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○春一番

 昨夜から今朝にかけて双海町では南西の風が吹き荒れ、どうやらこの風が春一番のようなのです。北陸では数日前既に春一番が吹いたとニュースで報じられていましたが、この地では冬から春に季節が変わる南風を春一番と呼んでいて、冬の寒さに弱い西国四国では誰もが春一番の吹くのを心待ちしていただけに、嬉しい春の知らせなのです。春一番を待ち焦がれていたように、町内のあちこちではもう早咲きの桜もお目見えし、双海を代表する閏住や本村の菜の花も満開を迎えているのです。

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 昨晩は人間牧場で開設している年輪塾の役員会を松山市駅裏の「ふじ」という居酒屋でやりました。役員といっても塾長の私と塾頭の清水さん、それに番頭米湊さん、松本さん、浜田さんそれにえひめ政策研究センターに出向して研究を積み3月1日の異動で古巣の四国電力へ帰ってゆく政木さんの6人だけなのです。

 民俗学者宮本常一に焦点を当てた年輪塾も2年間の学びを終え、いよいよ本格的な塾活動に入りますが、これから2年間は二宮尊徳の生き様に迫る活動を行う計画です。既に清水塾頭は尊徳翁夜話を読みほぐして教科書とでも言うべき資料を作って塾生にネットを通じ配信しているのです。


 4月24日(土)には人間牧場で二宮尊徳の第一回学習会がいよいよ始まるのです。年輪塾は来る人拒まず、去る人追わず」を塾是として門戸を広げていますが、自らの成長や進化を促すような学習人間はそんなに多いものではありません。でもたとえ少数でも先人の教えに触れながら成長や進化が出来たら、量より質をの自立する人間づくりを目指す年輪塾は十分社会の要請に応えたことになるのです。

 人間牧場が出来て5年、その間この2年間の学びの成果を自分に置き換えれば、自分自身が驚くほどの成長を遂げているのですから、学びの効果は大したものです。

 三人寄れば文殊の知恵、昨晩も多くのアイディアや夢が語られました。これらのアイディアや夢を実践に移す楽しさも鮭や料理と一緒に楽しく味わいました。年輪塾にとっても昨晩の寄り合い酒はどうやら春一番だったようです。


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  「酒飲みつ 肴つつきつ 夢語る 酔うほど法螺は 大きくなりて」

  「飲むほどに 酒は心の 戸を開け 心根語る 春風のよう」

  「とりあえず ビールを飲んだ その後に 芋の焼酎 喉を鳴らして」

  「お茶二杯 ジョッキで飲むと 酔ったよな 気分になりて 議論中入る」

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○翠小学校のエコ改修工事ほぼ終わる

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 一昨日の地元紙愛媛新聞20面に、エコ改修の終わった翠小学校の全容が特集されました。このところ忙しくて翠小学校へは行っていませんが、愛媛県下の木造校舎では最も古いこの校舎はものの見事に蘇ったようです。何日か前に翠小学校から一通の便りが届きました。今週の日曜日(28日)にお披露目をかねて行う学習発表会の案内状でした。この日は同じ時間に今治へ講演に出かける予定なので、残念ながら出席は叶いませんが、何はともあれこの20年間、翠小学校に思いを寄せてきた一人として嬉しい限りなので、その特集新聞を、歴史の生き証人としてブログで紹介しておきたいと思います。

 私のエプソンPM-A920というプリンターでは残念ながらA版しかスキャン出来ないため、重複承知で4つに分割しての紹介となりました。「歴史ある校舎教材に」という大文字見出しに加え、リード文では「同小は1874年に開校、現在の校舎は1932年に完成した現役では県内最古の木造校舎、赤い屋根や開放廊下が特徴で、黒光りする壁板が歴史の重みを漂わせる」「木造の外観を保ったまま耐震補強や断熱化、太陽光発電設備の導入などエコ改修した」「今後一年間、発電量や教室内の温度、証明などを測定し、改修の効果を調査する」などの紹介記事がありました。

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 この学校が建築されたのは昭和7年です。私の誕生が昭和19年ですから、ちょうど一回り年数を重ねた築後77年の喜寿を迎えた計算になるのです。「こんな古臭い危険木造校舎など早く鉄筋コンクリートの校舎にして欲しい」と、地元の人も一時は見放した学校でしたが、金をかければこうも見違えるようにリフォームできるのか、さらには何の変哲もない木造校舎が人の思いを込めれば人の注目を集めるようになるのか、まさに歴史の重みだと痛感するのです。


 今ではふたみシーサイド公園とともにすっかり双海町の自慢施設となりました。20年前にホタルでまちづくりを始めた草創期を思うと隔世の感がするのです。近いうちに一度その全容をこの目で確かめたいと思っています。


  「古臭い 危険校舎の 烙印を 押され一時は 風前ともし火」

  「学校を 救ったホタル 感謝して 残す手立てを 考えないと」

  「二十三、金次郎さん 加えれば 二十四瞳 輝き放つ」

  「赤い屋根 すっかり町の シンボルに これから先も 大切守る」

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○岡山県井原市美星町星の郷青空市での講演会に招かれました

 私に講演のオファーがかかるのは、私を知っている人からの推薦、私の話を聴いた人からの依頼、新聞や雑誌インターネットからの情報による依頼などがありますが、今回岡山県美星町からの話は、昨年岡山県の農業士さんに農業士総会でお話をした折参加していた星の郷青空市株式会社取締役の竹井さんと、井笠農業普及指導センターの黒住さんが相談され、青空市の年に一度の説明会で講演をして欲しいと頼まれたのです。

 黒住さんからはメールが、竹井さんからはFAXがそれぞれ届き、講演の準備をしました。会場となるJA岡山西美星支店2階大会議室までの道順や美星町のことをインターネットで調べ、準備物を木になるカバンに入れて準備をしていました。ところがそのカバンをうっかり車に積むのを忘れるという大失態を演じてしまったのです。

 行く先も分からない不安な旅はしまなみ海道を下りてから始まりましたが、広島福山、岡山笠岡などは何度も尋ねている場所なので、カーナビの手助けを借りて何とか道に迷うこともなく美星町に着き、念願の中世夢が原も見学することが出来ました。

 会場はかなり広い大会議室でしたが、マイク施設が余り十分でないため果たして私の話が高齢者など比較的年齢の高い人の耳元や脳裏に伝わるかどうか心配しました。

 会場は何でこんなに人が集まるの?という200人近い人が集まっていました。人口5千人の町なのでこれは凄いと褒めてあげました。

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 説明会の予定もあるので、私の話は約1時間でしたが熱心な皆さんに助けられていい雰囲気の講演会となりました。ギノー味噌さんからいただいたPR用のゆずドレッシングとお味噌をさりげなく宣伝しました。特に人の嫌がる最前列に座ってくれた方々に差し上げ、大盛り上がりとなりました。

 新しく作った「裏が味噌」という私のPR名刺は今回ちょっとの差で使えませんでしたが、まあこれからも地方の村おこしや特産品開発を支援してゆきたいと思っています。

 余談ですが今回お世話になった竹井さんは59歳、私と同じように若い頃、かつて青年団活動をしていたそうで、とても好感の持てる前向きな方でした。農業後継者が始めた青空市も今では道の駅で年間40万人も集客しているそうです。この日の講演会に参加した人たちはその出荷者なのですが、その人数の多さの秘密が分かったような気がしました。


  「用意した 椅子が足らぬと 右往左往 人が集まり 時間守れて」

  「前座る 人にあんたは 偉いねえ ねぎらい言葉 添えて景品」

  「青年団 活動経験 した人は ポジティブ生きる 術を知ってる」

  「淀みなく 一時間ほど 講演す 今日も最高 満足帰る」

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○岡山県井原市美星町中世夢が原を訪ねる②

 私の町にも中世の城郭後が沢山あります。しかしその殆どは荒れるにまかせて、その存在すら分からない状態になっているのです。私が夕日でまちづくりを始めた頃、私の家の直ぐ前に聳える町のシンボル本尊山という山の城郭調査を、宇和島出身の井上日本城郭協会会長さんを招いて行いました。井上さんの話によると由並本尊城跡の石類群は一級品とのことでした。

 何度も山に分け入り矢竹を強力な草刈機で刈って中世時代の城郭のその全容が見えてきたとき、身震いするような感じがしました。早速へ山城を再現しようと絵を描き、愛媛県の夢プランに応募したところ、見事その提案に予算がつくことになったのでした。しかし町内の有識者からは「中世の城郭など造るより、もっと別な特産品などをつくってまちづくりを進めるべきだ」との寝ずよい意見があり、ついには断念せざるを得なくなったのです。

 そんな経緯を経てその後夕日によるまちづくりがある意味成功を収めたため、双海町では平成の大合併もあって、それらの話は私の記憶の中からさえ消え失せていたのです。しかし今回井原市美星町から講演のオファーがあった時、何かの本で読んだ美星町の「中世夢が原公園」のことを思い出したのです。

 昨日私のブログで「中世夢が原を訪ねる①を書きましたが、夢が原公園の中核施設は私の思い描いていた中世の城郭を見事に再現していました。物見櫓のある山城「星の丸城や城主の館は多少風化してはいましたが、中々立派なもので見応えがありました。二階構造になっている櫓の急な階段を登って上階に上がると、そこからは美星町の町並みや公園に併設している天文台、それに公園内が一望できました。

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(物見櫓)

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(詰所)

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(城主の館)

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(櫓から広場を見る)

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(櫓から美星町の町並みを見る)

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(櫓から城主の館や美星天文台を見る)

 時間があれば天文台へも立ち寄りたかったのですが、残念ながら竹井さんとの待ち合わせの時間が近づいてしまい、急いで併設している弥生時代の竪穴式住居を見学しました。何年か前無人島に茅1500束、丸太300本を運んで直径10メートルの竪穴式住居を造った経験なる私としては、竪穴式住居も興味があったのです。

 中世の城郭と竪穴式住居が同居するミスマッチは説明不足で、時代考証としては「ハテナ?」と多少首を傾げましたが、それにしてもこれだけの施設群を今後どう管理運営するのか、頭の痛い問題だけに人事とは思えませんでした。

 講演に行きながら公園を見るなんて、これまたミスマッチながらこれぞ旅の醍醐味と久しぶりに満足し、後ろ髪を惹かれる思いで迎えに来た星の郷青空市の竹井さんや普及センターの黒住さんと夢見庵というレストランで合流し、昼食を取りました。

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(高床式倉庫)
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(竪穴式住居)

  「その昔 憧れていた 施設見て 造る断念 よかったホッと」

  「公園に 弥生中世 未来など 混在してて これも楽しや」

  「抜けるよな 青空見つつ 園内を 独り占めする 平日午前」

  「本当は これが私の 夢プラン 夢が原にて 再現叶う」

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○岡山県井原市美星町中世夢が原を訪ねる①

 講演に行ったついでに周辺を訪ねる旅を心がけるようになると、事前に送られてきた資料を基に色々思いを巡らせるのですが、今回は事前の資料もなく、ましてや講演依頼の文書を入れた木になるカバンを忘れて出かけたため、はてさて「私の行く所はどこでしょう」といいたくなるような旅でした。しかし何かの資料で合併前の美星町といえば「中世夢が原」や「天文台」という記憶があったので、少し早めに到着してそこら辺を散策したいと思い出かけました。

 しまなみ海道を通って国道2号線を笠岡まで走り、そこからは山道を走りました。やがて急な峠に差し掛かると、九十九折の道の下には深い渓谷が見えてきました。難儀難儀登る大型トラックの後ろについたために、ノロノロ運転で坂を上がると広い広い盆地に出てきました。確かに美星という地名が示すとおり星がきれいな町だろうなあと創造しながら走り、とりあえずカーナビが目的地にしていた道の駅星の里へ到着しました。

 この日の講演会の主催者である星の里青空市はこの日は定休日だそうで、人の気配を感じることは出来ませんでした。

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(星の郷青空市)
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 トイレ休憩の後、看板表示にしたがって中世夢が原という公園へ出かけました。広い駐車場に車を止め500円の入場料を払って公園内に入りましたが、平日の午前中とあって入場者は私一人でした。園内は広くなだらかなスロープの道沿いにかやぶき屋根の辻堂や民家が沢山ありました。パンフレットを見ながら散策しましたが、聞きしに勝る広さと規模を誇っていました。しかし整備後20年近くが経つとさすがに施設の各所も老朽化が目立っているようです。4年前に合併したためこうしたアカデミックな施設はその後の補修も思うに任せないのが実情のようでした。

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(公園の入り口)

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(公園の見取り図)

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(かやぶき屋根の茶堂)

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(復元された民家)
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(中世の町並み)はまるでタイムスリップしたような雰囲気でした)

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(復元された見事の屋敷)

 公園の中ほどに三斎市という中世の町並みがありました。掘っ立て小屋のような造りの店が時代考証どおり再現されているのです。広場の隅では焚き火をしていて、管理をしている女性としばし談笑しました。開業以来ここの管理運営をやっているというだけあって、酸いも甘いも分かっていて、お茶をサービスしてもらい色々な話に花が咲きました。
 ここは2004年5月、東宝映画「あずみ2」のロケ地であり、2002年10月~2003年3月NHK大河ドラマ武蔵野ロケ地でもあります。また最近では「坂の上の雲」のロケ地として地元の人もエキストラで出演しているそうですが、経営は中々厳しいようでした。


  「噂しか 聞いてはいない 夢が原 この目この足 確かめたくて」

  「中世の 街や建物 造れども 客の好みは 向こうの星空」

  「まあどうぞ 差し出すお茶を すすりつつ 苦労話に 耳を傾け」

  「またとない 日より恵まれ のんびりと 半日過ごす 見知らぬ土地で」

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○ギノー味噌の広告名刺は裏が味噌です

 3ヶ月ほど前の昨年の暮れ、年輪塾の役員が集まり行きつけの居酒屋で作戦会議を開きました。呑み助の集まりは他愛のない話が多いのですが、この作戦会議は中々のもので、色々なアイディアが提案されるのです。その時名刺の裏を使って何か出来ないか話しました。というのも一昨年私が使っている名刺の裏側に全国大会の実行委員長という肩書きを印刷して、全国への旅のつれづれに辺りかまわず配って歩いたのです。そのことが少しは効果があったのか、県庁所在地以外の場所宇和島市で開いた全国大会は予想以上の効果を挙げ、大成功を収めました。

 私は現職中は一ヶ月に600枚もの名刺を使っていましたが、リタイアした今はさすがにそれほどの名刺は使っていませんが、それでも年間千枚程度の名刺を使っているのです。名刺に自分のイラスト似顔絵を入れて作った時、「この名刺を一枚50円で売ろう」とよからぬ妙案を思いつきました。しかし結果はまとめて100枚(一箱)を5千円で買ってくれた粋な会社の社長さんがいたのと、全国大会の名刺を全額負担で印刷してくれた実行委員会以外はこれといった成果が上がらなかったのです。

 それでも諦めることなくその夢を捨て切れませんでした。

 作戦会議と称した呑み会でこの話をしていると、みんながワイワイガヤガヤアイディアを出し始め、ついには名刺を広告に使うとというアイディアを思い立ちました。早速かまど開きの事業に一枚かんでくれたギノー味噌の田中社長に相談を持ちかけたところ太っ腹な社長からOKが出て、世にも不思議な広告名刺作りが始まりました。

 会社からの提案を基に清水塾頭のデザイン協力を得て、何度か打ち合わせをするうちにいい名刺の原案が出来ました。早速今治の村上太さんに印刷を発注し、昨日外出先から家に帰ってみると、立派な名刺が10箱宅配便で届いていました。

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 表の私のイラスト名刺はいつものと変わらないのですが、裏には「裏が味噌」とまるで人を食ったハッとするような文句を入れました。また義農作兵衛を顕彰する義農魂(ギノースピリット)も入れました。最近はギノー味噌のドレッシングや味噌のサンプルを持ち歩いて、地産地消を提唱していますが、ギノー味噌さんは今年の春に本社工場が完成し、小ロットでの地産ドレッシングの製造が可能になったこともあって、私のお手伝いができるかもしれないのです。これらのサンプルとPR名刺を組み合わせると、ひょっとしたらひょっとするかもしれないのです。

 先日九州佐賀で開かれた全国大会にも、重いサンプルを持参してドレッシングの売込みを図りましたが、女山大根のドレッシングを作る話に多久市長さんと楽しいお話をして帰りました。

さて、作戦会議で話題になったPR名刺は、明日夜居酒屋で開かれる予定の作戦会議で、メンバーからどんな評価が下されるでしょうか。楽しみです。


  「裏が味噌 こんな名刺を 持ち歩き 広告宣伝 中々やります」

  「三人が 寄れば文殊の 知恵浮かぶ 名刺千枚 全国配る」

  「面白き こともなき世を 面白く アイディア次第 実に楽しい」

  「また一つ 語る言葉が 増えてきた 名刺一枚 10分語る」

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○講演に持って行くのを忘れたカバン

 今日は広島県と岡山県の県境に位置する岡山県井原市美星町へ出かけるために朝早く家を出ました。夜討ち朝駆けは慣れているので私自身は別に変わったことはないのですが、私が出発するとなると妻は緊張して中中寝つかれないようでした。遅れてはならないと目覚まし時計を2つも枕元にセットして寝るのです。私はやはり歳のせいでしょうか余程のことがない限り、目覚まし時計が鳴る前に予定した時間には必ずおきるような習慣がついているため、今朝も4時30分には目が覚めました。

 急いで出発の身支度を整えました。旅に出るとき忘れてはいけないものは「はとがまめくてぱーぱー」と覚えていて、ハンカチ、腕時計、携帯電話、財布、免許証、カバンなどを手で押さえて確認をするのです。

 このところ、私の友人のギナー味噌の田中社長さんとの約束もあって、ドレッシングや麦味噌など、ギノー味噌が作った商品を持ち歩いているため、けさはそのことが気になって、車に積み込みました。妻は早立ちの私のために魔法瓶に厚いお太yを沸かして入れ、朝食の代用としてリンゴを2個川を剥いでタッパに入れ保冷剤とともにバッグに入れてくれるのです。

 「行ってくる。帰りは遅い」などと短めの言葉をかけて、明けやらぬ道を自家用車で出発しました。今治北インターからしまなみ海道に乗り、因島の大浜パーキングでトイレ休憩をしました。「そうだもうそろそろ、美星の目的地をカーナビに入力しようと後部座席の上のカバンに手を伸ばしました。ところが積んであるはずの木になるカバンが何処を探しても見当たらないのです。もしやと後ろのトランクを開けて見ましたが残念ながらカバンは発見できませんでした。そして「しまった忘れた」と思うととっさに、私の顔から血の気が引くのを覚えました。直ぐにわが家へ電話をすると案の定私のカバンは自宅の玄関先に置き忘れているというのです。


 私も血の気が引きましたが、妻はもっと血の気が引いたらしく、果たしてカバン無しで講演ができるのか心配の様子が電話の向こうから伝わってきました。私は妻に携帯電話で講演依頼文書に書かれている、日時と会場、それに相手の電話番号を聞いてメモを取りました。そして資料にまったく頼らないで講演するイメージを思い浮かべました。妻からすればそんなこと考えられないのです。

 まあこれも長年人の前で話をしてきた成果なのです。幸いなことに今日に限って名刺と免許証はスーツの内ポケットに、また電光掲示板はズボンのポケットにありました。また高速道路通行料金もETC対応なので銀行引き落としなので助かりました。今後はこのようなことが二度とないようにしたいと妻ともども反省させられました。


  「あるはずの バッグがないと 大騒ぎ 忘れてしまい 少し慌てて」

  「俺も歳 カバン忘れて 手ぶら旅 認知いよいよ 妻に言われる」

  「慌てずに 対応するから 偉いねえ 妻に褒められ どこかこそばい」

  「いいじゃない 忘れたことを 忘れずに 思い出すから 少し取り得が」 

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○国立大洲青少年交流の家の運営委員会に出席しました

 国立大洲青少年交流の家は、30数年前私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた頃、青年の家として誘致に奔走した懐かしい思い出のある施設です。その時お世話になった村上清吉元大洲市長さんも既に亡くなって、北只の地に頌徳碑が建っていますが、当時の坂田道太文部大臣を招いて肱川を見下ろす現在の土地で説明したことが懐かしく思い出されるのです。

 ゆえに大洲青少年交流の家のことは何かと気がかりで、今でも折にふれ出かけては要らぬお世話をやいているのです。

 昨日は現大洲市長さんや、県下各地の関係する代表の方、それに県外からも委員の皆さんが集まり、2時間余り議論を交わしました。はからずも依頼されて議長を務め議論を深めました。

 何年か前までは、会計検査院の指摘などを元にどうすればいい体験プログラムを利用者に提供できるか、知恵を出すことに主眼が置かれていましたが、数年前に国立といいながら青少年交流機構の傘下になってからはどうしたら利用率を高まることが出来るか、数値目標などが示され経営評価に主眼が置かれているようでした。今年からは政権交代もあって事業仕分けの矢面に立たされ、施設存続の基本である「何のために、何をしなければならないか」という、施設の存在そのものを考えさせられる議論となりました。

 今年のテーマは受益者負担のあり方とナショナルセンターとしてのあり方の二つが大きな議論のテーマになりました。施設を利用する利用者はこれまでにも食事代とシーツの洗濯代が徴収されていましたが、来年度からは講師の指導を受けた場合講師料を負担してもらうというのです。藪から棒の発想に私たちのような運営委員は戸惑わないものの、利用者にはまだそのことは知らされておらず、はてさてどういう反響があるものか、按ずるよりかそれとも拒否反応があるのか、少し心配をしています。

 またナショナルセンターとしての役割をといいつつ、事業予算と指導人数を切り詰められようとしている現状では、中々難しい感じを持ちました。思うにマニフェストや事業仕分けなど政治家の思いつきで、教育や福祉の大切な部分がまるでトカゲの尻尾切りのようなやり方をされたのでは、第一線で働く人たちはたまったものではないのです。

 文句を言ってやりたい憤りを感じますが、声なき声に等しい私たちの声は闇に葬り去られることでしょう。一方では政治家の金の問題はなおざりにし、また経済破綻したギリシャと同じように、経済破綻しながら大盤振る舞いの借金予算を組み国民のご機嫌を取って国債を乱発する今の政治には、一国民としてどうしても納得できないのです。

 帰り際分かれた青少年交流の家の所長さんの白髪がこの一年間でめっきり増えたような気がしました。多分国や政治に翻弄されながら苦悩の運営を強いられているための白髪だろうと思いつつ、「頑張って下さい」と声をかけて青少年交流の家を後にしました。


  「この施設 若かりし頃 誘致した ゆえに責任 感じながらも」

  「そういえば 所長の頭 白髪増え 苦労ありあり 同情しつつ」

  「人と金 少なく減らし 頑張れと 言われてみても 力限界」

  「この施設 日本の未来 背負う子を 育てるゆえに もっと支援を」

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○二日ぶりに日本一の夕日に会えました

 松山観光港に姑息船が着いたのは5時頃でした。さっきまで高かった太陽が西に傾き夕暮れ間近を思わせていましたが、ひょっとしたら間に合うかも知れないと、出来るだけ近道を通って車を走らせ家路を急ぎました。高浜から空港通り、垣生、松前から伊予と走るにつれて夕日は益々西に傾き、あるいは間に合わないかも知れないと少々不安になってきました。こんな時に限って前を走る車がノロノロで少しイライラしました。

 三秋の峠を下ると懐かしいわがふるさとの海が見え、夕日が水平線近くに降りていました。高野川の空き地に車を止め、急いでデジカメを取り出しました。既に何台かの車が止まっていて乗客が夕日を見ながらデジカメや携帯電話で盛んにシャッターを押していました。

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 夕日馬鹿を自認する私としてはチャンスだと思って、思い切って海岸線まで降りて見ました。いやあ素晴らしい夕景でした。山陰も山陽もまた瀬戸内の島々もそれぞれの趣がありましたが、双海の夕日はやはり日本一だと確信しましたが、多少疲れていたのか、はたまた興奮でそのことに気がつかなかったのか、写っている写真の殆どが、水平線が多少ゆがんでいるのです。写真は本来水平線を画面の上下と同じ水平に写さなければド素人の烙印を押されてしまいます。今日の私の写真の出来栄えはまさに度素人の域を脱していませんので悪しからずご了承の上ご鑑賞下さい。

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 夕日に続く金色の道がやがて薄くなり、夕日も輝きを失って西の水平線に沈んだので我に返って車まで戻りました。そこへ妻から電話で「お父さん今何処?」でした。「高野川まで帰って夕日を見ている。今日の夕日は素晴らしかった」と言うと、「えっもう双海?」でした。それもそのはず、「今日はひょっとしたら遅くなるかも知れない」と言っていたのです。

 自宅へ帰り着替えて食事をしながらデジカメに写った写真を見せながら優位を自慢すると、「お父さんも相変わらず夕日のことになるとまるで気違いになるのね」と、二日ぶりの帰郷で家のことを心配するのかと思いきや、夕日を自慢する私の姿を呆れ返っていました。


  「急ぎ足 帰って沈む 夕日見る 何処か癒され 疲れ忘れて」

  「綺麗かろう 妻に自慢の 夕日見せ 馬鹿さ加減を お互い笑う」

  「日本一 褒めてやりたい 気分なる 夕日を前に しみじみ思う」

  「どれ程の 夕日を見たか 知らねども やはり一番 双海の夕日」

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○島根県益田から峠を越えて家路へ

 「日本海の魚も美味しいので、回転寿司で寿司でも食べますか」という塩満さんの言葉に誘われて、JR益田駅近くの回転寿司の店へ立ち寄りました。お昼だというのに日曜日のためか、また塩満さんのいうとおり、地元で人気の美味しい店だからか、店内は既に満員の盛況でした。案内されてカウンターに座り、湯飲みにお茶の袋を入れて蛇口からお湯を並々と注ぎました。さっきまで本俣賀自治会主催の講演会で90分間も熱弁をふるっていたせいか、喉がかれていたのです。

 お茶をすすってやっと落ち着いたところで目の前を素通りする寿司の中から好みに合った新鮮な鯵の寿司を取りまず食べましたが、日本海の海の幸が口いっぱいに広がり、思わず「美味しいですね」と横に座った塩満さんに相槌を打ちました。続いて珍しい高菜の寿司をほおばると、これまた春の匂いがしてきました。

 寿司を食べながら様々な話をしましたが、お昼のことゆえ思った程食は進まず二人とも5皿程度積み上げただけで塩満さんが清算し店を出ました。

 

 島根県益田市の寿司店を「今から出ます」と連絡して、昨日の午後の会場となった美都町ふれあいホールの前で待ち合わせた真砂自治センター長大庭さんと落ち合い、昨日来た国道191号を走り島根県と広島県の県境を越えました。昨日は珍しそうに眺めた雪に埋まった峠の道も個の二日間の好天ですっかり雪解けしていました。それでも個のシーズン最後のスキーを楽しもういうスキー客の車が沢山通り過ぎて行きました。

 「雪道なので少し余裕を持って走りましょう」と塩満さんが言っていましたが、広島までの交通は全て順調に走ったものの、広島の入り口付近はやはりスキー客の帰りの車で混雑していましたが、それでも予定していた午後3時30分の高速船の出発時刻より30分も早く到着しました。

 山陰の雪をかぶった山々と同じ中国地方なのに、瀬戸内に面した山陽は穏やかで、まさに春を思わせるような陽気で、カートを着て降り立つと少し汗ばむような感じさえしました。遠路二日間にわたって送迎してもらった塩満さんと大庭さんに感謝しながら再開を約束して別れました。

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(島を結ぶフェリーや高速船が発着する広島宇品の港)

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(私が乗船した広島と松山を結ぶ高速双胴船)

 私は65歳の高齢者になっていて、切符売り場の一覧表に目をやると「高齢者2割引」という項目が目に付きました。切符を売るカウンターのおばさんに「私は高齢者のですが」と申告すると、見た目は若い私の容姿を見渡し怪訝そうに「証明するものがありますか」と尋ねられました。背広のうちポケットから免許証を取り出し「はい昭和19年生まれです」と見せると、「灰結構です。失礼しました」と2割差し引いたきっぷを渡してくれました。この航路は船に乗っている時間が僅か1時間余りなのに6千9百円とまるで新幹線並みの金額です、いつも高いと感じていましたが、2割引だと5千5百20円なので嬉しい割引でした。しかしシルバー割引を喜ぶべきか否か複雑な心境になりました。

 昨日の瀬戸内海は波もなく穏やかで、まるで「春の海」といった陽気に包まれ、窓越しに見えては消える島々も長閑なたたずまいを見せていました。途中寄航した呉では大和ミュージアムの見学者が沢山乗り込み、賑やかな酒盛りが始まっていました。

  「日本も 広いもんだと 納得す 雪の山陰 越えて山陽」

  「往復を 送迎してまで くれた友 感謝感激 しつつ分かれる」

  「美味いもの 食べ過ぎたのか 旅先で まるで大名 気分になりて」

  「団体が 乗り込み船内 賑やかに 聞けば大和を 見たと大声」  

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