shin-1さんの日記

○思い出の銀杏の木

 今朝人間牧場へ草刈りに行く途中母校である下灘小学校へ立ち寄りました。とっさの思い付きだったため、首には田舎のおじさんよろしくタオルを巻きつけ、作業着のままでの訪問です。学校の校門は不審者対策のため閉められていましたが、通用門を開けて中へ入りました。校庭で授業をしていた先生と児童は、私を不審者と思わずやり過ごしていただきました。運よく顔見知りの校務員さんがいて、校長室へ案内してくれました。この学校は5代続けて女性の校長さんで、今年の春に県教委から異動で赴任して来られた辻井芽美子先生です。 研修会や少年少女おもしろ教室で何度かお会いしたことがあるのですが、先生が来られてから学校へ来るのは初めてのような気がして、少し気が引けました。

(辻井校長先生)

 今日なぜ急に思いついて学校へ立ち寄ったのかは理由があるのです。まもなくの10月21日、この学校で第50回青少年赤十字研究会があって、私はこの日講演を頼まれているのです。前任の池田校長先生から一年前に頼まれていたので少し役不足の感がしますが、まな板の上に乗った鯉のように今はあきらめて何を話そうか迷っているところです。

 この下灘小学校は私の母校です。学び舎だった木造校舎も既になく、鉄筋コンクリートに生まれ変わっていますが、現在の校舎が落成した時が私の役場に入った年なので、落成式の手伝いにをしたりしたためよく覚えているのです。

(銀杏の木プロジェクトで見事息を吹き返したシンボルの樹)

 学校の脇門付近にシンボルともいえる大きな銀杏の木があります。私が子どもの頃は目線が低かったせいか、見上げるほど大木のような気がしましたが、今はそれほど大きくは感じられないのです。というのも数年前寄る年波とでもいうのか受精が衰え枯死寸前だったのです。学校や子ども、それにPTAなどが中心になって樹木医の指導を得て「銀杏の木プロジェクト」という事業を立ち上げ、「銀杏の木を救え」を合言葉に一生懸命取り組みました。根元を掘りそこにみんなで焼いた炭で土壌改良をしたりしました。その結果銀杏は主幹こそ弱ったものの脇芽がどんどん出て見事に樹勢を回復したのです。

 私は当時教育長をしていて色々と陰で応援しましたが、学校のシンボルであるこの銀杏はまさに木霊宿る樹なのです。

 私たちの子どもの頃はこの木が何となく邪魔でした。校庭の隅ならいざ知らず、見方によっては運動場の少し真中気味な所にあるので、ソフトボールの度にこの木にボールが当たるのです。下灘小学校ルールというのがあって、銀杏の木に当たると二塁打なのです。公民館のソフトボールにもこのルールが適用され、試合巧者なチームはこの特典を上手く使って勝ち進んだのです。

 久しぶりに見た銀杏の木は殊のほか元気で私を迎えてくれました。校長室でお茶を飲みながらお話を終えて帰るとき、校長先生に校門まで送っていただきました。この学校もまだ40年くらいしか経っていないのに老朽化が進んでいるようです。また子どもの数も50人程度で、私たちの時代の一クラスくらいなのです。少子化の波がここにも押し寄せているようで、寂しさを感じました。

 そういえば10月21はもう一週間後なのです。学校を訪問して初めて気が付きました。一週間後にはどんな気持ちでどんな話をすればいいのでしょう。地元は中々やりにくいものです。まあ何とかなるでしょう。

  「真っすぐを 思いつくまま 左折して 学校訪問 昔の母校」

  「コーヒーは 飲まない覚え 紅茶出る 懐かし人の 今も変わらず」

  「生き返る 銀杏の姿 嬉しくて 思わず写真 パチリ一枚」

  「少子化の 波が打ち寄せ 子ども減る 日本全国 寂しい限り」 


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shin-1さんの日記

○友人の見舞い

 毎朝新聞の訃報欄を見る度に、自分と同じ60歳から70歳辺りの年齢で亡くなっている人が載っていると、少し変な気持になります。「ああそろそろ自分もそんな年齢になったか」と思ったり、「いやいや自分だけはこれからも元気でいたい」とやせ我慢の気持ちが心の中で頭をもたげたりするのです。訃報欄を見る限りは確かに80歳や90歳の人の訃報が圧倒的に多く高齢化社会を印象付けますが、それでも60歳前後の今時若いと思われる訃報はなぜかわがことのように心が痛むのです。

 昨日ラジオで「命」をテーマにした番組が組まれ、それぞれの著名人が「命」についてうん蓄を述べていました。「命とは今を生きること」「命とは他の命をいただいて生きること」「命とは生かされて生きること」「命には大小の差などない」などなど、自殺者の数が3万人を超えた日本の悲しい現実に向かって沢山のメッセージを発していたようです。

 私も何度か命の危険にさらされました。怪我などは別として、自分の知らない間に体の中に異変が起こり、25歳の時に一回、56歳の時に一回それぞれ大病を患いました。幸いその病気は体内に火種を残しつつ現在に至っていますが、再発しない保証はどこにもなく、「体に悪いことは止める」の一心で酒をやめたりしながらこれまで何とか命をつないできました。しかし体力の衰えを少し感じる年代になると、死への不安がちらつき始めるのです。昨日の朝、90歳になっている親父が「わしも長くはない」といきなり言うのです。私は持論を展開し「県内には100歳を超えた人が650人もいるのだから、まだまだ10年は大丈夫」と精をつけてやりました。親父の年齢まで生きるなら私などはまだ26年間も生きねばならないのです。

 「命とは今を生きる」ことだとすると、今の連続が人生ですから今をしっかりと生きねばならないのです。また私たち人間は動植物の命をいただいて自分の命を作っているのですから、体に良い命をいただいて感謝しながら生きねばなりません。さらに「生かされて生きることも頭に置かねばならないのです。私の健康の源は私だけで到底守れるものではありません。妻は私が病気になってから人一倍食事に気を配り、体にいいものを食べさせてくれます。言い換えれば私の健康は妻のおかげなのです。

 一昨日友人の見舞いに松山の病院へ立ち寄りました。日曜日とあって病院の中はやけに静かで、どこか扶南さえ感じさせる静けさでした。数日前見舞いに来ているものの、病院は病気の進行状況によって病室が変わるため受付のおじさんに病室を聞きました。するとやはり前と違った病室でした。4人部屋が個室になっていました。ノックして部屋に入ると娘さんや親類の夫婦と思しき人がいましたが、顔見知りの私の来訪を知って、狭い病室から出られ、私に席を譲ってくれました。ほんの10分足らずでしたが、本人の口から病気の状況を聞きました。最近肺炎を併発して差し当たり元の病気である肺がんの治療はさて置き、肺炎の治療に専念しているとのこと、隣の人に迷惑をかけるので個室に移ったことなどを、息苦しい言葉で説明してくれました。彼が言うように前回から見ると病状はおもわしくないようでした。それでもしっかりとした口調で「命」について語ってくれました。自分でどうすることもできないもどかしさが、元気なころは気丈だっただけに強く伝わって胸が痛みましたが、早く元気になってと月並みな励ましをしてしっかりと握手をして病室を出ました。

 「ここにも生きようとうする命がある」と、長い廊下に向かって掲げられた部屋ごとの病人名の名札を眺めながら思いました。エレベーターを待っていると「若松さんではありませんか」と車いすの方から声をかけられました。「何をしに来られましたか」「はい友人の見舞いに来ました。ところであなたは」「はい私は糖尿病でもう3ヶ月も入院していますが、一向に良くなりません」と笑って話されました。見覚えのある人の顔を見ながら「頑張ってください。早く良くなりますよう祈っています」「ありがとうごじます。がんばります」と会釈をしてエレベーターに乗り込みました。「命・命・命・・・・・・・・」頭の中で「命」という言葉がグルグルと回っては消えてゆきました。

  「生きたくて 生きれぬ人も いるんだよ 命粗末に することなかれ」

  「友人の 日増し弱りし 手を握り 頑張れいいつ 病室を出る」

  「昨晩も 眠れぬ一夜 だっただろう 眠った吾の 一夜比較し」

  「病室を 出でて車の カーラジオ 命特集 命命か・・・・・」

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shin-1さんの日記

○親子で温泉

 警察官をしている三男の息子が久しぶりにわが家へ帰ってきました。特殊な勤務ゆえ赴任地から約2時間ほどなのですが、年に1回くらしか帰ってきません。ましてや帰っても仕事がら余り喋らず、妻は少し不満気味なのです。この週末は研修のため警察学校に入校していて、学校が近いこともあって日曜日の夜遅くわが家へ帰って一泊しました。

 昨日は研修が終わる最後の休日らしく、親子三人で奥道後へ日帰り温泉に行くことになりました。奥道後までの道中は自宅から1時間程ですが、途中でJR松山駅へ立ち寄り、来月長野県へ講演に行く際の旅行チケットを手配しました。昨日は体育の日の振り替え休日とあって、市内は混雑もなく奥道後まで息子の運転する車を走らせました。親子水入らずでの温泉は久しぶりで、温泉とバイキングがセットのチケットをフロントで買い求め、妻とは別に二人でゆっくり入浴しました。息子は生まれてからずっと痩せた体型をしていましたが、この1か月の入校生活が余程リラックスできたのか、少しふっくらしてきたようです。いつの間にか親の背を抜き、すっかり逞しくなった息子の体型に親として少しだけ安心しました。

 奥道後の温泉は湯質もよく、広いジャングル風呂の中には熱帯樹が生い茂り、まるで南国を思わせるような雰囲気で、大小10余りの違った湯質の温泉が楽しめるのです。加えてサウナもあってたっぷり汗をかきました。

 11時から1時間余りをかけたのんびり入浴の後はいよいよバイキングの食事です。昼時を少しずらしたためか、お客さんも満員ほどではなく、比較的ゆっくりとした雰囲気でした。料理のメニューも金額にしては豊富で食べ放題ですが、それほど食べれる年代でもないので、野菜サラダ、お寿司、デザートなど日本食的な好きな食べ物を幾つかみつくろい食べました。息子はやはり若く、唐揚げやウインナーなどをメインにしていましたが、自分で「最近食が細くなった」というくらい、余り食が進まず妻を心配させました。それでも3人はそれぞれの料理を楽しみ1時間弱で満腹感を味わい、早々にお暇しました。

 奥道後周辺の野山はまだ秋の気配をあまり感じられませんでしたが、温泉の入口付近広場では早くも秋の菊花展の準備が始まっているようでした。

 帰りは息子の車ながら妻が変って運転し、温泉の湯疲れと満腹で眠くなった体を後部座席に沈め、息子は助手席でそれぞれウトウトしながらわが家へ帰ってきました。息子は夕方帰る予定だったので、二階の自室に入って午睡を楽しんでいるようでしたが、私は伊予市の水口まり子さん宅へお魚を持って出かけました。

 その夜の夕食は妻の手料理が沢山並ぶいつにない御馳走で、昼間の食事と比較しながら、「やっぱり食事はわが家が一番」と息子と私が妻の手料理を褒めながら食べました。親父もこれと同じ食事が隠居へ運ばれ、少し暗くなった午後6時過ぎ美味しそうに食べていました。

 息子はもう年内には休みが取れないので帰れないといい、妻の用意した着替えや食べ物を車に積んで、満月で明るい夜道を帰って行きました。研修が終わる閉校式があるそうで、また元の任地に戻り厳しい仕事が待っているようです。帰り際「なりたくてなった警察官だから頑張る」と胸を張って帰る姿に頼もしさを覚え、妻と二人で見送りました。

 束の間の息子の帰郷は私たち両親にとってもホッとする、そして安心のひと時でした。これから長い警察官としての仕事を思うと大変でしょうが、それなりに頑張ってくれるものと信じています。いい一日でした。

  「久し振り 帰った息子 誘いあい 日帰り温泉 親子で出かけ」

  「三男と 二人裸の 温泉で 四方山話 花を咲かせて」

  「子と親は 幾つになっても 親と子で 心配の種 尽きることなく」

  「何時になく 御馳走過ぎて 腹調子 少しおかしい 感じになりて」

 

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shin-1さんの日記

○沢山の枝豆をいただきました

 今日午後、伊予市で多角的な育苗農家を営む水口マリ子さんの農業事務所にお邪魔しました。近所からいただいたお魚のおすそ分けとして、ハマチを持参したのです。世の中こうも以心伝心かと思うほど、何の前触れもなしに出かけたのにピッタシカンカンで、倉庫からたまたま出てきたまマリ子さんと出会いました。先日は妹さんと一緒にお米やキャベツなどの苗物をわざわざ自宅まで届けていただいたのに、何のお返しもできなく心苦しく思っていたので、魚を手土産にできて幸いでした。

 いきなり「若松さんちょうどよい所へ来られました。丹波黒豆の枝豆が実って食べごろなので畑へ取りに行きましょう」と誘われ、まマリ子さん運転の軽トラの後ろを付いて走りました、JR予讃線沿い横田駅近くの田んぼへ行くと、見渡す限り広い田んぼいっぱいに黒豆が植えられていて、美味しそうな枝豆の実がたくさん付いていました。

 一昨年も丹波黒豆の枝豆をいただいてコクのある味をしっかり覚えているので、お言葉に甘えいただくことにしました。マリ子さんは慣れた手つきで私と雑談をしながら、あれよあれよという間に次々と根元から切り取ってゆくのです。「そんなに沢山いただいても食べきれないので」と言いましたが、「知人にでも差し上げてください」と私の軽トラの後ろにうず高くなるほどいただきました。

 自宅へ帰ってから、今日は末の息子が帰省しているので喜ぶだろうと思いつつ、丁寧にハサミで摘み取り始めたのです。しかし途中から加わった妻はハサミなど面倒くさくてラチがあかないとばかりに、野性的に手でもぎ始めました。さすが生活力のある妻です。私よりはるかに作業効率がいいのに驚いてしまいました。仕方なく私も手でちぎり始めましたが、夕方になって蚊が出てきたため、今日食べるのは確保したため、作業は明日に持ち越しとなりました。しかしその枝豆の量たるやかなりの量なので、近所へおすそ分けしてあげようと思っています。

 さっそく妻はもぎ取った枝豆を塩茹でしてくれましたが、まあ味は絶品で温かいうちのつまみ食いで腹が太ってしまうほどでした。この時ふと「ああビールが欲しい」とビールを飲んでいたころの昔を懐かしみました。これほど美味しい枝豆はビールのつまみに最高だろうと思いましたが、きっぱり止めたため呑みたいとは思わず、また冷蔵庫に冷やしたままのビールを取り出そうとも思わず、自分の意志の強さを少し褒めてやりました。

 わが家では今年の夏緑の枝豆づくりに挑戦しましたが、残念ながら播いた種が発芽しなかったり、発芽しても折からの水不足で育たなかったりで、残念ながら大不作でした僅かに残ったものも2回程度しか食べることができず、種代で買った方が良かったほどです。でも諦めないで来年こそはとリベンジを誓っているのです。

 私の夢は大豆を作り、収穫した大豆で豆腐を作ることです。ソバも作って収穫した実でソバを打って食べてみたいし、色々なことに挑戦したいのですが、中々忙しくてその夢をかなえることができません。「そのうちそのうち日が暮れる」といわれるように、早くしないと足腰が立たなくなっては遅いのですから、ひとつ来年は性根を据えて頑張りたいと決意を新たにしているところです。

 水口マリ子さんの畑を見て羨ましく思いました。水口さんの畑は朝から晩まで太陽が当たるのです。わが家の菜園は真夏は太陽がよく当たるのですが、晩秋から冬にかけては、太陽が裏山に隠れて日照時間がかなり少ないのです。冬野菜の日照不足は生育に大きく影響するようで、冬野菜の育ちはかなり悪いようです。でも大根などのようにそれなりにできるものもあるので、負け惜しみをいわずせっせと野良仕事に励んで作りたいものです。

 畑の牛肉といわれるタンパク質の多い大豆を今日は存分に堪能しました。水口まマリ子さんありがとう。

  「お魚の お礼に貰った 枝豆を 私ハサミで 妻は野性味」

  「枝豆を 食べて恋しい ビール味 禁酒誓って 早くも十年」

  「豆食べて 豆偏頭 良くなると 信じて食うが 未だ変わらず」

  「枝豆に 丹波黒豆 あるという 味は抜群 モチモチ食感」 

 

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shin-1さんの日記

○親父の背中

 親父の背中におんぶして 海を泳いだ小学生の時 初めて親父の背中の存在を意識した

 親父の背中にしがみつき 沖に浮かんだ船まで浮き輪につかまるように泳いだ

 親父の逞しい腕が船のスクリューのように 勢いよく水をかき分けて進んだ

 親父は強い人間だと思った

 親父の背中が とてつもなく大きいと感じたのは 高校生の頃だった

 水産高校の実習船で遠洋航海に旅立った時 伊豆諸島辺りを通った

 大きなうねりにもまれる実習船のデッキで 親父が小さな漁船を操りながら生きた海を見た

 親父は凄い人間だと思った 

 親父の背中が危ないと感じたのは青年の頃だった

 ガンに侵されベットの上に寝かされた親父の背中を おふくろは湯気の出るタオルで拭いていた

 長くはないかも知れないと医者から聞かされた時 親父の背中に生きていてくれと心の中で叫んだ

 親父は偉大だと思った


 親父の背中が厳しいと感じたのはやはり青年の頃だった

 他愛のない親子喧嘩をして 家を出ると言い放ち家を出た

 行く当てもなく街中をさまよい 泣き付いた叔父に説得されて親父に詫びを入れた

 親父は冷たいと距離を感じた

 親父の背中が自分と同じだと感じたのは息子が誕生した時だった

 名前をつけ這えば立てと成長する息子を 諭しながら育てる時

 はじめて親父の願いが自分の願いと一緒であることを知った

 親父はこんなものかと同じを知った 

   

 親父の背中が小さくなったと感じるのは今朝だった

 親父は漁師の家に生まれ 漁師になるべくしてなり 漁師として海に生きた

 その間様々な難関に立ち向かいながら乗り切り 家族の大黒柱となって生きてきた

 親父はまだまだ生きていて欲しいと感じた 


 自分で見えない自分の背中の小さきを背中に感じながら 親父の背中と比較する

 親父は強いし凄いし偉大な背中を今も持ち続けている

  「親父とは 親父になって 自問する 親父の背中 やはり目標」

  「名も無きに 等しき親父 見習って 名もなく消える それもまたよし」

  「今日の朝 親父の背中 サロンパス 張りつつ思う ・・・・・・・・・」

  「ああ俺も いつかは息子 同じ目で 見られる定め 世のならわしか」

  

 

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shin-1さんの日記

○バナナが品薄

 最近はメタボリック症候群という肥満が何かと話題になって、様々なダイエットがブームを呼んでいます。新聞や雑誌には「私はこうして痩せた」とか、「こんなものを食べて痩せました」と体験談が載るし、テレビも毎日のようにダイエットに関する話題を面白おかしく紹介しているのです。ダイエットといえば食べない苦痛が通り相場なのですが、今の社会は「苦労をせず食べながら楽しく痩せられる」がテーマで、「そんなに簡単に痩せられるのだったら」と口車や宣伝に飛びつきダイエットに挑戦したものの、結局は体を壊して元の木阿弥といった話をよく聞くのです。

 先日泉ピン子さんのダイエットの番組を見ました。一念発起して10キロ以上も痩せた泉ピン子さんの涙ぐましい努力に敬意を払いながら、「太るのは容易いが痩せるのは難しい」ということを実感しました。泉さんが取り組んだのはメモダイエットのようで食べた物をすべて記録することから始めたようです。メモをするうちに食べるものの内容、食べる物のバランスとカロリー量、食べる時間などが明らかになり、太った原因が分かるのです。そして太らない食べ方の原則を発見して、その方法を守れば結構楽しい食事もできるようです。

 私のように昭和19年に生まれ小さい頃は食べるものにも事欠く貧乏暮しで、特に甘いものなど日常的には殆ど口にしませんでした。しかし今考えてみるとそうした質素な日本食は理にかなったダイエットで健康的な食事だったのです。加えて歩くことしか移動手段がなかったためとにかく歩いたことも健康には欠かせない運動量だったのです。昔は食べたくても食べるものがありませんでした。しかし豊かになった今は食べたくないのに食べるものがたくさんあるのですから皮肉な話です。また人間は便利になって歩くための二本の足を持っているのに、高い車乗って足を退化させているのです。

 今世の中で騒いでいて品薄になっているバナナなどは、病気にでもならなければ食べられない贅沢品でした。

昨日妻がどこかのお店でバナナを半房買ってきました。黄色いバナナは食べてみたい食欲をそそるので滅多に食べませんが、バナナダイエットにあやかって一本食べてみました。こんな味だったのかと久しぶりの食感を楽しみましたが、確かにバナナを食べるとお通じが良いようで、整腸作用や食物繊維が多いのもダイエットに適しているのかも知れません。

 何年か前仕事で下関と門司へ行きました。その時ある人がバナナの叩き売りの口上を語ってくれました。面白いと思い自分のメモ帳に書き写していたものが偶然先日机の引き出しから出てきました。

 春よ三月春雨に 弥生のお空に 桜散る バナちゃん因縁 聞かそうか

 生まれは台湾台中の 阿里山麓の片田舎 現場の娘に見染められ

 ポッと色気のさすうちに 国定忠治じゃないけれど 

 一房二房ともぎ取られ 唐丸籠に詰められて 阿里山麓をあとにして

 ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所が 基隆港(キールン) 基隆 台湾一港

 基隆港を船出して 金波銀波の波を超え 海原遠き船の旅 

 艱難辛苦の暁に ようやく着いたが門司港 門司は九州大都会

 門司の港で検査され 一等二等とある中で 私のバナちゃん一等よ

 門司は九州大都会 中仕の声も勇ましく エンヤラドッコイ 掛け声で

 問屋の室に入れられて 夏は氷で冷やされて 冬はタドンで蒸されて

 八十何度の高熱で ~後略~

 このメモはまだまだ続きますが、若い頃はこの口上をよく覚えて物まねをしましたが、今はもうすっかりそのセリフ口上も忘れてしまいました。バナナが一世を風靡する今、もう一度リバイバルに挑戦したいものです。

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shin-1さんの日記

○町並みゼミに参加しました

 昨日から3日間西予市で町並みゼミ卯之町大会があり、宇和町の米博物館講堂へ出かけました。この会場は「地域遺産としての学校建築の保存と活用」がテーマで、「各地における学校建築の保存事例に学ぶ」がサブテーマでした。この会場の担当者がわがえひめ地域づくり研究会議の岡崎直司事務局長と菊池勝徳運営委員なので、支援も含めて参加しました。

 この会場へは、町並みゼミのプレシンポと位置づけられたミニフォーラムが8月23日に同じ場所で行われ、私もパネラーとして参加していたので、迷うことなく一発で到着です。途中えひめ地域政策研究センターの清水さんと保内町のショッピングセンターで待ち合わせ、私の車に同乗して、積もる話をしながらの参加でした。

 私は前回と同じく米博物館の近くの団地に住む三好勇気さんの家へお邪魔しました。シーサイド公園海水浴場で不慮の死を遂げた息子さんの墓前に線香を手向けるためです。玄関は開いているもののあいにく留守でお参りはできなかったので、用意したお供えを玄関先に置き、名詞とメモを残して立ち去りましたが、帰宅した夜になって三好さんからお礼の電話がかかってきました。三好さんは現在闘病生活をしていて、どことなく弱々しい声でした。

 

 前回は夏まっ盛りでセミの声が賑やかに聞こえていましたが、今回は会場の前の大きな銀杏の葉も少し色づきはじめていて、下には無数の銀杏の実が落ちて悪臭を放っていました。

 受付には保内町の安藤さんの姿も見え、ホッとするようなスマイルで迎えてくれました。手渡された新聞紙を使った手作りのエコバックもどこか温かさが伝わって意気込みを感じました。研修会に先立って宇和町小学校講堂を移築した施設の見学会が行われ、長い階段を上がって天井裏を見せてもらいました。これも前回と同じですが、柱のない講堂の構造をみて改めて人間の知恵の凄さに驚きました。

 今回のゼミには物議をかもした滋賀県豊郷小学校、和歌山県高野口小学校、八幡浜市日土小学校と私の町の翠小学校の事例が発表されるので楽しみにしていました。翠小学校は他の3校に比べ比較的保存が上手く軌道に乗った事例です。発表に立った和田由美子校長さんは独自の論法で翠小学校の実態を発表されましたが、居合わせた私や上田教育長さんにも発言の機会が回ってきて、内心驚きました。

 この会場にはすっかり顔見知りとなっている県内のまちづくり人をはじめ、かがり火の菅原社長や三重県から杉谷さんも来ていて、楽しい再会のおしゃべりをしました。

 分科会は4人のパネラーの発表が少し長引き、議論を深めるところまでは至りませんでしたが、聞きたかった発表が聞けただけでも値打がありました。

 学校を含め歴史的価値があるものを遺すには行政、住民、専門家のそれぞれの思いと言い分があって、翠小学校のように色々あっても進行形で進む事例は少ないようです。翠小学校もいよいよエコ改修が始まります。さらにグレードを高めて次の100年を目指したいものです。

  「学校を 遺し伝える エネルギー 発表聞いて 感心しきり」

  「発表の 後の討議で 指名され ドキドキしつつ 持論を話す」

  

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shin-1さんの日記

○セイタカアワダチソウのほろ苦い思い出

 私が公民館主事をしていた頃ですからもう30年も前の出来事です。ある日私は松山へ向かう車の中から、空地に咲いている黄色い花を見つけました。この顔ながら私は若い頃から花に興味を持っていたので、その花の群生する姿を早春に咲く菜の花畑とダブらせていました。秋の頃にこんなに奇麗な黄色い花が群生するとは珍しいと、写真に撮って持ち帰りました。そして公民館の仲間にこの花のことを話し、できれば文化祭のメイン会場にあの花を貰ってきて4m×4mの、制定されて間もない町章モニュメントを造ろうと計画したのです。

 花の咲いている畑の近所の人にその畑の持ち主を聞き出し、「全部刈り取ってもいい」との了解を得てトラックにいっぱい取って帰りました。金網に枠を作ったその中に、これまたミカン畑の防風林から取った杉葉を差し込み、町章を黄色い花で、バックを杉葉で埋め尽くして刈りこみ、自信作のモニュメントを3日間をかけて造り上げました。文化祭の会場となった上灘中学校の校庭は、このモニュメントでいつになく華やいだ雰囲気となり大きな話題となりました。やがて文化祭が終わり杉葉も黄色い花も上灘中学校の校庭の隅にある簡易焼却炉で燃やして処分をしたのです。

 その年も明けた頃、中央公民館に一枚のポスターが送られてきました。そのポスターには「セイタカアワダチソウ撲滅運動」と書かれていて、写真は紛れもなく文化祭の会場を華やかに飾ったあの黄色い花だったのです。知らぬこととはいえ私は、帰化植物である公害雑草を刈りとって大衆の目の前へ展示したのですから、無知もいいところです。とっさに思いました。地主の所に菓子箱を持って行き「花をください」といった時、「何に使うのですか。珍しい人もいるものですね。どうぞどうぞ」笑顔で対応していただきました。今になって思うのですが、あの時地主さんはあの黄色い花がセイタカアワダチソウだということを知っていてくれたのかも知れないのです。

 あれ以来帰化植物であるセイタカアワダチソウやブタグサは全国に生えて広がり、喘息などの病気に悪いと撲滅作戦が展開されたにもかかわらず、一向に減る様子もなく、またあれほど撲滅運動までせよと騒いだのに、今はあの頃の騒動が一体何だったのかと思わせるほど、誰も見向きもしなくなっているのです。

 セイタカアワダチそうが咲く秋のころになりました。国道沿いの空き地には可憐な黄色いセイタカアワダチソウの花が咲き始めていますが、道行く人も車もその花など目もくれず全く無視して通り過ぎて行くのです。

 最近は帰化植物といわれる植物が雑草の中にもあって、タンポポも日本古来の在来種より洋花タンポポの方が多い感じがします。海岸や河川敷きには春になるとキンケイソウもたくさん見られるようになって、草の世界も国際化真っただ中というところです。

 先日人間牧場で見たこともないような草花を見つけました。多分酪農家から貰って畑に入れた牛糞の中に混じった種が発芽したのではないかと思うのです。聞けば乳牛の餌は殆ど外国からの輸入飼料に頼っているようなのです。池は外来種のブラックバスに占拠され、野の花も草も外国産と国産が、また人間の世界や情報の世界でも国際化の波は留まることはないようです。アメリカのサブプライムローンによってはじまった世界同時株安や円高は、これまた国境のない厄介な国際問題に発展しようとしています。アメリカがくしゃみをすると日本が風邪を引くというのは昔の出来事だと思っていましたが、まだまだ日本は本当の力がないのかも知れません。

  「花を見て 昔の無知を 恥ずかしむ セイタカアワダチ 公害花とは」

  「花・人も 情報までも 国際化 外国生まれの 日本育ち」

  「メイドイン ジャパン自負する 私でも 帽子はチャイナ 音笛チャイナ」

  「そういえば チンゲンサイを 播いたっけ これもチャイナだ 中華料理も」

 

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shin-1さんの日記

○サインしてください

 昨日突然わが家に来客が見えられました。聞けば高松の人らしく、以前伊予銀行の雑誌で夕日に関する私の記事を読んだ記憶があって、町を通過する時シーサイド公園でそのことを思い出し、特産品センター受付で聞いたそうです。受付の人は私のことを微細に説明したそうですで、「若松さんなら今日は家におられるようなので連絡してみましょう」と電話の第一報、たまたま電話に出た私は道が不案内ということもあってシーサイド公園へ迎えに行きました。中年3人の品の良いおばさんたちで、わが家へ来るなり私設公民館煙会所や海の資料館海舟館などを見学し、伊予銀行の雑誌で紹介されていた人間牧場も見てみたいというのです。

 中年の品の良いおばさんには目がない私ですが、「もう直ぐ来客が来るので」と断ると、「せっかくなのでそのお客さんが帰るまで待ちます」と食い下がるのです。仕方がなく引き受けてしまいました。やがて来客は予定通りやって来て、予定通り公園の打ち合わせをして帰って行きました。その間畑の方をうろちょろしていた3人の品のよいおばさんたちは、秋ナスやピーマン、シシトウ、それに間引きした大根葉を目敏く見つけ、欲しいというのです。品が良いと思っていたおばさんたちがオバタリアンになり下がってしまいましたが、ナイロン袋を3つ用意してお目当ての野菜を入れてあげました。その作業をしながら、「はてさてこのおばさんたちは何の目的で来たのか」と疑いたくなりましたが、約束したので内心仕方なく私の乗用車に乗せて人間牧場へ行きました。

 人間牧場ではやれ「足湯がしたい」だの、カラスウリが欲しいだの「畑の隅にあるシキビを分けてください」とわがまま放題です。もっとわがままは私の落伍を聞きたいというのです。「落伍の演技は有料で木戸銭が要ります」と断る理由を話すと、「あなたの出版している本を人数分全て買いますので」と開き直られました。そこまで言われ、「上げ膳食わぬは男の恥」とばかりに、裂織の羽織を着て切り株高座に座布団を敷き、落伍を演じきりました。何せこのおばさんたちは今晩松山へ泊る予定なので、時間はたっぷりあるのです。そんな奔放なおばさんに甘い顔を見せのこのこお相手をしてしまった私を、自分ながら深く反省しましたが、乗りかかった船ゆえに誠心誠意お相手をさせてもらいました。

 お陰さまで「昇る夕日でまちづくり」1500円、「今やれる青春」(1200円)、「夕日徒然草」(500円)の3冊に、竹で作った赤トンボ(500円)の3700円×3人分=11,100円が私の懐に入りました。その方たちは2万円を差出しましたが、「お釣りがないので1万円でいい」というと、「野菜も含め、足湯代も含め、落伍出演料も含め2万円で」と、断る私をさえぎるように私のポケットへねじ込みました。

 そして「厚かましいお願いですが、この本すべてに全部違った言葉をサインして欲しい」と、これまた無理難題をいいました。これまでにも25冊全部違った言葉を書いた記憶があるので、その場でサインペンを使いスラスラ目の前で書いてあげましたが見ていた3人は目を丸くして感心していました。お金をいただくと私はまるで別人のような念の入れようで、名前の下に友人が作ってくれたてん刻の印まで押してあげました。最初は品のあるおばさんがいつの間にか図々しいオバタリアンになり、再び品のある奥さんに変身した瞬間でした。お陰で私はぼろ儲けしましたが、そのお金は人間牧場の新たな投資に回すため、夕日徒然草貯金に回しました。

 時としてこんなハプニングに会うのも人間牧場あっての物だねと、人間牧場の効果を喜びましたが、このおばさんたちは、「今度はあなたの話を高松で友人に聞かせるため講演会を開きたい」と日程まで決め、願わくば来春その人たちをこの人間牧場へ連れてくるツアーまで計画したいと意気込んでいました。

 あっけにとられた私を尻目に彼女たちは夕闇せまる双海町から次の目的地松山へ消えて行きました。何ともはやい1日でした(笑う)

  「サインして 思わず迫る おばさんに たじろきもせず まるでスターだ」

  「九冊の 本それぞれに 違う文字 書いて手渡す 感心しきり」

  「世の中は 色々な人 いるものだ ポンと二万を ポケット入れて」

  「おばさんが いつの間にやら オバタリアン 帰り際には 品よい奥さん」

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shin-1さんの日記

○農地を購入して農業をやりたい奇特な人

 「若松さん、今日は家にいますか?」と7時ころ電話がかかりました。妻が電話に出て、「お父さん電話ですよ」と呼ぶので、7食事中で口の中に物を入れているため、少し長めのローカをわざとゆっくり玄関先に置いている電話のもとへ行き電話に出ました。松山近郊に住む友人で、3日前にもわが家を訪ね、相談に乗った矢先でしたので、「今日は午後から来客予定があって、昼までならいるよ」というと、「例の件ですが、迎えに行きますので、現地を見てくれませんか」というのです。

 3日前の彼の相談とは土地を買って農業をやりたいという相談でした。私はただでさえ厳しい農業を55歳になって敢えてやろうとする意志は大したものだと思いつつ、つい悲観的な話をしました。儲けなくてもいい農業は楽しいが、飯を食わなければならない農業は難し」というと、彼もそれは百も承知のようでした。彼は「松山平野が一望できる素晴らしい絶景の所に1町2反ほどの土地があって売りに出されている。千載一遇のチャンスなので、この土地を買ってニンニクや野菜を無農薬で育て、それに果樹を植えて果物を販売したい」と熱っぽく語りました。その言葉にまたも私は「農業でモノを作るのに見晴らしが良いことなど何の意味もない。果樹を植えるというが今年植えても収穫できるのは5年後で、それまでどうするのか。野菜は無農薬だと素人では殆どできない」と散々反論していたのです。彼は私の話に納得し帰り際「そりゃあそうですよね、あなたの言うとおりです」と諦めたような顔つきで帰って行きました。

 ところが今朝は、あれほど私にボロ糞に言われたにもかかわらず、候補地を見てくれというのです。「迎えになど来なくても私の方から行きます」といって9時に家を出ました。今日は天気も良く車の窓を少し開けて走るとさわやかな秋の風が心地よく車内に入ってきました。彼が経営する修理工場に車を置き、彼の運転する車に乗って5分ほどで、雑木と竹と雑草が生い茂る候補地へ到着しました。

 なるほど彼が言うように見晴は抜群のところにありました。候補地には舗装した農道が入っていて、竹林、雑木林、元畑と大まかな分類がされていて、半分はかなり有望な農地に見えました。しかし問題はこの荒れ地をどのように農地に戻すか、私がこの3年間苦労して人間牧場を作った思い出が蘇り、こりゃあ大変だと思いました。

 問題は金額と家族の理解、それに農業経営です。それとはなし家族に伝えているようですが、はてさて55歳の彼の熱い思いを家族が前向きにとらえてくれるかどうかです。また自動車修理工場を息子さんと営んでいるのですが、これから75歳まで20年間農業をした後の農業を誰が継ぐのか、これも大きな問題です。また金額も自分の老後を考えると、これまた大きなチャンスであると同時に大きなリスクも背負わなければならないのです。

 見学後彼の自宅、息子さんの自宅をそれぞれ訪問しましたが、今の幸せに満足せず次なる夢を追いかけている彼の姿に、かつての自分を重ね合わせながら色々と考えさせられました。途中彼の仲間がやっている窯元へ立ち寄り、間もなく開催される青年の船班長会の記念品をみつくろいました。赤トンボをあしらったマグカップの手ごろのがあって、20個ほど注文してお暇しました。

 人には様々な夢があります。人間はやはり夢を食べて大きく成長するのだと思います。外から見れば「何でそこまで」と理解できないことでも、その人にとってみればかけがえのないのが夢なのです。今度会った時は夢の実現に向けて大きな力にはなれなくても、ささやかな後押しをしてあげたいと思い彼と別れ、旧青年の家の森本先生に無理なお願いをしていた16ミリのフイルムを貰い、東京からのお客様を迎えるためわが家へと急ぎました。

  「農業を やりたいのだが 相談に 言われて二の句 継げずもじもじ」

  「儲けない 農業は楽 食うための 農業苦し それを説得」

  「見晴らしが いいので土地を 買いたいと 甘い言葉に 少しお灸を」

  「夢を追い 夢の実現 するために 真剣話す 姿勢活き活き」

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