○三丁目の夕日
「若松さんええ映画だから見たらいいよ」と友人から勧められていた映画を、思いもかけず息子が借りてきたDVDで鑑賞する機会を得ました。大学の講義が終わって家へ帰り妻の手料理で遅い夕食を食べようとすると、妻が一人テレビを見ているのです。「お父さんこの映画はお父さんも見たらいいよ。私たちが子どもの頃の出来事みたいだから」と勧めてくれました。食事をしながら見たのですが、ついつい午前様になっても止められず最後まで見てしまいました。
私は昭和19年、妻も昭和20年の生まれですから、少年時代は物のない時代に育ちました。しかし戦後の復興を肌で体験した私たちにとっては今のような犯罪も殆どなく、日本が最も安定した幸せな時代だった用に思うのです。最初から見ていないのでこの映画の主役が誰なのか分りませんでしたが、たくさんの自分の思い出と重なって最後のシーンは涙が出て止まりませんでした。
町工場というべき小さな自動車屋家族の生き方は実に面白く、頑固な親父、腕白な息子、知的な奥さん、工員募集と履歴書で自動車と自転車を間違い青森から集団就職でやって来た住み込み中卒女性の織りなす下町のドラマは実にほのぼのとしていました。私は最近よくその頃に井沢八郎が歌って大ヒットした「ああ上野駅」という歌をハーモニカで吹くのですが、金の卵と持て囃され田舎から集団就職列車に乗せられて都会へやって来た若者たちのことを思うと、あの物悲しいメロディーについつい胸が詰まるのです。私たちの同級生もみんな同じように都会の雑踏に消え、45年余りの時の流れの中を必死で生きて今定年を迎えようとしているのです。
もう一つのシーンは大学を出て小説を書くもののいつも懸賞小説に落選しうだつの上がらない小間物屋の青年と飲み屋の女性、それにその女性からふとしたきっかけで預かった妾の子との同居生活、淡い恋物語も泣けてきました。子どもを親の社長が迎えに来るも再び帰って来るシーンは夕焼け空がいい雰囲気を出していました。私たちの子どもの頃は妾を囲い込むハイカラな親父が私たちの村にも何人かいて、同じような子どもの話題も事欠きませんでした。
テレビを買い、そのテレビを貧乏なご近所さんが大勢集まって力道山の空手チョップを見るシーンは私の子どもの頃の思い出と全てダブりました。多分このシーンを知っている私は古く、もう賞味期限が切れ掛かっているのでしょうが、もののない時代であっても本当の幸せがあったように思うのです。ちゃぶ台のある居間はキッチンに様変わりをしました。風呂だって五右衛門風呂から蛇口をひねればバスにお湯が出ます。麦ご飯や芋のおやつも今はダイエット食品です。痩せた家族は肥満屋成人病を気にする孤独な群集になり、一つ屋根の下に住みながら家族の団欒さえもありません。何かが狂い、どこかでボタンを掛け違えた姿は、三丁目の夕日という映画を見ていると滑稽にも思えてきました。
この映画に私の町の美しい夕日をダブらせたのは私だけかも知れません。結局この映画のシーンに美しい夕日は一回も登場しませんでしたが、でも夕日の持つ最大の魅力を最後まで隠した作者の心憎い演出にはただただ脱帽です。いい映画を見せてもらい、また新たな夕日の魅力を発見しました。
(この写真は伊予市双海町灘町3丁目辺りに落ちる正真正銘の「三丁目の夕日」です)
「友人に 勧められたる 映画見て 思わず涙 アルバム捲り」
「何もない だから幸せ だけかない 何でもあるに ないは幸せ」
「白黒の テレビカラーに 様変わり チャンネル回す 昔懐かし」
「テレビ買う 屋根の上には アンテナが おーい買ったと 威張るようにも」