○半世紀50周年記念の広島県海田町
日本全国の町や村の殆どは明治の大合併(明治20年前後に7500のまちが15000に)、昭和の大合併(昭和30年前後に1500のまちが4000に)、平成の大合併(平成17年前後に3200のまちが1800に)を経て今日に至っていますが、昭和の大合併を基点にした町や村は合併して半世紀50周年を迎えています。この50年は日本が最も近代的に変化した時代で過疎と過密という2極に分化した時代でもあるのです。過疎を辿ったまちやむらの殆どは再編を余儀なくされて平成の大合併を選択し、50年の区切りを終えましたが、過密を辿ったまちやむらは単独で残り50年の区切りを迎えて新たな飛躍を誓っているのです。
昨日半世紀50周年を迎えた広島海田町の記念式典に記念講演を頼まれ出かけました。このところ続いた穏やかな秋晴れも明日は天気が崩れるという予報の中、その兆候なのか多少北東の風が吹く瀬戸内海を、高速船で松山観光港から広島宇品港まで船で渡りました。「インターネットで顔の写真を確認していますので」という海田町の職員が港まで出迎えに来ていましたが、国道2号線を福山方面へ向かって走ると20分弱で広島市の郊外にある海田町へ到着です。社内で職員さんに人口規模や主な産業、文化、教育、福祉について質問し、予備知識を得ての到着です。会場はJA会館の4Fで控え室となった3Fの入り口には結婚式に使うのか料理や引き出物の見本が陳列ケースに並べられ、非常階段には式場といった感じの小道具が所狭しと並んでいました。
海田町の町花はひまわりだそうで、偶然にもわが町の隣松前町もひまわりを町花にしていることもあって親しみを感じました。窓から見える景色は沈香万人だけあってまるで都会ミニチュアのように、少し高い新しいマンションが立ち並び、お隣広島市に職場を求め住む場所となっている衛星町のような雰囲気が漂っていました。直ぐ下には比較的大きな川が流れており、その川に架かる幾つもの橋が象徴的でした。
ご多分に漏れず既に始まっていた式典には多くの表彰者が列席して大きな記念品と表彰状を椅子の前に置いて座っていました。普通のまちづくり講演会とは少し様子が違い場違いな感じも否めませんでしたが、それでも約90分の持ち時間をフルに活用し新生海田町のまちづくりについて、持論を展開しました。わが家に帰ると早速お礼のメールが入っておりましたが、世辞も加えてなのか中々好評だったと評価をしていただいたようです。
それにしても怪獣となったJA安芸農協会館を望む対岸からのこの風景、実は橋の上なのです。車止めが両側にあって車の乗り入れが禁止されている広くて素敵な橋でした。橋の両側には町花のひまわりがプランターに植えられ、まるでイベント会場にでも使えそうな橋なのです。この写真では橋と分りにくいので帰りの車の中から撮影した遠望アングルの写真を紹介します。橋を使ったまちづくりは四万十市西土佐玖木地区の橋巡りなど一休さんのように知恵を使えば面白い仕掛けが出来るはずです。
海田町にとって50周年とは何を意味するのか、過去の回顧を土台にしながら住民投票で約7割の町民が隣接する広島市との合併にノーというサインを出した意思を重く受け止めて自立の道を目指さなければなりません。財政的に厳しさを増すでしょうが、知恵さえ出せば必ず生き残りは可能です。平成の合併を選択した全国の町や村を回って聞いた話では、合併して良かったという話は皆無に等しいのですから、合併しなかった不安は道州制導入の日までお預けにしていい町を作られるよう祈っています。
町長さんや議員さん、それに役場職員が①まちを愛する、②町のためにやる、③まちをいい方向に導くという3つの気持ちを大切にして欲しいものです。幸い僅か3時間程度の出会いでしたが町長さんはじめ職員からもその熱意がひしひしと伝わってきました。「いいまちにいい人あり」です。
「半世紀 これを飛躍の 糧にして いいまちつくろう 主役はあなた」
「合併は 嫌だと言った さすがだな 良識町民 向こう見えてる」
「橋を見て 一考浮かぶ 使い道 まるで一休 とんち話だ」
「ひまわりが 町の花なら どれ程に 咲いているのか 素朴な疑問」