shin-1さんの日記

〇道端に春を見つける

 3日前高知で桜の開花宣言が発表されました。勿論日本で一番早い開花宣言ですし、この日の開花宣言は史上タイの最も早い記録のようです。これまで愛媛県宇和島市や熊本市が桜の開花が早い所としてお互い競い合ってきました。ゆえに日本一の開花宣言を勝ち取ろうとして宇和島市では、標準木の監視員を増やして対応しましたが、残念ながら今年は高知に一歩先を越されたようです。開花宣言は標準木の桜の花が5つ以上咲くことが条件のようで、昨日のニュースによると昨日は一輪咲いていて、今日にも待ちに待った開花宣言が出されるようです。「宇和島が何故このように早く桜が咲くのか」は色々な説がありますが、やはり豊後水道に流れ込む黒潮や越冬条件など、気象条件によるものだと思われます。高校生活を3年間宇和島で過ごした私ですから、そこらの体験から納得するのです。

 昨日は久しぶりに散髪に出かけました。一昨日の真冬並みの季節風が一転し、昨日は南西の風が吹き荒れていました。散歩のつもりで約1キロの道を歩いて行きました。先日の雨で川は増水し勢いよく瀬音を立てて流れていました。畑中の道を行くと菜の花が満開で、畑には早くもレンゲソウの可憐なピンクの花が見え隠れして、いよいよ春近しといったところです。

 顔見知りのおばあさんに出会い声をかけました。「まあ進ちゃん、おめずらしい」と立ち話です。三叉路で出会ったのもおじいさんでした。そういえば出会う人の殆どはお年寄りで、高齢化社会を垣間見ましたが、人のことを言えた義理ではありません。かく言う私も65歳の高齢者なのです。

 近くの藪からウグイスの鳴き声が聞こえてきました。遠い牛の峰連山には3日前の残雪が見え、雪とウグイスのアンバランスを感じながら歩きましたが、山も海も空までも春の色に変わろうとしているようでした。上灘川に架かる長い鉄橋を音を立ててマッチ箱のような列車が走りました。そういえば列車にも長い間乗っていないと思いました。確か列車に乗ったのは岡山県へ講演に出かけた1月18日~19日だったと思うのです。退職したらのんびり駅弁でも食べながら列車で旅をしたいと思っていた夢も、夢のまた夢になっていますが、そろそろその夢を実現したいと思っています。はてさていつのことになるのでしょうか。

 馴染みの散髪屋さんで色々な世間話をしながら1ヶ月ぶりの散髪をしてもらいました。散髪屋の鏡に映った自分の姿をまじまじと見ながら、少し元気が出てきたようだと実感しました。体の調子もよくて食欲もあり今のところ健康だとの思いが顔の表情に表れているようでした。散髪屋のご夫婦も「お元気そうで」と顔色を見てお世辞を言ってくれました。男前を上げて散髪屋を出て、今度は別の道を歩いて山道をめぐり少し汗ばむほど歩きました。健康は足元からです。92歳の親父に負けないように運動を続け、快食・快眠・快便で快調な健康を維持し続けたいと思っています。

 

  「何気ない 散歩で春の 足音を レンゲ菜の花 笑顔で揺れる」

  「遠くには 雪をいただく 牛の峰 里は早くも 春の足音」

  「元気そう 顔色伺い 声をかけ 通り過ぎ行く 年寄り二人」

  「ウグイスの 鳴き声未だ 下手糞で 俺とよく似て 思わず苦笑」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇孫から目が離せない

 いつものように週末になると家族総出でやってくる孫たちには心癒される思いがしますが、週末が来ると孫の顔が見える喜びと裏腹に、帰ったあとは疲れがどっと出るため、特に勤めている妻は日曜日しか休みがないのに、多少疲労が蓄積しているようです。昨日病院で検査をしてもらったところ、前回のコレステロールの高さは少し改善したものの血圧が少し高めのようで、早速血圧計を買おうという話に発展したようです。お互いそんな心配をしなければならない年齢になったようだと納得しつつ、娘と息子に母親の体のことも心配するように話そうと思っているのです。

若松進一ブログ

 孫の小さいのも手が焼けるものです。一番上の孫朋樹は小学校一年生になってから殆ど手が要らなくなりましたが、真ん中の孫尚樹は5月で満3歳、孫希心は8月で満3歳、孫奏心はまだ10ヶ月です。奏心は伝い歩き出来るようになって目が離せなくなりましたが、相変わらず私に抱っこを要求します。10k余りの孫を抱くとその時は何ともありませんが、帰ったあくる日などは腰が重くて、ぎっくり腰にならないか心配するほどですが、体力づくりの意味を込めて可愛い孫を前三人の孫と同じように目いっぱい抱いてやるのです。

若松進一ブログ

 2歳の孫二人はやんちゃの限りを尽くし、お互いが我を張り合うのでいつも喧嘩ばかりして泣いたり笑ったりしながら遊んでいますが、この二人が実は問題児なのです。長い棒や動くものが特に好きで、アンパンマンや仮面ライダー、ゴレンジャーなどの漫画に影響されて、Tシャツなどはキャラクター入りがお気に入りで、この服を着せるとご機嫌だし、主役になりきって「変身」などと声を張り上げて「勝負だ」と襲い掛かってくるのです。こちらはいつも負ける怪獣役に徹しなければ期限が悪いので、「やられたー」とひっくり返ってやるのです。

 先日はちょっとした騒動がありました。いつものように4人を風呂に入れ、最後に風呂から上がると甲高い声で希心が泣き始め大騒動となりました。風呂上りにパジャマで玄関まで廊下を走って滑り転げ玄関の木の置物に顔面をぶち当てて、顔が血だらけになったのです。両親は蒼白になり、夜のことゆえとりあえず松山の病院へつれて行きました。生き返りと診察で往復3時間ほどかかりましたが、その間9ヶ月の孫奏心を抱いて寝かせ布団に入れて寝かせる役を私が引き受けました。これも腰にかなり負担がかかったのか、あくる日は腰が重く感じられました。

若松進一ブログ

 幸い顔の怪我も大したこともなく、毎日のように電話をかけてやりますが、片言で「じいちゃん」と読んでくれるのでホッとしています。この頃の子どもは動く凶器、動く危険物と思わなければなりません。ちょっと目を離すと何をするか分からないのです。これから水がぬるみ戸外へ出る機会が増えてくると余計目を注がなければなりません。今回の小さな怪我を教訓にしたいと妻と話し合いました。

 そんなことを言いつつ、「孫はどうしているだろう」と思うと、ついつい私たち夫婦の目じりは10時10分から8時20分に下がってゆくのです。

  「週末に なると心配 増えてくる 危険人物 やって来るから」

  「怪我をせぬ ようにしようと 言いつつも 強く育てと 反する遊び」

  「十キロの 孫を抱っこし 腰に来る 俺も歳だな 思いつつ抱く」

  「来て欲しい 来て欲しくない どっちなの やっぱり孫の 顔が見たいな」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇鄙を照らした儒者の生涯(遠藤石山物語)

 一昨日、新居浜市泉川町づくり協議会の招きで泉川公民館に出かけました。その折一冊の本をいただきました。内藤雅行著「鄙を照らした儒者の生涯」という泉川まちづくり協議会が発行した本です。この本の主人公である儒者遠藤石山も、この本を著した内藤雅行さんも知らぬまま、また発行した泉川まちづくり協議会がどんな目的なのか知らぬままページをめくりながら読んでいるところです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 はてさて読んでいるうちに凄い人だということだけは分かりましたが、紙面の都合で詳しく書けないため遠藤石山という人について記念碑の漢文を著者が分かり易く解読しているので紹介したいと思います。

 先生の幼名は徳蔵。字は石山、号は璞玉又は六顛という。遠藤氏は予州小松の人、天保三年壬辰七月十三日をもって生まれる。父は清左衛門と曰い、本姓は永井氏。入りて遠藤氏を継ぐ。泉川村山内氏の女を娶り、四男一女を生む。先生はその四男なり。山内氏は嘗て小松藩近藤篤山に師事し、夙に賢を以って聞こゆ。児女を教養するに方有り。先生は天稟温厚、幼にして学を好み、殆ど寝食を忘る。年十有九にして江戸に遊び、昌平黌に入る。卒業して教職に任ぜられる。尊攘の議起るや京都に入り、頗斡旋する所あり。明治維新、塾を風早、竹原、尾道、泉川の諸処に開き、稽崇館と称す。従遊するもの前後数百人。旧藩主一柳公も亦其の門に入る。其の宇和島に遊ぶや、藩主春山公礼遇すること甚だ厚し。石鉄県学務取締及び第三学区取締を歴任す。四十年丁未十一月十八日、家に病没す。享年七十有六。山内氏の女徳子を娶り、男を生む。長は菊太郎と曰い、出でて山内家を継ぐ。次は芹次郎と曰い、次は枸杞三と曰い家を嗣ぐ。先生は経書に精通し、常に竺墳を愛読し、深く其の理を究む。作る所の詩文は篇什極めて多し、又書画を善くし、茶道を好み、晩年京阪を歴遊し、復家事を顧みず、超然として物外に逍遥せり。某等久しく教えを門下に奉ず。感恩実に深し。頃、石を建て其の墓に表す。銘に曰く。流風余韻 南海の浜 猗歟先生 其の名泯びず

 著者の書き下ろし文には全てふり仮名がつけられているのに、漢字の一つ一つをパソコン画面の部首で探すのに中々見つからず、凡人の私はひと苦労をしました。

 さて表紙の題字に書かれた「鄙」という字も、私は本をいただいたとき正直読めずに、「何と読むのでしょうか?」と聞いてしまいました。お恥ずかしい話です。広辞苑を紐解いて見ると、鄙とは都を離れた土地、田舎と書かれていました。なるほどと相槌を打ち、遠藤石山という人物の奥の深さや著者の洞察を垣間見た次第です。

 人の偉さは自分で決めるものではなく人が決めるものです。今の世の中はややもすると自分で決めたがる人が多いようです。遠藤石山のように死してなお威徳を偲ばれる人はそんなに多くはありません。これからこの本を折に触れじっくり読んで、その教えにあやかりたいと思いました。いい本をご贈呈ありがとうございました。


  「いや凄い 人がいたもの 本読んで 威徳あやかり 読書にふける」

  「この本を 編した人も 偉い人 思いつ漢字 鄙意味探す」

  「書いたゆえ 本書く苦労 よく分かる ノンフィクションは 嘘が言えない」

  「一冊の 本を編纂 まちづくり よくぞやったと 心で拍手」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇モブシ(コブダイ)の調理に挑戦

 今朝6時に下灘で漁師をしている叔父から電話がかかってきました。先日叔父は胃がんで入院して手術を受け退院して間もないため、漁は当分休むと聞いていましたが、働き者の叔父は退屈なので建て網漁に出かけたようで、その建て網にモブシという大きな魚がかかったので、食べるようなら取りにこないかという連絡でした。

 今日の朝は天気は良いものの放射冷却現象の影響でしょうかとても寒く、手がかじかむほどでした。行って見ると既に船から引き上げられてプラスチックのトロ箱に氷詰めされていましたが、蓋を開けて見ると私もかつては漁師をしていたこともあって、この手の魚は自分で獲ったりお目にかかったことがありますがかなり大物でした。

若松進一ブログ
(長いトロ箱の中に入りきらないようなコブダイ)

若松進一ブログ
(まるで恵比寿大黒様のようなユーモラスな顔をしたコブダイ)

若松進一ブログ
(料理を前にデジカメを取り出して自動シャッターで一枚撮りましたが、手に応えるほどの重さでした)

 往復30分で自宅へ帰り、早速調理をしようと思いきや、背広の仮縫いのために洋服屋さんがやってきたり、友人の稲葉さんがやってきたり、はたまた親父が剪定枝を畑で焼却処分するから手伝うようにとかで、結局調理に取り掛かったのは9時を回っていました。

 あらかじめ妻が用意をしてくれた出刃包丁やまな板、鱗引き、パレットなどを使って裏庭に設えている流し台で格闘を始めました。退職後魚の調理は折に触れ妻の求めに応じてやっているのですが、別名ブダイやコブダイといわれるこの魚は、鱗の大きさも半端ではなく、冷たさで手がかじかむこともあって悪戦苦闘の連続でした。

若松進一ブログ
(出刃包丁でコブダイの調理に挑戦しました)

 それでも使い慣れてる出刃包丁の力を借りて何とか40分ほどでかたがつきました。身も分厚くアラや頭、それにヒハラも半端な量ではなく2つのパレットにいっぱいになりました。身は刺身、アラは煮付け、ヒハラや頭は鍋物にして食べようと思っていますが、今晩の夕食がとても楽しみになってきました。量が多いので姉や友人におすそ分けしてやろうと思っています。

 料理をする前にやって来た稲葉さんに見せたところ是非写真に撮らせて欲しいと言われ、お互いがお互いのデジカメで記念写真を撮り合いました。形あるものは壊れたり消えたりしますが、この大魚も私の手によって形は消えうせ、冷蔵庫へ入ってしまいました。今夕は妻の手で料理され私たち家族の胃袋に納まるものと思われます。その点記念に写した一枚の写真はほんのさっきが、すでに過去となった生き証人として残るのですから凄いものです。

若松進一ブログ
(稲葉さんが撮ってくれた記念写真)

  「コブダイを 叔父から貰い 調理する 海の中には 凄い奴いる」

  「今晩は 刺身に煮付け 鍋物と 頭に描き 包丁使い」

  「漁師名は モブシというが 学名は コブダイ・ブダイ 色々あって」

  「かじかんだ 指を暖め 調理する 俺も立派な 役立ち亭主」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇コープえひめ会員活動交流会に参加して

 最近私の身の回りに少しだけ変化が起っていることに気付いています。見過ごせばどうってことはないのですが、講演などに招かれると周辺の地域から「あのような話をして欲しい」とオファーがあるのです。その典型は島根県で、私が行った地域に赤いマーカーを入れてみると、殆ど全ての市町村に足を踏み入れているのですから驚きです。それと同じようにこの一ヶ月、今治地域へも足繁く通っているのです。

 1月23日今治でフロンティアG総会、1月27日今治イキイキ元気塾、2月28日今治立花地区自治会講演会、3月10日コープえひめ今治支所会員活動交流会、3月14日今治地域福祉推進ミニフォーラム、3月16日今治玉川生涯学習講座と、まあ続く続くです。妻が「お父さん近頃今治へ行くことがが多いようだが、いい人でも出来たのと違う?」と勘ぐるほどなのです。

若松進一ブログ

 このほど出かけたコープえひめ今治支所組合員活動交流会も中々のものでした。この日はそれぞれの地区やグループが一年間どんな活動をしたか発表しあいました。それぞれのグループではこの日のためにみんなで集まって模造紙に発表の内容を綺麗に書いて仕上げていました。消費者運動に取り組む人は年齢もまちまちですが若いお母さんたちが多く、発表資料も大学生顔負けの出来栄えでした。

若松進一ブログ

 私はコープえひめの学識理事をしていますが、理事になって4年目、私の心を常に揺り動かしているのは、このような草の根の学習活動です。活動に参加する度に生協運動の原点に触れるような気がするのです。


 一昨日私のブログにも農協会館前の石碑文「一人はみんなのため みんなは一人のため」という話題を書きましたが、生協運動もこの言葉と同じ思想だと思うのです。農協は残念ながらその思想を忘れ農民や農村から離れ、今は日本最大の商社になり下がっているように見えますが、生協も組合員の暮らしを守る運動を忘れたら、そこら辺のスーパーと何ら変わりはないと思うのです。

 餃子事件が起った時、ある主婦から「えっ、生協の餃子は中国で作っているの?、これから注意しないといけないね」と言われました。生協あ=安心・安全という神話が崩れたのかも知れない、関わる者としてドキッとしました。中二階にいると一階や三階の出来事が分からなくなるのです。そういう意味では組合員の学習は大事な役割を持っています。この日はコープの職員さんも沢山参加して、一階の出来事に触れていました。ともに学び合うことをこれからも続けて行きたいものです。


  「二階から 降りて一階 笑顔知る 思い出させて くれる原点」

  「外は雨 中は笑顔の 温かさ 子ども交えて 楽しお喋る」

  「学生に 見せてやりたい このパワー 若さ歳では ないということ」

  「同じとこ 行くがいい人 できたのか? 妻が見まがう ほどに出かける」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇大荒れの一日

 昨日は遅い寒波襲来という荒れた天気に翻弄され散々な一日となりました。南予に暴風雪波浪警報が出たので、高速道路も峠越えの11号線や山越えの道も積雪で通行止めになるだろうと思い、今治経由の海岸国道196号線を走り夕方泉川公民館での講演のため新居浜入りしました。少し早く着いたので、国道の標識で「真鍋家住宅」という看板を見つけ、ちょっと寄り道をしたくなりました。昔は目的地以外目もくれなかったのに、最近はどこかへ出かけても少し余裕が出来たのか、プラスワンを心がけて必ず立ち寄るようにしているのです。真鍋家住宅は国道11号から1.5キロほどの所にありました。空は鉛色の曇り空、道端には白い雪が解けずに残っていて、そこら辺には寒さゆえか人影もなく散閑としていました。

 午後5時近くなので見学も出来ず、また車の中のカバンに財布を入れたままだったので入館料を払う手立てもなくただうろうろとビニール傘を差してそこら辺を散策しました。新居浜は工業都市といわれていますが、少し奥まった所にはこうした文化的な場所も沢山あって、これからも折に触れて散策して見たいと思いました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 車に戻ると関課長さんから携帯が入り、急いでカーナビの示すとおりの道を泉川公民館へ直行しました。5時過ぎという約束でしたので、皆さん玄関で待っていてくただき、リーガロイヤルホテルでの夕食会に望みました。この日の夕食会を催してくれたのは通称「つう兄」といわれる元県高校PTA会長藤田勉さんです。彼は私のことを「進ちゃん」と呼び合う間柄ですが、今はまちづくりの会長をしているようです。夕食会には館長さんや自治会の役員さんも同席してくれましたが、珍しい人に出会いました。野本敏久さんです。彼の妹が私の妻の兄に嫁いでいるので一度出会って確かに見覚えがるのです。今はまちづくり協議会の生涯学習部会長を務めているようで縁の深さをしみじみ感じました。食事を終わって会場に帰り午後7時から講演会は始まりました。

 「まちづくりの新しい風」と題して1時間半ほど話しました。主催者側はモット集まって欲しかったと言われましたが、これほどの寒さの中をほぼ満員に近い人が集まって、私には十分過ぎるほどの熱気を感じさせてくれる集会となりました。

若松進一ブログ

 皆さんに見送られ、高速道路も、チェーン規制の国道11号桜三里も、また山越えも出来ず、結局元来た海岸国道を今治経由で帰りました。大西、菊間は積雪の難を逃れようと入り込んだ車が大渋滞を引き起こし、長蛇の列が続きました。北条パイパスで渋滞は解消されましたが折からの雨で路面が濡れているためスピードを控えたため、結局自宅へ着いたのは午前1時頃でした。

 でも久しぶりに色々な人に出会って旧交を温め、また思わぬ人に出会ったり講演会の熱気を感じたため疲れることもなく、大荒れの長~い長~い一日を終えることが出来ました。

 今朝起きてメールを開くと充実した昨日の一日を裏付けるように、沢山のメールが届いていました。これらは春を予感させてくれるに十分なエネルギーとなりそうです。

  「あの道も この道も駄目 積雪で 八方塞り 元来た道を」

  「おしっこを 我慢の四時間 わが家入り 長い一日 水に流して」

  「ハプニング あるからこその 思い出か 今日という日は 記憶に残る」

  「朝起きて メール開けば 何通も 昨日の余韻 届く嬉しさ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇友遠方近方より来るまた楽しからずや

 このところの暖かさですっかりご無沙汰していた書斎の小さなストーブですが、寒の戻りというのでしょうか昨日から寒波がやって来て、再び火を入れました。やかんにいっぱい水を入れ、ストーブの上に置いていると、僅か20~30分ほどで勢いよく湯気が出てきました。小さなやかんは直ぐたぎるといいますが、納得しながらストーブで乾燥した部屋をこの蒸気が守ってくれるのだと思いつつ、愛おしい気持ちで近づけました。

 昨日はこの部屋に4組ものお客さんが見えました。本当は居間か応接間で来客対応すればいいのでしょうが、寒い時期ゆえ暖房をつけたり消したりするのが面倒くさくて、ついつい玄関のチャイムが鳴っても、「裏に回って下さい」と声をかけ、私の書斎の吐き出し窓から入ってもらうのです。

若松進一ブログ

 昨日は10時に約束していた投与地方局の國元室長さんと井下さんがやって来ました。この一年観光関係のアドバイザーとして関わっていた、ニューツーリズムの冊子が出来たと持参していただきました。開けて見るとこのパンフレットを作るために訪ねた、東予地域のあちらこちらが写真で紹介されていて懐かしく思い出されました。その模様は会合の都度ブログで紹介しているので、お二人が帰られてから早速昨年の予定表を捲り、月日を打ち込んで呼び出して読んで見ましたが記録とは凄いもので、ブログ記事はつい昨日のことのように記憶を思い出させてくれるのです。ましてやペーパーではなく画面に直ぐ現れるのですから、これくらい便利なことはないのです。

若松進一ブログ
(出来上がった立派なパンフレット)

 夕方関西汽船の浜田さんがひょっこりやって来ました。読書家の浜田さんは来る度に本を提げてやって来ますが、昨日は手ぶらでした。四方山話や少し込み入った話を、お茶を飲みながら30分ばかり話し、國元課長さんが手土産に持ってきてくれたイチゴ大福を一個食べて帰えられました。國元課長さんは妻の大好物を知っていて、前回は幻の銘菓といわれる霧の森大福をいただきました。昨日もたいそう喜んで一六のイチゴ大福を2個も食べたようで、私の分は冷蔵庫に入れて多分今日あたりまた食べるのでしょう。私は余り甘いものを食べませんので、妻の至福ならに大福にしてやるのです。

 夜遅く別の友人がやって来ました。数日後息子さんが結婚式を挙げるそうで、親父の挨拶をしなければならないそうで、そのことが気になって夜も寝れないそうです。私への依頼はあいさつ文を書いて欲しいとの事でした。夕方少し時間があったのであいさつ文を手渡すと友人は大喜びをして、「お礼はまた」といって帰って行きました。「お礼など要らない」といいましたが、彼のことゆえ「つまらないものですが」と、つまらないものを持ってくることでしょう。家にいると家に人がやってきます。こうして早春の一日はあっという間に終わるのです。


  「久方に ストーブ火入れ 湯気が立つ 湯飲みに注ぎ 四方山話」

  「チャイム鳴る 裏へ回って 言ううちに 勝手知ったる 友上がりこむ」

  「指折ると 五人の客と 話しこむ お茶など入れた こともないのに」

  「ストーブが 人の心を 暖かく 結んでくれる 囲炉裏の役目」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇日本農業新聞を読んだ話

 年輪塾塾頭の清水さんは、年輪塾ネットのまとめ役だけあって、一年に一度はネット会員の意思表示を確認して、入会や脱退の作業という面倒くさい作業をやったり、会員の頭と心をつなぐため、様々な情報をネットに書き込んでくれます。一昨日も日本農業新聞を読んで見つけた記事の話を、「心ここにあらざれば・・・「大学より」というタイトルで投稿してくれました。

 3月は卒業式の季節です。記事の内容は小学校の校長先生が卒業式に話された言葉の話でした。人の話を聞くことの姿勢についてだそうで、尊徳翁夜話にも登場してくるもので読み覚えのある「大学」の一節のようです。

「心焉に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味わいを知らず」、原典では「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」と書いてあり、「こころ、ここにあらざれば、みれどもみえず、きけどもきこえず、くらえどもそのあじしらず」と読むのです。

 これは、うわのそらであったなら、ものを見ても見えず、聴いても聞こえず、食べてもその味が分からないという意味だそうです。ものを見て、それがどういう動きをしているか、ものを聴いて、それがどんな意味があるのか、ものを食べてそれがどんな味なのか、それらを受け止める五感は、本当は心の働きなのかも知れないのです。みんなで一緒のものを見ても、一方の人には気付くことが、もう一方の人には見過ごしてしまうことだってある、すべては意識の問題のようです。染み持参がコメントしている通り、何事にも通じるいい言葉だと思います。

 私は早速書棚の奥に大切にしまっている「大学」という古い本を取り出して捲りました。大阪梅田の古本屋で見つけて買った古い古い本なのです。この本との出会いは二宮金次郎の銅像が読んでいる本が「大学」の一節だったことを知ったからでした。大学の一節をどうしても原書で読んでみたかったのです。


若松進一ブログ
若松進一ブログ

 「大学」の本は難し過ぎて、私が読めるのは二宮金次郎が読んでいるという「一家仁・・・・」から始まる僅か25文字しか読めないのですが、今回の心不在焉・・・」は「一家仁・・・」の直ぐ前の頁にあって、直ぐに見つけることが出来ました。多分大学の本の中から探すのは難しかろうと思っていただけに意外や意外、簡単に見つけることが出来て拍子抜けした感じです。それでもこうして原典を読めた喜びは大きいものでした。

 早速清水さんにメールを送りましたが、すかさず原典の大学を見てみたいと返信があったので、デジカメとスキャナーを使ってブログ記事で紹介することにしました。いやあ我ながら天晴れです。(こんなことで喜ぶ私はどうかしていますね-大笑い-)


  「一万円 出して買いたる 古書開き 心不在の 一行見つけ」

  「大学本 出てない私しゃ 難解で 大学出た人 読んでもらおか」

  「身震いを するよな気持ち 古書を読む 凡人ゆえに 感動するか」

  「まままだと わが身の学び 浅さ恥じ ささやかランク 上がる喜ぶ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇同質と異質を兼ね備えた人

 私には同質と異質なまったく異なった友人が何人もいます。同質は同じ志や考えを持った人で、ある意味心の通う人なのです。普通人間は気が休まるものですからこうした人を求めたがるものですが、余り同じ考えを持った人とだけ付き合うと、自分の成長が止まってしまうのです。逆に異質の人は何事においても対立し、精神的に不安定になるので敬遠しがちですが、対立軸の中に自分のないものを発見したり学んだりする影響は、計り知れない自分の成長を促してくれるのです。

 私の友人には同質と異質を併せ持った優れ者もいるので随分助かっています。年輪塾の塾頭をしている清水さんもその一人で、年輪塾を興してからはその運営もあって時々同調し時々対立しますが、また私にないものを持っているため学ぶことが多く、塾長と塾頭という上下の関係はいつも逆転現象を起こしているのです。

若松進一ブログ

 音楽やパソコン、気象学、それに宮沢賢治への畏敬など、どれをとっても私は彼に遠く及ばないばかりか年齢的にも若く、強いてあげれば私が年齢的に上だということだけが取り柄なのです。

 先日私は自分のブログに、農協会館の前にある石碑文を何気なく写真に収めて載せました。すると彼はすかさず直ぐにメールをくれました。

 「一人は万人のため 万人は一人のため」という碑文は共同組合の提唱者ロバート・オーエンの言葉だそうです。そしてその下に書いている英文は「One for all all for Each」は相互扶助を意味するらしく、古代ゲルマン人の昔からの言い伝えで、航海する人たちの助け合いに由来するという説もあるそうです。フランスの作家アレキサンドル・デュマの「三銃士」には騎士たちの友情をあらわすモットーで登場、英国で始まったラグビーの精神もこの言葉でいまだに引き継がれ、ヨーロッパではかなり前から広く使われているようです。

 18世紀末から産業革命が進行して資本主義社会の矛盾が現れてきて、協同組合運動の創始者オーエンの言葉として、ドイツ農協運動の父とされるライファイゼンが信用組合論に使ったのが初めとされています。

 ちなみに農協(JA)は農村が大恐慌のあおりを受け、どん底生活にあった明治33年、一人ひとりでは弱い立場にあった農家が手を結び、助け合い精神の産業組合として誕生しました。その流れを受け継ぎ昭和22年に定められた農業協同組合法に基づき各地の設立されました。


 知らないことを知っている人に教わる驚きは計り知れないものがあります。今回も清水さんのお陰で「一人は万人のため 万人は一人のため」という言葉の意味を知ることが出来ました。多分あまた数ある農協職員に農協会館の前にある記念碑について訪ねても、「えっ、そんな記念碑ありました?」とか、「詳しいことは分かりません」で終わるのでしょうが、さすが筋金入りの農協マンです。少し褒め過ぎかも知れませんが、まあいい友人を持ったと喜んでいます。


  「分からない 教えて欲しい ブログ書く すかさず返事 メール詳しく」

  「いい言葉 出処分かりで 一安心 これで一歩前 明るくなりて」

  「農協も 時代の流れ 飲み込まれ 基本忘れて 右往左往す」

  「もう一度 万人のため どうするか 真剣議論 すべき思うが」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

〇孫朋樹と菜の花ウォークを楽しみました②

 孫朋樹は小学校一年生で、間もなく4月にはよほどのことがない限り落第もせず2年生に進級します。歩いて見て分かるのですが、一年一年体力の衰えを実感する私に比べ、まるで雨後の筍のように毎日毎日成長しているため、歩く速度が早いのです。さすがに10キロの持久足となると最後ころには私の足が勝るのですが、多分来年当たりは私など非ではないほどに成長することでしょう。

 一昨日は歩き始めて3キロほどの閏住を越えた所で小雨が降り出しました。北東の風が強く北東方面の海上を見ると次々と雨雲がやって来て、中島や松山方面は雨が降っているように見えました。リュックサックに雨具を入れていましたが、どうしようか迷いました。またひょっとして本降りになったら携帯電話で妻に助け舟を出すかもしれないと言っていたので判断を迷いましたが、まあ歩ける所まで歩こうと少し早足で歩きました。繋いだ孫の手は少し悴んでいるようにも見えました。

若松進一ブログ
(孫は遊び心旺盛で、道端の浜ウドの葉っぱを取ってやると、それを傘代わりにして大はしゃぎでした)

若松進一ブログ
(私もヤツデの葉っぱを取って傘の代わりにして歩きました)

若松進一ブログ
(孫朋樹はこれをお面にして悪ふざけをして遊びながら歩きましたが、雨も小康状態でどうにか唐崎の石畳道まで歩きました。

若松進一ブログ

(私が勝手に「金子みすずのいわしの大漁」と名付けているモニュメントは、いわしの数を数えてクイズを出されました。25匹のようでした)
若松進一ブログ
(やっとたどり着いた亀の森の休憩所で一服し、お菓子を食べながらお茶を飲みました)

若松進一ブログ

(ひょうたんナマズのモニュメントの上に乗ってご満悦でした)
若松進一ブログ

(石畳の道には双海町で獲れる魚の絵が沢山描かれ埋め込まれていました)
若松進一ブログ
(私たちが10数年前に植えた杏の花が見事に咲いていました)

 多少遊び感覚で歩いた10キロ近くのウォークも所要時間1時間40分で見事完歩ゴールです。寒さと小雨の中でしたが、何事もなく無事歩ききりました。朋樹は早速お約束の肉まんの熱々を買ってほおばっていました。また馴染みのじゃこ天のおばちゃんたちにたこ焼きを貰いご満悦でした。妻に電話おかけて迎えに来てもらい、充実した一日となりました。私は引き返してウォークイベントの手伝いを少しだけしました。

若松進一ブログ
(ゴールのシーサイド公園でVサインです)

  「完歩して 二人ゴールの テープなし 褒美肉まん 孫は笑顔で」

  「来年は 二十キロだと 言ってるが 鬼が笑うと 半信半疑」

  「久方に 顔見たおばさん 目を細め 大きくなった 孫を称える」

  「心地よい 疲れのウォーク したためか その夜ぐっすり 十時間寝る」

[ この記事をシェアする ]