shin-1さんの日記

○今日は特別な日

 朝起きて書斎に入り、身の回りを見渡しました。いつもの朝と変わらず、部屋の雰囲気も別に変った様子はないのですが、昨日から自分の心がどこかすっきりしたような気持なのです。というのも今日は午後から私が長年代表運営委員を務めてきたえひめ地域づくり研究会議の今年最後の運営委員会なのです。4年前長年やってきたこともあって後進に道を譲るべく辞意を表明しましたが、結成20周年が終わるまでと再任され、20周年が終われば全国大会が終わってからと4年間も辞任は延び延びになっていたのです。

 20周年も全国大会も深くかかわって事業をなし終え、それなりの成果を収めたので引き際が肝心と今期で幕引きをすることにしたのです。年齢や体力的にはまだ自信はあっても、組織を改革するには「去ることが一番」と心に決めて、しっかりと手順を踏んで理解を求めました。お陰さまで来期の役員人選も水面下で行われ、やっと重い肩の荷を下ろせる所まで来ました。

 思えばえひめ地域づくり研究会議と私の付き合いは長くて深く、結成以来22年もの長い間、その中心に置かせていただき、目の回るよな忙しさの中で多くの人たちとともに愛媛県をフィールドに活動してきました。その間県外との交流も深くこれまた多くの知人友人とネットワークを持てたことを幸せに思うのです。

 昨日は私と同じようにえひめ地域政策研究センターへの出向を解かれ、元のJAに帰られる清水研究員がわが家に見えられ、久しぶりにこの5年間を総括しながらこれからの活動について水入らずでしんみり話しこみました。私と立場が違うものの清水さんにとってもこの5年間は今までにない世界だったに違いありません。私たち日本人はゼロに戻る訓練ができていないので、ゼロの重みはこれから先も清水さんの人生について回ることでしょうが、私も4年前退職という本当の意味でのゼロに戻ることを体験しただけに、新しい職場での活躍を期待したいと思います。

 そして昨夜妻にえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員を辞する旨を伝えました。妻は少しオーバーワークな私の仕事を日頃から気遣っていたので大層喜んでくれました。清水さんが持参してくれた谷本研究員からのことずけの全国大会報告書を見せながら、いい思い出を沢山話してやりました。妻にとってえひめ地域づくり研究会議がどんなものなのかは分かるはずもないのですが、それでも塩崎さんや近藤さんなど多くの仲間のことは随分知っていて、これからの仲間だけは大切にしてほしいと言いました。


 さてえひめ地域づくり研究会議の第一線から退く私の当面は、年度末までに少し身辺の整理をして、4月1日から始まる新しい年度に向けて目標を定めパワーアップしなければなりません。本業を退職して4年が経ちました。来年度から21年刻みの自分の人生のいよいよ最終クルーを迎えます。①自分と向かい合って生きる、②家族と向かい合って生きる、③地域と向かい合って生きるの3つをとりあえずのテーマに掲げているので、大学での教鞭や講演活動を行いながら、人間牧場を中心に①楽しいこと、②美しいこと、③新しいことの3つをキーワードに素晴らしい人生を生きたいと思っています。

 そのためにはまず健康でしょう。少し衰えつつある体もんじを巻き戻して元気を回復しなければなりません。またこれまで無造作に書き綴った膨大な資料を記録として整理することもしなければなりません。おっと、こう書くと今までと何ら変わりない忙しい人生になりそうです。

 今日は私にとって晴れ晴れとした特別な日です。


  「昨日今日 何も変わらぬ はずなのに ゼロに戻して 再び歩む」

  「少しだけ 肩の荷降ろし すっきりと 明日になったら またもや同じ」

  「いよいよか 最終コーナー 鞭を打つ 駄馬ゆえ早く 走るあてなし」

  「老兵は 去るが一番 後頼む 俺にゃあも少し やるべきことが」 

 

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shin-1さんの日記

○すっかり板についたマイバック

 私は業務用と買い物用の主に二つのバッグを持って行動しています。業務用とかバッグといえるかどうかは分かりませんが、あえて業務用といっているアタッシュケースは木でできたカバンで、もう20数年も愛用しているのです。最初はなんてダサイ田舎風のケースだろうと、持って歩くのも気がひけたものです。しかし私が知る限りではこれまで出会った人で、こんな特徴あるカバンを持って歩いている人には出会わなかったことをいいことに、今では木のカバンを「木になるカバン」などと勝手に命名し、全国各地を訪ねる講演会には必ず提げ歩いているのです。今ではすっかりそのことが有名になって、カバンの話や名刺の話だけでも有に一時間くらいは話題提供できるのですから面白いものです。このかばんの最大の欠点は重いことです。最も中に入れているものが自著本やハーモニカ二本など、書類関係の重いものが中心なので仕方がないのですが、まあ体力作りだと思ッて我慢しているのです。お陰さまでまるでポパイのように腕力がついたような錯覚を覚えているのです。

 このかばんの最大の特徴は何といっても私以外に持っていないというオンリーワンだし、木でできているため膝の上に置いて座ると、まるで動く机のような錯覚で、このかばんの上はたちまち机に早変わりして原稿を書いたり、時には駅のベンチなどで刃街を書いたりして重宝しているのです。このカバンも長年の乱雑な扱いや疲労がたたり、私の年齢と同じように少々くたびれてきましたが、もう長くない私の講演現役生活の間くらいは持たせようと、愛おしく使っているのです。

 さてもう一つのバッグは、今流行りのマイバッグと称するものです。テント布地でできているこの頑丈なバッグは長男がくれました。コープえひめの有識理事に就任した3年前から愛用しています。生協運動にかかわり始めた私は、多少なりともこの運動を理解し行動に結びつけようとレジ袋の減量に取り組みました。ある友人からは、「あんたがレジ袋を断っても年間ではたかが知れていて環境問題には役に立つものか」と揶揄されたりもしましたし、まして「買い物に行くのに男がマイバックを持って行くのは恥ずかしくないの」なんてことも言われました。確かに最初は少し気恥ずかしい気もしましたが、今ではマイ箸運動と合わせて実施している私を見て、同じように行動してくれるようになった人が4~5人くらいはいるのです。これぞ感化だと4~5人の人の行動に影響を与えたことを喜んでいるのです。

若松進一ブログ(私のマイバック)

 何かをするときの効果は3つの次元で測れると思います。まず一つは直接効果です。私が買い物に行くのは高々しれていますが、それでも月に2から3回はレジを通るのですから一年間で3枚×12か月×3年=108枚の節約となって資源・ゴミの減量・温暖化防止につながったという自負なのです。たった一人が3年間で100枚程度といえばそれまで、「でも」「若しも」は言いたくありませんがこれが市民全体に広がったら凄い数だと想像するだけでも優越感に浸るのです。

 二つ目は間接効果です。レジ袋を断ることで自分と物の関係を見つめ直すことができ、レジ袋に限らずもっと広い意味で環境や地球に役立つ意識やライフスタイルを考えることができるのです。3つ目の効果は気持ちがいい効果です。レジ袋を断ってマイバックに入れて店を出る清々しさはいいようのない清々しさです。最初は男のくせにみみっちいような人目が気にもなりましたが、今は私が先進的と思えるようになりました。私は少なくとも友人4人の意識を変えました。これこそ生協運動の減点なのです。これからもマイバックのような精神で生きて行きたいものです。

  「マイバッグ 最初はどこか 恥ずかしく 今では堂々 むしろ優越」

  「ちょっとした 一人の勇気 この地球 救う一手と 私だけでも」

  「愛媛産 愛があるぞと 書いている 貰った袋 提げて買い物」

  「息子から 貰ったバッグ だから意味 無駄をなくする 勇気きっかけ」

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shin-1さんの日記

○春が来た・何処にきた・里に来た・山に来た・野にも来た

 先日の大風が春を運んできたのでしょうか、昨日あたりからすっかり春めいて、昨日はいい天気ながら黄砂の影響で遠望の視界が効かないようでした。家の周りには先日の大風で裏山から杉の葉っぱなども飛んできて、裏庭の側溝に溜まっていたので、少しは亭主らしきことをしようと殊勝にも作業着に着替え長靴を履いて掃除をしました。同居人の親父や妻から「まあお珍しい、雨でも降らなきゃあいいが」と笑われてしまいました。

若松進一ブログ(ミツバチは元気に働いていました)

 掃除をしながらふと、「人間牧場の苗床ハウスのビニール被覆は破れていないだろうか?、井上登さん方からお嫁入りしてきた蜂の巣は大丈夫だろうか?」と心配になって、急いで軽四トラックを走らせて行ってみることにしました。自宅から人間牧場までは僅か15分で到着します。人間牧場に到着するなり乗っている車の前を綺麗なキジがトコトコあるいて散歩しているのです。私は持っていたデジカメを急いでケースの中から取り出しました。久々のシャッターチャンスですが、急げば急ぐほどあどえるものです。結局は上手く撮れませんでした。

若松進一ブログ (私の前を悠然と歩くオスのキジです。どうやら下の畑に巣作りして鳴いているキジのようです)

 ミツバチの巣箱は今回も一個、無残にも風で吹き飛ばされて倒れていました。井上登さん方から興し入れの巣箱は名人が設置しただけあってビクともせず、働き蜂たちはせっせと忙しく巣箱に出入りして私を喜ばせてくれました。井上さんの話だと、ミツバチの分家まだ先の温かくなってからだそうなので、分家用に用意した二つの巣箱は今後も転げないようにしっかり固定するよう調整したいと思っています。

 苗床の被覆ビニールは無事のようでした。苗床の中では温かいからなのか早くも雑草が伸び始めていることが曇ったハウス内から見えました。サツマイモの種イモの芽吹きはまだ先のようですが、まあ順調に着床しているようでひと安心です。

若松進一ブログ (人間牧場から見える豊田漁港)

 黄砂に煙るといっても人間牧場からの近望はすこぶる良く、眼下の豊田漁港はそれは見事な風景を変らず見せていました。この原風景はやはり人間牧場の宝なのです。メジロが忙しく飛び交い、向かいの山ではまだ下手くそなウグイスが「ホーホケ」くらいで「ケキョ」まではつながらない鳴き声を出して盛んに練習をしているようです。

通りすがりに見た西嶋さんのお家ではもう早咲きの桜が満開を迎えていました。

 帰り際、閏住菜の花畑の近くに妹が店を構えるくじらに立ち寄りました。菜の花も少し峠を越しましたが、それでも特老のお年寄りや地元の保育園児がやってきて花を愛でながら楽しくひと時を過ごしていました。

若松進一ブログ(閏住の菜の花)

  「北の国 未だ氷に 閉ざされて されどわが町 春真っ盛り」

  「留守中に 強風吹いて 箱コロリ 被害少なく ホッとしました」

  「菜の花も いよいよバトン 渡すとき 来たよとばかり 桜膨らむ」

  「目の前を 剥製のような キジ一羽 悠然歩く カメラ収める」

 

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shin-1さんの日記

○忘れていたホワイトデー

 「お父さん、14日はホワイトデーだったのよ、覚えてた?」と、昨晩唐突に妻がいうのです。リタイヤをして4年も経つとさすがにバレンタインデーにチョコレートを貰う数も減って、ホワイトデーなどすっかり忘れていました。職場にいた頃は机の引出しにそっと入れられているチョコレートを発見しときめいたものでしたが、いまはそれもなく時折得用大袋のチョコレートを無造作に開けて「間もなくバレンタインです。義理チョコなのですが何個でもお取り下さい」と、まるで笑い話のようなチョコレートしか貰わないようになってからは、ホワイトデーなど無縁とばかりに無視しているのです。

 妻はそんな落ち目のご主人である私を気遣って毎年、「これはバレンタインデーの贈り物」と前置きし贈り物をしてくれるのです。これも義理チョコならぬ義理贈り物と受け止めて貰っていました。ゆえに妻は2月14日の裏側にある3月14日に義理キャンデーを求めるのです。

 「昨晩は3月17日でもう3日も過ぎているから今年のホワイトデーはなしだ」と妻に言うと妻は納得しないので、仕方なく先日の周防大島研修会の清算金を事務局から8千円いただいていて、ポケットにそのまま入っていたのでさも用意していたような顔をして渡してやりました。

 「お父さんありがとう」と、滑り込みセーフの現金プレゼントに妻は大喜びで、「幼児教育人権同和研修会」「少年少女おもしろ教室実行委員会」と続いた昼夜2集会を終えた少し遅めの夕食は、妻の上機嫌で一品増えて何時になく賑やかでした。

 この年齢になると「女房やくほど亭主持てもせず」を夫婦ともども認識して、お互いがお互いをいたわりる心が芽生えてきます。私はこれまで妻の記念日にはたとえ少額でもプレゼントをしてきました。妻の誕生日、結婚記念日などですが、これからも懐の許す限り続けてゆこうと思っています。

 私は明朗会計で、妻は私の財布を常時点検して一定量の金額を継ぎ足してくれています。外で働くことが多い私はかなりのお金を使います。しかしその財布からプレゼントすることはできないので、当然私のポケットマネーからの出費なのです。二重財布とも思えるポケットマネーがどうして捻出できるのか、これは妻の私を疑う最大の原因のようですが、それでも私には妻にも言えない出費だってあるのだから当然だと思うのです。

 私は決まった小遣いは大蔵大臣たる妻から頂きません。それででもたまに原稿料などが入ったものをストックしているし、自費出版した本の売り上げは別会計にして次の出版に備えてストックしているのです。

 まあ今年のホワイトデーもどうにか機転ですり抜け、妻の納得を引き出しました。次の記念日は5月5日の結婚記念日です。子どもの日が結婚記念日ゆえに妻はこの日を忘れるはずもなく、また私はせっせと小遣いを貯めて妻のためにプレゼントをしなければならないのです。考えてみればこんな他愛のない夫婦のやり取りで、夫婦の絆はかろうじて保たれているのですから面白いものです。

 センターの松本さんがオレンジデーなどと訳の分からない記念日を、新しい地域おこしにしようと秘策を練っています。いい企画なので1枚乗っています。ここだけの話ですかこれ以上記念日が増えると私は自己破産宣告をしなければならなくなりますので、妻には内緒でやってくれることを祈っています。(笑い)

  「記念日の 度に財布が 空になる それでも絆 深くなるから」

  「これ以上 記念日なんて 欲しくない 妻の要求 今年も定番」

  「用意した 風に見せかけ ホワイトデー すり抜け渡し 事なき得たり」

  「義理チョコも 義理キャンデーも 元たどりゃ 何の事なし 飴菓子会社」

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shin-1さんの日記

○ブルーベリーの鉢植えが届きました

 春2番と目される強風も電話の向こうの出来事と思うほど、先週は旅がらすを続けていました。家に帰って辺りを見渡すと、知らない間にわが町はもうすっかり春の装いです。裏庭の斜面には若草色の百合の葉っぱが勢いよく伸びて春を実感させてくれるのです。いつの間にか家の横にある家庭菜園も冬野菜がすっかり姿を消して、夏野菜のための準備が親父の手で進められているようです。

若松進一ブログ(青々と葉っぱを茂らせた野生ユリ)

 昨日夕方家の帰ってみると玄関先に何やら大きな植木鉢が置いてありました。どうやらブルーベリーの鉢植えのようなのです。私と一緒に役場で仕事をしていた西岡栄一さんは退職後、地元の区長をしながらイチゴ園やブルーベリー園を幅広く営んでいて、日頃から実懇にしていただいているのですが、昨年わが家にブルーベリーの鉢植えをいただき、居ながらにして庭でブルーベリーの収穫を夫婦の楽しんでいたのです。その折庭が広いのでブルーベリーの鉢植えを分けてほしいと頼んでいました。そのうち時期になったらお届けしますと約束をしていたのですが、私が留守がちのため連絡が取れなかったようでした。

若松進一ブログ(昨年沢山の実をつけたブルーベリーの鉢植え)
若松進一ブログ(届いたブルーベリーの鉢植え)

 昨日は私の留守中にわが家へご夫婦で来られたようで、去年いただいた分は植えかえしてまでいただいたようでした。早速今日明日にも庭の隅に置き場所を作り、ブルーベリーの栽培に取り組まなければなりません。ブルーベリーの鉢植えは6鉢もあるのでとても楽しみです。早速親父が朝早く隠居からやってきて、ブルーベリーを何処へ置くか相談が始まりました。昨年はブルーベリーを勝手口に置いて毎朝収穫を楽しみましたが、今度は本格的にわが家にブルーベリー園が出来そうな気配なのです。

 ブルーベリーは目にいい食べ物だと言われていますが、その真意は分かりません。でも最近テレビでブルーベリーに含まれているルテインなどが入ったサプリメントが話題を呼んでいるようで、目の衰えを気にする年齢になった妻もブルーベリーに大きな期待を寄せているようです。

 昨年人間牧場へも数本ブルーベリーの苗木を植えました。ブルーベリーは露地栽培は難しいのか昨年は数個実をつけただけでまだ成長は先のようですが、今年は肥料をたっぷりやって成長を促したいと思っています。


 今年の冬は月曜日と木曜日に愛媛大学農学部へ出勤することになって春を迎える準備がすっかり遅れてしまいました。しかいこの仕事も3月までなのであと2週間経てば時間的な余裕ができそうなので、少し本腰を入れて春作業をしたいと思っています。

 人間牧場のサツマイモの苗床は先日の突風で大丈夫だろうかと心配です。上に被せたビニールハウスが破れていると芋の成長が大幅に遅れるからです。今日は午後人権教育のお手伝いに行かなければならず、はてさてどうしたものでしょう。もう間もなく桜も咲きます。駆け足で季節は巡りますが、一番待ち遠しかった春なので、季節の移ろいを思いきり楽しみたいものだと思っています。


  「庭先に ブルーベリーの 鉢植えが 置かれて嬉し 友が運びぬ」

  「昨年は 毎朝庭で ブルーべりー 妻と二人で 摘んで楽しむ」

  「目いいと 言うが本当? そういえば 妻の心も 見通すように」

  「春が来た 春が来たよと 喜んで 鶯鳴いて 俺に知らせる」


 

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shin-1さんの日記

○旅の締めくくりは島根県でした

 徳島・新潟・東京と続いた長旅の締めは島根県飯南町でした。この町は旧赤木町旧頓原町が合併してできた、広島県と島根県の県境に位置する町です。松山観光港を朝一番7時の高速船に乗って瀬戸内海を1時間10分走ると宇品に着きました。市内電車でバスセンターのある紙屋町まで出て、そこからさらに高速バスに乗りました。県境を越えるには高速道路を三次で降り、国道54号線を走らなければなりません。島根入りする時は余程のことがない限りこのルートを走るため、車窓に広がる風景はどこか懐かしく見慣れた光景ですが、この日はごうの川辺りを超える頃には雪がちらちら舞い始め、峠では猛吹雪になりました。国道沿いに立てられた温度計はどんどん下がって峠を越えるとマイナス2度を表示し、重たいボタン雪が大地を隠そうとしていました。

 電話やメールで連絡通り島根行きのバスは降りしきる雪をものともせず、時間通りに頓原停留所へ到着しました。広島から乗ったほぼ満席の乗客で私が一番先に降りるため、車内の降車ボタンを押しての下車です。停留所には役場の伊藤志津恵さんが自家用車で迎えに来てくれていました。彼女に始めて会ったのは島根県で10年も前に開かれたある研修会でした。当時志々公民館の主事をしていたこともあって、講演に来てほしいと誘われ公民館祭に出かけましたが、この公民館へは今回が三度目なのです。今回は会場こそ志々公民館ですが、立脇さんという女性が担当しているまちづくりの講演会なのです。立脇さんたちは一週間前打ち合わせや視察を兼ねて一週間前人間牧場へ来ているため、全ての運びがスムースでした。

 伊藤さんとほたるの茶屋で昼食を取りました。志々地区ではクラインガルデンという貸農園を運営している他、地元産の大豆にこだわった豆腐を作っていて、メニューの中からおからハンバーグ定食を選びました。添えられた菜っ葉の早春の香りも申し分なく、サラダもおからと聞いて驚きながら美味しい味を堪能しました。この地区はダム工事が終わっていよいよ水をためる作業が始まるのだそうですが、60戸足らずの沈む民家は半分くらいが近くの団地に引っ越していましたが、半分は出雲などの地方都市に行かれたようでした。

 食事をしながら伊藤さんと過ぎ越し10年を振り返りました。子どもの成長や家庭のこと、そしてご主人が役場に勤めているため自身が今春で役場を退職する予定だという話を寝耳に水で聞かされわが耳を疑いました。時の流れはまたひとつ思い出を消して行くのかと思うと寂しくなり、一昨年四万十市西土佐村で同じように中途退職した中脇さんのことを思い出しました。


若松進一ブログ(満席の講演会)

 いつの間にか雪も小ぶりになり、満席の会場で講演は始まりました。最前列には顔見知りの渡辺よし子さんも陣取り、また若い人や駐在所のお巡りさんまで私服で交じって賑やかな講演会となりました。

 終了後懇親会が持たれましたが私がお酒を飲まないため、お茶での交流となりました。室内には託児所も設けられ賑やかな子どもたちの歓声で活気に満ちあふれていました。

若松進一ブログ(お茶を飲みながらの交流会)

 そのうちあらかじめ連絡していた雲南市の松島さんが迎えに見えられ、大勢の見送りを受けて広島を目指して出発しました。松島さんは旧吉田村田井公民館の主事をしていた方で、既に退職していますが20年来の付き合いをしていて、今回も広島までアッシー君をかって出てくれたのです。最終便は夜9時30分なのですが、高速バスだと間に合わないための苦肉の策でした。道中の社内では久しぶりに楽しい話に花が咲きました。

 旅の締めくくりが島根県、しかも伊藤さんや松島さんというのも何か因縁めいていました。彼女たちのこれからに期待しながら夜の瀬戸内海を渡りました。

  「またひとつ 島根の星が 別世界 寂しいけれど これも宿命」

  「おからまで 活かした知恵は さすがです おからのサラダ 初めて食べた」

  「見覚えの 峠を何回 超えたやら 指折り数え 顔々浮かべ」

  「新しい 力にバトン タッチして 世代交代 俺もそろそろ」

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shin-1さんの日記

○天下の八海醸造でもてなしの心を学びました

 皆さんは「八海山」という名前を聞いた時どんなことを思い出すでしょう。私のような下戸(お酒を飲まない人)であれば「八海山」という山の名前くらいしか連想しないのかも知れません。しかし通な人(お酒を愛する人)であれば、一度や二度は聞いたことのあるお酒の銘柄だとすぐに分かるし、一度は飲んでみたい酒でもあるのです。その蔵元である八海醸造さんからこの度講演の依頼が舞い込み一も二もなくお引き受けしました。私の今回の招聘には越後湯沢ぽんしゅ館の高村秀夫さんが絡んでいて嬉しいことなのです。

 八海醸造は上越新幹線浦佐駅からそんなに遠くない八海山の麓にありました。八海醸造は年間3万4千石ものお酒を醸造する全国的にも名の知れた蔵元です。1石が一升瓶で百本だと聞きましたから、3万4千石という数字は気の遠くなるような数字なのです。最近は焼酎やワインに押されて日本酒の飲酒量が右肩下がりだと聞いていましたが、この酒蔵は別格で関東を中心に愛飲されているという話を、八海山の雄大な自然をバックに中村企画課長さんから聞かされ納得しました。八海山のまろやかな伏流水、魚沼でできる美味しいお米、杜氏さんの確かな技、そして北国の寒い風土が三位一体ならぬ四位一体となって八海山という芸術品にも似たお酒は出来上がるのです。私の町に朝日酒造の特約店があって久保田などが販売されているため、新潟のお酒については店主の三井典行さんから随分聞かされていましたが、その三井さんも昨年ガンで亡くなり、縁が途切れたように思っていましたが、今回の蔵元での講演会でがぜん新潟が近くなったような感じがして、新潟入りする直前に東京御徒町のスーパーで八海山を買い求めて宅配便でわが家宛てに送ったのです。

若松進一ブログ (地ビール工場の二階にある結婚式もできるという素晴らしいレストランが講演会の会場でした)
若松進一ブログ (地元の著名人が名を連ね、会員さんたちが80人ばかり集まっていました)

 八海醸造は地ビール工場も持っていて、この日の講演会は工場の二階にある大きなレストランで行われました。船底をイメージしたというまるで木造教会のような見事な建物です。私の話は90分でしたので、少し早口での講演になってしまいました。私のような田舎者の話にも熱心に耳を傾けていただきました。

 普通だと講演会後のパーティでは八海山を飲みたかったのですがそれもかないませんでした。それでも盃にほんの少し注いでいただき香りと味をたしなませていただきましたが、いやあ出されたお酒は蔵元が自信を持ってここだけしか出さないし飲めないという幻の一品だけあって、参加者も心得ながら飲んでいました。地産をモットーにしたシェフのこだわり料理も最高で、特に雪下人参のスープはこれまで飲んだどのスープよりも美味しかったと、自分の舌が今もその味を覚えているのです。

 蛇足ですが、この素敵なホールでハーモニカの音色を響かせたいと急に思いつき、中村課長さんにお願いして最後に演奏をさせてもらいました。

若松進一ブログ (この方が社長の南雲二郎さんです。中々の太っ腹でいいお出会いとなりました)

 パーティは時間を延長して午後9時30分で中締めとなりましたが、その後主だった人たちは会社の横にある迎賓館のような凄い民家に招かれ、会長である社長のお母様の手料理を頂きました。この会社先代とともに育ててきた会長さんの人をもてなす術にはもうただただ感心するばかりでした。一族会社は得てして気ぶらいが高いものですが、会長さんのひたむきな姿を見て、この会長さんとの出会いだけでも新潟に出かけた甲斐はあったと一人嬉しくなりました。酒の肴に出された会長さん自らが作られたという手料理の数々は、損所そこらでは食べられないものばかりでした。


若松進一ブログ(お座りの方が会長の南雲仁(あい)さんで、この料理を全て作られたそうです。いやあ驚きました)
若松進一ブログ(私もご相伴にあずかりました)

 その夜の宿泊所での管理人さんのもてなし、あくる朝社員食堂での朝食とすっかり迷惑をかけ、挨拶もそこそこに会社を出て帰路につきましたが、繁栄する会社のもてなしの仕方をしっかり胸に刻んだ八海醸造での一泊二日でした。


  「蔵元で もてなし心 学びつつ 雪の寒さを 忘れて熱く」

  「船底を イメージしたと いうホール ハーモニカ吹く 響き朗々」

  「酒絶った ことを悔むや 八海山 鼻に近づけ 香りだけでも」

  「この酒を 親父に飲ませ やりたいと 思うだけでも 孝行つもり」  

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shin-1さんの日記

○清水女史と二人で束の間の東京を楽しむ

 私の町から新潟を目指すには松山空港まで車で行きます。空港近くのコナンパーキングに車を宿泊させ、羽田空港を経由します。羽田からモノレールで浜松町まで出て、東京か上野から新幹線で新潟入りするのが一般的な旅のルートです。すんなり乗り継ぐと遠いと思っている新潟も場所によっては午前中に着くのですから、便利で早くなったものです。

 今回はほくとう総研(北海道東北総合研究所)の清水女史が同行していただくことになりました。今回の新潟行きは元はといえば、清水女史によって引き合わせていただいた越後湯沢ぽんしゅ館の高村さんの仲介によるもので、私の新潟行きを知ってわざわざ休みまで取っての同行で恐縮してしまいました。

 清水女史とJR御徒町北口にあるスーパー吉池で落ち合いました。飛行機の便が早かったため、午後の待ち合わせに十分時間があって、食事をご一緒したり吉池総務部の三浦女史とも出会って、吉池のお店の惣菜や鮮魚、酒類部門の見学をしましたが、いずれも凄い人気のお店で参考になることがいっぱいあり行きずりの見学ながら勉強をさせていただきました。

 清水女史とは秋田県横手への同行、2015年問題で新潟入り同行、ほくとう総研の現地調査で愛媛県視察の折の人間牧場見学、ほくとう総研への寄稿文掲載など何度か同行したりお仕事をさせてもらいましたが、山梨県清里に住む観光カリスマの舩木上次さんとも深い交友があることから、急速接近の間柄になっているのです。

 清水女史は今回新しい名詞を持っていました。東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻、人文地理学教室博士課程という、東京大学らしく難しい学問を習っているのだそうです。政府系金融機関の職員でありながらほくとう総研という研究機関に出向して、それでも飽き足らず学びながら博士を目指す向学心は立派という他はないのです。私の周りにはこのような進化人類が何人かいて、出会うたびに進化している姿に私自身が感化を受けるのです。

 私も清水女史と初めて出会ってから随分進化したつもりでしたが、それでも清水女史にはまだまだ叶わないと、リベンジの相手ではないにしても頑張らねばと自分自身に進化を誓いました。

若松進一ブログ (久し振りに出会い、新潟まで同行していただくことになった清水女史と二人で東京見学ができました)
若松進一ブログ (上野公園入り口の桜は満開で一足早い花見を楽しみました)
若松進一ブログ (上野公園の象徴である西郷隆盛の銅像、彫刻家高村光雲の作です)

 吉池で食事をした後清水女史と私は御徒町からアメ横をぶらぶら歩き、上野公園を散策しました。少し肌寒いものの上野公園入口には早咲きの桜が今を盛りと咲いていて、一足早い花見を楽しみました。その後上野公園の敷地内にある忍ばずの池へ下りて行きましたが、東京のど真ん中ながら野鳥が沢山群れてのんびりとした気持ちにさせてもらいました。

 忍ばずの池周辺の木々の芽も膨らんで、風に揺れる柳の芽は伸び始めていました。この日は風が強く、私たちの地域では風雨が強くなったと、妻から電話連絡が入りました。

若松進一ブログ (深い紫色の釣鐘桜も咲いていました)
若松進一ブログ (忍ばずの池の入口の東叡山寛永寺境内)
若松進一ブログ (寛永寺の八角堂)
若松進一ブログ (間もなく忍ばずの池の真ん中を横切っている細い歩道沿線は桜の花が咲き、一年で一番美しい季節を迎えます)

 やがて私たち二人は上野から新幹線に乗り新潟を目指しました。この日は何故か列車の指定席が満席で取れず、時間があるので一便早い各駅停車に乗って座席を確保しました。越後湯沢で後発の新幹線に乗り換え、目的地である浦佐の駅に着きました。


  「西郷の 銅像見上げ いにしえの 敬天愛人 言葉を思う」

  「忍ばずの 池の周りに 羽休む 野鳥の背中 太陽そそぐ」

  「東大の 院生名刺 持つ女 心優しき 気配り合わせ」

  「束の間の 東京散歩 楽しけり 早咲き桜 一輪肩に」

 

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shin-1さんの日記

○八海山の麓にて

 上野発上越新幹線MAXときに乗り新潟県浦佐を目指しました。越後湯沢を出て長いトンネルに入ると日本地図が頭の中に思い浮かび、、日本の背骨だと思われる山脈の下を走っているような気分にとらわれまし。やがて暗闇を抜けると、川端康成の小説の書きだしと同じような「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という表現がぴったりの雪景色が窓いっぱいに広がり、車内の人の目が一斉にそちらにくぎ付けとなりました。物知りな地元の人が「あれは八海山といって・・・」と簡単な説明を刷る言葉を聞きつ、車内放送と列車の減速にせかされながら降り支度をしました。かつて6年前の秋新潟へ行った時走ったと同じコースなのに、浦佐という駅名は全く思い出せないくらい知名度の低い駅なのです。新潟出身の宰相田中角栄のツルの一声でできたという駅だけあって、駅の周りは田んぼが広がり、どう欲目に見ても新幹線の駅とは思えない雰囲気でした。

若松進一ブログ (新幹線の車窓から見えた八海山周辺の雪景色)

 同行していただいたほくとう総研の清水女史と二人で改札口を出ると、八海醸造の中村企画課長さんが出迎えてくれました。3人で車に乗り込み田んぼの中の道を走りましたが、西に傾いた太陽の輪郭の横に、まるでツルが羽を広げたような不思議な雲を発見しました。私の指さす方を3人で見とれましたが、持っていたカメラで車窓から珍しい光景なので写真に収めました。目で見た興奮ほどには仕上がっていませんでしたが、すごい迫力でした。

若松進一ブログ (鶴が翼を広げたたような雲)

 その日の宿は、八海醸造の会社が保有している宿泊所で、ケヤキ材などをふんだんに使ったこれまたすごい木造建築物でした。昨年2015年問題のシンポジウムが南魚沼市で開かれパネラーで出席しましたが、その折訪れた見覚えのある富岡ホワイトという美術館の前を懐かしく通り、八海山が目の前に迫る凄いロケーションの場所に宿泊所はありました。チェックインといってもその日の宿泊は私一人なので、管理人のおじさんが優しく迎えてくれました。

 私はこれまで、迎賓館といわれるような場所に何度かお邪魔させていただきました。広島県呉市下蒲刈町の竹内町長さんの計らいの迎賓館、岡山県水島の三菱化学が持っている迎賓館などですが、この宿泊所もそれに次ぐ立派な建物で、この家に泊めてもらえることを幸せに思いました。

若松進一ブログ (宿泊させてもらった八海醸造の宿泊所)

 この日わが町では春一番に匹敵するような南西と北西の風が天地を揺るがすほど吹き荒れたというのに、西に沈もうとしている夕日は八海山を優しく照らし、まるでサーモンピンクと表現するにふさわしい優しい容姿でした。室内からは浦窓越しに雪景色と凍った庭池が見えました。

若松進一ブログ

 中村課長さんと記念撮影をさせてもらいましたが、こんな素敵な光景は地元の人でもめったに見れないということで、ラッキーボーイを自認する私としては、いつまでも記憶にとどめたい一枚でした。

 
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 夕日に魅せられた男に反応してくれた白銀の中の夕日にも感謝しなければなりません。旅先で偶然に見ることの出来た冬枯れの木立に沈もとする夕日も乙なものでした。


  「大鶴が 天空羽根を 広げたる ような雲見て 感激しきり」

  「八海の 麓に一夜 宿を借る 至福この上 無きに等しく」

  「旅先で 夕日までもが 祝福し わが意得たりと 饒舌話す」

  「春はまだ 先のようだな 八海山 雪解けの頃 再び三度」  

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shin-1さんの日記

○インターネットが開かない?

 長い徳島や新潟を巡る旅を終え、帰りに大学の会議に出席してやっとわが家に着き、明くる日は再び島根へ旅立つため、メールの処理やブログの処理だけでもしなければなるまいと一昨日の深夜パソコンを開け、インターネットに接続しようとするものの、どういう訳かインターねっtが言うことをきかなくなりなっていました。前日までFAXの修理にNTTへ電話機を預けていたのが帰ってきており、そのせいだろうかと電話回線の接続などを知る範囲でいじってみましたが、原因が分かりませんでした。明くる日が5時出発のためそのままにして諦めましたが、テレビを見ていた妻が私の動作を見て、「お父さんひょっとしたらこれが原因かも」とNTTの一枚の請求書を見せてくれました。この請求書はインターネットの回線使用の請求書なのです。電話などは銀行自動引き落としにしているのですが、インターネットはISDNに加入したのが遅かったし、別会社化されて電話と支払いが分離したので、毎月妻が請求書が来るたびに振り込んでいたのです。

 妻はその請求書を自分のバッグに入れて振り込みをすっかり忘れていたのです。見ると3月11日までの振り込み期限でした。私は妻を叱りましたし妻も忘れていたことを詫びましたが、冷静に考えれば私のインターネット使用料のことで妻を叱ることはなかったと深く反省したのです。

 昨日の朝出かけ「くれぐれも今日中に振り込むよう」に頼んで出かけました。妻は土曜日だったため金融機関が休みなので昨日の昼休みに、伊予市のコンビニまで走り振り込みを終わったようでした。昨晩の夜遅く出張先の島根県から帰宅しインターネットに接続したら、復旧していました。何ともはやお粗末な話です。お金を払わないでインターネットの接続を止められたのは初めてですが、もう10数年前にも一度このような不始末で電話が止まって大騒ぎをしたことを思い出しました。

 ある日のこと町長さんから「数日前からあなたの自宅へ電話をかけるのですが、お客さの都合によりこの電話番号は使えませんとコールされて電話が通じない。どういうこと?」と聞かれました。「そんなことはないはずですが?」といって、職場からわが家に電話をかけましたが、町長さんが言うようなメッセージがコールされるのです。自宅に戻って調べてみると電話が全く通じないのです。故障かも知れないと思い妻に調べてもらったところ、妻が銀行引き落としの通帳にお金を移すのを忘れていて、残高ゼロのためNTTから電話代未払いで電話回線が切られていたのです。

 私は顔から血が引くような気持でしたし、妻もそのことを恥じてそれからはトラブルもなく過ごしてきたのです。今回は単純なミスなので笑って済ませたし、直ぐに復旧し事なきを得ましたが、この際自動引き落としにしなければと妻に指示をしたところです。

 しかし最近は通帳を見ると電気度代や水道代など様々な自動引き落としの項目が妻の管理する通帳には無造作に記載をされていました。そのいちいちを妻はチェックしているようですが、私はそんなチェックの暇もなく日々を過ごしています。この際無駄なものは整理をしようと思った次第です。


  「代金を 払わず回線 止められた インターネットが 動かず右往」

  「十年も 前の出来事 思い出す 電話通じず 町長注意」

  「わが暮らし インターネット なくなれば はてさてどうなる 考えられず」

  「四日間 長旅故に 助かった メールの山に ただ驚きて」

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