shin-1さんの日記

○送られし2冊の本②

 財団法人山口県ひとづくり財団の大迫女史から今日送られてきた「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」を読んで宮本常一のもう一つの素顔が見えてきました。宮本常一の著書は「忘れられた日本人」など数多く読んでいますし、先日人間牧場で開催した年輪塾で浜田久男さんから色々と宮本常一に関する研究の成果を聞かされていましたが、この読み物には、考えながら旅をする、人をとろかすような笑顔、一枚の写真が多くを記録する、宮本写真に見る昔の大島、日本の庶民の文化を伝える、立ち止まって自分の目でよく見ることの大切さなどの小見出しで、宮本常一の魅力が鮮やかに描かれています。また常一の生涯についても、父から受けた10の精神、民俗学への道、生涯の師渋沢敬三との出会い、離島振興の父、地域と本気で向き合う、再びの旅を夢みペンを握って逝く、常一が残した旅の写真記録などの小見出しが示すような興味深い話が書かれていました。

 その中で私が特に引かれているのは離島振興の父としての彼の業績です。

 宮本常一のすごさは、ただ旅をしただけではなく、旅の中で常に何かを成してきたことにあります。単なる資料集めにとどまらず、旅で学んだ知恵を多くの人々に伝え歩いたのです。1950年、対馬での民俗調査をきっかけに、常一は島々の窮状を目のあたりにし、離島振興法の制定に力を尽くします。当時島〃どこも貧しく、「火(電気)と水(水道)を島に」というのが常一のスローガンでした。その熱意が通じてか1953年、離島振興法が制定されます。彼は全国離島振興協議会の初代幹事長になりますが、地域振興にかける常一の思いは、ますます強くなりました。

 常一には、「離島振興法があるから島がよくなるのではない。島を良くしようと思う人々がいるとき、離島振興法が生きてくる」という有名な言葉があります。

 数えきれないほど離島や山村を旅して、地域振興に力を注いだ常一ですが、いつもアイデアを出すだけでなく、時には人々を真剣に叱りつけ、励まし続けました。

 宮本常一自身の本を読む限りこうした裏話や秘話は出てきませんが、前周防大島文化交流センター学芸員の木村哲也さんが語る宮本常一ゆえに宮本常一の人間像に迫れるのです。

 私は宮本常一を少しばかり知っているような顔をしていましたが、知れば知るほど奥の深い人であり、もっと勉強をせねば彼のメッセージは響かないのです。

 大迫女史から頂いた本は積読から乱読へ、乱読から熟読へと進化させ、瀬戸内海を挟んだ対岸山口県から多くのことを学びたいと思いました。

 来年の2月には昨年に続いて周防大島で開かれている宮本常一に関する勉強会に、私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の県外研修を計画していて、今から楽しみになってきました。

  「毎日の ように見えてる 大島に 偉大な巨人 常一生まれ」

  「念願の 火と水確保 して嬉し 島の人々 今は幸せ」

  「無人島 通ったゆえに 気にかかる 島の行く末 少し危なく」

  「昨日も 大学生に 常一を 話して聞かせ 業績しのぶ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二冊の本①

 先日山口県教育委員会から社会教育委員研修会の講演を依頼され、美祢市と柳井市へそれぞれ出かけました。台風の進路が気になる二日間でしたが、懇親会で財団法人山口県人づくり財団の大迫女史とお会いしました。来年の2月に山口県で開かれる「第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口」への私の出演が既に決まっていて、事前打ち合わせを兼ねての交流となりましたが、その折別れ際「山口人物伝」という本を送るからと約束をしていました。

 約束通り今日その本が2冊送られてきました。山口県といえば吉田松陰、高杉晋作、金子みすず、伊藤博文など多くの著名人が名を連ねていますが、私が敬愛する民族学者宮本常一もまた山口県周防大島の人なのです。「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」VOL.1には狩野芳崖、柏木幸助、田島直人なども紹介されていて興味深く読ませていただきました。

 冒頭に紹介される人物はご存じ吉田松陰ですが、この本は中学生にも理解されるようにかなり分かりやすく書かれています。

 この年の11月、松陰はある行動に出ます。井伊直弼の意を受け、厳しい弾圧を続ける老中間部詮勝に憤り、その暗殺を企てるのです。松陰は藩の重臣にその意を伝え、武器弾薬を提供してほしいと訴え出ます。この過激な要求に驚いた藩は、松陰の身柄を拘束し塾の閉鎖を命じます。再び野山獄に投獄された松陰は、もはや藩に頼るのではなく、草の根に埋もれているような人々で日本を変革せねばならないと決意します。

 安政6年、松陰は江戸へ呼び出されます。その容疑は別の軽い事件のものでしたが、松陰は老中間部暗殺計画が知られたと思って、それを白状していまいます。自分の行動を「正義と信じていた彼らしい態度ですが、これで死罪は免れなくなりました。

 死を覚悟した松陰は、遺書ともいえる留魂録」を一夜で書きあげます。そこには、「私は30歳(数え年)でこの世を去るが、同志が私の志を継いでくれるなら、それが種となっていつか実るだろう」と、弟子たちに未来を託した言葉が残されています。安政6年10月27日(1859年)松陰は処刑されました。

 「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(門下生に向けた留魂録冒頭の辞世の句)

 「親思ふ 心にまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」(家族への遺言の中の辞世の句)

 彼が死んで150年が経ちました。萩の町では今も彼を松陰先生と呼びます。それは、彼の志が今も色あせることなく生き続け、私たちの行く道を照らしてくれるからなのです。

 そんな時代だったといえばそれまでですが、吉田松陰は僅か29歳という若さでこの世を去っています。私などはその倍の長さを生きているというのに、社会や人の何の役にも立たず今もなお生きているのです。吉田松陰の凄さは彼の実行力と志が多くの若者を羽ばたかせたことです。そして「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備するとこあらん」(人はそれぞれ才能の違いはあるが、誰でも一つや二つは必ずいいところをもっている。それを伸ばすのが教育だ)、といわれるように若者たちの才能を発見しそれを伸ばしたのです。

 わが家の隠居の床の間には吉田松陰の掛け軸を吊るしていますが、松陰の強い生き方に改めて感動を覚えました。

  「送られし 人物伝を 一気読み 改め思う 名残し人々」

  「松陰の 辞世の句読み 俺などは ただ生きている だけに等しく」

  「密航を 企て松陰 降ろされる 俺は乗船 アメリカ目指し」

  「今日沈む 夕陽の辺り 萩と聞く 松陰の里 再訪したし」

[ この記事をシェアする ]