shin-1さんの日記

○地域教育実践交流集会

 昨日と今日の二日間、大洲青少年交流の家で地域教育実践交流集会が行われ参加しました。この交流会は讃岐先生の呼びかけで、村上伸二さん、塩崎千枝子さん、白方雅博さん、それに私がお世話人になって実行委員会を組織して半年をかけて準備を進めてきた集会です。これまでにも青少年をめぐる集会は沢山行われてきましたが、その殆どは行政がらみの集会で民間の有志が集まってこの手の集会を開くのは珍しいことなのです。

 170人を超える人が申し込み、昨日の午後は沢山の分科会が持たれました。参加した人たちはそれぞれ所属する団体のフェイスシートを提出し、分科会に臨みましたが、私の所属する21世紀えひめニューフロンティアグループからも、大野事務局長が参加し事例発表を行いました。準備の都合で分科会には参加できませんでしたが、事例発表に基づいて活発な議論が行われたようです。


 

 この日は私と桑原小学校の校長である堺雅子先生とお二人で卓話をすることになっていたのです。そのシナリオによると、ステージにしつらえた畳敷きにやぐらコタツをを置き、作務衣を着た二人が対談をするようなのです。既に白方さんが東南アジアのHIV関係者が作り国内で販売している作務衣を二人分用意してくれていて、私たち二人は似て似つかぬ服装で登場することになったのです。分科会が終わり参加者は全員大ホールに集まりました。私と境先生は殆ど打ち合わせもなくアドリブで話し始めました。主に①自己紹介、②これまでどんなことをしてきたか、③この頃感じること、④これから何をなすべきか、⑤まとめというストーリーで話し始めました。堺先生とは旧知の間柄なのでまあ息もぴったりで話し込みました。

 私は青年団活動8年で得た仲間、ふるさと、主張、感動する心という4つの道具の話、21世紀えひめニューフロンティアグループの20年に及ぶ活動を話しました、またこのごろ気になる家族の人間関係、失敗経験をさせない今の教育の在り方、子ども社会と大人ys会の関係についても話しました。

 私が目指す人間牧場での青少年教育は地域力を育てる教育であり、人間力を高める教育を目指していて、そのことを熱を込めて訴えました。堺先生の話はコメントを避けますが、楽しい二人の話は参加者に好印象を与えたようでした。

 その夜は楽しい交流会が延々と続けられ、名刺を交換しながら、またお酒を飲みながら団体や個人の紹介をしながら楽しい交流ができました。中には高知県や香川県など県外組の参加もあって、これまで顔は知っているものの殆ど知られていなかった活動の全容が随分明らかになり、ネットワークの広がりを予感させてくれました。

 今日は元文部省生涯教育局長で現(財)日本生涯学習総合研究所理事の伊藤俊夫先生の「子どもたちは社会のかすがい」と題した講演を聞きました。先生には私が若いころ、社会教育行政は①指導者養成、②指導助言、③条件整備の3つがあることを教わった先生です。久しぶりにお元気な姿やお声を聞いて安心しました。昨晩は飲みながら楽しい話を聞きました。

 昨日・今日の集会には久しぶりに知人友人、旧友などなど、沢山の懐かしい顔々が集まりました。思うに昨日集まった方々は本当に社会教育を愛している穂人たちではないでしょうか。私もお世話人の末席を汚しているので、何人かの人たちに参加しないかと声をかけました。しかし残念ながら手合いの良い理由をつけて参加を断られました。社会教育を仕事にしていた頃の情熱は何処へ行ったのかと思うように、社会教育を去ると目覗きもしないのです。多分あれは仕事だからやっていたのだろうと勘繰りたくもなるのです。

 まあそんな人たちは所詮本物の社会教育人ではないのだから、とやかくいう必要もないのです。問題は自分がどういう思いを持続できるかだけです。私はこれからもしっかりとそのことをわきまえて、社会教育で育ててもらった恩返しをしたいと心に誓いました。


  「来ないかい 誘ってみたが 理由つけ 断る人の 何と多いか」

  「懐かしき 顔々揃い 握手する 血潮未だに 衰えもせず」

  「一度だけ 会っただけだが 鮮明に 覚えています あの日あの時」

  「作務衣着て 壇上炬燵 座り込む 卓話楽しや 美女と野獣が」 

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shin-1さんの日記

○何を求める 風の中ゆく

 一昨日の夕方、西条からの帰り道、わが家への帰り道信号を通り越して、シーサイド公園へ足を伸ばし、暮れなずむ海岸辺りを散策しました。このところの急激な寒波で、海は荒れて寒さを一層感じさせましたが、それでも夕日や夕焼けを楽しもうと、何組かのカップルが体を寄せ合って西の空を見つめていました。

 これまで幾度となく夕日にまつわることを仕掛けてきた私にとって、夕暮れ時ともなると何となく気になって、暇さえあればこんな訳のわからない動作を繰り返している自分にハッと気づくことがあるのです。はてさて私は何を求めて動いているのだろうと・・・・。まさに山頭火の句の中にある「何を求める 風の中ゆく」といった心境でしょうか。それでも夕日や夕焼けに向かうと何故か、日々の忙しさに悩殺され自分を見失っているゆえに、自分というちっぽけな人間の存在にハッと気づくのです。


 

 人間はどこから来てどこへ去って行くのか、こんな哲学めいた気持を呼び起こしてくれるのも夕日なのです。私はこれまで様々なことを起こしてきました。多分同年代の人の中でも田舎の人間にしては波乱に富んだ半生であったと思うのですが、何かをしようとうする度にこうして夕日と向かい合い、自分の心の中の扉を開けて、自分というもう一人の自分と向かい合って話しをしてきたのです。やるべきかやらざるべきか、前へ進むべきか後退すべきか、常に心の中で自問自答してきました。すると不思議なことに何か分からないパワーのようなものを感じ、そして色々な発想が浮かんでくるのです。夕焼けコンサートを思いついた時も、反対と怒号の中でシーサイド公園を整備する時も、常に生き生きと冷静に対峙することができたのです。多分それは太陽のエネルギーをいただいたのだと思うのです。


 もう私にはそんなに大きな夢がある訳でもなく、日々を着実に生きるだけですから、太陽のパワーなど必要はないのですが、それでも残された余生をどう進化しながら生きるか、人生の仕上げの年代に入っているだけにささやかながらどう生きるかは私にとって大きなテーマでもあるのです。

 一昨日思いもかけぬ光景を見ました。シーサイド公園の砂浜で若いカップルが結婚衣装でオリジナルな記念写真を撮っていました。この寒空に何て物好きなと思うかも知れませんが、彼や彼女にとってここは人生のスタートであり思い出のアルバムでもあるのです。新しい発想がにわかに浮かびました。

 もうひとつ、恋人岬の突堤にあるモニュメントの穴の中に夕日を入れて写真を撮ってみました。夕日はもう西の端辺りに沈むため、穴は三日月のような位置でしか見えませんが、三日月と太陽もこれまた新しい発想でした。また夕日に双海町のシンボルである本尊山がまるで赤富士のように映えて見えました。これら全ての目に映ったものはシーサイド公園ができてからこれまで、見たこともない光景でした。既成概念にとらわれることなく新しい位置と目の角度で見るとまた新しい発見があるのです。このひらめきを家に帰って早速文字と絵に書いてみました。また新しい夢が泉のごとく浮かび上がってき始めました。

  「いつも見る 見慣れた姿 時として 違って見える 心一つで」

  「山頭火 何を求める 風の中 ゆくと詠んだが 俺にはとても」

  「赤々と 燃えて黄金の 本尊山 神々しくも 照り映え見える」

  「秋過ぎて 冬来たりなば 海荒れて 春待ち遠い 心沈みぬ」 

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shin-1さんの日記

○おらんちの夕日もまっこと綺麗ぜよ

 日本全国を旅していると、夕日を売り物にしている私に喧嘩を吹っ掛けるような雰囲気で、「あんたの夕日には負けず劣らずわが町の夕日も綺麗です」という人が沢山いて、その度に私は「それがどしたん」と反返してやるのです。昨日も高知県芸西村のイキイキ会に招かれて講演に出かけ、その席で随分何人もの人から芸西村琴が浜海岸の夕日は日本一だと聞かされました。特に会場となった芸西村民会館という文化ホールの緞帳はことが浜の松林にと太平洋に沈む夕日を美しくあしらっていたし、就任2週間目の村長さんの話でも出てきたのですから、いよいよ本物の夕日なのでしょう。また会長さんの挨拶やエコをテーマにした寸劇にもアドリブで双海の夕日と比較した琴が浜の夕日が紹介されて、いよいよその美しさを見てみたくなりました。

 実は最近ラジオのニュースで芸西村から室戸岬に至る海岸でダルマの夕日が見えるスポットを紹介するパンフレットが広域で作成されているという情報を聞いていました。高知県の西の端に位置する宿毛のダルマ夕日は既に夕陽百選にノミネートされていますが、芸西界隈の夕日はまだ見たことがないのです。

 幸いこの日の集会は午後6時からということだったので、少し早目の明るいうちに高知県入りし、芸西の海岸に立って夕日を見ようと思い出かけました。途中馬路村で行われた観光カリスマ塾に参加して帰途についていた地域政策センターの谷本さん、清水さん、松本さんから電話が入りましたが、車を止めて電話を聞く余裕がなく出そびれてしまい、多分南国か香南でニアミスしたようでした。それでも何とか芸西に入って西のsらの明るさに気づき、やばいと思いつつローソンに車を止めて小走りに海岸に出ました。

 高知県の海岸は台風の高波や、予想される南海地震の大津波から背後に暮らす人々の生命と土地を守るためまるで見上げるような大きな防波堤が延々と築かれているため、国道沿いから夕日は見えないのです。わが町のように国道のガードレールさえ景観に配慮してパイプ製にしているのとは大違いなのです。点滅信号のボタンを押しても中々信号が変わらずイライラしながら海岸に小走りで出てクジラの背のような防波堤を一気に駆け上がりました。まさに間一髪美しい夕日を拝むことができました。

 この日の夕日は雲があって必ずしも100パーセントではありませんでしたが、それでも弓なりになって太平洋に広がる大海原の向こう沈もうとする夕景は絵になる光景でした。多分芸西の位置からして夕日が沈むあたりには坂本竜馬が立っている桂浜辺りではないかと、寒風の中夕日に向かって立つ若松進一自身を坂本竜馬の姿にダブらせ、何とも言えない気分に一人浸りました。



 昨夜の集会は大そうたまげました。人口4千人ほどの村なのに300人もの女性が集まってホールは割れんばかりの盛り上がりです。プログラムはあいさつと寸劇などの催し、手づくり皿鉢料理の試食夕食交流会、講演会の三本立てでしたが、高知新聞が全面的にバックアップしているため、その日の新聞をパソコンで作成して配るなど、まるでどこかのフェアーのような雰囲気でした。会場の三方を埋め尽くした料理にも度肝を抜かれましたが、いやはや皆さんの食欲をまるで蜂の巣をつついたような雰囲気で、気の小さい?私などは圧倒されてしまいました。それにしても芸西は施設園芸発祥の土地だけあって、ナスのタタキは絶品ででした。

 私の講演は19時40分から約1時間でしたが、いやあ大いに盛り上がり、結果的には21時まで話してしまいました。マイクの調子も話も絶好調で楽しい集会でした。


  「おらが町 夕日が綺麗と 自慢する それがどしたん 金にもならぬ」

  「久し振り いい集会に招かれて ワンマンショーに 酔い知れ話す」

  「瀬戸内と どこか違うな 高知県 やる事全て 大海如し」

  「この村の 底の力を 知りました 三百人もの 女性集まる」

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shin-1さんの日記

○吊るし柿を作る

 昨日は西条市庄内公民館から講演の依頼があって桜三里の峠を越えて出かけて行きました。峠を越えて間もなく西条市の看板が見えました。そういえば東温市の次はもう西条市なのです。平成の大合併でこんな錯覚をよくしますが、私のお目当ての庄内公民館は旧東予市なのでカーナビに沿って進みました。この2~3日の冷え込みで石鎚山系は頂上に雪をいただき雄大な姿を見せていました。

 晩秋の旧丹原町は柿の産地だけあって、道沿いの畑は一面柿畑で、オレンジ色に色づいた柿の実が寒そうに震えて見えました。家を出る時妻が「丹原辺りをを通るのであれば、吊るし柿にするので渋柿を少し買ってきてね」と頼まれていたので、目敏く見るのですがそれらしき店は見当たらないのです。魚所のわが町で魚屋さんが少ないのと同じだと納得しながら、少し余裕の時間を見て出発したため回り道をしてみました。すると一軒のかなり大きな市場を見つけました。伊予市でいうと仙波青果のような店です。この店は何でも売っていて私のお目当ての柿も一箱売りで売っていました。少し小ぶりなためか一箱が500円という安値です。妻の顔を思い出しながら買い求め車のトランクに入れました。



 庄内公民館は庄内小学校に隣接していて何度か来たことがあるので直ぐに分かりました。館長さんが玄関までで迎えに出ていただきました。聞けば私の友人近藤誠さんと近い親類、つまり従弟だだそうで二度三度予の中の狭さを実感しました。近藤さんとはまちづくりを通じて知り合い、彼ら夫婦の仲人までやっているし、今はえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員を一緒にやっているのです。これまでにも多分結婚式や葬儀で出会っているのでしょうが、この日は初対面の対面をしました。冬の寒さゆえ人の集まりは今一でしたが、参加した人たちは終始熱心に私の話に耳を傾けていただきました。

 講演が終わって一直線わが家に帰ると妻は夕食の準備をしていました。購入した柿を見せると「まあ安かったのね」と褒めてくれましたが、食事が終わったら皮をむいて吊るし柿を作ろうと誘われました。面倒臭いたちなのですが自分が買ってきた手前断るわけにもゆかず、テレビを見ながら皮をむき、ビニールの紐で縛って10個余りの連を8つばかり作りました。残念ながら10個くらいはヘタの上のT字型枝が取れていたので、菜箸を使って2連は面白い恰好のものを作りました。洗濯物干し場はもう真っ暗なので、風呂場の電気をつけ薄明かりの中で物干しざおに吊るして行きました。二人の連係プレーも良かったのか小一時間で全て終了です。このところの冷え込みや季節風で20日間もすれば美味しい干し柿ができるものと思われます。私は星が気が大好きなので、今年の冬も美味しい干し柿を賞味できると喜んでいます。それにしてもあんな渋柿が甘い干し柿になるなんて誰が考えたのでしょう。

  「秋夜長 妻と二人で 皮をむく 干し柿八連 干し場に吊るす」

  「渋柿が どうして甘い 干し柿に なるのか未だ 分からぬままに」

  「干し柿を 見れば必ず 思い出す 盗んで食べた 幼き頃を」

  「この柿が 五百円とは 安過ぎる 農家の手取り 幾らになるか」

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shin-1さんの日記

○私は若松の親戚です

 私が住んでいるのは平成の大合併で再編されたと言いながら、松山市内の一校区にも満たない伊予市という4万人足らずの街です。しかもその中の人口5千人足らずの双海町という所です。私はこれまで物心ついてからずっと「愛媛県伊予郡双海町の若松といいます」と自己紹介していました。ところが3年半前に合併したため自己紹介では「私は愛媛県伊予市双海町の・・・・」と言わなければならなくなりました。伊予郡という呼称はもう小林旭の「昔の名前で出ています」という歌の文句と同じようになってしまい、双海町という自治体は地図上から消えてしまったのです。でも合併の折旧町名を残したためかろうじて、双海町という名前は使えるのです。

 そんな小さな田舎町に住んでいますが、「若松さんは若松○○さんと親戚ですか?」と言われることが時々あります。その都度記憶を蘇らせて、あの人はと親類の糸を手繰りながら「私の父方の従兄でして」と説明をするのです。実は田舎というのは同じような姓に家が沢山あるのです。私の親父も12人兄弟の長男ですし、その親父の親父、つまり祖父の代を含めると数えきれないほど「若松」という姓の家が町内にあるのです。でも同じ若松という姓でもまったく関係のない家もあるのですから、余程日頃からルーツを知っておかないと、間違いも起こるようなのです。その例は、私の町内に「わかまつしんいち」というひらがなで書くと同姓同名の人間までいるのです。その人は若松新一と書いて「わかまつしんかず」と呼ぶのですが、若松新一は「わかまつしんいち」とも読めるため、手紙や宅配便の誤配がこれまでにも何度かありました。まあ若松新一さんは私の従兄なので笑ってすまされますが、時々とんでもないハプニングが起こるのです。

 田舎に行くと3つ~5つくらいな姓しかなく、「○○さん」と言って姓だけいっても言葉が通じないことがよくあるので、特に島に行くとそんな混乱がよくあるようです。

 私は全国や県内をくまなく歩いているので、それなりに名前が知れ渡っているため、親類の若松さんや他人の若松さんは時々前述のように「若松進一さんと親戚ですか?」聞かれるそうです。その都度「あの人は親戚の~」とか、「あの人とは親戚ではないんです」と説明するのですが、面倒くさい時は「親戚です」いってしまうことだってあるようです。特に「あの人が親戚だと言っていた」という話を聞くと、むげに「他人です」ともいえず適当にお茶を濁してしまわなければ相手に失礼なことだってあるのです。


 何年か前親父と話していると、「親戚から親戚と言ってもらえるような人になれ」と言われました。もし私が何か過ちを犯し新聞やテレビ沙汰になったら多分親類の人は「昔は親類でもあの人とは付き合っていないので」と、私との関係を否定するでしょう。ところが私が何かいいことをすればたとえ親類の縁が遠くても「私は登園にあたります」と言うに違いないのです。親父の諭しの言葉は後者の人間になるようにとの言葉と受取今日まで一生懸命生きてきましたが、はてさて親父の言うような人間になり得たかどうかは未だに疑問の残るところです。これからも「若松進一さんと親戚です」と胸を張って言ってもらえるような人間を目指したいと思っています。

  「親戚と 言われるような 人になれ 親父諭され 今日まで生きた」

  「若松の 姓を名乗って 六十年 双海冠 少し小声に」

  「市民だが 未だに旧町 名乗ってる そろそろ改名 昔の名前」

  「若松と 言っても姓が あり過ぎて しんいちさえも 同姓同名」

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shin-1さんの日記

○木になるハガキが届く

 最近は自己PRの方法も色々と工夫を凝らしたしたものが多く、先日地域づくりの全国大会で交換した名刺もかなりカラフルで、取っておきたいようなものが何点かありましたが、行政に携わる人たちの中には相変わらずオーソドックスな名刺が多く、官民の格差を強く感じました。

 数日前一枚のハガキがわが家に舞い込みました。木でできたハガキです。私は地域づくりに深くかかわって生きているためこ別にこの手に類は驚きもしませんが、妻は「お父さん珍しいハガキが来ている」と驚いた様子でした。高知県馬路村の木下さんから木のウチワハガキが届いた時も、今回のハガキの主である長野県木曽福島開田の大目さんから木をくり抜いた輪切りのハガキも、妻は目を丸くして驚くのです。

 今回の木の板でできたハガキの差出人大目さんとは、一昨年高知県馬路村で開かれた全国大会で知り合いました。その時彼の差し出した名刺は何と免許証の偽物と間違われそうな名刺だったのです。この名刺は参加者の間で話題になり、基調講演をした私と彼とは手紙やメールのやり取りを続け、昨年は木曽福島の地域づくり塾に講演で招かれたり、そのことがご縁で上松町の池田木材さんとも知り合い、様々な交流へと発展していったのです。そして一年後の今年は11月9日に開かれた木曽郡公民館大会の講師として再び招かれ、日本一の紅葉を再度見る機会を得たのです。

(左が今回届いた木になるハガキ、右は一昨年届いた丸太の輪切りハガキです。右のは私のお宝として大切に保管しています)

 彼の書いたハガキの文章をご紹介しておきます。

 御岳山が白く雪化粧し、いよいよ朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。さて、先日は郡公民館大会の講師として、ご多忙の中、遠路お越しいただき誠にありがとうございました。講演は二時間を長いと感じさせないほど、素晴らしいもので、帰り際に「半日くらいは聴いていたかった」と言うおばちゃんがいましたが、それほど皆さんの心に響いた内容であったのだと思います。何よりも実践に裏づけされているのがすごいと思います。一昨年の馬路村でのまちづくり交流会の出会いが、本当に素晴らしいご縁につながりました。どうぞ今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

 彼の故郷木曽福島開田ではもう雪が舞っていることでしょうが、嬉しい友人からのハガキに思わずジーンときました。彼は行動派の人間で、毎日10キロ以上もの早朝ランニングを欠かしません。私と泊まった民宿でも朝早く起きて20キロもの山道を向くも九と走っている姿を見ました。朝の早い私も脱帽してしまいましたが、エネルギーを蓄え、そのエネルギーを地域のために御役に立てることは素晴らしいことです。彼はランニングの途中幹線道路の路側帯に雑草があるのを見て毎日その草を取り除く作業をボランティアでしているそうです。その輪は徐々に地域にも広がっているようだと漏れ聞きました。私の早朝掃除に感化されたとも謙遜して私を立ててくれましたが、いい人はいい行いをすると思い心の中で大きな拍手を送ってあげました。

 寒くなります。お風邪をひかぬようご自愛ください。

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shin-1さん日記

○日本一目立った男

 先日11月13日から15日までの3日間、愛媛県で地域づくり団体交流研修大会が開催されたことは、このブログでも度々紹介してきましたが、私はこの大会である実験を試みました。携帯用の電光掲示板をネクタイに仕込み目いっぱい目立とうというのです。最初はJA宇和島リジェールで開かれた前夜祭でした。会場には200人もの人が集まり、会場横ではそれぞれの分科会によるポスターセッションも開かれ、皆さんは名刺交換やおらが町の宣伝に余念がありませんでした。会場は交流会と言いながら飲み会や食事会、演芸発表会のようなお祭り騒ぎですから、呑むほどに酔うほどに南予特有の盛り上がりを見せていました。私は実行委員長をしていることもあって電光掲示板を胸につけ、似顔絵の名刺を配りながら会場内を右往左往し続けました。

 200枚も売れた似顔絵の名刺もさることながら、電光掲示板の威力は大したもので、まるで釘づけのように人が私の周りに集まってくるのです。「これは珍し」「何処で売っているのか」「仕掛けはどうなっているのか」「あなたは何者」などと、食事も出来ぬほどの質問攻めにしてやったりの心境でした。

 私が胸につけていた電光掲示板を手に入れたのは一年前にさかのぼります。国土交通省が人間牧場で開いた私が塾長を務めた観光カリスマ塾の会場を、人型パネルで飾る提案が受け入れられて製作しました。案の定この等身大の人型パネルは会場で大きな反響を呼んだのですが、その折卓上ミニパネルに携帯用電光掲示板を設置したところ、これもかなりインパクトがありました。文字は「夕日亭大根心落伍本『夕やけ徒然草』好評発売中・定価500円」というものでした。電光掲示板はその後新居浜の加藤さんと十亀さんからPRするからとお願いして無償で譲り受けました。私はこの電光掲示板と卓上人型パネルを木になるカバンに忍ばせ、この一年間全国各地で盛んに紹介し続けたのです。

 今回の実験をするにあたって電光掲示板の文字を変えねばならないので、忙しい合間を縫って先週私のパソコンを地域政策研究センターへ持ち込み、加藤さんと十亀さんにご足労願って清水さんの協力を得て入力し変えました。私のパソコンがビスタなので入力をまだ自力でできるところまで進化していませんが、ソフトを入力したのでそのうち自由自在にやれるようにしたいと思っています。

 さて今回私がセンター内の机の上で即興で書いた文章は一行20字程度という制限もあって以下の6行となりました。

  1、「しずむ夕日が立ちどまるまち」の若松進一です。

  2、4つの顔を持つ男!夕日亭大根心という芸名での落伍活動。

  3、私設公民館「煙会所」・海の資料館「海舟館」での活動。

  4、21世紀えひめニューフロンティアGでのボランティア活動。

  5、人間牧場での地域づくり!私塾「年輪塾」での人づくり。

  6、大学での教鞭や全国での講演活動。

 これらの文字が電光掲示板の上をオートローディング方式でとどめもなく流れるものですから、これは凄いインパクトです。私はこれを前夜祭、明くる日の全体会、第15分科会の夕日寄席、交流会、最終日の第6分科会と実験しましたが、かくして実験は大成功裏に終わりました。

 目立つことばかりが地域づくりではありませんが、目立たなければまた目的を達成することはできません。これからもこれを使って情報を発信し続けたいと思っています。


  「ネクタイに 光る文字つけ 歩く度 話題騒然 してやったりか」

  「驚いた 電光掲示が 持ち運べ 手軽に使え 宣伝できるは」

  「またひとつ 武器を手に入れ ピーアール 偉いもんだと 人が感心」

  「明日はどこ まるで寅さん 旅に出る 電光掲示が 眩しく光る」

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shin-1さんの日記

○人が集まることの意味

 強風波浪注意報が出て、昨晩から吹き始めた北西の季節風が今日は一段と冷たく吹きつけ、海沿いに面したわが町もいよいよ冬の深い眠りにつくように、港には出漁できない漁船が固く舫い綱で繋がれているようです。こんな日は道行く人の姿もまばらで、たまに出会う人も首をすぼめて歩いていて、その姿を見るとどこか侘しい田舎の風情を感じるのです。

 こんな寒い日に集会をすると、主催者が口火を切る開会の挨拶は「今日は寒いので人の集まりが少ないようです」と、まず集まらない理由を天気のせいにしてしまうのはよくある話です。そんな所に限って晴れた穏やかな日に行って挨拶を聞いても多分「今日は天気が良過ぎて人が集まりません」と、これまた天気のせいにしてしまうのです。集まらない利用うを天気のせいにしている話を聞く度に「おいおい、じゃあいつ集まるのか」と言ってやりたい気持ちになるのです。

 今日は伊予市商店街にある「いっぷく亭」という空き店舗を利用した立ち寄り所に招かれて行きました。前回のお話し会が10月24日でしたから、27日ぶりの同じ顔ぶれに対するお話です。普通であれば前述のようにこんな寒い日は人が集まらないのが普通ですが、何と何と蓋を開けてみると前回の倍程度の人が集まって、外の寒さをよそに熱気が感じられました。それは多分前の私の話が良かったのか、それとも主催者が努力して動員をかけたのか、参加した人が約束通り一人が一人連れてきたのか、はたまた今日はたまたま暇だったのか分かりませんが、まあ全てが上手くいって人が集まったと理解しつつワクワクするような気持で四方山話をさせてもらいました。私の場合はインスピレーション、つまりその場で感じたことを話すので、前回とダブっていることを話したかも知れませんが、まあ人間は忘れることが上手いので、前回のことなど覚えている人も少ないので、一気に感じるまま話をさせてもらいました。

 人が集まるのには①楽しみづくり、②しくみづくり、③値打ちづくりが必要です。この日は寒いので「いっぷく亭」の名前にふさわしく、温かい抹茶がふるまわれました。私の話にうなずいたりメモをとったりしながら返ってくるみなさんの笑顔も素敵でした。



 さて3回目の次回は12月9日に集まることが決定しました。鬼の顔も二度三度といわれるように、私の話ももう秋ならぬ冬が来るかも知れませんが、それでも次回は最終回なのでひとつ心に残る面白い話をしたいものだと考えていますが、そんな話が果たしてできるでしょうか。帰り際、あなたのブログにリンクさせて欲しいという参加者もいて、嬉しい人間のネットワークができつつあるようです。

 先日第一回目の集会が終わって、私は参加者に名刺を配りました。すると3通もお便りが届いたのです。忙しくて少し返事が遅れましたが、それでも私はお礼のハガキを出しました。はてさて今回は来るか来ないか分かりませんが、同じ市民として同じ市内に住んでいる人たちとこうして交流できることは、合併の大きなメリットなのです。「合併はつまらなかった」という声をよく聞き、役所などを批判しますが、それは何もせず、してもらうことだけを待っている人の話かも知れないと思いました。

 市民どうしが交流してこの町をどうすればよくして行けるか、知恵を出し合ってこそこの町の未来はあるのです。これからもいい町を作って行きましょう。お寒い中今日集まった皆さんに感謝します。またお会いしましょう。


  「寒くても いっぷく亭に 集まれば 心ほのぼの 笑顔あふれる」

  「化粧品 つけても綺麗 なるものか 笑うとタダで お顔ピチピチ」

  「お菓子食べ 抹茶いただき 一服す 心落ち着き 幸せ感じ」

  「倍の人 集い嬉しや 俺のため 思えば馬力 以前に増して」 


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shin-1さんの日記

○リズムが合わない妻と私

 長年夫婦をやっていると、どちらかの色に染まるものだといわれていますが、どういう訳か私と妻の暮らしのリズムはまるで合わないようで、そのことに最近気がつきました。特に私は早起きタイプなのに妻はいつまででも布団を温めるタイプなのです。今朝も私はいつものように午前四時に起床して、妻と同じ布団に寝ている布団をそっと抜け出して起床しました。強風注意報が出て今年一番の冷え込みになったものの、着替えをして書斎に入りましたが、ストーブを付けるほどの寒さではないようでした。パソコンに向かってブログを書いていたら、早朝散歩から帰った親父が窓の外から、「今日は不燃物回収の日なので」と窓の外から伝えに来てくれました。急いで外に出て親父と一緒に不燃物の整理をしてトラックに積み込み、役場裏まで持って行きました。不燃物置き場には区長さんと副区長さん3人が寒そうにしながら、次々運び込まれる不燃物に監視の目を光らせていました。このところ不燃物の搬出マナーの悪い人がいて困っているとのことでした。私が区長をしていた頃もまったく同じで、町内有線放送で周知しても中々守れなかったし、月に一度の回収日には監視と搬出後の清掃をに汗を流したものでした。誰が区長や役員になってもゴミの問題は厄介なものだとしみじみ思いました。

 家に帰り手を洗っていると、6時半になるのに妻はまだ布団の中です。先ほど声がしていたのにまだ布団を温めているのです。私の呼びかけでやわら起き上がりましたが、妻も仕事や家事で疲れているのでしょうが、既に私とは朝だけで2時間半もの差ができている計算になるのです。つまり私が毎日書いている2本のブログのうち朝のうちに書く1本は全て妻の寝ている時間に書いた計算になるのです。私は朝のブログ1本に約1時間をかけますが年間早朝365時間もの時間的成果は妻の夢の中なのです。

 私は外出先から帰るが遅く、時には11時近くになります。基本的に外食が嫌いなタイプなので食事は家に帰ってするようにしていますが、今でこそ4人の子どもも家を出て独立しているため、妻の苦労はそれほどでもなくなりましたが、それでも親父の夕食を隠居へ午後6時までに運び、それから一人で食事をし、私が帰ると私の食事の準備や後片付けが待っているのです。

 私は食事が終われば書斎に入って仕事を片付け、一緒に風呂に入った後、11時ころから1本のブログを約1時間かけて書きあげます。その間妻はテレビを見て床に就くのですが、ここでも妻は心地よい布団の中なのです。

 妻の血液型はO型、私はB型、子供4人は全員B型です。OとBとでは性格も違うのでしょうが、それでも性格やリズムの違いを克服して40年近くも一緒に暮らしていると、違いを認め合って生きていることに気づくのです。多分後20数年間生きる予定の私たち夫婦は、こうしてお互いそれぞれの生き方で生きて行くのでしょうが、この年齢になるとむしろその方がいいと思うようになりました。

 夫婦はもともと他人です。しかし何かの縁でひとつ屋根の下で暮らすようになると、それぞれの違いに気づき、その違いを同化することが夫婦だと思うようになって色々努力してみましたが、結果的には上手くゆきませんでした。最近性格の不一致という理由で離婚する人たちが沢山いるようですが、もし性格の不一致を原因にするなら私たちはとっくに離婚しているはずなのです。でも賢明な私たち夫婦は性格の不一致をむしろ当たり前のことと気づいて認めいあいながら生きた結果、人もうらやむほどではないにしてもそれなりに幸せに生きているのです。私たちは見合い結婚で二人とも持ち点ゼロから出発し、持ち点100を目指して加点しながら生きています。恋愛だったら持ち点100から減点しながら生きていたかも知れないと思うと、見合い結婚もまんざらではないようです。残り少ない人生を未だにリズムの合わない妻と仲良く生きてゆきたいと思っています。

  

  「早起きる? 言う妻布団に まだ寝てる リズム違うが 別れもせずに」

  「夫婦とは 互いに加点 するものぞ 減点すれば 届捺印」

  「お父さん 足腰揉んで すり寄るが 興奮もせず やはり歳だな」

  「寒くなり 互い体温 湯たんぽに 安眠楽し 今宵幸せ」  

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shin-1さんの日記

○喪中のハガキが舞い込んで

 数日前からわが家へも「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という喪中のハガキが届きはじめました。そのハガキを手にする度に心が痛みます。多分そのハガキを書いた人はこの一年間、自分につながる人の仏事に心を痛めたことでしょう。

 わが家でも今年は叔父が急逝し悲しい出来事がありましたがこの叔父が存命中、「わしが死んでも喪中などといわず、祭りも年賀状もOKだ」と言っていたので、私もその遺志を継いで喪中のハガキなど出さないつもりで早々と年賀状を購入しているのです。

 このところの忙しさで郵便物の整理が全くできず、山のようにたまっていましたが、今日は久しぶりに机に座ってそこら辺の郵便物を片付けました。すると中から友人からの喪中のハガキを見つけました。「6月に長男が永眠いたしました」と書いているのです。私の場合友人や知人の訃報は人んどは知人が知らせてくれるのですが、今回は友人も知らなくて、半年も私の耳に入っていなかったのです。アメリカの大統領がオバマさんになったという海の向こうの話は逐一自分の耳に入るのに、僅か25キロ離れた松山に住んでいる友人の家族のことはまるで入らないのですから、情報化時代もいい加減なものだと思いました。

 早速友人たちにそのことを連絡しましたが、友人たちも一応に知らなかったようで驚いていました。友人たちと相談し半年遅れたとはいえ不義理を詫びねばと思い、喪中ハガキをくれた友人に電話をかけ、仏壇へ線香を上げさせて欲しいと頼みこみ、早速出かけて行きました。友人の家には一度きりしか行ったことがないので、カーナビに相手の電話番号で入力して出かけましたが、この電話番号が指し示す場所はとんでもない所が出て、結局は記憶を頼りに出かけて行きました。

 私の記憶も相当なもので一発で松山の住宅地で友人の家を探し当てました。家の中に入ると奥さんも居合わせていましたが、話す度に半年も経っているのに夫婦とも涙がこみ上げるようで、こちらも思わず貰い泣きをしてしまいました。聞けば息子さんは学校の先生をしていたようですが長の患いでもなく、気がついた時は既に遅しで、一日の患いくらいで急逝したそうです。悲しみの中なので詳しいことも聞けなかったのですが、自慢の子どもだったので余計悲しさが募るようでした。今は毎日奥さんが息子の嫁さんと孫2人のために夜は泊まりに行っているそうで、友人も家の中に閉じこもっているような状態でした。

 幸い友人宅にはまだ子どもが2人いて気はまぎらうようですが、親がしっかりしないといけないと精をつけ、お暇しました。


 友人は私の退職と相前後して務めていた電力会社を少し早く退職し、第二の人生を再就職して頑張っていましたが、その仕事も辞めて悠々自適の穏やかな暮らしを楽しんでいました。しかし降って湧いた今回の長男の急死という悲しみで友人の人生は狼狽し一変しているようでした。多分私でも同じ境遇に会うと同じような気持ちになるだろうと同情しながら、彼の元気回復に私も手助けできないものかと考えました。

 まだ60歳そこそこですから再就職をするよう勧めました。多分この年齢になるといい仕事は見つかりにくいかも知れませんが、働いているうちは気分もまぎらうかも知れないのです。また私のようにボランティア活動に参加することも一考です。とにかく家の中に閉じこもってあれやこれやと考えていると、うつ病になりそうだという友人の気持ちを考え、何とかしたいと思いました。

 人は一寸先のことは分かりません。今幸せでも先は全くよめないのです。はてさてわが身にもそんな悲しみが来ないことを願っています。


  「一枚の 喪中ハガキに 込められた 悲しき日々を 乗り越え歩む」

  「残された 幼子親の 死も知らず にこやか笑顔 余計不憫で」

  「アメリカの ニュースその日に 聞こえるが 近き訃報は 何故か届かず」

  「半年も 遅れて香典 持って行く 何ともバツの 悪い役柄」


  

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