○隠岐牧畑って何?(西ノ島旅ルポ②)
島根県の沖合い日本海に浮かぶ歴史の島隠岐島諸島では、1960年頃まで放牧と畑作を組み合わせ4年で輪作する「牧畑」という聞き慣れない農法が行われていました。この農法は島の急傾斜地を有効利用すると同時に人間と牛馬が一体となった世界的にもユニークで珍しい農法なのです。始まった時期は不明だそうですが、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」でも紹介されているくらい古い歴史を持っています。高さ1~1.5メートルの石垣で「牧」と呼ばれる四つの区域を作り、それぞれに麦・大豆・小麦・粟などの雑穀類を一年ごとに栽培し、4年目に牛を放牧して一巡するというものです。牛の糞を肥料にし、同じ作物を2年連続で耕作しないことで、土地が痩せたり連作障害を起さないよう工夫されていて、中世のヨーロッパで広まった冬作物・夏作物・休閑を繰り返す「三圃式農法」よりもはるかに高度で、海外の研究者からも高い評価を受けているそうです。
食物に不自由した戦中戦後を経て物が豊かになりその農法はすっかり消えて、現在は放牧だけが続けられていますが、自然と生き物が共生する牧歌的で雄大な自然景観は大山隠岐国立公園選定理由のひとつに掲げられています。
「牧畑って何?」と地元でもすっかり風化したこの牧畑の歴史的価値をを掘り起こして、後世に伝えようという動きが角市さんを中心に起こり、「牧畑を後世に伝える会」が発足し今回のシンポジウム開催にこぎつけたのです。まちづくりや観光を含めた地域振興をテーマとして活動している私としても、歴史に裏打ちされた牧畑の保存伝承は興味があり、お手伝いすることになったのですが、その前途は容易なことではないようです。
今回のシンポジウムに合わせるように牧と呼ばれる区域を分けるための石垣が発見され、その全容が明らかになりつつあるようです。シンポジウムの明くる日の日曜日にはエクスカーションが行われるようですが、私は日程の都合で参加できないので、町議会議員口村さんの案内でその石垣を含めた現場を案内していただきました。この場所は3回目ですが過去2回は国賀海岸やその原風景に目を奪われて、牧畑や石垣の存在さえも分らず通り過ぎていました。口村さんは地元の中学校の校長先生を最後に教職を去り、お寺の僧侶でありながら町会議員になった変わった人です。俳句や短歌、川柳をたしなみ、植物にも歴史にも詳しい島のマルチ人間なのです。口村さんの車で、前回登りたかった草原の頂上へも四WDで登り、革靴と背広という出で立ちながら、牛馬の糞を足元に気にしながら石垣のある場所まで、野ばらを掻き分けて進みました。高さ1.5メートルもある石垣は歴史の長さを物語るように風化が激しく、所々には石垣から楡の木が大きく成長していました。でも西ノ島の万里の長城ともいえる長い石垣が谷の上下に伸びていました。多分先人たちはこの石一個一個を積み上げたに違いないと思うと、人間のすごさに改めて敬意を表しました。
牛や馬が日本芝を食糧として食べる行為はまるで芝刈り機のようで、こんな綺麗な草原が天高く続いていました。
今も残る見事な牧の石垣です。石垣の中から楡ケヤキの木が大きく成長していました。
口村さんが記念に写真を撮ってくれました。
お返しに口村さんの写真を撮りました。
これが口村さんの愛車で、ぬかるみをものともせず、頂上まで草原の中を風を切って走りました。
この石垣を見てふとわがふるさと愛媛県の宇和島市にある水が浦の段々畑を思い出しました。耕して天に至る水が浦の段々畑程ではないにしても、この石垣と牧畑農法は紛れもなく歴史的景観なのです。世界遺産にと角市さんたちは考えているようですが、それは別の話としてまずはこの景観を含めた歴史の全容解明が待たれるところです。口村さんの案内は面白くて、道端の草花や日本の歴史認識まで実に幅広いものでした。もう一度会いたい人でした。
「知夫村や 遠く大山 三瓶山 望む頂上 神々しくて」
「この石の 一つ一つに 人の手が 想い込めたる 先人ゆかし」
「道端の 花に心を 移す人 優し心根 島を愛する」
「牧畑と いう意味さえも 分らずに シンポに参加 恥をしのんで」