○凡人の私でも論語から学ぶ
この歳になると、落ち着いて本を読みたい心境になるのですが、逆に長時間本を読むと目が疲れてきて体に疲労がたまるようになりました。昨晩も本を読んでいると夢中になって、気がつけば時計は回り午前2時です。孫をトイレに連れて行くため起きた妻が、「お父さん、早く寝ないと体にさわるよ」と注意してくれました。それでもその言葉を「うんうん」とうなずきながら無視して午前3時まで読みふけりました。サンデー毎日の自由さがそうするのでしょうが、今日は朝起きるとさすがに寝不足のような気だるさを感じるようです。それでも読書によって何か体内に新しい知識が注入されたみたいで、読書の持つ魅力を感じています。
私の場合は読書と文字書きを組み合わせているため、読んだ本の中から感じた部分を単語にしてメモします。丸写しだと自分流にならず盗作になりますので、極力単語を自分流に解説するようにしているのです。時に分らない部分はヤフーの辞書検索もしますが、それも全て書き写したりプリントアウトしたりはしないようにしています。
昨晩読んだ本の中に論語が出てきました。論語は「論語読みの論語知らず」といわれるように昔から何かと引き合いに出されるものの、原本などは浅学な私には到底理解できず、解説本を読む程度なのです。論語学而編では天与の尊い道を「温・良・恭・倹・譲」という五つの言葉で表現しているようです。この五つの言葉は道徳真髄を表しているようですが、解説で「温」とは柔軟な義、「良」とは善良にして人を愛する、「恭」とは容貌、起居、動作などの敬虔にして篤実な事、「倹」とは他人を敬って他人に快感、満足を与える事、「譲」とは他人に対して当然自己の受くべき名誉、若しくは利益を譲り与える事と書かれ、シンプルな漢字一字も解説によって随分深みが出ると思う反面、解説に解説を加えなければいけないような迷い道へと入ってしまいました。
まあ余り深いことを考えず、漢字の読み方そのままにポジティブに考えれば大体の意味は通じるのです。「温」は暖かい思いやりの心を持つことだし、「良」は良い行いをすればよいのです。「恭」は比較的馴染みの薄い文字ですが敬うことぐらいでしょうか。「倹」は読んで字の如く倹約です。「譲」も譲るですから相手に渡すことです。
日々の暮しを反省してみると、言うは簡単ですが行いとなるとこれまた難しいものです。特に倹約は自分の暮らしの中で実行しなければならないし、譲ることも相手があることですから譲るものや地位名誉も対象となります。
今朝は倹約について考えてみました。数日前部屋を掃除していて沢山ストックしていた紙ごみを焼きました。この量たるや半端なものではなく、キャリーに5杯分は処分したでしょう。本来ならこの紙ごみは分類して資源ごみに回すべきなのでしょうが、シュレッダーにかけなければならないような個人情報が多く、その分類をする暇もなく処分してしまったのです。もし私に資源ごみという意識があったら、日頃から廃棄紙ごみと情報処理ごみに分別していたらこんなことにはならなかったのです。一方では環境問題を語り一方ではこんな事もできないとはお粗末な話です。
このところ、電気を小まめに消すこととつもり貯金を始めました。コーヒーを飲んだつもり、タバコを飲んだつもり、お酒を飲んだつもりで貯金箱に小銭をれて行くのです。ちょっとしたことですが、これが意外と貯まるのです。わたしはこんなささやかな小銭しか融通しかできませんが、「一円を笑うものは一円に泣く」の姿勢で人間牧場という大きな成果を得たことを思えば、これからもつもり貯金で自分の次なる夢を是非手に入れたいと思っています。