○この道はいつか来た道
先日久しぶりに時間があったので、海岸国道沿いに車を止めて人間牧場まで歩いて登ろうと思い、歩き始めました。普通人間牧場へ行くのは奥西周りと下浜周りの道があって、いずれも車で奥西周りは15分、下浜周りは
10分程度かかります。どの道もつづら折りのため急峻な山肌を縫うような狭い道です。今回たった一人で登った山道は下浜周りの山道をさらに縫うように直線で延びる昔の間道なのです。登り口で顔見知りの近所の人に会いました。「まあお珍しい。若松の進ちゃんじゃないですか。何をしているの」と声をかけられ、「はい、久しぶりにこの坂道をあることと思いまして」と答えると、「さあ歩けるかねえ。道も荒れていますから」と不安な言葉が返ってきました。
JR予讃線海岸周りの下の隧道トンネルを抜けるともういきなりの急な坂です。斜面にはカタバミのような正式名前も知らない黄色い花がいっぱい咲いて春を演出していました。少し上がると高台を走る予讃線の線路に出ました。運よくそこにマッチ箱のような列車が通りかかりました。普段は遠目で見る可愛らしい一両だけの列車でも傍を通るとまるで黒い鉄の塊のような迫力でした。この辺りから下灘小学校辺りまでの線路は急峻な地形のこの町では珍しく一キロ以上にわたって一直線の線路が続いているのです。子どもの頃はここを蒸気機関車が走りましたが、急峻な地形なので列車もタジタジで、私たちは悪ふざけて、列車が速度を落とすと後ろに回ってすがりながら一緒に走ったり、時にはレールの上に耳をつけて列車の走る音を聞いたりしたのです。また線路沿いの斜面には野イチゴやイタドリがやたらとあって、食い物の少なかった少年時代は線路近くが恰好の遊び場でした。
少し登るとお地蔵さんがありました。地元の人がお祀りしていて、下から登っても上から下っても、ここは丁度いい具合な大きい石がまるでベンチのようにあるので休憩地点なのです。かつて労働のために同行して何度となく一緒に登った祖母や母は、ここで荷物を降ろしてひと休みする間、お地蔵さんに手を合わせてお参りしましたが、私は傍の大きなクヌギの木の穴を見つけてクワガタやカブトムシを探していました。
肩や腰の疲れが取れると再び歩くのですが、体のなまっている私には、背中に何の荷物も背負っていないのに額にはもう汗が滲み息遣いが荒くなってきました。この辺りの斜面の上には私の家の畑が沢山ありましたが、母亡き後は荒れるにまかせて、すっかり雑木に覆われていて少しばかり心が痛みました。
やがて車道と交わる最初の地点が見えてきました。ここにもわが家の農地があり、4年前耕作目的で全て下刈りしたものの断念せざるを得なくなった畑が、同じように雑草に覆われていました。10年前にこの地に弟や従弟などが許可を得て墓地を造りましたので、見違えるような変身ぶりです。この辺りから見返ると眼下に海が開けて登りながら汗を拭く度に嘘炉の景色を楽しめるのです。
2度目の車道と交わる所まで登ると人間牧場はもうすぐで、水平線の家の建物が見えてきました。歩くこと30分でやっと到着です。昔は大間道で荷車も通ったし通学路だったのですが、最近はこの道を歩く人も殆どなく荒れるにまかせているようでした。
でもこの道は母と歩いた、いわば「この道はいつか来た道」なのです。「♭この道はいつか来た道 ああそうだよう お母様といつか来た道♯」という歌の文句ぴったりの道なのです。わずか30分でしたが、歩きながら久しぶりに母の思い出に浸ることができました。人間牧場で少しの間過ごし再び元来た道を下山開始です。あれほど難儀をして急な坂道を登ったのに、同じ道だというのに、まるでウサギや子犬が走るがごとくぴょんぴょん跳ねるように僅か10分足らずで下山しました。
少しくたびれましたがいい経験をしました。またいい母の供養にもなったと満足です。せめて年に一回くらいは歩きたいものですが、この日の自分より若い自分はないのですから、危ないかも知れません。春のいい一日でした。
「春の日を 楽しみながら 登り来る 母の思い出 随所にありて」
「この坂は 背中に背負子 荷をかるい 汗かき幾度 往復したか」
「道脇の 地蔵菩薩は 今もなお 昔変わらず 微笑みたたえ」
「この坂の ような人生 過ごしたが 今は下りの スピード早く」