shin-1さんの日記

○美しい夢

 先日株式会社S・Yワークスというコンサルタント会社からの依頼で、福岡博多へ講演に行きました。その折代表取締役の佐藤芳直社長さんから「船井幸雄の60の言葉」と「ものづくりへの情熱」という社長さんの自著本2冊をプレゼントされました。前著書には「美しい夢」、後著書には「感謝」という社長さんの座右の銘ともいうべき言葉が墨字達筆に書かれていました。日本列島を縦断するような福岡博多から秋田能代までの道すがら、引き込まれるような気持ちでまず前著書読んでしまいました。社長さんが私に贈ってくれた「美しい夢」とは一体何なのかを考えながら・・・・・・。

 「美しい夢」の意味を考えるためあえて反対語を探すとすれば「汚い夢」でしょう。私流に考えれば「汚い夢」とは相手や地域を省みない自分中心の夢だと思うのです。人間は誰しも幸せになりたいしお金持ちにだってなりたいのです。また成功したいし、健康で長生きもしたいのです。これを私は人間四つの願望と思っていて、それを手に入れるために私自身様々な努力を重ねてきました。結果的にはまだまだ満足がいかなくてもそこそこ幸せに暮らしているし、お金だって自称貧乏人といいながら食うには困らないのです。また成功といわないまでもそれなりの業績を上げ、病気を繰り返しながらも63歳の今日まで生き長らえてきたのです。友人から「お前は幸せ者だ」と羨ましがられるほどに今も楽しい日々を暮らしているのです。しかしその陰には妻をはじめ家族の深い理解と後押し、それに職場や地域の存在があるのです。

 若い頃は自分の力を過信し、業績の全ては自分の実力や努力だと傲慢な振る舞いをしていました。自分の夢をかなえるためには平気で人を土台にしたような言動もあったと深く反省するのです。この時代の私の夢はまさに「美しい夢」の反対語である「汚い夢」でした。

 人間は一人では生きてゆくことはできません。常に他人とともに生きるものなのですが、他人の存在や地域を意識し始めるにはそれ相応の時間と機会が必要なことはいうまでもないのです。今の世の中を見渡すと、「自分自分」と自分中心で世界が回るような錯覚さえ覚える世相に、自分の若い時代を重ね苦笑するこのごろです。前総理の阿部さんが「美しい国」を提唱し話題になりました。それは相反する「汚い国」になりつつある姿に心を痛めた総理の止むに止まれる決意だったのかも知れないのです。

 さて「美しい夢」とは一体どんな夢なのでしょう。それは反対語の「汚い夢」で述べたとおり、相手のことや地域の事を思いやる共感・共鳴・共有・共生の世界が醸すものなのです。

 例えば私の夢であり実現した「人間牧場」について考えてみた場合、これをありきたりの裕福な人間が造るセカンドハウスのようなものにしたら、それこそ見せびらかしの道具にしか過ぎないのです。週末にごっそり食べ物を持ち込んで親しい仲間と大騒ぎをして帰るだけでは、何の意味も持たず、むしろ地域からは煙たい存在として見られることでしょう。

 私はこの施設を利用して更なる「美しい夢」再生産の場所にしようと考えています。子どもたちを集めて「少年少女おもしろ教室」を開いて様々な活動を始めたのもまさに夢の再生産なのです。また様々な心に悩みを持った人に門戸を開いているのも同じような思いがあるからです。

 コンサルタントを悪評して、「人が来ん、人が去るからコンサルという」などと悪評を叩く人もいますが、私にとって「美しい夢」というキーワードを与えてくれた佐藤社長さんは、今年一番の嬉しい出会いだったと思っています。

  「美しい 夢を見ろよと 為書きに 納得しつつ 思いめぐらす」

  「昨日見た 夢も夢だが 俺の夢 見果てぬ夢と 妻は呆れて」

  「ささやかな 夢を抱いて 生きてきた ゲットしたもの 沢山ありて」

  「夢のない 人に会うほど つまらない ことはないなと 夢人探す」

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shin-1さんの日記

○凛として木枯しに立つ寒椿

 昨晩は7時から、地元上灘中学校の学校評議委員会が開かれ出かけました。この時期になると高校受験も終り、あとは結果を待つだけで学校もすっかり落ち着いた様子でした。校長先生もいつになく顔色がよく、校長室へ入るなり一枚の保護者宛の文章を見せていただきました。今日の私のブログのテーマである「凛として木枯しに立つ寒椿」という名句が書いてありました。内容は二人の生徒の絵画の話が紹介されていました。男子生徒の作品が愛媛県代表として全国教育美術展に出品され、見事入選したそうです。また女子生徒の作品は来年度のクロッキー帳にお手本として掲載されることになったようです。

 上灘中学校は小規模校で美術専任の先生がいません。同じような学校を掛け持ちしている先生が時折指導に見えられるのですが、それにしてもそんな片手間でこれだけの快挙ですから凄い指導力だと思いました。

 かつて私は子どもの数が10数人という大洲市柳沢田処小学校を訪問したことがあります。そこで見た絵はこれまで見たどの絵よりも視点が上から下からとまったく違っていて、生き生きと輝いて見えました。それもそのはずその学校の絵は県下の美術展で賞を総なめにするほどの活躍ぶりだったのです。その原因が美術の先生の指導によることは容易に想像できましたが、小規模校などものともしない快挙に、「教育は人なり」と思ったものでした。

 ひととおり先生の説明を聞いてから、評議員の私に発言を求められましたが、私は以上のような事例を紹介しながら、その席にいない美術の先生を褒め讃え、少し意見を述べさせてもらいました。美術以外この学校には小規模校ながら学科ごとに専任の先生がいます。いわばプロの先生がいる訳ですから、美術の先生以上の働きが出来ても可笑しくはないのです。「教師が変わらなければ子どもは変らない」。これは私の持論ですが、今の教師はやれ「小規模校だから積極性がない」とか、「この学校の子どものレベルは低い」とか、現状を否定していつも文句をいいます。「積極性がなくレベルが低いのはあなたです」といいたい気持ちです。

(多分咲いても私以外誰一人気付かないであろう道端の崖っぷちに咲くやぶ椿の花は、まさに世界にひとつだけの花なのです。)

 まさに二人の生徒の快挙は「凛として木枯しに立つ寒椿」そのものと感じましたが、この寒椿を開かせた一番の功労者は美術の先生である事を私たちは見抜かなければならないと思うのです。

 昨日人間牧場へ行きました。人間牧場に至る狭い山道のあちこちにはやぶ椿の花が今を盛りと咲いていました。山奥の道ゆえ見る人もなくただひっそりと咲き誇り、道には椿の花が印象的に赤く散っていました。寒椿の花の一句を思い出しながらデジカメで写した写真を取り出して、校長先生と私の偶然にして一致した椿の花への思いに思わず苦笑してしまいました。

 校長先生は寒椿でしたが、私は雑草の如きやぶ椿であり余命いくばくもない春椿です。でも凛としてがけっぷちに逞しく生きて咲くやぶ椿にもそれなりの意味はあると思うのです。私たちは名花の椿を美しいと思うことに馴れてきました。学校でいえばよく出来る子どもです。子どもの頃から脚光を浴びてきた子どもを愛でるのは簡単ですが、人知れず頑張る子どもに思いを寄せて生きる希望を見出してやることも大切な教師の仕事なのです。やぶ椿の花を愛でてやる、これこそ生きる力を育むことでしょう。

(細い一本の道には赤いやぶ椿の花が印象的に散り落ちていました。これも美しいものです。

 校長先生の嬉しそうな顔の原因はもう一つありました。登校できなかった登校拒否の生徒が今年になって登校し始め、県立高校受験にまでこぎつけたというのです。間もなくその結果は合格発表という形になって現れるでしょうが、やぶ椿のように咲けば褒め、道端に落ちてもなお美しさを保つ続けているやぶ椿の花を褒めてやり、新たな旅立ちへ送ってやって欲しいと願っています。

 たった3年しかこの学校に思いを寄せることが出来なかった私ですが、この三年間先生も生徒も、勿論学校も確実に力を付けていい学校に成長させてくれました。その成果に大きな拍手を送りたいと思います。

  「年三回 通っただけの 中学校 椿開いて ほのぼの嬉し」

  「この椿 開いた訳は 先生が 厳し優しい 陰徳結果」

  「教育は 自律自立の ためにある 手助けできぬ 教師は要らぬ」

  「学校に 来れない子ども 根気よく 指導お陰で 始動の気配」

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shin-1さんの日記

○サツマイモの種芋を伏せました

 「命のリレー」なんて格好いいことをテーマにサツマイモをつくり始めて2年が経ちましたが、一年目はイノシシの被害に遭って全滅、昨年は予想以上の収穫だったけれど種芋の確保がほとんど出来ず、今年3年目に突入です。生涯学習の一環として人間牧場で始めた野外活動体験事業ですが、しみじみ「いいことと出来ることは違う」事を実感している今日この頃です。

 昨年の12月から始めた命のリレーのための土作りも一見順調そうに見えて大変な重労働で、子どもたちは結局のところ土作り講習会だけの参加になってしまいました。息子に手伝ってもらって人間牧場の畑の隅に穴を掘り、ベニヤ板で囲い場を作って落ち葉を集め、油粕や米糠を入れる作業もかなり重労働で、腰を痛めぎっくり腰になってしまったり、その後の切り替えしなどの作業は殆ど私一人がやりました。それでも大洲市田処の亀本さんが牛糞や豚糞をわざわざトラックで運んでくれたり、バイオマスペレット事業の県補助金をいただいて牛糞ペレットを貰ったり、そこそこの援助があって、どうにか今日を迎えました。


 外気温度が温かくなり寒さも峠を超えたようなので、先日ビニール掛けを終えたため今日は何が何でも種芋を伏せたいと意気込んで準備を進めました。まず種芋の確保です。子どもたちは種芋を残さず殆どを食べてしまったので、私の分け前である3個をわが家で段ボール箱に籾殻を入れ部屋の中で大切に保管していました。これでけではどうしようもないので、今朝早く田舎のオープンカーで伊予市の青果市場へ行ってサツマイモの種を購入しました。一箱に30個入って2200円ですから、1個73円とかなり高価な芋です。段ボール箱に書かれた銘柄は鳴門金時「里むすめ」だそうで味は見るからによさそうです。

 今日は朝から天気がいいとテレビの天気予報ではいっていましたが、私が人間牧場へ上がった頃には早くも小雨が落ち始めました。急いでハウスのビニールを剥がして中に鍬で筋をつけ、植える場所の目安にしました。そして種芋を外から植え付け予定の場所に投げ入れ、自分も囲い場に入って、一つ一つ丁寧にスコップで穴を掘って植え付け、土を被せて行きました。最後はビニールを元に戻して出来上がりです。


 近所の農家の奥さんがお墓参りに来ていて、私の農作業の様子を見ながら、世間話しをしました。奥さんが「ここはやまぜ(南西の風)が強く吹く所だから、ビニールが飛ばないようにしっかりと固定しなさい」とアドバイスをしてくれました。早速端材を寄せ集めてあちらこちらに釘でこれでもかといわんばかりに打ちつけました。多分この奥さんは農業を生業としているので私のやってることが、お遊びのように感じたのかもしれないのです。

 よくいわれる言葉ですが、儲けなければならない農業はそれなりの苦労が伴います。しかし儲けなくても良い農業は実に楽しいものなのです。もしこの種芋から芽が出なかったら、お百姓さんの場合は死活問題です。ところが私たちのようなえせ百姓はたとえ芽が出なくても、その時期にイモヅル苗を買えばいいのです。2200円の投資は被らなければなりませんが、まあ首をくくるような責任問題にはならず、むしろ失敗の体験として、それなりの評価は残るのです。

 子どもたちが考えた命のリレーは果たして上手く行くのかどうか、今のところ半信半疑、五分五分といったところでしょうか。

  「芋の種 植えはしたもの 芽が出るか 五分五分半疑 自信が持てず」

  「里むすめ 名前がいいね 種芋の 食べたいような いい顔してる」

  「ビニールで まるで封印 苗床を ワクワクしつつ 金槌の音」

  「何しても ひと筋縄では いかぬもの ツルの高さを 今頃実感」 

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shin-1さんの日記

○気の会う仲間と一杯やりながら「初心」を語る

 昨晩は松山市内のかつて行き着けだった四十雀という縄暖簾のかかった居酒屋で、3人だけというこじんまりとした雰囲気でお酒を飲みました。勿論私はお酒が飲めないので注ぎ役に徹し、大瓶6本を空けました。酒の強い方の部類に属する二人が飲むほどに段々酔ってくるのが分るはずなのに、ウーロン茶を飲みながらこちらも酔ったような雰囲気になるのですから酒席とは面白いものです。

 私を含めたこの3人が中心になって夢工房という小さな勉強会を始めたのはもう二十年も前です。その後県庁や市町村役場、それに団体職員も加わって多い時は20本の指では数えられない程に増えましたが、最初は勉強会のつもりで始めたグループが、いつの間にか飲み会の延長のような雰囲気になっていて、何とかしなければなるまいという話になって、昨晩は作戦会議のような飲み会になったのです。

 いつも大勢で利用する飲み屋も昨晩は殆ど空で、顔なじみの客とあって予約もなしに行ったにも関わらず、女将さんが空いた4畳半の部屋を用意してくれました。「適当に見繕って」と言っただけで私たちの胃袋と懐具合を察知して料理や酒を出してくれるのですから、20年の重みはさすがだと思いました。

 話は飲むほどに酔うほどに深くなり、様々な意見が飛び交いました。元々この二人は県庁職員の中でも私が最も敬愛する人たちなので、読書や人脈で人間の生き方をしっかりと学んだ、自らを律した生き方は謙虚さと冒険心を兼ね備えているのです。昨晩はそんな生き方を心を開いて話し合いました。

 「初心に帰る」という話は、奥の深い観阿弥世阿弥の話しにまでも及びました。「初心に帰る」という言葉はよく使いますが、初心とは全ての始まりを意味します。しかし人間には年齢や発達段階、発起に応じた様々な初心があるようです。成人式を迎えて決意を新たにするのも初心、役所へ入庁した時の決意も初心、また23歳の時に作った生活設計も初心なのです。

 さしずめ私が50歳で決意した人間牧場構想も初心であり、60歳の定年リタイアの時に決意した生き方も初心かも知れません。昨日二人の話しを聞いて60歳から始めた今の生き方の初心を考えてみました。

 私の生き方は概ね21年サイクルです。既に3つのサイクルを終えて最終章である4つ目のサイクルに突入します。4つ目のサイクルから新たに始めた事は毎日ブログを書くこと、人間牧場をフィールドに恩返しの人生を過ごすこと以外そんなにはありませんが、彼らが言うのにはブログと人間牧場だけでも羨ましい生き方だと褒めてくれました。

 私の周りには60歳という人生の節目を向かえた人たちが、「自由人」というものに憧れてどんどんリタイアして来ています。あと2週間でその数はどんどん増えてゆくことでしょう。しかし憧れていた「自由人」もいざなってみると、案外不自由なものなのです。年金をいただく年齢にはまだ到達しませんから、給料を断たれるという不自由がまず襲いかかります。そして今までの職場人生が地域人生に変わりますから、地域のお世話をしなければなりません。これも嫌おうなしで不自由です。また妻や家族と給料という一本の太い線で結ばれていた人間関係が壊れ不自由になるし、規則正しい生活が不自由になって健康だって害します。まあ自由の裏に隠された不自由を想定認識し容認することを覚悟しておかないと「こんなはずではなかった」という失望の結果になるのです。

 私は幸せな事に4サイクル目の始めに当ってしっかりとその事を考えて出発したから素敵な「自由人」になり、人もうらやむ素敵な生き方をすることが出来ています。多分そのバックボーンとなる健康さえ注意をしていればもっともっと素敵に生きれると希望が持てるのです。

 心に望みを持って三年前に始まった新しい私の生き方は、まさに新たな「初心」であり、この「初心」に帰ってこれからも楽しく生きてゆきたいと思ういい昨夜の飲み会でした。

  「初心とは 決意したこと 全てです 後は実践 やるっきゃないね」

  「尺取の 虫に例えた わが人生 残った旅路 やはり尺取」

  「言い事を 観阿弥世阿弥 教えてる 今も昔も 道は変わらず」

  「自由人 みんな憧れ いますけど 不自由おまけ 沢山あるよ」


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shin-1さんの日記

○水槽の掃除

  わが家の玄関に水槽があります。長男がどこかから貰ってきた金魚が7匹泳いでいます。昨年の春までは長男の命令を受けた学生の次男が面倒臭そうに引き継いでやっていましたが、その次男も学校を卒業して就職したため、長男の仕事に戻ったものの、長男夫婦は現在のところ松山暮らしだし、子どもが出来て仕事も忙しいらしく誰も面倒見なくなってしまったのです。金魚を飼い始める時自分で世話が出来ないのなら止めとけと言った手前、多少汚れていても黙認していました。しかし正月から殆ど掃除をしていないことに気がついた妻が今朝、「お父さん、水槽が汚れて見苦しいから掃除をして下さい」というのです。私は反論して「息子に電話しろ」と一発即発の感じになりました。妻はそれでも「長男も忙しそうなので、あなたは暇でしょう」と追い討ちをかけるのです。「わしは暇ではない」と反論するものの、妻はさっさと仕事に出かけて行きました。挙げた手を下せないとはこのことでしょう。しばらく時間が経って宅配便の方がチャイムを鳴らしたので玄関に出て荷物を受け取りました。確かに美観を損ねるほど汚れています。「まあ仕方がないか」と心の葛藤を打ち払い水槽掃除をする事にしました。

 息子が持っているスポンジ、網、バケツなどの掃除の七つ道具を取り出し、まずバケツに水を入れて7匹の金魚を取り出しました。それから水をバケツで抜き取り、スポンジでゴシゴシ洗うのです。水がぬるんだといいながら水槽の水はまだ冷たく、背筋にブルブルと感じながら丁寧に水垢を取り除き、綺麗に拭き取りました。続いて浄化ポンプを取り出し水道口へ持って行き中に溜った水垢を綺麗に流して再び水槽に戻し空気を送りました。エアーが送られポンプは順調に作動しています。

 水槽の水を全て変える金魚への付加が大きいため、少し汚れた水ながら2割程度を残し、丹念に網ですくい、新しい水をバケツで4杯入れ替えました。水は少し濁っていますが、水槽の外から金魚が見え始めました。この分だと2時間もすれば透き通った水になることでしょう。

 私はふと、シーサイド公園のイベントホールにある水槽の事を思い出しました。5本のアクア水槽を配置し、海水魚と淡水魚を飼っています。地域振興課長の時代はこの水槽の掃除はボランティアでもっぱら私の仕事でした。朝5時から約1時間、毎週金曜日を掃除の日と定めて一生懸命十二年間も水槽の掃除をしたのです。まだ掃除に慣れていない頃だったと思いますが、淡水魚の水槽の水を落とし中に入って掃除をしているといきなり、西洋大ナマズが飛び跳ね、何と外に出てしまったのです。これは大変と外に出て暴れまくる大ナマズを水槽に戻しました。家に帰ってテレビを見ると何と阪神淡路大震災が起こって、長田区の火災炎上が映し出されていました。「地震とナマズ」は科学的には正しいデーターが無いのかもしれませんが、あの時のナマズ騒動を思う時、この珍現象の体験は将来想定される南海地震に役立つかもしれないと一人考えるのです。

 退職しシーサイド公園の水槽の掃除もなくなったのですから、せめてわが家の水槽ぐらいはと、妻とやりあった朝の口喧嘩を深く反省しています。

  「この水槽 誰が掃除を するべきか 暇なあなたと 言う妻しかり」

  「掃除して 気持ちよさそな 土佐金を 宅配兄ちゃん 褒めて帰りぬ」

  「餌食べず よく生きている 土佐金に 俺も食べずに 生きれないかと」

  「水槽を 見れば必ず 思い出す 阪神淡路 なまず騒動」

 

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shin-1さんの日記

○傷ついたハト

 数日前、庭の隅に作っている東屋の隅に鳥かごが置いてら、中で何やらじっとうずくまっているものがいるのです。よく見るとハトが一羽、寂しそうに入っているではありませんか。早速隠居へ行って親父に聞くと、「数日前散歩に行く途中、道端で一羽のハトが倒れているのを見つけた」そうです。「近くによって手を差し伸べたが生きているものの身動きしないようなので、可哀想に思い連れて帰った」らしく、「何とか助けてやりたいと思い、倉庫から昔孫がインコを飼っていた鳥かごを取り出し、藁を敷いて中に入れ餌をやったが食べてくれなかった」、「そのうち少しだが餌を食べるようになって、随分回復したように見える」、「この分だと間もなく回復するので少し広くしてやりたい」と熱心に話すのです。

 心温まる親父の行動に頭が下がりほのぼのとしましたが冷静になって、「じいちゃん、ハトは余りなつかせると沢山の仲間を連れて来て、糞を落として糞害になるので程ほどにした方がええ」と話しました。「わが子ながらお前は冷たい、こんな死にかけたハトを外に放っぽり出したらたちまちカラスの餌食になって死んでしまう。お前が反対しても回復して飛び立つまで世話をしてやる」と、むきになって反論しました。親父のいう通り私は冷たいのかも知れないと反論を諦め、「早く回復したらいいな」と同調しました。

 あれ以来親父はせっせと餌をやり、近所の人にトウモロコシの種を貰ってきて、金槌で砕いて与えたり、クッキーやパン屑を与えて懸命の看護を試みています。今朝ハトのいる場所を覗いて見るとすっかり回復して、立っていました。

 親父の優しさに感動しながら、自分の発言を悔いました。確かに公園やマンションでは心無い人たちの放鳥によってハトが野生化し、あらゆる所に糞をひり続け、管理する人を悩ませ続けています。苦肉の策で網を張ったりしていますが、利口なハトはその網さえものともせず、せっせと営巣して子育てに励んでいるのです。妻にハトの話しをしたら私と同じ意見だったので、やんわり親父に「元気になったら一日も早く自然に帰してやろう」と話し納得させました。

 親父は連れ添いに先立たれ隠居で一人暮らしをしています。寂しさを紛らわせるためでしょうか、鯉を飼ったりメダカを飼ったりしていました。しかしそれらの飼育も世話が大変で断念した経緯があり、生きているものへの憧れがあるのかも知れないし、90歳という年齢を考えれば老い先を危惧するのは当然の成り行きなのです。

 最近は核家族化や高齢化を反映してかペットブームで、近所の殆どの家が犬や猫のような動物と同居をしています。昔は人間と動物は住み分けがされていましたが、犬も猫も人間と同じ部屋で暮らしているのです。多分寂しさを紛らわせるための愛情表現でしょうが、こんな田舎にさえ最近ペット霊園なるものがお目見えし話題になっているのです。

 ふとツルの恩返しという物語を思い出しました。助けたハトにそんな恩返しなど求めるつもりはさらさらないのですが、ハトに心があるならば、ハトは平和のシンボルなのですから「親父を一日でも健康で長生きさせてください」とお願いしたいものです。

 今朝は夜明けの6時にハトを見に行きましたが、今のところ元気で巣立ちは早いかもしれません。せっかく親父が助けたのですから一日も早い回復を祈っています。まかり間違っても仲間を連れて糞を沢山撒き散らす糞返しだけはして欲しくないものです。

  「ハト救う 心根優し わが親父 とうきび種を せっせと砕き」

  「平和だと ハトのイメージ いうけれど 糞に憤慨 する人多し」

  「田舎にも ペット霊園 出来ました そのうちペット お寺も出来る?」

  「お座敷に まるで雛様 鎮座する 隣のペット 特別扱い」

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの野村町と限界集落勉強会

 高知県との県境に位置する旧野村町は、合併して西予市となりましたが、かつては分水嶺を有する大野ヶ原で「大野ヶ原モゥーモゥー塾」などをやって、旧中島町とともに度々訪ねる土地でした。その町が三瓶町や明浜町などの海の町、そして城川町と合併してとんでもない広さになってから早くも3年余りが経ちましたが、「限界集落勉強会」をやるから話に来ないか」という誘いを受け、合併してから始めて訪ねました。

 久しぶりに訪ねた野村町へは、大洲から肱川町経由、大洲から白髭経由、大洲から宇和経由の三本のルートがありますが、私の場合はこれまで殆ど大洲の菅田を通って肱川、鹿野川ダム沿いというコースを通っていました。途中トイレ休憩した大洲メッセで知人に会い、「何処へ行くの」と尋ねられたので「野村町へ行く」と話すと、「そりゃあ断然白髭を通った方が早い」と助言を受けたので、急遽その道を選んでしまいました。大洲から白髭に通じる国道441号は高速道路大洲・宇和間のインターチェンジが出来ているため、高くて立派な橋脚なども見えて、曲がりくねった道路ながらゆっくりと走りました。15分も走ってトンネルを出るともうそこは野村町なのですが、そこから更に立派に改良された国道を走り、意外と早く朝霧湖と命名された野村ダムまで出ました。少し時間的な余裕があるので展望台付近の駐車場に車を止めそこら辺を散策しました。野村町は「ミルクとシルクの町」というキャッチフレーズが定着していましたが、その名が示すとおり展望台付近には県下有数の畜産地を誇示するように大きな牛のモニュメントが建っていました。碑文によると畜産50周年の記念に造られたようでした。私はこの付近から見下ろす野村の町の風景が大好きで、何処か九州大分の由布院の牧歌的遠望に似ているのです。

(湖畔の展望台付近に設置された乳牛のモニュメント)
(朝霧湖の展望台)
(朝霧湖の遠望)
(牧歌的な野村町の市街風景)

 カーラジオでNHKの大相撲大阪場所の中継を聞きながら走りましたが、山の中なので電波の状態が悪く時折しか聞こえませんでした。それというのも野村町出身の玉春日が大好きで、間もなく取り組むのです。上手い具合に朝霧湖の展望台付近は視界も開け連覇の状態も抜群で、そのうち始まりましたが、結果的には引き倒しというという彼独特の技で見事白星です。初日、二日と連敗スタートだっただけにホッとしました。彼は相撲界でも30歳代ながら最高齢の部類なのですが、ひたむきな努力を重ねて居間の地位を保っています。峠を越え大関や横綱などは望むことが出来ませんが、一日でも長く土俵に上がっていて欲しいと願っています。野村総合支所の入口には相撲処とあって幟が立ち玉春日の星取表がありました。二日間の黒星は既に書き込まれていましたが、最新の白星はまだ書き込まれてなく、少し不満でした。

(限界集落勉強会)

 さて今晩の「限界集落勉強会」は10数人のこじんまりした会でした。1時間半ほど私が話題提供のような話をしてそれから食談だそうで、参加者の殆どは顔見知りとあって和やかそのものです。限界集落の勉強会も既に6回の学習会をやっていて、限界集落の問題はこれまでの講師によって語りつくされているような感じが、原田課長さんから送られて来た議事録で読み取れるので、少し話題を変えて話しをしました。基礎知識がしっかりと頭に入っているので、みんな納得顔で聞いてくれました。また5月に山奥組の総会に招かれているので、そこら辺を考えての話に終始しました。

 この会を仕掛けた会長の井上謙二さんは都合であいにく欠席でしたが、原田課長さんは今年度で退職ながらこの日も大張り切りでした。明浜町の企画課長を長らくしていましたが、合併のため最後は海から山へ異動となり、野村総合支所の福祉課長で終わるのも何となく彼らしいと、夢工房の仲間のこれからの人生に、心から大きな拍手を送りました。

 この日は山奥組から井上登さんのも顔を蜂に刺されながら参加してくれました。蜂の話で盛り上がりましたが、私の蜂を飼う夢は彼の話を聞いて少し萎んだようです。でも諦めずにやりたいものです。

 「動物(牛やイノシシ)を数に入れたら、愛媛県で一番人口?が多いかも」なんて、野村弁丸出しのとっぽ話で胸襟を開きながら大笑いし、元来た夜道をタヌキ5匹に出会いながらわが家へ帰りました。只今と声を掛けた妻の顔が美しかったです(笑い)。

  「馴染み顔 集まり話す 勉強会 何処かの町の 人に見せたい」

  「蜂刺され 男前顔 腫れあがり それでも会いに 嬉しい限り」

  「嫌いだと 限界集落 いう言葉 それでも事実 田舎は疲弊」

  「牛の数 足せばこの地は 愛媛一 そんなトッポも 酒の勢い」

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shin-1さんの日記

○失くした名刺入れ

 私は名刺入れを三つ持っています。一つは常用の名刺入れで、40枚くらい入ります。二つ目は木で出来た見仕入れで、木のカバンにこだわる時に「木になる名刺入れ」何て洒落た使い方をするため、カバンの中に忍ばせて歩いています。もう一つは前二つの失くした時に使う予備の名刺入れです。これまでにも名刺入れはあちらこちらで紛失劇を繰り返し、そのつど使い分けをしてきました。

 一週間ほど前常用の名刺入れが突如として背広の内ポケットから消えたのです。思い当たる場所を色々と探したのですが発見されず、先日出かけた福岡博多と秋田能代へは木になる名刺入れで望みました。本当はこの名刺入れが一番好きなのですが、この名刺入れには僅か12枚しか入らない難点があるのです。そのため名刺を一箱着替えを入れるカバンに忍ばせて出かけましたが、荷物を両手で持つため名刺の重さが加わって少し難儀をしてしまいました。

(右端の名刺入れが今回発見したもの、真ん中が木になる名刺入れ、左が昔使っていた予備の名刺入れ、いずれも私にとっては外交官くらい大切な持ち物です)

 妻に旅先から電話で名刺入れを探すよう依頼していましたが、妻も捜したものの見つけることは出来ませんでした。今日もう一度自分で探してみようと居間、書斎、車、煙会所などをしらみつぶしに探して回りました。やはりないなあと諦めかけていたら、車の座席の下に転がっているのです。「やったー」と思わず嬉しくなって叫んでしまいました。多分車に乗り背広を脱いで後部座席に置いた時すり落ちたものと思われます。この名刺入れは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが、無人島キャンプなどの活動を通して環境保全教育に功労があったと、コカコーラから「環境教育賞」なるものをいただいた時、副賞などとともに、メンバーに記念品としていただいたものなのです。故に大切に使ってきました。いいものなのでしょうか、十年以上使っているのに中は少しくたびれて破けていますが、外面はしゃんとして、終身使えるような立派さなのです。外にはコカコーラの透かしが、中にはイニシャルが入っていますが、私にとっては忘れられない思い出の品物なのです。

 最近は歳のせいでしょうか、忘れ物が多いとブログにも書きましたが、全国を渡り歩く私にとって名刺入れは自分の代名詞のような大切なものなので、無くなれば本当に困ってしまうのです。私の友人でえひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんも私と同じような瓜二つの名刺入れを使っていますが、彼からも一度だけ「名刺入れを探している」と電話がかかってきたことがあり、「名刺入れを失くすのは私だけではないな」と、人ごとながら安心した事を思い出しました。

 名刺入れには私の名刺とともに、出会った人からいただいた名刺が数枚入っています。人からいただいた名刺はその都度名刺入れから取り出し、毎日三枚のハガキを書く習慣に合わせて整理をするよう心がけていますが、いただいた名刺はその場限りで殆どの名刺は書斎の書棚の一角の名刺置き場に入れられ、何年かすると廃棄処分になるのです。名刺を整理すると面白いと友人から言われていますが、そんな暇と余裕もなく、うず高く積まれています。

 無くした名刺入れの発見によって、名刺入れに入ったままだったいただいた名刺を見ながら、早速遅ればせな返事のハガキを書き、メールを送りました。自分の加齢とともに始まったボケた人生を嘆きながら、これからは絶対この名刺入れを失くすまいと、心に誓いました。

  「失くしたる 名刺入れ出て 一安心 貰いし名刺 頼りにハガキ」

  「これだけは 何としてでも 見つけねば その執念が 見事実りて」

  「俺だけと 思っていたら 友人も 同じ失せもの 探して苦労」

  「貰い物 故になくしちゃ いけないと 心に誓い 肌身離さず」

 

 

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shin-1さんの日記

○農作業とつわぶき

 忙しさと寒さもあって、「前回は何時ごろ行ったのだろうか?」と思うほど長い間暇していた人間牧場へ、行きました。昨日90歳の親父が「白内障の手術の後の検査に連れて行ってくれ」というものですから、伊予市の本宮眼科クリニックへ連れて行ったので、10時という遅い時間になってしまいました。

 昨日の雨も止んで、北西の風が強いものの天気が回復して気温も10度以上に上がり、農作業をしていると汗ばむほどでした。気が急くのは腐葉土を作っている木枠の中の腐葉土を切り返し、その上に土を被せてサツマイモの種芋を伏せる準備をしなければならないのです。腐葉土はこの冬の外気温が予想以上に低かったため被せたビニールの下で落ち葉が上手く発酵せず、このままだと間に合わない恐れがあるのです。木枠の中の腐葉土を切り返し、その上に息子と一緒に外に出していた赤土を乗せてゆくのです。スコップで赤土を入れる作業は、昨日の雨で粘っていて、スコップや履いている長靴にまとわりつき、思うようにはかどりませんでしたが、それでも休み休みしながらでも30分程度で終わりました。

 今度はその上に端材を使ってハウスのような屋根を付ける作業をしました。人間牧場には建築当時の端材がまだ何本か残っていて、寄せ集めてきてノコギリで切ったり釘で打ち付けたりしながらの作業です。私は親父に比べ大工作業など大の苦手で器用ではありませんので、中々上手く出来ませんでしたが、それでも小一時間で何とか様になってきました。

 さてその上に透明のビニールを被せるのですが、中央公民館の日山さんから貰ったビニールは、風の強い中での一人の作業なので風に飛んでいう事を聞いてくれないのです。ハウスみかん農家の苦労が分るような気持がしました。これから春先にかけて突風が吹く恐れがあって吹き飛んでしまうかも知れないので、足らない端材を持参して近いうちに補強をしなければならないようです。

 さて種芋の購入を考えなければなりません。計算だと4畝に7個づつ植わる予定なので28個の種芋が必要です。私が小さかった頃母親が芋坪から芋を取り出して半分に切り、腐敗防止のため切り口に木灰をつけて植えていたのを思い出しましたので、そうしてみたいと思っています。種芋は鳴門金時か土佐金時くらいがいいかも知れません。

 無事作業も一段落したので、梅林の横に生えている椿の木に絡まったカズラを剪定ハサミで切る作業や、畑の草取り作業をしましたが、今の間に地道な作業をしておかないと、カズラや草に負けてしまうのです。

 ふと畑の隅のツワブキの古株を見ると綿帽子を被ったツワブキが数本頭を持ち上げていました。ツワブキの赤ちゃんを見る度に春近しの感じがします。早速何本か収穫しました。これが春特有のアクの強い食べ物で、ほろ苦さが特長ですが、皮を剥ぎ茹でてアク出しをして煮付けにするとこれが結構美味しいのです。特産品センターの店先には早くも皮を剥いだツワブキが一袋300円程度で売られているようです。

 家に持って帰って新聞紙を広げその上で剥ぎました。アクで手が真っ黒になるため、薄い手袋をはめて剥ぐのですが、これが中々上手く剥げないのです。手を使う仕事をしている妻には到底頼むことが出来ず、結局自分一人が最後まで剥いで水に晒しましたが、楽しみが増えました。春はもうそこまで来ています。

  「芋のツル 育てるための ハウスでき いよいよ命 つなぎスタート」

  「不器用な 男に生まれ 得をした 作業は全て 親父に任せ」

  「芋の種 買う金あれば ツル買える そんな悪評 聞こえてきそう」

  「ツワブキの アクで染まった 指の先 働き者の レッテルのよう」

 

  

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shin-1さんの日記

○心の原点に帰った思い

 昨日は地元で開かれた菜の花ウォークというイベントに参加しました。最近は県内外に出る機会が多く、自分の町に居ながらいつも自分の町を疎かにしているような、後ろめたさが心の隅に引っかかっているのです。勿論役場職員だった昔のように給料を貰い仕事でまちづくりをしている訳ではないので、税金さえ納めれば私が何をしようと勝手なのです。しかし少なくとも双海町という地域をまちづくりのフィールドにして、ある時代を必死になって生きてきた私にとって、まちづくりの世界から目をそむけて生きることは意思に反すると思っているのです。多分自費で造った人間牧場もそうしたふるさとに対する想いと、ふるさとと自分をつなぎとめる心の鎖にしたいと思う現われだったに違いないのです。

 夕やけコンサートにしろ、菜の花ウォークにしろ、サンセットロマンチッククリスマスにしろ、今あるイベントの数々は殆ど私が発案し始めました。あり難い事にまちづくりの仲間によってその殆どが内容を変えても継続されているのですが、彼らの人集めの苦労を思うと、もう少し私にできる協力をしなければとならないと思っての参加した。

 イベントの良し悪しは量と質がありますが、中でも参加する人の量は大切な用件です。「一人でも多くの人を集めたい」と思う主催者の意思に反して、役所の職員は部署が変われば殆ど見向きもしません。ましてや何年か前まちづくりの部署でまちづくりの担当をした経験のある人でさえ参加しないのですから、役所の職員の冷たさにはほとほと参ります。「じゃあお前はどうなんだ」と言われそうですが、確かに役所を辞めた私たちも知ったかぶりでそれなりの知識で役所や職員を批判しますが、参加してものを言うような人間にならなければならないと思うです。その意味で次の三つは特に大事な心がけだと今も肝に銘じて生きています。

 「自分たちの歴史に思いを馳せられなくなった時」、人は良心」をなくします。たった35年間の役場生活、その中でも20年ほどの短い間、無我夢中でやったまちづくりの仕事は自分の歴史でもあります。リタイアしてその一線から身を引きましたが、真摯な態度でまちづくりという世界に向かい合いたいと思っています。

 「利益を考え過ぎた時」人は「良心」をなくします。かつて私は第三セクターをつくり、「赤字にならない」ことを至上命題にして無我夢中で儲けに走った時代がありました。それは「赤字になったらどうするのか」と議会から文句をつけられた時、「赤字になったら黒いボールペンで書く」と大見得を切った私自身に対する挑戦でもありました。その結果第三セクターは13年間、一回も赤字になることなく黒字経営を続けていることは承知の通りですが、儲けに走り過ぎてお客様本意を忘れて失敗した苦い経験ももっています。

 「仲間の顔を忘れた時」、人は「良心」をなくします。私の周りにはいつの時代も常に沢山の仲間が集まり、今も多くの仲間とともに生きています。その仲間も時代とともに顔ぶれが変わるのですが、かつての仲間の顔を忘れてはならないと、まちづくりの素人である妻が口癖のように私に言うのです。妻は古い私の仲間に対して、去年一年間だけでも50箱ものふるさとの味を仲間に宅配便で送り続けてくれているのです。そのことは仲間の顔を忘れないで欲しいという妻の願いかも知れないと日々感謝しています。

 人には様々な心がけがあります。朝早く起きようとか、毎日はがきを三枚書こうとか(いずれも私の心がけ)、何気ないことですが考え行動に移します。その行動がいつの間にか習慣になり、自分の規範となって生き方を確立して行くのです。

 もう少しだけ気張って、もう少しだけいい人間になれるよう努力したいと思います。

  「過去見るな 未来に向えと いうけれど 生きた歴史も これまた大事」

  「利益上げ 成果誇示する 時もある でも本当は 相手思って」

  「あの顔も この顔もまた 忘れえぬ 思いで彼方 仲間沢山」

  「過ぎてなお 初心忘れず 暮らしたい これから先も 肝に銘じて」

 

 

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