shin-1さんの日記

○熱中症は流行り病か?

 「今年の夏はやけに暑いですね!」と、会う人会う人挨拶してくれます。それもそのはずこのところは連日のように、35度を越える猛暑日がここ四国愛媛でも続いて、岐阜県多治見市ではこの夏一番の40度近くまで温度が上がり、記録を塗り替えたようです。お陰様で夏物が飛ぶように売れ、不景気な世の中にあって幾分救われた人も多いようです。

 真夏になると熱中症が増えますが、今年は熱中症で救急車の出動回数が全国的に見ても異常事態で、かなりの人が熱中症で亡くなっているのですから驚きです。しかも新聞やテレビの報道によると、熱中症は屋外と思いきや室内が多く、しかも高齢者の数がダントツに多いのには驚きました。

 日本列島全体がヒートアイランド現象なので、熱中症は限られた一部分の地域でなく、日本全国に及んでいるため、熱中症がまるで流行り病のような感じもするのですが、日陰の室内で熱中症にかかるのですから、やはり流行り病と思うのは当然かも知れません。

 浅はかな知識でも私流にその原因を探れば、やはり一番は何といっても日本列島の気圧配置が原因のようです。今年は台風の発生がまだ3個と以上に少なく、太平洋高気圧の淵を湿った温かい空気が日本列島に流れ込ませているのです。台風の発生や上陸がないことは喜ばしいことでしょうが、やはり気象バランスが崩れていることは間違いないようです。

 それにしても、暑いといいながら何故このように沢山の人が熱中症になるのか、それは冷房が原因だとも言われています。不景気といいながら世の中の暮らしは豊かになって、どのオフィスも家も車までもエアコンや冷房が完備され、電器消費量がうなぎ登りになるほど人工的な快適空間で暮らしているのです。当然汗をかく機会も少なく、夏の暑さをコントロールできないような体に変化しているのです。

 冷房もエアコンもなかった昔は熱中症で救急車に乗ったり死んだりする人はまれだったのですから、人間がいかに抵抗力がなくなっているか、よく分かるのです。

 私のような古い人間は冷房大嫌い人間として冷房世界の外にいて、相変わらずあせもが出るほど汗をかきながら夏を過ごしていますが、勤めに出ている妻は冷房の中で昼間を過ごしているため、夫婦でありながら夜の過ごし方に不一致が生まれているようなのです。

 問題は子どもたちです。外で活動することの多い子どもたちも、夏休みですからエアコンの恩恵になれて、採り過ぎと思えるほど水分を補給しているようです。水ぶくれした暑さに弱い人間、しかもいつも滅菌消毒をして雑菌に弱くなった人間の行き着くところは、やはりあの世かも知れないのです。

 熱中症に強い体力は一朝一夕きるものではありません。冬は寒さに耐え夏の暑さに備える暮らしで常日頃から鍛えておかねばならないのです。ハウスの中で育てた苗ものを外に出すと、水をしょっちゅうかけないと直ぐに枯れてしまいます。多分人間も水分や養分を吸い取るべき根の部分が育っていないから熱中症になるのです。粘り=根張り、今から来年の夏に備えてしっかりと根張りを広げたいと思っています。


  「熱中症 流行り病と 見まがって しまうくらいに 連日騒ぐ」

  「ハウス内 育った人間 根張りなく 水をやらねば 萎れてしまう」

  「熱中症 交通事故より 恐ろしい 家の中でも 突然あの世」

  「夏休み 冷房部屋で 昼寝する モヤシみたいな ひ弱な子ども」


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shin-1さんの日記

○平凡な道でも続ければ非凡になる

 昨日中村剛志砥部町長さんからお便りが届きました。発信先は人生楽々工房で、封筒の私の名前の下に、

「明るい顔がまわりを明るくし 暗い顔がまわりを暗くする いつもほほえみを失わない そんな明るい顔を持ち続けたい」と書かれていました。意味不明の30853という番号もありました。察するにこの番号はこれまで差し出したお便りの数でしょうが、だとしたら気の遠くなるような実践で、町長さんのもう一つの顔を見る思いがしました。偶然でしょうが松山市長を中村さん、伊予市長も中村さん、砥部町長さんも中村さんなのですが、こうしてお便りが届くのは隣の町の中村さんだけなのです。

 封を切るといつものように3枚の紙が出てきました。一枚は砥部町広報誌のコピー、一枚は倫理法人会発酵雑誌のコピー、もう一枚は人生楽々工房の会報第182号です。時には砥部町出身で亡くなった宗教詩人坂村真民さんの言葉などが紹介されていますが、この号にはりんりの言葉「やればできる」を引用した「中断は百歩後退」という次の言葉でした。

    中断は百歩後退

  成就の秘訣は、一歩も退かない、ということ

  退くまいとすれば、いきおい進まねばならない。

  進みには一分だって、止まってはならない。

  自分ではちょっと休んだつもりが、

  大きな後退となってしまう。

  上手下手は関係ない。日々続けることで、やがて物事は

  成就するのである。

 なるほどと思いながらこの言葉を自分流にかみしめました。毎朝四時に起きる。毎日公園の掃除をする。毎日二本のブログを書く。毎日はがきを三枚書く。ほんの小さな自分で決めた目標ですが、何度も何度ももう辞めようと思いつつ、とにかく続けてきました。私の場合始める時辞める目標を設定しているので、シーサイド公園の掃除は毎朝五時から三時間、退職するまでの十二年間と決めていたのできっぱりと辞めました。でも早起きもはがき三枚も、ブログ二本も未だに続いているのです。

 人間は楽な道を進みたいという誘惑から、思いや目標を習慣化するのはかなり難しいものです。でも凡人の私には高くて大きな目標を立てたところで、成就できるはずもないと思っているので、自分サイズで出来ることをコツコツやることなら何とかなるのです。小さなことの積み重ねは年月を経ると凄いことに変身します。まさに平凡が非凡になるのです。掃除もブログも今では私の宝物となっているのです。

  

  「平凡な ことしか出来ない 凡人も 続けてやれば 非凡人なる」

  「中断は 百歩後退 だとしたら 続ける以外 進む道なし」

  「俺にでも 出来ることあり そう思や できることあり アリの歩みを」

  「おいお前 今日もやれよと 命令す 心の中の 強い自分が」

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○インターネットで公開されている娘婿の2枚の写真

 インターネットで調べ物をする場合、お気に入りをクリックしてヤフーやグーグルに調べたいことを入力しますが、昨日何気なく大学に勤める娘婿の名前を入力していじっていると、2枚の素敵な写真に出会いました。地元大学教職員作品展の出品作品が紹介されているその中に、この大学に勤める娘婿の写真が第10回と第14回に絵画や書に混じっていました。

 私も昨年度までは彼の勤める学部の非常勤講師をしていたため、何かにつけて連絡を取り合っていましたが、私が農学部に移ってからはお互い忙しいためそれほどの出会いもなく、先日家族で夏祭りの花火を見にわが家にやって来たくらいなので、懐かしくなってその公開写真を自分のファイルに取り込みました。

若松進一ブログ

(第10回作品「伊予灘夕景」
若松進一ブログ
(第14回作品「龍を連れての着陸」

 娘婿が飛行機が大好きなことは、孫朋樹のこれまでの言動で容易に想像できました。孫が小さいころは休みの日など孫を伴って飛行場へ行ったり、飛行場傍の公園に遊びに連れて行っていっていました。そのため孫朋樹は一時期飛行機のおもちゃに凝っていて、飛行機用語なども喋っていたようです。その孫朋樹も早小学二年生になり、飛行機遊びは卒業したのか今はカブトムシなど小動物に凝っているのです。

 娘婿はカメラもいいのを持っているようで、何度か娘婿の自宅でカメラを見たことがありますが、飛行機と写真はこれまで結びついていませんでした。この2枚の写真を見て納得したのです。


 夕日夕やけにはかなり詳しく、夕日夕やけにまつわる写真も沢山見てきた私ですが、飛行場から飛び立つ飛行機を入れた伊予灘の夕景写真は始めて見ました。またもう一枚の「龍を連れての着陸」というのも見たことのない写真でした。夕景はどちらかというと静です。飛行機は動です。静と動の組み合わせは余程目や耳を働かせていないと、シャッターチャンスをものにすることはできません。ましてや飛行機が気流を巻いて降りる姿など見ようと思っても見れないのです。

 この2枚の写真を見て娘婿のもう一つの顔を見たような気がしましたが、今度わが家に来た時ゆっくりと写真の話をしようと思いました。


  「何気なく パソコン触って 見ていると 二枚の素敵 写真に出会う」

  「飛行機が 写真が好きと 聞いてたが これで納得 謎解き出来た」

  「この二枚 作品作る 手間隙は どれ程かけた 本人のみ知る」

  「娘婿 労作二枚 ファイル入り 次の機会の 話題が出来る」


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shin-1さんの日記

○ウィキペディアで私の紹介が・・・・

 何年か前までは、分からないことの調べ物は広辞苑やイミダスといった分厚い辞書を捲っていました。特に英語の苦手な私にとって、まちづくりの研修会などで度々出てくる横文字言葉は難解で、メモ帳と首っ丈で勉強したものです。ところが数年前からその暮らしは一変しました。パソコンのインターネットで調べることを覚えたのです。これはこれまでのどの書物よりも優れもので、調べてい琴が瞬時に詳しく出てくるのです。しかもそれはプリンターで印刷も出来るのですから、これほど便利なものはないのです。私はこの一年かつて世話になった広辞苑もイミダスも殆ど開いていないのですから、凄い変化なのです。

 インターネットという優れものの道具は、私が毎日書く文章もブログサイトを使って広く外に配信されるばかりでなく、それらの文章を一字一句間違わずに記憶収納しているし、予備だ外思えば瞬時に5年前のものでも検索が可能なのですから、驚きという他ないのです。

 もっと凄いことは、たとえば「若松進一」で検索すると、私に関する情報がこれまた瞬時に呼び出されるのです。個人情報などとかたくなに拒んだところで、それはどうすることも出来ず、勝手に回線を通じて世界に発信され続けているのです。言論統制の厳しい中国ならいざ知らず、少なくとも情報に関して殆ど自由な日本に生きていると、むしろ守りより攻めに徹して情報発信した方が得策かも知れないのです。しかし一歩間違うと大変な事件に巻き込まれる可能性も多分にあるので、世の中のルールは守らねばと思うこのごろです。

 誰がどう情報を入力するのか分かりませんが、ヤフーやグーグルで検索すると、若松進一はウィキペディア(オープンコンテントの百科事典)で紹介されているようです。先日友人からのメールでそのことを知ったのですが、私のような田舎に住む無官な名もなき男が何故ウィキペディアに載るのかも分からないのです。

 私は頼まれて全国各地へ講演に出かけますが、その都度私のプロフィールを送らなければなりません。一昔前はFAXで送っていましたが、今はメールが殆どになりました。また講演資料に私の紹介を載せる場合はヤフーやグーグルで検索したものを適当に見繕い、プリントアウトして参加者に配っているようです。

 本を買わなくても新刊本が画面で読めるような電子書籍の時代がやって来ました。これまで生き習ってきたことがどんどん否定されるような時代になりつつありますが、少しでも学習をして少しばかり進化して、世の中の流れに棹差して生きて行きたいと思う今日この頃です。


  「えっ俺の 名前が何と ウィキペディア 検索すると 出てき驚く」

  「広辞苑 イミダスなどは 過去書物 今じゃ流行 インターネットで」

  「俺さえも 活字離れが 酷くなる ましてペンなど 持たない日々が」

  「パソコンは 情報処理が 進化する 文字は退化の 一途を辿る」 

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shin-1さんの日記

○一字違いの大間違い

 地域づくりの現場では一字違いの大間違いが時々あります。まちづくりは人づくりとよくいわれますが、「人材」という言葉もよく使われるものの、パソコンで「じんざい」を入力すると、「人材」「人財」「人在」など様々な言葉が出てきます。中でも変換ミスともとれる「人罪」という言葉は、「人材」や「人財」と思っていても、手を引っ張りどころか人の足を引っ張る「人罪」だったりすることがよくあるのです。これはまさに一字違いの大間違いだと思うのです。これと同じような言葉に「若者」と「馬鹿者」があります。「わ」と「ば」だけの違いなのですが、今の若者はどちらかというと清新ではつらつとした活力に欠け、若年寄的な感じがする若者も多いようです。


 私の友人で広島三次市に住んで地域づくりをやっている和田芳治さんはこの一字違いを活用した言葉遊びをやっていて、面白い造語を次々と作り楽しんでいます。「市民」を「志民」と表現している言葉は、単なる言葉遊びではなく、参画と共同の社会では志ある市民こそ本当の市民だと思うのです。

 先日私の出版した「夕日徒然草・火の書」の表紙を見て、ある友人から電話がかかってきました。「表紙の落伍家『夕日亭大根心』高座本とある落伍家は落語家の間違いではありませんか?」というのです。私が落語と落伍の違いをお話して納得してもらいましたが、やはり一時違いは気になったようです。

 3日前講演で高知県に行きました。高知県は珊瑚の産地で、観光地と名の付くところには珊瑚のアクセサリーがショーケースに入れられて販売していました。買う気もなかったので何気なく陳列ケースの中を覗き込み、薄くなった目を細くして、いち、じゅう、ひゃく、せん、まんとゼロの数を数えてため息をついていました。

 都会から来たとおぼしき若い女の子が店員さんに、「これ下さい」と店員を呼んでいました。店員さんはショーケースから取り出した8万円の珊瑚のブローチを丁寧にラッピングして、「お代は8万円と消費税で8万4千円です」というと、若い女の子は急に青ざめて、「すみません。8千円とばかり思っていました。ゼロを一つ間違えたようです」と顔を真っ赤にして平謝りしていました。

 一字違い、一桁違いはよくある話です。総会などで予算書や決算書の数字を桁を違えて読み間違えたり、文字を言葉にする読み間違えも沢山あります。その度にその人の知識の度合いや値打ちのようなものを感じたりするのです。

 間違いは誰にでもあることだし、間違いは素直に認めて訂正することが肝要です。和田さんや私のようにあえて間違わせて考えさせる手法は、下手をすると見くびられることにもなりかねませんが、まあ言葉遊びのつもりでコンセンサスならぬ「混戦さす」ことも面白いと思うのですが・・・・。


  「人材と 人罪違う  足だけは 引っ張らぬよう したいものです」

  「ゼロ一つ 省略すれば 安いもの 売り手と買い手 微妙な差あり」

  「これからはただの市民じゃ もの足らぬ 志民になって 町を引っ張る」

  「若者も 暴走すれば 馬鹿者に なるのですから 気をつけましょう」

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○5、十有五にして学に志す

若松進一ブログ


 今朝の論語日めくりの言葉は、「十有五而志干学(為政第二)」です。この言葉も日本では随分馴染みなようで、浅学な私さえも知っているのです。意味は孔子が「私は十五歳の時に生涯にわたり学問することを決めた」で生涯学習の目覚めともとれる決意の言葉なのです。15歳といえば中学生くらいの年齢ですが、私もこの年齢頃に学を志し、宇和島へ三年間遊学の旅に出かけました。初めて親元を離れた城下町宇和島での暮らしは、双海町下灘しか知らなかった私には大きな異文化ギャップでした。そしてもっと驚いたのは宇和島水産高校の練習船えひめ丸での船旅でした。地球が丸いと実感した価値観の変化は私のその後の人生に大きな影響を与えたのです。十五歳前後の現代の日本の子どもはまだ親の比翼の中に生きています。しかしその時期だからこそ学ばさせなければならないこともあるのです。

 今朝、たまたま夏休みでわが家に泊まりに来ている小学2年生の孫朋樹に、論語日めくりを見せながら話をしてやりました。まだ孫には論語の意味がよく分からないようでしたが、「門前の小僧習わぬ経を読む」の例えのように、「十有五にして学に志す」を10回復唱させ、正座をさせて言わせると、孫はしっかりと中暗記をして言えるまでになりました。

 夏休みに2~3度わが家にやってkるものと思われますが、論語を2つでも3つでも覚えさせたいと思っています。果たして上手くいくかどうか・・・・・。

若松進一ブログ
(え~、「十有五にして学に志す」と暗唱できるようになった孫朋樹)


 この言葉は「三十にして惑わず」と後の言葉が続きます。孔子は30歳で自立したと伝えられていますが、現代の若者たちは24~25歳で大学を卒業して社会人になるものの自立にはほど遠く、孔子が自立した30歳を越えないと本当の自立はないのかも知れません。

 昔の人の寿命はたかだか50年でした。30歳で自立しても、20年の余命しかありませんでした。今は80歳から90歳まで生きる時代なので、30歳を超えて自立しても十分生きる時間はあるのです。でも実労の期間は今も昔もそんなに変わらないのですから、学に志してしっかりと生きて行かなければなりません。

 今朝もいい言葉に出会いました。孫を松山の家まで送って行く車の中で「十有五にして学に志す」という言葉を何回も何回も復唱したお陰で、孫朋樹は「十有五にして学に志す」という言葉を覚えたようです。


  「論語読み 論語知らずと 言われても 論語言えれる 子どもになれと」

  「十有五 同じ言葉を 何回も 言ったお陰で 孫が論語を」

  「平凡な 子でもいいから 心根の 優しい人に 育って欲しい」

  「論語から 学ぶことあり 俺たちは 学ばなかった 仁智低くて」


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○忘れられない懐かしい思い出の一こま写真

 昨日講演のため訪れた高知県大月町の講演会場に、珍しい人が訪ねて来られました。そのご夫妻の顔はしっかりと覚えているのですが、突然控え室へ来られたため最初は「えっ、誰だったかしら」と顔と名前が一致しませんでした。自分の頭脳のカンピューターをフル回転させて巻き戻し、その人が大月町道の駅の役場産業課担当者である山本さんだということまで記憶を戻すことが出来てホッとしました。

 山本さんの奥さんは今年9つの小学校が統合して出来た大月小学校に勤めている学校の先生です。講演前の短い時間だったので、立ち話のような形で矢継ぎ早な質問をお互いにかけあいました。聞けばこの日の講演会のニュースを学校に勤務している奥さんが知り、嬉しいことに二人で講演を聴きにくれたのです。


 講演会場にお二人の姿を確認しながら90分ばかりお話をさせてもらいましたが、講演が終わると直ぐに妻と孫が待っている駐車場に移動して会場を後にしましたが、山本さんからいただいたA42枚の写真を見ながら当時を懐かしみました。

 自宅に帰ってから書斎の引き出しにしまってある過去の予定表を取り出し捲って見ました。2007年6月23日・24日の欄に確かに大月町役場職員組合講演会と書いていました。そしてさらに自分のパソコンでこの日のブログを呼び出すと、その日の模様がかなり詳しくルポしていました。残念ながらデジカメは初期の段階だったのか、山本さん宅に泊めてもらった写真や柏島周辺を散策した写真は記録されていませんでした。おいおい保存している写真データーを読み出せばいいのですが、その時間的余裕もないので、山本さんからいただいた写真を紹介しておこうとスキャナーで取り込みました。

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(2007年6月24日の早朝、山本さん宅の前の庭で山本さん親子と私)

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(素敵な奥さんとも)

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(お母さんに手持ちのハーモニカを吹いて宿代にしました)

 写真の中に上の珍しい写真を見つけました。山本さんのお母さんの前で私が手持ちのハーモニカを恥かしいながら吹いているのです。山本さんのお母さんは私のハーモニカを聞きながら拍手をしてくれました。曲は夕焼けこやけと赤とんぼ、それにみかんの花咲く丘の3曲だったようでした。

 聞けばお母さんも何とか元気なご様子で、いつの日かまたお母さんの前で少しは上達したハーモニカを吹いてあげたいとも思いました。

 人の記憶はあいまいです。昨日のことさえ忘れるようなこの歳になると、3年も前の出来事など記憶の隅に追いやられるものなのでしょうが、山本さんご夫妻が記憶と記録していた写真、それに私の記憶と記録が幸運にも残っていたため記憶は蘇ったのです。民俗学者宮本常一が言っている「記録しないものは記憶されない」とはこのことかも知れません。2010年8月1日のこの記録も、早起きしてブログに書いただけですが記録することによって記憶されることでしょう。


  「久しぶり いきなり楽屋 訪ね来る ご夫妻の顔 思い出しつつ」

  「懐かしき 写真手土産 いただいて ありあり浮かぶ 三年も前」

  「ハーモニカ 吹いて聞かせる したたかさ どんな顔して 吹いたのだろう」

  「握手して 再会約し 分かれたり 手の温もりを 今も感じて」

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○高知県大月町での幡多地域PTA研修会に招かれて

 これまでにも何度か、私の講演に合わせて妻とは少し遠い旅、孫を伴った時は近き旅を楽しんでいましたが、今日は高知県大月町で行われた幡多地域PTA研修会に招かれたため、妻と孫朋樹を伴って出かけました。近くといっても私の町から大月町へは、双海~大洲~宇和島~愛南~宿毛~大月と片道160キロもある県外です。講演は午後1時40分からなので逆算して午前9時に自宅を出発しました。普通だと何処へも立ち寄らず行くのですが、妻と孫が同乗しているため、コンビニや須ノ川公園などに立ち寄り、予定通り12時近くに道の駅大月に到着しました。

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(夏の由良半島)

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(うっそうとした須ノ川公園)

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(公園はキャンパーで賑わっていました。一休みです)
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(道の駅でアメリカザリガニを買ってもらいました)

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(山本さんが勤めている大月町の道の駅)

 詳しくは覚えていませんが2007年6月23日と24日の2日間、大月町役場産業課の山本さんの紹介で、職員組合主催の講演会に招かれ、彼の担当していた道の駅などを見学したり、山本さんのお宅に泊めてもらったことを思い出しながら、昼時だったので3人で道の駅2階のレストランで食事をしました。こんな遠方なのに道の駅の前のお弁当屋さんには堀さんという素敵な女性がいて、私ともう長い間文通をしたりしているのです。今日も立ち寄りましたが嬉しいことに店にいて、忙しく働いている合間を縫って再会することができ、少しだけ立ち話をしました。同伴した孫はお土産までいただいてご満悦でした。

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(PTA研修会会場の参加者)

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(演題の垂れ幕)

 この日の研修会は生活改善環境センターという施設で行われていましたが、メールで送られてきた地図では役場の直ぐ横、電話番号も書かれていたので、地名や電話番号で入力しましたが、残念ながら目的地を見つけることは出来ませんでした。農協の近くということを地元の人から聞きだし、迷うことなく一発で時間前に会場へ到着しました。幡多地域のPTAの役員さんが100人を越えて集まっていました。

 大ホールは外気温が34度という表示の屋外に比べれば冷房がガンガン効いた別天地で、約90分熱を込めてお話をさせてもらいました。午後1時40分からという眠気を催す時間帯ながら寝る人もなく、熱心に聴いていただきました。

 今回の研修会の橋渡しをしてくれた松下先生や、私が来るというのでご夫婦で公演を聴きに来て頂いた山本さんご夫妻と懐かしい対面をさせてもらい充実した一日でした。


 孫は道の駅でアメリカザリガニを5匹ほど買ってもらい上機嫌でした。自宅から持参した冷やしたお茶も水もクーラ-ボックスから取り出して、クーラーボックスに替わりに「ザリガニが暑さで死んでしまうから」とさっさとザリガニを非難させました。孫にとってアメリカザリガニはアイドルなので仕方ないのですが、判るような気もするのです。

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○梅の土用干し終わる

 梅の産地である砥部町七折から、梅の土用干しの話題が新聞やテレビで届くようになりました。土用といえば太平洋高気圧が張り出し、一年中で最も天気が安定した暑い季節です。わが家でも毎年この頃になると梅干の土用干しを行っており、力仕事なものですから当然私の仕事と認知され、汗をかきながら干したりひっくり返して万遍に干したりする作業を繰り返しました。

 昨日の夕方3日3晩の土用干しが終わって、やっと梅干を本漬けするところまでこぎつけました。その間雨が降り出して間一髪雨は合わなかったものの、2回も雨宿りを余儀なくされました。傍で見ていて体力に自信のない親父からは「雨が降るかも知れないからしまうように」とか、妻からも同じような指摘を再三受けて何度も迷いました。今になって天気予報の読みが甘かったと少々悔やんでいますが、それでも昨晩何とか瓶や壷に入れて事なきを得ました。

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(土用干しの終わった大量の梅干)

 後は塩もみした赤シソを梅干の上に乗せ、梅酢を入れて冷暗な地下室へ収納し、熟成させる作業が残っていますが、赤シソと梅酢の作業は妻の仕事なので、私はそのお手伝いなのです。

 先日わが家を訪れた人が土用干しをしている大量の梅干を見て、「これは販売するのですか?」と言われました。「いえいえ自家消費用です」と答えると、「えっこんなに?」と二度ビックリです。確かにこの量は尋常ではありません。でも親類や子どもたちにおすそ分けしたり、料理に入れたりして使うとこの量で、も一年間で消費してしまうのです。特に2年生の孫朋樹は梅干が大好きで、来る度に梅干の入ったおにぎりを妻にリクエストするのです。朋樹はこの二日間梅干の裏返しや土用干しも感心するほど手伝ってくれました。


 私も梅干が大好きで、一日に一個は必ずと言ってよいほど食べます。塩分が気になりますが、わが家では塩分を控えめにして漬け込む時、樽の中へビニールの袋を入れ、焼酎を振り撒いてビニール袋の口を閉めておくことで防カビを実現しました。まだ10パーセントには至っていませんが、限りなく10パーセントに近づけるよう頑張っているところです。

 梅干や梅酒、大根の漬物など自家用保存食作りも、私の退職で妻の仕事を多少手伝うようになり、スムースにことが運んでいます。今は味噌作りも休んでいますが、そのうち味噌作りも復活したいと妻に言うと、妻はあの重労働が頭にあるのか否定的です。じわじわと攻めて、味噌作りをしたいと思っています。


  「大量の 梅干できて ホッとする 料理に重宝 美味しいですよ」

  「遺伝かな 梅干好きな 孫朋樹 今朝も一個の 梅を平らげ」

  「土用干し 終わると夏も 本番で せみの鳴き声 朝から賑やか」

  「喰えるのに クエン酸とは これいかに 孫と駄洒落の 朝を迎える」

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○ミツバチ蜂蜜採集③

 巣箱から蜂蜜の詰まった巣を取り出す作業をしたり、ミツバチが途中で巣箱から出たのを捕まえたり、また蜂に刺されたりと、昨日は蜂蜜採集にまつわる色々な出来事で一日を費やしました。その名残で今日は採集した巣を細かく切って、私専用の蜂蜜を取るための道具を持ち出して採蜜を始めました。

 今年は天候不順が災いしているのか蜜の量がかなり少なく、重箱型3号巣箱と馬路村型2号巣箱で、残念ながら1章にも届かないようで少しがっかりしました。昨年は1つの巣箱で4升も採れたこともあって、期待が大きかっただけに落胆は蜂に刺された右手にもずしりと響き、パンパンに腫れ上がった腕をさすりながら炎天下の作業は少々堪えました。

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(右手首下が赤く腫れています)

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(馬路村の木下さんから教えてもらって作った蜂蜜を採る道具)

 幸いなことに今年はまだ1号巣箱と4号巣箱、それに家の直ぐ裏に設置した5号巣箱が健在なので、お盆ごろまで様子を見て採蜜の判断をしたいと思っています。また昨日採蜜した2号巣箱も、3号巣箱も今のところ昨日から営巣活動を始めたようなので、越冬させて来年に備えたいと思っています。

 そのため、松山から夏休みで遊びに来ている孫朋樹と二人で、昨日に続き井上さんの助言どおり50パーセントの砂糖水を昨日と今日巣箱に入れてやりました。昨日入れた砂糖水は完全に飲まれて空だったので、効果があったものと思われます。

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(重箱型から馬路型に変わった3号巣箱にも砂糖水を与えました)

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(孫朋樹は蜂の巣の様子を不思議そうに観察していました)

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(家の裏山の巣箱も沢山のミツバチがたむろしていました)
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(裏山の巣箱の中も順調のようです)

 何はともあれ第一回の採蜜作業は井上登さんのご指導を得て終わりました。昨年より少しだけ進化して、採蜜作業中に逃亡を企てた蜂の大群も古巣へ連れ戻すことが出来てホッとしています。そして既に越冬する予定のミツバチも確保して、来年への期待が膨らんでいるところです。

 掃除の時巣箱の中をデジカメで撮影して様子を伺う度に、数え切れないほどのミツバチが昼も夜も休まず働いている姿に深い感動を覚えるのです。これまで働き者と自負していた私の働きなど、ミツバチに比べたら月とスッポンなのです。これからもミツバチを見習い精進したいと思いました。


  「手が腫れて それでも作業 続けたり 働き者の ハチにあやかり」

  「蜂の巣は どうして六角 なのだろう 孫の質問 答えられずに」

  「いい人に めぐり合いたる お陰にて 蜂の飼育も 順調進む」

  「蜂世界 不思議なことが 多過ぎる 蜂蜜だけが 目的でなし」

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