○悲しい出来事
「もしもし若松さんですか」けたたましく感じる携帯電話の呼び出し音で目を覚ましたのは5時ころでした。普通はこの時間起きているのですが、前日の夜が遅くその朝に限ってまだ布団の中でした。「はいそうですが」という聞き覚えのある電話の向こうの声に不吉な予感を感じつつ耳を立てました。「HOさんが亡くなりました」といった途端相手は声を詰まらせました。涙声の話しによるとHOさんが亡くなったのは推定3日前だそうです。推定というのは亡くなって3日目に見つかったのだそうです。奥さんが60歳で亡くなってからHOさんはこの2年ずっと一人暮らしでした。近所の人が回覧を持って行きチャイムを鳴らすが家の中は電気がついているのに新聞受けの新聞も取り込んでおらず、異変に気付いて友人に立会いの下で警察と中に入った時にOHさんは台所の隅で3日前既に死んでいたのです。検死や家宅捜索など慌しい手続きを終えて知人の私への第一報となったのです。
丁度一週間前、私と妻はHOさんと3人でビアガーデンへ飲みに出かけました。酒を飲まない私たち夫婦ですが酒好きの彼と伊予鉄道後駅で夕方6時に待ち合わせて伊予鉄3階ビアホールの人となりました。奥さんが亡くなってから落ち込みが激しい彼を気遣って年に数回誘うのですが、その度に嬉しそうに参加してくれました。この日もいつになく嬉しそうで、私が持ってくる中ジョッキをさも美味しそうに飲み干しながら過ぎ越し思い出話に花を咲かせました。
私との出会いのこと、私たち夫婦が仲人した息子さんの結婚式のこと、飲み屋で「ふるさとの灯台」という
歌をカラオケで歌ったこと、下灘漁港の隣に埋め立て造成した公園の下書き絵を書いてもらったこと、奥さんが亡くなってから一人身になって人生を儚んで生きている寂しいこと、奥さんの3回忌法要を先日済ませたこと、広島のお墓の草刈はそれは大変だったことなどなど、少年時代に原爆にあったという彼の思い出まで遡ってまるでドラマを見るようなお話でした。今思うに生前中誰かに聞いてもらいたかったのではないかと思うのです。
私たち夫婦はほろ酔い機嫌の彼を車に乗せて堀江の自宅まで送り、「まあ上がってお茶でも」といういつものパターンで、彼の入れた麦茶を飲んで「また会おう」と約束し9時ころ彼の家を後にしました。明くる日私は朝早い高知県への出張で留守でしたが、家へお礼の電話がかかってきたと、妻から出張先へ電話をかけてくれました。その電話が最後になろうとは夢々思いもしませんでした。
彼は几帳面な性格で、家の中はとても男やもめの一人身生活とは思えないほど掃除も行き届き、お邪魔する度にその暮しぶりに妻も私も感心したものでした。
昨晩の通夜には身寄りが少ないためごく親しい人だけでしたが、私もその親しい仲間に入れていただいて思い出話に花が咲きました。既に棺に納められている彼の顔は残念ながら日数が立っているため皆さんに公開はされませんでしたが、私はご親族と一緒に束の間の涙の出会いや別れをしました。通夜の読経が流れる中で人はばからず一人息子は涙を流していました。母の死も父の死も死に目に立ち会えなかった悔しさが滲み出ているようで、無邪気に遊ぶ子どもさんの声が余計涙を誘ったのです。
数日前普通見もしない彼の夢を見てビアーガーデンに誘ったことは、いい彼へのはなむけとなったと、妻と二人で話しました。それにしても僅か一週間前の生の土曜日、奇しくも一週間後の死の土曜日、この落差を思うと人生のはかなさをただただ嘆かずにはいられませんでした。
「通夜の席 カレンダーは 七月で 捲ることなく 人生終わる」
「今思う 死出の旅路の 予言かな 夢に出てきて 俺を誘った」
「死んでから 三日も知らぬ 死に方を 仏番人 坊主に文句」
「今頃は やっと会えたと 手をつなぎ 先行き人と 再会悦び」