shin-1さんの日記

○戦争を語った史談会

 私の町の史談会が立ち上がって3年になります。きっかけは町誌編さんでした。私が町の教育長の時マニフェストとして始めた町誌編さんは、合併まで僅か2年というタイムリミットがあったのでかなり切羽詰まり状態での編さん作業となりましたが、多くの方々のご協力をいただき何とか目標通りの成果物を出版することができました。その折集まった方々と少し歴史談義でもしようかと始めたのですが、事務局を担当していた中尾先生がウィーンの日本人学校へ赴任してしまい先行きが危ぶまれましたが、幸い歴史に詳しい元高校校長の磯田先生が事務局を引き継いでもらったため、2ヶ月に一回の例会も15人くらいが集まって勉強会が行われているのです。

 昨日は祠堂調査の進み具合について意見を出し合い、シリーズで行っている「戦争を語る」というテーマで二人の人が宅話をしました。

(戦争を語る梶原先生)

 最初に話したのは開業医の梶原先生です。大分県耶馬渓生まれの先生は学生時代に戦争を経験し、医大の前身である朝鮮の医専で医学の勉強をされ医者になりました。果敢な青春時代は戦争の真っ只中で、かなりの苦労があったようですが帰国後医者として熊本に赴任し、三机を経てわが町へ来られて開業し今に至っています。先生は長らく町の文化協会会長としてボランティア活動をされましたが、高齢になった今も元気で現役医者として活躍しています。

 次に話したのは農業を営む久保進さんでした。久保さんは女学校に通うお姉さんが徴用先の今治で空襲に遭い死んだ話をされました。まさにもう一つの戦争です。当時小学校6年生だった久保さんはお父さんに連れられて、身元すら分からないように焼い弾で黒く焼け焦げたお姉さんの遺体と面会したそうです。焼け残った僅かなリュックの紐にお姉さんの名前が残っていて身元確認ができたそうですが、懇ろに弔ってくれた柳沢という人の思い出話はこれまた涙を誘うような話で、胸が詰まりました。

 私は昭和19年の生まれですから正直戦争の思い出などは全く皆無です。でもそんな時代に生まれたせいか、祖母や父から戦争の思い出は嫌というほど聞かされました。親父が戦地に赴いた銃後の暮らしは子だくさんだった故に祖母にとっても母にとっても筆舌に尽くし難い苦労の連続だったようですが、それでも必死に貧乏と戦いながら生きてきたのです。特に祖母は久保さんと同じように二人の娘を徴用先の大阪で戦火で焼け死なせているので、涙も枯れるほどの辛さだったようです。

 さて、皆さんの話で、来年の春までに自分の戦争体験手記を書くことになりました。400字詰原稿用紙10枚以内にまとめるよう指示がありましたが、戦争体験のない私にとって「戦争」を語ることは残念ながらできませんが、わが家の海の資料館「海舟館」に大切に保存している戦争の遺物について書こうかと今朝ひょっと思いつきました。資料館には特に珍しいとされる紫電改の機銃が展示されています。また魚雷のエンジン部分とプロペラもあります。機銃と魚雷の向こうには戦争相手であるアメリカを意識した敵が存在しており、武器の持つ破壊行動も見え隠れするのです。

 戦争を語り継ぐことは平和への大きな一歩ですし、戦争を知らずに育った人たちが多数を占めるようになった現代ゆえにその重みはあるのですが、武器という目に見える物体を通して戦争の愚かさを伝えることもよりリアルで、心を揺さぶられるのです。

 少し親父の話を聞いてまとめてみたいと思っています。

  「戦争の 話を聞く度 思い出す 涙を流す 祖母の姿を」

  「わが家には 戦争語る 武器ありて 平和を語る 親父健在」

  「戦争を 知らず育った 私だが 耳に残りし 戦争話」

  「過ぎ去りし 六十年の 時を超え 生々しくも 語る戦争」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○年金受給者の集いに招かれて

 65歳を過ぎると働いて収入を得ている人を除けば、多くの人が年金暮らしになります。今は段階的な措置で私のような昭和19年生まれの人間は62歳から年金が支給されましたが、これからの人は確実に65歳にならないと年金が満額貰えないのです。そのため60歳で一度退職してもそれぞれ新しい職を求めて再就職せざるを得ないのです。中には再雇用という形で古巣の職場に雇われたり、公務員などは社会の批判をよそに天下りしたりして経済をつないでいるのですが、中には給料が下がり、これまで部下だった人に馬鹿にされたりする軋轢に耐えかねてやめたりするケースもあるようです。

 幸い私は58歳で現職を退職し、60歳までの2年間は特別職の教育長という職をいただきましたが、合併を機に60歳で現職を退職し、念願の自由人になったのです。あれからもう3年半があっという間に過ぎ去りました。幸せなことに62歳から年金が満額支給されるようになって、妻の手助けパートの手助けを受け、そこそこ働けば何とか首をつることもなく暮らしているのです。

 それにしても世の中は有難いことで、65歳以上の人の約8割が年金で生活しているのです。自分がこれまでに支払っているのですから当然といえば当然ですが、この人たちに2カ月に一回のペースで死ぬまで年金を支給しなければならない日本政府の苦悩もまた理解できるのです。

 昨日はそんな年金受給者の研修会が八幡浜市民会館であり、講演を頼まれて出かけて行きました。年金受給者協会八幡浜支部の招きによるもので、会場となった300人収容の中ホールは満席で、椅子が足らなく入口までびっしりの盛況です。私はこれまでにも何年か前同じ集会に招かれ話をしていますが、幸せなことに年齢的に前に聞いた私の話を覚えているどころかすっかり忘れているようでした。それでも同じ話もできませんから終始ゆっくりとしたペースで、しかも大きな声で話すよう心がけて1時間話をさせてもらいました。

 この日のテーマは「新しい発想で生きる」でしたが、日頃はんしているような面白いネタを中心に笑いを誘う肩のこらないような話をして会場を爆笑の渦に巻き込みました。今年は11月に宇和島と西条の年金受給者協会支部へそれぞれ出かけなければならないので、いわば昨日は前哨戦でした。

 私の話が終わればちょうど12時で昼食でした。少し雨模様の天気で秋になったとはいえ会場は汗ばむほどで、私は壇上で汗を沢山かきましたが、皆さんは支給された弁当を食べお土産を貰い、午後のアトラクションでは舞踊や大正琴などの演奏を聴くのだそうです。長閑なり長閑なりでした。

 早々にお暇した私は少しより道になるものの国立大洲青少年交流の家に立ち寄りました。施設に通じる急な山道沿いはもう秋の気配が漂い始め、メタセコイアの葉も少し黄色味を帯びてきているようでした。平日のため研修生の姿は殆ど見られず事務所も所長さんや次長さんは不在で散閑としていました。先日の研修会の食費を支払い、児玉係長や佐藤ふみさんと談笑しお暇しました。

 少しは早い時間でしたが急な思いつきでオズの湯に立ち寄り、八幡浜でかいた汗を流し少しリラックスしました。山口県、福井県と出張が続き、日曜日には大学生の相手をし、その夜は史談会があるので束の間の休息です。風呂では顔見知りも何人かいて楽しいお喋りをしながらの入浴となりました。

 白滝を横目に見ながら肱川沿いに長浜へ下り、海沿いの国道378号を走り無事わが家へ着いた頃、孫を連れた息子が帰ってきました。今日は松山の地方祭で職場は休みだそうで、私のパソコンの使い方を点検してくれましたが、写真の添付送付ができず何件か保留にしていたものもどうにか送ることができてほっとしているところです。

  「集まりし この人たちに 年金を すべて支給か? 金が要るなあ」

  「乗りの良い 参加者笑い 助けられ あっという間に 講演終わる」

  「弁当と 手土産貰い 講演と アトラクションで 受給者楽し」

  「温泉で 疲れを癒し われ帰る 急がし日々も 限度があるな」

 

[ この記事をシェアする ]