○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その2)
東谷に出た私たちは宮田英雄さん宅近くの15番石仏へ向かいました。「ほらあそこに」と指差した断崖絶壁の上に15番と16番が並んでいました。賽銭をあげることもままならない断崖をよじ登ってどうにか手を合わせ賽銭を置くことができましたが、さあそれからが大変で、17番の石仏がどうしても見つからないのです。三人であちらこちら探しましたがどこにも見当たらず、仕方がないので運よく自宅にいた宮田英雄さんに協力を求めました。探していると石仏がイノシシの悪戯で崖から下の草むらへ落ちているのを発見しました。宮田さんと赤石さんが協力して何とか元の位置へもどしましたが、宮田さんの話によるとこれまでにも時々イノシシが悪さをして落ちたようで、「ほら見てください」と指差す宮田さんの家の裏山は、イノシシが悪態の限りを尽くして掘り返した、無残な姿がかなり広範囲で残っていました。
「多分こんな罰当りなことをしたイノシシは、鉄砲か罠で始末されたに違いない」などと、イノシシに聞こえとばかりに人間様の話をしながらその場を去りました。
東谷のお参りを終えた私たち一行は西谷に入りました。西谷はかつて大水害にあったようで、中学校辺りからかなり奥まった所まで川は三方コンクリートになっていて、川という風情はなくまるで水路といった感じでした。18番石仏は岡崎常雄さん宅東側川向こうの橋のすぐ近くにありました。途中福岡暉司さん宅の庭には見事なモミジの木がありました。春の芽吹きや夏の緑陰、秋の紅葉が見事だろうと想像し、話しながら進みましたが、ここからはかなりきついダラダラ坂が続き、汗をかき始めました。この奥にはかつて宮の瀧という集落があった話を教育長をしていた中田豊さんから聞いていたので、「何でこんな所にあるのだろう」という疑問も解け、福岡暉司さん宅から50mほど先の21番石仏、さら500m先の20番石仏を通り越して、20m先の19番石仏をお参りしました。帰りに20番、21番に立ち寄り、そこからは西尾さん宅の前を通って池田勇さん宅の横にある22番石仏を目指しました。途中出会った山口さんが草を刈っていたというとおり付近の薮草は刈っていましたが、お参りした後の帰り道は引き返さず畑の中を通らせてもらったので、中々の難所で行く手を阻まれました。何年か前までは池田勇さん宅から私の家の浦に通じる裏道がありましたが、今は薮に覆われて通ることが出来ないようになっていました。
23番石仏は東谷入り口の旧道、永井昭一さん宅川向こう、亀岡さんの家の横の人一人が通れる小さな橋を気にしながら渡りお参りしました。これで両谷の全ての石仏を終え、中学校横の給食センター横、源田自動車横を通って上灘川に沿って河口を目指しました。上灘川には長いJR予讃線海岸周りの鉄橋が架かり、その鉄橋を見上げたり、元町長で今は亡き丸山勇三さん宅や岡崎さん宅の見事な格子戸を眺めながらかつてメインストリートだった往時の姿に思いを馳せました。
大石さんのギャラリー蔵の前の広場横に24番、26番、28番と三つの石仏が安置されていますが、何故か飛び番の25番と27番が五丁目宮崎のお地蔵さん内に安置されているのです。宮崎のお地蔵さんは天一稲荷神社のお宮の先にあるので宮崎と呼ばれているようですが、かつては見事な松が生い茂り近くには常小屋や風呂屋もあって風情があったようですが、今はその面影は見る影もなく、海岸国道や漁港のの整備に伴って船揚場も出来一変しています。上灘八十八カ所の中でも25番と27番は別格で、地蔵尊本堂内にねんごろにお祀りしていました。
「イノシシが 十七番の 石仏を 鼻息荒く 谷に蹴落とし」
「十七番 石仏抱いて 元の場所 お座りなさい 心優しく」
「悪さした イノシシ既に 罰当り したであろうと ヒソヒソ話」
「何しよる 会う人毎に 声かかる 返す言葉は お参りしよる」