shin-1さんの日記

○人間何が幸せか

 私を勝手に「ししょー」と仰ぐ丹原町、いや今は合併して西条市丹原町に住んでいるちろりん農園の西川君に逢う度に「人間何が幸せか」考えさされます。彼は大阪出身で鳥取大学農学部を出て高校時代から付き合っていた彼女とともに丹原町にやって来て、農業を営むようになりました。丹原町来見という地名がかつての人気番組「ちろりん村とくるみの木」に似ていたのでこの名前の農園を作りました。鶏を飼ったりその糞で有機野菜を栽培したりする循環農業で生計を立てていますが、儲かる農業とは程遠く、年収100万程度だというのです。奥さんは空いた時間にピアノを教え、当の西川君は消防団や文化会館運営員など世に言う俗世と隔離することもなく普通の暮らしを穏やかに暮らしています。彼の生き方に共鳴する海外や国内の若者を研修生として迎え入れ、ギターを弾いたり、自家発電をしたり、自家製造のアルコール飲料を持ち歩くなどとにかく人生を楽しんでいるようです。

 彼の凄さは「みのり通信」というB4タイプの通信文を長年にわたって書き綴り、「晴れときどきちろりん」を出版しています。私も序文を書いてくれと頼まれ書きましたが、書く、喋る、実践できる数少ないマルチ人間です。

 いつどこで知り合ったのか未だに思い出せませんが、彼と会うたびに余分なお金など必要ないとしみじみ思うのです。自分の暮らしを見つめ直してみれば、人とのお義理的な付き合いや日々の暮らしがいかに贅沢で無用なものにお金をかけているかがよく分かります。昨日も軽四トラックに乗って平気で私たちの前にさっそうと屈託もなく姿を現わしました。

 バンダナを頭に巻いた姿も格好いいし、私の憧れの人でしょうね。これから彼の生き方に少しでも近づきたいものです。

 「人間は何が幸せか」、この遠大で究極の自分自身への問いかけに、退職を機に出会ったいわば「何が幸せか元年」とでもいうべきこの一年でした。残りの日めくりの枚数の方がこれまで日めくった枚数より酸くなった今こそ幸せについてもっともっと考えて生きてゆきます。この一年ではっきりしたのは「人生お金じゃないな」でした。

  「あれだけの収入よく喰う人は言うそれでもその人人より楽し」

  「お金など持っては行けぬあの世には何故にあくせくお金に執着」

  「俺見ろよ歳末義援に寄付をしたちょっぴり一善いい年来るかも」

  「傷跡が痛むからとてサポーター妻が配慮の上から撫でる」

 

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shin-1さんの日記

○青年の家で泊まりました

 社会教育の仕事が長かったため、私は北は北海道大雪青年の家から南は沖縄青年の家まで、全国13箇所もある国立青年の家全てを訪れ、全てに宿泊した経験を持っています。青年の家の関係者を除けばそんな珍しい人はいないのではないかと思われますが、私の場合若い頃から青年の家で随分大きな宝物をいただきました。人様の前で主張が出来るようになったり、多くの仲間だ出来たり、ふるさとを愛する心が育ったり、はたまた感動する心が育ったのは、青年団と共に青年の家での学びでした。とりわけ思いで深いのは地元愛媛県大洲市にある国立大洲青年の家で、若い頃青年の家誘致運動に明け暮れ、多くの人の力を借りて大洲に建設が決定した時は涙がいっぱいこぼれたものでした。

 昨日、今日と二日間、その思いで多い青年の家が主催する「大人を考えるシンポジウムに出掛けました。この事業の企画委員会委員長に就任しているものですから、一泊二日青年の家で過ごしました。ニートや引きこもりが大きな社会問題になっている昨今ですから、多くの人に集まってもらおうと様々な知恵を出し合って企画しました。1部は作家椎名誠さんの記念講演会とあって、内外から体育館が満員になるほど参加者がいましたが、2部の職業を考えるワークショップでは60人余りが6ブースに分かれ、地元で輝いている人たちの話を熱心に聞き入りました。夜は車座になってフリートークを若者たちと色々な意見のやりとりをしました。

 関係者が集まって深夜に及ぶミーティングを終え、講師室のベットに潜り込んで、暗闇から舞い落ちる粉雪を窓越しに眺めながら講師室のベットに潜り込んで眠りました。早朝の青年の家はまるで冷蔵庫のようで、朝のつどいや清掃、毛布たたみ、朝食などかつて青年の家で暮らした日々が懐かしく思い出されました。忙しい日々の暮らしの中で忘れかけていた青春の営みが、今もここでは毎日毎日行われているのです。30年間で300万人の人がこの青年の家を利用しているのですから、凄いことだと思います。

 一時期青年の家と不仲になったりして足が遠のいたこともありましたが、やはり青年の家には心をときめかせる何かがあるように感じられました。

  「雪踏みて望み抱きつ登り来る若者たちに生きる力を」

  「世の中も歳も進むにこの家は変わらずわれを迎え励ます」

  「朝昼夜弁当不味いとケチつける贅沢慣れた若者たちが」

  「若い頃女性の握る手ときめいたふとわれ帰り少しときめく」

 

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shinn-1さんの日記

○めっきり減った忘年会

 酒が飲めた現役の頃は酒のお誘いが幾つもあって、特に忘年会シーズンの年末などは妻が「お父さん、年末は松山から通っているよう」と錯覚するほど松山へ飲みに行っていました。あの金は何処から出てたのか?、あの飲み代を使ってないのだから相当お金は貯まるはずと思いきや、「下戸に建った蔵がない」といわれるように、酒を止めた下戸の私に蔵など建っていません。あっ、そうだ人間牧場の水平線の家が建ったので「下戸に建った蔵がある」に訂正したいと思います。

 昨日は久々に地域づくり研究会議の運営委員会終了後仲間と忘年会をやりました。会費5千円でしたが酒の飲めないウーロン茶一辺倒の飲み放題でしたが、酒の飲めない私を気遣って食べ物をどんどん回してもらうので、あいにく昼食を忘れていたものですから、お腹いっぱい食べてしまいました。

 飲むほどに酔うほどに話が盛り上がり、2時間があっという間に過ぎて行きました。一年の速さを感じる人もいれば、多くの感動の場面を思い出して感慨深げに話している人もいて、仲間ゆえ端々の共感を共有し共鳴もしました。人の記憶は忘れがちですが、私の言った何気ない一言がその人を勇気付けた話は、当の私が当の昔忘れていたことだけに、絶好の酒の肴でした。

 古くなったのでしょう。私の元へは多くの人から様々な難問相談が持ち込まれます。その都度私流に親切に、時には冷静にアドバイスするのですが、そのアドバイスのお陰で随分助かりましたと、酒の飲めない私に形だけでいいからとお礼の返盃をいただきました。車の運転をすること、酒を飲めないことの了解を前提に盃に並々、うれしい盃でした。

 酒は思い出酒・忘れ酒・やる気酒など様々です。時には酒の勢いで喧嘩酒・涙酒・慰め酒だってあるでしょう。どの酒にも味がありますが、せめて喧嘩酒だけは控え、美味しい酒を飲んで、忘年会ならぬ望年会といきたいものです。 

  「酒飲めぬ身体になって早五年今ではウーロン酔った気持ちで」

  「今日の酒思い出酒と洒落込んで慣れぬマイクで小林幸子」

  「忘年会五回もやって忘れたよそれは誤解だ酒のせいでは」

  「ふらふらと歩く人たち眺めつつ俺も昔はあんな姿で」

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shin-1さんの日記

○民という言葉

 35年間も官職をいただいて生きてきた私にとって、官を捨て民に立場を置いてみると、想定内のこととはいえ想定外の場面にも相当出くわします。官社会では常識なことが民からみると非常識なことはいっぱいあります。そのことに気付くには官ながら絶えず民的発想で考える習慣を身に付けることと、官から民に変わった私のような人間の助言に耳を傾ける方法など、幾つもの選択肢があるようです。最も悲劇は官の側にいる人が官の非常識な考えにまったく気付かず、そのまま一生を過ごしてしまう愚かさでしょう。

 公民館、民活、民力、民衆、民具、民話など民と名のつく言葉は多いのですが、その言葉の響きに何故か田舎的な匂いがすると思うのは私だけでしょうか。官は盛んに民に参加や協力を求めたがり、そのことを少しの言い訳に行政を進めています。しかしよくよく考えれば本当にやって欲しいのは、住民参加ではなく行政参加、つまり官が民の活動に参加しなければいけないのです。

 私は300戸余りの自治会の会長をしていますが、一斉清掃や盆踊り大会、同和教育講座など開催しても官たる役場職員、学校の先生などの参加は殆どなく、あれこれ忙しいと理由をつけて顔を見せません。

 先日もある自治会の集会を日曜日に計画しました。ちらしや有線放送で2週間前から周知をしていました。たまたま知人の役所の職員に一週間前顔を出くわせ、参加するようお願いしました。彼が言うには「その日は重要な会議があるのであいにく行けない」というのです。からり晴れたその日、私は集会の準備のため早朝、単車で集会所へ出掛けました。途中にその職員の家の前を通って驚きました。部下数人と一緒にゴルフの道具をトランクに積んでいました。私は顔を合わさないようにその場を通り過ぎましたが、彼は私の姿に気付いてそそくさと車に乗り込んでしまいました。

 彼にとって重要な会議とはゴルフのコンペだったのです。しかし官の平気で嘘を言う習慣は民から見ると非常識な世界以外の何ものでもありません。ゴルフに行くも結構、ゴルフコンペを断れない義理もあるでしょう。そうであれば「先約があるので」と正直に言えばいいではないですか。後日私に彼は断りの電話をかけてきました。

 官の嘘つきは官の信用失墜を意味します。昔あなたの給料は誰から貰っているのと尋ねたら「市長さん」と答えた大馬鹿な公務員がいました。給料は民の納めた税金、つまりあなたの給料は市民からいただいているという心をしっかりと肝に命じて欲しいのです。

  「常識と思う人あり公務員民から見るとそれは非常識」

  「給料が下がった減った嘆くけどそれででも高いあなたの値打ち」

  「たばこ吸うお茶飲む時間もメーターは回りぱなしのあなたの給料」

  「時給率計算すると直ぐ分かるあなたはいかに特権階級」

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shin-1さんの日記

○旅の友は本なり

 私のようにしょっちゅう旅をする人間にとって少し軽めの本は,肩も凝らず目も頭も疲れず結構重宝にしています。旅の途中で本屋さんに立ち寄り立ち読み代金として安い本・軽い本を2~3冊買い込みます。

 今日買った本の一冊に司馬遼太郎の「人間というもの」があります。司馬遼太郎自身が書き下ろした小説の名文のくだりが短く列挙してあり、かつて司馬遼太郎の本をむさぼり読んだ時代が懐かしく思い出されました。

 「藤兵衛、人間はなんのために生きちょるか死っちょるか」と、龍馬は膳ごしにいった。

 「事をなすためじゃあ。ただし、事をなすにあたっては、人の真似をしちゃあいかん」

 世の既成概念をやぶる、というのが真の仕事というものであると、龍馬はいう。だから必要とあれば大名に無心をしてもよい。    「龍馬がゆく二」

 このくだりを私に置き換えてみました。私はただひたすらまちづくりの仕事を20年間もしてきました。私は国土交通省の観光カリスマ百選に選定されていますが、私のカリスマ称号はいみじくも「真似しない真似できない・・・・」です。常識であれば、沈む夕日より昇る朝日を選ぶでしょう。既成概念では夕日などまちづくりの地域資源にはならぬと誰もが考え反対しました。しかし私は「夕日で飯が喰えるか」という人々の反対を説き伏せ、夕日を地域資源にまちづくりを実行ました。竜馬は大名に無心を言いましたが、私は国や県に無心をしました。似たような考えや似たような行動はこの本の中にいっぱいあると思いました。

 人間の才能は大別すればつくる才能と処理する才能のふたつに分けられるに違いない。西郷は処理的才能の巨大なものであり、その処理の原理に哲学と人格を用いた。  「歳月」

 このくだりを読む限り私は西郷型の人間ではないことに気付きます。処理する才能もつくる才能も世の中には必要なのです。

人間は人並みでない部分をもつということはすばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるバネになる。   「沢庵のたいまつ」

 このくだりを読むと私のような凡人が、掃除なら出来るだろうと朝5時から毎朝12年間も掃除に明け暮れ、誰でも出来る掃除を人並みでない部分にしてしまったこと、そのことをバネに様々なアイディアを考えてきました。熱々のじゃこ天に串を刺して歩きながら食べるアイディアも、夕日の望遠鏡と名付けてちくわを売るヒントも掃除から学びました。

  「熊手持ち掃除の度にかき集めアイディアヒント儲け話に」

  「気がつけば俺は申年知恵が出る竜馬の二倍生きているんだ」

  「UCC空き缶拾って出来ましたわが町特産夕日日コーヒー」

  「何でだろう何時も疑問が駆け巡るこれが私の才能なのかも」

  

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shin-1さんの日記

○雪を甘く見ていました

 四国育ちの私が雪や寒さを最初に体感したのは札幌オリンピックでした。当時愛媛県青年団体連絡協議会会長をしていたため、青年の代表として札幌を訪れ、皇太子ご夫妻とご一緒にカレーを食べました。その時に氷点下や大雪を体験しましたが、その思い出などもう昔日になって忘れていました。

 ところがこの度、福井市教育委員会のお招きで芦原温泉を訪ねることになったのですが、このところの冷え込みで福井地方は近年まれに見る大雪に見舞われ、私の行く手を阻んでしまったのです。福井県の地方によっては1メートル50センチを越す大雪で、大阪~福井間は季節外れの重い雪で倒木被害が相次ぎ列車の運行が出来なくなっていました。

 天気予報を察知した私は、前日列車を乗り継いで大阪へ入り大阪で前泊しました。そして早朝6時に大阪駅へ行ったのですが、残念かな列車は運休ばかりで、寒風の吹く大阪駅のプラットホームで5時間もただひたすら運行再開を待ちました。10時42分発サンダーバードが動き、やっとの想いで列車の人となりましたが、寿司詰めぎゅーぎゅーでトイレにもいけない有様で、ポイントの故障も重なって芦原温泉駅に着いたのは1時間も遅れてでした。でも担当の黒田さんが駅まで出迎えて会場まで届けてくれました。

 時間は遅れましたが、たっぷり2時間公民館役職員に想いを話させてもらいました。

 熱気ムンムンの懇親会にも出席し、芦原温泉の温泉で「いー湯だな」と絶好調でした。立派なホテルの立派な部屋に泊めてもらいお礼の言葉もありません。

 早朝5時に起きて早立ちとなりましたが、黒田さんや教育委員会の方々に弁当までいただき明けやらぬ雪の道を帰って来ました。

 私の長い人生においてこれ程難儀な雪の旅もありませんし、忘れられない思い出でしょう。さらにかつて公民館で日本一の公民館主事を目指していたこともあって、福井市の公民館役職員パワーが日本一かも知れないと思う場面に随分出くわしました。

 間もなく合併により退任される予定の市長さんに一人一人の役職員が花を差し上げる姿はジーンと来ました。また出し物も最高に盛り上がりました。

 このことは折につけ話したいと思っています。

  「秋柿と冬雪同居の北陸路汽車の窓外流れては消え」

  「時ならぬ雪で特急鈍行と同じノロノロ遅れて着きぬ」

  「5時間も待って車中の人となる会議の行方気になりつつも」

  「まあ遠い四国から来た驚いておばちゃん差し出す飴玉喉に」

  「何時か来た鯖江の家並み懐かしく目をこすりつつ記憶紐解く」

  「黒田さんでも積る雪白ですよそんな冗談言えぬヘトヘト」

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shin-1さんの日記

○私は貧乏くじを引きました

 ある若者との会話です。今は世の中不景気で景気回復の兆しと日銀や政府は言っていますが、景気の回復が田舎に波及するのはまだまだ先のようです。公務員も冬の時代で給料は下がるし人員は削減されるしとかつての同僚からは不平不満のブーイングばかりです。

 最近は就職難で若者にとっては「大学は出たけれど」という昔はやった言葉が思い出されますが、若者が言うには「私たち世代は不況の中で職業も限られて貧乏くじを引きました」というのです。私は彼に「果たしてそうですか」と言葉を返しました。「あなたは家から職場へ通えることや、親子で暮らせることの幸せを考えたことがありますか」と言いました。確かに都会で働き一旗挙げる夢は消えたかもしれないけれど、生まれ育った所で働く喜びは感じなければなりません。

 私の場合も病気がもとで漁師を断念し役場に入りました。転職した頃は「私は運が悪く貧乏くじを引いた」と思ったものです。しかし私はそれを転機にして少しだけ頑張り目標を持って35年間勤めました。

 先日役場を先に定年退職した先輩に会いましたが、「お前が羨ましい」と言うのです。彼の只今の日課は奥さんに尻を叩かれるようにしてみかん畑に行き農業という重労働やみかんの安さに悲鳴を上げて暮らしているのです。片や私は人間牧場に夢を賭け、日本全国遊びほうけの旅をして毎日楽しく暮らしています。彼が「お前が羨ましい」と思うのも当然のことかも知れません。しかし私は先輩に言ってやりました。「羨ましいと思ったら自分も羨ましがられる生き方をしないとだめです。人生は短いのですから」と・・・・・。「お前のようには思われん」で会話は終わりでした。

 でもブログで私の記事を読まれるギャラリーの皆さん、私の言うこと間違っていますか。同感だと思う人は直ぐに自分流の生き方を始めてください。楽しいですよ。

  「お前いい人生生きて仲間言うあんたもしたら俺には出来ない」

  「買わぬのに当るはずない貧乏くじ私買わずもいいくじ当る」

  「人社会恨んだところで何になる要は努力が幸運扉」

  「松島と聞いてトモ子を思い出すあんたは古い今は奈々子だ」

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shin-1さんの日記

○魚は塩すると腐らないが車は塩すると腐る

 この表題は笑い話のようですが本当の話です。今朝郵便局へ封書を出しに出掛けました。郵便局は民営化されてからとても明るく、「おはようございます」と大きな声を掛けられ気持ちが弾みました。双海町へ通う顔見知りの郵便局女性』職員と話し合った会話です。

 私「寒いねえ」。女性「寒いですねえ」。私「海が時化て国道に水しぶきが上がって通勤は大変でしょう」。女性「ええ大変です。塩水をもろに被るのでウォッシャー液が沢山いって困ります。車の寿命が短くなりますので、その分郵便局で給料を上げてもらわないと」。私「そりゃあそうですが、今の給料の中にその分入っていまして、先日いただいたボーナスはその分です」。女性「えっ、本当ですか」。私「それにしても魚は塩すると腐りませんが、何で車は塩すると腐るんでしょうね」。女性「えっ、そんなこと考えてみたことありません。若松さんは面白いことを考えますねえ。今日は朝から楽しいお話で元気が出ました」。

 まあこんな会話で郵便局を後にしました。次に来年の予定手帳をいただくため商工会へ立ち寄りました。

私「寒いねえ」。女性「寒いですねえ。ご依頼の予定手帳、やっと届きましたので差し上げます。大切にお使いください。若松さんも職場を辞めても予定手帳には書くことがいっぱいあるでしょうね」。私「はいお蔭様で随分と楽しく日々を暮らしています。ところで海岸国道を通勤するのは車に塩を被って大変でしょう」。女性「ええ大変です。でもこれが双海町の風物ですからそんなに気にはなりません」。私「魚は塩したら腐らないのに車は塩すると腐るのは何故でしょうねえ』。女性「でも人間だって今は塩する時代ですよ。塩サウナというのがあって美肌には良いそうです。人間は塩をすりこんでサウナに入ると発汗でお肌がすべすべになりますよ」。私「じゃあ人間は塩すると美しくなるのですね」。女性「私も時々塩サウナに行きます。気持ちいいですよ」。私「だからあなたはお美しいのですね」。女性「それは嫌味ですか」。私「いえいえ、本当のことをお世辞で言っているのです」。女性「・・・・・・・・・・(大笑い)」。

 場の雰囲気を和らげる、こんな会話は暮らしにとって必要だと思います。郵便局の入り口で顔見知りの気難しい人に出会いました。「おはようございます」と声を掛けましたが無視同然でした。何が気に入らないのか分かりませんが、くよくよ生きても人生、笑って楽しく生きまっしょい。

  「面白い話に花を咲かせると人が集まり会話も弾む」

  「おはようの元気なあいさつ先取りし無口なおやじ思わずおはよう」

  「塩水は車腐らす言うけれど魚育てる命の水なり」

  「昔ボラ国道泳ぐ見た人はこの道海だと言いました」

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shin-1さんの日記

○サツマという郷土料理を食べる

 双海町は古い時代は伊予と呼ばれていました。ゆえに伊予市という合併後の名前はとても素敵な名前だと思っています。その伊予に何故かサツマという郷土料理があります。多分薩摩の殿様が参勤交代で瀬戸内海を航海途中伝えた置き土産ではないかと推測するのですが、来歴は別としてこれが以外と上手いのです。今流に言うレシピなんてそれぞれの分量は知りませんが、作り方はは子どもの頃から手伝わされていましたのでよく知っています。

 まず白身の魚をひちりんで焼き骨や内臓を取り除き、すり鉢に入れてスリコギでよくすります。昔はこれが子どもの仕事でした。白身の魚といっても瀬戸内海には無数にあるのですが、時には小骨の多いコノシロなどは小骨ごとすり込みますから骨の味が出て美味しいとされてきました。身がほぐれすられたら田舎の麦味噌を適当に入れてまたするのです。これが難儀なため時々休むと母がもっと力強くと要求します。今度はそれをへらですり鉢に満遍なく塗りつけ、裏返しにしてひちりんで少し焼くのです。逆さまにしても落ちない母の技術に子供心ながら驚き「ホー」と感嘆の声を上げました。味噌と魚の甘い香りが漂ってヨダレが出そうになりますが、見計らってもう一度すりこみ、そこへだし汁を少しずつ足して薄めてゆきます。終わったらトッピングというべき具財(みかんの皮、朝つき、コンニャク、ゴマなどを細かく刻んで入れます。あとは熱々の麦ご飯にかけて食べるのですが、中々の味で食欲をそそります。

 貧乏な少年時代はサツマ汁にたくあんだけという質素な夕食でしたが、それでも家族が同じ食卓を囲み美味しい美味しいと言って食べたものです。田舎には田舎ならではの美味しい、それでいて健康に良い食べ物が沢山ありました。その殆どが伝承されることもなく消えてゆくことは寂しい気もします。外国人が日本に来て日本食が食べたいというと料理屋さんに連れて行く、よその町の人が双海町に来てサツマ汁が食べたいといえば料理屋さんに連れて行く、何ともはや寂しい食文化です。お袋の味は袋の味に変わってしまいました。ご馳走は魚や肉、砂糖だと思っていたのはもう昔となってしまいました。子どもの健康が蝕まれてゆくのもこんな所のほころびからかも知れません。

  「サツマ汁薩摩の殿様伝えたのそう母に聞いた昔懐かし」

  「みかん食べ柿を食べてもその皮を勿体無いと干してまた食べ」

  「骨のある魚食べない今の子は魚に骨がないもの思う」

  「骨食うて骨が強いは当たり前ポパイは野菜であんなにパワーが」

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shin-1さんの日記

○フーテンの寅さん裏話

 私の町にフーテンの寅さんがやって来たのは、私が広報を担当していた頃でした。大洲が舞台となった「殿様と寅次郎」には嵐勘十郎、真野響子が出演しましたが、双海町はその映画の冒頭に短い時間ですが出ているのです。

 寅さんは下灘駅のプラットホームのベンチに寝そべって天狗党に追われ逃げる夢を見ていました。「お客さん上りの列車が来ますよ」とエキストラに扮した下灘駅の駅長さんに起こされ、「あーよく寝た」と瀬戸内海に向かって大きなあくびをしてストーリーが始まるという算段です。

 私は丁度広報をしていたこともあって取材に出掛けました。山田洋次監督にお願いしそのシーンを遠巻きにカメラに収めました。ワンカットシーンの撮影が終わって、少しぶらり歩く姿をお願いしましたところ、寅さんは山高帽にトランクという出で立ちで、駅のプラットホームをゆっくり歩いてくれたのです。

 映画は数回見に行きましたしビデオも購入して何度となく見ましたが、その舞台となった下灘駅のプラットホームが、後の「夕焼けプラットホームコンサート」の舞台になろうとは、当時は知る由もありませんでした。

あれから20数年が経ちましたが下灘駅界隈もすっかり様変わりしました。日本一海に近い駅の称号も「かつては」の注釈が必要だし、予讃線を我が物顔で走っていた特急列車も山周りに、その座を奪われすっかり様変わりしています。また複線だった駅構内も無人化となって山側のレールが外され、駅前福井商店も閉まるなど寂しい雰囲気が漂っています。今だったら山田洋次監督のメガネに適ったロケーションポイントだろうかと思うことが時々あります。でもフイルムの影響は絶大で、未だに隠れたファンが訪れます

 昨日仲間がDVDにその映画を納め送ってくれたので、改めて鑑賞して見ましたが、かすかな記憶が蘇り懐かしく思いました。寅さんも嵐勘十郎さんももう天国に行っていますし、振り返ってみれば私も定年を迎え時の流れの早さに驚くのです。

 残したい、伝えたい記憶はいっぱいありますが、私にとってもフーテンの寅さんとのほんの短い裏話は、取って置きたい記憶なのです

  「フイルムを切り取り記憶にしまい込む寅さん映画の寝ているシーン」

  「やあーとだけ返った言葉が嬉しくて何度も見たな寅さん映画」

  「20年続いた駅のコンサート今日もお客を案内し行く」

  「俺の夢駅に寝相の寅さんを造るつもりだジレンマ悔し」 

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