shin-1さんの日記

○水槽の掃除

  わが家の玄関に水槽があります。長男がどこかから貰ってきた金魚が7匹泳いでいます。昨年の春までは長男の命令を受けた学生の次男が面倒臭そうに引き継いでやっていましたが、その次男も学校を卒業して就職したため、長男の仕事に戻ったものの、長男夫婦は現在のところ松山暮らしだし、子どもが出来て仕事も忙しいらしく誰も面倒見なくなってしまったのです。金魚を飼い始める時自分で世話が出来ないのなら止めとけと言った手前、多少汚れていても黙認していました。しかし正月から殆ど掃除をしていないことに気がついた妻が今朝、「お父さん、水槽が汚れて見苦しいから掃除をして下さい」というのです。私は反論して「息子に電話しろ」と一発即発の感じになりました。妻はそれでも「長男も忙しそうなので、あなたは暇でしょう」と追い討ちをかけるのです。「わしは暇ではない」と反論するものの、妻はさっさと仕事に出かけて行きました。挙げた手を下せないとはこのことでしょう。しばらく時間が経って宅配便の方がチャイムを鳴らしたので玄関に出て荷物を受け取りました。確かに美観を損ねるほど汚れています。「まあ仕方がないか」と心の葛藤を打ち払い水槽掃除をする事にしました。

 息子が持っているスポンジ、網、バケツなどの掃除の七つ道具を取り出し、まずバケツに水を入れて7匹の金魚を取り出しました。それから水をバケツで抜き取り、スポンジでゴシゴシ洗うのです。水がぬるんだといいながら水槽の水はまだ冷たく、背筋にブルブルと感じながら丁寧に水垢を取り除き、綺麗に拭き取りました。続いて浄化ポンプを取り出し水道口へ持って行き中に溜った水垢を綺麗に流して再び水槽に戻し空気を送りました。エアーが送られポンプは順調に作動しています。

 水槽の水を全て変える金魚への付加が大きいため、少し汚れた水ながら2割程度を残し、丹念に網ですくい、新しい水をバケツで4杯入れ替えました。水は少し濁っていますが、水槽の外から金魚が見え始めました。この分だと2時間もすれば透き通った水になることでしょう。

 私はふと、シーサイド公園のイベントホールにある水槽の事を思い出しました。5本のアクア水槽を配置し、海水魚と淡水魚を飼っています。地域振興課長の時代はこの水槽の掃除はボランティアでもっぱら私の仕事でした。朝5時から約1時間、毎週金曜日を掃除の日と定めて一生懸命十二年間も水槽の掃除をしたのです。まだ掃除に慣れていない頃だったと思いますが、淡水魚の水槽の水を落とし中に入って掃除をしているといきなり、西洋大ナマズが飛び跳ね、何と外に出てしまったのです。これは大変と外に出て暴れまくる大ナマズを水槽に戻しました。家に帰ってテレビを見ると何と阪神淡路大震災が起こって、長田区の火災炎上が映し出されていました。「地震とナマズ」は科学的には正しいデーターが無いのかもしれませんが、あの時のナマズ騒動を思う時、この珍現象の体験は将来想定される南海地震に役立つかもしれないと一人考えるのです。

 退職しシーサイド公園の水槽の掃除もなくなったのですから、せめてわが家の水槽ぐらいはと、妻とやりあった朝の口喧嘩を深く反省しています。

  「この水槽 誰が掃除を するべきか 暇なあなたと 言う妻しかり」

  「掃除して 気持ちよさそな 土佐金を 宅配兄ちゃん 褒めて帰りぬ」

  「餌食べず よく生きている 土佐金に 俺も食べずに 生きれないかと」

  「水槽を 見れば必ず 思い出す 阪神淡路 なまず騒動」

 

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shin-1さんの日記

○傷ついたハト

 数日前、庭の隅に作っている東屋の隅に鳥かごが置いてら、中で何やらじっとうずくまっているものがいるのです。よく見るとハトが一羽、寂しそうに入っているではありませんか。早速隠居へ行って親父に聞くと、「数日前散歩に行く途中、道端で一羽のハトが倒れているのを見つけた」そうです。「近くによって手を差し伸べたが生きているものの身動きしないようなので、可哀想に思い連れて帰った」らしく、「何とか助けてやりたいと思い、倉庫から昔孫がインコを飼っていた鳥かごを取り出し、藁を敷いて中に入れ餌をやったが食べてくれなかった」、「そのうち少しだが餌を食べるようになって、随分回復したように見える」、「この分だと間もなく回復するので少し広くしてやりたい」と熱心に話すのです。

 心温まる親父の行動に頭が下がりほのぼのとしましたが冷静になって、「じいちゃん、ハトは余りなつかせると沢山の仲間を連れて来て、糞を落として糞害になるので程ほどにした方がええ」と話しました。「わが子ながらお前は冷たい、こんな死にかけたハトを外に放っぽり出したらたちまちカラスの餌食になって死んでしまう。お前が反対しても回復して飛び立つまで世話をしてやる」と、むきになって反論しました。親父のいう通り私は冷たいのかも知れないと反論を諦め、「早く回復したらいいな」と同調しました。

 あれ以来親父はせっせと餌をやり、近所の人にトウモロコシの種を貰ってきて、金槌で砕いて与えたり、クッキーやパン屑を与えて懸命の看護を試みています。今朝ハトのいる場所を覗いて見るとすっかり回復して、立っていました。

 親父の優しさに感動しながら、自分の発言を悔いました。確かに公園やマンションでは心無い人たちの放鳥によってハトが野生化し、あらゆる所に糞をひり続け、管理する人を悩ませ続けています。苦肉の策で網を張ったりしていますが、利口なハトはその網さえものともせず、せっせと営巣して子育てに励んでいるのです。妻にハトの話しをしたら私と同じ意見だったので、やんわり親父に「元気になったら一日も早く自然に帰してやろう」と話し納得させました。

 親父は連れ添いに先立たれ隠居で一人暮らしをしています。寂しさを紛らわせるためでしょうか、鯉を飼ったりメダカを飼ったりしていました。しかしそれらの飼育も世話が大変で断念した経緯があり、生きているものへの憧れがあるのかも知れないし、90歳という年齢を考えれば老い先を危惧するのは当然の成り行きなのです。

 最近は核家族化や高齢化を反映してかペットブームで、近所の殆どの家が犬や猫のような動物と同居をしています。昔は人間と動物は住み分けがされていましたが、犬も猫も人間と同じ部屋で暮らしているのです。多分寂しさを紛らわせるための愛情表現でしょうが、こんな田舎にさえ最近ペット霊園なるものがお目見えし話題になっているのです。

 ふとツルの恩返しという物語を思い出しました。助けたハトにそんな恩返しなど求めるつもりはさらさらないのですが、ハトに心があるならば、ハトは平和のシンボルなのですから「親父を一日でも健康で長生きさせてください」とお願いしたいものです。

 今朝は夜明けの6時にハトを見に行きましたが、今のところ元気で巣立ちは早いかもしれません。せっかく親父が助けたのですから一日も早い回復を祈っています。まかり間違っても仲間を連れて糞を沢山撒き散らす糞返しだけはして欲しくないものです。

  「ハト救う 心根優し わが親父 とうきび種を せっせと砕き」

  「平和だと ハトのイメージ いうけれど 糞に憤慨 する人多し」

  「田舎にも ペット霊園 出来ました そのうちペット お寺も出来る?」

  「お座敷に まるで雛様 鎮座する 隣のペット 特別扱い」

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの野村町と限界集落勉強会

 高知県との県境に位置する旧野村町は、合併して西予市となりましたが、かつては分水嶺を有する大野ヶ原で「大野ヶ原モゥーモゥー塾」などをやって、旧中島町とともに度々訪ねる土地でした。その町が三瓶町や明浜町などの海の町、そして城川町と合併してとんでもない広さになってから早くも3年余りが経ちましたが、「限界集落勉強会」をやるから話に来ないか」という誘いを受け、合併してから始めて訪ねました。

 久しぶりに訪ねた野村町へは、大洲から肱川町経由、大洲から白髭経由、大洲から宇和経由の三本のルートがありますが、私の場合はこれまで殆ど大洲の菅田を通って肱川、鹿野川ダム沿いというコースを通っていました。途中トイレ休憩した大洲メッセで知人に会い、「何処へ行くの」と尋ねられたので「野村町へ行く」と話すと、「そりゃあ断然白髭を通った方が早い」と助言を受けたので、急遽その道を選んでしまいました。大洲から白髭に通じる国道441号は高速道路大洲・宇和間のインターチェンジが出来ているため、高くて立派な橋脚なども見えて、曲がりくねった道路ながらゆっくりと走りました。15分も走ってトンネルを出るともうそこは野村町なのですが、そこから更に立派に改良された国道を走り、意外と早く朝霧湖と命名された野村ダムまで出ました。少し時間的な余裕があるので展望台付近の駐車場に車を止めそこら辺を散策しました。野村町は「ミルクとシルクの町」というキャッチフレーズが定着していましたが、その名が示すとおり展望台付近には県下有数の畜産地を誇示するように大きな牛のモニュメントが建っていました。碑文によると畜産50周年の記念に造られたようでした。私はこの付近から見下ろす野村の町の風景が大好きで、何処か九州大分の由布院の牧歌的遠望に似ているのです。

(湖畔の展望台付近に設置された乳牛のモニュメント)
(朝霧湖の展望台)
(朝霧湖の遠望)
(牧歌的な野村町の市街風景)

 カーラジオでNHKの大相撲大阪場所の中継を聞きながら走りましたが、山の中なので電波の状態が悪く時折しか聞こえませんでした。それというのも野村町出身の玉春日が大好きで、間もなく取り組むのです。上手い具合に朝霧湖の展望台付近は視界も開け連覇の状態も抜群で、そのうち始まりましたが、結果的には引き倒しというという彼独特の技で見事白星です。初日、二日と連敗スタートだっただけにホッとしました。彼は相撲界でも30歳代ながら最高齢の部類なのですが、ひたむきな努力を重ねて居間の地位を保っています。峠を越え大関や横綱などは望むことが出来ませんが、一日でも長く土俵に上がっていて欲しいと願っています。野村総合支所の入口には相撲処とあって幟が立ち玉春日の星取表がありました。二日間の黒星は既に書き込まれていましたが、最新の白星はまだ書き込まれてなく、少し不満でした。

(限界集落勉強会)

 さて今晩の「限界集落勉強会」は10数人のこじんまりした会でした。1時間半ほど私が話題提供のような話をしてそれから食談だそうで、参加者の殆どは顔見知りとあって和やかそのものです。限界集落の勉強会も既に6回の学習会をやっていて、限界集落の問題はこれまでの講師によって語りつくされているような感じが、原田課長さんから送られて来た議事録で読み取れるので、少し話題を変えて話しをしました。基礎知識がしっかりと頭に入っているので、みんな納得顔で聞いてくれました。また5月に山奥組の総会に招かれているので、そこら辺を考えての話に終始しました。

 この会を仕掛けた会長の井上謙二さんは都合であいにく欠席でしたが、原田課長さんは今年度で退職ながらこの日も大張り切りでした。明浜町の企画課長を長らくしていましたが、合併のため最後は海から山へ異動となり、野村総合支所の福祉課長で終わるのも何となく彼らしいと、夢工房の仲間のこれからの人生に、心から大きな拍手を送りました。

 この日は山奥組から井上登さんのも顔を蜂に刺されながら参加してくれました。蜂の話で盛り上がりましたが、私の蜂を飼う夢は彼の話を聞いて少し萎んだようです。でも諦めずにやりたいものです。

 「動物(牛やイノシシ)を数に入れたら、愛媛県で一番人口?が多いかも」なんて、野村弁丸出しのとっぽ話で胸襟を開きながら大笑いし、元来た夜道をタヌキ5匹に出会いながらわが家へ帰りました。只今と声を掛けた妻の顔が美しかったです(笑い)。

  「馴染み顔 集まり話す 勉強会 何処かの町の 人に見せたい」

  「蜂刺され 男前顔 腫れあがり それでも会いに 嬉しい限り」

  「嫌いだと 限界集落 いう言葉 それでも事実 田舎は疲弊」

  「牛の数 足せばこの地は 愛媛一 そんなトッポも 酒の勢い」

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shin-1さんの日記

○失くした名刺入れ

 私は名刺入れを三つ持っています。一つは常用の名刺入れで、40枚くらい入ります。二つ目は木で出来た見仕入れで、木のカバンにこだわる時に「木になる名刺入れ」何て洒落た使い方をするため、カバンの中に忍ばせて歩いています。もう一つは前二つの失くした時に使う予備の名刺入れです。これまでにも名刺入れはあちらこちらで紛失劇を繰り返し、そのつど使い分けをしてきました。

 一週間ほど前常用の名刺入れが突如として背広の内ポケットから消えたのです。思い当たる場所を色々と探したのですが発見されず、先日出かけた福岡博多と秋田能代へは木になる名刺入れで望みました。本当はこの名刺入れが一番好きなのですが、この名刺入れには僅か12枚しか入らない難点があるのです。そのため名刺を一箱着替えを入れるカバンに忍ばせて出かけましたが、荷物を両手で持つため名刺の重さが加わって少し難儀をしてしまいました。

(右端の名刺入れが今回発見したもの、真ん中が木になる名刺入れ、左が昔使っていた予備の名刺入れ、いずれも私にとっては外交官くらい大切な持ち物です)

 妻に旅先から電話で名刺入れを探すよう依頼していましたが、妻も捜したものの見つけることは出来ませんでした。今日もう一度自分で探してみようと居間、書斎、車、煙会所などをしらみつぶしに探して回りました。やはりないなあと諦めかけていたら、車の座席の下に転がっているのです。「やったー」と思わず嬉しくなって叫んでしまいました。多分車に乗り背広を脱いで後部座席に置いた時すり落ちたものと思われます。この名刺入れは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが、無人島キャンプなどの活動を通して環境保全教育に功労があったと、コカコーラから「環境教育賞」なるものをいただいた時、副賞などとともに、メンバーに記念品としていただいたものなのです。故に大切に使ってきました。いいものなのでしょうか、十年以上使っているのに中は少しくたびれて破けていますが、外面はしゃんとして、終身使えるような立派さなのです。外にはコカコーラの透かしが、中にはイニシャルが入っていますが、私にとっては忘れられない思い出の品物なのです。

 最近は歳のせいでしょうか、忘れ物が多いとブログにも書きましたが、全国を渡り歩く私にとって名刺入れは自分の代名詞のような大切なものなので、無くなれば本当に困ってしまうのです。私の友人でえひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんも私と同じような瓜二つの名刺入れを使っていますが、彼からも一度だけ「名刺入れを探している」と電話がかかってきたことがあり、「名刺入れを失くすのは私だけではないな」と、人ごとながら安心した事を思い出しました。

 名刺入れには私の名刺とともに、出会った人からいただいた名刺が数枚入っています。人からいただいた名刺はその都度名刺入れから取り出し、毎日三枚のハガキを書く習慣に合わせて整理をするよう心がけていますが、いただいた名刺はその場限りで殆どの名刺は書斎の書棚の一角の名刺置き場に入れられ、何年かすると廃棄処分になるのです。名刺を整理すると面白いと友人から言われていますが、そんな暇と余裕もなく、うず高く積まれています。

 無くした名刺入れの発見によって、名刺入れに入ったままだったいただいた名刺を見ながら、早速遅ればせな返事のハガキを書き、メールを送りました。自分の加齢とともに始まったボケた人生を嘆きながら、これからは絶対この名刺入れを失くすまいと、心に誓いました。

  「失くしたる 名刺入れ出て 一安心 貰いし名刺 頼りにハガキ」

  「これだけは 何としてでも 見つけねば その執念が 見事実りて」

  「俺だけと 思っていたら 友人も 同じ失せもの 探して苦労」

  「貰い物 故になくしちゃ いけないと 心に誓い 肌身離さず」

 

 

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shin-1さんの日記

○農作業とつわぶき

 忙しさと寒さもあって、「前回は何時ごろ行ったのだろうか?」と思うほど長い間暇していた人間牧場へ、行きました。昨日90歳の親父が「白内障の手術の後の検査に連れて行ってくれ」というものですから、伊予市の本宮眼科クリニックへ連れて行ったので、10時という遅い時間になってしまいました。

 昨日の雨も止んで、北西の風が強いものの天気が回復して気温も10度以上に上がり、農作業をしていると汗ばむほどでした。気が急くのは腐葉土を作っている木枠の中の腐葉土を切り返し、その上に土を被せてサツマイモの種芋を伏せる準備をしなければならないのです。腐葉土はこの冬の外気温が予想以上に低かったため被せたビニールの下で落ち葉が上手く発酵せず、このままだと間に合わない恐れがあるのです。木枠の中の腐葉土を切り返し、その上に息子と一緒に外に出していた赤土を乗せてゆくのです。スコップで赤土を入れる作業は、昨日の雨で粘っていて、スコップや履いている長靴にまとわりつき、思うようにはかどりませんでしたが、それでも休み休みしながらでも30分程度で終わりました。

 今度はその上に端材を使ってハウスのような屋根を付ける作業をしました。人間牧場には建築当時の端材がまだ何本か残っていて、寄せ集めてきてノコギリで切ったり釘で打ち付けたりしながらの作業です。私は親父に比べ大工作業など大の苦手で器用ではありませんので、中々上手く出来ませんでしたが、それでも小一時間で何とか様になってきました。

 さてその上に透明のビニールを被せるのですが、中央公民館の日山さんから貰ったビニールは、風の強い中での一人の作業なので風に飛んでいう事を聞いてくれないのです。ハウスみかん農家の苦労が分るような気持がしました。これから春先にかけて突風が吹く恐れがあって吹き飛んでしまうかも知れないので、足らない端材を持参して近いうちに補強をしなければならないようです。

 さて種芋の購入を考えなければなりません。計算だと4畝に7個づつ植わる予定なので28個の種芋が必要です。私が小さかった頃母親が芋坪から芋を取り出して半分に切り、腐敗防止のため切り口に木灰をつけて植えていたのを思い出しましたので、そうしてみたいと思っています。種芋は鳴門金時か土佐金時くらいがいいかも知れません。

 無事作業も一段落したので、梅林の横に生えている椿の木に絡まったカズラを剪定ハサミで切る作業や、畑の草取り作業をしましたが、今の間に地道な作業をしておかないと、カズラや草に負けてしまうのです。

 ふと畑の隅のツワブキの古株を見ると綿帽子を被ったツワブキが数本頭を持ち上げていました。ツワブキの赤ちゃんを見る度に春近しの感じがします。早速何本か収穫しました。これが春特有のアクの強い食べ物で、ほろ苦さが特長ですが、皮を剥ぎ茹でてアク出しをして煮付けにするとこれが結構美味しいのです。特産品センターの店先には早くも皮を剥いだツワブキが一袋300円程度で売られているようです。

 家に持って帰って新聞紙を広げその上で剥ぎました。アクで手が真っ黒になるため、薄い手袋をはめて剥ぐのですが、これが中々上手く剥げないのです。手を使う仕事をしている妻には到底頼むことが出来ず、結局自分一人が最後まで剥いで水に晒しましたが、楽しみが増えました。春はもうそこまで来ています。

  「芋のツル 育てるための ハウスでき いよいよ命 つなぎスタート」

  「不器用な 男に生まれ 得をした 作業は全て 親父に任せ」

  「芋の種 買う金あれば ツル買える そんな悪評 聞こえてきそう」

  「ツワブキの アクで染まった 指の先 働き者の レッテルのよう」

 

  

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shin-1さんの日記

○心の原点に帰った思い

 昨日は地元で開かれた菜の花ウォークというイベントに参加しました。最近は県内外に出る機会が多く、自分の町に居ながらいつも自分の町を疎かにしているような、後ろめたさが心の隅に引っかかっているのです。勿論役場職員だった昔のように給料を貰い仕事でまちづくりをしている訳ではないので、税金さえ納めれば私が何をしようと勝手なのです。しかし少なくとも双海町という地域をまちづくりのフィールドにして、ある時代を必死になって生きてきた私にとって、まちづくりの世界から目をそむけて生きることは意思に反すると思っているのです。多分自費で造った人間牧場もそうしたふるさとに対する想いと、ふるさとと自分をつなぎとめる心の鎖にしたいと思う現われだったに違いないのです。

 夕やけコンサートにしろ、菜の花ウォークにしろ、サンセットロマンチッククリスマスにしろ、今あるイベントの数々は殆ど私が発案し始めました。あり難い事にまちづくりの仲間によってその殆どが内容を変えても継続されているのですが、彼らの人集めの苦労を思うと、もう少し私にできる協力をしなければとならないと思っての参加した。

 イベントの良し悪しは量と質がありますが、中でも参加する人の量は大切な用件です。「一人でも多くの人を集めたい」と思う主催者の意思に反して、役所の職員は部署が変われば殆ど見向きもしません。ましてや何年か前まちづくりの部署でまちづくりの担当をした経験のある人でさえ参加しないのですから、役所の職員の冷たさにはほとほと参ります。「じゃあお前はどうなんだ」と言われそうですが、確かに役所を辞めた私たちも知ったかぶりでそれなりの知識で役所や職員を批判しますが、参加してものを言うような人間にならなければならないと思うです。その意味で次の三つは特に大事な心がけだと今も肝に銘じて生きています。

 「自分たちの歴史に思いを馳せられなくなった時」、人は良心」をなくします。たった35年間の役場生活、その中でも20年ほどの短い間、無我夢中でやったまちづくりの仕事は自分の歴史でもあります。リタイアしてその一線から身を引きましたが、真摯な態度でまちづくりという世界に向かい合いたいと思っています。

 「利益を考え過ぎた時」人は「良心」をなくします。かつて私は第三セクターをつくり、「赤字にならない」ことを至上命題にして無我夢中で儲けに走った時代がありました。それは「赤字になったらどうするのか」と議会から文句をつけられた時、「赤字になったら黒いボールペンで書く」と大見得を切った私自身に対する挑戦でもありました。その結果第三セクターは13年間、一回も赤字になることなく黒字経営を続けていることは承知の通りですが、儲けに走り過ぎてお客様本意を忘れて失敗した苦い経験ももっています。

 「仲間の顔を忘れた時」、人は「良心」をなくします。私の周りにはいつの時代も常に沢山の仲間が集まり、今も多くの仲間とともに生きています。その仲間も時代とともに顔ぶれが変わるのですが、かつての仲間の顔を忘れてはならないと、まちづくりの素人である妻が口癖のように私に言うのです。妻は古い私の仲間に対して、去年一年間だけでも50箱ものふるさとの味を仲間に宅配便で送り続けてくれているのです。そのことは仲間の顔を忘れないで欲しいという妻の願いかも知れないと日々感謝しています。

 人には様々な心がけがあります。朝早く起きようとか、毎日はがきを三枚書こうとか(いずれも私の心がけ)、何気ないことですが考え行動に移します。その行動がいつの間にか習慣になり、自分の規範となって生き方を確立して行くのです。

 もう少しだけ気張って、もう少しだけいい人間になれるよう努力したいと思います。

  「過去見るな 未来に向えと いうけれど 生きた歴史も これまた大事」

  「利益上げ 成果誇示する 時もある でも本当は 相手思って」

  「あの顔も この顔もまた 忘れえぬ 思いで彼方 仲間沢山」

  「過ぎてなお 初心忘れず 暮らしたい これから先も 肝に銘じて」

 

 

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shin-1さんの日記

○菜の花ウォーク

 今日は冬の寒さも和らいで、外気温が10度以上となって、戸外へ出るには絶好のお天気です。かつて私が現役の頃仕掛けた菜の花ウォークというイベントがあるというので、妻と妻の友人を誘って3人で出かける事にしました。このところ忙しくて夫婦で出かけることが殆どなかったものですから、罪滅ぼしのつもりで参加する事にしましたが、何時からやるのかもさっぱり分らず、とりあえず9時くらいからだろうと想像し、自分達の体力に合わせた計画を立てました。

 まず、妻と私で何キロくらい歩けるか予測してみました。私は無理が効いても妻は?と心配し、片道15キロ往復なしという結論に達したのです。早速準備をして早めに私と妻が2台の車に乗って、15キロ付近と思われる喜多灘駅近くに行き、リタイア用の車を駐車しました。その後私は妻の運転する田舎のオープンカーに乗ってシーサイド公園まで帰り、出発まで時間があったのでその車を自宅まで持って帰り、自宅からシーサイド公園までの1キロ余りを急ぎ足で歩き、妻と合流しました。

 今日の予定は9時から受付、9時半から開会式、10時出発だそうですが、9時になって受付が終わると、3人で早めに歩き始めたのです。海は凪、空は真っ青、周りには少し遅めの水仙と今が盛りの菜の花を見ながら快調に歩きました。日頃見慣れた車で走る景色も、歩いて自分の目線で見ると随分違って見え、日頃の世間話に花を咲かせながらのんびりゆったりです。頻繁に通る車には顔見知りもいて、手を振ったりクラクションを鳴らしたりして合図をしてくれました。

 私の計算だと私たちの歩数で大体一時間で5キロ余りを歩きます。1時間で閏住の菜の花畑へ到着しました。予想通りの時間と距離にびっくるしました。閏住地区では毎年恒例の菜の花祭りが開かれ、地区民総出で準備が行われ、餅をついたり商品を販売したり、気の早い人は缶ビールを飲んで雰囲気を盛り上げていました。

 直ぐ側のくじらという妹のお店でも弟や姉夫婦、それに妹婿の兄弟や子どもが手伝いに来ていて、一年で一番の人出を当て込んでおでんや弁当を販売していました。私たちもご相伴にあずかりおでんを食べましたが、小腹が空いていてジャガイモや厚揚げの美味しい味に舌鼓を打ちました。

 やがて日本で一番海に近い下灘駅まで着ましたが、出発時に押してもらったスタンプに次いで、ここで2つ目のスタンプを押してもらいました。驚いた事にこれらのスタンプは私が現役中にデザインして作成したものでした。

 港が一望できる浄土の坂で記念の写真を撮り、しもなだ運動公園でトイレ休憩をしました。そして街中や豊田漁港の側を通って、本村の菜の花畑へ向いました。冨貴の差し掛かったころ、直ぐ上の線路をトロッコ列車が追い越して行きました。お客さんは上灘駅で降りたため殆ど空の状態でしたが、2時半過ぎには帰りのお客を積んで長浜から上ってくることでしょう。


 私たちは12時前に一足早くラメールという馴染みの店で日替わりランチとピザを注文し昼食をとりました。海を眺めて食べる食事も格別でした。いよいよ目的の15キロ地点に差し掛かった頃には、後続のウォーカーが次々と追い抜いて行きましたが、私たちはのんびり組なので気にもせず、休憩の後私の車に乗って直ぐ側の今坊地区まで出かけました。そこは昼食時間と休憩時間が合致した地点なので、大きな鍋で猪鍋が作られ、また餅つきなどが行われていました。友人の亀田さんに猪鍋をご馳走になり、友人の津田さんに勧められて餅つきまで飛び入り参加しました。私の同級生が近くに嫁いでいて、せっせと餅を丸めていました。声をかけ懐かしい会話を交わしながら、お土産にお餅までいただきそこを後にしました。


 ゴールである長浜駅の近くで二人を降ろしゴールのスタンプをいただきました。長浜駅構内にはテントが張られお店が出ていたし、早咲きの桜をバックに嵐太鼓の面々が準備を整えてウォーカーの到着を待っていました。甘酒の接待を受け、名残惜しく私たちは大洲の風呂へ一目散に走り、軽やかな春の汗を流しました。

 折から雨が降り出し、雨に濡れることもなく終わった早目のウォーキングに満足し、又来年も歩こうと、当てのない約束をして散会しました。


 妻も妻の友人も、勿論私も予想以上に強健である事に自信を深めましたが、若者はその日、年寄りは明くる日体に堪えるそうですが、はてさて明日の朝はどうなることやら・・・・。

  「歩く前 歩ける距離を 想定し 車を運び 準備万端」

  「そこここに 春の息吹を 感じつつ 三人仲良く 歩幅合わせて」

  「カメラマン 同行しての ウォーキング まるで芸人 二人の女性」

  「中々の 健脚だよね 褒めあって 明日朝痛い 言うかも知れず」

 

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shin-1さんの日記

○5月2日までは生きれると保証

 今年は閏年で2月が一日余分にあったためではありませんが、医者の勧めで2月の最終29日、県立中央病院へ健康診断に出かけました。昨年はどういう訳か一年中ことの他忙しく、健康診断の日と重要な会議が重なり、予定していた診断日に行けなくなり、気がつけば半年程も病院の健康診断を受けていなかったのです。妻はそのことが気がかりで、病院へ行くよう再三再四勧めてくれるのですが、「忙しい」事を理由に拒み続けていました。業を煮やした妻は私の予定表の空いた日を目敏く見つけて、勝手に予約センターへ電話して申し込んでしまったのです。1月18日に健康診断に出かけた折、血液検査などを済ませ、その結果の問診もあるので2月29日にガン検診なども受けるよう主治医から勧められました。

 前日の夜9時から食事をしないようにとの触書に基づいて、空腹でまず胆のう手術をした痕跡周辺のエコー検査をしました。半身裸の腹や背中に何やら粘々したゼリーを塗られ、二人の検査技師がパソコン画面に写っている映像を見ながら動かし回るのです。検査は10分ほどで済みましたが、腹や背中を厚い蒸しタオルで拭かれたものの、何となく気持ちが悪く違和感を感じるまま、今度は胃ガン検診です。いつも思うのですが「大腸ガン検査」とか、「胃ガン検査」とか、名前が少しグロテスクなような感じがして気味悪く感じるのです。「大腸検査」「胃検査」で充分なのに何故か「ガン」という項目をつけるため不安をあおってしまうのです。

 「胃ガン検査」にはカメラを入れる方法と外からX線で透視する方法の2種類がありますが、私は胃カメラを飲んだ経験がなく、今回もバリュームを飲んで透視する方法を選びました。胃ガン検査はまるで宇宙遊泳の訓練場のようです。検査台に乗るとガラス張りの向こうから遠隔操作する検査技師がマイクを通じて「上になって」「右になって息を止めて」などと、矢継ぎ早に指示を出して検査台がくるくる回るのです。緊張の余りに左と右を間違えたりしますが、発泡剤を飲んでいるためゲップが出そうで、バリュームを飲みながらの検査はこれまた気持ちのいいものではありませんでした。

 やがて終りを告げるアナウンスがあって外へ出ましたが、口の周りは白いバリュームが一杯ついて、お歯黒ならぬお歯白で、口を何度ゆすいでもこれまた気持ちのいいものではないようです。検査室を出る時、「検査結果が出るには一時間以上かかりますのでそれまでどこかで時間を潰してから主治医の診察を受けてください」と指示がありました。病院からは一刻も早く出たい心境だったので体内のバリュームを外に出さなければならないため自動販売機で水を買い飲みながら歩いて、えひめ地域政策研究センターまで行きました。研究員の方には悪かったのですがそこで30分余り時間を過ごし、再び診察のため病院へ向いました。

 「若松様」とクラークさんが診察室へ呼び込んでくれました。先生は前回の血液検査の結果をカルテで確認しながら様々な項目について詳しく説明してくれましたが、少し数値が高いものがあるものの今のところ異常がないとの結論でした。「休息と栄養に気をつけるように」指示を受け、次回の予約は5月2日と決定しました。

 この時点で胃ガン検査の結果が主治医に届いていないため、「何かあったら電話連絡するから」と電話番号の確認をされました。

 さてあれから1週間余りが過ぎました。外出の多い私はそのことが気になりながらも殆ど忘れているのです。昨日福岡、秋田と長旅から帰った折その事を思い出し、妻に「病院の先生から何か電話はなかったか」と確認したのですが、今のところ電話で「再検査が必要」という知らせはないようなので一応安心しているところです。

 病院の健康診断で悪い結果が出ると、「もう病院へは行きたくない」といつも思い、良い結果が出ると「やはり健康診断だけは定期的に受けなければならない」などと、揺れ動く心そのままに考えてしまうのです。人間は、いや私はこのように口で大きな事を言ってはいても小心者のようです。第一病院が嫌いな最大の原因は注射が嫌いなだけなのです。「その顔で」とこれまた良く笑われますが、私は大の注射嫌いなのです。

 まあこの健康診断で主治医の先生が「とりあえず5月までは大丈夫」と2ヶ月間だけ保証してくれたのですから、有り難いと思わなければなりません。5月2日を忘れることなく次の健康診断までに体をつくりたいものです。

  「五月まで 生きると保証 してくれる 医者の言葉に 少し安心」

  「検診の 結果気になる 私でも も少し長く 生きていたいね」

  「胃の透視 結果伝える 電話なし 多分良かった 勝手に思う」

  「これからは 二ヶ月一度 病院へ 心に決めて 医者と約束」

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shin-1さんの日記

○久しぶりの秋田県

 前回の秋田県への旅は12月18日、かまくらで有名な横手市で開催された観光カリスマ講演会でしたが、今回は約3ヶ月ぶりの秋田県といっても、もっと北の能代市二ツ井で開かれた地域雇用創造推進事業でのまちづくりセミナーです。私はどちらかというと飛行機が余り好きでないので、時間的な余裕もあって東京からは前回同様列車の旅を選びました。新宿から新宿ラインで大宮まで行き、そこから北を目指すのです。途中赤羽当りから大宮駅までの車窓には日本一の富士山が遠望ながら優美な姿を見せてくれていました。いつものことながら都会の人には車窓に見える富士山など全く感心がなく、携帯電話でメールを打ったり、雑誌を見たりしていました。

 大宮では相次いで出発する各方面の新幹線がひっきりなしに通過して行きます。私が乗るこまちは別の新幹線に比べてかなり小型のような感じがしました。それもそのはず、盛岡からはの秋田新幹線は在来線のレールを走るのです。

(これは座席が5列、しかも二階建てまである普通の新幹線です)
(座席が4列の少し小さいこまち号です)
(私が15番線から乗ったのは11時22分発こまちでした)

 盛岡からは後ろにつないだはやてと切り離され、雪の峠を越えて秋田へ入ります。大曲で新幹線ながらスイッチバックして、前回は一瞬驚き慌てたことがありますが、今回は二度目なので隣の席の方に説明知る余裕がありました。その夜は秋田の駅前に一泊し、明くる日同行するシステムブレーンの斉藤さんと秋田駅で落ち合い、青森行きのかもしか1号に乗って日本海沿いを北上しました。この路線は40年前愛媛県青年国内研修のメンバーとして大阪発の夜行列車に乗り、北海道を目指した懐かしい路線なのですが、さすがに時の流れは早く、車窓に広がる景色さえもかき消されていました。

 秋田を出る時は比較的穏やかな天気も、八郎潟辺りに来るとにわかに空がかき曇り、猛吹雪です。車窓の景色は何処までも広がるただ広い田んぼが白い雪を被っているだけの、殺風景な風景に変わってきました。

(八郎潟付近の田園地帯を走る)
(3番ホームから出発する東能代駅の五能線)

 目的地である二ツ井駅の一つ手前は東能代駅です。ここから青森県深浦を通って青森県川部まで今人気の五能線が走っています。この辺りもやはり夕日の美しい所で、深浦では夕日マラソンなどのイベントが行われているようです。ぶなの原生林で世界遺産となりすっかり有名になった白神山地は秋田・青森にまたがるそうで、ここでは玄関口として売り出しているようです。二ツ井駅には市役所の小林さんが迎えに来てくれていました。講演までまだ時間があるので、能代市と合併した二ツ井町の旧庁舎にある支所へ行きました。秋田杉のご当地だけあって平成6年に建設したという庁舎はまるで教会のような外観をしており、中は秋田杉の丸太や正目板がこれでもかというほど使われた贅沢な造りでした。現在は合併後も市全体の教育委員会等が入っているようです。

(小雪舞う中に凛として建つ二ツ井支所)

(役所の中には秋田杉の巨木が4本シンボル的に立っていました。また根株は市民の受け付け用机として使われていました。職員の机も殆どが木で出来ていました。また壁の杉板は旧役場庁舎天井板をリサイクルして使っているそうです。
(左がシステムブレーンの斉藤さん、右が小林さんです)

その後私たちは道の駅にある観光協会を訪ね事務局の女性とお茶をご馳走になりながら談笑したり、近くの神社を見学したり、また丁度昼時だったので馬肉中華そばを食べに行ったりしながらひと時を過ごしました。

(除雪の雪がうず高く積まれた道の駅きみまち阪)
(過ぎの原生林が残る川べりの風景、最近までここから川舟が出ていたそうです)
(雪に生まれた氏神様)

(セミナー前の会場風景)
(外は深々と雪が降り続いていました)

 外は思いボタン雪が舞っていましたが、参加者は2時間の私の話に熱心に耳を傾けてくれました。いつも思うことながらもう少し時間があったらと話す方は悔やみましたが、聞く方にとっては休憩も入れずまるで機関銃のように話す私の話は、どんなに聞こえたのでしょう。講演が終わり飛行場まで送ってもらう時間が迫っているため、残念ながら後ろ髪引かれる思いで、会場を後にしました。別れ際名刺交換だけでもと追いかけてくれた人、そして秋田美人とでも言うべき市役所の笑顔が素敵な女性の手を振っての見送りに余韻を残し、二ツ井の会場を後にしました。飛行場までの道沿いは枯れ木に花が咲いたような見事な雪景色でした。

  「熱帯びて 語る私に 卒啄の 如く合わせる 笑いのこだま」

  「白神を 訪ねてみたい 春頃に ブナの芽吹きは さぞや見事ぞ」

  「枯れ木花 県都の側に このような 自然いっぱい 羨ましいね」

  「白い雪 不味い全てを 隠したる 故に綺麗と 思うのだろう」 

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shin-1さんの日記

○雨と雪

 西日本といわれる四国地域に住んでいる私たちは、一年中を通して余程のことがない限り晴れと雨しか体験しませんが、北日本では晴れと雨に加え雪の比率が多いようです。冬の寒い雨が降った愛媛を旅立ち、これまた前夜の雪が周辺の山々をすっぽり覆ってはいても、九州博多の町中は冷たい雨が降ったり止んだりのあいにくの雨模様の天気でした。こんな旅先での二日間を雨とともに過ごした私は朝早く、中継点の東京で真っ青な冬空を見ました。そして新幹線こまちで秋田へ向いましたが、それから二日間殆ど真っ白な雪景色一色の世界で過ごしたのです。更に昨夕雪の秋田空港を飛び立ち、かなり強く降る雨の東京羽田空港を経由して、晴れた四国松山空港に降り立ちました。狭いといいながら日本は広いなあと思いました。こうして日本縦断をしながら、訪ねた町や出会った人、見聞きしたことを思い出しています。人間の記憶とは曖昧なもので、たった4日前の出来事なのにもう思い出せないことがいっぱいあって、年々退化する記憶の退化を嘆きながらも、せめて思い出にとこうしてブログ日記に綴っていますが、この作業も果たして何の意味があるのだろうかと、ふと思ったりしています。でもとりあえず10年間はと目標に決めたことなので、難しく考えず記録に留めたいと思っています。

(川に架かった橋は公園になっていました。向こうに見えるのは文化財の元公会堂で修復作業が行われていました。)
(博多の街もすっかりリトル東京で、ビル群が立ち並びまるで東京と間違いそうな風景です。)

 福岡博多の朝は天気が回復したかに見えました。天神までのそぞろ歩きは絶好調でした。少し早めの午前10時頃博多に着いたので、何年か前に妻と退職記念に来た大豪公園を訪ねる事にしました。博多駅から天神駅に出て、インターネットで調べてプリントアウトした地図を頼りに駅近くの、会議が予定されているホテルのクロークに荷物を預け、デジカメと傘だけの身軽な姿で大豪公園まで歩きました。これはかなり長い距離でしたが突き当たれば曲がり、曲がれば「あれっ」という試行錯誤を繰り返しながら進んで行くと、今まで見たこともないようなものに出会うのです。例えばお城の跡や平和台陸上競技場など、これまで何度も博多の街に来ているのに訪れたことのない場所へ随分出ました。

(福岡城跡公園)
(城址公園内の櫓)
(平和台陸上競技場)
(城址公園内には梅林がありました。もう盛りは過ぎていましたが、芳しい匂いを漂わせていました。
(城址公園から大豪公園に至る城門)

 少し歩き疲れた頃、城門を抜けて広場を通り過ぎるとやっと大豪公園の広い広い見覚えのある池に出ました。この公園へは今回で三度目ですが、いつ来ても素晴らしい公園で、池の中ほどにある島伝いに幾つか中国風の石橋が架かっていて、これがまた庭園の趣きを感じさせて何ともいえない美しさなのです。

(公園内の全景、松の緑がとても綺麗でした)
(最初の大橋)
(カモメや鳩やカラスが同居して、人が近くへ寄っても逃げないのです)

(浮見堂)
(水面に映える石橋)

 公園の池を巡る頃に私の携帯に備えついた万歩計は、午前中だというのにもう1万歩を超える程歩いていました。凄い距離を歩いたものです。このままホテルまで帰りを歩くと、ウーン2万歩かと思う頃、少し雨が降り出しました。持っていた傘を広げて公園を横切る様な形で武道館、護国神社付近を歩き、再びホテル付近まで戻ってきました。ホテルの近くで軽めの昼食をとり、福岡アクロスまで引き返しました。ここは何年か前「がばいばあちゃん」でお馴染みの島田洋七さんと相前後して同じステージに上がった円形ホールのある所です。この施設はちょっと変わっていて、ビルの屋上が緑化されて遊歩道がついており、その時は奇抜なアイディアの施設に目を見張ったものでした。

(施設が全て屋上緑化された珍しい施設です)
(施設の中は吹き抜けになっている素晴らしい施設です)

 ビルの谷間で一足早く春を感じる綺麗な花のオアシスを見つけました。誰がどんな思い出作ったのかは知りませんがホッとする都会のセンスのよさが印象に残りました。

  「晴れや雨 変わる天気を 気にしつつ 街中歩く カメラ片手に」

  「知っている つもりで知らぬ 大都会 歩いて見つけ 一人嬉しく」

  「軒先を 束の間借りて 雨宿り 九州弁で どうぞどうぞと」

  「今回も 観光ルートに ない旅を 思いつくまま 自由な時間」 

 

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