○旅の締めくくりは島根県でした
徳島・新潟・東京と続いた長旅の締めは島根県飯南町でした。この町は旧赤木町旧頓原町が合併してできた、広島県と島根県の県境に位置する町です。松山観光港を朝一番7時の高速船に乗って瀬戸内海を1時間10分走ると宇品に着きました。市内電車でバスセンターのある紙屋町まで出て、そこからさらに高速バスに乗りました。県境を越えるには高速道路を三次で降り、国道54号線を走らなければなりません。島根入りする時は余程のことがない限りこのルートを走るため、車窓に広がる風景はどこか懐かしく見慣れた光景ですが、この日はごうの川辺りを超える頃には雪がちらちら舞い始め、峠では猛吹雪になりました。国道沿いに立てられた温度計はどんどん下がって峠を越えるとマイナス2度を表示し、重たいボタン雪が大地を隠そうとしていました。
電話やメールで連絡通り島根行きのバスは降りしきる雪をものともせず、時間通りに頓原停留所へ到着しました。広島から乗ったほぼ満席の乗客で私が一番先に降りるため、車内の降車ボタンを押しての下車です。停留所には役場の伊藤志津恵さんが自家用車で迎えに来てくれていました。彼女に始めて会ったのは島根県で10年も前に開かれたある研修会でした。当時志々公民館の主事をしていたこともあって、講演に来てほしいと誘われ公民館祭に出かけましたが、この公民館へは今回が三度目なのです。今回は会場こそ志々公民館ですが、立脇さんという女性が担当しているまちづくりの講演会なのです。立脇さんたちは一週間前打ち合わせや視察を兼ねて一週間前人間牧場へ来ているため、全ての運びがスムースでした。
伊藤さんとほたるの茶屋で昼食を取りました。志々地区ではクラインガルデンという貸農園を運営している他、地元産の大豆にこだわった豆腐を作っていて、メニューの中からおからハンバーグ定食を選びました。添えられた菜っ葉の早春の香りも申し分なく、サラダもおからと聞いて驚きながら美味しい味を堪能しました。この地区はダム工事が終わっていよいよ水をためる作業が始まるのだそうですが、60戸足らずの沈む民家は半分くらいが近くの団地に引っ越していましたが、半分は出雲などの地方都市に行かれたようでした。
食事をしながら伊藤さんと過ぎ越し10年を振り返りました。子どもの成長や家庭のこと、そしてご主人が役場に勤めているため自身が今春で役場を退職する予定だという話を寝耳に水で聞かされわが耳を疑いました。時の流れはまたひとつ思い出を消して行くのかと思うと寂しくなり、一昨年四万十市西土佐村で同じように中途退職した中脇さんのことを思い出しました。
いつの間にか雪も小ぶりになり、満席の会場で講演は始まりました。最前列には顔見知りの渡辺よし子さんも陣取り、また若い人や駐在所のお巡りさんまで私服で交じって賑やかな講演会となりました。
終了後懇親会が持たれましたが私がお酒を飲まないため、お茶での交流となりました。室内には託児所も設けられ賑やかな子どもたちの歓声で活気に満ちあふれていました。
そのうちあらかじめ連絡していた雲南市の松島さんが迎えに見えられ、大勢の見送りを受けて広島を目指して出発しました。松島さんは旧吉田村田井公民館の主事をしていた方で、既に退職していますが20年来の付き合いをしていて、今回も広島までアッシー君をかって出てくれたのです。最終便は夜9時30分なのですが、高速バスだと間に合わないための苦肉の策でした。道中の社内では久しぶりに楽しい話に花が咲きました。
旅の締めくくりが島根県、しかも伊藤さんや松島さんというのも何か因縁めいていました。彼女たちのこれからに期待しながら夜の瀬戸内海を渡りました。
「またひとつ 島根の星が 別世界 寂しいけれど これも宿命」
「おからまで 活かした知恵は さすがです おからのサラダ 初めて食べた」
「見覚えの 峠を何回 超えたやら 指折り数え 顔々浮かべ」
「新しい 力にバトン タッチして 世代交代 俺もそろそろ」