shin-1さんの日記

○塾の立ち上げ準備

 人間牧場での塾活動がいよいよ始まりそうです。というのも人間牧場を作った時、かつて10年間で40回のフロンティア塾のようなものをつくりたいと思っていたものの、リタイアしたにもかかわらず私の日常が余りにも忙しく、向こうが見えにくかったため伸び伸びになっていました。しかしそこら辺の飲み込みも一応できたので、そろそろ始めようかと思っていました。人間牧場を作った折、もし塾を開くのなら私が第一号とばかりに名乗りを上げ、申請書まで持参した人がいます。関西汽船に勤める浜田久男さんです。彼は不思議な人で、子どもの頃お父さんの仕事の関係で旧下灘村日喰に住んでいました。その後のことは不祥なのですが、今は民俗学者宮本常一の足跡をたどることをライフワークにして、その生き方を研究しているのです。アカデミックな凄い読書家で、私も彼から沢山の宮本常一に関する情報を得てきました。たまたま人間牧場の眼下に宮本常一の生誕地である周防大島が見えることも、彼が人間牧場に興味を示した大きなきっかけなのです。

 私はこれまで3年間、別に意図があった訳でもないのですが彼の塾生第1号希望を無視し続けてきましたが、それでも彼は足繁く人間牧場へ通い続けているのです。先日地域試政策究センターの清水研究員と松本研究員が浜田さんと一献盃を交わしたらしく、その模様を三人三様酔いたんぼの声で電話してきたのです。「機は熟したからそろそろ浜田さんを門下生に」という懇願でした。開塾となるとそれ相当な準備をしなければなりません、先日長崎へ行く途中で乗った松山観光港~小倉間のフェリーの中で坂本龍馬の船中八策ばりに、色々考えてみたのです。そのことについては志ある人に示すとして、浜田さんを塾生第一号にすることを決めました。

 さて一号で始まり一号で終わるかも知れないようでは芸がないと思い、日頃からこのことについて話している清水さんと松本さん、それに弓削島に越してきた兼頭さんと馬路村の木下さんを加える事にしたのです。このことがパソコンネットで流れて、菊間の大河内さんの耳に入り、強烈な入塾へのアピールがありました。早速返事を保留していましたが、あらかじめ用意していた名札用の板に、塾生の名前を書かなければならず、「夕やけ徒然草」出版の折、題字をお願いした伯父に名札を書いてもらうよう依頼したのです。伯父も体調が優れず高齢のため嫌がりましたが、シブシブ引き受けさせました。昨晩出来たから取りに来るように連絡があり、大学の講義日なので途中立ち寄りました。あいにく病院通いのため留守でしたが、机の上に置いているとの託けだったので、受け取ったものの文字が違うのです。塾という字の下の土が抜けているのです。困ったと思いつつ、病院から帰る頃を見計って家に押しかけ、間違った部分を書き直してもらいました。病院から帰った直ぐのドタバタだったので、これまた間違いがありまあ大変でした。

 持って帰って気がついたのですが、何とその名札に大河内さんの名前が既に書かれているのです。多分私が一昨晩書いた原稿に大河内さんの名前を、無意識のうちに書いていたのでしょう。大河内さんについても断る理由もないのですんなりことが運びました。

 さて塾長はフロンティア塾での経験から私が務めますが塾頭には清水さんになっていただくようお話しました。

私の思案ですが、塾の目指す方向にある理想の人は二宮尊徳と坂本龍馬(ジョン万次郎を加える)それに宮本常一の三人です。故に塾生はこの三人の生き方を基本とするため、誰よりも詳しく学ばなければなりません。二宮尊徳は経済と愛国、坂本竜馬とジョン万次郎は行動力と夢や発想、それに運命です。また宮本常一は日本人の心と生き方、それに愛郷心です。

 さあいよいよ船出です。血が騒いできました。

  「入門を 願い三年 経ったので ここらでそろり 腰を上げるか」

  「達筆の おじに頼みし 名札書き 土書き忘れ 半塾未熟」

  「わが名前 まんざらでなく 手にとって 付けた親父に 感謝をしつつ」

  「人の書く 文字をあれこれ いうけれど 自分の文字は まるで落書き」 

 

  

  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○過去と今を語るOB会

 私は26歳から39歳までの13年間教育委員会に勤め社会教育、とりわけ公民館に重きを置いた仕事をやりました。故に公民館関係者との交友が深く、今もその人たちと様々な活動を行っています。他の人は知りませんが、当時の私はこの仕事を終生の仕事と選び、プロに徹し思いを込めて仕事に打ち込んでいたように思います。ですから13年目に一枚の辞令で産業課に異動した時は一日中涙が出て止りませんでした。それでも様々なことを学んだ公民館をこれまた終生の恩人と選び、今も公民館の事だったらなにはさて置いても馳せ参じるようにしているのです。

 当時たもとを分かち合い、夢を語り合った人たちも年齢を重ね、一抜け、二抜けと去っていく姿を見ながら時の流れの儚さを思うのです。しかし老いや病気、それにそれなりの理由なら一抜けも納得できますが、公務員とは勝手なもので、自分が仕事の間は夢中になるのにその仕事を離れれば、「今まで言っていたことや行動は一体何だったのか」と思わんばかりに、「そんなの関係ない」的になって、私たちの視野から消えてゆくのです。

 社会教育もまちづくりも福祉も産業も、殆どの仕事はボランティアによって支えられています。ボランティア精神の必要性を仕事として説いただけなら、その人の仕事は給料のためだけだったということになるのです。公民館に勤めていた人が異動になって他部局へ変わったことを知らずその家へ電話したら、「私は公民館ともボランティア活動とも関係ない」と言って冷たく電話を切った話はそれを物語っているようです。

 昨日は公友会という公民館OBの会が催されました。道後にぎたつ会館に集まった参加者は12人で少し少なめでしたが、集まった人数など問題ではなく、久しぶりに懐かしい燃える人たちに出会い嬉しいひと時を過ごしました。欠席通知の中には病気や会議の都合で来たくても来れない人も沢山いて、コメントを寄せていました。

 近況報告では、誰もが過去と今を思いを込めてお話ししていました。中には今の公民館へのご意見や痛烈な批判もあって、衰えぬ毒舌に誰もが自分の人生や意見を重ねながら熱心に聞き入りました。しかし寄る年波とでも言うべきか、その話は過去と今の話が多く、残念ながら未来を語る部分は少なかったように思うのです。無理駆らぬ事ながら、残された余命をどう生きるか、それはとりもなおさず自分への問いかけでもあるのです。

 私は幸せな事に今は未来への夢を持ち、夢の実現に向って走れています。健康も今のところ問題もなく暮らしています。また人間関係もすこぶるよく、これといったトラブルも抱えていませんが、親父の加齢と妻の健康が気にかかり始めました。これまでどちらかというと自分だけの人生を思う存分生きてきただけに、これからは周りの人にお返しもしなければなりません。

 こうして過去と今を語る人の話しを聴きながら、今に自分もそうなる運命にあるのだろうかとしみじみ考えさせられた一日でした。

 この日私の提案で昨年卒寿を迎えられた岡島会長さんにご退任願うことにしました。20年間公友会をリードされ、私たちの星でもあり恩人だっただけにいつまでもと思っていましたが、やはり世代交代です。新会長に魚島村の佐伯元村長にご就任いただきました。岡島さんご苦労様でした。佐伯さんよろしくお願い致します。

  「懐かしい 人に出会いて 懐かしむ 懐かし話 記憶の彼方」

  「消息を 聞きつつ人は 老いるもの しみじみ思う 俺もそのうち」

  「ああそうか 過去があるから 今がある 今なき未来 ある訳もなし」 

  「恩人も ついに今年は 顔見せず 少し寂しく 体案じて」

  「

 

[ この記事をシェアする ]