shin-1さんの日記

○美味い物はあ・と・で・・・・・・ 

 今朝出かけはどしゃ降り、帰りは上天気と、激しい天気の変化の中で県庁所在地松山を往復しました。こうして殆ど毎日、自分の住んでいる町よりもはるかに多い時間、松山をフィールドに仕事や遊びで過ごしているのです。ふと親父の時代を考えました。私と36歳も年齢が違う親父の小さい頃は、松山へ行く道も上灘~郡中間は殆どなく、森の海岸を歩いたそうです。故に松山は途方もなく遠く、途方もなく都会で、途方もなく憧れの土地だったのです。それがどうでしょう。私などは今朝も自家用車で家から県庁までたった50分で行けるのですから、隔世の感です。しかもそこで会議や仕事をして午後3時にはわが家に着いて、何食わぬ顔で過ごせるのです。これは何も私と親父の時代変化だけではなく、自分自身にとっても東京という日本の中心地との間にも見られる変化です。私は昭和19年生まれですが、私が26歳で役場に就職したころは、東京へ出張なんて仕事は皆無に近かったのです。それがどうでしょう。今は私のようにリタイアした人間でも一ヶ月に一度くらい東京へ行き、東京で仕事や会議をするのです。しかも上手く行くと一便の飛行機で行き、最終便の飛行機で帰る日帰り旅だって出来るほど東京が時間的に近くなったのです。松山も東京も距離的には今も昔も変わりませんが、人間の英知が時間的な短縮をしたのです。私が仮に長生きして親父の年齢まで生きた36年後にわが息子がこれと同じような感想記事を書くかもしれませんが、時代の便利さにはただただ驚くばかりです。

 今日は月に一度の生協の理事会に出席しました。相変わらず若さ溢れる女性の理事さんの黄色い声を聞いて、元気をいただきましたが、議事の関係で少し遅れて昼食弁当を食べました。何時もながら美味しい弁当に舌鼓を打ちながら、ふと20数年前研修旅行に行った時のことを思い出しました。

 ある人が、「若松さん、弁当の食べ方で生まれた時代が分るよ」と耳打ちしてくれました。私は100人もの婦人会のおばちゃんと一日ハイキングをし、その引率をしたのです。弁当は婦人会が一括購入した幕の内弁当でどれも同じです。早速お昼になってみんな木陰で弁当を食べました。多分その頃はまだプラスチックの容器でなく折り詰めだったような気がします。みんな一斉に弁当を広げましたが、古い時代に生まれた人はみんな折のフタに付着したご飯粒から先に食べるのです。ところが若い人は折箱のフタには目もくれずさっさと食べ始めるのです。「勿体ない」「ご飯粒を粗末にしたら目が不自由になる」とは、亡き母の教えですが、それは日本人の教えでもあったのです。

 今日昼食弁当を食べながら隣の席に座った女性に「あなたは美味しいものから食べる?、それとも美味しいものは後から食べる?」と聞くと、「はい私は美味しいものから食べます」というのです。多分私たち年代の物のない時代を経験した人間は「美味しいものは後口」型が多いのではないでしょうか。今の若者は美味しいものから順番に食べます。そして入らなくなったら食べずに残しゴミとして捨てるのです。

 私は今日、美味しい弁当を紙類を除けば全て平らげ完食しました。私たちへの教えは「物を残すな勿体ない」だったのです。最近食の安全性が問題になり、ここまでやるかと思われるほど消費期限の切れたものはどんどん捨てられゴミになって行くのです。「勿体ない」と思うのは私たち年配の戯言でしょうが、アフリカや中東の飢餓で苦しむ人たちのことを思うと、消費国日本の傲慢さが窺い知れるのです。

 僅かに40パーセントの自給率でしかない日本の将来が心配です。今一度日本人一人一人が食について考え、改めるべきを改めないと大変な事にあるような気がするのです。「勿体ない」「物を残すな」と教えられた古き時代に育ったこと、それを教える親がいたことに感謝する今日この頃です。

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shin-1さんの日記

○変なお客さん

 役場に在職中同僚から、「若松さん、あなたを訪ねてくる人は変わった人が多いですね」とよくいわれました。それもそのはず、頭にバンダナを巻いたり、顔中髭面のまるで熊みたいな人だったりするのですから、見た目には「変わった人」と写るのは当然かも知れません。じゃあ一昨年から頻繁に私の所へやって来る兼頭さんはどうでしょう。まるでおぼっちゃんのような色白の男前で、ましては本人は絶対口にしないのですが、友人である山梨県清里の舩木さんからの紹介だと、「東京大学経済学部」を卒業し、難関の松下政経塾をこの春卒塾している超エリートなのに、身だしなみもきっちりして、見た目にはすごく好感の持てる人ながら、目指す方向や考えは相当変わり者とお見受けできるのです。このように、普通の人が普通な目で見ると前者は変わり者、後者は普通の人なのですから、人は見た目だけではないと思うのです。

 そんな中、考えも講堂も変わっていると思われる一人の公務員から電話がかかってきました。えひめ地域政策研究センター主任研究員を介した講演依頼です。その時はそんなに変わった人だとは伺っていませんでしたが、先日届いた講演依頼文章で変わった人だと思い、昨日同僚と人間牧場を訪ねてきた格好を見て「変わり者」の烙印を押さざるを得なくなりました。

(左は協働のまちづくり課主任主事の松浦宏幸さん、右が守屋基範さんです)

 手紙に添えて送られて来たその人の名刺には「NPO法人かさおか島づくり海社 営業部長 守屋基範」と書かれていました。(私)うーん面白い。

 手紙の文面冒頭に「私は市役所の職員で守屋基範と申します。役所に入ってもう25年近くになるでしょうか?。現在44歳です。主に地域振興の仕事をしています。考えるより動くことをモットーにしています」。(私)うーん普通じゃん。

 さらに続いた手紙に「平成13年から笠岡諸島の島おこし海援隊という本当に名前負けしそうな部署を作って、3人希望制で島へ飛び込みました。3年間ぐらいは無我夢中の毎日でしたが、現在8年目となり異動という字が目の前にちらつく中で島おこしに没頭しています」。(私)ええっ、嘘、試薬のノ職員なのか。それにしてもそんな課を作って手を挙げて島おこしをやるなんて、相当変わっているなあ

 まあこんな具合で彼との出会いはある日突然始まりました。しかし、その後に続いた手紙の文面を見て彼が本物でありやる気のある人間であることを確信しました。

 「平成14年に組織した島づくり海社を中心に島民と協働して事業をすすめ、平成18年9月にNPO法人を取得しています。現在、市から離島振興委託料ということでその島づくり海社を運営するための事務局長の給料分の委託料をもらって組織づくりを進めています。

 私は自称この島づくり海社の営業部長ということで企画、事業の実施、営業等を行っています。私は市から給料を貰って島づくり活動を主体的に行っています。島づくり海社は今よくいう「新たな公」ということで私の立場を理由付けながら、毎日現場で過疎高齢化の波を浴びながら、頑張っています。」-後略ー

 まあこんな訳で、人間牧場への顔見せと相なったのです。しかも私が講演に出かける今週の土曜日を3日後に控えた昨日です。私は忙しいと言ったのですが、「ちょっとでも時間を」ということでやって来ました。私はこの日梅雨の晴れ間を選んで人間牧場の梅採り作業中だったので、着替える暇もなく作業着、しかも夜来の雨で濡れネズミのような格好で出会いました。何のことはありません。相手は失礼ながらもっとひどい格好(まるで海水浴に行くような素足にサンダル履きでしたから)で安心しました。

 でも今の時代こんな公務員がいるなんて、にとても嬉しいことです。見栄や格好、それに対面を気にして上ばかりを見て仕事もしない公務員が多いのにです。私はむしろ守屋さんのファンになりたいような気持ちになりました。私だってかつては課長以外まったく部下のいない日本で一番小さな課の課長だったのですから、ちょぼちょぼです。そうだ今週の土曜日は思い切って彼のために働こうと思いました。

  「濡れネズミ サンダル素足の 客迎え お互い心 許して話す」

  「俺だって 課長一人の 課を作り 孤軍奮闘 そんな時代が」

  「本物に 出会ったような 直感が 背筋を走る 車見送る」

  「兼頭に 次ぐよな変わり 者出会い 日本も広い 面白人あり」

  


 

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