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○長崎の鐘をハーモニカで吹く

 昨日8月9日は65年前、長崎に原爆が投下された祈りの日でした。同じ原爆の被害を受けた8月6日の広島とはどこか違うものを感じながら、僅か4日間しか違わない日々を、戦争について色々考えさせられました。広島は平和公園原爆資料館と焼け爛れた世界遺産原爆ドームを見ただけで原爆の恐ろしさを体感できますが、長崎は力強い北村西望作平和の像や長崎の鐘に象徴される祈りの街の感じがするのです。一方ではオリンピック招致を目指す100万都市の力強さを強調する広島市長と、銃弾に倒れた後を引き継いだ長崎市長とでは、同じ核廃絶を訴えてもどこか違う気がするのは何故でしょう。

 8月9日11時02分、最初の標的は北九州小倉だったそうですが、小倉地方の天候が悪く長崎に変更されるという悪運に見舞われた長崎に、広島に続いて2発目の原爆が投下されました。地獄絵を見ているような惨状や、その後の後遺症は広島と同じだと広島原爆資料館を頭に描きながら想像できますが、私の心に残っている長崎は、やはり藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」という歌詞とメロディーなのです。

 昨日は所用で松山へ行っていて、カーラジオから流れる長崎の平和式典の模様を聞きながら昼過ぎわが家へ着きました。昼食を終え書斎に入りパソコンのスイッチを入れ、ヤフーで検索して「長崎の鐘」の歌詞を探しプリントアウトしました。

「長崎の鐘」

        サトウハチロー作詞・小関祐而作曲

(歌詞掲載不可のため割愛)

ご存知永井博士を歌った歌ですが、原爆の悲惨さなど何処にも詠われていない歌なのに、長崎の原爆を象徴する悲しみや祈りが込められているのです。私は戦争中に生まれ戦後の窮乏時代に育ち、この歌を聞いて育ちました。成人になってからもこの歌は音痴ゆえに上手く歌えないものの口ずさめるのです。そしてハーモニカを吹き出してからこの曲を練習しましたが、この歌は前半がAmマイナーと後半Aマイナーの2本のハーモニカを併用しないと吹けないのです。幾ら練習しても吹けなかった難曲でしたが、2本のハーモニカを手に入れてからはどうにか吹けるようになりました。

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昨日はハーモニカを木になるカバンから取り出して書斎で一人吹いてみました。プリントアウトした歌詞に楽譜はありませんでしたが、体感音楽とでも言うべきメロディーはある意味物悲しく私の心を打ちました。昨年講演で長崎を訪ねた時も平和の像の前で恥も外聞も無く「長崎の鐘」をハーモニカで吹いて鎮魂の祈りを捧げましたが、この歌を聴く度吹く度に長崎の原爆を思い出すのです。

私の年齢と同じ65年を経た長崎原爆の日、私は私の人生の続く限りこの歌を忘れず口ずさむことでしょう。平和への祈りを込めて・・・・・。

「長崎は 祈りの歌の 懐かしく 鎮魂願い ハーモニカ吹く」

  「天候の いたずら小倉 免れて 長崎悲劇 今も尾を引く」

  「長崎の 鐘という曲 忘れまじ 生きてる限り 歌い続ける」

  「核の無い 日本にしたい 思えども 安保傘下 アメリカ意識」 

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○伊能忠敬の地図と面会③

 しおさい公園の体育館に子どもたちと一緒に入りました。二階からフロア全体に敷き詰められた大中小の伊能図を見ましたが、見学者が小さく見えるほどの圧巻でした。順路に従って一階のフロアに降りましたが、黒山のような人だかりはやはりご当地愛媛県付近でした。参加した人たちは自分にまつわる場所を見つけて座り込み、写真に収めたりしていました。私たちのような古い人間には昔の地名はとても懐かしく感じられましたが、子どもたちにとっては大字や小字の地名は縁遠く、質問の都度説明をしてやりました。会場には黄色い帽子を被った説明する顔馴染みのスタッフもいて、地図の勉強にぴったりでした。

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 体育館フロアの周りではパネル展もあって、ビデオコーナーでは見学疲れの参加者が休憩を兼ねてビデオ放映に見入っていました。

 今年は伊能忠敬が測量を始めて210年の記念すべき年だそうです。伊能忠敬は足がけ17年で日本全国をくまなく歩きこの地図を完成させました。江戸幕府に提出された伊能図は明治6年皇居の火災で全て焼失したようですが、10年前頃から熱心な研究者の手によって伊能図の副本・摸写が日本国内や遠く海の向うのアメリカで次々と発見され、大図・中図・小図全てが原寸大で展示されているのです。しかもその地図の上を自分の足で歩いて見えるという大胆な展示方法はとても新鮮に感じました。

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 江戸中期、上総の国小関村(現千葉県九十九里浜町)に生まれた伊能忠敬は、隠居をしたのを機に50歳を過ぎて江戸に出て、幕府天文方高橋至時に入門して測量技術を学び、全国測量という偉大な仕事を成し遂げましたが、測量技術の整っていない江戸期にこれほど正確な地図を作っているのですから驚きです。

 大器晩成、しかも目的を完遂した体力と信念は、華やかな政治経済の表舞台で紹介していないだけに全てがミステリーで、とても興味の持てる人物なのです。一度ゆっくりと偉人伝の裏に隠されたその生き方を書物などで勉強したいと思いました。

 双海町とも縁の深い伊予市灘町の宮内邸に当宿していることもあって、益々身近な人となりました。

 関門海峡、北方領土、間宮海峡、樺太、津軽海峡、瀬戸内海の島々などなど、興味を持った場所を次々と巡りながら、1時間余りのフロア展見学を終え、一緒に歩いた人たちと迎えのバスに乗って双海町まで無事帰りました。


 追伸

 伊能図フロア展では、佐田岬半島の方々や松山の人など、中日土曜日の午前中でしたが、様々な知人友人に出会いました。中には10数年ぶりの人もいて、地図上で楽しいおしゃべりをしました。


  「久々に 老いても生きる 生き方を 伊能忠敬 扉開けぬ」

  「日本には 偉大な人が いるものと 少し誇りの 気概見つける」

  「あっあった 地図上座り 子どもたち 自分の町を 見つけ歓声」

  「生きるには 遅くは無いが 遅いかも 胸は躍るも 凡人ゆえに」

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○伊能忠敬の足跡をたどる小さなウォーキング②

 双海町高野川から伊予市森の海岸まで真夏の道を歩く途中で、かなり大規模な土砂崩れの現場を通りました。崩れた土砂が海まで迫り、倒れた木々が行く手を阻んでいました。私道や県道、国道であれば完全に通行止めで新聞沙汰になるのでしょうが、訪れる人も殆どいない自然海岸なので、このまま風雨にさらされ、理科の教科書に出てくる、谷や渓谷の成り立ちのような運命を辿るのでしょう。

 横倒しになった木々の下をまるで障害物競走のようにくぐり越えると、向うに目的地である森の海岸やしおさい公園の体育館の屋根が見えてきました。

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 一行は影を選んで3回目の給水休憩を取りました。真夏の暑い時期なので熱中症にでもなったら大変と、一般参加で同行した井上保健師さんの助言を得ながら休憩し、記念写真を撮りました。竹田一男さんや若松良樹さんなど高齢者教室参加の皆さんも元気に歩いていただきホッとしました。

 歩いたメンバーの中には年輪塾や史談会で一緒に学ぶ松本さんや中尾さんもいて、色々なことを話しながら歩くことが出来ました。

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 やっとたどり着いた森の海岸には県指定天然記念物埋もれ木の存在を示す看板がありましたが、この埋もれ木が1500万年前のものであることに子どもたちは驚いた様子でしたが、そこから体育館まではまだ少々距離があるため、教育委員会の配慮で小さなマイクロバスをピストン輸送して乗せてもらい、冷房の効いた体育館の中へ揃って入りました。

私たちは伊能忠敬の足跡を訪ねるだけのウォーキングでしたが、伊能図を見に来ていた他の人よりもはるかにいい経験をさせてもらいました。会場では実行委員長で双海町出身の武智利博さんや、双海史談会の磯田会長さん、事務局の門田さん、岡崎さんなどとも出会い、早速伊能図の上を靴下のままで歩かせてもらいました。

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  「空青き 真夏の浜を 黙々と 2時間弱で 一万(歩)近く」


  「崩れたり 谷が出来たり 繰り返す 自然営み 目の当たりしつ」

  「高齢者 元気に歩く 姿見て 俺もまだまだ 弱っちゃならぬ」

  「携帯に ついた万歩の 数を見て 意外少なく 少々気落ち」

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○伊能忠敬フロア展①

 何ヶ月か前、伊予文化協会の会長である門田真一さんから、伊能忠敬の測量した地図の展示会を伊予市で行う話を聞いていました。また双海史談会でも伊能図に関する研究者を招いた学習会があり、四国で初めて伊予市のしおさい公園体育館であるフロア展を楽しみにしていました。

 フロア展は8月6日から8日までの3日間でしたが、青少年を対象にしたおもしろ一日大作戦でも、高齢者教室とタイアップして、高野川から伊予市森まで伊能忠敬が測量のために歩いたと思われる海岸線を、歩いてフロア展を見に行こうと、二日目の7日にその小さなイベントが行われました。

 日本列島全体が猛暑日を記録するような日のイベントなので、高齢者の殆どはバスで直接しおさい公園まで行きましたが、子どもや大人が約30人約一時間半をかけて高野川から森の黒磯海岸を汗をかきながらひたすら歩きました。

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 三秋峠の現在の道が通じていなかったころは、私たちの町から松山方面へ行くのには海路か海岸線を徒歩するしか方法がなかったのです。私の親父など固陋の話を聞くと修学旅行は松山方面でこの海岸の道を一泊二日で歩いていったとのことでした。

 今は道路の立ち退きで無くなった旧海楽園の表の海岸に降りる急な道を通って、渇水期で水の少なくなった高野川川を渡り9時半頃一行は海岸に出ました。この日は運よく潮が引いていて、所々生い茂った雑草や雑木が作る木陰浜部分を利用しながら進みました。午前中といいながら夏の日差しがきつく、汗をかきながら時々休んだり、時には素人ながら私が沖合いに浮かぶ島々の話や、海岸の埋もれ木などの話をしながら、極力楽しく遊びながら歩きました。

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 中でも愛媛県の天然記念物になっているメタセコイアの化石の露出した部分を囲んで改札学習をしたりしましたが、海岸の所々は地すべり地帯ということもあって、今年の梅雨の雨で崩落を繰り返していて、その土分が海岸に流れて海の水を茶色く濁らせていました。土分が海に流れ込むと貝類や海藻類に甚大な被害をもたらし、時には死滅することだってあるのです。

 また扶桑木(メタセコイア)の化石も露出風化や土分によって埋没して、手だてもせず放置されたままになっていました。このままだと残念ながら貴重な資料がなくなる危険性もあるようです。

 海岸は生息する動植物や流木をはじめとして見方によれば結構面白いものです。何かに似た石や流木を見つけて歓声をあげましたが、最後は手段の列が一際長くなり、森に到着したころは少々バテ気味でした。それでも貴重な体験をしたと参加者は一応に皆さん喜んでいたようです。


  「その昔 父母の歩いた 海岸を 猛暑汗出し 一歩一歩と」

  「海岸線 伊能忠敬 測りつつ どんな思いで 歩いたのだろう」

  「足元を 見れば炭化の 埋もれ木が 興味津々 暑さ忘れて」

  「あの島も この島だんだん 形変え 私の横を 同じ速度で」

 

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○蘇り胸うずく8月6日8時15分

私は1944年、昭和19年10月3日に生まれました。私が生まれた10ヵ月後、日本はポッダム宣言を受諾して敗戦を迎えました。その引き金になったのは人類の歴史上初めて日本に原子力爆弾が投下され、多くの犠牲者を出した広島・長崎の忌まわしい惨状だといわれていますが、私の年齢と同じく65年経った今も核爆弾はこの地球上に存在し、その脅威におののきながらも人間は暮らしているのです。

 オバマアメリカ大統領のプラハ演説が引き金になって、軍縮や核拡散への期待が高まり、今年の広島平和式典にはアメリカ駐日大使や国連事務総長も姿を見せたものの、出席して非核三原則をこわくぁかに叫んだ日本の菅首相はその2時間後、秋葉市長の核の抑止力傘下方針の離脱を訴えた秋葉市長の平和宣言をまったく無視するように、記者会見で抑止力を強調する迷走ぶりは、この65年間に出来上がった日米暗黙の信頼構図が、そうおいそれとは崩せない胸のうちを物語っているようです。

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(母の背中でキノコ雲を見たであろう、下灘豊田下浜から、8月6日8時15分、水平線の向うに広島を望む)
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 私は戦時中生まれの65歳といいながら戦争を知らない世代です。でも戦争中に母親のお腹に身ごもり、覚えていないといいながら10ヶ月も戦時下で生き、敗戦後の物のない時代に育っているのですから、自分の人生における基底的なスタート部分ゆえに胎教や感化を受けているに違いないのです。

 母親の背中に負われて私は8月6日の朝を迎え、伊予郡下灘村下浜豊田の海岸で対岸にアメリカ軍の爆撃機エノラゲイから投下後発生した原爆のキノコ雲を見ているのです。キノコ雲が原爆だとは直ぐには気がつかなかったものの、その日のうちに村中が大騒ぎになったと母親は、少し大きくなった私に語っていたのを思い出すのです。ゆえに私の体の中の潜在能力そうするのか、毎年8月6日の8時15分が近づくと頭の中に当時の悲惨な惨状が蘇り、まるで金縛りに合うような錯覚になるのです。

 私でさえこうなるのですから、原爆に遭った人たちの心の傷は癒えるどころか、死ぬまでその恐怖は付きまとい恐怖におののくのは当然なのです。

 平和式典は一種セレモニーのように見えますが、不戦や平和、反核の誓いでもあります。正解唯一の被爆国日本がノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキをスローガンに、今こそその先頭に立って国を挙げて世界をリードしてゆかねばならないのです。その先頭はやはり日本国首相のリーダーシップだと思うのですが、アメリカの抑止力に甘んじるなと当時の自民党政権を厳しく糾弾し続けてか政権を奪取した民主党ですら、秋葉市長の平和宣言を踏みにじるのですから、政治への期待は無意味なようにも思えるのです。

 でも諦めることなく国民運動の勢いを強め、次の世代に核を引き継がせない強い意志を持つべきと、秋葉市長の平和宣言を聞きながら今一度心新たにしました。今年の救いはアジア韓国から選出されている国連事務総長が初めてヒロシマを訪れ温かいメッセージを世界に向けて語ってくれました。これはオバマ大統領ののように言葉巧みなたった一回の演説で、ノーベル平和賞をもらったことよりも、春賀に価値のある演説だったと思いました。胸うずく8月6日は来年も再来年も、私の人生が続く限り続いて行くことでしょう。

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(8月6日の灼熱の太陽は水平線の彼方に平和の願いを込めながら沈んで行きました)

  

  「一回の 演説だけで ノーベル賞 オバマお前は それでいいのか」

  「毎年の ようにうずいて 胸騒ぎ これも胎教 母の土産か」

  「ことの他 猛暑の多い この夏も 八月六日 姿現す」

「母背中 背負われ見たと 言う雲の 辺り入道 モクモク湧きて」

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○人の縁の不思議を感じました

 人の縁とは不思議なものです。1ヶ月も前西予市役所を退職した薬師寺智彦さんから、宇和町のふれいセンターで人権教育の話をして欲しいと照会依頼がありました。いつもは「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」と洒落ていますが、同和教育や人権教育は中々難しいだけにやんわりお断りしかけましたが、旧友のたっての頼みを断わることもできず受けてしまいました。

 数年前といってももう10数年前の話です。シーサイド公園で海開きの準備をしていると海岸が何やら騒々しいいのです。人が溺れた。人工呼吸、救急車などの言葉が渚で乱れ飛び、一応公園の全責任を負っていたじきでもあったのでことの重大さを知りました。友だちと海に飛び込んだ若い男性が心臓麻痺を起こし仮死状態になったのです。その後はパニック状態の中で救急車搬送、警察への連絡、一緒に泳いでいた友達からの事情聴取、心臓麻痺を起こした親への連絡と、矢継ぎ早の仕事がどんどん舞い込んで、私も大汗をかきながら対応に追われました。

 結果的には心臓麻痺を起こした宇和町出身のこの若者は病院へ搬送する救急車の中で息を引き取り帰らぬ人となりましたが、若者の両親を探し当て連絡に奔走してくれたのが薬師寺さんでした。その後葬式や見舞い、仏事、一周忌に寄付をいただいたことなどなど、相手のご両親と私の個人的な付き合いが始まりました。

 その後お父さんは病魔に襲われ長い闘病生活の末今年の3月息子さんの後を追うように天国へ旅立たれたのです。偶然とでも言おうかその人の弟さんのお嫁さんがふれあいセンターに勤めていて、今回の講演の窓口になっていたのです。

 その方と電話で講演の打ち合わせをする中でお父さんが亡くなったことを知りました。昨日はいい機会だと思い、少し早めに出て三好さんのお宅へお邪魔して亡くなったお父さんの仏前にお参りし、線香を手向けて色々な思い出話をさせてもらいました。お盆が近いこともあって初盆を迎えた白い灯籠が座敷に印象的に飾られ涙を誘いました。

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 奥さんは暑い最中なのにわざわざ会場まで足を運ばれ、薬師寺さんとともに私の講演を聞いていただきました。時代の歯車はどこかで狂い、どこかで噛み合うものだと縁の不思議を感じながら、超満員の参加者を前に90分の講演をさせてもらいましたが、会場には百人一首カルタの第一人者の和気先生や町並み保存で知り合った若い大氣さんも吟舞の一員として参加していて、嬉しい再会を果たしました。

 この日外は猛暑日、そして時折スコールのような雨が降るあいにくの天気でしたが心はポカポカで、センター館長さんの温かい心にも助けられいい思いの一日を過ごさせてもらいました。

 ふれあいセンターまつりらしく入り口には七夕飾りが飾られ、入り口ロビーでは小さなフリーマーケットも開かれていました。


  「縁不思議 まるで芋づる 次々と まるでドラマを 見ているようだ」

  「逝きし人 白い灯篭 走馬灯 初盆悲し 涙を誘う」

  「人権の 話頼まれ 断わるが 断わり切れず 意の向くままに」

  「ああ今日も 人のご縁を いただいて 感謝しながら 心熱くし」


 

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○図書館の中で読書をする二宮金次郎

 一昨日、金融広報委員会からの依頼で松山市立新玉小学校へ、金融教育の進め方について金融広報アドバイザーとして、若い弁護士の森さんと共に出かけました。森さんも今年から私とな滋養に記入広報アドバイザーをしていて、前半輪私が1時間、後段森さんが1時間の予定でお話しするのです。相手は全て物分りのいい学校の先生なので、事前に配られている金融広報委員会発行のテキストを一読されているものと想像し、私は出来るだけ平易なことをお話しました。森さんは弁護士なので青少年のお金に絡んだ事件や事案を元に放されていましたが、はてさて金融教育について飲み込めたかどうか多少不安な気持ちが残りました。

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 学校はただ今夏休み中で、子どものいない学校は散閑としていて、新玉小学校の隅にあるまるで公園のような素晴らしい森の木陰では、児童クラブの子どもたちがセミを追いかけたりサッカーボールを蹴ったりしながら遊んでいる様子が窓越しに見えました。

 猛暑日だったこともあって、研修会の会場は冷房の効いたパソコン教室が使われましたが、私も森さんもパソコンは使わず話をしたため、机の上に並んだ文明の力も手持ち無沙汰のようでした。私たちのような古い人間には想像もつかないようなこんな立派な道具を使って子どもたちは小学生の頃から勉強するのかと、感心しながらある部分は羨ましく、ある部分は詰め込み教育を気にしながら2時間余りを快適に過ごしました。

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 研修会の席で質素倹約を旨としながら生きた二宮金次郎の話をしました。話の中に出てくる二宮金次郎の銅像について先生たちに聞いたところ、この学校にも二宮金次郎の銅像があることを知りましたが、やはり二宮金次郎が「何の本を読んでいるか?」の質問には答えられなかったようです。

 驚いたことにこの学校の二宮金次郎の銅像は虹の図書館という別棟の部屋の中にあるそうなので、後学のために見せていただきました。察するに学校改築の折屋外から一時避難移動したまま、図書室の隅に置かれたのだろうと推測する銅像は痛みもなく、図書室の一員として本を読み続けているようでした。

 忘れられたゆえに図書室という最も環境の良い図書室で、子どもたちと一緒に日々読書にふける二宮金次郎の銅像は、本に書かれた中国の古書大学の一節も身近に判読が出来て、これはこれとして素晴らしいと思いましたが、ご多聞にもれず大学の一節は残念ながら先生も子どもたちも、教育の範ちゅうにはなかったようなので、手持ちの文章をコピーして置いて帰りました。

 最近ものやお金が豊かになったせいか、親の金銭教育感覚が鈍り、ものやお金を与えることが子どもの幸せだと勘違いしている人が多いようです。子どもの時代に家庭で親がしっかりと金銭感覚を見につけさせていないために、様々な問題が起っています。基本的には子どもの金銭教育は家庭教育の範ちゅうなのですが、学校教育でお金の使い方をフォローしなければならないところに、現代の悩みの深さを感じるのです。

 二宮金次郎の銅像からの学びはある意味金銭教育の最もいい教材だと思っていますが、はてさて現代の学校の先生たちに伝わったかどうか・・・・。


  「金次郎 図書館住まい 面白い ただの置物 ならぬようにと」

  「先生に 教えることは 難しい 子どもの方が 教え易いな」

  「パソコンが 置かれた部屋で 使わずに あえて黒板 使い説明」

  「夏休み 学校らしさ 感じつつ 児童クラブの 子らを窓越し」

 

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○五行歌の歌会に参加

 私は生来の無骨者にて、音楽や絵画などを楽しむ趣味の世界は知りません。ましてやゴルフをするような暇と金もなく、もっぱら地域づくりやボランティア活動の分野で生きてきました。そんな私の周りには絵や音楽、焼き物などに堪能な人が沢山いて、いつも羨ましく思っていました。最近になってその友人知人の中でも、羨ましいほど多芸に秀でた水産高校の先輩玉井恭介さんから、「五行歌の会に参加しないか」とお誘いがありました。私は無趣味が趣味でそんな風流なことをする暇も金もないと一度は断わりましたが、「私が年会費は立替払いしとくから、月に一度作品を送るよう」にとむしろ半強制的に入会させられました。私は立替払いの年会費のことが気になって3度も玉井さんの家に出かけましたが、3度目の正直も実らず未だに借金していて、昨日もあいにく貧乏人なのに1万円札しか持ち合わせがなく、お釣りがない玉井貧乏人に支払うことも出来ずまたまた借金して帰ってしまいました。

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(玉井さんの料理した品々と久我先生が持参した太巻き寿司)

 そんな玉井さんから、「あなたの日程に合わすから是非臨時の歌会に参加を」と電話があり、玉井さん宅へ出かけて行きました。昨日は新玉小学校で金銭教育の会議があっての帰りでしたが、少し時間が早かったので地域政策センターへ立ち寄ったり、息子の家で孫と遊んだりして少し早めに玉井さん宅へ到着しました。

 玉井さんは昔人間にしては器用な方で、私たちを振舞うためにうどんや野菜サラダ、ナスやオクラの南蛮漬け風などなど、自分で美味しい料理を作っていました。料理は作るにあらず食べるものと決め込んでいる私に玉井さんのかいがいしく料理する姿は羨ましくも思えました。

 やがて歌会主宰者の見山あつこさんと北条で耳鼻咽喉科の医院を営むお医者さんの二人が見えられ、四人で楽しいおしゃべり食事が始まりました。玉井さんの作ったぶっかけうどんも絶品で、お医者さんが持ってきた太巻き寿司も大いに胃袋を楽しませてくれました。

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(五行歌の句会を楽しむくが耳鼻咽喉科の久我先生と玉井さん)

 見山さんの進行で歌会は始まりました。前もってメールで送っておいた提出九句が打ち直してコピーされていて、審査表と一緒に配られました。5点の持ち点を自分の投句以外の優秀句と思われる3首を選んで加点しました。採点票が集められ一句一句門名が批評し合うのです。

 私の句も未熟な句のため一刀両断鋭い指摘を受けました。なるほどとみんなの批評を聞きながら、良い勉強をさせてもらいました。

 昨日の句会で楽しみにしていたのは、見山さんとの出会いでした。月に一度駄作な欠席句にもきちんと批評文を添えて送ってくださっているのです。私は始めての出会いだと思っていましたが、何年か前ラジオの番組で出会ったことがあるそうですが、想像以上に素敵な方でした。また同席したお医者さんともライオンズクラブでお話をした私の話を聞いたことがあるそうで、すっかり親しみやすく先生と意気投合してしまいました。

 いい句会に参加させてもらったことを玉井さんに感謝しながら、蒸し暑い我が家へ帰ってきました。

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(句会を指導される松山五行歌会の見山あつこさん)

  「柄になく 句会参加の 自分見て どこかお澄まし 思わずニヤリ」

  「逢いたいと 思った人に 会えました 描いたとおり いやそれ以上」

  「テキパキと 寸評グサリ まな板の 上に乗せたる 駄作調理す」

  「一芸に 秀でる人は 多芸にて 料理絶品 胃袋たまげ」

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○エネルギーと瓦の町旧菊間町へ出かけました

 一昨日現今治市、旧菊間町へ出かけました。菊間町といえば瓦とエネルギーの町として有名でしたが、今治と合併してからは、菊間町としての名前が今治市に少し埋没したのか、合併前ほど情報が伝わってこないようです。それでも町の中を走ると沿道には瓦の製造工場の看板が立ち並び、太陽石油がSORATOとガソリンスタンドの名称を変えたものの、太陽石油の石油プラントが海岸沿いに立ち並び、どこか活況を呈しているのは、企業城下町の恩恵かも知れないのです。菊間駅の背後には瓦をイメージした立派な講演がありますが、少しアカデミックすぎて人を集め切れていないのも昔のままで、ある部分変わらないことにホッとするのです。

 私は菊間町へは何度も足を運んだ頃がありました。松尾という地区に渡部さんや石川さんという役場関係に勤める友人がいたため、年に一度か二度講演と呑み会をセットにしてよく招かれたものです。そんなご縁もあって元町長の白石さんとも入魂にさせてもらっていましたし、菊間の伝統行事お供馬の走り込みにに使う馬をわざわざシーサイド公園の海開きに招待し、日本の弓フェスティバルなどをして大いに独自性を出したことも懐かしく思い出されるのです。

 そんなこんなで知人友人も多いのですが、今回はJA今治菊間支所のかんきつ生産者大会の記念講演に招かれたのです。菊間町松尾出身の農協マン渡部部長さんとは25年来の友人ですが、これまでの大会は柑橘の専門家や市場関係者の話を聞くことが殆どだったようですが、渡部部長さんの肝いりで、元気の出る話をして欲しいとのご依頼でした。

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 この日は「午後1時30分から総会が始まり、1時間位したら終わるので2時半から」とう約束でしたが、総会が30分も延びてしまい、講演が始まったのは3時からでした。その分30分時間延長をしてもいいとお許しをいただき、お話をしっかりとさせてもらいました。

 講演はハプニング続きで、講師紹介で「役場のあがり」と紹介されてのっけから大爆笑、持参した電光掲示板はノーサイン、途中ワイヤレスマイクが電池切れでオーバーヒートと、綱渡りのような講演でしたが、さすがみかん所の参加者は熱心でした。

 会場には顔見知りの人も沢山いて講演終了後お声を掛けさせてもらいました。お土産にせとひめのオレンジジュースを一箱いただいて帰りましたが、渡部部長さんが自慢するだけあって、糖度13以上の果実を絞ったという美味しさは格別でした。

  「合併で 随分変わった 町へ行く 人の人情 だけは変わらず」

  「俺元気 馬も元気と 若者が 昔話に 花を咲かせる」

  「このジュース 持って帰れと 手土産に 自慢するだけ あるな美味しい」

  「講演の 途中マイクが ヒートする 俺の熱話に 当てられたのか」 

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○百歳以上のお年寄り

 百歳を越えたお年寄りが東京のある家庭でミイラ化して発見され、そのことが引き金になって地方自治体が調べ始めたところ、あちこちで所在不明の高齢者が相次いで、ちょっとした社会問題に発展しているようです。対処法とでもいうべきでしょうか地方自治体は何かなければ動かない実態も見えてきました。人間が生まれれば出生届、死ねば死亡届で人生は終わるのですが、その間未開地に住む人ならいざ知らず、税金や年金など生存すれば日本人には必ず義務と権利を行使するようなシステムになっていて、百歳を越えてもチェック機能が働くはずなのにこの失態は、行政の怠慢だとしか考えられないのです。

 百歳を越えた人の所在が分からない自治体が責任回避とでもとれるように、相次いで記者会見をして責任者のような人が薄い頭をより低くして、詫びている姿をニュースでよく見かけるようになりました。多分記者会見の前の隣の部屋では、「私の責任ではないが一応頭を下げて、断わるそぶりをしないとマスコミに叩かれ、市民に叩かれるからこの場は平身低頭に・・・」なんて打ち合わせをして会見に臨んでいるような、そぶりも見え隠れするのです。

 百歳を越えれば人間は先祖返りするように幼稚化すると言われています。つまり自分の意思で生きて行くことが困難になって介護が必要となるのです。そのため若い頃から介護保険に加入し、介護保険料を納めてその時期に備えるのです。ところが介護の現場は必ず身の近い子どもや親族がかかわるため、周りの人たちの意思の相違によって、高齢者の人生は翻弄されてしまうのです。


 介護能力のある家庭の高齢者が特老に入り、介護が本当に必要な人が特老に入れないといった矛盾や不満の声を、かつて役所に勤めていただけに、不平や不満の矛先としてぶつけられることがよくあります。その都度問い合わせたり相談に乗ってあげるのですが、自分の非力を嘆くこともしばしばです。

 東京都知事は消えたお年寄りのことを聞いて、まるで幽霊現象だと言っていますが、強権で知られる東京都知事なら、もう少し行政の怠慢責任を明らかにするような言葉が欲しいとテレビを見て感じました。

 行政の怠慢は芋づる現象です。多分他の自治体に遅れまいと百歳以上の高齢者の安否確認が始まっていますが、芋づるの先にはとんでもない事実がどんどん出てくるようです。結局は芋づるの先にある親芋にたどり着かなければ、その原因も対処法も分からないのでしょう。


 長寿を喜ぶ時代は終わったようですが、せめて人生の仕上げをもっと大事にしてあげるような、心の豊かな国日本になって欲しいと願っています。やがて自分も行く道だからだけではないのです。

 今朝親父の隠居へいつものようにご機嫌伺いに出かけました。お年寄りの所在が分からなくなっているニュースを話題にして色々なことを話しました。このところ私が努めて親父に接近していることを嬉しく思うのか、私の息子たちにも早くこの家で一緒に住むように勧めてくれました。

 昨日は扇風機と電子レンジが傷んだと、伊予市の電気屋さんに出かけて扇風機を買い、電子レンジは解凍と温めのスイッチミスで事なきを得たり、親父と付き合っていると色々なことがあるようです。まあこれも息子の仕事、親孝行だと思って身の回りの世話をしたいと思っています。


  「百歳を 越えた老人 幽霊に 日本列島 慌てふためく」

  「芋づるの ように次々 明るみに 行政怠慢 頭を下げる」

  「老人を 大事に出来ぬ この国は 今に沈没 するかも知れぬ」

  「エジプトの 話しと思う ミイラ人 豊かになりて 人もかまわず」


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