人間牧場

○深夜の友人からの長電話

 昨日の夜11時頃、寝転がってテレビを見ていると自宅に電話がかかってきました。「こんな時間に一体誰だろう?」と言いつつ、いつものように妻が電話口に出ました。「こんな時間に誰だろう?」と私も思いました。すると「お父さん○○さんから電話よ。お酒に酔っているみたい」」と言いながら私にコードレスの受話器を渡してくれました。さあそれからが大変です。まるでエンドレスのテープレコーダーを聞いているように、同じことを巻き返し繰り返し、延々30分近くも話すのです。「俺は酔っている。すまん」と前置きして話すのですが、「酔っているようなので用件は明日にでも」と電話を切ろうとすると、それを遮るようにまた元に戻って話しを始めるのです。こちらも少し頭に来て最後は電話を切りましたが、すっかり眠気も吹っ飛んでしまい、昨晩はそのことが気になり中々寝付けませんでした。

 私の親父は12人兄弟の長男です。親父の兄弟は戦災で亡くなった2人の叔母に加え、病気で3人の叔父と1人の叔母が亡くなっていますが、93歳の親父を含めて6人が健在でその連れ添いも4人健在なのです。故にこのような深夜や早朝に電話が架かると失礼ながら、「もしや?」と思ったりするのです。
 酒に酔って私に電話を架けてきたのは役場の元同僚でした。在職中は一緒に仕事をしたこともあり何かと気が合って、時々ならぬ頻繁に一緒に酒を飲んだ間柄でしたが、私と相前後して退職したため、年に数回車ですれ違う程度の出会いしかないのです。つまり私と彼は今や住む世界が違う人なのです。私が講演等で忙しくしている様子は風の噂で知ってはいても、パソコンもやらないため、私の毎日書いているブログ記事も読んだことがないらしく、「ブログって何?。そんなもの持っていない。」とあっさり会話が途切れてしまいました。

 彼が言いたかったことは、9月の敬老の日に、「自分が区長をしている敬老会で落伍をしてくれないか」という相談でした。しかも「金がないのでタダで、お年寄りを存分に笑わせてくれ!」というのです。断ると酒の勢いで電話口ながら「俺の一生の頼みが聞けないのか」と毒つくので、ひとまず「分かった分かった。あんたの頼みを聞いて予定を入れましょう」と安請け合いをしてひとまず電話を切りました。電話を切って書斎へ入り予定表を見ると、既に予定が入っていましたが、何とか都合がつきそうな感じでした。
 電話を架けてきた彼はまだ酒が残って夢の世界でしょうが、酒の勢いとはいえ引き受けてしまったからには、彼の顔も立てねばと、「酒によってこんな話をするとは何事か」と多少不機嫌ながら考えています。

 退職後の暮らし方は百人百様です。役場を辞めた人の殆んどは退職後2~3年、区長等地元のお世話役を押し付けられ、進んでというよりは嫌々ながらやっています。時にはまるでクレーマーではないかと思われるような言動の人もいますが、概して一般市民から見れば非協力的で、学習活動やボランティア活動に参加して、活き活きと輝いて生きている人は少ないようなのです。
 長電話を切る時、彼が最後に言った「あんたが羨ましい」という言葉は、少し嬉しい誉め言葉でした。確かに私は退職して自由人になりながら、請われるままに講演活動やボランティア活動をして、心身ともにすこぶる健康でやっているのです。地元の区長も2年ほどではありましたが務めたし、それなりに情報も発信しているのです。60歳の定年を終えてからの第二の人生は、しっかりとした自分の生活設計さえ持てば、とても楽しく生きられるのです。好きだった酒も病気になって止めましたが、酒に変わる何かを掴み、人生の楽園で楽しく生きている自分を、幸せ者だと思いました。

  「酒に酔い 深夜架かった 長電話 酒の勢い 切りたい切れず」

  「電話にて お前の生き方 羨ましい 言われて見れば 頷き嬉し」

  「定年後 どんな生き方 するのかは 人それぞれと 思いながらも」

  「酒止めて 良かったですね 妻が言う 昔は俺も あんなだったと」

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人間牧場

○デジタルに弱い私

 一昨日の昼過ぎ、鳥取県へ講演小旅行に出かける時、いつものように木になるカバンに、私の7つ道具と思われる名刺入れや携帯電話、電光掲示板、自費出版書籍類、ハーモニカ、夕日のハガキ、夕日のグッズなどを忍ばせ出かけました。自家用車だったため、息子からもらって重宝しているエコバッグに、最近はまっている二宮金次郎銅像と中国の古書大学、それにこそ丸という薬に加え、大道芸にも似た使い方をする、窪田先生お手製のトンボと竹で自作した竹の棒まで入れて、車に積み込みました。妻にいわせると私の小道具は多過ぎて、持って行くのを忘れたり、出先において帰ったりするのだと言われ、私も同感なのですが、少しでも楽しい話にしたいと思いつつ、持ち歩いているのです。
 自家用車なので道を走っていて、珍しいものや看板表示が目につくと、寄り道をしたり少し遠回りをしたりしながら旅を楽しむのです。

 昨日までの2日間は鳥取県への旅でしたが、倉吉の20世紀館の屋外にたわわに実った20世紀梨を見つけ、写真に撮ろうとカメラを取り出すと、スイッチは入るものの画像表示ができず、画面が真っ暗になるのです。前にも一度こんなことがあって修理に出し、保障期間ということもあってタダで直してもらいましたが、今回はそんなに上手く行かないかも知れないと、気持ちが少し沈んでしまいました。このカメラは私の誕生日のプレゼントとして、子どもたちが買ってくれたものです。仕方がないので帰宅後、前に使っていたデジカメを書棚から取り出して、バッテリーを充電し使ってみましたが、何とか使えそうなので修理が終るまで使いたいと思っています。今朝は早速仕事に出かける息子嫁に買、い求めたお店へ修理に持って行ってもらいました。

復活した電光掲示板

 悪いことは重なるもので、私の愛用している電光掲示板がこれも電光文字を表示しなくなりました。原因は分かりませんが、多分充電のし過ぎによるものです。一ヶ月ほど前私の電光掲示板は完全に壊れたように見えました。そのためいただいた新居浜の十亀さんに「何とかならないか」電話を入れましたが、予備のものもないということで、手配ができ次第送るからとの事でした。
 その後松山北倫理法人会のモーニングセミナーで絵夢の藤島さんにお会いした折、私の話をヒントに独自の電光掲示板を開発し売り出したたことを聞き、加えて私にお礼にと一個真新しい電光掲示板をプレゼントしてくれたのです。息子に頼んでソフトを入力し、私が文字入れの作業をして使えるようになりましたが、これも数日前から文字が出なくなり、すっかり落ち込んでいました。

 数日前十亀さんから代用品が届きましたが、ソフトが違うのか幾ら頑張っても入力ができないようです。昨日の夕方パソコンにつなぎ文字入力モードにしたら、古い十亀さんにもらった電光掲示板も藤島さんにもらった電光掲示板も、何と文字が復活したのです。「エッ何で」と思いましたが、デジタルに弱い私はすっかり狐に鼻をつままれた感じがしています。
 アナログならまだしも、デジタルは私の手の届かない世界なので、故障すれば最初から諦めていますが、これからもデジタルと、長い付き合いをしなければならない私にとって、こればかりは越えられない世界なのです。今のところパソコンは順調で、ブログを書いたり原稿を書いたり、メールのやり取りをしていますが、いつ機嫌を損なうか分からないのです。その度に周りの人様に迷惑をかけることを、これからもお許し下さい。

  「文系を 自認の私 デジタルは 使いきれずに 苦労賛嘆」

  「故障した ものとばかりに 思ってた 電光掲示が 二つ復活」

  「講演の 小道具多過ぎ ゆえなるか 忘れて慌て 人に迷惑」

  「今のとこ パソコン調子 安定す 冷や冷やしつつ 使い続ける」

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人間牧場

○鳥取県湯梨浜町への講演旅行

 縁とは不思議なもので、つい最近は島根県が少し遠のいたと思えば、お隣鳥取県からの講演依頼や研修会が増えてきました。一ヵ月後の9月28日・29日・30日に地域づくり団体交流研修全国大会があり、松本さんと浜田さんを誘って既に申し込んでいますが、今回の湯梨浜町に加え、10月27日には鳥取県の東の端岩美町、12月2日には鳥取県の南西部日南町と講演の予定が入っているのです。
 鳥取県は人口が60万人足らずの全国で一番人口の少ない県です。でも鳥取砂丘や伯耆富士大山、20世紀梨、倉吉の町並み、皆生や三朝温泉などなど、見所・食べ物も多く行く度に新しい発見がある所です。

 

今日が初出荷の20世紀梨

 昨日は鳥取県のほぼ中央の倉吉に程近い湯梨浜町から講演を頼まれ、瀬戸大橋を通って自家用車で出かけました。昨日は台風15号の影響で、双海町は朝からあいにくの雨でしたが、高速道路で香川県に入るとその雨も止み、まずまずの天気の中を松山自動車道~高松自動車道~瀬戸大橋~山陽自動車道~中国自動車~米子道と高速道路を乗り継ぎ、湯原インターから倉吉までは一般国道を通る片道350キロの旅でした。湯梨浜町は東郷町・羽合町・泊村が合併してできた町ですが、日本海に面した場所に周囲14キロの東郷池という汽水池がある温泉地です。何年か前、まだ合併していない東郷町の頃、町長さんに頼まれて成人式の記念講演に出かけたり、倉吉に講演に出かけた折、妻と連れ立って今回と同じ東郷池のほとりの水明荘という国民宿舎に泊まったことがあるのです。

水明荘の近くの四手網小屋

 今回の講演の窓口となった湯梨浜町ネットワークはなみの岡本俊彦さんとホテルのロビーで午後5時という約束をしていたので、少し早めに出て倉吉の鳥取県地域づくりセンターに立ち寄りました。所長の福田京子さんは一ヵ月後に迫った全国大会の実行委員長をされていて、しばらくの間全国大会にまつわるお話をして時を過ごしました。
 午後4時30分にホテルへ岡本さんと相次いで到着し、分科会実行委員長さんと3人で東郷池の周りを見学がてら一周しました。池というより湖の方がぴったりする大きな池の周辺は県や町によって整備と管理が行き届き、幾つもの立派な老健施設やスポーツ施設があり、穏やかないい町だと直感しました。

 講演会は午後7時から中央公民館で行われる予定なので、少しくつろぎ午後6時からホテルのレストランで季節の料理をいただきましたが、昼食を食いっぱくれていただけに、とても美味しくいただきました。ホテルも夏のシーズンが終わりかけた平日とあって宿泊客も少なく、落ち着いた静かな夕暮れでした。
 講演会場の公民館はホテルと目と鼻の先にあり、荷物があるので車で出かけました。参加者は20人ほどの小さな集会でしたが、9月の分科会に関わる人たちもいて、熱心に私の話を聞いていただきました。またセンターの福田京子さんもわざわざ駆けつけてくれました。
 講演が終わり宿舎に戻って温泉に浸かりましたがいいお湯で、安否を気遣って電話を入れてくれた妻を羨ましがらせました。

  「鳥取と ご縁深まる 一方で 指折り数え 行き場所なぞる」

  「何年か 前に泊まった ホテルにて 旅の一夜を のんびり過ごす」

  「鳥取に 何とハワイが あるという アロハの兄ちゃん 聞けば職員」

  「お湯と梨 特産ゆえに 町の名を 湯梨浜町と 付けた名案」

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人間牧場

○人間牧場へサイコーダイガクの受講生がやって来ました

 「独立行政法人中小企業基盤整備機構四国本部」という非常に長ったらしい名前の役所から、一通の講師依頼が8月22日に届きました。8月27日にサイコーダイガクの受講生を人間牧場へ連れて行くので、1時間ほど話をして欲しいと言うのです。
 依頼事項、つまり話の内容は、「地域ビジネスを事業化する上で重要な理念に関する講義」と、これまたいかにもお役所らしい長ったらしい演題がついていました。サイコーダイガクについては昨年双海町が事業採択されて一年間取り組んだ事業であり、私もそのメンバーとして加わっていたし、この講義をするよう地域事務所の松本さんから、事前に日程調整の話ががあったので、日程だけは空けておきましたが、直前いただいた文書の演題を見てさてどうしようかと思案しました。

人間牧場を訪れたサイコーダイガクの皆さん

 まあいいかと思いつつ、少しは早めの15時に家を出て人間牧場へ出かけました。ここのところ人間牧場へやって来る人たちが多く、特に土曜日はモニターツアーの人たちが20人ほど、日曜日は愛媛大学の集中講義で学生が35人ほどやって来て、昨日の人数25人を合わせると3日間で70人もの人が、人間牧場へ研修目的でやって来たのですから、この対応はもう尋常ではないのです。
 昨日は沖縄を通過した大型台風の影響でこちらでも蒸し暑い風が吹き、沖合いには台風接近に対応した大型船が何隻も見えました。南風の影響で空気が浄化されたのか、昨日の眺望はすこぶるビッグで、まるで水墨画を見ているような雰囲気で、来訪したサイコーダイガクの面々は一応に感嘆の声を上げていました。

 講義は思いつくまま「夕日を地域資源にした地域ビジネス」について、40分ばかり話をして残りの時間を対話しましたが、参加者の意識は高くいい反応を見せてくれました。
 昨日一行はふたみ潮風ふれあいの館に宿泊し、午後7時からまちづくり双海人の面々と交流会をするので、私も誘われて出かけ2時間ばかり酒を交えた楽しい交流会を行ないました。呑むほどに酔うほどにいい交流会となりました。私の名刺も人気が高く、30枚の名刺が全て売り切れました。私は明くる日鳥取県湯梨浜町へ出かける予定があるので、早々に切り上げましたが、地域おこし協力隊の富田さんやまちづくり双海人の浜田さんたちは一緒に泊まって遅くまで交友を深めたようでした。

  「この三日 次から次と 牧場へ 多くの人が 訪ね学習」

  「飯を炊き 風呂を準備し 話する さすがの私 お疲れモード」

  「この三日 天気恵まれ それぞれが 思い出土産 それぞれ帰る」

  「一箱の 名刺少なく なりにけり 名刺次なる 出会いを予感」

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人間牧場

○地域マネジメントスキル修得講座

 昨日は人間牧場で、愛媛大学の地域マネジメントスキル修得講座があり、30人ほどの社会人学生が授業のためやって来ました。朝8時30分に下灘コミセン前で待ち合わせした一行は、車に分乗して人間牧場を目指し、私の軽四トラックについて山道を登りましたが、車の台数が多いため人間牧場への乗り入れができず、市道横に駐車をして歩いてもらいました。県内各地から集まった社会人学生の中には、顔見知りの人も何人かいましたが、社会人になってもこうして向学心を持って生きる姿はとても立派だと思いました。

座学
座学

 私の講義は午前中3時間、昼食を挟んで午後4時間の集中講義です。幾ら馴れていても話す方も聞く方も、夏の暑い時期なので、大変だろうと思いましたが、眠りこける人もなく熱心に授業が行なわれました。テーマは「地域活性化論」で、普通はレジメなど用意しない私ですが、この日はパワーポイント用に作成して大学に送っていた資料を、笠松先生にお願いしてコピーしたものを使いながら話しました。
 講義は人間牧場水平線の家の板間に座っての座学です。机も座布団も用意しない荒い学習なので、多分みんな疲れることだろうと思いつつ、極力分かり易く話すことを心がけました。

人間牧場から見えた昨日の風景

 昨日は沖縄に最大級の台風が接近中とあって、その影響が心配されましたが、残暑は厳しかったものの穏やかな天気で、水平線の家から見える伊予灘の海や島影の遠望は、台風を避けて非難している数隻の船も停泊していて抜群でした。私の発想の源や、人間牧場の自慢はこのオーシャンビューなので、学生たちはいささかなりとも心を動かしてくれたのではないかと、勝手に推測するのです。
 それにしても一日7時間喋りっぱなしの授業は、馬路村産魚梁瀬杉の木の高座に座ってするものの、長時間なのでさすがに少し疲れましたが、まあ心地よい疲れといったところです。

 昨日は講義が終って、私の落伍ネタ本「夕日徒然草」を何冊か紹介し、お土産に買っていただきました。中にはサインペンまで持参して、私にサインをせがむ人もいましたが、いつもの事ながら字の不味い私には、何とも厄介な注文で汗顔の至りでした。昨日は私が大好きな言葉である「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」と、今は亡き広島府中市上下町の森岡まさ子さんからいただいた、「逢う人も逢う人もまた福の神」という言葉をしたためました。私と小番頭の松本さんがいつも来訪者にお願いして、買ってもらうよう勧めるだけでも「夕日徒然草」は何冊かづつでも売れて、自主管理の小さな味噌樽に資金が溜まりつつあります。もう一分張り頑張って、手前味噌ながら「夕日徒然草」を販売したいと思っています。

  今年も スキルアップの 人たちが 牧場訪ね 座額楽しむ」

  「休日を 返上学習 する姿 どこか昔の 自分ダブらせ」

  「座布団も 机もなしの 板間にて さぞお疲れと 心情察す」

  「自著本に サインをしてと せがまれて 汗顔しつつ 筆を走らす」

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人間牧場

○灘町地区の盆踊り

 私の暮らしている灘町地区では、毎年うら盆に当る8月24日に盆踊りを行なっています。盆踊りの由来は新盆を迎えた人の霊を慰めるため始まったようですが、戦後はどちらかというとお国のために亡くなった戦没者の慰霊が主目的になったようで、盆踊りに先立って夕方公民館に祭壇が組まれ、戦没者や新盆を迎えた人の遺影が飾られた場所に、お寺の住職さんが招かれて読経をしてもらって、しめやかな慰霊祭が行なわれるのです。
 私も7年前退職すると直ぐに区長に選任され、2年間慰霊祭や盆踊りの主催者となり奔走しましたが、盆踊りもその頃から年々さびれ、「やる意味があるのだろうか」と疑問を投げかけていましたが、やはり今年も踊り子が少ない寂しい盆踊りとなりました。

今年も寂しき盆踊り

 私もかつて区長だったこともあるので、踊りについては不器用ながら毎年盆踊りには参加して、踊りの輪に加わっていますが、私が踊れる曲は炭坑節、双海音頭、神輿音頭くらいなもので、地元の古い手踊りは下灘出身ということもあって、肌に会わず、もっぱら布長椅子に座って、かき氷を食べながら観戦するのです。踊り子の人数の割にはやぐらは立派で、組み立て式のやぐらは組長さんたちが朝から総出で組まれ、四方に張り巡らせたちょうちんに裸電球が点けられ、夕闇迫る午後7時から音楽が鳴り始め、誰とはなく踊り始めると、いつの間にか踊りの輪ができるのです。
 盆踊りは一年に一度の地区民の社交場となっていて、懐かしいお年寄りの姿も見受けられ、ふるさとの訛り懐かしく安否を確認していました。またこの日を楽しみに帰ってきて踊る人の姿も見受けられました。

 私たちが若い頃は、盆踊りを仕切っていたのは青年団でした。そして盆踊りは青年たちの社交場でもあったのです。私は18歳から26歳まで青年団活動をしました。その頃は青年団員も多くいて、町内のあちこちで行なわれる盆踊りに加勢するため、仲間を誘って連日連夜浴衣を着て出かけました。盆踊りはどっちかに向いていて、むしろ盆踊りに集まった男女の出会いが楽しみで、酒やビールを飲みながら深夜まで過ごしました。特に浴衣を着た若い女性の首筋にじんわり滲む汗や安物の香水の香りに、心をときめかせたものでした。
 今は町内で盆踊りをしているのは池久保と下浜、それに灘町くらいなもので、これもいつまで続くかといった風前の灯火のようで、華やかだった頃を知っているだけに心が痛むのです。

 盆踊りの衰退は時の流れなのかも知れません。でも戦没者や新盆を迎えた人たちの霊を慰めるという目的はとても優しい日本的・平和的心で、私としてはいつまでも続けて欲しいと願っています。特に戦後67年経った戦争という忌まわしい過去を語り継ぎ、平和の尊さを考えるには最良の催事だと思うのです。
 私の家でも戦没者ではない戦没者が2人います。親父の妹2人が徴用先の大阪の軍需工場で戦災に遭い、焼け死んでいるのです。亡くなった祖母の生存中の一番の悲しみは、先に逝った2人の子どものことのようで、折に触れ涙を流しながら話していました。その祖母も亡くなり親父も既に93歳の老域に達して、2人の叔母の話は消えようとしていますが、せめてわが家の跡取りを自認する私だけでも、語り継ぎその霊を慰めなければと思っています。
 8月24日の夜は、空に三日月が印象的に見えた夜でした。

  「細々と 今年もうら盆 盆踊り 輪の中入り 手足動かす」

  「若い頃 うなじ流れる 汗を見て 心ときめく 楽し思い出」

  「うら盆は 空襲死んだ 叔母二人 思い出しつつ 平和の誓い」

  「寂れ行く 盆の踊りを どうするか みんな言うけど いつもそのまま」

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人間牧場

○第6回松山五行歌作品展に来ませんか!

 「胸の思いやつぶやきを、五行の言葉で詠んでみました。お暑いなか、またご多忙とは存じますが、ご来場の上、ご感想等賜りますようお願い申し上げます。」という優しいリード文を添えた一枚のハガキが先月、見山あつこさんから届きました。前後して私を松山五行歌会に誘ってくれた玉井恭介さんから、一昨年、昨年に続いて続いて「作品展に出品する歌を二首送るように指示がありました。玉井さんは松山五行歌の中心メンバーなので、作本店に出品する作品のイメージを膨らませて、イラストをや手描き文字で化粧額装してくれるのです。早速思いつくまま急いで二首作り、玉井さんのメールアドレスに送りました。

 私は松山五行歌会に入っているとはいいながら、幽霊会員のようなもので、歌会には忙しいことを理由にまだ一度も出たことがなく、ましてや欠席歌の提出も締め切りギリギリで、時々見山あつこさんから「締め切り間近です。忘れちゃいませんか」などと督促をしてもらう厄介極まりない会員なのです。それでも見山あつこさんから優しいお導きをいただき、何とかこの4~5年五行歌を送り続けているのです。
 私の歌は皆さんの歌と違ってどちらかというと川柳ぽい感じがします。他の人の歌は全てアカデミックで、高島屋7階というビッグな展示会場の一角を怪我すような歌ではないため、最初はお断りをしたのですが、玉井さんから「肩の力を抜いて」と誘われるまま展示の末席を汚しているのです。

高島屋7階の松山五行歌会作品展会場

 

会場案内の見山あつこさんたち

 展示会は8月23日から始まっていて、8月28日までの一週間です。私は県庁で愛媛海区漁業調整委員の辞令交付式があるため松山に出かけたついでの午前中、高島屋の7階に立ち寄りました。会場では見山あつこさんたちが対応していて、挨拶を交わしながら見学をさせてもらいましたが、玉井さんのご好意で私の駄作も綺麗に化粧されて、会場の一角に展示されていました。
 さて、私の今年の作品のテーマは「物忘れ」で次の二首を作りました。

  「今日は何日?何曜日?」
  それさえ忘れ
  わが親父
  毎朝息子の
  俺に聞きに来る

  「久しぶり」
  言われてハテナ?
  誰だっけ
  ホラあの人と
  思うけれども・・・・

 他の人の作品に比べ茶目っ気の多い私の作品を見ながら、少し気恥ずかしくなり見学もそこそこに会場をお暇しましたが、高島屋で何人かの知人や友人に出会いました。「まあお珍しい。こんな所で出会うとは」挨拶を交わした知人や友人に、7階の展示を実に行くように案内した次第です。
 帰ると早速2~3人の方から展示を見た感想がメールで送られてきました。嬉しい反応にも気恥ずかしい気がしました。今日は私たちの家族が見に行くそうです。益々気恥ずかしくなっています。

  「五行歌の 作品展示 高島屋 恥ずかしながら 私も参加」

  「物忘れ テーマ作品 二首作る 友人上手く 綺麗額装」

  「恥ずかしい 今となっては 後祭り 友からメール 『実にいい歌』?」

  「わが作品 五行歌言える ものでなし それもまた良し 満足しつつ」

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人間牧場

○夕焼けビールトロッコ列車に乗る

 2ヶ月前のある日、年輪塾小番頭の松本さんから、「8月23日(ふたみの日)に夕焼けビールトロッコ列車を一両刈りきろうと思うので、予定を空けておいてください」と連絡が入りました。ビール列車はJR予讃線海岸回りの夏(7月8月)の風物として、ツアーが売り出されると直ぐに完売されるほどの人気で、今ではすっかり定着した企画ですが、23日は平日の木曜日のため、列車を借り切っても果たして55席を埋めることができるか、他人事ながら心配しましたが、今の双海のまちづくりは存分な力が充電されていて、何と満席での運行となりました。

トロッコビール列車のチラシ

 昨日はこのところの天候不順で朝からあいにくの雨でこれまた心配しましたが、夕方になると西の空が明るくなって、爽やかな初秋といった感じのする天気でした。今回のビール列車の始発駅は松山です。私たち一行4人は地域事務所の武智さんに伊予市駅まで送ってもらいました。伊予市駅でトロッコに移った松山乗車組と伊予市乗車組は合流して、早速座席机上に配られたビールで乾杯し、賑やかにスタートしました。向井原を過ぎ三秋峠をゆっくりと越え双海に入ると、高野川辺りから眼下に晩夏の伊予灘の海が開け、心地よい風がトロッコ列車全体を包み込みました。

伊予市駅を出発するトロッコ列車

 2ヶ月前土砂崩壊に列車が乗り上げて脱線不通になった現場を、ノロノロ運転で通るといきなり上灘川に架かる長い鉄橋を通ります。わが家をはじめ懐かしくも感じる家並みを見ながらトンネルを抜けると上灘駅到着です。ここで何人かの人や荷物を乗せ、まるで水墨画を見ているような幻想的な景色を見ながら多いに盛り上がりました。下灘~喜多灘~長浜と進むにつれて呑むほどに酔い、酔うほどに飲んで長浜駅到着です。長浜では40分の休憩時間がありますが、既に辺りは暗く何処行く当てもなくトロッコから一旦降ろされるので、トイレ休憩をしたり雑談をしたりしながら過ごさなければなりません。そこで松本さんや富田さんが考え付いたのは、長浜駅の駅舎待合室を借りてのギター演奏と落伍という小イベントでした。

トロッコ列車の車内

 その矛先は当然私に向いていて、数日前落伍をするように言われていたので、木になるカバンに裂き織の羽織りとハーモニカを忍ばせていたのを取り出し、20分間思いつくままに演じました。酒の勢いとは偉いもので、落伍は予想を超えた大爆笑で多いに盛り上がりました。また私の後には市役所の岡井さんがギターを弾きながら歌い盛り上げてくれました。
 帰りはビールに加えチューハイもあって、呑み直しの二次会が伊予市駅まで延々続いたようでした。私は上灘駅で下車し、トロッコ列車をホームから見送りましたが、これもまた味のある風景でした。

 

車窓からの眺め

 トロッコには顔見知りの人が殆んどで、中予地方局の前神女史の計らい宜しく多くの関係者も同乗して、まちづくりシンポジウム列車といった感じでした。シンポジウムの語源は「酒を飲みながら語り合う」ことですから、これはもうピッタリで、偶然にも戒能県議さんも同乗していて立ち話をしました。また顔見知りの和田由美子ファミリーもいて、参加してよかったという印象でした。
 私がこの線路にトロッコ列車を走らせたいと思ったのはもう20年も前でした。四万十川を走るトロッコ列車を借りてきて試験的に走らせたり、当時のJR四国の社長さんに蒸気機関車を走らせて欲しいとハガキを何枚も書いて実現したりした思い出は数多くあります。その出発となった下灘駅のプラットホームコンサートもいよいよ来週9月1日(土)に迫ってきました。ワクワク・ドキドキ・ジーンがまた再来しそうです。

 

  「予讃線 海岸周りの トロッコに 乗ってビールを 飲みつつ夕景」

  「酒呑まず お茶で乾杯 したけれど 時間が経てば 酔った気分で」

  「二十年 前にトロッコ 走らせた 思えば懐かし あれやこれやが」

  「駅舎にて 落伍演じる 計らいに 赤鬼たちが 口開け笑う」

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人間牧場

○旧野村町を訪ねる

 7年前まで愛媛県内には70市町村がありました。子どものころから70市町村の名前をおぼろげながら覚えていたし、役場に勤めてまちづくりを担当したこともあって、70市町村時代に全ての市町村を訪れているため、合併して20市町になった今でも、消えることのない記憶として旧市町村名を覚えているのです。3年前まで乗っていたトヨタプラッツに搭載していたカーナビソフトは、合併後も旧市町村名のままでしたが、さすがに3年前に買ったトヨタカローラアクシオのカーナビソフトは現代対応されていて、県外に行くとチンプンカンプンといったところです。
 昨日は西予市の旧野村町へ講演に出かけました。朝9時30分からの集会だったので最短ルートの双海~中山~内子~肱川~野村といった旧町を走りましたが、晩夏とはいいながら残暑厳しい中を1時間余りで到着しました。

展望台からの眺望
展望台からの眺望

 会場となっていた乙亥会館横の野村町健康保健センターを確認した後、少し時間的な余裕があったので、野村町に行く度に視野に入っていて、一度は登りたいと思っていた愛宕山の展望台に登ろうと、道順も分からぬまま、狭い登山道を車で走りました。愛宕山の頂上付近は一方通行になっていて、桜の名所らしく見事な古木がうっそうと緑陰を作っていました。
  駐車場に車を止めて朝露で濡れた雑草の中を歩き、鉄でできている三階建ての展望台へ登りました。昨日の朝はまだ誰もこの鉄塔展望台に登っていないのか、通路には幾重にもクモの巣が張ってやたらと顔にくっつき、行く手を阻みましたが、展望のできる三階に上がると心地よい風が吹きぬけて、少し汗ばんだ顔を静かに撫でてくれました。眼下には野村町の市街が一望でき、早くも黄金に色づき始めた田圃が程よく配色され遠望も開けて、目の冷めるような美しさでした。宇和町から野村に入って、野村ダム方面の峠から見る光景は、どこか大分由布院に似ている風情があって、大好きなロケーションですが、この展望台からの眺めもいいものでした。

 再び乙亥会館まで引き返し、20分前にセンター駐車場に車を止めて中に入りました。そのうち会場の和室に予定していた30人余りが集まり、私の講演が始まりました。持ち時間は1時間余りなので「食育と地域づくり」について思いつくままお話をしました。顔見知りの人も多く和気藹々でした。
 野村町といえば思い出すのは乙亥相撲や大野ヶ原モゥーモゥー塾などですが、もう7~8年も前中央公民館で開いた高齢者大学に招かれた折、講演の最中に水戸黄門のテーマソングが、あるおばあちゃんの巾着の中で鳴り始め、思わぬハプニングに会場が騒然となったことを思い出しました。あの時は携帯を持っては来たものの、マナモードにするすべも覚えていないおばあちゃんだったため、結局講演中に私が壇上から降りてその着信音を止めたのでした。幸いなことでしょうかおばあちゃんの携帯電話の機種が、私の機種と同じという笑うに笑えない騒動でした。

 山里田舎の人は人懐っこく、私の持っている木になるカバンのことを覚えてくれていたり、ミツバチの師匠井上登さんと連れだって、人間牧場へ訪ねてきた人がいたり、またこの春市役所を定年退職した黒田達子さんも顔を見せてくれ、嬉しい出会いとなりました。行く先々で出会いを重ねる人たちの、顔を思い浮かべながらこのブログ記事を書いていますが、合併騒動はひとまず終ったものの、中央から外れた地域は何処も右肩下がりの光景が目に付いて仕方がないのです。
 野村町は海のない町ながら、明浜や三瓶と合併したお陰で、海のある街となりました。宇和海という海抜ゼロmから高知県梼原町と境をなす大野ヶ原まで、広い広い土地となりましたが、これからも多いに頑張ってほしいと願い、大相撲巡業来訪の予定を知らせる看板や幟をバックミラーで見ながら、野村町を後にしました。

  「久方に 野村の町を 訪ねけり 高台登り 秋を先取り」

  「そういえば 何年か前 講演で 携帯電話 騒動あった」

  「高台に 登り家並みを 見下ろすと 行く場所辺り 頭に入りて」

  「野村にも 遠く離れた 街だけど 知り人友が たくさんおりて」  

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人間牧場

○大爆笑のクルクル寿司

 息子家族と一つ屋根の下で同居を始めたわが家には、三つの台所があります。一つは今住んでいる家を新築した時から、私たち家族が使ってきた台所です。二つ目は亡くなった祖母が、元気な頃使っていた台所です。三つ目は棟の違う隠居の親父が使っている台所です。それぞれの台所に、それぞれの思い出があるのですが、息子家族が同居をするという話が持ち上がった一昨年の今頃、家族会議が開かれ、大家族の寄り添いとプライバシーについて話し合いました。親父の隠居はそのまま手つかずで使い続けていますが、息子家族4人が二階の4部屋と、私たちが使っていた台所を明け渡してリフォームすること、私たちが使っていない祖母の使っていた台所を、リフォームして使うこと、一階と二階のトイレをリフォームすること、私の書斎を明け渡して台所にすること、私の書斎は使っていない応接間へ移動することなどでした。

 設計は設計事務所に勤める息子が担当し、工事の費用見積もりを事前に出して、オーナーである私たち夫婦の許可を得て工事をすることとして、早速その年の暮れからリフォーム工事に取り掛かりました。家の改造はこんなに金がかかるのかと妻を驚かせるほどで、息子と妻の険悪なバトルも何回かありましたが、まあ何とか折り合いをつけて完成し、昨年の5月に待望の同居生活が始まりました。
以来1年4ヶ月が過ぎましたが、今では家族会議で話し合った以上の成果があって、私たちも息子家族もそれなりに満足した暮らしを営んでいて、嫁と姑の人間関係を気にしていた私としては、ホッと胸を撫で下ろしているところです。

 私の暮らしの中で嫁と孫の存在はとても大きいものがあります。嫁は笑顔よく対応してくれ、孫も私たち夫婦にとっては生きる希望のような存在となり、同居して良かったとしみじみ思っています。
 嫁は息子が設計した、少しデラックス過ぎると思えるライニングルームを自分の城だと思って、色々な料理に挑戦し、毎日のように私たちのところへ、まるでご近所さんのように様々なものを届け、妻も呼応して届けているのです。昨晩は嫁の作った熱々の餃子が皿一杯届き、これが同居の特典とばかりに私たちも美味しくいただきました。

 

自宅のダイニングでクルクル寿司

 2~3日前の土曜日、外出先から息子達が握り寿司を土産に持ち帰りました。私たちもお裾分けをいただきましたが、息子たち家族は自分たちのダイニングで、何とクルクル寿司を始めていました。孫たちがどこかで貰ってきたアンパンマンのおもちゃ回転寿司道具の上にお皿を乗せ、食べたい寿司を乗せてクルクル回しながら楽しんでいました。孫二人は何処で覚えたのか、「いらっしゃい、いらっしゃい、何にいたしましょうか」などと、可愛いエプロンをしてもらって店員さんになったり、お客になったりして遊びながら食べていました。私たち夫婦も招かれてダイニングルームへ行きましたが、もう大爆笑でした。笑顔の家庭はいいものです。孫の鳴き声や笑い声が聞こえるとこちらまで元気になります。

 そんなわが家にも少し変化が見え始めています。同居以来家にいた嫁が、先月から嫁の実家の喫茶店で働き始めたのです。働くといっても午前10時過ぎに家を出て、午後4時には帰ってくる程度の働きですが、それでも嫁にとっては仕事と子育ての両立ですから大変なようです。近所の歯科医院にパートで勤めている今年66歳の妻も、そろそろリタイアしようと相談しています。嫁は家、姑は外だった構図が崩れそうなのです。また今は元気な9月1日で94歳となる親父の健康や、そろそろ本当のリタイアとなるであろうセミリタイアの私も、家にいる時間が長くなります。老域を迎えた3人と、息子家族との有り様も気にしなければならないようです。

  「孫たちと 笑いを誘う ダイニング 寿司をクルクル 回して食べる」

  「同居孫 朝から泣いたり 笑ったり これもパワーと 受け止め暮らす」

  「嫁も外 姑も外 俺も外 孫も息子も みんな外外」

  「留守番は 93歳 親父だけ 間もなく俺たち 仲間になりて」

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