shin-1さんの日記

○愛媛大学フィールドワークで内子へ

 「ヤッホー、梅雨明けだ」と思わず叫びたくなるような待ちに待った梅雨明けです。ご覧下さいこの写真。旅先愛媛県内子駅のプラットホームから写したのですがいい夏の空景色でしょう。今年の梅雨は一週間で1200ミリという記録的な豪雨で鹿児島や長野に大きな爪痕を残しました。梅雨明けが1週間も伸びるというのは異例で、その影響が各方面で心配されているようです。

 昨日は愛媛大学の学生と一緒にフィールドワークで内子町へ出かけました。今回も今治・松前に続いて鈍行各駅停車の旅なのです。最近の列車は特急重視、つまり儲け重視で田舎の各駅停車などはあちらの駅で5分、こちらの駅で5分と行き違いのため停車して何とも長閑なもの、目と鼻の先の内子へ行くのに松山発8時39分の列車が内子に着いたのは10時に8分前でした。

 内子は山間盆地の町なので梅雨明けの気温はかなり上がっていましたが、歩いて10分で内子分庁舎へ到着です。内子の本庁舎は合併して五十崎に移転しており、かつての賑わいはありませんでした。安川さんは非常に物腰の柔らかい方で、私たちと一緒にえひめ地域づくり研究会議の運営委員もしていますが、その縁を頼りの今回の研修依頼となりました。一際高い内子座の屋根が分庁3階の窓越しに見える会議室で午前中たっぷり2時間安川さんの話を聞きました。普通町並みの話はパイオニアである岡田さんの話を聞くのですが、合併後の地域振興とまちづくりについては安川さんの話を学生たちにどうしても聞かせたかったのです。

 年間60万人の観光客がある内子町が町並みや村並み、そして山並みとエコr-ジータウンをキャッチフレーズにして発展してきた経緯や、今後のまちづくりへ想いには学生たちも感心して聞き入り、質問も活発に行われました。

 午後からは暑い日差しの中、安川さんの案内で街中見学です。安川さんの講義をひとつひとつ確かめるように八日市から護国へと続く町並みを歩いて散策しました。さすが暑さが最も厳しい午後だったので観光客の数は少なかったようですが、それでも外国人や少人数の観光客が街ぞろを楽しんでいました。

 最初に訪ねたのは内子座という芝居小屋でした。文化会館華やかなりし現代にあってこの芝居小屋はまるで江戸時代にタイムスリップしたような建築物で、この施設を民意に反して残した先見性は高く評価されるのです。

 上芳我邸や下芳我邸はこの3年間の修復工事がほぼ終わり、工事柵の隙間からは邸宅の中庭やなまこ壁が夏の日差しに映えて歴史の重みを感じさせてくれました。

 護国の町並みを抜けて最後の訪問地道の駅からりに到着して、30分の自由時間を取りました。学生たちは思い思いの自由な時間を過ごしましたが、裏庭にあるつり橋は数日前の雨で増水して涼風が吹いていました。

 事務所に沖野さんという顔見知りの女性を訪ね、冷たい麦茶をご馳走になりながら四方山話に耳を傾け談笑し、束の間の視察研修を終え、内子駅長の楠本さんに別れを告げ再び車中の人となりました。

 今日学生に伝えたかったことは、行政職員の質の問題です。行政職員が地域資源を発見しその地域資源に磨きをかけると地域は輝きを増してきます。品格という言葉がありますが、まちにも町格というのがあって町格を上げないと観光などは出来ないのです。職員が優秀だとその地域の住民は幸せや経済の恩恵を受けますが、逆だと惨憺たるものです。岡田さんや安川さんを見ていつもそのことが頭に浮かぶのです。学生にはそんな理解はまだ無理かも知れませんが、今日もいい勉強をさせてもらいました。

  「町格を 上げる努力の 裏側に 足を引っ張る 田舎根性」

  「梅雨明けて さあ夏思う すぐ後に 早くも秋か 店先梨が」

  「本当の 旅はのんびり ゆっくりと 鈍行列車で 街を訪ねる」

  「学生の パーワーに負けじと 早足で 己が体力 まだまだ強し」 


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shin-1さんの日記

○野塾で来たことのある思い出の地・橘地区(20-7)

 25日に長生地区へ行った時、開会時間までの余裕が少しあったので長生地区周辺を散策して回りました。中脇さんの運転で公用車に乗せてもらったのですが、沈下橋も私には同じような橋に見えて何処をどう通ったのかまるでチンプンカンプンなのです。これではいけないと思いつつ、橘地区へお邪魔する前にもう一度その道を自分が運転してなぞってみたのです。「人の運転で連れて行ってもらった道は覚えられにくい」ということが良く分りました。

 まず江川崎の中心部から国道を左に曲がって長生地区の見える所までやって来ました。「ああ、あそこに先日行った集会所が見える」と確認し、その下の沈下橋に目をやりました。あの日はあいにくの雨模様だっ

たため、「えっ、こんなに綺麗な原風景だったかな」と見間違うほど沈下橋の影が川面に映えてうっとりするような美しさでした。

 そこから四万十川沿いに行くと、綺麗な緑色の橋が見えてきました。JR予土線の鉄橋です。雨上がりの山並みに同化してそれは見応えのある橋です。多分何処かの駅でこの風景は写真ポスターとして見た記憶があるのですが残念ながら忘れてしまいました。

 上流へ進むと左手に「はげ」という駅の看板が目に付きました。西土佐へ最初に入った日、江川崎の駅で見た看板に次の駅名「はげ」と書いていたので一人笑ってしまったものでしたが、「はげ」は「半家」で、漢字で書くと別に可笑しくもなく「平家」がなまって「半家」となったという言い伝えもまんざら嘘ではないと思い、急で長い石段を駆け上がりました。高校生が一人列車を待っていましたが私の写真フラッシュに驚いた様子でした。どうです。長閑な駅の風景は各駅停車の列車の旅で思わず降りてしまいたくなるような衝動に駆られる駅なのです。

 「えっ、これは何」と思う真新しい巨大な橋がトンネルを抜けるとまたまた出現です。金がないと言いながら国も県もよくもまあこんなに金があるなあ」と思うほどの大きな橋なのです。見て下さいよこの橋、まるで東京の橋のようではありませんか。いくら知事さんの名前が「橋本」だからって、これは凄い投資だと思いました。この橋もまだ未完成で向こうからはトンネルの新しいのが既に完成して繋がれる日を待っているようでした。

 時間が迫ってきたので栴檀の木陰でUターンして戻って来た場所に、それは美しい川淵と中州を見つけました。愛媛県松野町から入った四万十の女性的な姿に比べこの川は男性的でいい姿をしていました。

 

 一人だけの散策で位置を確認した後中脇さんと藤倉さんと落ち合い、橘の川原に下りて四万十の川風にあたりながら四方山話や石投げ、それに珍しい形をした小石を集めてみました。山から流れて来たのでしょうがどの石も丸く、ストーンアートに適している石ばかりで、私だったらこの石で一儲けするのにと、冗談を言いつつ二人の写真を撮りました。この二人は「よっ、西土佐女」と思わず声を掛けたくなるような働き者で、それでいて謙虚姿勢にはただただ感心さされるばかりです。地域づくりは①地域を愛する、②地域のためにやる、③地域をより良い方向に導くという三つの基本が必要なのですが、この三つの想いを彼女たちは持っていると確信しました。

 私は橘集会所へは2度目です。旧西土佐村の若者がかつて野塾という塾を開いていたころ講師に招かれ橘集会所で熱心な討議を夜を徹して行ったことを覚えています。横山勝さんのその一人で、今は早期退職でどぶろく特区などの許可を受けてどぶろくを作っていると風の噂で聞いていましたので、会うのが楽しみでした。その横山さん、通称勝ちゃんは時間前に作無衣姿で格好いい姿で登場です。会場には幾人か知り人もいて笑顔の会釈で会が始まりました。「甦れ西土佐村」と題して、これまでの地域とは違った切り口で話をしました。○生活習慣から抜け出せない人々、○自分の事にならないと前へ進めない、○体も鍛えるが脳を鍛える訓練をする、○情報で気を育てる、○価値を売る、○何をしたらいいのか、○動機なしで人は動かない、自分のまちを自慢できるか、○何もしないと下りのエスカレーター、○情報の発信能力などについてお話をしました。

 帰り際途中参加の民宿経営の方に声を掛けられました。「私は民宿経営者で今日はお客が入って途中からの参加でしたが、とても面白く参考になりました。是非今度またお会いしましょう」と言って闇の中に消えて行きました。私も勝ちゃんから貰った何故かペットボトルに入れられて冷凍した川海老を積み込んで一路ふるさとへの道を、アクセルを踏み込みました。

  「旧友の 差し出す土産 いただいて ヘッドライトの 夜道急ぎぬ」

  「童心に 帰って小石 川面に投げる ひい・ふう・みい・と 数えつ自慢」

  「甦れ この村元気 人の手で 風を起さば 死ぬの待つのみ」

  「二ヶ月で 裕美ちゃん育ちゃん 愛称で 呼び合う程の 親しみ覚ゆ」   

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shin-1さんの日記

○橋のない川・橘地区(20-7)

 四万十市旧西土佐村へ入って今日で7回目になります。その間玖木の橋をめぐる会もそうでしたが、沢山の橋を見てきました。古くなった橋、現代的な橋、役目を終わった橋、これから架かろうとする橋など様々です。今晩は旧西土佐村の橘地区へ行く予定です。旅する巨人宮本常一はそのまちへ行くと決まったようにその地域の高台に登ってまち全体を見てから行動したのだそうです。最初から虫の目で調べるのではなく、鳥の目でまちを見てみることは大切だとふと思い出して、少しの時間橘の対岸から橘を見てみようと思い、村の中心部の大橋を渡ってカヌー館を越え走ってみました。突如として頭の上に未完成の大きな橋が霧の中から顔を出したのです。「えっ、これは何?」と思いました。

 聞くところによると合併して四万十市になった中村までは、四万十川に沿って国道とはいいながら離合も出来ない狭い道が走っていますが、最初の計画ではこの道に沿って改修する予定だったそうですが、それだと川までいらう結果となるので、トンネルと橋で別ルートを通るようになったのだそうです。勿論この工事は大手ゼネコンが手がけていることがわかるような看板が立っていました。

 ふと目をやると川の中には取り付け道路となるであろう対岸の方に向かってどでかい橋脚が既に何本も立っていて、この工事がいかに大きいか物語っていました。橋も道も村を発展するためにはとても重要な意味は誰しも分っていますが、橋のたもとで栄えていた食堂が立ち行かなくなったり、道が迂回したことで民宿が廃業に追い込まれた例は日本全国には枚挙に暇がないほど事例があるようです。

 昔作家住井すゑの「橋のない川」という人権問題を扱った小説があり、人権教育に携わる者の必読の書として読んだ記憶がありますが、ある意味からいえば橋はまさに富の象徴なのかも知れません。こんな立派な橋が出来るかと思えば、玖木の板橋のような古い橋も現在もなお残っているのです。

 西土佐には鶴が羽を広げたようなこんな素敵な橋もあります。廃校を利用した四万十学舎のすぐ近くに架かった斜張橋は素敵な現代橋で沈下橋とは趣きを異にしているようです。

?

 ご案内の中脇裕美さんと四万十学舎を訪ねてスタッフと束の間の談笑を楽しみました。四万十川の魅力は何といっても夏です。事務所の黒板にはびっしりと夏休み中の予定が入っていました。社団法人となっている学舎の運営も、市からの委託費減額で中々大変なようでスタッフの皆さんは大変なご苦労をされているようでした。廃校利用のモデルケースだけにみんなで守って行きたいものです。

  「あの橋は いつになったら 結ぶのか 橋のない川 頭で想像」

  「この橋も ゼネコンさんしか 仕事ない ランク分けなど 誰がしたのか」

  「橋出来りゃ 人・もの・車 情報も 流れが変わり 大が吸い取る」

  「便利とは 都会の都合に 合わすこと 手放し喜ぶ みんな阿呆だ」 



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shin-1さんの日記

○梅雨の晴れ間のお客さん

 九州地方ではこの5日間の降り始めからの雨量は1200ミリに達したと、新聞やテレビが盛んに報道しています。それらの地方では水害が多く発生し、痛ましい死者まで出ているようです。わが家の裏山も過去3回も崩れその度に被災の体験をしてるだけに他人事とは思えず心が痛むのです。ふとそれが原因でチェンソーで切った右足の古傷を触るとあの悪夢が甦ってきて恐ろしくなりました。今年の梅雨は学校が夏休みになったというのに一向に明ける気配がないのです。

 昨日も予報では停滞する梅雨前線の影響で雨という予報が出ていて、夕方3時半に待ち合わせて人間牧場まで案内する予定を思いながら、「運の悪い人たちだなあ」と思ったものです。処がどうでしょう。曇がちだった午後の天気も少し薄日が差して何とか夕方まで持ちそうな雲行きとなりました。大河内結子さんと政策研究センターの清水さん率いるJA大西女性果樹同志会の9名と清水さんのファミリーや友人などが人間牧場へやって来ました。大西も田舎ですが人間牧場に通じるど田舎の道にはさすがに驚いた様子でした。

 

 清水さんのリードで私は150年の年輪を重ねた魚梁瀬杉の高座に分厚い座布団を敷いて座り、落語ならぬ落伍を約1時間余り思いつくままに話しました。穏やかな瀬戸内海の海を見ながら落伍が出来るのですからこれほど楽しいことはありません。観客もウッドデッキにや部屋の中に思い思いで陣取り、肩の凝らない私の話に熱心に耳を傾けてくれました。この落伍高座も清水さんの肝入りでいよいよ本格的な真打ならぬ進打目指した特訓が始まるようです。

 昨日の人間牧場水平線の家は無風で、藪蚊が沢山出てきました。蚊取り線香をたいて燻したのですが、何人かは藪蚊の餌食になったようで手足をボリボリかいていました。

 4時半から始まった研修会はその後同志会の皆さんが手作りした稲荷寿司やいぎす豆腐、黒豆ゼリーなど体に良い珍しい食べ物が並んで、それはヘルシーな食談会となりました。珍しくアルコールが一切出ないものですから、最初から最後まで素面の楽しい話し合いが出来ました。

 オブザーバーで出席した鎌田秋吉さんは自分の菜園で獲れたトマトとスイートコーンを差し入れし、博学な知識の数々を参加者に伝授していただきました。昨日はスイートコーンを茹でもせず生で食べることを始めて知りました。私は稲荷寿司が美味いので2個も食べたためスイートコーンは生で食べませんでしたが、私の分け前を貰って家へとって帰り妻に勧めましたが、結局は今夕の食卓に茹でて食べるそうです。

 今日のメンバーは夕日も楽しみの一つにしていたのですが、残念ながら少し顔を覗かせ、少し赤く染まった程度でした。まあ夕日鑑賞は次の機会にしておきましょう。

 今朝新聞を取り込んで食卓で食事をしていると、愛媛新聞の付録でついてきたアクリート(共生)という雑誌に大河内さんたちのグループが黒大豆で作った農産物とともに紹介されていました。昨日の交流会でも豆腐やゼリーなど、食べたこともないような健康食品を食べさせてもらいましたが、中々の味でした。

 ちなみに鴨池海岸からみる美しい夕日も双海町に負けじと紹介されていました。いいことです。オンリーワンだと思えば夕日は何処でも日本一になれるのですから・・・。

 昨日はこの研修会に先立って愛媛こまち編集部の清水春菜さんが取材に見えられました。この方は何と私の似顔絵を2度にわたって書いてもらった似顔絵の達人、長浜豊茂の清水さんの娘さんだと知ってびっくりしました。世の中は狭いものですねえ。

 梅雨の晴れ間の束の間の交流は、超多忙だった7月のスケジュールで少々お疲れモードだった私の心に元気を回復させてくれました。さあ今日も午後から往復250キロの高知県四万十への旅が再び始まります。

  「えっ生で 食えるの本当 嘘でしょう とうもろこしを 一本食いつく」

  「ハーモニカ 吹くは私で 皆さんは トウモロコシを まるで楽器に」

  「雨予報 大幅はずれ 得をした これも人徳 日ごろ行い」

  「酒なくも 交流盛んに 盛り上がり 心温め 山道下る」

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shin-1さんの日記

○沈下橋の向こうに・長生地区(20-6)

 玖木の橋めぐりを終えて夕闇迫る船宿舟母の下に架かる沈下橋を渡ろうとした時、異様な光景を目の当たりにしました。

 対岸の橋が川面に発生した霧に包まれ、何とも幻想的なシルエットを醸しているのです。絵になる心に残る光景でした。写真には残念ながらその全てを表現できませんでしたが、この光景は四万十川のもう一つの美かもしれないと改めてその魅力を再発見しました。

 せっかく玖木の橋めぐりがあって早朝より西土佐へ入るのだからと中脇さんに無理をいって夜の集会をセットしてもらいました。その地区へ入る前、中脇三のご好意で四万十川の名物であるうなぎをご馳走になりました。そういえばこの日は土用丑の日で昨日から今日にかけて日本列島がうなぎの蒲焼の匂いで埋め尽くされる日だったのです。細やかな女性の気配りに感謝しながら天然うなぎの食感を味わうことが出来ましたし、肝吸いもついて何ともはや贅沢な夕食でした。食後は寸暇を惜しんで藤倉さんと3人で四万十川本流の沈下橋を三つも見せてもらいました。

 朝早くから堪能するほど橋を見てきたものですから、どの橋が何処に架かっていたのか写真をブログにダウンロードしながら迷ってしまいました。車の中でその橋の説明を中脇さんから受け、橋のたもとに着く度に下車してとりあえず写真に収めてみましたが、未だに橋の名前と写真が一致しないのです。

 沈下橋の向こうに20戸に満たないという中脇さんのふるさと長生地区はありました。沈下橋を渡ると青草の匂いがプーンとしてきました。何でも今日は道普請の日とかで、道端の草はきれいに刈られ、私の来るのを掃除をして待っていてくれたような温かさを覚えました。数日前公民館に間抜けな泥棒がガラスを割って入ったとかで、大した被害も無くその話題が開会までの楽しい会話になりました。小さな地区だけあって時間どおり、しかも沢山の人がやって来て会は始まりました。中には私の話を何年か前に和田課長さんと双海町を訪れて聞いたとう人や、中脇さんのご主人、宇和島水産高校出身の息子がいる人などなど、熱心に耳を傾けていただきました。

 私たちはそこに暮らしていると、いつの間にか固定概念が出来上がってものの見方がついつい単調になりがちです。変えなくていいことを変え、変えた方がいいことを変えないでいます。また自分では四万十川のことを一番知っていると想っていることもあるだろうと思います。しかし本当はそれが妄想であることに気がつかなければならないのです。私がアメリカで世界地図の真ん中に日本が無いことを発見したり、南北逆さまの世界地図を見て気がついたり、また他町村から来た人に夕日の美しさを指摘されるまで気がつかなかった事例を元にお話をしました。発想の転換を話したつもりですが果たして人の心の扉を開いたかどうか・・・・。早いもので明日で三分の一が終わります。微調整を繰り返しながら、できるだけ分り易くこれからもいい話をするよう心がけて行きたいものです。明日は橘地区、役場を辞めた旧友の横山さんは果して来るでしょうか。

  「現代の 泥棒さんも 焼き回り 入った所が 公民館とは」

  「入口の 草を綺麗に 刈り分けて 俺を迎える 思えば嬉し」

  「そういえば この人見覚え ある顔と ついぞ昔の 思い出めくる」

  「あっ危ない ハラハラドキドキ 沈下橋 中脇女史は 平気スピード」 



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shin-1さんの日記

○玖木の一日橋めぐり・玖木地区(20-6)

 四万十市西土佐玖木は戸数20戸ほどの小さな集落です。今回の旧西土佐村集落講演会のシリーズもいよいよ本格化し始めましたが、20-1回目が玖木地区でした。一回目の感想や様子はブログで紹介していますので省略しますが、その集落講演会が縁で「玖木の一日橋めぐり」という小さなイベントが誕生したのです。そのイベントを実施出来たのは区長さん始め多くの地域住民の「何とかしなければ何にも始まらない」という熱い想いでした。そしてその活動をサポートしたのは産業課の中脇さんと藤倉さんの二人の女性でした。イベントを開くための準備会を開き、案内パンフも、玖木までの道筋に看板をかけるのも二人がお手伝いをしました。勿論地域住民が主役で食材を持ち寄り、柴もち作りの技、藁細工の技を持ち寄り、雨の日メニューまで用意する周到さです。この日は期待した梅雨明けもなくあいにくの雨模様でしたので、参加キャンセルが相次いで人数的には少なかったようですが、その分地域の人や参加者が主役になって和気藹々の集会となりました。

 「えっ、橋なんてグリーンツーリズムの地域資源になるの?」って疑問が返ってきそうですが、足元を見れば玖木地区には何と大小取り混ぜて20もあるのですから驚きですし、その橋も四万十周辺にしか見られない珍しいものがいっぱいあるのです。傘を差しながらマイナスイオンの中を橋に向かって歩きました。私も20年来旧西土佐村へはやって来ていますが、こんな小さな集落へ足を踏み入れるのは初めてだし、橋の存在さえも知りませんでした。聞くところによると玖木地区には紹介されていない小さな沈下橋が三つもあるのです。

 四万十川の写真に必ず出でてくる沈下橋は、橋の欄干も無い簡易な橋です。大雨で川の水量が増えると濁流が平気で端を乗り越え沈下するから沈下橋と名前がつけられているのですが、最後の清流という代名詞を持つ四万十川にはどんな立派な橋よりも沈下橋がよく似合うのです。下の写真は最初に訪ねた沈下橋です。

 

 橋のたもとには橋の戸籍とでもいうべき判読が難しくなった古い木板が》立っていました。中村から参加したという女性にお願いして、遊び心で芸術的な写真を一枚撮りました。どうです。雨の中の沈下橋の上で赤いパラソルを差し一人たたずむ女性の姿は何とも旅情を掻き立てます。この日は折りからの雨で四万十の支流黒尊川の水量も多く、川面は絹のような薄い霧に煙っていました。

 少し上流まで歩いていくと紅葉の新緑が目に入ってきました。秋の紅葉の頃はここが一番のスポットになるそうですが、紅葉の新緑も絵になる光景で瀬音ゆかしい姿を見せてくれました。この橋を渡って林道を進むと2時間ほどで宿毛市へ行くのだそうですが、秋には是非錦織なす美しい意紅葉を見たいものです。

 公民館へ帰ってから午前中の最初のプログラムである藁草履作りに挑戦しました。用意してもらった藁を木槌でドンドン音を立ててほぐし、地元のおじさんやおばさんの指導で藁草履を作るのです。地元の人でも藁草履を履いた経験や親から作ってもらった思い出はあっても、自分で作るのは初めてという人もかなりいて、ワイワイガヤガヤとにかく蜂の巣を突付いたような賑やかさでした。地区外から小さな子どもも参加していて久しぶりの子どもの歓声に地区の人は目を細めていました。想像していたよりは難しい草履を幾つか完成した頃には村内に昼を告げるチャイムが鳴っていました。

 さあお楽しみの食事です。今日のメニューは山菜の天ぷら、きゅうりと芋茎の酢の物、豚汁、アメノウオの塩焼き、それに白いご飯となかなかのご馳走です。その全てをパチリ写真に収めました。

 この日のために作ったという竹の食器はまるで「おひつ」かと思わせるような孟宗竹の丼鉢で重くて腕がダルほどでした。天ぷらの衣に味付けをする独特の調理法で全て美味しく召し上がりました。特にご飯は美味しくみんなお代わりをしたり返りにはお結びを土産にとって帰るひともいるほどでした。この手のイベントには

つきもののアルコールが出ないことも私には満足でした。その代わりにお茶の葉っぱを火であぶって煮立てる即席茶は本当に美味しい山村の現場でしか味わえない味でした。

 おばあちゃんが、石臼を持参しました。トウモロコシの乾燥した種を粉にするのです。私たちの子どもの頃はばあちゃんに頼まれて石臼を挽いた経験があり懐かしく思いました。2回回して何粒ずつか穴に入れる作業は気の遠くなるような作業ですが、それでも臼ですり潰したキビの粉が臼の回りに出ると嬉しくなって回したものでした。このキビ粉は午後の柴餅の中に交ぜて使うのです。おばちゃんの粉を挽く姿に死んだ母や祖母の姿が重なり、懐かしい思い出いっぱいになりました。

 お昼の時間を利用して篠田幹彦さんに誘われ奥屋内の炭窯づくりを見学に行きました。8人ほどがショベルカーを使って炭窯周辺の整備を行っていました。懐かしい顔ぶれに出会いここにも田舎でどっしり生きてる人々の活動を見せてもらいました。わが人間牧場と同じく屋根は節を抜いた竹を交互に組んで屋根に葺いたりしていましたが、切り時の良い竹を葺いた炭窯も中々味のある出来栄えのようでした。

 公民館に戻り出来たての温かい柴餅をいただき、再び橋めぐりに出掛けました。沈下橋に出た所でカヌーで激流下りを楽しむ松山から来たという一団に出会いました。彼らは雨の中でアウトドアスポーツを楽しんでおりみんな感心して見とれていました。

 橋めぐりの最後は橋が流されている場面で終わりました。何でもこの橋は増水時に引き上げられるという何とも奇妙な板橋ですが、このところの増水で橋が流されワイヤーでくくって川岸にあるのを見ました。いやあ、実に橋めぐりは楽しいイベントでした。

  「それぞれの 橋に名前が あるのです 向こうとこっち 想い結んで」

  「あいにくの 雨で橋上 昼寝する 夢は叶わず 次の機会に」

  「これ程の 橋を活かせば 必ずや 人は見に来る みんな頑張ろ」

  「雨だから 出来る仕事を 黙々と 炭窯造る 姿に感動」

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shin-1さんの日記

○結婚しない人

 少子化が大きな社会問題となってきました。日本の人口状態は戦後ずっと人口ピラミッドといわれるように正三角形の形をしていました。しかしそれが釣鐘型となり、最近では逆三角形になろうとしているのです。私たちが若い頃、スウェーデンの社会福祉制度が進んでいることを学びましたが、北欧のそれとは比較にならない程のスピードで高齢化社会が到来し、今や日本は世界一の長寿国になったのです。長生きすることは医学の進歩もさることながら豊かさの証明ですから喜ぶべきでしょうが、働らいて社会を支える人が減り、福祉の恩恵を受ける人が増えるバランスの崩れは将来への大きな不安となっているのです。

 女性が子どもを生む出生率は1.3人を切ってしまう事が大きな要因に変わりは無いのですが、最近少子化の原因として結婚しない人が増えていることを指摘する人が増えつつあります。現代の結婚適齢期は男性が限りなく30歳に近い平均29歳、女性は平均27歳で10年前より1歳も晩婚化しているのです。更に結婚を恋愛か見合いか調べれば圧倒的に多かった昔に比べて見合いの比率が10パーセントで、恋愛が90パーセントとその比率は恋愛が殆どになりつつある勢いのようです。

 独身貴族は余程のことがない限り子どもを生みません。独身が増えるということはその分だけ子どもの出生率が減る計算になるのです。今若者の間では結婚したくない症候群なる病気が蔓延しているといわれています。テレビドラマに出てくる未婚の男性や女性はセレブと呼ぶに相応しいゴージャスな部屋に住んで暮らしています。全ての暮しが自由で、不自由な結婚生活をするよりははるかに煩わしさの無いものですから、誰もが憧れることは当然のことかも知れません。独身者は親元を離れ一人暮らしをするものですから、一人身に対する社会の目も届きにくく、その自由さがまた魅力なのでしょう。

 私たちの身の回りには昔に比べ未婚の女性や男性が沢山います。かつては地域に青年団のような若者の交流機会がたくさんあった時代に比べると、今はそんな男女出会いの場所も限られているのかも知れません。でも高学歴化社会になって長い学生時代が昔より増えたことを思えば、交流の機会は今も昔も変わらないはずなのです。

 離婚率が増えたことも気になります。結婚した人の40パーセントが離婚するという、信じ難い数字があるのです。そういえば理由はどうであれ私たちの身の回りには子どもさんを連れて親元へ帰って暮らしている親子を随分見かけるようになりました。私たちの町のように過疎化が進んでいる地域では、人口が増えることですからそれはそれとして喜ぶべきなのでしょうが、親の都合で離婚する、しかも離婚の原因が「性格の不一致」なんて訳の分らぬ出来事に子どもの一生を巻き込んで果たしていいものかと、深く考えてしまうのです。子どもにとって心の安定はやはり願わくば両親がいる方がいいことに変わりは無いのです。

 最近の青少年問題の深刻な原因も、案外そんな家庭の変化にあるのかも知れません。

 私は今まちづくりの仕事で日本全国の過疎地域を回っていますが、40歳を過ぎ若者とはいえない若者が親とひっそり暮らしている結婚しない人の多さに驚いています。ひと頃のように町や村が外国からでも嫁さんを探そうなんて積極的な嫁武装玖対策に乗り出すような所は皆無に等しくなりましたが、親の死んだ後の一人暮らしの息子の末路を考えると少し寂しい気がするのです。

 いずれにしても「結婚しない人」をなくすることが涵養です。「若者よ、結婚は素晴らしい」と私は胸を張って主張します。

  「結婚を しないで人生 終えるとは 勿体無いの 一言尽きる」

  「俺なんか 子ども四人も 産んでいる これが自然だ 社会に貢献」

  「性格が 合わぬと離婚 したがるが 他人同士だ 会わぬはずだよ」

  「気になるな 急速進む 少子化は 日本の未来 暗雲立ち込め」

 

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shin-1さんの日記

○寅さんの夢

 平成6年の夏にフーテンの寅さんが死んでから早くも12回目の夏を迎えました。国民的英雄になった寅さんに「やあー」と声を掛けてもらっただけの私ですが、私が撮った一枚の写真と第19作の映画ビデオは今も大切に手元にしまっています。寅さんの映画の楽しみは色々ありますが、欠かせないのは最初に見る「寅次郎の夢」でしょう。双海町下灘駅が舞台になったのはそんな夢から現実へ引き戻される場面だったのです。

 《勤皇の志士が相次いで集う京洛の地に忽然と現れた熱血の士鞍馬天狗。その天狗のもとに駆け寄る杉作。連れて来てくれた女性に礼を言って立ち去ろうとした時、「もしやあなたは江戸は葛飾柴又の生まれでは?」と尋ねられ、頭巾を脱いだ顔を見ると妹のさくらだった。しかしその時すでに敵の罠が迫っていた。》

 「お客さんのぼりの列車が来ますよ」とエキストラに扮した駅長がプラットホームのベンチで寝そべって夢を見ている寅さんを起こし、夢から覚めた寅さんは瀬戸内海に向かって大きなあくびをしてテーマ音楽が始まる筋書きは、ビデオを何回見ても思わず噴出してしまうシーンなのです。

 私は当時町の広報マンをしていました。寅さんのロケが下灘駅であることを知って現場に駆けつけると、山田洋次監督はカメラの後ろで細かい指示を出していました。私は山田監督に許しを得てその風景をカメラで連写しました。その一枚は様々な場面でよく使われました。特に下灘郵便局が夕焼けプラットホームコンサートの度に作ったたとうには何度も登場したのです。記憶ではその日は昭和52年8月1日の出来事でした。

 その後夕焼けプラットホームコンサートを始めて開催したのは昭和61年6月30日ですから10年後にこの駅に再び脚光を浴びさせたのです。あれから20年余りの歳月が流れました。寅さんの夢が私の夢になり、その夢が現実となって夕日を世に出したのです。日本一海に近い駅と言われた下灘駅もその後海側にバイパスが通って、今は日本一海に近い駅という名前を返上していますが、時の流れの早さに驚く今日この頃です。

 寅さんの寝像を造りたいという夢もそろそろ実現しなければならないと思いつつ、未だ一歩を踏み出せないもどかしさを感じつつ、今年もまた暑い夏がやって来ました。先日関西汽船の浜田さんがサライという雑誌を届けてくれました。「寅さんを旅する」という特集号なのですが、寅さんは何時になっても歳をとることもなく、カバンを提げて旅を続けているような錯覚を覚える今日この頃です。

  「田舎駅 ひょいと寅さん 降りそうな そんな気がする ホームに立ちて」

  「寅さんの 寝像造ると 意気込んで 松竹掛け合う 昔懐かし」

  「やあとだけ 言葉を交わした あの時の 寅さん今も 脳裏に焼きつき」

  「どの辺り 旅を続けて いるのやら 寅さん旅先 ひょいと会うかも」

  


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shin-1さんの日記

○変なおじさん

 私の元へは毎日沢山の人がやって来ます。相変わらず役所の人も多いのですが、その人間模様は実に多士済々で飽きることはありません。中には生活に困って金を貸してくれとせがむ人もいれば人生の悩みを抱え相談に来る人もいます。金に困った人にはお金を貸し与えるのが一番でしょうがお金を貸すと縁の切れ目が多いので、私の取り決めは5千円以上は貸さないようにしています。そして前の金を払わない人には貸さないようにしているので、たとえ踏み倒されても5千円以上の損害をこうむることはないのです。しかし人の悩み事はこれまた人それぞれで、広くて深いことを実感します。農薬を飲んで自殺経験のある人や事業に失敗し死にたいと漏らす人、子どもの悩み、夫婦の別れ話などなど相談の種は尽きません。

 妻が「あなたは人生相談請負人なの?」というほどに沢山の方々が私の元へ来るのです。中にはええ加減の人もいて甘い顔をするとどんどんやって来ます。今朝も寝巻き姿でパソコンを打っていると、玄関でチャイムが鳴りました。妻が取り次ぎ出て見ると顔見知りの町外の変なおじさんです。この方は有名人の色紙や書を持ち歩いては小遣いを稼いでいる人です。明らかに贋作と分かる品々ですが、現職の頃からやって来ては四方山話をして帰ってゆくのですが、その都度騙されまいと思うのですが、ついつい可愛そうになって財布の紐を緩めて小遣い銭をせしめられるのです。

 今朝は自分の書いた色紙を買ってくれというのです。良寛さんの言った言葉を書いた色紙はよくある公民館の講座生が書く程度のものなのでしょうが、言葉が気に入ってまた3千円を出してしまいました。その色紙には「ぼける時はぼけるが善し 死ぬ時は死ぬが善し 良寛」と書かれていました。意の向くままの良寛和尚らしいボケや死を恐れない生き方に感心して小遣いを減らしてしまいましたが、この言葉に出会ったし、いわば良寛さんの化身に出会ったと思えば安いものなのでしょう。

 人を見る目は一朝一夕に出来るものではありません。第一印象とその後付き合ってからの落差の大きい人は誰もが経験しているし、騙す様な人ではないのに騙されてトラブルに巻き込まれることはもう日常茶飯のことなのです。オレオレ詐欺や振り込め詐欺、押し売りなどはその典型で、人の弱みをまるで心理学者のようについてきます。最近はゼロ金利を背景に利殖話による被害者が多いようです。誰だって2パーセントよりは5パーセントの利回りの方が得だとは思いますが、美味しい話には必ず裏やリスクが付きまとう危険性も立ち止まって考えなければ、せっかく長年かかって貯めたお金を全て持っていかれるのを防ぐのは、欲の皮をなくすこと以外に無いのです。

 妻が仕事に出て間もなくまたチャイムが鳴りました。学生風の女性が胸元に身分証明書をぶら下げて、「会福祉のために手作りクッキーを販売しているので買って下さい」やって来ました。私がいちいち訪ねると化けの皮が剥がれたのかすごすごと帰って行きました。素敵な若い女性が訪ねて来ると私のような実年スケベ親父ならイチコロ騙されるのでしょうが、チャイムを鳴らし訪れた家が悪かったようです。

  「いい人に 見えるが実は 魂胆が 騙し騙され 世の中愉快」

  「身分書く 名札怪しい 化けの皮 はがれてなおも 次の家行く」

  「良寛は ボケも死ぬのも 善しという 俺はまだまだ そこまで悟れず」

  「日銀の 総裁儲け 次は俺 儲け話に 乗ると危ない」

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shin-1さんの日記

○広島は近いようで遠い

 連鎖反応とでもいうのでしょうか、最近広島への旅が多くなってきました。集会に招かれ講演をすると時には名刺入れが空になるほどの人気ぶりで、その名刺が一人歩きしてまた核分裂を起すのです。ねずみ講のようなまるで信じられないような方法で講演の依頼があるのです。私が別に「講演に呼んでください」と頼んだわけではないので詐欺商法(笑い)にはひっかからないと思うのですが、まあそんな感じで名刺への2万円の投資はかなり成果を挙げているようです。

 昨日の朝の松山地方はどしゃ降りの雨でした。駐車場から船着場まで僅か数百メートルなのに傘を差してもズボンの裾はびしょ濡れになってしまった程でした。広島へは便利なスーパージェットという高速船を使いますが、これが新幹線並みの速さと表現してもよいようなスピードで海の上を走ります。松山から広島まで直線距離にして70キロ弱ですが途中の呉港に寄港しても僅か1時間17分ですから相当の早さです。しかしその料金も新幹線並みで6300円もするのです。往復12600円は貧乏人の私にとってはかなりの負担です。したがって時間に余裕がある場合は早起きをして同じ距離だのに何故か安いフェリーを片道だけでも使うのです。いつも不思議に思うのですがスーパージェットに比べるとフェリーは倍の2時間40分も乗っているのに料金は2700円なのです。したがって昨日は6300円と2700円の差額3600円の経費節減ができた計算になり少し得をしました。でも帰りは夜の集会に間に合うように格好よく帰りたいとついついスーパージェットの人となりました。 

 広島は近いようで遠いです。我が家から松山観光港へは約1時間余り、スーパージェットを使っても宇品からタクシーや電車を使って海上へも約1時間弱かかります。飛行機を使って東京へ行くのと同じくらいの時間がかかるのですから遠い実感は否めないのです。でもその分旅に出たって感じを受けるのですから良しとしておきましょう。

 先日島根県益田市種へ出かけた時、この航路筋についてカメラ散歩をブログで紹介しましたが、この航路筋はその気になって見れば幾らでも見所があります。音戸の瀬戸だって平清盛がしずむ夕日を扇で止めた伝説などの由緒ある土地柄だけにフェリーからでも史跡を見学することができるのです。狭い海峡ながらデッキに出るとほら、手が届く程の近くにこんな史跡がゴロゴロです。

 昔はここは交通の難所であり要所でした。対岸へは渡し舟しかなかったのです。今もその名残の小さな渡し船が両岸の間を忙しげに行き来して人々の暮しに息づいています。一度乗ったことがありますが何とも風情のある音戸の渡しでした。

 今はその難所もループ橋によってあっという間に対岸へ車で行くことが出来るのです。まるで何処かのショッピングセンターの駐車場のような雰囲気ですが、やはり遠望は素晴らしい音戸の橋の風景なのです。

 瀬戸内海は交通の難所が多く、霧も出て船の衝突事故も度々で船舶関係者を悩ませます。海上にも道路交通法と同じ海上衝突予防法なる法律があって、その法律に基づいて操船が行われるのですが、海の上で信号の変わりをしているのが灯台や浮標です。海の上をご存知ない方には馴染みのない話ですが、灯台や浮標は昼は色の識別、夜は光の識別が出来るようになっていて、海図にはちゃんとそのことが載っているのです。

 これは音戸の瀬戸の広島側浮標です。

 これも広島側の島の灯台です。まるで絵に描いたような小さな島が瀬戸内海にはこのように無数にあって、夜ともなると等間隔の光を放って自分の島の存在を誇示しているのです。

 その右にはかつて海軍兵学校のあった江田島が見えました。かつては古鷹山を臨むこの島から多くの若者が戦地へ赴いたことでしょうが、平和な今はただひっそりと瀬戸内海に映えていました。

 昨日は広島の自治総合研修センターで行われた地域づくり支援研修に招かれました。各自治体から選ばれた中堅職員が20名ほど参加していましたが、前もって質問事項が用意されるなど、やる気満々のセミナーで午後1時からの研修にもかかわらず、居眠りなど一人もいなくて凄い迫力を感じました。3時間というこれまた長いようで短い研修は私の話に終始しましたが、帰ってからの担当者からのメールによると大きな反響があったと書き記していただきました。特に今回の研修会には女性の参加も目立ちましたが、「男性よしっかりしなさい」と言いたい感じでした。

 四国を経つときはどしゃ降りの雨も、広島では時折太陽も覗くまずまずの天気で、持参した傘をうっかり忘れるほどでした。

 近くて遠いまち広島は行く度に発展を遂げているような活力を感じます。こちらも負けないように日々進化を続けたいものです。

 

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