながら

家庭サウナを楽しむのです。

(わが家の小さな家庭用サウナ)

 まず電源を入れて少し温めてから私が入りました。家庭用なので温泉サウナのようにはいきませんが、その分低温でも十分発汗作用があって、汗をかいた後はゆっくり入浴し再び汗をかくという仕組みです。昨晩は妻も私の後でサウナに入りました。日ごろ余り目にすることのないバスタオルを巻いた妻の肢体も中々のお色気でしたが、妻もたっぷり汗をかいたようでした

(菓子箱と爪楊枝で作ったゲームソテリア)

 さて友人から貰ったというゲームソテリアですが、これが中々上手くいかず、妻は好きなサスペンスそっちのけで夢中になっていて、鼻で笑っていた私も誘い込まれ夢中になってしまいました。一本のピンを飛び越えると飛び越えたピンが抜かれるのですが、最後の一本まで飛び越えることができず、何本か離れて残ってしまうのです。最近菱加奈ブームを呼んでいるゲームソテリアは、当分の間わが家ではああでもないこうでもないと、夫婦の犬も食わぬもめ事のネタになるようです。

 秋の夜長は寝る時間が長く、妻は喜んでいますが、私はどちらかというと夜の長いのはあまり好きではありません。でもこれはお天道様のなさることなので、しっかりと秋の夜長を楽しみたいと思っています。

  「秋夜長 手作りゲーム 熱中し 犬も食わない 夫婦争う」

  「バスタオル くるんだ妻の 裸体見て 少しうっとり 少し幻滅」

  「月明かり 楽しみながら ウォーキング バックランプの 赤の幻想」

  「夜長く 読書パソコン 書斎入り 自分の世界 一人楽しむ」

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