shin-1さんの日記

○66回目の誕生日

 高齢になると、何だか誕生日が来るのが憂鬱になるそうです。「ああまた一つ歳をとってしまうのか」と、殆どの人が思うそうなのですが、若い頃はこんな話を聞いても「俺はそんなことを思わないだろう」と思っていました。しかし自分が実際にその歳になると、加齢の重みはまるでボディーブローのようにずっしり心に響くのです。比較的ポジティブに生きる私がそうなのですから、ネガティブな人や女性は思わず自分の顔を鏡に写し、そう思うだろうなあと推察するのです。

 わが家は親父が9月1日に92歳、妻が9月12日に65歳、私が今日66歳と、この一ヶ月で3人が1歳ずつ歳をとって高齢化社会真っ只中です。ゆえに親父のこれから、妻のこれから、勿論66歳になった私の将来をどう見据えるか、いよいよ正念場となってきました。

 昨日私の元に2通のハガキが届きました。一通は元県議会議長を務めた俊成薫さんからです。俊成さんとは若い頃ひょんなことから知り合い、もう20年間も切らすことなく私の誕生日に達筆なお便りが毎年届くのです。俊成さんには私たち21世紀えひめニューフロンティアグループの活動として行っていた「無人島に挑む少年のつどい」で子どもが事故に巻き込まれた時、海上保安協会の会長として尽力して助けていただいた恩があるのです。その後双美町でウォークラリーをやった折も沢山の人を送り込んでいただきました。今は政界を引退しておられますが、日中友好奉賛会会長や県木材協会長などをして幅広くご活躍をされているようです。

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 もう一枚素敵なハガキが届きました。ハガキの友だちである高知県大月町に住む高校事務職員の掘充恵さんからです。女性らしい手づくりのハガキにはバーズデーケーキと花束をあしらったカットが添えられ、嬉しい祝詞となりました。高知新聞の記事を引用して、「田んぼの肥やしは人の足音」という格言を送っていただきました。

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 人にはそれぞれ誕生日があって、誰しも同じように一年に一回その日を迎えるのです。私も早66回目の誕生日を迎えました。掘充恵さんが書いている通り「素敵な一年の始まりになりますように」と思えば、今日は66回目の一年の始まりなのです。また俊成薫さんが書いているように産み育ててくれた父母への感謝に合掌し、健康と多幸を祈る日と考えれば、まさに今日は一年の中で最も大切な一日だと思わなければならないのです。

 今朝妻が、「あなた誕生日おめでとう」と言葉をかけてくれました。歯の浮くような言葉ですが最も身近な人からの祝福を「ありがとう」と甘んじて受けました。娘や息子がプレゼントをくれたし、長男の嫁は何処で捜し求めたのか、「進一」「繁子」と名前入りの夫婦箸をプレゼントしてくれました。少しボケてきて自分の箸が分からなくなっても、この箸なら迷い箸にならないと大笑いをして貰いました。

 ここまで書いていると、携帯電話のメール受信音が急に鳴り出しました。メル友の青木晴美さんからです。「66回目の誕生日おめでとうございます。また一年若松さんらしく、元気に過ごして下さい」とのメールでした。ありがとう皆さん。

  「重ねたり 六十六度の 誕生日 目出度くもあり 目出度くもなし」

  「世の中に 私気遣う 人がいる 嬉しいことと 素直喜ぶ」

  「一枚の ハガキ嬉しや 誕生日 今日は朝から そわそわしきり」

  「ボケてから 使えるようにと 名前入り 箸を贈られ 思わずウフフ」

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shin-1さんの日記

○忙しい一日

 長い付き合いの久万町の渡辺さんから、「今度愛媛県に赴任してきたキャリアの人がどうしても海の近くの町を訪ねたいというので、双海町とあなたを推薦しました。是非よろしくお願いします」と電話が入りました。おっつけその方から電話が入り、「土曜日の10月2日午後4時、シーサイド公園で待ち合わせ」することにしました。

 私はこの日先約があって旧丹原町、西条市中川公民館の講座に招かれていたので、まず午後1時から始まる講演をこなさなさなければなりません。前日そのことをかぎつけたちろりん農園の西川さんからも電話が入り、「あなたの話を夫婦で聞きに行きます」との連絡を受けました。折角だから西川さん宅へ立ち寄ろうと早めに家を出て12時近くに西川さん宅に到着しました。西川さんとはもう20年来の深い付き合いで、彼が私を勝手に「ししよう~」と呼んだり、彼の出版した「晴れときどきちろりん」という本の序文を書いたりしているのです。

 彼が自宅横にゲストハウスを造った時、私たち夫婦はお祝いに叔父に書いてもらった「第二縁開所」という看板を持参してお岩煮に駆けつた間柄なのです。何年かぶりで久しぶりに訪ねた第二縁開所は随分使い込まれ、芸予地震で隙間が出来たと聞いていた壁も綺麗に修復され、ドラム缶をはめ込んだ簡易な囲炉裏も造られていました。西川さんは連絡どおりあいにく留守でしたが、奥さんにお茶を入れてもらい少しの間積る話をしました。

 カーナビで探し当てた中川公民館は直ぐに見つかり、女性職員と講演直前まで楽しいおしゃべりをしました。やがて2階のホールに50人を越える人を集めて講演が始まりました。終始笑いに包まれ居眠りする人もなく1時間30分の講演を無事終えることが出来ました。

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 最初は小松インターから高速に乗る予定でしたが、桜三里を通って川内インターから乗った方が早いというアドバイスを受けて、そのとおり進みました。桜三里の追い越し車線はスピードが出るのですが、取り締まり重点区間なので自重気味な走りました。案の定取締りをしていて何台かの車が捕まっていたようです。

 桜三里を下った頃、約束していた方から電話が入り、二名で伺うはずの東京からのお客様がホテルに到着しないので少し遅れるかも知れない」と電話が入り、3時40分頃にはシーサイド講演に帰る予定だったタイムスケジュールに少し余裕が出てきました。

 自宅に帰ると急いで普段着に着替え妻と二人で連絡を待ちました。昨日は東京からのお客さんが女性だと聞いていたので妻も同伴することにしたのです。相手の女性は飛行機に一便乗り遅れたそうですが何とか午後4時30分にシーサイドに姿を見せました。

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 早速翠小学校の外観、わが家の煙会所、海舟館、人間牧場と夕闇迫る自慢の施設を巡り、潮路という海鮮レストランに案内しました。双海と私を渡辺さんが指定したということは夕日と魚料理と直感し、レストランの女将さんに事前にその旨を伝えていましたが、鯛、アワビ、サザエ、ウニ、鱧、アマギなどの旬の魚が所狭しとな並べられ、親しく歓談をしながら舌鼓を打ちました。残念ながら曇り空で夕日は見えませんでしたが、幸運にも西の空が焼けて幾分かの夕焼けを見ることができました。2時間余りの会食を終え、女性の方の宿泊先である第一ホテル、そしてキャリアの方の官舎がある持田まで無事見送ることが出来ました。帰りに孫たちの顔を見ようと娘のマンションと息子のマンションを訪ねました。昨日も24時間があっという間に過ぎる忙しい一日でした。


  「退職を したというのに 忙しく 毎日過ごす 楽しきことよ」

  「この町と 私を指名 する友の 心情察し 魚もてなす」

  「寄り添いて 客をもてなし してくれる 妻に感謝の 一日終わる」

  「孫笑顔 疲れふっ飛ぶ 活力に 夫婦ともども 力いただく」

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shin-1さんの日記

○消えたガソリンスタンドの灯

 双海町に4軒あったガソリンスタンドが一軒また一軒となくなり、合田石油店が8月いっぱいで店を閉め、ついに上灘地区にはガソリンスタンドが一軒もなくなってしまいました。昔のような「ガソリンは地元で入れる」という地元依存体質がなくなったため、またセルフや安売りといったガソリンスタンド間の下等競争が激しくなって、松山など近隣市町村のガソリンスタンドを利用する人が増え、立ち入って行かなくなったのです。聞くところによると追い討ちをかけるように地下タンクの更新時期を迎え、塩害対象地域ゆえに地下タンクの埋設更新にはそれ相応の資金的投資が必要らしく、経営者の年齢的な見定めもあって、止む無く廃業することにしたというのです。

 合田石油で給油が出来なくなって約1ヶ月が過ぎました。私たちは松山などに行く機会も多く、自家用車は松山へ出かけたついでに給油できるのですが、単車や草刈機の混合油など、比較的少量のガソリンを必要とする高齢者などは「大変不便になった」とぼやいていました。事実私も単車のように余り沢山ガソリンが入らないものや、草刈機の混合油などは備蓄しなければならないのです。

 耕運機にしても草刈機にしても今までは地元の気安さから、ガソリンをポリ容器入れてもらっていましたが、本当は鉄製容器でないといけないそうで、近々真っ赤な鉄製容器を買わなければならなくなってしまいました。かように一事が万事暮らしが不便になることなど、気にも留めていませんでした。一昨日は風呂の石油給湯器のタンクの灯油が少なくなって、妻は買い物に行くついでにトラックの荷台に5つもの灯油ポリ容器を積んで仕入れに行きました。親父の隠居でもこれからは灯油の配達がなくなったため、私たちが購入する時買って帰らなければならなくなりました。

 国道沿いにあった合田石油の灯が消え、看板が取り外されました。使われなくなったガソリン注入用のメーター機が2台並んでいる姿は何ともわびしく寂しいものです。ガソリンスタンドの「いらっしょませ。ありがとうございます」といった元気な挨拶や、人がたむろする姿はもう見ることも聞くことも出来ないのです。

 私の退職と同じ日に始まった市町村合併後の町の斜陽化は、道行く人の数も行き交う車の数もどんどん減って、立ち行かなくなり廃業する人が予想以上に進んでいるようです。建設業者や料飲業者、自動車修理工場など、店をたたんだり規模を縮小したりする姿が目立って増えました。

 30億とも40億ともいわれる役場という田舎にしては巨大産業が潰れたわけですから、下請け企業が倒産するのは当たり前かも知れません。その分吸収統合した伊予市役所本庁は少なからず活気が戻ったようですが、多分隣の中山町も、私たちの町と同じような運命を辿っているのではないかと思われるのです。追い討ちをかけるように、民主党政権がマニュフェストで掲げた高速道路無料化という実験事業が始まり、並行路線の国道56号線や国道378号線は目に見えて交通量が減って国道沿線の店は死活問題だと嘆いているのです。


 庶民の暮らしを守るはずの政治が庶民の幸せを奪う姿には大きな憤りを感じますが、思ってもどうにもならない問題だけに深刻で、ノーというサインを清き一票でつきつける選挙の機会もまだまだ先のようです。加戸県知事が任期途中で辞めるため、にわかに賑やかになってきました。中村松山市長が立候補するようで、その穴埋めに野志南海放送アナウンサーや帽子県議、菊池市議が保守地盤を割ってしのぎを削っているようです。

 誰が立候補しても別にかまいませんが、選挙の時だけ庶民の暮らしを守るパフォーマンスをする政治家は、正直必要ではありません。もっと庶民の暮らしに目を向ける政治家が欲しいものです。合併の時結んだ政策協定をもう一度思い出し、この町にも再び活気を取り戻して欲しいと切に願っています。


  「結局は 上に向かって ツバを吐く 自分に戻る 切ない心情」

  「また一軒 店の灯消えて 寂しけり 時代はどんどん 進むというに」

  「この町で 生きて死のうと 思うけど 不安が募り 心乱れる」

  「選挙時に あなたの暮らし 守ります 言った言葉が しらじらしくも」

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shin-1さんの日記

○忘れかけていた若者からのメール

 学校でパソコンを習わなかった古い時代に育っている私ですが、少しずつ独学して、今では何とかパソコンをいじくって、メールのやり取りや毎日小まめに日記帳のつもりでブログをかけるようになっています。人から見れば幼稚な私のパソコン操作で今では沢山のメル友にも恵まれ、毎日メールを開くのが楽しみになっています。最初はエッチなメールにドキドキもしましたが、迷惑メールとして一括消去が出来るようになって、メル友のメールに返信したり、時には全国からメールで講演依頼などもあって、請われるままにプロフィールや写真、似顔絵などを添付送付しているのです。

 今朝起きてメールを開くと、正直な話忘れかけていた若者からメールが入っていました。松野町役場に勤めるMさんからです。松野町といえば松前町と並んで合併しなかった町ですが、その後合併騒動の後遺症とでもいうのでしょうか、議会と執行機関との対立など、何かと新聞紙上を賑わせているようです。先日も議会提案の副町長廃止案が可決され、前代未聞のような騒動になっているようです。鹿児島県の阿久根市長の専決処分騒動もそうですが、議会がもめるとまちは二分され、行政が停滞して速いスピードで進化している時代の波に、乗り遅れてしまうのです。私も役場に勤めていたころ、船券売り場問題や町名変更問題で議会がもめ、国や県に相手にしてもらえない時代がありました。役場でまちづくりを担当していたため、二つの事件に巻き込まれ、警察の家宅捜査や参考人取調べまで受けたのです。二度とないショッキングな事柄なので、今も私の脳裏に鮮明に残っているのです。

 さて役場のMさんからのメールですが、今年の4月21日旧友で元教育長の芝さんを介して、道の駅特産市の総会に講演を頼まれ出かけた折の役場の担当者がMさんなのです。講演が終わって直ぐに私のところにお礼のメールが入り、その対応に感心し私もハガキで返信した記憶があるのです。その時のメールはまだパソコンの中に消さないまま遺しているのです。

 Mさんからのメールは、私の話を聞いてから今日までの半年間、特産市の改善に向けて努力している姿がこと細かく書かれていました。いやあ正直嬉しく思いました。私の持論ですが5千人にも満たない小さな町を、いっぱしの町にするには実は役場職員のやる気さえあれば簡単なのです。その例は私です。私も停滞しきった何処にでもある何もない無名の町を何とか有名にしようと頑張りました。100人の中で99人が反対するような夕日をテーマにまちづくりを進めましたが、それなりにいい町を作りました。

 森の国ホテルやおさかな館のある道の駅など、物語は既に出来ているのですからやれば簡単にクリアーできるのです。私は役場職員でありながら、毎朝5時に起き役場に行くまでの3時間、道の駅のあるシーサイド公園で清掃活動を12年間もやりました。じゃこ天に串を刺して食べることを発案したり、ちくわを夕日の望遠鏡、夕焼けソフトクリーム、夕日日コーヒーなど、全知全能を傾けて頑張りました。菜の花の種を落として花畑を作り冬の人の来ない時期に人を来させる話題は今も地域住民に受け継がれているのです。

 Mさんのメールにはそこら辺のことにどうやら気がついて一歩前へ踏み出した心情が吐露され、つい嬉しくなりました。Mさんのやる気は本物のようです。早速私は彼にメールを送りました。「また逢いましょう」と・・・・。


  「記録した ブログ呼び出し 彼のこと 思い出しつつ またブログ書く」

  「町もめる その都度役場 翻弄され 前へ進めず 一歩後退」

  「心情を 吐露したメール 受け取りぬ 核心部分 気付いて実行」

  「町なんて 十人馬鹿と 気違いで どうにでもなる 本気でやれば」


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○唐辛子のおすそ分け

 私の家の放任園を友人稲葉さんに借りてもらって早くも3年目を迎えました。砥部町で自動車の修理工場を経営する稲葉さんは、休みになれば毎日のようにその畑に通い、周りの人が感心するような努力で、ものの見事に畑を開墾してタマネギやスイカ、ジャガイモなどの試作を試みて、相応の成果を挙げているのです。稲葉さんの農作業を見ていると、人間牧場を耕している私のようなずぼらな人間が擬似農民に見えてきて恥ずかしい思いがするのです。

 稲葉さんは不思議な人で、下灘の港が見える場所に孟宗竹の柱を立てて鯉幟をあげたり、石を運んで石垣イチゴに挑戦したり、私が考え付かないようなことをやって驚かせています。また普通スイカを作ってカラスやイノシシに食べられないようにする場合、スイカ畑の周囲を網や波型トタンで囲うのですが、稲葉さんは直径50センチくらいのシャッポを作り、スイカのある場所を隠す方法を考案したり、全体を開墾するのではなくドラム缶くらいの植える部分を開墾して、土作りをして作付けする独特の方法を取り入れて実践しているのです。

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 さすがに、理想と現実のギャップは大きいようで、イノシシやカラスの洗礼を何度も受けたようですが、失敗にもめげずせっせと汗を流しているのです。今朝食事をしているとわが家へ稲葉さんがやって来ました。唐辛子が出来たので食べて欲しいと言うのです。見れば唐辛子を綺麗にラッピングしていました。稲葉さんはゆくゆくは収穫した野菜を販売して生計を立てたいと、素人の私から考えれば夢のようなことを話しています。「遊びの農業亜楽しいが飯お食う農業は苦しい」と常々分かったような説教をしているものの、ここまでこだわった商品開発をしていることに内心驚きました。

 今朝聞いた稲葉さんの話によると、青森産のホワイト六片というニンニクを作付けするので、種芋を1万5千円も出して取り寄せたというのです。私は少し呆れたような感じがしましたが、ニンニクのことをしっかりと勉強した薀蓄を、わが家の玄関先で20分ばかし聞かされましたが、本気で取り組んでいる姿にびっくりしてしました。

 今年から石久保という所の荒れた農地を借り受けてジャガイモを増産するための作業をしているようで、先日はその作業中に顔を蜂に刺され、我が家に飛び込んでアロエや妻特製のジュウヤク焼酎をつけて、難を逃れたようです。夢を語る人は素晴らしいし、夢を形にするために汗をかいている人はもっと素晴らしく、稲葉さんの姿に大きな拍手を送りたいと思いました。

 余談ですが、先日伊予商工会議所で開かれた青色申告会の講演会に、稲葉さんは友人に誘われて聞きに来ていました。稲葉さんが私の話を聞くのは砥部町商工会での講演会に続いてこれが2度目ですが、私の話を是非広島でやって欲しいとお誘いがありました。「講演料はいかほど」と打診がありましたが、「元手が要らないので時価」とお茶を濁しました。稲葉さんのためなら一肌も二肌も脱がねばならないと思いました。

  「驚いた 陰干し真っ赤な 唐辛子 ラッピングして 既に商品」

  「商品は 誰に売るのか いかほどで まだまだ先の 長い旅ゆえ」

  「夢語る 夢の実現 汗をかく 日増し輝き 増して嬉や」

  「裾分けの お礼蜂蜜 お裾分け 辛いものには 甘さ対抗」

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○健康で長生きがしたい

 人間には4つの願望があるそうです。①幸せになりたい、②お金持ちになりたい、③健康で長生きがしたい、④成功したいの4つです。多かれ少なかれどの願望も私の願望とマッチしますが、今が幸せゆえに、また金持ちほどではないにしてもそれなりに、また今の自分で十分と思うから成功は望みませんが、健康で長生きがしたいという願望はとりわけ強いのです。

 私はこれまで2度3度、大きな病気を体験しました。最初の大病は25歳の時に寝たっきり意識不明になって、救急車とてなかった頃ですからタクシーで道後の億島病院へ担ぎ込まれました。青年団活動の夜更かし飲酒と、正業であった慮視の重労働がたたって、肝機能障害を患ったのです。幸い3ヶ月の入院加療で直りましたが、このことがきっかけで漁師から役場職員へ転職したのですからおかしな話です。

 2回目は10年前健康診断で胆のうにポリープが見つかり入院手術をしました。癒着していたこともあって手術後68キロあった体重が13キロも急激に痩せて、その体重のままこの10年間続き現在に至っているのです。石の勧めで好きだったキリンラガービールを止め、完全にお酒の世界から足を洗いましたが、胆のう特有の油ものや肉が食べられなくなりました。体重は55キロ前後をキープして、10年前に出した「昇る夕日でまちづくり」の自著本表紙に登場している自分の姿は、まるで別人のようです。

 3回目は台風で裏山が崩れ、その後片付けのため倒れた杉の木をチェンソーで伐採中、作動していたチェンソーがはねて足のすね下を直撃し大怪我を負いました。幸い大怪我ながら骨に異常がなく20日間の入院やその後の加療で何とか元通りに感知したのです。

 2度ならず3度のびょ気を経験しているゆえに健康は私の一番のテーマであり、また65歳の高齢者になったこともあって、生活設計で決めている85歳までいきたいと思う長生きへの願望を日増しに高まっているのです。

 健康を保持するためには二つの方法があるようです。ひとつは身体を鍛えることです。若い時ならいざ知らず歳をとると体力は自然に減退します。走ることは出来なくても歩いたり、時には農作業をしながら身体に付加を加えて体力の保持をしなければなりません。テレビを見ながら、あるいは布団の上でなる前に毎日やる柔軟体操も県公保持には欠かせないのです。身体を鍛えるほどではありませんが、お陰様で何とか体力を保持しています。もうひとつは身体をいたわることです。妻の作った身体にいいものを食べ、時には気分転換に温泉にも行きます。心の健康には特に気をつけ、心配や不安のないようなポジティブな気持ちを持続することが大切なので、仲間とワイワイガヤガヤ人間牧場などで楽しくやっています。少ないながら年金もいただくようになり、最低限の暮らしができる経済的保証も清新安定に役立っています。

 願わくば92歳になった親父もこのまま元気で長生きして欲しいし、先日65歳の高齢者になった妻ともども夫婦揃って健康で長生きをすることを最大の願望にして、とりあえず健康な日々を送っています。健康で枚二つを過ごすことの感謝と、健康は人間が自分に贈る最高のプレゼントだと思い、これからも精進したいと思っています。


  「一番は? 尋ねられたら 健康と 病気したゆえ 胸張り答え」

  「何よりも 夫婦健康 長生きを 鐘や名誉は なくても生きれ」

  「考えりゃ 俺の健康 手助けを 妻は毎日 せっせとこなす」

  「今日もまた 生き生き暮らす 幸せを 明日のために 何が出来るか」

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shin-1さんの日記

○初心に帰って読書に親しむ

今日は午前中私の家へ、農文協(農山漁村文化協会)という出版会社の人が訪ねてきました。何日か前に電話が入り、アポをとっての訪問なので、私も所用を済ませて待っていたら、10時頃家に電話が入り、「今中学校付近にまで来ているが、家はどの辺でしょうか」と聞かれました。「引き返して北風鮮魚の前のカーブミラーを左に入って下さい」と言って電話を切ったものの、迎えに出なければと思い傘を差して県道まで出ましたが、彼は既に通り過ぎていて、高橋マートで「若松進一さんのお家は」と聞いたようです。いつものことながらカーナビをセットして来る来訪者は、奥まった所にある私の家を探すのは中々一苦労のようでした。


 役場を退職した私に出版会社の人が一体何の用事があるというのか、色々考えてみましたが、多分本を買って欲しいのだろうと推測しました。普通だと外の東屋に腰掛けて話をするのですが、今日はあいにく外は雨だし霧雨が降り込んで濡れてはいけないと思い、私設公民館「煙会所」に上がってもらい、火のない囲炉裏を囲んで色々な話を聞かれるままに1時間余り話しました。若い彼は私の話を一生懸命メモしながら聞いていましたが、午前中という約束だったので昼前に引き上げて行きました。

 最後は私の予想していた通り、出版物の売込みをしました。全21巻の「地域の再生」という本と、全25巻の「宮本常一とあるいた唱和の日本」という本でした。見本本を見せながら是非購入して欲しいと言いましたが、全巻7万円もするような本を、おいそれと右から左へ買い求めるような余裕は、今の私にはないのです。

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 かつて役場に勤めていたころ、出版会社のぎょうせいや第一法規の営業マンが私の所へ足繁く通い、私に本をよく勧めました。金もないのに給料日に妻に内緒で天引きして買った沢山の本を、暇を見つけて読んだため、今の自分があることは承知していますが、目が薄く、記憶が薄れた今の私に全20巻以上の書物は少し重過ぎるし、読書欲も昔のようにはないのです。

 「検討します」と言ってお茶を濁しましたが、一方では宮本常一に関する本は欲しいとも思いました。そのうち金でもできたら購入して人間牧場の蔵書にしたいと思いました。

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 宮本常一は「あるく・みる・きく」と言っていますが、私はそれに「よむ」を加えています。よむには「読む」「詠む」もあります。また「時代をよむ」「空気をよむ」ことだってあるのですが、発展途上の私には衰えつつあるといいながら、進化のためにはまだまだ読書が必要であることは間違いありません。この機会に初心に帰ってもう一度読書について考え直したいと思いました。読書が進化の基底であることは、年輪塾の第1号塾生浜田さんから学ばせてもらったことなのです。


  「セールマン それとはなしに 本買って 言わんばかりに その気にさせる」

  「七万も するよな本を 誰が買う 年金暮らし 俺にはとても」

  「幾度なく 宮本の本 読んだけど 凡人ゆえに 記憶残らず」

  「これ以上 本が増えたら 困るかも 本に囲まれ 暮らさにゃならぬ」

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shin-1さんの日記

○山口県日帰りの旅②

 さて今回の山口県日帰りの旅の目的は、飲食業生活衛生同業組合の中国・四国ブロック役職員等講習会の講師として講演を依頼されたためです。そもそものご縁は山口県飲食業生活衛生同業組合の理事長を務めておられる永田憲男さんと、下松市市民顕彰制定50周年の記念講演に招かれ、その中心メンバーだった永田さんが私の話を聞かれて、中四国ブロックの研修会に是非とお声がかかったのです。

 正直言って飲食業などに対して何の見識もない私なのでお断りを使用かとも思いましたが、永田理事長さんの熱意にほだされお引き受けしたのです。ゆえに今回の講演は多少不安を持って望みました。ましてや組合の佐原専務さんとのメールや電話による打ち合わせを聞く度に、また送られてきた依頼文書を見る度に少し憂鬱になっていました。

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(壇上居並ぶ開会式、その後役員さんたちも前席について講演を聞き、会場は満員でした)

 それでも元来ポジティブな性格なので開き直り、遅まきながら4~5日前から作戦を練り始めました。私の持っている私のプロモーションビデオ(3分)上映して始めようと思いましたが、残念ながら機材が揃わないとか、一時間あまりの短い時間なので講演中心にした方が良いのではとの折り合いがついて、結局は私を紹介した「いのちの田圃」の「心の扉」という記事をPDFファイルで送り、プリントコピーして参加者に配布するだけでお茶を濁してしまいました。

 私の帰りの新幹線の時刻を考えると16時35分には講演を終わらなければならないため、研修会を進行する佐原専務さんも気がきではないようで、「5分前」「お時間です」のメモを持って講演する私の顔色を伺っていましたが、そこは百戦錬磨な私のことゆえきっちりと16時35分の時間通りに終了しました。


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 ~前略~、飲食業界は、バブル経済崩壊後不況の長いトンネルに入ったきり、20年この方出口の見えない状況が続いています。失われた10年から先行き不明の10年が続き、漂白の時代に入ったようです。このような時こそ若松さんの気合の入った行動力がものをいうものだと存じます。飲食業は水物と揶揄され、景気という波に翻弄され続けてまいりました。また業としては専門知識もなく、さしたる設備もかけず即席に開業できる気軽さが零細企業からな脱却が図りきれない所以とも、同業組合の組織強化に繋がらない所以でもあると思います。

 起業し、高度成長経済の時流に乗り、誠実に事業展開してきたが客が来なくなって初めて地域の中の「店」を意識し、連携、連盟、協働、協同、協力の意味を知り、地域連携の正業を理解するわけですが、それからの行動のあり方が分からない、そこでまちづくりのプロに飲食業の地域協同についてのご指導をお願いする理由です。

 ~中略~講習会の演題は「飲食業と地域共生(食によるまちづくり)」、-受動喫煙防止強化、米トレーサビリティ法の施行に合わせて-とさせていただきました。内容についてはご一任いたします。~後略~。


 佐原専務さんからの植えのような手紙をいただいたものですから、私は「新しい発想で生きる」という副題を持って望みました。中四国から集まった方々はいわば飲食業界のプロの皆さんなので、素人の私がいちいち飲食について話しても何の役にも立たないのです。地域づくりという視点から食に対してアプローチを試みましたが100人を越える参加者の反応は上々で、会場は大いに盛り上がりました。多分「こんな話だったら来るんじゃなかった」と思う人はいなかったのでは?、と一人思いながら講演をお終わらせてもらいました。お招きいただいた永田理事長さんや佐原専務さんに感謝しながら・・・。


  「余りにも 違う世界の 私が 居並ぶ食の プロに説教」

  「よくもまあ そんなところで 話す気に 呆れて妻は 俺を心配」

  「呼ばれたら 刑務所以外 何処へでも 度胸座りて 努めを終わる」

  「山頭火 だったら何と 詠むだろう 分け入り見えぬ 世界を話す」

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○一週間に二回山口県日帰りの旅①

 いくら山口県が愛媛県の隣の県だからといって、一週間に二回も日帰りの旅をするなんて、何が何でも無茶だと、妻にさえ呆れさせることをやってしまいました。今日は広島経由にして往復新幹線を使いました。時間的には幾分短縮できたのでしょうが、広島の宇品港から広島駅までは電車で片道1時間もかかりました。ゆえに新幹線を使っても、三津浜~柳井の防予汽船利用の場合とそんなに変わらないようです。結局は高速船や新幹線利用の金額が高いため骨折り損のくたびれ儲けのような変な感じがしています。

 夜遅く自宅に帰りパソコンの前に座ってここまで書くと、23時を過ぎていることに気がつき、妻が疲れた身体を気遣って、夕食や風呂に入るよう進めてくれているので、この続きは明日の朝書くことにします。おやすみなさい。

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 今朝早くに目が覚めて続きを書いています。夕食の門限を8時、遅くとも9時と決めているのに、このところ出張や夜の会議が続いて、夕食を遅く取っているため少し変な感じがするので、今後は出来るだけ戒めたいと思っています。

 さて昨日も私にとっては忙しい一日でした。久しぶりに松山観光港から船に乗って瀬戸内海を渡りました。昨日は午前中天気はすこぶるよいものの季節風である北東の風が吹いて、船が少し揺れました。それでも平清盛が造ったという音戸の瀬戸を越えて、途中寄港した大和ミュージアムのある呉港辺りは波もなく穏やかで、何人かの人がデッキに出て、陸のくじらと呼ばれる潜水艦の屋外展示を見ながら、係留している海上自衛隊の本物の潜水艦と比較しながら、物珍しそうに比較していました。

 広島の街も宇品港界隈は高速道路の高架橋が幾つも出来て、訪ねる度にまるで未来都市のような発展ぶりを見せています。広島市では秋葉市長の提案するオリンピック誘致が真剣に議論されているようで、連日新聞やテレビでその様子が取り上げられているようです。正解最初の被爆地広島で平和の祭典といわれるオリンピックが開かれれば、核廃絶運動の大きな盛り上が李となるだろうことを思うと、誘致のハードルは高いものの、是非実現して欲しいと個人的には思っています。

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 広島から新幹線に乗って目的地の新山口を目指しましたが、車窓にはたわわに実った稲の黄金色とあぜ道に咲く真っ赤な彼岸花のコントラストが実に見事でした。新山口の新幹線口には自由律詩で有名な山頭火の銅像が建っています。俳句王国愛媛と縁の深い山頭火の銅像は秋のどことなく感じる物悲しい雰囲気にぴったりで、列車の待ち時間を利用して駅舎を出て写真に収めました。

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 湯田温泉までは島根県益田行きの鈍行列車で僅か15分です。相手の指定する交通機関を一便ずつ早めて乗ったため、湯田温泉駅へ向かいに来るはずの人は来るべきもなく、駅の構内にある湯田温泉界隈の地図を頼りに、会場となっているホテルニュータナカを目指して歩きました。ホテルの直ぐ近くの足湯に少し足を浸して山頭火になったような気分で一句詠み、湯田温泉の大通り面したホテルの正面玄関から中に入りました。

 通された3階の講師控え室は立派なもので、早速担当する事務局の女性職員と簡単な打ち合わせをして、出番を待ちました。公園は時間余りの短い時間なので持参したDVDも利用せず、一気に早口で喋り役目を終えましたが、会場の雰囲気も上々で、気持ちよく会場を後にして、事務局女性職員が同乗して新山口駅までわざわざ送っていただきました。

  「山頭火 なった気分で 放浪す 足湯浸かりて 旅の疲れを」

  「稲黄金 真っ赤な色の 彼岸花 秋は深まり 車窓を走る」

  「あの米を 喰ってみたいと ふと思う 卑しい心 頭持ち上げ」

  「芳しき 匂い漂う 高校生 前席座り 心ときめく」

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shin-1さんの日記

○アイデアと経営理念で成功を

 昨晩は伊予商工会議所3階で開かれた伊予市青色申告会の研修会に招かれ出かけて行きました。与えられた演題は「アイデアと経営理念で成功を」という、かなり難しいものでした。物事を成功させるにはイマジネーション(目標をイメージする想像力)とセルフイメージ(自分自身が持っている、自分がこういう人間だという自己像)の二つが必要ですが、成功レベルに持って行くには、イマジネーション×セルフイメージ=成功レベルという計算式が成り立つようです。

若松進一ブログ

 人はあれもしたいこれもしたいと、色々なことを考えるものです。その中で斬新なものをアイデアというのでしょうが、アイデアは一朝一夕に出るものではなく、長い時間をかけて積み上げたものが微妙に絡み合い生まれてくるのです。さて私の場合アイデア原点は何かと問われたら次のことが頭に浮かんでくるようです。

 ①生まれた頃から海を見て育った風の人の運命(海の向うに何がるのかという探究心)

 ②漁師7年の生産活動(海から陸を見る・海抜0mからの視点・海のメカニズム)

 ③青年活動で得た4つの道具(仲間・主張・ふるさと・感動する心)

 ④二つの大きな旅で得た価値観の変化(実習船愛媛丸での遠洋航海・第10回総理府派遣青年の船)

 ⑤病気を機に就職した役場での公人としての使命(教育委員会・産業課・企画調整室・教育長)

 ⑥夕日を金にするまちづくり活動(夕焼けコンサート~シーサイド公園整備までの20年間)

 ⑦家庭を開くことの意味(私設公民館「煙会所」・海の資料館「海舟館」・「夕観所」)

 ⑧21世紀えひめニューフロンティアグループ20年の軌跡(空からふるさとを見る運動~無人島・丸木舟)

 ⑨全国行脚と教鞭(年間120日の講演活動・愛媛大学での地域活性化論)

 ⑩退職後の人間牧場での活動(ふるさとへの恩返し・家庭人として・85歳まで生きる人間力)

 ざっと拾い出してもこのくらいのアイデアの源を持っていますが、これらを発想し行動を起こし成果を得ることは並大抵のことではできないのです。多くの仲間やスタッフが加わり、「夢はドリームではなくターゲットである」という私の持論に基づいてそれなりの成果を収めてきたのです。

 アイデア(ひらめき)をいい企画にする方法は次のようなことが考えられるようです。

 ①アンテナを高くして心の扉を開く

 ②潜在能力に気付き顕在能力に変える

 ③日ごろから問題意識を常に持ち続ける

 ④始めの一歩が大事(始める活動・高める活動・続ける活動・やめる活動)

 ⑤行動する仲間を集める

 ⑥イメージを売るCI戦略

 ⑦物語をつくる

 ⑧情報の加工

 ⑨マンネリ化の防止

 ⑩記録して記憶させる

 昨晩は思いつくままに、まあこんなことを話しましたが、沢山の熱心な人に聞いていただいて、2時間があっという間に終わってしまいました。

  「アイデアの 泉は何か 問われたら あり過ぎ困る 今も湧き出る」

  「失敗も 指折り足らぬ ほどあった 乗り越えたゆえ 成果収める」

  「アイデアは いくらあっても 価値はない 成果残さば 一歩踏み出せ」

  「あれしたい これもしたいと 夢が沸く 身の丈ほどの ささやか想い」

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