○ミニ四国八十八ヵ所を巡る遍路歩き(その1)
双海町公民館主事の赤石さんから数日前、「月曜日の予定、忘れちゃいませんか?」とメールや電話をいただいていた、「上灘八十八ヵ所巡り」に月曜日の昨日出かけました。前日の夜妻に弁当を作ってくれるよう頼んでいたので、妻は日常より少しだけ朝早く起きて手作りの弁当を作ってくれ、「弁当持った!、手袋持った!、ペットボトル持った!、寒くはない?」などと、まるで子どもが遠足にでも行くようにいちいちうるさく注意を促し、自宅まで迎えに来た赤石さんの運転する公用車に乗り込みました。出発地は一番のお地蔵さんが祀られている正光寺です。正光寺は翠小学校の直ぐ上の急な坂道を登った所にあり、ここで公用車を降りて、公民館の松田さんに車を取って帰ってもらうのです。山門をくぐり本堂に深々と一礼をして道中の安全を祈りました。山門の直ぐ右横に6基のお地蔵さんが行儀よく整然と並んでいました。ここには1番から4番までのお地蔵さんがあり、後の2体は87番・88番、つまりここから上灘八十八カ所の祈りのへんろ道はここから始まり、ここで決願するようになっているのです。
私はまだ般若心経も空で覚えていないので、祈りはもっぱら手を合わせて「どうか道中無事でここまで辿り着きますように」という程度の簡単なものなのです。今朝は妻が用意して持たせてくれた絣布製の小銭入れに入れた、約100枚の一円玉をポケットから取り出し、石仏の前に供えて行くのです。本当は10円か100円硬貨の方がご利益があるのでしょうが、それ程金持ちでもないので、気は心とばかりに1円玉での代用となりました。妻とは嬉しいもので、こうして1円玉でもちゃんと持たせてくれた気配りに感謝するのです。上灘八十八ヵ所がいつの頃に出来たのかは文献がないので定かではありませんが、ミニ八十八ヵ所を発案し、村の隅々に石仏を配置して祈りの道を作った人たちがいるのですから驚きです。それらの石仏は時代の流れや月日と共に何度も散逸したり移転を余儀なくされたりしたようですが、公民館の宮栄館長さんと赤石主事さんのひた向きな現地捜索の努力によって、見事全容が明らかになったのです。ミニ八十八ヵ所を回った経験のあるお年寄りもいるのでしょうが、その記憶も殆んど忘れられているため、現地捜索は難航を極めたと二人は笑って述懐していましたが、折角石仏の存在も明らかになったようなので、どの程度の時間で回れるのか、一度試してみたいと三人の相談がまとまり、今回の歩き遍路+車遍路となったのです。
正光寺の1番~4番を参拝した三人は、お寺と翠小学校の間にある坂道を下って久保地区の井口一実さん宅の前に出ました。そこには大きなヤブツバキの根元に5番の石仏がありました。そこから細道を県道に出て久保公民館前に安置されている6番・7番、寺西光朝さん宅横8番、井戸本福市さん宅横9番と、少しの下り道をのんびりゆっくり歩きました。仲宮長岡さん宅前の上灘川に架かる橋を渡り、川向こうのほたる護岸沿いの畑中の道を歩いて、両谷に通じる坂道を登りました。登りきった峠には東谷の墓地があって、小さなお堂がありました。ここからの眺めは東向うに仲宮や久保辺りの田園眺望が開け、特老夕なぎ荘も直ぐ下に見え、反対側の斜面にへばりつくように東谷の集落が朝日に輝いて美しく見えました。この墓地の二ヵ所に10番、11番と12番、13番、14番の石仏が石屋根を配して安置されていました。
私たちは墓地に通じる坂道を東谷の川沿いの道に出ました。途中畑で仕事をしている木曽博機さんや谷江共一郎さんの奥さんと言葉を交わし、宮田英雄さん宅まで歩を進めました。
「お二人の 捜索成果 明らかに しようと巡る 石仏遍路」
「長年の 風雪耐えて 鎮座する 石仏の顔 まるで微笑み」
「阿洲から 始まる遍路 石仏に 寺の名前や 本尊掘りて」
「誰たちが どんな思いで 置いたのか いにしえ人を 垣間見ながら」