○本を読む暇がない
最近忙しくて本を読む暇がなくて困っています。本なんて暇がなくても心がけ次第で読めるものと豪語していたのに、このところの忙しさは尋常ではなく、読書さえもままなりません。今朝も早立ちで大洲青少年交流の家へ行ったため、新聞もろくに読まずに出かけてしまいました。仕方がないので休憩時間を利用して交流の家の事務所の新聞を借りて所長室に座り読ませてもらいました。また交流の家にはあちらこちらに読書用の本が置いてあるのも有難く、時々利用させてもらっています。
先日東京の本屋で「国家の品格」という藤原正彦の本を立ち読みしました。最近起こっているいじめや自殺について彼はこんなことを書いていました。「いじめをなくしたければ卑怯を教えよ」という見出しだったと記憶しています。「いじめを本当に減らしたいのなら、大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯であるということを叩き込まないといけない。いじめるような卑怯者は生きる価値すらない。公平に戦うかぎり強いものが弱いものをやっつけてもよいという市場原理主義の考え方がいじめを誘発している。これを正すには武士道精神の中にある弱者への思いやり、すなわち惻隠の情を取り戻すことである。『命の大切さ』などというのはマスコミが垂れ流す偽善に過ぎない。本当は人の命など吹けば飛ぶような軽いものである。かくも軽く儚いものだからこそ、命は大事にしなけれいけない。たかがいじめで自殺するなどということは絶対に許されない」というのです。
私はこの文章を読んだとき身震いするほどの感動を覚えたのです。カバンをホテルに置いてぶらっと外に出て、ぶらっと立ち寄った本屋での出来事だったので、財布も持たなかったため本を買う金もなく、店主の目を盗んで思わず背広の内ポケットの名刺入れから名詞を取り出し、名刺の裏に読んだ本の上に書いた言葉をメモをしてしまったのです。どこの街の何処の本屋さんだったかは忘れましたが、してはいけないことをしてしまいました。本当にごめんなさい。(今度東京へ行ったら探してお詫びのつもりで本を買うつもりです)
本は時として私に大切なことを伝えてくれます。私のような学歴もなく生まれながらの凡人は、学習歴しかないと思い、人緒の話を聞いては学び、雑誌や本を読んでは学び、見ては学びと知識の習得に余念がないのですが、折角習得したこれらに知的能力も、忘れるというこれまた凡人たる私の不徳のために身につかないのです。でもこうしてメモにして書き溜めたことをブログに書き写して確認をすれば、少しは身につくようです。
さて先程の赤字の文章の「惻隠の情」とは「いたわしく思うこと」「あわれみ」と教わりましたが、持つものが持たない人へ温情を持つようなイメージにとらえられがちな「あわれみ」ではなく、藤原正彦がいっている武士道精神にある「いたわしく思うことの方が相応しいのかもしれません。
教育基本法の審議過程でまるで流行り病のように噴出したいじめや自殺の問題は、もう随分昔私が教育委員会にいた時代からあったことだし、今になって何でこうまで深刻な問題になったのか理解に苦しむのです。学校も家庭も社会もいじめに負けない、いじめを許さない、いじめをしないような健全な子どもを育成していればこんなことにはならなかったのです。
私たちが結成した民間ボランティアグループである、21世紀えひめニューフロンティアグループが無人島に子どもを連れて行った二十年の軌跡はまさにそのための社会への警鐘でした。当時は物好きだとかボランティアなんてと揶揄されたものでした。成績万能、塾最高なんて親の考えや、万台が起こる度に責任逃れする社会では子どもたちの命は救えないのです。
「本屋にて 名刺の裏に 読んだ本 名文写し 何食わぬ顔」
「惻隠の 情は日本の 美徳にて 人をいたわり 人に優しく」
「考えは 百人百様 様々だ 俺の考え 同じ人いる」
「ホテル出る 財布忘れて 街歩き その日に限って 買いたいものあり」