shin-1さんの日記

○自由奔放に生きているあなたが羨ましいと言われました

 「あんたが羨ましい」とよく仲間内から言われます。その理由はリアイアしてからもやることがあることと、目標を持って自分の願望を叶えているかららしいのです。確かに私は4年前の市町合併を機に、どこにも属さない自由人を選びながら、大学へ教えに行ったり講演に行ったり、はたまたボランティア活動を行ったりと、年中忙しく振舞っているのです。ある部分はボランティア活動ながらある部分では何がしかのお礼をいただき、首を吊ることもなく年金生活を謳歌しているのですから、これ以上の幸せはないのです。

 私の友人に木村さんがいます。先日も西予市宇和町明間でお会いしましたが、彼は自営の自動車整備工場の経営が不況のあおりで思わしくなく、仕事が終われば夜の12時近くまでタクシーに乗って家計や小遣いのカバーしているというのです。私はこの話を聞いて世の中の不況の深刻さに少し衝撃を受けました。自動車整備工場経営とタクシー運転とは妙な取り合わせですが、活きるためには背に腹変えれないと笑って話していました。そういえば私の町の土木会社に勤める若い人も、仕事が終わるとガソリンスタンドでアルバイトをしていると聞きました。子育てや家のローンをやりくりするためにはがむしゃらに働かなければならないのだといいます。会社が厚生年金も払ってくれない零細な会社では将来の不安が何時も付きまとっているのです。

 そこへ行くと公務員はいいと、不況になるといの一番に公務員への風当たりが強くなってきます。確かに親方日の丸で、ノルマのない仕事はまるでぬるま湯のように見えるのでしょう。私も公務員生活を35年間も経験していますから、ぬるま湯といわれる部分は確かにあると思っていますが、公務員は公務員なりに苦しいことがあることも代弁してあげなければなりません。

 しかし私たちが働いていた役場のような穏やかな時代はもう終わりました。これからの公務員はどうあらねばならないのか、しっかりと肝を据えてかからなければ市民の付託にはこたえられないのです。

 仲間から羨望のまなざしを持って見られるのは、自分が描いた生活設計に基づいて夢を勝ち得ていることだそうです。私は50歳代で人間牧場構想なるものを多くの仲間に話していました。ある仲間は「そんなことして何になる」とか、「そんなこと考えても出来る訳がない」と冷ややかでした。第一安月給の地方公務員にそれだけの資金が確保できるかどうか、誰が考えても無理な話なのです。でも私は10年間綿密な計画に基づいてその実現のために動きました。そして資金を確保して人間牧場を実現したのです。血のにじむようななんて苦労はしませんでしたが、それでも強い意志力だけは持ち続けてきました。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、「若松進一は大風呂敷の嘘つき」になっていたでしょうが、少なくても私の仲間は「若松進一も中々やるわい」と思ってくれたに違いないのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の21年刻みの人生の4クルー目は味気ないものになっていたに違いないのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、仕事仕事と仕事に追いまくられ、壊れかけていた家族の絆をここまで修復することはできなかっただろうと思うのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の理想とする社会への貢献やふるさとへのお返しはこうも充実していなかったと思います。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の情報発信能力はここまで高めることができたかどうか、心もとないのです。

 私はこれからも常に目標を掲げて進化して行きたいと思っていますが、最近気力と体力のバランスが崩れそうになることがあります。昨日も孫に風邪を移され、熱が38度まで上がり、豚インフルエンザの猛威のニュースもあってつい弱気になったりします。まあもう若くはないのですから、せめて体力だけは鍛えねばと思うこのごろです。


  「不景気で 昼の仕事に アルバイト 加えて生きる 仲間は凄い」

  「羨まし 私の仲間 みんな言う 仕事があって 楽しく生きれ」

  「公務員 しっかりせねば 目の敵 市民の付託 しっかり応え」

  「熱が出て 少し弱気の 俺を見て 妻は優しく 体温計る」

  

 

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shin-1さんの日記

○兼業農家の長男は本当に幸せなのか?

 先日熊本大学教授徳野貞雄先生の本に書かれていることが話題になりました。「兼業農家の長男は幸せ」というのです。先祖から受け継いだ家と財産があって、お米や野菜など食べるものにも事欠かない姿は確かに幸せそうに見えるのです。しかし現実はそうでもなく、日曜百姓という重労働が重くのしかかり、不自由な暮らしを強いられているようです。

 市役所に勤めるKさんは農家の長男として生まれました。昔のことゆえ均分相続とはいいながらお父さんがなくなったとき、農地のほとんどを兄弟が相続放棄して長男に譲ったのです。以来Kさんはミカン畑と田んぼの世話がついて回り、週休二日となった最近では年老いたお母さんと奥さんのやっている農業を手伝う形で、殆ど休みのない暮らしをしているのです。

 4月下旬から5月初旬までは田起こし、草刈り、水引き、田植えなど年休をためてこの時期に集中してお休みをいただきながら、先日無事一連の田植えを終えたようです。私と出会ったのは月曜日でした。どこか疲れているような気の抜けた感じがしましたが、聞けば田植えの重労働で体の節々が痛くて、「今日は仕事にならない」とこぼしていました。

 田植えの終わった日本の農村はカエルの鳴き声が聞こえて長閑に見えますが、こうした目に見えない部分の苦労を隠して保たれているのです。Kさんがいうのには、3反の田んぼを守るのに田植機や稲刈り機などの機械を購入したり、圃場整備でこの20年間相当のお金をつぎ込んできたそうです。お米が60キロ1万2千円として24俵、28万8千円の素収入から苗代、農薬代、肥料代、機械代などを差し引けば完全に赤字だそうです。相続放棄してくれた兄弟姉妹にお米も送らなければならないし、「まあ自分が作ったお米が食べれるくらいなものでしょう」と力なく笑っていました。

 農家の朝は早いです。今は5時過ぎに明るくなるので、お母さんは6時になると畑へ出るそうです。Kさん夫婦は勤めていることや子どもの世話もあって6時半が起床だそうで、Kさん夫婦とお母さんの時間差が嫁と姑の人間関係にも響いて、中に入った長男の舵の取り方も大変な気配りを強いられているとこぼしていました。

 田んぼは自分が嫌だったら止めればいいという単純なものではありません。集落内の隣近所が群れなければ成立しないのです。いいかえれば止めたくても止めれないのです。年老いた人が増えて耕作放棄地が目立つようになってきましたが、水の管理や害虫駆除、役割分担など、遺された人への荷重は年々増えているのです。

 土日に農作業をして月曜日には出勤するも骨休めといった人を田舎が故に沢山見てきました。その都度色々な厳しい言葉を浴びせられて農家の長男は肩身の狭い思いをしているのですが、Kさんの話を聞いてすっかり同情してしまいました。

 私の家は半農半漁といいながら漁家だったためそんなに重労働を伴うほどではありませんでしたが、それでも最盛期にはみかんをかなり作っていて、同じような心労があったことを記憶しているのです。

 「兼業農家の長男は幸せ」という言葉は、こと双海町のような田舎には当てはまらず、むしろ「兼業農家の長男は不幸」と言わざるを得ないのです。


  「兼業の 農家跡取り 幸せと 先生言うが そんなことない」

  「財産を 貰ったものの 不自由な 暮らし毎日 ついて回って」

  「日本の 農業暗い 一面を 持って守られ 故に悲しき」

  「カエル鳴き 長閑農村 見えるけど 溜まった水は 汗と涙か」 

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shin-1さんの日記

○孫とじいちゃんのデコボコサイクリング道中

 雨の前触れでしょうか、わが町では夜半から南寄りの生暖かい突風が吹いて、外へ出るのが億劫なほどでした。それでも昨晩からわが家に泊まりに来ている孫たち二人は元気者で、外へ連れ出すようせがむのです。まもなく2歳になる下の方は言葉も随分覚えて、片言の日本語を喋り続けているのです。昨日誕生日のプレゼントに買ってもらった、アンパンマンのキャラクターが印刷されているボールを部屋の中で一生懸命蹴って遊んでいます。「シュート」や「ゴール」など、兄が自宅で喋る言葉を習って飽きもせずといった感じです。

 一方小学1年生になって初めてやってきた孫朋樹は、随分おせらしくなって目を見張るような成長ぶりです。今朝は大風が吹いているにもかかわらず孫と私の相談ができてサイクリングに出かけることになりました。まだ自転車の運転はさほど上手くはないのですが、自信をつけさせるために出かけることにしました。目的地は自宅から4キロ近くある翠小学校近くの観光イチゴ園なのです。私は妻のママチャリ自転車、朋樹は隣の親類から貰った子ども用自転車です。私の家から県道に出ると翠小学校まではダラダラ坂で、加えて南の風は向かい風で容赦なく吹きつけ、自転車が中々前に進みませんでした。加えて近所の畑では田植えの準備が始まったり、上灘中学校では町内ソフトボール大会が開かれていて、車道も歩道も車が無造作に駐車されていて走りにくいことこの上ありません。

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 それでも「もう無理」と弱音を吐く孫を激励して、ついに大畑さんの観光イチゴ園に到着しました。毎年何回か行く観光イチゴ園なので孫朋樹の顔も覚えてくれていて、大負けサービスをしてもらいました。二人はイチゴのハウスに入り大畑さんの言われた品種の列に入り、思いきりイチゴを摘んで食べました。糖分と酸味のバランスも抜群で、シーズン終わりとは思えないほどの美味しさに舌鼓を打ちました。食欲の落ちている私など、小学一年生の朋樹には遠く及ばず、それでも完熟した真っ赤なイチゴを10個くらいは食べたようです。家で待っている孫尚樹のために一パック買って帰ることにして摘みました。

 お腹は太ったし、さあいよいよ出発です。来る時のだらだら登り坂も向かい風も、帰りは下り坂と追い風で、ブレーキをかけなければスピードが出過ぎて危なほどの楽ちんでした。風は相変わらず吹いていましたが、帰る頃には雨がぽつぽつ降り出し、家路を急ぎました。かくして孫とじいちゃんのサイクリングは無事終わり、孫は往復8キロの珍道中にすっかり自信を深め、「今度は自転車で釣りを楽しもうと、相談がまとまりました。


 それにしても孫の成長は頼もしい限りです。会うた度に成長していて、これまでの暮らしに「自転車の運転ができる」ようになったことで、随分活動の幅が広がってきました。私が衰えないうちに二人でしまなみ海道を今治から尾道まで渡りたいというのも夢です。孫にその話をすると孫はその気になっていて、「これから自転車をできるだけ練習して上手くなりたい」と話をしてくれました。

 一生懸命自転車をこいだせいか僅か往復8キロだのに、なれない自転車で少し足が這っているのを覚えました。こんなことでは孫朋樹と60キロといわれるしまなみ海道を渡りきることはできないと、弱った体力の回復を誓いました。

 自転車は化石燃料であるガソリンを消費しません。私の暮らしはこれまで、どちらかというと庭先から目的地まで何の疑いもなく車に依存して暮らしてきました。自転車など考えることすらなかったのです。僅か1キロ弱の役場に30年近くも余程のことがない限り車で通勤していたのです。これまでの暮らしを改めるにはやはり自転車を主な乗り物にして生きてる親父を見習わなければなりません。遅かれ早かれ車の運転免許を返納する時もやってくるでしょう。少しお金を貯めて人生最後の乗り物として自転車でも購入したいと思った日曜日の一日でした。


  「向かい風 背中丸めて 自転車を 漕いで帰りは 追い風に」

  「自転車に 乗りて少々 ふくらはぎ 張って年齢 自覚症状」

  「爺と孫 二人仲良く 連ね行く 長閑な初夏の 畑中の道」

  「老いて爺 従うように ついて行く サイクリングの 孫の自転車」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○メダカの輿入れ

 わが家では何年か前まで、親父が庭の池で大きな鯉を飼っていました。人に自慢してもいいくらい立派な鯉で、鯉を飼うため池には太い専用の浄化槽装置まで付けて万全の状態だったのです。鯉を飼うと鯉仲間というのが出来て、養鯉業者さんや熱心なマニアが次々わが家に訪れそれは賑やかな自慢話や鯉談義に花を咲かせていたものです。

 ところが何が原因か分かりませんが突然鯉が死に始め、ついにわが家で40年近くも飼っていた自慢の鯉が死んでしまったのです。鯉をわが子のように大切に育てていた親父の悲しみや落ち込みは相当なものでした。結局池は潰すことになりましたが、池を利用して地下室を作る妙案を思い付き、その上に東屋風の建物を自分で造り作業小屋として利用し鯉のことをすっかり忘れさせました。

 ところが最近になってまたその趣味が頭を持ち上げて、自宅の庭が広いことをいいことに、太くならない金魚のような魚に目をつけ、自分で池を掘り自分で上塗りをして小さな池を完成させました。私の長男と相談してそこに珍しい金魚を飼っていますが、今までのような大きくて豪快な鯉とは違い、飼育施設も簡単なようです。しかし相変わらず時々セメントを練って石をひっ付けてみたりして楽しんでいるようです。

 この池に異変が起こり始めました。せっかく育てた金魚を飛来してきた大きな水鳥が狙うようになりました。一匹二匹と取られるのを見て親父は網を張ったようですが時ならぬ水鳥に頭を悩ませました。

 また悪がきに成長しつつある2歳間近な孫二人が、よちよち歩きのくせに池の金魚が気になって、わが家へ来れば必ず「ジージ、ジージ」と近寄り、手を池に入れてジャブジャブ遊ぶのです。これも何とかしなければ危ないとばかり、今度はステンレス製の柵を作ってしまいました。

 そんなこんなで元漁師の親父は陸に上がったカッパになっても、相変わらず魚の匂いが消えないのです。実は私も若いころ7年間自営の漁業を生業にしていた時期があって漁船若吉丸の船長をやり海に出ていました。宇和島水産高校出身ですから当然かも知れませんが、やはり親父と同じく陸に上がったカッパなのです。

 昨日一年生になった孫朋樹が1ヶ月半ぶりにわが家へ泊りに来ました。迎えに行った帰りに、伊予市商店街の谷岡さん宅に立ち寄りました。商店街の空き店舗を利用したいっぷく亭にお話しに行った折谷岡和美さんと知り合い、その後集落勉強会に入って一緒に勉強するようになって深いご縁をいただいたのです。今では私の大切なメル友でお互いブログをお気に入りに登録して、メールを交換しているのです。


  

若松進一ブログ
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 谷岡さんは自宅でメダカを飼っていて、そのメダカがブログで紹介され、メールでメダカを譲ってもらうことになったのです。「近いうちに伺います」と書き込んでいたのですが、時期を逸していました。昨日急に思いつき孫朋樹と二人で容器も持たず立ち寄ったのです。家の中庭にはメダカが水瓶に入れられ涼しそうに泳いでいました。また金魚の赤ちゃんも沢山卵を産んでいて、メダカと金魚を二つのビンに入れて持ち帰ったのです。用意しておいた玄関先の水瓶に早速井戸の水を汲み入れ、朋樹が写真撮影してくれました。私は昔宇宙メダカを飼った経験があるのでメダカの飼い方は一応分かっているつもりです。ビンから水瓶にメダカを移し水草を入れて作業を終えましたが、お輿入れしたメダカは夏に向って涼しさを演出してくれることでしょう。


  「立ち寄りし 友人宅で 譲り受け メダカ輿入れ 水瓶泳ぐ」

  「どのくらい 大きくなるのか? 孫が問う メダカ・クジラも 同じ魚だ」

  「メダカ飼う 話題が孫と じいちゃんを つなぐパイプに なってくれれば」

  「目が高い 書いてメダカと 読んでいた 昔懐かし 亡き人思う」

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shin-1さんの日記

○道後老舗ホテルでの講演会

 今日は午前中、道後のホテルで大和ハウスさんから講演依頼があり出かけました。会場の大和屋本店という老舗のホテル周辺はすっかり整備が整って、訪れる度に日本最古の温泉らしい姿に変わりつつあり、観光にいささかのかかわりを持っている一人として嬉しい限りです。大和屋の奥村社長さんは最近まで県観光協会の会長さんをされていて再三出会っている方ですが、今日も講演が終わって帰り際お会いすることができ、観光について立ち話をさせてもらいました。

 講演は11時からでしたが、先約があって9時半にホテルへ入りました。先約の相手である平野さんとは電話でしかアポを取っていませんでしたが、聞けば先月25日に香川県高松市三谷地区三渓小学校で開かれた私の移動落伍講演会を聞かれたらしく、是非地域の活性化についてご助言をいただきたいということでした。ホテルのロビーに私が到着すると奥まった所にいたヒューマンテクニカの大津さんという方が平野さんより先に見えていて、ポータルサイトについて微細な説明を資料に基ずいて話し始めました。私にとっては寝耳に水でしたので多少面食らいましたが、話はとても良く理解することができました。やがて高松から来た平野さんや木村さん、ヒューマンテクニカの浜崎さんも加わって、様々な議論を1時間にわたって行いました。

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(大和屋本店のロビーにて)

 第一線を退いているとは言いながら、地域活性化について未来戦略を語ることは私にとっても望むところであり、私の手がけたシーサイド公園の未来についても検討を進めて行かねばならないテーマであると実感した次第です。

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(この壇上でお話ししました)

 約束の時間が来たのでお別れし4階の会場に上がりました。聞けば今日は大和ハウスさんが仲介している方々のお集まりで、詳しく聞くこともないので言われるまま壇上に上がりました。驚いたことに金亀会の会長である安高会長さんは旧知の人で、私が若いころセスナ機をチャーターして空から古里を見る運動をやった折、空港近くの南吉田集会所をお借りして随分お世話になった方で、私の講師紹介も念入りにしてくださいました。

 私を講師として仲介した人は新家さんとう人らしく、私の話をどこかで聞かれ今日の講演になったのです。新家さんは帰宅後わざわざ電話をくださり、感想を述べていただくなど気配りをいただきました。

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(私を紹介していただいた新家さん)

 講演は約1時間ほどで終わりましたが、講演の終わりに立派な花束まで贈呈していただき恐縮しました。大和屋本店は能舞台まである立派なホテルで、昼食懇親会は能舞台が見える部屋が用意されていました。ここで行われる薪能を見ながら食事をしたらさぞ風流だろうと、BGMで流れることの調べを聞きながら想いを馳せました。

 午後には約束があって食事もそこそこにお暇しましたが、今日も様々な人に会い未来に希望が持てるいい一日となりました。

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(大和屋本店の見事な能舞台)


  「情報化 時代どこまで 進むのか 聞けば聞くほど 便利世の中」

  「あの人の 話を聞けと 紹介す 人あり壇上 立って話ぬ」

  「薪能 いつか見たいと 思いつつ 未だにその機 訪れぬまま」

  「帰るなり 今日の話は 良かったと お褒めの電話 顔を赤くし」

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shin-1さんの日記

○旧友兵頭正兼さんの死を悼む

 第一報が入ったのは13日の昼ころでした。「○○ですが覚えていますか。あなたの友人の兵頭正兼さんが昨日の12日亡くなりました。旧友でしょうから失礼とは思いますがお知らせします。葬儀は○○というセレモニーホールで15日2時から行われるそうです」。電話の声は聞き覚えのある人で、信じられない友人の死を悼みながら、死亡に至った出来事や思い出をを少しの間お話ししました。

 兵頭正兼さんは旧宇和町の役場職員でした。3年前に退職し、その後は請われて西予市宇和文化会館に館長として勤めていました。若い頃には私と同じく公民館に勤務し、住民活動の先頭に立っていました。宇和町といえば当時は社会教育の先進地として県下にその名をはせていて、国和館長さんや末光さん、三好さんなどそうそうたる論客を自認するメンバーが、「花と緑と太陽の町へのアプローチ」などというキャッチフレーズを掲げて情報発信していました。

 負けず劣らず公民館の仕事を生涯の仕事と思い込んでいた私は、特に南予地域の公民館主事仲間とあい図り「煙仲間」という公民館主事集団を作り、暇さえあれば集まって大いに飲み、大いに夢を語り、大いに仕事をしたり学習を行いました。その舞台となったのは国和館長さん引きいる宇和町の公民館であったり、大洲市に住んでいた松田先生の自宅でした。

 煙仲間の仲間たちは、維新の志士坂本龍馬の生き方に自分たちの生き方をダブらせながら、公民館活動で理想郷をつくろうとある意味の競争をしていました。当時明間公民館の主事だった兵頭さんは私より一つだけ若いものの、酒がめっぽう強くて晩年には本場である島根県で習ったどじょうすくいを覚えて披露するなど、一芸を持った涙もろくて温かみのある南予人特有の無骨な男でした。

 兵頭さんの家に泊まったこともあり、奥さんは公民館に一時期嘱託として勤めていたり、最近は自宅で民宿などを始めたとい話をう風の噂に聞いていいました。5月の2日に明間の佐藤さんの招きで交流会に出かけましたが、その折国道の奥まった所に「民宿兵頭」の看板を横目でチラッと見ながら、「正兼さんは元気じゃろうか」と思って通り過ぎたのが彼の面影を思い出した私の最後の意思だったようです。

 昨日は長浜町豊茂に住む親友菊地邦求さんに電話連絡し、大洲で落ち合い彼の車に乗せてもらって葬儀が営まれる旧宇和町まで出かけ告別式に参列させてもらいました。


 告別式にはよその町とはいいながら知人友人も多く、正兼さんと共有する多くの人に出会いました。そして昔の思い出話をしました。祭壇に飾られた普段着の遺影やスクリーンに流れる在りし日の姿、弔辞や息子さんの挨拶を聞きながら、若くして逝った正兼さんの姿を思い出し涙が出て止まりませんでした。それにしても退職間もないと言いながら一役場職員の葬儀とは思えないような立派な葬儀にびっくりしてしまいました。そしてやがて何年か後には嫌でも辿らなければならないであろう自分の道に思いを馳せました。

 大洲、宇和間を菊地さんの車に乗せてもらい往復している間、菊地さんと過ぎ越し人生や今、そして将来のことについて大いに話しました。二人には酒を愛し、夢を語る当時の姿はどこにもなく、彼も私も大病を患ったせいで、空気の抜けたフーセンのように痩せこけていて、「お互い健康には注意をしよう」と慰め合うのが精いっぱいでした。人生80年という長寿の時代に、楽しみにしていた年金も殆ど貰わず63歳の若さで亡くなった正兼さんの冥福を祈りながら、健康への誓いを新たにした悲しい一日でした。


  「俺よりも 若い親友 先に逝く 遺影に無言 語りかけつつ」

  「痩せこけた 俺の顔見て 遺影言う もっと元気で 長生きしろよ」

  「大酒を 飲んで大いに 夢語る ありし日姿 昨日のように」

  「地球から 姿消したる 友思う 何年か後に あの世再会」

  

 

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shin-1さんの日記

○金にもならないことだから意味がある

 昨晩は子どもおもしろ教室の実行委員会があって夕方市役所支所へ出かけました。リタイアしてもう4年が過ぎるというのに未だに現職の頃からのボランティア活動を引きずって、請われるままに今年も実行委員長を引きうけてしまいました。

 昨日役所に勤めていたころの友人に会いました。彼は天下りほどの美味しい職場ではありませんが、それでも再任用制度で役所の出先機関に再就職しているのです。在職中は社会教育やまちづくりの現場を経験し、ボランティア活動の必要性を人々に説いてきた人なのに私にこんな発言をして、一瞬その人の心を疑いました。

 「あんたまだそんな金にもならない活動に首を突っ込んでいるのか。そんな暇があったらもっと自分の人生を楽しんだ方がいい。協働や参画などと甘い言葉を言って、ボランティアと称するタダ働きをさせ、自分は汗をかかない役所の姿は頭にきている。あんたも早く足を洗った方がいい」というのです。そして現在の再任用された職場への不満なのでしょうが、「給料も安いのでその程度の働きをすればいいと割り切っている」のだそうです。

 普通であれば「そうよなあ」と同調するのでしょうが、私の虫の居所が悪かったのか少し反論してしまいました。「世の中不景気だというのに、あんたはこうして退職してからも働けるのだから、給料が安くても仕事があるだけ有難いと思わなけりゃいかんぜ。社会教育やボランティア活動はお金じゃないと、あんたも昔言いよっとろがい。退職金も年金も出るのだから、もう少し社会に貢献するようなことを考えないといけん。わしはあんたと違う」と説教してやりました。

 彼からの反論はなくそのことについては「・・・・・・・・・・・?」でしたが、彼の奥さんと出会ったとき聞いた、「遊んでいてもボケるだけ。自分の食いぶちぐらいは稼いでもらわないと。今まではペコペコして言うことも言えず生きてきたんだから、これからは胸を張って生きてゆきたい」という話と良く似た夫婦の会話を思い出しながら、どこでボタンをかけ違えたのかしみじみと考えさせられました。


 昨夜は打ち合わせが終わって単車で帰りました。田舎の道は街灯も殆どなく暗くて、単車の弱くて鈍い灯かりが前を照らしてくれました。民家の家のあちこちの窓に明かりが見えました。ふと昔聞いた「聖窓」のことを思い出しました。江戸の頃は夜道に街灯は殆どない時代でしたが、夜道を照らしたのが箱型の聖窓だったようです。遊郭や見世や町家入り口脇などに設けて内側に油火をともしました。門燈や客引きが目的だったのでしょうが、前を通る人々の足元を照らし、道しるべになったのです。聖窓の語源は僧「高野聖」が背負っていた箱が語源とされていますが、足元を照らすと同時に歩との心を明るく照らしたに違いないのです。私が子どもの頃は懐中電灯もなくもっぱら提灯が使われていました。提灯にせよ懐中電灯にせよ、足元を照らし人を先へと導くのです。友人の生き方も人生なら私のような提灯人生、聖窓人生、懐中電灯人生もおつなものだと思いつつ家に帰り「ただ今」と声をかければ、「お帰り。早かったのね」と弾んだ妻の声が迎えてくれました。

  「まだそんな ことをしている 止めとけと 言う友哀れ 俺は提灯」

  「ボランティア 仕事ですから やっていた 嘆かわしいな 心浅はか」

  「給料の 安さ嘆いて 仕事する それで働く 意味があるのか」

  「聖窓 思えるような 明かり見え 時はいつもと 変わらぬ流れ」


 

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shin-1さんの日記

○不便な暮らしが感謝の気持ちを育む

 5月に入って雨らしい雨が殆ど降らず、ひと雨欲しいと思っていた矢先の2~3日前の夜、お湿り程度の雨が降って家庭菜園の野菜類が息を吹き返したように元気になりました。と同時に畑の雑草もぐんぐん伸び始め、菜園の仕事が一気に増えてきました。親父は相変わらず愛用の草削り鍬で手当たり次第に雑草を削っていますが、親父の草削りのスピードより雑草の勢力の方がはるかに早く、「綺麗に草を除けていたのにもう生えた」と愚痴をこぼすようになっているのです。

 その言葉を聞きながら、息子の私も最近では暇さえあれば菜園畑に出て草を削っているのです。5月の太陽は初夏と呼ぶにふさわしく以外とさわやかながら強烈で、幅の広い麦わら帽子を被って作業するのですが、妻が「お父さん色が焦げたねえ。真黒になって・・・」と言うとおり、日焼けで顔がくすんでいるのです。昔は言葉は悪いのですが貧乏人や労働者の代名詞は日焼けとやせ型でした。お金持ちは概して色白で肥え気味とされていたようです。しかしつい最近はその概念が崩れ、ゴルフやアウトドアー趣味のお金持ちは戸外で健康的に遊ぶので日焼けしているようで、逆に日稼ぎにあえぐ人は陽に当たらないから色白で、しかも運動不足で肥満気味だと言われています。そのことから考えれば私は日焼けしてやせ型ですから、実態と違っていたって貧乏ながらお金持ちのイメージを備えているのです。


 5月に入ってから殆ど毎日、夕方太陽が西に傾くころ畑に出て苗植えした野菜に水をやりました。畑には親父が作った井戸水をエスロンパイプで引いているのですが、ホースで水をやると強烈過ぎて土の表面をはねて固くするので、しっかり根付いていない苗にはジョロに水を汲んで優しく頭からかけてやるのです。

 お陰さまで植えた苗も今のところは順調に活着してトマトもピーマンもナスもトウモロコシも成績はいいようです。それにしてもジョロにいちいち井戸水を汲んでやるのはかなり手間暇がかかります。特に成長著しいブルーベリーの鉢植えは排水を良くしているため、2~3日ほおっておくと新芽がしんなりするほど乾燥するのです。ブルーベリーは早いものは受粉して実が大きくなっていて、遅い花は今が受粉の時期なのです。この時期に水を枯らすと折角の実が太らないばかりか落下する恐れがあるので注意をして水やりをしているのです。ブルーベリーはジョロなどの水では不足気味で、バケツに一杯たっぷり根元にかけるのです。ブルーベリー栽培の指導を受けている西岡さんの話だと、カルキの入った水は根を傷めるので水はバケツに汲み置きしたものを使用するよう言われましたが、わが家は井戸があってその心配はないようです。


 蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気がつく便利な時代に、あえてこんなまどろこしい方法でみずをやるのは、少々面倒くさいし違和感を感じますが、あえて不便を感じるようなこんな作業は逆に新鮮で、これまで見えたり感じたりしなかった部分が見えてきて結構水やりを楽しんでいるのです。

 私の祖父や祖母の時代、つまり戦前は水道も電気もまだ不自由で、家には水をためる飲料水専用の大きな水瓶がありました。今は水道が普及して家の中には洗面所までありますが、その当時は水汲みは子どもの日課だったと祖母が語っていたのを思い出しました。そのことを考えれば今はお殿様のような暮らしで、何の不自由もなく水の恩恵を受けて暮らしているのです。

 便利さゆえに失い、不便さゆえに見えてくるものはいっぱいあります。ジョロに水を汲んで運ぶと一滴の水も無駄にしたくないような水への感謝の気持が湧いてきます。これこそ現代人が忘れている水への感謝なのです。便利が当たり前の現代だからこそ不便を体験して感謝の気持ちを復活させたいと思いました。


  「水を汲み ただひたすらに 水をやる 恵み感じて 野菜活き活き」

  「水を汲み 重さと不便 実感す 水への感謝 思い出しつつ」

  「今までは 親父の苦労 など忘れ 当然実ると 信じて食べた」

  「色黒く なった顔見て 驚きぬ 元気そうだと 友に褒められ」 

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shin-1さんの日記

○束の間の長閑な昼下がり

 昨日は頼まれていた長い長い原稿用紙50枚もの原稿を書き上げ、どこか解放されたような気分になって、雨上がりの陽気に誘われるように単車で町内を走ってみました。初夏の風は爽やかに頬を撫で、一年中で一番いい季節だと感じながら、日頃疎遠となっている地域事務所の公民館と商工会、保健センター、翠小学校、それに観光イチゴ園を相次いで訪問しました。相手は忙しいので直ぐにでもお暇しようと思ったのですが、お茶を差し出されたのをいいことに、少し会話を交わしました。

 公民館には宮栄館長さんがこの4月から常勤で勤めていて、間近に迫った芋づる植えの相談を職員としながら喋りました。商工会では人間牧場の近くに住んでいる梶野さんと牧場周辺の最近の動きやミツバチの話に花を咲かせました。保健センターには井上保健師さんがいてご家族の安否や私の健康について色々と話しました。翠小学校はエコ改修が始まっていて、職員室も教室も運動場に作られたプレハブの仮校舎に移っていて、和田校長先生と学力について意見を交換しました。また最後に訪れた大畑観光イチゴ園では運よく事務所にご家族が揃っていて、色々なことをお話ししました。大畑さんご夫婦は若いころ結婚披露宴の司会を私がしたこともあって何かと交流していて、この日はあまおとめという珍しい品種の大粒なイチゴを摘んでいただき恐縮してしまいました。

若松進一ブログ
(プレハブ校舎もすっかり出来上がり移転していました)
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 行った先々、出会った人々は全て私の日々の忙しさを知っているだけに、私がゆったりのんびり過ごしている姿を見て、安心した様子でお話をしてくれました。特に翠小学校の和田校長先生は私の心を見抜いて、立ち話のような姿なのに熱心にメモを取りながら議論に応じていただき、いつもながらの研究熱心さには少々驚きました。

 中井さんの案内で移ったばかりの学校の仮校舎や体育館下の仮特別教室を見学させてもらいましたが、翠小学校の今年の新入生は1人だそうで、わが町も来春は下灘中学校が統合するなど、いよいよ少子化の激しい波が押し寄せているのです。それでも先生たちは一生懸命学校をもっと立派にしたい、子どもたちをもっといい子どもにしたいと頑張っていて、頭の下がる思いがしました。

 今年は20数年にわたって翠小学校で行ってきたほたる祭りも、運動場に仮校舎ができたためが使えないようで変更を余儀なくされているようです。ここは知恵の出しどころ、イベントのあり方や見直しには丁度良いのかも知れません。

若松進一ブログ
(たわわに実った7期目のイチゴの果実)
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(ご馳走になったあまおとめの瑞々しい果実)

 ブルーベリーの世話をしていただいた西岡さんのイチゴ園にお礼を言うべくお邪魔しましたがあいにくの留守でした。大畑さんのイチゴ園に立ち寄り見せてもらいましたが、年末から今までの半年間、7回もイチゴが収穫できる最後の時期を迎えていました。大畑さんには「地域の自立を考える」というトークバトルを清水さんと手がけた時に脇田さんがDVDを制作してくれたものが手元にあって、その映像に夫婦が出演してくれているのです。講演の度に上映しているので届いていると思っていましたが、意外や意外届いていないというのです。早速清水さんにお話しして取り寄せたいとお詫びをしました。

 みかん作りから転身して観光イチゴ園に取り組んではや5~6年が経ちました。最初は心配した観光客も、イチゴ栽培の技術も実額で越え自信にあふれた経営ができているようで、わがことのように嬉しくなりました。人は皆知らないところで悩みながら進化しているのです。私も大畑さん夫婦のように夢を持って生きて行きたいと思いました。


  「単車乗り そこいら辺を ブラブラと 尋ね歩きて 四方山話」

  「普段着で 話す会話に リラックス 田舎言葉が ポンポン飛び出」

  「新入生 たったひとりの この学校 一番かドゲ どっちなんじゃろ」

  「少ないと 競争力がないという 競争なくも 共生あれば」

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shin-1さんの日記

○恩人の消息が気になりつつ

 今治市大西町といえば岡島明夫さんを思い出します。私にとって岡島さんは恩人中の恩人なのです。ゆえに今治市へ行く途中時々顔を思い出して自宅を訪ねたりしていましたが、一昨日は大西町老人クラブの総会に招かれたので、少し早めに出て立ち寄ってみました。何度も訪ねている家なので一発で家は分かったのですが、訪ねてみると家は全て固く戸を閉ざしてカーテンが閉められ、人の気配は全くないのです。何年か前県公連で卒寿のお祝いを鈍川温泉でして以来会っていないので、90歳を超えて時々入院という風の噂をきいていたこともあって、そのことを頭でよぎらせながら出会うこともなくお暇しました。

 岡島さんが県公連の会長をしていた折、私はまだ駆け出しの公民館主事でした。私が県公連の主事部会長となって県内で活躍するようになってからは、県公連の運営にお互い心血を注いだものです。特に静岡県公連との刎頸の契りは思い出に残る交流でした。その頃私が全国大会の司会を6年連続でできたのは岡島さんの推薦に他ならなかったのです。

 当時の市町村の社会教育、とりわけ公民館は金なく物なく人もないと揶揄されるほど劣悪な教育環境でした。公民館主事が県外へ出張できるような余裕は殆どなかったのです。それでも全国の指導者の教えを請いたいという思いはいつも持っていて、司会術や活動成果を上げて全国大会の司会に推薦される機会などを伺っていました。好運にも岡島さんの推薦で公民館主事という肩書のない平の職員では全国で初めてその司会に大抜擢されて、司会の好運をつかんだのです。冬至双海町の教育長は中田豊さんで、岡島さんの申し出を快く引き受け冬至の仲野町長さんに掛け合って全国大会の武者修行に旅立つことができたのです。

 その司会ぶりは今でも語り草となるような秘策を連発して話題となり、以後6年間も連続して全公連からお声がかかる好運で、あっという間に全国の公民館関係者と深い深いネットワークを作ることができ、今もその交流は続いているのです。もし岡島さんに出会っていなかったら、もし司会役に推薦していただいてひのき舞台に立っていなかったら、今の私はなかったと恩人たる岡島さんに敬意を表しているのです。

 約束の時間にはまだ少し早いと思いつつ好奇心が頭を持ち上げ、国道196号線を通るたびに気になっていた古墳公園へ立ち寄りました。池の土手には綺麗に緑を刈りこんだFUJIYAMAという絵文字がありました。公園内は綺麗に整備され駐車場の上には妙見山古墳が展示されていました。

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 藤山資料館も池周辺の整備も、そして緑の芝生公園も綺麗に整備され驚きの連続でした。一度訪ねたいと思っていただけにこの日はラッキーでした。

 耐震工事を行っている今治市役所大西支所はドリルの音も賑やかで駐車場も満杯で仕方なく道路わきに駐車して中へはいりました。年輪塾の仲間である大河内さんが孫を連れて面会に来てくれていました。大河内さんは朝フルの会を結成したり生活改善グループで様々な活動をしている活発で知的な方です。この日は手作りのお味噌までお土産にいただき恐縮してしまいました。

 私の友人である佐賀山誠さんのお母さんも控室へ顔をのぞかせて面談し、賑やかで楽しい「ニコ・ピン・コロの人生」と題した1時間余りの講演会は無事終わりました。

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  「大恩を 忘れることなく 訪ねたが ひっそりカーテン 心痛めて」

  「FUJIYAMAと 緑で書いた 絵文字見つ 公園足早 カメラスケッチ」

  「孫連れて 会いに来てくれ 味噌までも 手土産持参 恐縮千万」

  「講演は ニコピンコロの 人生を 楽しく生きよう 訴えました」

 

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