shin-1

○愛媛大学法文学部公共問題講義

 準教授丹下先生の依頼を受け、愛媛大学法文学部で公共問題の講義をするべく午前中大学へ出かけました。構内にあるケヤキ並木もすっかり葉を落とし、冬の訪れを感じさせてくれました。折しも大学の構内では防災訓練が行われていたようで、迷惑そうな学生たちがまるでアリのようにゾロゾロと歩いて訓練に参加していました。これでは防災訓練にならないのでは?と思ったほどです。

 講義会場は4階の大講義室で1回生の皆さん150人余りへのお話です。丹下先生からの指示は「まちづくり」についてでした。自分の授業は既に終わっているので、気楽な気持ちで話そうと何の用意もせず出かけましたが、さすが丹下先生は事前に会場へインターネットをアクセスしていて、学生を前に私のホームページなどをスクリーンに映しながらパソコンを使ってうまくレクチャーしていて、とても参考になりました。

 私の話が始まると殆どの学生が熱心に耳を傾けてくれるのですが、中には遅れて堂々と靴音高く入ってくる不謹慎な学生もいて、入り口が教壇の横にあるものですから、気になって仕方がありませんでした。一昨年山梨の大学で講義を依頼された折も、そんな光景に悩まされ、思い切って講義開始10分後に入り口にカギをかけて遅れてくる学生をシャットアウトした苦い経験がありました。その後そのことが話題になって、遅刻をなくすための議論がされたそうですが、正直者が馬鹿を見るようなことだけは止めるべきなのです。そこへ行くとわがフィールドワークの学生は真面目で、褒めてやりたいような心境です。

 丹下生が講義の前に話された公共問題については私と同じスタンスなので少しそのことを意識して話しました。格差社会がどんどん広がり、貧富の差、都市と地方の差などはここ数年予想以上に拡大しています。私は田舎に住みながら都会へ行く機会が多いのですが、繁栄しているはずの都会さえゴミ箱をあさったり、路上に暮す人の姿を沢山見てきました。一昨日も東京のど真ん中新宿で見たこれらの光景が目に焼きついて離れないのです。一方地方に目を転じれば、これまた一昨日訪れた秋田県では年末のこの時期だというのに、重い雪が人々の暮しを閉ざそうとしていました。低く垂れ込めた雲間から音もなく降り続く雪は、疲弊した地方を象徴しているようでした。日本全体では自殺者の数が9年連続で3万人を越えたと聞き、そのワーストに名を連ねているのが秋田や青森だとも聞きました。

 でもそんな公共問題を抱えた世知辛い時代や、地方でも頑張っている所がいっぱいあるのです。地域にはそこにしかない資源が山ほどあるのです。その資源を活かし夢を持って生きれば、必ずや道は開けるのです。その典型がかつての双海町でした。何処にでも沈む夕日を地域資源にしながら反対や失敗を恐れず勇猛果敢にチャレンジした結果、お墓参り以外人の来なかった無名に等しい双海町に年間55万人もの観光客が訪れるようになったのです。そしてそれが少なからず経済に結びついて、生き生きと輝く人たちが増え、夕日を自慢する町民が増えてきたのです。

 聴講した学生には小さな一枚のレポート用紙が配られていました。多分私の話を聞いた感想を書いてそれが出席の証になるのでしょうが、レポートを書く行為を通して自分につながらふるさとを思い出し、これから住むであろう場所で、何かのかかわりを持って欲しいと思いました。

  「遅れ来る 堂々靴音 気になって 注意の一球 拾いもせずに」

  「世の中にゃ 様々気になる ことがある 目をそむけずに 生きて行かねば」

  「自殺者が 多いと聞いて 空を見る 四国の空と 大分違うな」

  「スクリ-ンに ホームページが 映されて 下灘駅の ここが旅立ち」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○雪の降る夜は楽し飲み会・横手は楽しい②

 南国四国でこれほど雪が降ると交通は麻痺し、仕事も集会も速く切り上げて寝るのが普通ですが、やはり雪国の人たちは熱く、集会が終り食談会になると飲むほどに酔うほどにみんな元気になってきます。この光景はまるで四国高知県人のようなしたたかさです。私も舩木さんも酒は飲めませんが話しを飲み込む術を心得ていて、この日は降り積もる雪に足をとられながら、結局は3次会まで付き合って最後には自慢の焼きソバまで食べさされてしまいました。お陰で腹が張り、体内はウーロン茶でダブダブ、眠れない一夜を過ごす結果となりましたが、それは多分人の心の温かさや、この町を何とかしたいという人々の想いだったと思うのです。

 この日の夜、2次会に繰り出した店は発酵食品でもてなす小粋な「蔵ら」という日本料理の居酒屋でした。雪国らしい造りの店で、観光物産課の職員がこの店を選んだのは、発酵食品でまちづくりが出来ないか考えたいるからだとピンときました。燻りがっこやハタハタの麹漬け、カブ菜の麹漬け、お味噌、勿論納豆も日本酒も発酵食品ですから、一事が万事発酵にこだわっているのです。ヨーグルトなどを含めて発酵食品が人間の健康に良いことは既に言われており、市長さんがこれらの食品を日本的な横手の食文化だと着目している話はよく分るのです。北国の風土が育むこれらの食文化はまさに日本人が忘れてきた物で、このままだと洋風化の勢力い押され、なくなる危険性さえあるのです。華やかなイベントも分りますが、私的には横手の市民が長年育んできたこれらの生活文化を掘り起こせば、これだけでも日本中の注目を集めること請け合いです。

 横手の焼きそばも有名だと聞いていたので食べましたが、発酵文化に比べると薄っぺらいものです。でも若者には発酵文化だの言っては見ても、こんな食べ物の方が好まれるのでしょう。ここにまちづくりの難しさがあるのです。生活文化だとかを大上段に振りかざしあまりアカデミックなテーマに固守し過ぎると、若者は去って行くものです。私も食文化たる郷土料理であるじゃこ天を串に刺して歩きながら食べるという若者向きに替えましたし、夕日の望遠鏡ちくわ、夕やけソフトクリームや夕・日・日コーヒーなどを開発して若者に受け入れられました。焼きそばで若者や不特定多数の分裂型消費者を集客して風評効果を生み出し、いい消費者と学習型消費者を相手に発酵文化を高めてゆけば、横手のまちづくりは成功するかもしれません。いい消費者5パーセント、学習型消費者15パーセント、精神分裂型消費者55パーセント、無関心消費者25パーセントという消費者をどう取り込むか、知恵の出しどころです。

 三次会で出かけた飲み屋で、来年3月に退職するという課長さんに出会いました。この方はマジックが得意で、あっという間にその場に居合わせた人を引きつけます。舩木さんはもう随分前からの知人のようでしたが、舩木さんの提案はこの課長さんのマジックにヒントを得て、かまくらの期間中にマジシャンを集めてマジックショーなどをしたら面白いと、盛んに仕掛けていました。私はかまくらという日本の文化に馴染ませるには動揺コンクールなどもいいと思いました。私の吹くハーモニカはまさに雪とのコラボレーションにピッタリだと直感しました。この課長さんは外国旅行がお好きとか、広い視野を持っているしマジックという芸を持っています。これだけでも一私人になって下野したら大きな戦力になるはずです。彼の未来に乾杯し、ぬかるんだ雪に足をとられながら午前様となった夜道をホテルへ急ぎました。

  「東北の 冬の夜長に 盃を 酌み交わしつつ 夢を語りぬ」

  「これ食べて あれも食べてと 矢継ぎ早 発酵食品 次から次へ」

  「トランプで いきなり人が 集まりぬ これぞ究極 心理を掴む」

  「風評を 被害にするか 効果する どちらを選ぶ あなた次第で」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今年最後の県外出張はかまくらで有名な秋田県横手市①

 「よく行く所があるものよ」と妻が呆れるほどに、今年も日本全国狭しと東西南北を駆け巡りましたが、年末も押し迫った17日から今日まで、最後の県外出張となるであろう長い旅をしてきました。今回の旅の目的地はかまくらで有名な秋田県横手市と、これまた最後の旅に相応しい遠くて、しかも思い出に残る旅となりました。

 今回の旅はのっけから私が列車に遅れるハプニングからスタートしました。観光カリスマ百選の一人である山梨県清里の舩木上次さんと、はやて5号で一緒に行こうと約束し彼は東京発、私は新宿から大宮まで出て、大宮から新幹線で落ち合う計画でした。しかし私がその列車に乗ることが出来ず一便遅れたため、結局は1時間も遅れて北上駅での合流となりました。目的地が秋田県横手市なのに、秋田新幹線で大曲まで行かず、北上駅まで担当者に迎えに来てもらう算段なのです。四国から遠く離れた東北地方のことゆえ土地勘も分らぬまま、相手たる市役所と交わしたメール連絡を頼りに列車に乗り込み、北上駅へ着きました。

 駅へはリムジンではないもののハイクラス?な車が待っていて、舩木上次さんと供の小林さん、市役所の高橋さん、佐藤さんに加えほくとう総研の青木さんと清水さんと中々賑やかなお出迎えでした。早速高速道路をひた走り横手に向かいましたが、北上から見える山々は既に白い雪をかぶり、横手が近づくにつれて道路の沿線にはかなりの積雪があって、いかにも重そうなボタン雪が音もなく降り続いていました。雪には縁遠い南国四国に住む私にとっては珍しい光景であり、流れては去る雪景色に目を奪われ、旅の疲れなどそっちのけで戸外の風景に見とれていました。

 やがて昼もとっくに回った12時30分に目的地の横手セントラルホテルに到着し、阿部産業経済部長さんの出迎えを受けご一緒に昼食をいただきました。列車に遅れ朝食を食べるのを忘れていたため、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、しばらくの間面談し、後段で予定されているシンポジウムの出演者との打ち合わせ臨みました。パネラーは全員男性でしたが、コーディネーターは湯沢青年会議所の松田悦子さんというやり手で素敵な理事長さんでした。

(手前は観光カリスマの舩木さん、真ん中はJR秋田支社営業部長の石塚さん、向こうは湯沢青年会議所会長の松田さん)

(壇上に上がってシンポジウムをした現地パネラーの方々)

 前段は私と舩木さんの基調講演がそれぞれ1時間ずつ振り分けられていて、プログラムでは私が最初の出番でしたが、東京高輪のプリンスホテルで開かれた観光カリスマシンポで私の話術に痛めつけられた苦い経験を持っている舩木さんのわがままを通して舩木さんが最初にお話しました。彼の話はこれで3度目ですがいつ聞いても理路整然としていて、田舎物の私など非ではないと思うのですが、会場を笑いの渦に巻き込む術は不真面目な親父ギャグを連発する私に軍配が上がるようです。舩木さんの話を聞きながら18年間もフィールドバレエをやり続けている底力やポール・ラッシュの教えに導かれた高い見識を思うのです。

 そこへ行くと私の話はまるで田舎芝居のようで見劣りするものです。でもそれはそれとして、私も苦節20年、私なりに頑張って乗り越えて実績を上げてきたのですから、何ら臆することはあるまいと、最近磨き始めた話芸を披露しながら、丁度一時間お話しました。舩木さんの関東弁と私の関西弁のコントラストも良かったのか、会場の反応はとてもよく返って来ました。

 少しの休憩がありトイレに行きましたが、トイレの中で名刺交換が始まり、その後の食談交流会には100枚持参した名刺がすっからかんになってしまい、今年の県外出張の最高を記録しました。「名刺もそんなに安くはないのだから、安売りしないように」と、またマネージャーのような振る舞いをしている妻に叱られそうです。

 この日のテーマは観光でしたが、合併して10万人を超え秋田県では秋田市に次いで2番目の人口規模となった横手市には北国特有の素敵なイベントが沢山あり、これまで近隣市町村で自慢的に保存されてきた伝統が一つの街に集約されたような感じがしました。しかし余程これらの活用を上手く考えないと、大が小を潰して行きはしないか少し心配になりました。点を線で結ぶことやネットワークなどと言葉では簡単にいえても、資金的援助や情報的援助、人的援助がなければ、人口減少や高齢化に歯止めがかからない現状では厳しいものがあるようです。



(看板に偽りあり、観光カリスマ2大巨匠特別講演会の看板)

 それにしてもこの日の謳い文句の「観光カリスマ二大巨匠」とは大袈裟で驚きました。二大巨匠とは舩木さんと私だと知り船井さんと私は顔を見合わせ思わず大笑いをしてしまいました。果たして舩木さんと私の話を聞いた横手の人は「看板に偽りあり」と今頃感じているに違いありません。これを後の祭りというのでしょう。

   「ポスターに 二大巨匠と あるを見て 偽り看板 笑い冷や汗」

   「俺の町 寒いといっても まだ十度 やはり北国 雪やこんこん」

   「百枚の 名刺なくなり ギブアップ 人が恋しい 雪の降る夜は」

   「汽車遅れ ギリギリセーフ 間に合った 故に話は 思いをこめて」

 


(観光カリスマ百選の舩木さんの講演)
(聞き入る参加者)

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○網にかかったキツツキ

 人間牧場が完成して2年余りが経ちました。真新しい感じがした水平線の家やロケ風呂、それにツリーハウスも風合いが出て自然に溶け込んできた感じがします。その間野性豊かな場所に相応しくキジやキツツキ、それにイノシシなどが縦横無尽に走り回り、特にイノシシとキツツキとは残念ながら共生することが出来ず、知恵比べが始まりました。サツマイモを一つ残らず食べたイノシシは銃もワナも持たない非力な私にはどうすることもできず、網を張って侵入を防ぐことしか出来ませんでしたが、皆さんの協力で見事あn成果を収めることが出来ました。しかしキツツキにはどうすることも出来ず、新品の外壁には無数の穴が開けられて、大工さんに頼んで張り替えてもらったその明くる日から被害にあって頭を悩ませたものです。息子は何とかキツツキを捕らえたいと網を張る事を提案しましたが、景観上余り好ましいことではないと最初は反対しました。それでも自分が設計管理した建物が壊されるとあって強行に網を張ってしまいました。内心「そんな網くらいで頭のいいキツツキなど捕らえられるものか」と冷ややかに思っていましたら、ある日キツツキが一羽かかったのです。たまたまサツマイモの作付けのために人間牧場へやって来た教育委員会の職員が見つけ、私に興奮した様子で携帯電話をかけてきたのです。彼は愛鳥精神が旺盛なため「可哀想だから網を切って逃がしてやりたい」と提案してきました。非常にも私はそのキツツキをそのままにして死を待つよう言ったのです。

 かくしてこのキツツキは見せしめのためのオトリになって何日か軒先の網にかかったままになっていました。私はそのうち鳥の死骸を網から外し家に持ち帰って畑の隅に埋葬して、かまぼこの板で位牌を作りねんごろに弔いました。しかしその後もキツツキは捕獲され続け4匹も網にかかったのでした。それでもキツツキの被害は相変わらずで、ロケ風呂にも大きな穴が開けられ始めたので網を張りました。

 昨日久しぶりに人間牧場に上がって見たら、今度は先日息子と張った網にキツツキがかかっているのです。地元の人から聞いた捕獲方法は「開いた穴の中に網を差し込んでおくとキツツキが捕獲できる」というものでした。半信半疑で網を丸めて穴の中に入れておいていました。作戦大当たりで今迄で見たのでは一番大きなキツツキが網にかかっていました。

 息子は自分の作戦が図に当って喜んでいましたが、自然との共生を考えると複雑な気持ちになりました。しかしこれも人間が生きていく上では必要なことだと諦めて、少しの間キツツキのオドシとして役目を果たしてもらおうという話になって、そのままにして下山しました。

 今は野山も実りの秋なので鳥の餌が豊富にあるため、隣の柿の木は柿の実が熟れるほどに鳥の食害にあって、収穫ゼロのようです。間もなく厳しい冬が来ると樹上越冬した糖度の高い美味しいみかんを作ろうとしている農家の方をあざ笑うように、未完の食害が始まるのです。樹上越冬のみかんには、ひとつひとつ丁寧に袋やスキンが被せられるのですが、鳥たちはそんな人間様の防備も何のその、生きていくためでしょうか平気で食い荒らすのです。人間と鳥の追いかけっこは当分の間続き、農家の苦悩も続くのです。

 遠くで鉄砲の音が聞こえています。狩猟なのでしょが、最近は長崎県佐世保の猟銃発砲事件のような物騒な世の中になり、猟銃といえども身の危険を感じて思わず身構えてしまいます。安心と安全なはずの田舎にも何処となく不安と危険が近づいているようです。

  「五匹目の キツツキ捕獲 上出来と 息子胸張る どこか寂しい」

  「見せしめに オドシの役目 させられて 軒先吊るす キツツキ悲し」

  「口ばしを まるでドリルの ようにして コツコツ開ける 住宅づくり」

  「

[ この記事をシェアする ]

shin-1

○腐葉土つくりのための落ち葉拾い

 昨日は出張先の東京から帰って、久しぶりに人間牧場へ行きました。初冬とはいいながら風もなく穏やかな日だったので、透明のゴミ袋を妻に用意してもらい落ち葉拾いをしました。「落ち葉なんか集めて何にするの?」と言われそうですが、この落ち葉を使って腐葉土を作る計画です。

 人間牧場の農場でこの2年間子ども達と一緒にサツマイモを栽培していることは何度も紹介していますが、来年度は今年収穫したサツマイモの幾つかを保存しておき、種芋として目を出させてツルを取って命のリレーをしようという壮大な計画なのです。そのため愛媛県が公募しているバイオマス事業に応募しました。将来の環境を考える新しい事業なので、応募者が多いだろうし、こんなちっぽけな事業は考えても採択されることはないだろうと半信半疑の応募でしたが、何とこの事業が採択されてしまったのです。金額的には応募が多かったので総事業費10万円が多少減額されました。でも人間牧場は全て自前と決め込んで始めた事業でいささか心に引っかかりはあるものの、甘んじて受けようと、双海町からえひめ地域政策研究センターへ出向している松本さんの力を借りたり、教育委員会の皆さんと相談しながら、来年の少年少女おもしろ教室のプロローグとしてスタートする事にしたのです。

 昨日はその手始めに落ち葉を拾いに出かけました。2~3日前から双海町では木枯しが吹いたため道沿いの吹き溜まりにはクヌギや樫の葉っぱがかなりの量で落ちており、山の中を歩かなくてもどんどん集めることができました。僅か30分余りでナイロン袋に7つも拾い、トラックに積んで人間牧場の倉庫に運び入れました。近所の人がその仕草を見て、車を止めて不思議そうな目で見ながら通り過ぎて行きましたし、顔なじみの人は「進ちゃん、今度は何をしでかすの?」と笑いながら声を掛けてくれました。

 今週の土曜日には子ども達が土作りのためにやって来ます。そお作業の一貫なのですが、実はこの落ち葉にバイオマスペレットを混ぜて土の中に掘った穴に入れて発行させる計画なのです。そのためには2メートル四方の穴を掘らなければなりません。スコップと鍬を用意して倉庫の裏の空き地に穴を掘り始めましたが、これがまた中々の重労働で、すっかり非力になった私の力では中々骨のある作業でした。作業中長男から電話が入り、嬉しい事に手伝いに行くというのです。そうこうしているうちに長男がやって来て、体力に物をいわせてアッという間に掘ってくれました。

 持参していたコンパネを立ててどうにか様になりました。あいにく釘の買い置きがなく、道具箱の何本かを使って作業を終わりました。子ども達がやって来る今週の土曜日までには何とか完成したいのですが、今日からまた秋田への旅が始まり、その作業が中断してしまいそうなので、今日は新聞社の取材が入って下灘駅へ行く予定なので、その折にでも都合をつけて工事を続行したいと考えています。

 今朝は親父を病院へ連れて行く日なので、午前中は仕事になりません。年賀状の印刷原稿を今朝早く起きて作成し、とりあえず馴染みの印刷屋さんへ遅ればせながらファックスで送りました。今日からの秋田行きは今年最後の大仕事なので頑張ります。

  「道沿いの 落ち葉集めて 土作り 作業難航 息子手助け」

  「バイオマス 横文字使う 補助金が 採択されて またもや進化」

  「体力は 確実減って 口ばかり 息子見てると 羨ましいな」

  「葉を落す クヌギの木々の その下に 無数ドングリ 腐る運命」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○奥多摩町を訪ねて②

 奥多摩町福祉会館は鈴木さんの料亭「寿々喜家」の直ぐ裏側にありました。「奥多摩の明るい未来を創る会」が主催した会なので、そのメンバーに会うため会館の中にある障害者が運営する「タンポポの家」の和室でお茶をいただきながら名刺交換しました。参加者の中には双海町へ来られた議員さんたちもいて、NPO法人タンポポの会のメンバーを交えた賑やかな交流となりました。

 

 私に与えられたテーマは「観光振興と意識改革」でした。この町のように東京に近いという地の利と、少し不便という古きものが残る場所、しかもこれといった基幹産業がない地域は、あり余る自然や暮しを生かした観光を目指すのが一番だと誰もが思います。しかし観光の何をどのように誰がいつ売るのかとなると、中々回答が出てこないのが実態だと思うのです。これまでの観光はどちらかというと東京にすり寄る姿勢があり、行政主導でハードやハコモノを作るないものねだりの観光であったように思います。しかし都会の人が本当に求めているのはそんな都会の物真似をしたハードではなく、人々の暮しや文化といったソフトなのです。そのためには民間も行政ももう一度その事を意識して、これからの観光振興を立ち上げなければなりません。そして暮しや文化を物語にしてまちづくりという手法で情報発信して行けば、必ず奥多摩らしい、奥多摩にしかないオンリーワンが出来るはずなのです。

 観光の難しさは観光を経済的に潤う人の占有物だと観光に携わる人は思い、携わらない人は人のことだと投げやりになることです。まちづくりが出来ていない町は観光を語る資格がないのです。観光で成功している地域には三つの条件があります。一つは時間が守れてあいさつが出来て、人が集まります。二つ目は公衆トイレが綺麗です。三つ目はその町の入り口から出口まで花が咲いています。

 観光客が来た時、優しい声が掛けれるような町、公衆トイレが綺麗な町、花が咲く素敵な町へは、また来たいと思うに違いないのです。つまり観光は人々の心が出来ていないとリピーターは来ないのです。リピーターが来ないと経済は潤わないのです。物を作っても心ある人が来ない町は経済どころかゴミと糞とション便だけが落ちるのです。

 
(お茶会は賑やかに夢を語り合いました)

(右端が今回の仕掛け人の鈴木賢一さんです)

 会議は大勢の人が集まりました。講演に熱中し残念ながら皆さんの写真を取るのを忘れてしまいましたが、集会後寿々喜家の二階で座談会をしました。議員さんやリーダーの方々に私が話したのは、一人一人が自分の住んでいる地域をよくして行こうということでした。議員なると議員病という評論家になりがちですが、自分の住んでる地域も自慢できず、自分の地域を守れないのに全町のことをいくらいっても、人は信じてくれないのです。色々な意見が出ました。ローバイを100本植えたという話や、イルミネーションで地域を飾っている話も出ました。故郷自慢が出来る地域は素晴らしくなり、それがやがては観光となるのです。

 その夜宿泊場所となった前田副議長さんの経営する玉翆荘へ筋木賢一さんが訪ねてきて、夜遅くまで二人でまちづくりについて四方山話をしました。酒を飲まない二人ですが、話に酔い知れました。

 明くる朝、玉翆荘のおばあちゃんがハヤトウリなどの珍しい漬物を朝食に出してくれました。これが絶品でこれを玉翆荘の売り物にしたらどうかとおばあちゃんに言ったらおばあちゃんは笑っていましたが、愛媛県宇和町には漬物だけで40種類もそろえた糠床だけでお客を集めているお店があります。結構有名で著名人がやって来るのです。普通は何でもないと思っているこうした生活文化や暮しが都会の人には求められているのです。寿々喜家で食べた川魚の生燻製も絶品でした。いい物を持ちながらこれが湧きに追いやられたり、気付いていないのは何とも勿体ない話です。高齢化する中で老人が持っている暮しの技はこれからの観光を支えること受けあいです。ついでの話で恐縮ですが役場職員の意識も少し改革する必要あると感じました。

  「おばちゃんの 技が生きてる 漬物を 情報載せれば 有名旅館に」

  「当選を すると何故なの 議員病 評論するも 手足動かず」

  「このままで 追々細り する地域 足腰立つうち 何とかせねば」

  「人のこと 思っている人 役場人 これでは人が ついて来ないよ」   

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○終着駅は始発駅・東京都奥多摩町を訪ねる①

(東京都庁のある新宿に建つビル群、ここから奥多摩町への旅は始まりました。落差を感じながら・・・・)
(朝の新宿は黄色いイチョウの葉っぱが風に舞って詩情豊かに落ちていました)

 「♭函館止まりの連絡船は 青森行きの船になる♯」なんて北島三郎さんの演歌があって、よく酒を飲むと調子に乗ってカラオケで歌ったものです。そんな懐かしい歌を思い出しながら、新宿発青梅行きの快速電車に乗り込みました。中央本線は山梨へ行く途中何度も通っているし、10月にも木曽福島へのルートとして選びましたが、青梅線は初めてだし、青梅から乗り継いで奥多摩までの列車はまだ一度も乗ったことがないので、奥多摩の渓谷沿いに登って行く列車の窓辺に見える初冬の奥多摩路を興味深く眺めながら、終点奥多摩駅に到着しました。待ち合わせ時間を含めても2時間ほどの短い時間でしたが、これでやっと念願叶って南に地位置する三宅島と東京都の一番奥まった場所へ来れたのです。日本の中心地で世界に冠たる東京都なのですが、中には三宅島のような離島もあればこんな田舎もあるのですから驚きです。

 そもそものきっかけは東京都町村議会議長会に招かれ東京都内で議員さんの前で話したことがきっかけでした。「面白い話をする人もいるものだ」と珍しがられ、おらが町に来て欲しいと三宅島にお邪魔し、奥多摩町の議員さんはわざわざ議員研修の場所としてわが双海町を選ばれ、6月4日に見えられたのです。その折義言いの一人として来られた鈴木賢一さんが代表を務める「奥多摩の未来を考える会」の招きでの訪問となったのです。

 奥多摩町では先月町議会議員選挙があって鈴木さんは勿論、双海町へ来られた他の議員さんも全員当選して、懐かしい顔々にお会いするの楽しみの一つでした。

 私が双海町を出発する日は北西の季節風が吹くあいにくの天気で、傘も用意しての旅立ちでしたが、東京都は風もなく絶好の天気に恵まれ、奥多摩までの列車にはリックを背負ったハイキングを楽しむ中年の男女が何人も乗って賑やかでした。

 地元の人は不便といいますが、30分に1本の電車が走っていて、マッチ箱のようなたった一両の列車が長閑に走る私たちの町から比べると雲泥の差があるようです。木造の駅舎も立派なもので、駅前の通りも昔から比べると寂れたそうですが、それでもバスがひっきりなしに出入りして、活気があるように見えました。

(終着駅でもあり始発駅でもある奥多摩駅)
(立派な三本杉)

 予想以上に早く着いたので、ひとりカバンを提げて周辺を散策しました。駅前に降り立った時目についた杉の木を見に行きました。多摩川に架かるモダンな橋の直ぐ側に神社があってその境内に、三本杉という東京都の天然記念物に指定されている大きな杉の木がありました。実に見事な銘木です。この町には巨樹と呼ばれるに相応しい樹木が沢山あって、その数は日本一だと自慢しているようで、暇があればその木々を訪ねたいものだと思いましたが、この日は残念ながらそんな時間も余裕もないため心残りな旅となりました。私は更に役場裏の遊歩道を通って多摩川沿いを散策しました。台風9号の被害甚大で「水の色が少し濁って」と謙遜していましたが、どうしてどうして、初冬の澄んだ水がとうとうと流れ、すっかり葉を落とした落葉樹の木々が冬近しの風情を醸していました。

(役場裏の多摩川に架かる赤い橋と川原)
(水は澄んで心が癒されました)
(この水は東京へ向って流れていました。実に美しい流れです)

 さてお目当ての鈴木賢一さんとは、東京都の町村議員研修会、奥多摩町の議員視察研修会と、これで3度目の出会いになるのですが、奥多摩町のホームページにアクセスすると先月禊を受けた選挙の様子が詳しく紹介されていて、本人は謙遜して電話打ち合わせの時には微塵も漏らさなかったのですが、どうやらトップ当選を果たされたようでした。

(鈴木賢一さんのお店の入り口に張り出されたいた私のポスター、横には議員選挙の余韻の看板がありました)

 電話では駅の近くで寿々喜家という料理屋を営んでいると聞いていたので、歩いてお店を訪ねました。昼前という仕込みの時間だったこともあって、鈴木さんも奥さんも従業員の方々も厨房で忙しく働いていて、悪い時間に訪問したと察したものの引き下がることも出来ず、カウンターでお茶をいただきながら、四方山話に花を咲かせました。お昼は鈴木さん自らが腕を振るって天ぷらをご馳走になりました。カウンター越しに見える鈴木さんのお手並みは見事なもので、あっという間に天ぷら定食が出来上がり、熱々の揚げたての天ぷらの美味しかったは格別でした。

(ダム湖です。台風の余韻でしょうか、少し濁っていました)

 食事が終わって一段落したところで、東京都の水瓶といわれる奥多摩ダムを鈴木さんの運転する車で見学に行きました。飲料水源ダムとしては最大級で、東京都民は遠く離れたこの水の恩恵を受けているようで、その見返りでしょうか、周辺の施設もかなり立派で、都民のオアシス公園となっているようでした。

(東海林太郎が歌った「湖底の故郷」という歌の歌碑です。)

 しかし、奥多摩町は何処へ行っても平地が少なく、田んぼは皆無だと聞きました。急峻な地形は私の町も同じで別に驚くことはありませんが、それでも私の町には見渡せば瀬戸内海が広がっていて、景観上での閉塞感あるようです。でもその分自然が豊かで、秋や春には季節の移ろいを愛でに大勢の観光客が押し寄せるようです。

  「東京と いいつ海あり 山ありて 人の暮しの 温もり感じ」

  「三度目の 正直なのか 奥多摩へ 人のご縁は 不思議なりけり」

  「親と子が 仲良く並ぶ 三本樹 優しき町に 足を踏み入れ」

  「この水が 流れ流れて 街人の 命育む 知る人もなし」    

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○昨日で今年も終りです②

 昨日は大学の授業日でした。しかも年間60時間の最終59時間目の授業なのです。授業の組み立ては大きく分けて三つになっています。まず一つ目は春先から「地域振興とまちづくり」について総論概論や県内外実態などをデスクワークでみっちり学ばせます。そしてその中から県内先進地視察に出かける住みたいまちと訪ねたいまちの採点基準をそれぞれ4テーマ40項目考えるワークショップを四つの班に分かれて行います。二つ目はその調査票を基に県下4ヶ所の市町を調査研究するために出かけます。そしてその調査結果を個人レポートにまとめて班毎に集計し発表します。三つ目はそれらの知識を基に自分たちが訪ねたいまちの理想像、住みたいまちの理想像をそれぞれ4テーマ、40項目設定するワークショップを行いその成果を発表するのです。

 昨晩は三つ目の発表会でした。4回のワークショップと班別討議によって8枚の発表資料がいつの間にか美しく出来上がっていました。昨日はまちづくり人の主張でご指導いただいたえひめ地域政策研究センターの所長さんや3人の研究員も特別参加してもらい賑やかな発表会となりました。昨日の発表会は四つの班がそれぞれ発表するのですが、自分の班以外の班に点数をつけて採点する方式をとりました。発表資料の出来栄え、資料の着眼点、発表の方法、総合点などそれぞれ5点満点で採点しましたが、センター職員にも採点参加してもらいより客観的な方法をとりました。

(グランプリをとった3班の発表)

(2班の発表)
(1班の発表)

(4班の発表)

(発表に聞き入る学生)

(センターの皆さん)

 実はこの発表で最高得点を得た班にグランプリとして賞金を贈る事を考えました。これは毎年やっている私のささやかなプレゼントなのです。賞金といっても私のポケットマネーから1万円しか出さない僅かなものですが、学生の夕食代だと思って続けているのです。これが学生には何故か好評でグランプリを目指して一生懸命頑張ってくれたのです。結果は61点と61.5点という僅か0.5ポイントの差で3班がグランプリを物にしました。

 センターの所長さんや研究員の方にも講評を述べてもらい、また班長さんにもそれぞれ一年間の思い出を述べてもらいましたが、少しジーンとくるような場面もあって、いい発表会で終わりました。帰り際玄関で待ち受けていた学生から別れを惜しむ声が沢山聞かれ嬉しい反応にこちらも少しジーンと来ました。

 長いようでも短い学生たちとの今年度の学びは昨晩で終わりました。学生たちはこれから「私の考える地域振興とまちづくり」「学びの感想」という個人レポートを年明け10日までに提出し、そのレポートと出席簿を基に採点し、レポート類を添付して大学へ提出、私の役目を終わるのです。

 昨日大学の校内で準教授に出会ったら、来年からは夜の授業でなく昼の授業になるかも知れないと耳打ちされました。6限が5限に変わるようです。そろそろ潮時かとも知れないと思いつつ複雑な気持ちで大学の駐車場の白赤の無人出口のバーをくぐって門を出ました。

  「少しだけ 涙がちょろり いいシーン 毎年ながら 終りは寂し」

  「想像を はるかに越えた 成長に お目々細めて 発表を聞く」

  「グランプリ たった一万 だけれども それでもみんな 本気喜ぶ」

  「別れ際 お礼と差し出す 義理チョコに 嬉し恥かし 年甲斐もなく」   

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○大学の授業①

 この5年間、毎週水曜日の午後6時から2時間、決まって私のスケジュールにセットされ続けてきたのは大学の講義でした。何の見識も持たない私に、ましてや高校しか出ていない私に、「大学の教壇に立たないか」と大学の先生から声がかかったのは今から6年前の夏ごろでした。当時は役場の地域振興課長を拝命して、まちづくりの第一線に立っていたこともあって、「幾らなんでもそればかりは」と最初は辞退しましたが、まちづくりの実績を評価されての強い要請だったので、恐れながら引き受けることにしました。しかし私が幾ら引き受けても任命権者である町長の承諾がなければ出来ないため、町長に直訴をしてしまいました。多分駄目だろうと半信半疑だった私に、懐の深い町長さんは「仕事に穴を開けない」約束でOKを出してくれたのです。ところが授業のカリキュラムが既に組まれた年明け早々私が教育長に就任することになって、その後辞退したものの動き出した船を止めることは出来ず、結局お忍びで始める事になったのです。

 大学へは単発でお話しに行ったり社会教育主事講習の講師を務めたりした経験はあるものの、学びのシステムを飲み込むことが出来ず、最初は戸惑うことが多かったのですが、大学授業のアバウトさにも慣れて独自の授業構成を編み出して、それなりの評価や実績が出せるようになり今日まで続けて来たのです。それでも年間60時間の授業を組み立てることは中々骨が折れ、この仕事の奥の深さを痛感しているこの頃です。

 私は愛媛大学法文学部総合政策学科非常勤講師という肩書きで教壇に立っています。春になると対象となる夜間主の学生全員を集めてガイダンスが行われ、講師陣がそれぞれ自分の講義の魅力について話すのです。いわば学生の分捕り合戦で、学生はそれぞれの講師の話を聞いて自分の学びたい分野を選択しカードに第一希望から第三希望まで理由を書き込むのです。このカードが先生たちによって第一希望を優先しながら分類され振り分けられて授業が始まるのです。例年ながら私を希望する学生は多くて、全ての要望には応えられませんが、それでも私を選んでくれたいとおしい学生たちに囲まれて、楽しい授業が続けてこられたのです。

 私の授業はフィールドワークなので、県内の先進地と目されている場所へ盛んに学生を連れ出して、目や肌で現地の雰囲気から学ばせるよう心がけています。県内外から集まった学生にとって他市町村へ行くことなどほとんどないため、地域を調査研究といいながら市町村を巡ることはとても新鮮で熱心に学びました。

 今の学生は授業に来ているのかアルバイトに来ているのか分らないとか、授業中に私語や携帯をするとか聞いていましたが、私の教室に限って言えばそんな学生は殆どいませんし、礼儀も正しい25人前後の学生が在籍してこの5年間いい雰囲気の学習を続けて来れました。

 私にとってこの5年間はあっという間に過ぎ去りましたが、まちづくりに深く関わっているつもりでもまちづくりの現場に若者の姿は余り見ることが出来ないため、学生から逆に沢山の事を学びました。若者の意識と行動、若者とまちづくり、若者対策など5年前の私にはなかったワールドが広がっているのです。

 人は意識してその世界に入り込まないと自分の価値観が損か得か、好きか嫌いかだけの判断でしか選べないのです。損しても嫌いでもその世界に入り込む勇気が必要なのです。正直言ってこの歳になって40歳以上も年齢差のある人との気力・体力・知力の偏差ギャップは歴然としていてきつい仕事です。でももう少し心の若さを得るために努力してみようと思うこの頃です。

  「石の上 早くも五年 過ぎました 若さ学んで 老いがストップ」

  「水曜日 来るのがどこか 待ち遠し ワクワクしつつ 裏口入門」

  「先生と 呼ばれて返事 しない俺 も一度先生 われ振り返る」

  「四十八 瞳キラキラ 輝いて 俺の瞳も 輝き増しつ」


[ この記事をシェアする ]